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2007/05/04のBlog
[ 14:24 ]
[ 日記 ]
おなかがすく前に餌を与えられてばかりいると、ほんとうに空腹であるということが分からなくなる。
これは生理的条件であるが、たとえばセックスについても応用できるだろう。
あるいは”精神”とか”美的感受性”においても。
基本的な満腹状態のひとは、もっともっとおいしいものを求める。
この次元も一種の”文化”である。
いやこの次元こそ現在の絢爛豪華なカルチャーなのである。
けれども最初の”命題”にもどると、ほんとうに空腹であるという欲望は失われている。
といっても、別に清貧とかストイシズムを推奨する気もない(ぼく自身けっこう消費的人間である)
また極限的に飢えたら、なにも受けつけないか、なんでも食べられるであろう(笑)
飢えた状態への想像力が必要である。
精神的な飢えをつくりだすべきである、もっと深く欲望せよ。
これは生理的条件であるが、たとえばセックスについても応用できるだろう。
あるいは”精神”とか”美的感受性”においても。
基本的な満腹状態のひとは、もっともっとおいしいものを求める。
この次元も一種の”文化”である。
いやこの次元こそ現在の絢爛豪華なカルチャーなのである。
けれども最初の”命題”にもどると、ほんとうに空腹であるという欲望は失われている。
といっても、別に清貧とかストイシズムを推奨する気もない(ぼく自身けっこう消費的人間である)
また極限的に飢えたら、なにも受けつけないか、なんでも食べられるであろう(笑)
飢えた状態への想像力が必要である。
精神的な飢えをつくりだすべきである、もっと深く欲望せよ。
[ 12:38 ]
[ 日記 ]
ジェリーは台所の窓ぎわに立って、黄色い曙光が港の霧を切り裂くのをながめた。ゆうべ嵐があったのを思いだした。あれはルークの電話の1時間ほど前だったろう。彼はマットレスにねて嵐をながめていた。そばに女が彼の足によりそっていびきをかいていた。最初まず、ふっと植物のにおいがしたと思うと、風が棕櫚の木立をひそやかに吹きはじめ、だれかがもみ手をしているような音をさせた。ついで何トンもの白熱した弾丸を海中に投じているような雨の音。そして最後に、ながながと緩慢に港をゆるがす幕状の稲光、はねおどる屋根の上にどよもす雷鳴。おれが殺したんだ、と彼は思った。いくらか前後の事情はあるにせよ、殺したのはおれだ。“将軍だけの責任じゃない。銃をかつぐ全員の責任だ”出典と前後の文章はなんだったろう。
<ジョン・ル・カレ「スクールボーイ閣下」>
<ジョン・ル・カレ「スクールボーイ閣下」>
[ 12:02 ]
[ 日記 ]
好もうと好むまいと、みずからの計画に背きそしてその本質的な大胆さにふさわしく、フッサールは野生の世界と野生の精神を蘇らせた。物はそこに存在するが、もはやルネサンスの遠近法においてのように、たんにその投射された影像としてでも、またそれをパノラマ化しようという要求に応えてでもなく、むしろその反対に、物がまっすぐ執拗に立ちつくし、その稜線でもってまなざしを擦り切らんばかりに、存在するのである。(略)
他人というものもまたそこに存在している(もっとも、彼らは物の同時性をもってすでにそこに存在していたわけなのだが)。といっても、彼らは、はじめから精神として存在するのでもなければ、「心的作用」として存在するのでさえなく、たとえばわれわれが怒りや愛において出会うようなものとして、つまりなんの考えも俟たずにわれわれの動作が応答してしまうような表情、身振り、物言いとして―しばしばわれわれは、他人の言った言葉を、それがわれわれに届かないうちに、しかしそれをはっきり聞いて理解したときと同じくらい、あるいはそれ以上に間違いなく、そっくりそのまま他人に言い返すことさえあるくらいだ―、それぞれの人が他人を受胎し、また他人によっておのれの身体性を確証されながら存在するのだ。この異様な世界は自然への譲歩ではない。けだし、いたるところに意味が形をとって現われるとしても、そのいたるところで問題なのはやはり意味なのだから。世界のこの復活はまた精神の復活、つまりいかなる文化によっても飼い馴らされなかった野生の精神、それにこそふたたび文化を創造する仕事が課せられている野生の精神の再発見である。これより後、相対性を越えたものとは、即自的自然でもなければ絶対的意識の概念の体系でもなく、また人間などでもないのであって、フッサールの語る「目的論」―括弧づきで書かれ考えられている―であり、人間を介して実現される存在の接合と組成なのである。
