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Don't Let Me Down
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2007/05/03のBlog
[ 10:39 ] [ 日記 ]
憲法60歳。

朝日新聞は8面にわたる21本の社説を掲げた。
また広告も井上ひさし氏の「子どもにつたえる日本国憲法」、全国から寄せられた賛同金による”9条実現”広告、日本共産党の”私たちは憲法改定に反対です。”が掲載されている。
”声”欄も”憲法60歳”を特集している。

ぼくはまだ1面に掲げられた”地球貢献国家をめざそう”を読んだのみである。

まず疑問がある。
この”地球貢献国家”という言葉は魅力的であろうか?

けれどもここではただちに、これに対するぼくの”言葉”は書かない(書けない)
ぼくは日々のブログでそれを実践してきたし、実践するであろう。

むしろ気になるのは、ぼくのブログの訪問者である”サンシン君”の応答である(彼は20代の留学中の社会学系学生である)
彼の”オタク的なもの”についての本質に迫るブログに期待する。

また気になるのは今日朝刊の憲法とはまったく関係ない”モー娘10年なぜ?”という記事である。
中森明夫氏は”憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり」の”象徴”を”アイドル”と読み替えているという。
”天皇が神から人間になったように、スターからアイドルの時代になった今、日本は「世界のアイドル」「かわいいだけの国」になるべきだ”と論じているそうだ。

モー娘も憲法と関係があったのである!!(笑)


ああ書いているときりがない。

なにをひとつだけ言おうか。

”声”欄にあった高校生川瀬結さんに応えよう。
彼女?は言っている、
《憲法の定め通りに戦力をなくしたら、平和を保つことはできるのだろうか。そう思うと恐ろしい。調べて考えてみると、私の中の平和憲法は揺れ動いていた》

ここにこそ現在の憲法問題の本質があるだろう。

ぼくの考えはこうである。

★現在が”平和”であると、あなたが感じていることそのものが不充分である。日本が平和であるかどうかにもいろんな見方がありうるし、日本が関係している”世界”が平和でない以上、日本のみの平和はありえない。

★けれども現在の日本を平和と感じるあなたの”実感”も理解できる。けれどもこの”平和”を他国の侵略(どこの国だろう?)から”守る”ために日本が憲法改定しもっと軍事力を増す(つまりアメリカとの同盟を強化しても)ことが有効かどうかも、五分五分である。

いいですか”五分五分である”
それなら平和憲法を擁護すべきだ。

★けれどももっと問題がある、侵略”とか”戦争”というものの実質が変わってしまったことなんだ。”テロとの戦争”をどうやって軍隊で守るのか?実は実際的に軍隊は無効化しつつある。

★さらにある。
自衛隊が公然と認められたとき(つまり軍隊となったとき)、自衛隊がいつまでも人のよい”災害救助隊”ではいられないということなんだ。
組織というのはそこに属している個々人の性格とはまったく異質な集団となることがある。
特に軍隊においてはそうだ。これまでの軍隊においても個々人には平和を愛し、暴力を嫌う人はたくさんいたと思う(現在の自衛隊員にも)
まさに戦争は彼らからそれを奪う。
この結果、軍隊が自国の人々を脅かす存在になってしまうということも、歴史がなんども証言している。


もっと本質的な問題がある。

憲法は法である。

ぼくたちはそこに”完璧なもの”を求めるべきではない。

完璧な法があって、それに従うことで、ぼくたちの”正しい生”があるのではない。

ぼくたちひとりひとりが、正しく生きることを目指さなければ、すべては無意味である。





[ 08:22 ] [ 日記 ]
今日の標語:”いつまでもあると思うな、親とDoblog”

というわけで書けるうちに書いておこう。

もしブログがなくなったら、ぼくはこのブログを街頭で配布する(笑)


今日のGW真っ最中の朝は(昨日はバイトに行ったのよ)不破君との実り多いセッションから始まった。

ぼくは人間嫌いであるが、やっぱ、けっこう人間が好きである。

現実のはなしでなくとも(現実のはなしでないほうが!)

