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Don't Let Me Down
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2007/09/21のBlog
[ 23:11 ] [ 日記 ]
文学の虐殺に反対するなら、文学とは何かを定義する必要がある。

この世にあるものすべてが文学ではないからであり、すべてが文学である必要もない。

文学とは言葉のない世界を言葉によって語る。
あるいは、語りえないものを語る試みと、その試みの記録である。

たとえば田村隆一の詩「言葉のない世界」が試験問題に出され、この詩が何を言おうとしているかが問われたとしよう。
この設問に対して様々な模範解答が可能であろう。
けれども、どんな解答もこの詩ではない。
そうでなければ、この詩がこの詩である必要はない。

詩の例は極端であろうか。
ならば散文を、小説を考える。
カフカの『変身』はなにを意味しているか?
その答も様々でありうる。
つまりこの小説にカフカが込めた寓意を読み取ることがである。
しかしカフカはただ自分が笑いたかったから、この小説を書いたのかもしれない。
あるいは読者に笑ってほしかったのだ。

中上健次は一群の小説でなにを言おうとしたのか?
それは『岬』一編ではわからない。
『枯木灘』と『地の果て至上の時』を読み継ぐことによって、最初わかったことはわからなくなる。
さらに『熊野集』において『地の果て至上の時』執筆時の中上の“私生活”状況を知ることにより、謎は解かれるとともに、増幅する。
このことが『熊野集』という連作における、伝奇的な小説と“私小説”の混在の必然性を証明するのだ。
つまり中上健次における書くことの連鎖は、収斂すると同時に拡散、炸裂しているのだ。

それは作者があらかじめ認識したことの図解ではない。
書くことの最中に認識の運動はある。
だからこれを読むことの最中に、認識の運動はある。

“文学者”は言葉や表現を発明したりはしない。
彼らにとっても言葉は手垢にまみれた“伝達の手段”として、まず現われる。
ただ彼らはその言葉に、ちがった力を担わせる。
ちがった強度を帯びさせる。

文学が文学であるならば、そこで言葉は、それまでになかった磁力を帯び、それまでになかった磁場を出現させる。
その言葉は闇のなかで、真っ黒に発光している。

黒字のキャンバスに黒を塗りこめ、白地のキャンバスをナイフで切り裂く。

文学を認知するのは意外とむずかしいのだ。
文学を認知する能力はただ文学を読むこと、書くことによってしか獲得できない。


すなわち文学は、嗜好(趣味)であったり、ゲームであったりもする。

けれどもそれは、ついに、ひとつの生である。

この生から文学を殺すことはできない。




2007/09/20のBlog
[ 19:51 ] [ 日記 ]
下記ブログで”文学”の見本を出したので、今日朝日夕刊から”文学”でないものの見本も出そう。

多分これは、そう言って出すほどの価値もない、どうでもいいものであろう。

ぼくもこれから引用するのが億劫である(どころかこういう言葉を入力するだけで、虫唾が走る)


《久しぶりに、2人で飲んだ。「あの時、ボクシングをやるしかなかったんだよね」。日本酒を飲みながら、彼が、ぼそっと言った。リングから降りたチャンピオンが、遠い昔の試合を振り返るような言い方だった。僕は、その時、片岡鶴太郎が、リングの上で闘っていた相手は、彼自身だったのだろうと思った。年を取った男2人の酒が、旨かった》


やっぱ、嫌な文章だね!(爆)
点の打ち方まで気に入らない。

ちなみに、ぼくはここで語られている片岡鶴太郎というひとは好きでも嫌いでもない(つまりどーでもいい)

嫌いなのは、このような文章を書いて”売文”している男の、ナルシシズムと自己劇化の身に沁み込んだ”悪い癖”である。

こういう人は、救いようがないなぁーと思う。

もちろん”こういう人”がこの秋元康だけなら、無視もできよう。

そうではないから、このブログを書いた。


《年を取った男2人の酒が、旨かった》

いったいきみらは何歳なのさ(笑)