<モーリス・メルロ=ポンティ“哲学者とその影”>
他人というものもまたそこに存在している(もっとも、彼らは物の同時性をもってすでにそこに存在していたわけなのだが)。といっても、彼らは、はじめから精神として存在するのでもなければ、「心的作用」として存在するのでさえなく、たとえばわれわれが怒りや愛において出会うようなものとして、つまりなんの考えも俟たずにわれわれの動作が応答してしまうような表情、身振り、物言いとして―しばしばわれわれは、他人の言った言葉を、それがわれわれに届かないうちに、しかしそれをはっきり聞いて理解したときと同じくらい、あるいはそれ以上に間違いなく、そっくりそのまま他人に言い返すことさえあるくらいだ―、それぞれの人が他人を受胎し、また他人によっておのれの身体性を確証されながら存在するのだ。この異様な世界は自然への譲歩ではない。けだし、いたるところに意味が形をとって現われるとしても、そのいたるところで問題なのはやはり意味なのだから。世界のこの復活はまた精神の復活、つまりいかなる文化によっても飼い馴らされなかった野生の精神、それにこそふたたび文化を創造する仕事が課せられている野生の精神の再発見である。これより後、相対性を越えたものとは、即自的自然でもなければ絶対的意識の概念の体系でもなく、また人間などでもないのであって、フッサールの語る「目的論」―括弧づきで書かれ考えられている―であり、人間を介して実現される存在の接合と組成なのである。
<モーリス・メルロ=ポンティ“哲学者とその影”>
[ 11:00 ]
[ 日記 ]
たとえばこのブログでぼくが今なにかを書くならば、ぼくはなんらかのぼくの意見を表明している。
ぼくが”今日もセブンイレブンにまずいサンドイッチを買いに行った”(実際は煙草を買っただけであるが)という”記述”をしているだけであっても。
あるいは”今日は5月の新緑のさわやかな日差しであり、”スリーデーマーチ”の人々と野火止用水沿いの道ですれちがった”というたんなる”事実の描写”であっても。
書くことは賭けであり、必死の跳躍である。
ぼくにこの世界がどのように見えており、そこでぼくはどのような立場を選んでいるかを記述している。
あなたが徒然のひとりごとをつぶやいているときも、あなたは世界を選択している。
もしあなたがある”問題”についての立場を問われるなら(常に問われている)、あなたが常にこの世界をどうみているかが、あなたの判断の根拠である。
たとえば”改憲を支持するか否か”の判断は、あなたに”この世界”がどう見えているかの試金石である。
ぼくが改憲問題に限らず感じている”危機”はこの世界認識の単純化と矮小化である。
信じられないほど世界認識の単純化と矮小化が進行している。
べつの言葉で言えば、それは感性の貧困化であり、エロティシズムへの無感覚であり、人間の品性の喪失である。
ひとことでいえば去勢である<注>
ぼくに今見える近未来の光景とは、この繰り返される新緑の季節のなかをゾンビのようにさまよう人々の群れである。
<注>
この言葉は”強い”言葉である。
けれどもぼくは長いサラリーマン時代、自分が去勢されていたと”実感”している。
会社を辞めて4年、ぼくはずっとそのことを考えてきた。
いかにして去勢された自分を奪還するかについて、今日もまた考える(笑)
ぼくが”今日もセブンイレブンにまずいサンドイッチを買いに行った”(実際は煙草を買っただけであるが)という”記述”をしているだけであっても。
あるいは”今日は5月の新緑のさわやかな日差しであり、”スリーデーマーチ”の人々と野火止用水沿いの道ですれちがった”というたんなる”事実の描写”であっても。
書くことは賭けであり、必死の跳躍である。
ぼくにこの世界がどのように見えており、そこでぼくはどのような立場を選んでいるかを記述している。