みなさんご存知かどうか知らないが、”ポストモダン”な人々というのは伝記が嫌いである。

つまり”作者の(著作者の)死”ということを言っちゃったので、ひとの伝記とか自分の伝記とかがいやなのである。

つまり”書かれたもの”はその”書かれたこと”(テクスト)のみが問題であり、それを書いたひとがどーであるかなど問題でないのだ。

そのかわり、その”テクスト”を熟読玩味すべきなのだ。

この典型がロラン・バルトというひとらしいが、このひとは自分の伝記を書いたのだ(「ロラン・バルトによるロラン・バルト」)
この本はいろんな”自分に係わること”がアルファベット順に配列されている。
(この本をぼくは全部読んでない、前にこのブログでこの本の最初にある写真とそれへのバルトのコメントを取上げている)

フーコーの伝記を書いた人(エリボン)は”こんな伝記を書いてしまってフーコーに申し訳ない”と謝っている(笑)

けれどもある思想(家)を知るには、そのひとが生きた時代(状況)と彼らのかかわりを知る必要があるのではないか。
というより、そのほうがおもしろい。

それはその著者と同時代のあるいは時代を共有しない”他者”との係わりを知ることでもある。

哲学とか文学とか社会学とか自然科学とかのジャンルを超えた人々の群像とその係わりを知ることは喜びである。

とくに”現代思想”においては、国家としては喧嘩を繰り返した、ドイツとフランスのかかわりはとても興味深い。

深い森のなかの内省的-攻撃的?思考と地中海を背景とするラテン的思考の交流である。

またナチス台頭による亡命者たちの大移動の物語りもある。

これらの”おはなし”は思想史とよばれるかもしれない。

ぼくはこの領域に関心が向かっている。

残念ながら、この領域のよい本が少ないように感じる。

ぼくが知っているこの領域の”良書”はスチュアート・ヒューズの「意識と社会」に始まる3部作(みすず書房)である。
またかれの弟子マーティン・ジェイの「弁証法的想像力」である。
「ワイマール文化」やフロイトの伝記を書いているピーター・ゲイも注目すべきひと。

この思想史分野にもっと関心があつまり、良書が翻訳されもっと多くの読者が得られることを期待する。

人間はおもしろい、人間は考える葦であり、他者を参照しつつ生きる。

ファシズムとは偏狭さ(狭さ)である

多くのひとがもっと広い視野をもち、自分自身で立ち、自分を解放する方向に向かうことを切に望む。




[ 06:08 ] [ 日記 ]
下記ブログのぼくの質問に対して、ぼくよりは非常に若く、けれども20代ではない不破利晴君(笑:たぶん40歳)が彼のブログで”回答”をよせている。

それについての、ぼくのとっさのリアクションを書いてみよう。

ぼくの世代にとって、まず20代、30代の”若者たち”とは、”われらの子供たち”の物語である。
こういう”世代”の問題について考えるとき、ぼくは自分に子供がいないことがつくづく残念である。
ぼくが子供たちを批判するなら、それはリスクを犯さないことになるからだ。

けれどもそういう躊躇を捨て”客観的立場”(そんなものあるわけないが:笑)から語る。

不破君の論旨は政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)氏の発言を参照している。

簡単に要約すれば、

現社会において若者たちは孤立化のもとでの椅子取りゲームを強いられ、その結果”勝ち組-負け組み”の2極化が現われている。
しかも(当然)”負け組み”のほうが多数である。
けれども自分が負けるのは”自己責任”であるとされている。
このプロセスの中で若者の”アトム化”(原子のようにバラバラになっちゃって、他者は競争相手でしかないという孤立化)が起こっている。

しかし面白いのは(失礼!)次の段階である。

《しかし、そのようなはかない共同体も、メディアのポピュリズム的なヒート・アップによって煽られると、熱狂的な連帯感情を生み出すことがあります。つまり、いつもは公共的な事柄に無関心な人々が、忽然として過政治化し、熱狂的な盛り上がりをみせることがあるのです。政治の世界が見世物と化し、そこにメディアが読者や視聴者の気を引く素材だと思って飛びつくとき、そのような過熱化が起きることになります。》 ~姜尚中『愛国の作法』~


”過政治化”!

