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Don't Let Me Down
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2008/05/06のBlog
[ 12:51 ] [ 日記 ]
GW中、どこにも行けなくて(ぼくのように)ひがんでいるひと、”ヒメヒカゲ備忘録”でエジプト旅行ができるよ(エジプト料理付き)


さらに、”教育問題”を考えたいひとには、”堀裕嗣ブログ”が現場からの切実なメッセージを発信している。



ツナミン・ブログには<死刑賛成論の構造分析>が出ている。
その”追記”部分を引用する;

【追記】
 しかし、どうしてこのような(2ちゃんねる的な)言論が跋扈するのかという社会的背景を考えるならば、日本社会の持つ特徴と大いに関係がありそうである。歴史学者の故・阿部謹也や刑法学者の佐藤直樹、精神医学者の木村敏らがつとに指摘しているように、日本には西洋流の社会や個人が存在せず、その代わりに存在しているのは、「世間」である。そこにおいては、主体性を持った個人は存在せず、大事なことは「場の空気」を読むことである。「場の空気」に合わない者、「場の空気」を乱す者は、厄介者として排除されることになる。したがって、そこにおいては、何よりも「場の空気」をいち早く読み、「場の空気」と一体化することである。そこでは論理もヘチマもないので、「場の空気」と一体化しさえすれば、もはやいかなる暴論でも許される。というよりも、過激な暴論であればあるほど、「場の空気」によって歓迎されるので、「場の力学」、すなわち集団的過剰同調促進機制によって、ますます過激化が進行することになる。

 BPOによって批判されたマスコミの報道姿勢も、死刑存置論者の多数派感情への居直りとしか言いようのない放埓な感情論も、すべてこうした「世間」の“論理”である「場の力学」にその原因が求められるだろう。
(以上引用)




ツナミンの経歴は知らないが、彼のブログを読んでいれば彼が”法”の領域にかかわってきた人であることがわかる。

死刑制度についても、ぼくの”直情的批判”に対して、彼は法を踏まえた立場から論理展開しているので、参考にしてほしい。

ぼくにとっては、”死刑制度”そのものより、上記の論点(ツナミン追記の)が核心である。

なぜ”われわれ”は、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか。

特に現在の<学校>や<職場>において、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか?

あるいは、現在”リベラル”が言っている”これからの地域社会重視”において、今度は地域社会の空気を読むのであろうか。

あるいはぼくたちの”老後”は、病院や老人ホームやデイサービスといったような空間の空気を読む集団生活のなかで、自分の人生の最後を迎えるのであろうか。

今朝のブログで紹介した市野川『社会』の最初の部分で(すでに)衝撃的だったのは、
西欧において<社会>という”概念”が現れたのは、<個人主義>という概念があらわれたのと同時である、という指摘であった。

この<個人主義>の”運命”にも曲折があることは、知っているひとは知っている。

そしてこの個人主義=社会を”遅く学んだ”われわれは、現在先進国面(づら)して、この”グローバル世界”でイニシアティブさえ取ろうとしてきたのだ。

ぼくが何に憤っているかも、分かるひとにはわかるのだが、分からないひとにはなかなかわからない模様である(笑)




[ 12:18 ] [ 日記 ]
ぼくも(は)あんまり“素朴”なことを言いたくはないんだが(笑)

“考える”ためには“知らなければ”なりません。

先日のブログで、“岩波新書”を読むことを提案しました。
岩波以外の“良い新書”でもいいです(笑)

もうひとつ、最近ぼくが“発見”したシリーズを推薦します。

実はぼくも初めてこのシリーズの1冊を買って読み始めたばかりなんですが(笑)
これまた岩波書店で恐縮ですが、“思考のフロンティア”というシリーズです。

いろんなテーマについて、“若手”が書いているらしい<注>
ぼくがまず買ったのは市野川容孝『社会』で、昨日岡真理『記憶/物語』もアマゾンに注文しました。

この市野川容孝『社会』の“はじめに”と本文を数ページ読んだだけで、ぼくには“目からウロコ”ですね(笑)

もちろんぼくのように“無教養”でない方には、この本に書かれているようなことは“常識”かも知れませんが。

しかしぼくの“偏見”によると、どうもここに書かれているようなことが、現在の日本人の“基本的認識”になっていないように思われます。
(誤解だったら許してね)

世間では“岩波文化人”を嫌う方々も多いようですが(実はぼくにもその傾向があったわけですが)、“世間”がこれだけ右傾化=保守化した現在、“岩波さん”もいい意味で“柔軟(ソフト)”になってきたようにお見受けします。

別に“岩波の本だけがいい”などというつもりは、全然ございません。
“現在の新書”と上記シリーズは、いいのではないか、という意味です。



<注>

このシリーズで扱われているテーマを、いくつか列挙します;