あなたが徒然のひとりごとをつぶやいているときも、あなたは世界を選択している。
もしあなたがある”問題”についての立場を問われるなら(常に問われている)、あなたが常にこの世界をどうみているかが、あなたの判断の根拠である。
たとえば”改憲を支持するか否か”の判断は、あなたに”この世界”がどう見えているかの試金石である。
ぼくが改憲問題に限らず感じている”危機”はこの世界認識の単純化と矮小化である。
信じられないほど世界認識の単純化と矮小化が進行している。
べつの言葉で言えば、それは感性の貧困化であり、エロティシズムへの無感覚であり、人間の品性の喪失である。
ひとことでいえば去勢である<注>
ぼくに今見える近未来の光景とは、この繰り返される新緑の季節のなかをゾンビのようにさまよう人々の群れである。
<注>
この言葉は”強い”言葉である。
けれどもぼくは長いサラリーマン時代、自分が去勢されていたと”実感”している。
会社を辞めて4年、ぼくはずっとそのことを考えてきた。
いかにして去勢された自分を奪還するかについて、今日もまた考える(笑)
[ 02:02 ]
[ 日記 ]
だからある作者の生涯は、何も教えてくれないのは事実である。しかし同時にその読み方を知っていれば、すべてを見いだすことができるのも事実である。作者の生は作品に開かれているからである。未知の動物を観察しても、こうした動物の中で働き、支配している法則は理解できないのと同じように、セザンヌを見知っていた人々の証言は、彼が出来事や経験に加えた変容を見抜いていない。彼らは彼の意味を見ることができず、瞬間ごとに彼を包み込む光、このどこからきたものでもない光を見ることができない。しかしセザンヌ自身も自らの光の中心であったことはなく、10日のうちの9日は、自分の周囲にその経験的な生の悲惨さと、失敗に終わった試みと、未知の祝祭の残り物しか見出さなかった。セザンヌは相変わらず世界において、キャンバスの上に、色彩を使って、自分の自由を実現しなければならなかった。彼は自分に価値があるという証拠を、他者と他者による同意に求めざるをえなかった。彼が自分の筆の下で生まれてくる絵に疑問を抱き、他人がキャンバスに投げ掛けるまなざしを盗み見したのはそのためである。彼が制作をやめなかったのもそのためである。私たちは自分の生から離れることがない。観念も自由も、そのものを直視することはできないのである。
<モーリス・メルロ=ポンティ “セザンヌの疑い”>
<モーリス・メルロ=ポンティ “セザンヌの疑い”>
2007/05/03のBlog
[ 11:47 ]
[ 日記 ]
kawさんのすばらしいブログ(NKM)を引用。
《私は女
私が好きな映画監督は全員、男
建築家、歌舞伎役者、冒険家、医者
単純、追求、デリケート、シャイ、凶暴、正義 、ばか
好きなものはみんな男が持っている
だから好きになる 》
こんどぼくが好きな”女”を考えてみよう。
さて悪乗りしてないで、静かな読書タイムに入ろう。
その前に洗濯物干しがあった!
みなさんも、くだらないお子様ランドや金ぶったくり商品購入に行かないで、憲法の特集もないテレビ見ないで、静かな生活を送ろうね。
《私は女
私が好きな映画監督は全員、男
建築家、歌舞伎役者、冒険家、医者
単純、追求、デリケート、シャイ、凶暴、正義 、ばか
好きなものはみんな男が持っている
だから好きになる 》
こんどぼくが好きな”女”を考えてみよう。
さて悪乗りしてないで、静かな読書タイムに入ろう。
その前に洗濯物干しがあった!
みなさんも、くだらないお子様ランドや金ぶったくり商品購入に行かないで、憲法の特集もないテレビ見ないで、静かな生活を送ろうね。
[ 10:39 ]
[ 日記 ]
憲法60歳。
朝日新聞は8面にわたる21本の社説を掲げた。
また広告も井上ひさし氏の「子どもにつたえる日本国憲法」、全国から寄せられた賛同金による”9条実現”広告、日本共産党の”私たちは憲法改定に反対です。”が掲載されている。
”声”欄も”憲法60歳”を特集している。
ぼくはまだ1面に掲げられた”地球貢献国家をめざそう”を読んだのみである。
まず疑問がある。
この”地球貢献国家”という言葉は魅力的であろうか?
