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Don't Let Me Down
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2006/04/16のBlog
[ 10:22 ] [ 日記 ]
今日の”新日曜美術館”のメインは藤田嗣治であった。

短い時間であるひとの生涯を見る。
その作品とそのひとと時代の係わりを見る。

”パリ”
”おかっぱ頭”
”乳白色の肌”
”民衆のための絵”
”戦争協力者”
”フランスへの帰化”
”カトリック入信”

フジタの裸婦は美しい。
そのモデルはフランス人だが、その肌は日本人のものだ。

”アッツ島玉砕”の絵ははじめて見た。
リアルだ。
ドキュメントの精神によって描かれている。

フランスに帰化したフジタは田舎に引きこもり、少女の絵ばかり描いた。
その少女は”みな同じ顔をしている”

自分がもてなかった理想の子供を描いた。

最後の絵では、はりつけのキリストを見守る群衆のなかに、自分の自画像を小さく描き込んだ。

画家は自画像を描く。

外国で成功した者への日本人の嫉妬が語られた。
敗戦後の、画家の戦争責任をフジタひとりに負わせようという動きがあったことを知った。
戦後の”告発ゲーム”の一環として。

真に告発されるべき人々は告発されず、戦後また権力を得た。
”靖国”は復活した。

ぼくたちは”祈る”ほかないのか。

だが、ひとが時代とかかわりつつ生き、そこから”作品”や”言葉”を紡ぎだすのをみるのは喜びである。

他者の苦悩、苦闘をぼくたちは、自分のことのように感じることはできない。

だが、ある”普遍”を感じる。
それはぼくの生に繋がっている。
ぼくは人間の一員であることを知る。

国立近代美術館での藤田展に行ってみよう。

<追記>
晩年のフジタの私的録音テープも紹介された。
フジタアトリエを訪問した日本人に”どどいつ”を披露している。
”横丁のご隠居のような”

日本人はこのようにナショナルであり、同時に、インターナショナルである。
”愛国”は鎖国主義や自文化優越主義ではまったくない。

[ 09:56 ] [ 日記 ]
”名もなく貧しく”
”生きる喜び”

今見た日曜美術館での武満徹未亡人、浅香さんのインタビューにあった言葉。

平凡な言葉。
武満は世界的な有名人として死んだ。
だが、かれの”青年時代”は名もなく貧しく、友人たちが、互いの下宿に寄合い”議論して”すごした。
そこから”アーティスト”たちが巣立っていったのだ。

その戦後の青春をぼくたち後続世代は、どのようにも評価することができる。

ぼくにとって武満はややもどかしい存在だった。
彼の映画音楽は好きだが(彼自身熱狂的映画ファンであった)、彼の”現代音楽”はなぜか本当の共感をもたらさない。
スタティックに思えるのだ。
だが近年、”アステリズム”を聴き直し、星雲状の静かな星々が集結しビッグバンが炸裂するイメージを感じた。

静かなひと、静かな音楽。
一度見たら忘れられない容貌は、大江健三郎の「空の怪物アグイー」に見事に定着されている、魅力的な男。

だが激しさを秘めて。
惜しむらくは、彼がもっと自分を爆発的に表出してほしかった。
これは大江健三郎にもいえる。

晩年の武満はミロの彫刻作品をモチーフに作曲していたという。
これは死によって未完に終わった。
武満夫人はミロの作品に彼は”生きる喜び”を見ていたのではないかと語った。

武満は”見えないものを見る”と言った。
”閉じた眼”
”開かれた耳”

美しい言葉。

”開かれた耳”