要するにファシズムじゃん<注>


面白がってはいられません。

だからぼくは”われらの子供たちの物語”と言ったのです。
つまりこの”責任”はわれわれにある。

彼らに”主体”がないのはなさけないが、それは”われわれ大人”とやらに主体がないからです。

つまり”われわれ”は大人であろうが子供であろうが、”主体が形成されない”という共通の問題において”連帯可能”なのです。

ぼくはこのような光景を想像します。


ある日突然、ある家庭で次のような対話が行われます。

若者(20代):ねーオトーさん、あんた主体あるの?
オトーさん:?????
若者:ねーオカーさん、あんた主体ある?
オカーさん:?????????(心配そうに子供の顔をみる)

おそまつ。

この問題に”まじめに”取り組むことについては、ぼくはこのブログでこれまで、まじめに取り組んできたつもりだし、今後も取り組みます。

主体が形成されなければ、必ずファシズムです。
改憲支持78%は明らかなファシズムの指標です。

けれどもすべての世論調査や選挙のマジックですが、この”多数”に対する”少数”が厳然と存在しています。

例えばこの”20代改憲支持78%”に対して、支持しないもしくは保留している若者が22%いるのです。
この22%も膨大な”数”なんだ。

気休めや楽観は禁物だが、ぼくはこの22%が、ねばり強く自分の”主体”を維持し、周辺を説得することを望みます。

”多数”の愚昧をこれ以上はびこらせることは命取りだと考えます。

すごく身近なことを言うと、”改憲された社会”では必ずこのブログのような”自由な発言の場”はなくなってしまうと予想します。

ある日NTTさんがDoblogを止めてしまえばいいのですから(笑)

”いつまでもあると思うな、親とDoblog”



<注>

不破君自身の発言も貼り付ける、

今回の事象におけるキーワードは「過政治化」といったところだろう。
 引用にもある通り、無定型な原子化、つまり孤立化が進行しつつある若者の中にあっても、他者と融合したいという欲望は最も根源的な熱情であると、姜尚中氏は指摘する。
 そのような背景において、逆説的に熱狂的な連帯(過政治化)を垣間見せるこれら若者たちの行動を、過去の歴史に照らし合わせて考えると、非常なきな臭さを感じとってしまうのは、果たして私だけだろうか。
 これらの現象は、劇場型政治(まさに政治の見世物化)と揶揄された小泉政権の頃より始まり、そして現在の安倍政権ではファシズムの一端として、いよいよその姿を露出させ始めているのだ。




2007/05/02のBlog
[ 21:46 ] [ 日記 ]
今日朝日新聞朝刊に憲法についての全国世論調査の結果がのっている。

ぼくが注目するのは”改憲が必要である”とする年代別調査結果である。

20代=78%

30代=68%

40代=62%

50代=52%

60代=47%

70歳以上=40%

全体=58%

これはなにを意味するのか?

改憲が必要であるとするひとのその理由のトップは、”新しい権利や制度を盛り込む”が8割に達するという。

ならば改憲を望む人が必要としている”新しい権利と制度”とは何なのか。

このブログを読んでいる方々で、それを具体的にあげられる方はコメントしてほしい。



2007/05/01のBlog
[ 21:47 ] [ 日記 ]
What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

[ 21:44 ] [ 日記 ]
What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

What kind of fool am I ?

[ 10:28 ] [ 日記 ]
下記ブログ補足:

ついでに。

今日朝刊17面の小さな記事に加藤典洋氏が朝日が出している「論座」という雑誌に書いた”新「敗戦後論」”の紹介がある。

簡単な紹介であるので、本来は雑誌掲載の全文を読んで批判すべきだと思う。
けれどもここに書いてあることのみで判断すると、ぼくは加藤氏のような立場が大いに疑問である(現憲法擁護であっても)

だからといってぼくは”9条の会”にも(よく知らないが)違和感を感じる。

ぼくはなぜか一時期、吉本隆明以後の評論家として加藤氏の評論集をかなり読んだ。
「敗戦後論」も読んでいる。
そして不思議なくらいピンとこなかった(笑)

またこの記事にも名前の出ている”おじさん的思考”内田樹というひともピンとこない(ただしこの人の本は数冊買ったが読了したのは「寝ながら学べる構造主義」とやらだけである、この本ははっきりペケである)

加藤典洋氏は憲法問題ではなく、村上春樹問題においていつか決着をつけたい(これは当然憲法問題にかかわる)


けれども加藤氏や内田氏などを相手にしている場合だろうか!