けれどもここではただちに、これに対するぼくの”言葉”は書かない(書けない)
ぼくは日々のブログでそれを実践してきたし、実践するであろう。
むしろ気になるのは、ぼくのブログの訪問者である”サンシン君”の応答である(彼は20代の留学中の社会学系学生である)
彼の”オタク的なもの”についての本質に迫るブログに期待する。
また気になるのは今日朝刊の憲法とはまったく関係ない”モー娘10年なぜ?”という記事である。
中森明夫氏は”憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり」の”象徴”を”アイドル”と読み替えているという。
”天皇が神から人間になったように、スターからアイドルの時代になった今、日本は「世界のアイドル」「かわいいだけの国」になるべきだ”と論じているそうだ。
モー娘も憲法と関係があったのである!!(笑)
ああ書いているときりがない。
なにをひとつだけ言おうか。
”声”欄にあった高校生川瀬結さんに応えよう。
彼女?は言っている、
《憲法の定め通りに戦力をなくしたら、平和を保つことはできるのだろうか。そう思うと恐ろしい。調べて考えてみると、私の中の平和憲法は揺れ動いていた》
ここにこそ現在の憲法問題の本質があるだろう。
ぼくの考えはこうである。
★現在が”平和”であると、あなたが感じていることそのものが不充分である。日本が平和であるかどうかにもいろんな見方がありうるし、日本が関係している”世界”が平和でない以上、日本のみの平和はありえない。
★けれども現在の日本を平和と感じるあなたの”実感”も理解できる。けれどもこの”平和”を他国の侵略(どこの国だろう?)から”守る”ために日本が憲法改定しもっと軍事力を増す(つまりアメリカとの同盟を強化しても)ことが有効かどうかも、五分五分である。
いいですか”五分五分である”
それなら平和憲法を擁護すべきだ。
★けれどももっと問題がある、侵略”とか”戦争”というものの実質が変わってしまったことなんだ。”テロとの戦争”をどうやって軍隊で守るのか?実は実際的に軍隊は無効化しつつある。
★さらにある。
自衛隊が公然と認められたとき(つまり軍隊となったとき)、自衛隊がいつまでも人のよい”災害救助隊”ではいられないということなんだ。
組織というのはそこに属している個々人の性格とはまったく異質な集団となることがある。
特に軍隊においてはそうだ。これまでの軍隊においても個々人には平和を愛し、暴力を嫌う人はたくさんいたと思う(現在の自衛隊員にも)
まさに戦争は彼らからそれを奪う。
この結果、軍隊が自国の人々を脅かす存在になってしまうということも、歴史がなんども証言している。
もっと本質的な問題がある。
憲法は法である。
ぼくたちはそこに”完璧なもの”を求めるべきではない。
完璧な法があって、それに従うことで、ぼくたちの”正しい生”があるのではない。
ぼくたちひとりひとりが、正しく生きることを目指さなければ、すべては無意味である。
朝日新聞は8面にわたる21本の社説を掲げた。
また広告も井上ひさし氏の「子どもにつたえる日本国憲法」、全国から寄せられた賛同金による”9条実現”広告、日本共産党の”私たちは憲法改定に反対です。”が掲載されている。
”声”欄も”憲法60歳”を特集している。
ぼくはまだ1面に掲げられた”地球貢献国家をめざそう”を読んだのみである。
まず疑問がある。
この”地球貢献国家”という言葉は魅力的であろうか?