政治家や企業人たちとは異なった言葉がここにもある。

<次ぎのブログにつづく>
[ 07:14 ] [ 日記 ]
このごろ自分と自分でないものが関係する”基礎の基礎”というのは何なのか、というようなことを考える。

こういうと、なんか哲学的なんだが、結構具体的なことでもある。

そこに”錯誤”があるように思えるのだ。
ぼく自身にもあるし、すべてのひとが陥っている(とぼくには思える)錯誤である。

具体例をあげる。

自分が病気になった場合、自分の近親者が病気になった場合、あなたは(ぼくは)医者、病院を信じるのか、自分を信じるのかというようなこと。

乱暴に言えば、現在多くのひとは医者・病院を信じ、自分の判断を信じていない。

医者・病院は”プロ”だからだ。

ぼくたち自身は病気に対する知識がないのに、彼らにはあるからだ。
診断、薬の処方、治療、場合によっては手術などの具体的技能はプロを当てにするほかない。

ぼくはここで(過激に!)それらが、無効だと医療・病院を”批判”するのではない。
そんな非常識な勇気はない。

ぼくも自分が病気になれば、彼らを当てにするだろう。

だが(表現が難しいが)これらプロとのつき合い方の具体的な場面での”自分の判断”というものがあるべきなのだ。

”プロにおまかせ”ではだめだ。

こう書くとこれは”当たり前”だが、現実にはこの判断が放棄され、形成されていない。

医者を”神のように”頼ってしまう。
医者が神でないのは明らかなのに。
医者が神のようであることを、どうして要求できるだろうか。

これは別に倫理的態度のような抽象的問題だけじゃない、医者の薬の処方が自分に適切か否か、手術をするべきか否かというような”具体”に係わる。


この問題は”病気”だけではない。
ここがポイントである。
たとえば”政治”である。

ぼくたちはそれをあまりにも”プロ”に任せすぎている。

結局、身体的阻害からも社会的疎外からも、自分を癒すのは自分の判断(思想)と行動である。

現在自分自身にも他の人々にも人間としてのリアリティが希薄であるのは、このような自己の判断の放棄が原因していると思う。
2006/04/15のBlog
[ 12:34 ] [ 日記 ]
ああ、いい映画がみたい。

さっき「男と女」、「女と男のいる舗道」と書いただけで、昔は”映画”が”映画”だったことを思い出した。

特撮紙芝居や鈍感な登場人物が右往左往するヒューマン・ドラマではなかった。

最近もテレビで映画もドラマもしょっちゅう見ているが、なーんも残らない(ロストも24も見てるぜ!)

ひさびさ映画館に行って見た「アメリカ家族のいる風景」も「ヒストリー・オブ・バイオレンス」もナーンも残らない(後者は結構一部で評判らしい)

こんな映画が”家族”や”バイオレンス”を描いているというのなら、まさに、”お笑い”だ。

バイオレンスなら、アウシュビッツ解放後の死体の山のような”物量的暴力”と「あなたに不利な証拠として」で女性警官が直面する日常の”小さな”暴力との間に広がる、あらゆる暴力のグラデーションを見るべきだ。

選択が悪かったのであろうか。

なんか映画の魂が死んでしまったように感じるのは、思い過ごしだろうか。

どうかぼくの感性が”流行遅れ”と思わないでほしい。

ぼくが映画と思うものが映画なのだ。
[ 10:03 ] [ 日記 ]
今日も朝刊1面では色っぽくない男たち(禿げ男)がお辞儀をしている(ぼくも禿げであるが)

こいつらは悪いことをしたのだ!
ひとの弱みにつけ込むきたない金貸したち。

スーツ男、ネクタイ男たち。

ぼくもかつてスーツを着、ネクタイを締めていたのだ。
いま、何本ものネクタイは丸めて、洋服ダンスのビニール袋に保存されている。

好きなネクタイもあった、何度もしめた(コム・デ・ギャルソンのタイが好きだった)
太すぎるタイ、長すぎるタイ、派手すぎるタイもあった。
毎日それを醒めきらない頭と手で締めて出勤したのだ、毎日毎日、何年も何年も、雨の日も風の日も。
ぼくは毎日自分の首を絞めていたのだ。

だからなんてこともない。
これは、なんの特殊な体験でも、個人的な体験でもない。
だれにも語るべきことではなく、だれもが面白がり、聞きたがる体験でもない。
どんな”お笑い”のネタにもならない。
どんなドラマにもならない。

ぼくはこのようなことに自分の一度だけの生を消費した、という事実だけなのだ。
時間が過ぎ、時間だけが失われた。

だからぼくには”サラリーマン”を侮蔑する権利がある。
”サラリーマン的なもの”すべてを。

あの味気なさ、あの異常な緊張とそれと裏腹な妙にだらけた雰囲気。
それが”会社”であった、”職場”であった。
ぼくは一度も、決してそれに馴染んだことがない。

頭をしびれさせ、思考を不可能にし、口にまずい味を残し、手足から全身へだるさ、疲労がじりじりと広がっていく。

つまらない儀式、くりかえされる紋切り型、おかしくない冗談。

それがぼくのまじめな生活であった。
むかしむかし、そのような毎日があった。

”失われた時を求めて”だって!
”目覚めよ、という声がする”