ぼくはフッサールの”事象そのものへ”という探究の苦闘の跡を追うべきではないか。

そこにこそ、この大衆社会の耳に入りやすい妥協した(弛緩した)言説ではなく、ひとりの男の生身の苦闘が目撃されるのではないか。






[ 09:38 ] [ 日記 ]
まあ連日これだけせっせとブログを書いてて言うのもなんですが、徒労感がある。

それはたとえばツナミンが以下のように書いているようなことである。

《読解力のある人にとっては当たり前すぎて言わずもがなの事柄なのに、読解力のない人には何を言ったところで所詮理解できないので言うだけ無駄、というようなことをわざわざ書く意味があるだろうか? 読者がこの2種類だけしかいないとすれば、当然無意味である。しかし、もしかしたら両者の中間に属する人がいるかもしれないので、あまりにも当たり前のことを書くのも空しいことではあるが、拙ブログを読むための常識以前の基礎知識を挙げておく》

ツナミンは続けて自分のブログを読むための”常識以前の基礎知識”をあげている。

ぼくはなにをあげるべきだろうか(笑)

いまはうまく整理できない。

ただ、徒労感のある時、訪問者リストやブックマーク・マーカーリストにたぁたさんやNKMさんやヒメヒカゲさんやマキノコちゃんの名を見るのは励ましである(なぜ女性だけであろうか!またここに名をあげなかった方々もひがまないでね)

徒労感があるのであるが、今日朝日新聞社説の”言論はテロに屈しない”についてコメントしないのはフェアじゃないと思って書く。

ぼくが朝日新聞を批判しているのは、ぼくが朝日新聞しか購読していないからである。
けれどもこれは偶然ではない。
ぼくの”家”はずっと朝日新聞であった、子供の頃から朝日新聞だけが家にあった。
けれどもそういう習慣だけで朝日をとっているのではない。
朝日が他の新聞よりマシであるからとっている。
とういうか読売、産経、日経など読む気にならない(毎日、東京は読んでもいい)
ただし、ぼくは一時期仕事で主な新聞(産業新聞を含めて)全部に眼を通していたことがある。

これまでの朝日新聞には読むに値するひとの署名入り記事があった(これもどんどん少なくなっている、というか現在の日本に読むに値する人がどんどん少なくなっている)
それから読書面が比較的充実している(産経など本の広告自体がプアーである)

ぼくが朝日新聞の批判をしているのは、よくなってほしいからである。

けれども今日の社説を読んでもお寒い限りである。
なによりもその”文体”である。
ここにはこの見出しに掲げられた主張を具体的に示す、どんな気迫も意志も感じられない。

《気になるのは、テロや暴力に対し、政界や経済界の動きが鈍いことだ》


”気になる”!
まるでひとごとではないか。

この社説を書いている朝日の論説委員はどうして”政界や財界のテロに対する動きが鈍い”のかを、まるで知らないかのようなのだ(笑)

いやしくも朝日新聞で社説を書くベテランがこういう政財界の”暗部”をご存じないとは言わせない。

マンガではないか。

《「わわれは暴力を憎む。暴力によって筆をゆるめることはない」。小尻記者が凶弾に倒れたとき、私たちは社説でこう書いた。その決意を新たにしたい》

”決意を新たにしたい”!

決意はここで、この社説の文章で表出されるべきなのだ。

いつも”新たにしたい”と決意ばかりして、先送りし、実行しない。

この社説の文章は”マヌケ”である。

それはこの社説を書く人および現在の朝日新聞”リベラリズム”のテンションの低さを暴露してしまっている。

それはまったく文章のテクニックの問題ではない。

まったくない。

それはこれを書く”ジャーナリスト”の肉体に日々溜まっていく皮下脂肪のような”愚かさ=鈍さ”の現われである。




[ 07:03 ] [ 日記 ]
下のブログの長々しい人名リストを見てもなにも違和感を感じない方もいるのではないか。

いまおそろしいのは、そのことである。

たとえば、ぼくやツナミンは朝日新聞批判をする(注)
けれども、もはや現在、新聞をまともに読んでいるひとは少ないらしい。
(若者独身者はそもそも新聞をあまり購読していない)

まあこのブログに来てくれるほどの知性がある方(笑)は別だろうが、そもそもぼく(たち)が関心をもっていることにまったく関心を持たない”多数”の存在をひしひしと感じる。

それはいわゆる”政治的関心”とか”社会的関心”ではない。

ぼく自身、このブログをよく読んでくださる方には、みえみえだろうが、もともと”そういうタイプ”ではない。

ぼくが不思議でしょうがないのは、ぼくの世代は”大学闘争”世代であり、当時、ぼくなどはまったく”ド素人”だったのだ。

つまりぼくが大学の時にはもう高校のころから”政治”にめざめた”先進的学友”がたくさんいたのだ。

彼らは、どこにいっちゃったの!