けれどもここではただちに、これに対するぼくの”言葉”は書かない(書けない)
ぼくは日々のブログでそれを実践してきたし、実践するであろう。
むしろ気になるのは、ぼくのブログの訪問者である”サンシン君”の応答である(彼は20代の留学中の社会学系学生である)
彼の”オタク的なもの”についての本質に迫るブログに期待する。
また気になるのは今日朝刊の憲法とはまったく関係ない”モー娘10年なぜ?”という記事である。
中森明夫氏は”憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり」の”象徴”を”アイドル”と読み替えているという。
”天皇が神から人間になったように、スターからアイドルの時代になった今、日本は「世界のアイドル」「かわいいだけの国」になるべきだ”と論じているそうだ。
モー娘も憲法と関係があったのである!!(笑)
ああ書いているときりがない。
なにをひとつだけ言おうか。
”声”欄にあった高校生川瀬結さんに応えよう。
彼女?は言っている、
《憲法の定め通りに戦力をなくしたら、平和を保つことはできるのだろうか。そう思うと恐ろしい。調べて考えてみると、私の中の平和憲法は揺れ動いていた》
ここにこそ現在の憲法問題の本質があるだろう。
ぼくの考えはこうである。
★現在が”平和”であると、あなたが感じていることそのものが不充分である。日本が平和であるかどうかにもいろんな見方がありうるし、日本が関係している”世界”が平和でない以上、日本のみの平和はありえない。
★けれども現在の日本を平和と感じるあなたの”実感”も理解できる。けれどもこの”平和”を他国の侵略(どこの国だろう?)から”守る”ために日本が憲法改定しもっと軍事力を増す(つまりアメリカとの同盟を強化しても)ことが有効かどうかも、五分五分である。
いいですか”五分五分である”
それなら平和憲法を擁護すべきだ。
★けれどももっと問題がある、侵略”とか”戦争”というものの実質が変わってしまったことなんだ。”テロとの戦争”をどうやって軍隊で守るのか?実は実際的に軍隊は無効化しつつある。
★さらにある。
自衛隊が公然と認められたとき(つまり軍隊となったとき)、自衛隊がいつまでも人のよい”災害救助隊”ではいられないということなんだ。
組織というのはそこに属している個々人の性格とはまったく異質な集団となることがある。
特に軍隊においてはそうだ。これまでの軍隊においても個々人には平和を愛し、暴力を嫌う人はたくさんいたと思う(現在の自衛隊員にも)
まさに戦争は彼らからそれを奪う。
この結果、軍隊が自国の人々を脅かす存在になってしまうということも、歴史がなんども証言している。
もっと本質的な問題がある。
憲法は法である。
ぼくたちはそこに”完璧なもの”を求めるべきではない。
完璧な法があって、それに従うことで、ぼくたちの”正しい生”があるのではない。
ぼくたちひとりひとりが、正しく生きることを目指さなければ、すべては無意味である。
[ 08:22 ]
[ 日記 ]
今日の標語:”いつまでもあると思うな、親とDoblog”
というわけで書けるうちに書いておこう。
もしブログがなくなったら、ぼくはこのブログを街頭で配布する(笑)
今日のGW真っ最中の朝は(昨日はバイトに行ったのよ)不破君との実り多いセッションから始まった。
ぼくは人間嫌いであるが、やっぱ、けっこう人間が好きである。
現実のはなしでなくとも(現実のはなしでないほうが!)
みなさんご存知かどうか知らないが、”ポストモダン”な人々というのは伝記が嫌いである。
つまり”作者の(著作者の)死”ということを言っちゃったので、ひとの伝記とか自分の伝記とかがいやなのである。
つまり”書かれたもの”はその”書かれたこと”(テクスト)のみが問題であり、それを書いたひとがどーであるかなど問題でないのだ。
そのかわり、その”テクスト”を熟読玩味すべきなのだ。
この典型がロラン・バルトというひとらしいが、このひとは自分の伝記を書いたのだ(「ロラン・バルトによるロラン・バルト」)
この本はいろんな”自分に係わること”がアルファベット順に配列されている。
(この本をぼくは全部読んでない、前にこのブログでこの本の最初にある写真とそれへのバルトのコメントを取上げている)
フーコーの伝記を書いた人(エリボン)は”こんな伝記を書いてしまってフーコーに申し訳ない”と謝っている(笑)
けれどもある思想(家)を知るには、そのひとが生きた時代(状況)と彼らのかかわりを知る必要があるのではないか。
というより、そのほうがおもしろい。
それはその著者と同時代のあるいは時代を共有しない”他者”との係わりを知ることでもある。
哲学とか文学とか社会学とか自然科学とかのジャンルを超えた人々の群像とその係わりを知ることは喜びである。
とくに”現代思想”においては、国家としては喧嘩を繰り返した、ドイツとフランスのかかわりはとても興味深い。
深い森のなかの内省的-攻撃的?思考と地中海を背景とするラテン的思考の交流である。
またナチス台頭による亡命者たちの大移動の物語りもある。
これらの”おはなし”は思想史とよばれるかもしれない。
ぼくはこの領域に関心が向かっている。
残念ながら、この領域のよい本が少ないように感じる。
ぼくが知っているこの領域の”良書”はスチュアート・ヒューズの「意識と社会」に始まる3部作(みすず書房)である。
またかれの弟子マーティン・ジェイの「弁証法的想像力」である。
「ワイマール文化」やフロイトの伝記を書いているピーター・ゲイも注目すべきひと。
この思想史分野にもっと関心があつまり、良書が翻訳されもっと多くの読者が得られることを期待する。
人間はおもしろい、人間は考える葦であり、他者を参照しつつ生きる。
ファシズムとは偏狭さ(狭さ)である。
多くのひとがもっと広い視野をもち、自分自身で立ち、自分を解放する方向に向かうことを切に望む。
というわけで書けるうちに書いておこう。
もしブログがなくなったら、ぼくはこのブログを街頭で配布する(笑)
今日のGW真っ最中の朝は(昨日はバイトに行ったのよ)不破君との実り多いセッションから始まった。
ぼくは人間嫌いであるが、やっぱ、けっこう人間が好きである。
現実のはなしでなくとも(現実のはなしでないほうが!)