<蛇足>
ぼくは3年前会社を辞めて以来、一度もネクタイをしめていない。

[ 09:19 ] [ 日記 ]
男と女。
女と男。

これが永遠の問題だ!
これだけが。

ヌーベルヴァーグのころ「男と女」という映画や「女と男のいる舗道」という映画があった。
いずれももちろん、”男と女”を描いていたが、このタイトルでの女と男の順番には意味があったのだ。

タイトルに男、女を掲げなくても、ほとんどの映画、小説は女-男を描いてきたではないか。

男-女ほどありふれたものはないのにだ。

最近、男ー男が注目されているのは、男ー女が惰性的で退屈になったからではないのか(女ー女でないのは注目すべきだ)

男-女関係とは、もちろん、相互の幻想によって成り立っている。
相互の”誤解”(まちがった認識)によって成り立っている。

ひとはその幻想性を演じている。
演技の上手なひとと、下手なひとがいるのだ。

ぼくはもうオヤジもしくはジジイのはしくれで、オトコであるらしいが、色っぽくありたいと思っている。
まあ、何事にも素質の限界はあり、努力ではいかんともしがたいが。

ぼくは”男になれ”と命じられてきた。
だから、しょうがなく男をやっている。

だから、あなたが”女”なら、うまく女を演じてほしい、色っぽくあってほしい、年齢に関係なく。

女と男が演じられるものだとしても、それは絶対的差異である。

その目も眩むような距離こそが喜びである。
ときには、人間同士の共感などをおもわず求めてしまうが、それは錯誤であり、心の弱さなのだ。

もっと楽しい誤解の快楽を出現させよう。
幻想のない世界は退屈なだけ。

まさに現代とは恋愛の不可能性をもたらしているのだ。

<追記>
男であるぼくにとって、女がただの人間である世界とは恐怖である。
これは厳密にはセクシャルハラスメントであろう。

その辺のセクハラ男など、なんのセクハラでもない。
だだ下賎なのだ。
[ 06:57 ] [ 日記 ]
昨日は……

アルバイトへ行く電車内で”ブログ脳”が活動開始した。
教育基本法問題ではない!
「源氏物語」である。

立ったままメモ用紙に書き続けた。
帰ってワードで打ちなおそうと思った(判読できるなら)
だが、まてよ、と思った、ぼくはまだ「源氏」を最初の数章しか読んでない。
それでなにか書くのは僭越である。

だがもったいないので、書き出しのみここに再現する。

「源氏物語」の世界とはセックスが政治より根源的であることを描いているのではないか。”政治”が男のものであるならば(そうなのだ)、紫式部は性としての女性の実存を描くことで自らの女性性の優位を表出したかったのではないか。女は男と同じものではなく、”平等”でもない。平安朝においても現代においても。男の世界は虚偽であり、それがどんなにヒロイックであろうと、暴力による抗争の世界なのだ。

まあこんな感じ。

帰りは経堂駅近くの本屋へ行った。
ひところAmazonでばかり本を買い、本屋へ行かなかった。
最近本屋歩きが復活した(昔は仕事の合間に本屋でよくさぼった)

新書の棚見てたら、ちくま新書に「世界をよくする現代思想」という本があった。
ぼくが目指していることと同じジャン。
”帯”には”思想は役立ってナンボ!”とある。
著者は1961年生まれ、ぼくより15歳も年下である。

”おわりに”にある、
”現代思想の研究者のすべては「バカ」がつくぐらいまじめです。それは「悲しくなるほどのまじめさ」です。「もっと楽な生き方は他にあるだろうに」「もっと楽しいことが他にいっぱいあるだろうに」と感じてしまうほどです。だって、「この世界をよくしたい」とかという考え方自体「カッコ悪い」ですよね。すくなくとも全然「おしゃれ」じゃありません”

賛成である、この本を買った。
ぼくは”現代思想の研究者”とはとうていいえないけれど、”まじめ”である。

自分でも”悲しいくらい”まじめなのだ。
逆にいえば楽しむ能力(娯楽の能力)を欠いている。

とくに人間関係、特に男女関係において。

だから、男女関係を気楽に楽しめるひとが憎いのだ(笑)
それがぼくを”現代思想”に向かわせるのだ(大笑い)