これは”形式的疑問”である。
彼らは企業内で政治的に振る舞い”出世”したのである(笑)

けれども問題は(今日の雨じゃなく)彼らの子供たちであった。

”無関心”という言葉があるのである。

無関心な人々にとって自分に関心のないことは、この世に存在しないのである。

はっきり言ってかくいうぼく自身だって数年前までは、このいい加減な戦後民主主義社会だか市民社会だかが、嘘の上に立ってだけれどそれほど決定的にヤバくなく自分が死ぬくらいまでは続いていくように漠然と思ってた。

そうじゃなかったね。

いやこのブログでさえぼくはこの国の現状に対して”ファシズム”や”全体主義”という言葉を使うのに、ためらいがあった。
”大げさじゃないの”という気持ちもあった。

そうじゃなかったね。

一方に”少数”のどうしようもない差別主義者・国粋主義者がいて(それは日本会議の”セレブ”だったり、2ちゃんねるの一部になどに巣食う鬱屈した人々であり)、一方に無関心な多数が形成されている。

ようするに”セレブ=金持ち”は自分の現在持ってるものを死守し、それをどんどん増やしたいのだ。
貧乏人にはなにひとつ渡さない(笑)
このひとたちの考え方はわかるのである(だって単純なんだもん)
いちばん奇怪なのは、自分に利益をもたらさない人々を支持しつづける”下流の”人々である。
たんに頭悪いのね(ひねくれちゃったのね)

本当はかれらにとって”愛国”とか”美しい国”とか”希望ある社会”などというのはどーでもいいのである。
まあアクセサリーね。

”無関心な人々”

無関心な人々が”多数”である社会をファシズムと呼ぶ。


<今日のナゾナゾ>

無関心な人々が関心あるモノなーに?


テレビ!



(注)
ツナミンが書いている、

しかし、朝日のこの特集記事(”戦争と新聞”)を読む限り、現場の記者たちが、今まさに自分たちがファシズムへの道行きに加担しているのではないか、といった反省は皆無のようである。昔の先輩たちは愚かな過ちを犯したが、それはあくまで「昔の先輩たち」の話であって、自分たちとは無関係である、とでも言いたいような無反省なムードが漂っている。それどころか、このような検証記事を書いている自分たちは、いかにもこうした翼賛報道とは無縁のところにいるかのような得意げな口吻すら漂っている。

 笑えるではないか! 過去の先輩がやっていた過ちを指摘しながら、自分たちが今まさに同じ過ちを犯しているとの自覚の欠片もなく、それどころか、過去の先輩の過ちを指摘することによって、自分たちの立場が清められるとでも思い込んでいるとは!! 



2007/04/30のBlog
[ 22:20 ] [ 日記 ]
こりゃなんじゃ

不破利晴君が”日本会議”というたいそうな名前の団体についてのブログを書いている。

不破君もちょっと前までは知らなかったし、ぼくも知らなかった。
ということは知らない人は知らない(笑)だろうから、ここにWikpediaを貼り付ける。

基礎情報については(当然)不破君のブログと重複するが、不破ブログにはもっと面白いことが書いてあるので参照してね。

それにしてもこうも見え見えじゃ、ブログで政治・社会批判してるのがアホらしくなる。

日本の中枢はもうこいつらに乗っ取られている。

名も無きものよ、連帯しないとアウトよ。


日本会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本会議(にっぽんかいぎ)は、日本最大規模の右派・保守主義系の国民運動や言論の市民団体。

概要

愛国主義・反共主義・親米保守主義の立場から提言を行っている。島村宜伸、麻生太郎、安倍晋三、山谷えり子、稲田朋美、平沼赳夫、高市早苗、下村博文、西村真悟などの政府与党系国会議員との結びつきが強い。各右派・保守系団体同士の連絡機関(労働組合で言うところの「ナショナルセンター」)の役割も果たしている。一般的には財界系と目される。

前身は「日本を守る国民会議」[1]と「日本を守る会」[2]。両団体が統合する形で1997年(平成9年)5月30日に発足した。9ブロックに区切られた47都道府県のほぼ全てに支部または類似組織が置かれている。毎月、機関紙『日本の息吹』を発行している。

文化人から政治家、財界や官僚出身者、宗教家、民族派活動家まで各方面の広範・多彩なメンバーを擁し、国益と伝統的な価値観に基づき、憲法改正問題、教育基本法改定や道徳教育などの教育問題、靖国神社参拝の推進活動、女系天皇を認める皇室典範改正、外国人参政権、夫婦別姓、人権擁護法案に反対するなどの主張・活動を展開している。