みなさんご存知かどうか知らないが、”ポストモダン”な人々というのは伝記が嫌いである。
つまり”作者の(著作者の)死”ということを言っちゃったので、ひとの伝記とか自分の伝記とかがいやなのである。
つまり”書かれたもの”はその”書かれたこと”(テクスト)のみが問題であり、それを書いたひとがどーであるかなど問題でないのだ。
そのかわり、その”テクスト”を熟読玩味すべきなのだ。
この典型がロラン・バルトというひとらしいが、このひとは自分の伝記を書いたのだ(「ロラン・バルトによるロラン・バルト」)
この本はいろんな”自分に係わること”がアルファベット順に配列されている。
(この本をぼくは全部読んでない、前にこのブログでこの本の最初にある写真とそれへのバルトのコメントを取上げている)
フーコーの伝記を書いた人(エリボン)は”こんな伝記を書いてしまってフーコーに申し訳ない”と謝っている(笑)
けれどもある思想(家)を知るには、そのひとが生きた時代(状況)と彼らのかかわりを知る必要があるのではないか。
というより、そのほうがおもしろい。
それはその著者と同時代のあるいは時代を共有しない”他者”との係わりを知ることでもある。
哲学とか文学とか社会学とか自然科学とかのジャンルを超えた人々の群像とその係わりを知ることは喜びである。
とくに”現代思想”においては、国家としては喧嘩を繰り返した、ドイツとフランスのかかわりはとても興味深い。
深い森のなかの内省的-攻撃的?思考と地中海を背景とするラテン的思考の交流である。
またナチス台頭による亡命者たちの大移動の物語りもある。
これらの”おはなし”は思想史とよばれるかもしれない。
ぼくはこの領域に関心が向かっている。
残念ながら、この領域のよい本が少ないように感じる。
ぼくが知っているこの領域の”良書”はスチュアート・ヒューズの「意識と社会」に始まる3部作(みすず書房)である。
またかれの弟子マーティン・ジェイの「弁証法的想像力」である。
「ワイマール文化」やフロイトの伝記を書いているピーター・ゲイも注目すべきひと。
この思想史分野にもっと関心があつまり、良書が翻訳されもっと多くの読者が得られることを期待する。
人間はおもしろい、人間は考える葦であり、他者を参照しつつ生きる。
ファシズムとは偏狭さ(狭さ)である。
多くのひとがもっと広い視野をもち、自分自身で立ち、自分を解放する方向に向かうことを切に望む。
[ 06:08 ]
[ 日記 ]
下記ブログのぼくの質問に対して、ぼくよりは非常に若く、けれども20代ではない不破利晴君(笑:たぶん40歳)が彼のブログで”回答”をよせている。
それについての、ぼくのとっさのリアクションを書いてみよう。
ぼくの世代にとって、まず20代、30代の”若者たち”とは、”われらの子供たち”の物語である。
こういう”世代”の問題について考えるとき、ぼくは自分に子供がいないことがつくづく残念である。
ぼくが子供たちを批判するなら、それはリスクを犯さないことになるからだ。
けれどもそういう躊躇を捨て”客観的立場”(そんなものあるわけないが:笑)から語る。
不破君の論旨は政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)氏の発言を参照している。
簡単に要約すれば、
現社会において若者たちは孤立化のもとでの椅子取りゲームを強いられ、その結果”勝ち組-負け組み”の2極化が現われている。
しかも(当然)”負け組み”のほうが多数である。
けれども自分が負けるのは”自己責任”であるとされている。
このプロセスの中で若者の”アトム化”(原子のようにバラバラになっちゃって、他者は競争相手でしかないという孤立化)が起こっている。
しかし面白いのは(失礼!)次の段階である。
《しかし、そのようなはかない共同体も、メディアのポピュリズム的なヒート・アップによって煽られると、熱狂的な連帯感情を生み出すことがあります。つまり、いつもは公共的な事柄に無関心な人々が、忽然として過政治化し、熱狂的な盛り上がりをみせることがあるのです。政治の世界が見世物と化し、そこにメディアが読者や視聴者の気を引く素材だと思って飛びつくとき、そのような過熱化が起きることになります。》 ~姜尚中『愛国の作法』~
”過政治化”!