90歳になってから、言ってよ。


<追記>

上記を書いてからヤフー・ニュース・ランキングを見たら、興味深いニュースがあった。

このニュースは上記ブログと関係があると思う。
このニュースに出てくる”学生たち”というのは、文学ではないひとたちである。

ぼくは竹内結子さんについてはなにも知りません。


<竹内結子、痛恨のミス?…美しさの秘訣を発言して観客ザワつく>9月20日13時45分配信 シネマトゥデイ

 19日、『クローズド・ノート』の試写会が行われ、先生役を演じた竹内結子が、教師を志望する学生たちからの質問に答えた。

 この日、竹内が登壇することを知らなかった学生たちは、つやつやの黒髪をなびかせて登場した竹内に舞い上がり気味。質問しようとして、思わず「竹内先生は…」と口走ってしまい、笑いが起こるなど和やかなムードの中、学生たちとの質疑応答が進んでいた。

 ところが、ある学生の「美しさの秘訣(ひけつ)は?」という質問に対し、竹内が「なるようになったらこうなったというか……」と答えると辺りはザワつき雰囲気が一変。春名慶プロデューサーが「ちょっと嫌み?」と会場に漂う空気を代弁して笑いを誘ったが、なおも「特別何かをしている訳ではないし……」と続けた。

 異様な雰囲気が漂い始めた会場の気配を察した春名プロデューサーが「竹内さんは楽屋でもどこでも笑い声が絶えないですよね。そういう気持ちが表情にも表れて、ふと笑みがこぼれるように自然となるのかな」とフォローするも、「笑えなくなったら終わりかな(笑)。そう思っていると毎日楽しいかも」と、マイペースに意味深なアドバイスを学生たちに送っていた



[ 17:10 ] [ 日記 ]
“目が肉眼になるまでは 50年はかかる”

それじゃあ、文学の話をしよう、詩人田村隆一の話である。

近日新聞を見るのも億劫で放っておいたが、いま9/16日曜日の朝日で“田村隆一は終わらない”を見た。
“おじいちゃんにも、セックスを”の広告写真つき(この写真撮影はがんで亡くなる9ヶ月前で、広告は1998年1月3日に掲載されたとある)

“詩の1行と1行の間の「深い谷間」を、読者が飛び越えるか、落ちるか、はい上がるか”そんな詩が書きたいと田村は言ったという。

5回の結婚、私生活も伝説につつまれている。
だが、5番目の妻の証言;
《純粋で誠実で清らかで、品位のある人でした。無頼ではありません。“僕の詩を読んだら、分かるやつには分かる”ともらしていました》

岸田衿子さんの証言;
《私を含めて奥さんは何度も代わったけれど、いちいち入籍したのは根がまじめだからです。過激で素っ頓狂な冗談で笑わせますが、女性には小学生のように品行方正でした。浅間山麓の自然の中をよく歩きました。鳥と獣の声しか聞こえない言葉のない世界を


たとえば一羽の小鳥である
その声よりも透明な足跡
その生よりもするどい爪の跡
雪の斜面にきざまれた彼女の羽
ぼくの知っている恐怖は
このような単一な模様を描くことはけっしてなかった
この羽跡のような肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかったものだ

突然 浅間山の頂点に大きな日没がくる
なにものかが森をつくり
谷の口をおしひろげ
寒冷な空気をひき裂く
ぼくは小屋にかえる
ぼくはストーブをたく
ぼくは
見えない木
見えない鳥
見えない小動物
ぼくは
見えないリズムのことばかり考える
<田村隆一“見えない木”部分―『言葉のない世界』所収>


この朝日新聞記事を書いた編集委員・白石明彦氏の結びの言葉に共感する、そのまま引用しよう;
《田村の詩は、確実に読み継がれるだろう。9.11から6年。言葉と想像力は、今も破壊され続けているから


田村隆一は、垂直な想像力から水平な想像力に移行したのであろうか。

いや想像力は、水平にも、垂直にも駆動するのだ。

《おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない》






[ 12:04 ] [ 日記 ]
“文学の死があるとしたら、それは虐殺によるものだ”

つまり、人はひとを殺すだけではなく、文学を殺すこともあるのである。



だからぼくの”問い”はこうである;

”あなたは、人間が生き残っていても、文学が死滅した世界で生きていくことができますか?”

”文学至上主義”?

とんでもない!