<蛇足>
女をバカにしている男ほど、女と気楽につき合える(逆も真)
こういうのは、人生の経験的真実である。
2006/04/14のBlog
医療、介護保険などの身近なものから、教育基本法、憲法などの理念的なものまで、現政府の”改革”は合理性を欠くだけでなく、強者のみを優遇する”思想”に貫かれている。

ぼくたちはこれにどう反対すべきか。

最近のフランスのようにデモ、ストライキなどの”直接民主主義”で対抗すべきなのだ。

だがこの遅れた国のおくれた人民!には、そういう思想と実践力が乏しい。

選挙で現政権を倒すか、その数を減らすしかない。
だから、ぼくはブログを始めて以来、選挙のたびごとに、現政権党に投票しないことをしつこく呼びかけたではないか。

だが、目先の利益しかみえないものたちは自民党・公明党を勝たせ続けている。
たしかに交代野党のていたらくも問題である。

現在も小泉政権は減ったとはいえ50%近い支持率をもち、憲法”改正”支持者も過半数以上をキープしている。

一方、支持政党なしや選挙での棄権者も多い。
これらの人々は”小泉政権”を支持していない。
だが他の選択肢がないのだ。
ぼくも同じだ。
だが”現政権”を減らし、倒すためだけに投票には行っている。

現状のように、強い与党を出現させてはならないのだ。
かれらは何でも勝手に決めてしまう。
法案が提出された後ではいくら反対しても”実効”はほとんどない。

そういう意味では、”現状”は絶望的である。

だが直接民主主義を準備しなければならない。
まちがった動きに対して発言すること、書くことも直接民主主義である。
その効果がどんなに期待できなくともだ。

ぼくはこのブログで自分が書いていることに効果があるというようなどんな幻想ももっていない(だから時々いやになる)

だが、考える人がいて、批判力を失わない人がいて、彼らが書き続け発言し続けることが必要である。

ブログはそのような場でありうる。
無数の声を結集しようではないか。

未来へ向かって。
今は空しい声であっても。

仕事に行きます。

[ 04:14 ] [ 日記 ]
ぼくには子供がいません。

これからどのような”教育”がこの国で行われて行くのかに、直接の利害はありません。

だが今、学校に子供をやっている親、および自分が学校に行っている”子供”は(減ったとはいえ)たくさんいるんでしょう。

ボケている場合じゃないと思うよ。

とくに現在親である方々の”教育”にたいする鈍感さには、かねがね不思議儀な気がしています。

現在親である方々は、自分の子供にどのような”教育”が行われており、その方針がさらに変えられるつつあることをどの程度ご存知なのでしょうか?

ぼくは、全然知りません!(子供がいないし、ぼくは教育現場に関与していません)

だが”想像”できます。
おかしなことになっていると思う。

どうしてこういう肝心なことを無視して、あなたたちは何に関心があるんですか?

<追記>
ぼくは”教育”は基本的に親が行うものでも、学校が行うものでもないと思う。

教育は自分が行うものである。

だから、親や学校は”最小”でありたい。

サジェスチョンを与えればいい。
(あとは自分でやんなさい!)

親や学校が過剰に出しゃばったらだめなのだ。

だから、国家が教育にとやかく言うのも”最小”でありたい。

<再追記>
だって、国家が教育にとやかく言うのは、”自分に”従わせるためでしょうが!

[ 03:59 ] [ 日記 ]
<教育基本法改正案全文を了承、与党協議会>
アサヒコム2006年04月13日23時44分

 自民、公明両党の幹事長や政調会長らでつくる「教育基本法改正に関する協議会」は13日、与党の検討会がまとめた改正法の文案を最終報告として了承し、安倍官房長官と小坂文部科学相に法案提出に向けた作業を要請した。しかし、同日夕の自民党の文教関係の会議では、公明党との調整に手間どった「愛国心」「宗教教育」「教育行政」の条文などについて異論が続出した。
(略)
自民党の文教関係の会議では、「愛国心」を表現した部分に入れた「他国を尊重し」の文言について、「北朝鮮も尊重するのか」という不満の声が上がるなど異論が続出。「日本国憲法の精神にのっとり」「不当な支配に服することなく」との文言が残ったことなどにも批判が相次いだ


このように自民党の人々は、
”他国を尊重”したくない、
”日本国憲法の精神にのっとった教育”をしたくない、
”不当な支配に(国民を)服させる”教育をしたいわけだ。