要するにファシズムじゃん<注>
面白がってはいられません。
だからぼくは”われらの子供たちの物語”と言ったのです。
つまりこの”責任”はわれわれにある。
彼らに”主体”がないのはなさけないが、それは”われわれ大人”とやらに主体がないからです。
つまり”われわれ”は大人であろうが子供であろうが、”主体が形成されない”という共通の問題において”連帯可能”なのです。
ぼくはこのような光景を想像します。
ある日突然、ある家庭で次のような対話が行われます。
若者(20代):ねーオトーさん、あんた主体あるの?
オトーさん:?????
若者:ねーオカーさん、あんた主体ある?
オカーさん:?????????(心配そうに子供の顔をみる)
おそまつ。
この問題に”まじめに”取り組むことについては、ぼくはこのブログでこれまで、まじめに取り組んできたつもりだし、今後も取り組みます。
主体が形成されなければ、必ずファシズムです。
改憲支持78%は明らかなファシズムの指標です。
けれどもすべての世論調査や選挙のマジックですが、この”多数”に対する”少数”が厳然と存在しています。
例えばこの”20代改憲支持78%”に対して、支持しないもしくは保留している若者が22%いるのです。
この22%も膨大な”数”なんだ。
気休めや楽観は禁物だが、ぼくはこの22%が、ねばり強く自分の”主体”を維持し、周辺を説得することを望みます。
”多数”の愚昧をこれ以上はびこらせることは命取りだと考えます。
すごく身近なことを言うと、”改憲された社会”では必ずこのブログのような”自由な発言の場”はなくなってしまうと予想します。
ある日NTTさんがDoblogを止めてしまえばいいのですから(笑)
”いつまでもあると思うな、親とDoblog”
<注>
不破君自身の発言も貼り付ける、
今回の事象におけるキーワードは「過政治化」といったところだろう。
引用にもある通り、無定型な原子化、つまり孤立化が進行しつつある若者の中にあっても、他者と融合したいという欲望は最も根源的な熱情であると、姜尚中氏は指摘する。
そのような背景において、逆説的に熱狂的な連帯(過政治化)を垣間見せるこれら若者たちの行動を、過去の歴史に照らし合わせて考えると、非常なきな臭さを感じとってしまうのは、果たして私だけだろうか。
これらの現象は、劇場型政治(まさに政治の見世物化)と揶揄された小泉政権の頃より始まり、そして現在の安倍政権ではファシズムの一端として、いよいよその姿を露出させ始めているのだ。
それについての、ぼくのとっさのリアクションを書いてみよう。
ぼくの世代にとって、まず20代、30代の”若者たち”とは、”われらの子供たち”の物語である。
こういう”世代”の問題について考えるとき、ぼくは自分に子供がいないことがつくづく残念である。
ぼくが子供たちを批判するなら、それはリスクを犯さないことになるからだ。
けれどもそういう躊躇を捨て”客観的立場”(そんなものあるわけないが:笑)から語る。
不破君の論旨は政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)氏の発言を参照している。
簡単に要約すれば、
現社会において若者たちは孤立化のもとでの椅子取りゲームを強いられ、その結果”勝ち組-負け組み”の2極化が現われている。
しかも(当然)”負け組み”のほうが多数である。
けれども自分が負けるのは”自己責任”であるとされている。
このプロセスの中で若者の”アトム化”(原子のようにバラバラになっちゃって、他者は競争相手でしかないという孤立化)が起こっている。
しかし面白いのは(失礼!)次の段階である。
《しかし、そのようなはかない共同体も、メディアのポピュリズム的なヒート・アップによって煽られると、熱狂的な連帯感情を生み出すことがあります。つまり、いつもは公共的な事柄に無関心な人々が、忽然として過政治化し、熱狂的な盛り上がりをみせることがあるのです。政治の世界が見世物と化し、そこにメディアが読者や視聴者の気を引く素材だと思って飛びつくとき、そのような過熱化が起きることになります。》 ~姜尚中『愛国の作法』~
”過政治化”!