また、これはSFではない(まあ教養あるひとが『華氏491』を参照するのはかまわない)

もちろん文学の虐殺とは、本屋から本がなくなることのみを、意味しない。
(つまり”本”は大量に生産されるであろう)



[ 11:21 ] [ 日記 ]
タァタさんの空をイワツバメが渡って行く。

曇り空。

トウキョウも曇り空である。

湿度高く不快。

トウキョウはもはや、人為的亜熱帯である。
ジャングルなき亜熱帯、むかし、コンクリート・ジャングルという言葉があった。

ユーミンの1stアルバムに”曇り空”は入っていたと思う。

曇り空。

”空にあこがれて、空を駆けていく”というのは別の曲であった。

ぼくも都市にあこがれたことがあった。
それはハードボイルドの探偵がさまよう都市であった。

喧騒と猥雑と新商品とあらゆる食べ物とファッションと女たち。

蜃気楼であった、幻であった、軽薄であった。

いま都市はぼくを魅惑するどころではない。
1枚の写真も撮れない。

ただ足をひきずって通過する所、馬鹿げた他者とすれちがう所である。

もはや、スリルは本のなかにしかないと言うべきだろうか。

昨日新宿紀伊国屋書店で以下の本を買った。

★ピエール・ガスカール『けものたち・死者の時』(岩波文庫新刊)

★ミシェル・フーコー『フーコー・コレクション4,5,6』(ちくま学芸文庫)
 4:権力・監禁
 5:性・真理
 6:生政治・統治

★ジル・ドゥルーズ『フーコー』(河出文庫)


まず『フーコー・コレクション6』の”汚辱に塗れた人々の生”(ドゥルーズ絶賛の)を読む。
ドゥルーズ『フーコー』の宇野邦一の訳者後記とこの本の単行本1987の同氏による解説を読み返す。


今日は冷蔵庫が届く。







2007/09/19のBlog
[ 08:57 ] [ 日記 ]
鏡さんのブログで
”質問:どうして人を殺したらいけないのでしょうか。(倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください。)”
というが”Hatena Question”というのに出ているのを知った。

そこでは、この質問に対する書き込み(解答)があり、それに対して質問者がコメントをつけている。

それでぼくもこの質問への解答を考えてみた。
だがこの質問は大分前から(世間で)発せられていたので、この問題はぼくにとって初めてでもなかった。

今回考えて、やはりこの質問は不愉快(あるいはまちがった質問)ではないか、と思った。

ただしこれは、大江健三郎氏が言ったように、”正しい倫理感覚をもったひとは、このような質問を発するはずがない”という立場ではない。

そうではなくて、”人を殺す”という一般化が気に入らない。

人殺しはひとつひとつちがうのであるから、それがなぜ”いけない”かもひとつひとつちがうのである。

こういういい方が(みかけより)そうとうな暴論であることを、考えてみなければならない。
けれども今のぼくには、こうとしか言えない。

あるいは、上記とはちがった角度だが、”人を殺した人の多くは人を殺していいと思っていたわけではない”という観点もある。

つまりここには、個別性と一般化の問題があるのだと思う。

具体と抽象の問題があり、これが哲学的にも法制度的にも解決されていない。

この問題を<倫理>というのであり、そもそもこの質問者が質問時点で否定した”倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください”という条件に含まれる”倫理”など、なんの基準でもありえない。

そもそも”倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください”というのは、何を意味するのか?

このひとは”純粋論理”のゲームが可能だと思っているのだろうか。



2007/09/18のBlog
[ 18:33 ] [ 日記 ]
ぼくは日頃”現在のテレビ”を批判している。

”見る必要がないし、ぼくは見ない”とまで極論している。

しかし、たしかにこのような”批判”はネガティブかもしれない。

今、’ぱきぱき’ブログに貼り付けられたユー・チューブのパーキンソン病患者の映像を見て思った。

逆にこう考えたら、どうだろうか。

今、ぼくたちがテレビで見るべき映像はなにか?