97年5月29日発足の日本会議国会議員懇談会(会長:平沼赳夫)に248名の国会議員が属する。


日本会議の主な役員

日本会議中央役員(2006年8月現在)

顧問
宇野精一 東京大学名誉教授
北白川道久 伊勢神宮大宮司
久邇邦昭 神社本庁統理
白井永二 鶴岡八幡宮名誉宮司
瀬島龍三 伊藤忠商事(株)特別顧問
服部貞弘 岩津天満宮名誉宮司
渡辺恵進 天台座主

会長
三好達 元最高裁判所長官

副会長
安西愛子 声楽家
石井公一郎 ブリヂストンサイクル(株)元社長
小田村四郎 拓殖大学総長
小堀桂一郎 東京大学名誉教授
矢田部正巳 神社本庁総長
山本卓眞 富士通(株)名誉会長

代表委員
秋本協徳 新生佛教教団代表役員
石原慎太郎 作家・東京都知事
井尻千男 拓殖大学日本文化研究所所長
出雲井晶 作家・日本画家
板垣正 元参議院議員
市川晋松 日本相撲協会前相談役
伊藤憲一 青山学院大学教授
稲山霊芳 念法眞教燈主
井上太郎 霊友会総務理事
入江隆則 明治大学教授
宇佐美忠信 (財)富士社会教育センター理事長
宇都宮鐵彦 日本会議経済人同志会会長
海老原義彦 軍人恩給連盟全国連合会会長
大石泰彦 東京大学名誉教授
岡田恵珠 崇教真光教え主
岡野聖法 解脱会法主
小串和夫 熱田神宮宮司
尾辻秀久 参議院議員、日本遺族会副会長
小野田寛郎 元陸軍少尉、(財)小野田自然塾理事長
加瀬英明 外交評論家、日本教育再生機構役員、史実を世界に発信する会代表委員、日本李登輝友の会副会長
上村和男 (社)国民文化研究会理事長
唐澤祥人 日本医師会会長
城内康光 前ギリシャ大使
清原恵光 比叡山延暦寺代表役員執行
黒川紀章 建築家
黒住宗晴 黒住教教主
慶野義雄 日本教師会会長
佐伯彰一 東京大学名誉教授
佐藤和男 青山学院大学名誉教授
澁木正幸 (株)廣建会長
志摩淑子 (株)朝日写真ニュース社社長
春風亭柳昇 落語家
鈴木俊一 日本倶楽部会長
関口徳高 仏所護念会教団会長
千玄室 茶道裏千家家元(旧軍では特攻隊員であった)
副島廣之 明治神宮常任顧問
園田天光光 自由民主党各種女性団体連合会長
高城治延 伊勢神宮少宮司
瀧藤尊教 和宗総本山四天王寺第百五世管長
田久保忠衛 外交評論家
竹本忠雄 筑波大学名誉教授
寺島泰三 (社)日本郷友連盟会長
外山勝志 明治神宮宮司
中野良子 オイスカインターナショナル総裁
南部利昭 靖国神社宮司
長谷川三千子 埼玉大学教授
平岩昌利 東京都神社庁庁長
廣池幹堂 (財)モラロジー研究所理事長
保積秀胤 大和教団教主
堀江正夫 英霊にこたえる会会長
前野徹 アジア経済人懇話会会長
丸山敏秋 (社)倫理研究所理事長
宮崎義敬 神道政治連盟会長
村尾次郎 元文部省教科書調査官、全国地名保存連盟会長
村松英子 女優
森定慈芳 比叡山延暦寺代表役員
役山明 (社)偕行会前会長

理事長
戸澤眞 明治神宮権宮司

事務総長
椛島有三 日本会議常任理事

事務局長
松村俊明 日本会議常任理事

日本会議国会議員懇談会
会長:平沼赳夫
会長代行:中川昭一



[1}保守系文化人、故石田和外・元最高裁判所長官が呼びかけて1978年に出来た「元号法制化実現国民会議」が改組。旧軍閥関係が中心。役員に黛敏郎ら。

[2]神道・仏教系宗教・修養団体中心、神社本庁、解脱会、国柱会、霊友会、崇教真光、モラロジー研究所、倫理研究所、キリストの幕屋、仏所護念会、念法真教、オイスカ・インターナショナル、三五教などがメンバー。



<追記>

あ~あ!!!!!!!




あ~あ