要するにファシズムじゃん<注>
面白がってはいられません。
だからぼくは”われらの子供たちの物語”と言ったのです。
つまりこの”責任”はわれわれにある。
彼らに”主体”がないのはなさけないが、それは”われわれ大人”とやらに主体がないからです。
つまり”われわれ”は大人であろうが子供であろうが、”主体が形成されない”という共通の問題において”連帯可能”なのです。
ぼくはこのような光景を想像します。
ある日突然、ある家庭で次のような対話が行われます。
若者(20代):ねーオトーさん、あんた主体あるの?
オトーさん:?????
若者:ねーオカーさん、あんた主体ある?
オカーさん:?????????(心配そうに子供の顔をみる)
おそまつ。
この問題に”まじめに”取り組むことについては、ぼくはこのブログでこれまで、まじめに取り組んできたつもりだし、今後も取り組みます。
主体が形成されなければ、必ずファシズムです。
改憲支持78%は明らかなファシズムの指標です。
けれどもすべての世論調査や選挙のマジックですが、この”多数”に対する”少数”が厳然と存在しています。
例えばこの”20代改憲支持78%”に対して、支持しないもしくは保留している若者が22%いるのです。
この22%も膨大な”数”なんだ。
気休めや楽観は禁物だが、ぼくはこの22%が、ねばり強く自分の”主体”を維持し、周辺を説得することを望みます。
”多数”の愚昧をこれ以上はびこらせることは命取りだと考えます。
すごく身近なことを言うと、”改憲された社会”では必ずこのブログのような”自由な発言の場”はなくなってしまうと予想します。
ある日NTTさんがDoblogを止めてしまえばいいのですから(笑)
”いつまでもあると思うな、親とDoblog”
<注>
不破君自身の発言も貼り付ける、
今回の事象におけるキーワードは「過政治化」といったところだろう。
引用にもある通り、無定型な原子化、つまり孤立化が進行しつつある若者の中にあっても、他者と融合したいという欲望は最も根源的な熱情であると、姜尚中氏は指摘する。
そのような背景において、逆説的に熱狂的な連帯(過政治化)を垣間見せるこれら若者たちの行動を、過去の歴史に照らし合わせて考えると、非常なきな臭さを感じとってしまうのは、果たして私だけだろうか。
これらの現象は、劇場型政治(まさに政治の見世物化)と揶揄された小泉政権の頃より始まり、そして現在の安倍政権ではファシズムの一端として、いよいよその姿を露出させ始めているのだ。
2007/05/02のBlog
[ 21:46 ]
[ 日記 ]
今日朝日新聞朝刊に憲法についての全国世論調査の結果がのっている。
ぼくが注目するのは”改憲が必要である”とする年代別調査結果である。
20代=78%
30代=68%
40代=62%
50代=52%
60代=47%
70歳以上=40%
全体=58%
これはなにを意味するのか?
改憲が必要であるとするひとのその理由のトップは、”新しい権利や制度を盛り込む”が8割に達するという。
ならば改憲を望む人が必要としている”新しい権利と制度”とは何なのか。
このブログを読んでいる方々で、それを具体的にあげられる方はコメントしてほしい。
ぼくが注目するのは”改憲が必要である”とする年代別調査結果である。
20代=78%
30代=68%
40代=62%
50代=52%
60代=47%
70歳以上=40%
全体=58%
これはなにを意味するのか?
改憲が必要であるとするひとのその理由のトップは、”新しい権利や制度を盛り込む”が8割に達するという。
ならば改憲を望む人が必要としている”新しい権利と制度”とは何なのか。
このブログを読んでいる方々で、それを具体的にあげられる方はコメントしてほしい。