映像は”すべて”ではない。
それは”表面”にすぎない。

けれども”絵”が、あることをとても分かりやすく説明、実感させるメディアであることを、ぼくたちは幼児からの経験によって知っている。

しかも”テレビ”は言葉を語ることも、言葉を表示することも、音響を伝えることもできるのだ。
もちろん”音楽”も。

テレビが放送開始された頃、現在から見ると信じられないほどローテクで素人臭い番組にこそ、ときめきはあった。

”臨場感”があったのである。

見ることは喜びではなかったか。

知らないことを知ることは喜びではなかったか。

有名人のブタのケツの羅列ではなく。

わざとらしい笑い声の反響ではなく。

下品なゴシップへの限りない関心ではなく。

カネまみれのスポーツ・芸能業界の光景ではなく。

新時代の”能面”美女のプラスティックな笑顔ではなく。

知ることは、世界を(お望みならばユニバースを)認識することは喜びであった。

アクロス・ザ・ワールド、アクロス・ザ・ユニバース。

それが、見たことのない新奇な光景である必要もなかった。

雨にけぶる草原でもよかった。
白熱の砂漠でもよかった。

あなたの、一瞬の微笑み、にじみ出る血、あふれる涙で充分だった。

”テレビ”が別のものを映すことを、要求する。






われらの時代の絵 a

われらの時代の絵 b
われらの時代の絵 c


われらの時代の絵 d

見ることは見つめ返されること。
盲目でなければ関係はうまれる。
いや眼を閉じても、盲目であってさえ。

みつめる瞳は、空虚=ゼロ、だがダイヤモンドより深く輝く。
なぜならこの瞳は、いつか腐る。




2007/09/17のBlog
[ 16:13 ] [ 日記 ]
この国では“ポスト・モダン”のひとと言われているドゥルーズの発言を引用したい。

インタビューなので(いつもとちがって)わかりやすい(笑)

ドゥルーズについては直接言及しているか知らないが、“フランス・ポストモダン文学論”を批判している加藤典洋や竹田青嗣は、何を読んでいるのであろうか、なんか寒いね。

ちなみにこの引用個所の見出しは、
文学の死があるとしたら、それは虐殺によるものだ

《マクルーハンをきちんと読まず、理解もしなかった人はこう考えるでしょう。音声と映像が本にとってかわるのは理の当然だ。なにしろ音声と映像は過去の文学やその他の表現様態に負けない創造的可能性を秘めているのだから、とね。これは正しい考え方ではありません。音声と映像が本にとってかわるようになったとしても、それは音声と映像が本と競合する表現手段として登場したからではなく、音声と映像そのものの創造的可能性すら押しつぶすさまざまな組織が、音声と映像を独占するからにすぎないのです。文学の死があるとしたら、それは必然的に非業の死だろうし、政治的意味をもつ虐殺になるでしょう(誰も気づいていないかもしれませんが、ソ連ではまさにこのとおりのことがおこっている)。ここで問われているのはジャンル同士の比較ではありません。文字文学が一方にあり、もう一方に音声と映像があって、そのどちらかが選択されるわけではないのです。創造をおこなう力(これは音声と映像にも文学にも含まれている)と、家畜化を推進する権力のあいだで選択がおこなわれているのです。文学によって文学創造の条件が護られるのでなければ、音声と映像が創造の条件を手に入れることができるかどうかはなはだ疑わしい。創造の可能性はそれぞれの表現様態によって大きな違いを見せるとはいえ、市場と迎合の、つまり「市場向け生産」の文化空間の成立に一丸となって抵抗しなければならない点で、あらゆる創造の可能性はたがいに通じあう面をもっているのです》
<1985年のフランス雑誌インタビューによる-『記号と事件』(河出文庫)所収>


文中に“ソ連”という表現があるように、このインタビューは1985年に行われた“古い”ものである。

だがまさに、“ソ連”が“ロシア”になっても、ロシアに読むべき“文学”や見るべき“映像”が現われたとは聞かない。
元KGB指導者の独裁体制の元では無理である。

だが、話は“ロシア”の問題ではないのだ。

まさに、この国における、ポップ・カルチャーが問われる。

まさに“テレビ”や“J-POP”や観客動員刷新“映画”が問われる。

また“ポスト・モダン”が問われる。

《創造の可能性はそれぞれの表現様態によって大きな違いを見せるとはいえ、市場と迎合の、つまり「市場向け生産」の文化空間の成立に一丸となって抵抗しなければならない点で、あらゆる創造の可能性はたがいに通じあう面をもっているのです》

という死んだドゥルーズの“こむずかしくない”発言が、ただ生き残るのではなく、くっきりと先鋭化した声として届けられるのを“今”聞くのである。

だから、今、ぼくたちがするべきことは、誰が“文学殺し”に加担するものであるかを見極めることである。

それは同時に誰が、“音楽殺し”に加担し、“映画殺し”に加担していることを見極めることである。

誰が、“「市場向け生産」の文化空間の成立”に加担しているかを、従来の図式を超えて見極めることである。

“文学を擁護する”と称する者たちと、反対に、“文学はもう古い”と新しいカルチャーをいうものたちが共に、“家畜化を推進する権力”に加担しているかどうかを観察し、見極めるべきである。



[ 11:58 ] [ 日記 ]
初めてであること。

この特権性はなぜか?

初恋。
なぜ幼児期の世界体験は、あのように魔術的だったか。

ひとはそのノスタルジーを求めて“余生”をすごす。

それとも、ひとは、回帰するのだろうか、老年の認知機能の減衰のなかで、あるいは、死の床で。

けれども完全な無垢は、そもそも、ありえなかった。
ぼくたちは、この言葉のなかに、産まれた。

ならば世界の布置(ぼくと世界の関係)は同じではないか?
ぼくにとって、“言葉”はいつでも、既知であると同時に未知であった。

生きることの習慣が、このスリルを奪った。

だから、意識的に、この関係を奪還する。

そうすることによって、この世界は、ふたたび、魔術的な、スリルを帯びるであろう。

退屈して死にたくは、ない。




[ 10:50 ] [ 日記 ]
《情熱の世界でも長く生き、74の年に19歳の娘に求婚した》

この文章は今日朝日新聞朝刊にある(どこにあるか探してみてください)
ゲーテというひとのことである。
これを読んでゲーテに興味をもつひとがいるかもしれないし、(ぼくのように)”なに74歳でもまだいいのか!”と感激するひともいる。

つまり、実際はどーかわからないが、面白いひとというのがいるのである。
ぼくにとって(たとえば)ドストエフスキーというひとは小説より伝記が面白いひとであった(ただE.H.カーの伝記を途中まで読んだだけだが、小林秀雄の『ドストエフスキー』はこの伝記のパクりらしい)
”夜中に(あるいは)ヨーロッパ中を女を求めて走り回る男(たち)”

当たり前ではあるが、面白くないひとというのもいるのである。

ぼくにとっては小泉-安倍-福田-麻生というひとたちは、面白くない。

ぼくは朝日新聞などの大メディアが連日なにを騒いでいるのか理解しがたい。
また日頃良識ある”政治無関心”を貫き<妄想セックス、露出オナニー in TOKYO>というような記事がアクセスを集めているヤフー・ニュース・ランキングまでもが、総裁選挙ネタで占拠(選挙!)されるのは解せない。

ぼくの今朝起きた時のこのブログに書くモチーフは、”なぜひとは映像に発情できるのか?”という深遠な問題であった。

しかしあまりにも問題が深遠・複雑であるために、もっとよく考えなければ書けない。

ぼくは思うのだが西洋哲学が決定的に弱いのは、セックスの問題である(”西洋哲学”と書いたが、べつに”東洋哲学”がそれに強いともおもわれない-ぼくは無知であるが)

ギリシア哲学も”少年愛”であるし、フーコーもホモであった<注>
もっと平凡な”性哲学”があってもいいのではないか。

いずれにせよ、ぼくたちはすべての人と会うこともできないし、すべての女とセックスすることもできない(ぼくは男だからこう書いている)

すべての本を読むこともできないし、すべての街をあるくこともできない。
すべての事件に遭遇することもできない。

だから、選択と抽象化はある。

けれどもそうだからこそ、具体を手放さない(力への意志?)
ぼくは万人を代表する言葉を語らず、他人の代理として語らない(ドゥルーズ)

<地図>は白紙である。

そこに滲み出す”線”は血の色のようにも、空と海の色のようにも描かれる(線は必ず錯綜する、真直ぐではない)

けれどもその線はまさに世界へと滲み出しているのだ。



<注>

キリスト教はセックス恐怖症であった。
まさに旧約聖書において”はじめに言葉があり”次にセックスがあり、その次に殺人があるのは、なんと正しい基礎認識(ただしい順番)であろうか。



<追記>

”私は地図のない世界を歩きたかった”(オンダーチェ『イギリス人の患者』)