”身体・生命”、”デモクラシー”、”公共性”、”精神分析”、”法”、”暴力”、”正義”、”アイデンティティ・他者性”、”市場”、”原理主義”、”脱構築”、”権力”、”ジェンダー・セクシュアリテ”、”フェミニズム”、”環境”、”教育”、”資本”、”自由”、”難民”など





[ 11:25 ] [ 日記 ]
不信の時、不信の時代。

下記ブログの天声人語は“不信”について述べている。
《不信をこえて「崩信」の時代という》とおっしゃっている。

まずぼくはうかつにも、“崩信”という言葉をはじめて見た。
この《……という》という文章は、いったい“だれが”言っているのであろうか?
だれが“「崩信」の時代”と言っているのであろうか。
つまりテレビがマスメディアが世間が、言っているのであろうか?

つまり天声人語が“はじめて”、《不信をこえて「崩信」の時代という》と言ったとしても、これを読んだ人は“崩信”という言葉が、世間で広く使われていると誤解するのだ。

まず以上の“論点”を理解していただきたい。

さらにここで言われている、現代が“「崩信」の時代”であるという内容を検討する。
この天声人語があげているその根拠は、ホームで電車を待っているとき背後から押されるのではないかという恐怖と吉兆の食べ残し再利用(笑)の話である。

たしかにぼくもホームで不安を感じることもあるし、吉兆はけしからん。

けれどもぼくが感じている“不信”は、こういうものではない。
もっと巨大な不信である(爆)
つまりこの“社会構造”全体に対する不信である。

たとえばぼくは、“マスメディア”批判をしつこく続けているが、マスメディアというのは発信者側の問題のみではありえない。
マスメディアというのは、発信者と受信者の“相互関係”のことである。

“テレビ”をだれも見なかったら、テレビはただ電波を出す箱である。

観客がだれもいないお笑い芸人は、ひとりで笑うのであろうか(笑)

また当然、マスメディアのみに問題があるわけではない。
このブログや掲示板のような“水平的メディア”にも問題は山積しているではないか!
なぜブログは、“電子的井戸端会議”の場でしかないのか。

もちろん“井戸端”が消滅したので、おばさんたちが愚痴を言い合う場も必要なのである。
しかしぼくのように“井戸端会議”がきらいであるという感性も存在する。

つまり井戸端会議の主要な話題は、“近所の”噂話と“ささやかな”意地悪のみであるからである。
あるいは“みんなが明るく、元気になる”話題である(笑)
しかしこういう“話題”についても、それを読めば読むほど元気がなくなるぼくのような“感性”も存在する。

《暗いうちはいい、明るいのは滅びの姿だ》(爆)


さてマスメディア批判をつづける、今日の朝日新聞朝刊広告である。

7面にある《変化の時は来た》という広告は何なんですか?!
マジ、朝日に(他の新聞にも出ているだろうが)公開質問します。
カネをもらえるからって、こういう“偽宗教”の広告を掲載するのは、朝日新聞の“良心”に反してはいないのでしょうか?
ぼくはこの“教団”についてなんの知識もございませんが、この広告に出ている文章を読む“だけで”これがインチキ宗教であることがわかる。
それをわからせるために、朝日新聞はこの広告を掲載しているのでしょうか(笑)

もうひとつ。
2面下の幻冬舎のカラー広告はなんなのさ(笑)
この幻冬舎の社主は売れるならどんな本でも出してしまうという節操のなさで有名ですね。
『沈黙入門』!!
“ぽっぷ仏教”!!!

《もう語らない。怒らない。求めない―余計なことは言わない生き方のすすめ》

たしかにねー(爆)

ぼくが“死体”なら、そういう“生き方”も可能よね。

たしかにぼくが“死体”なら、坊さんのお世話になるかもよ。



ぼくのアドヴァイスはただひとつ。

”自分”にも言っているアドヴァイスは、ただひとつ。

人間であるためには、考えなくちゃいけないよ。



<付録>

”信じること=信頼”について、興味深い記事がアサヒコムに出てます;

<「日本を信頼」7ポイント減少 米国で対日世論調査>2008年05月06日08時59分

 日本は信頼できるパートナーだが、影は薄れがち――。外務省による米国での対日世論調査で、こんな傾向が浮かんだ。日本を「信頼できる」と答えた人は67%で、昨年より7ポイント減少。アジアの最も重要なパートナーに選んだ人も43%で昨年を5ポイント下回り、中国に迫られている。

 米ギャラップ社に委託し、2~3月に18歳以上の1500人に電話で調査した。

 日本を「信頼できない」とした人は18%で過去最低だったが、「意見なし」(15%)が前年より10ポイント増えた。アジアの最重要パートナーとして日本は1位を維持したが、95年の55%以来、減る傾向。2位の中国は昨年に続き、過去最高に並ぶ34%を占めた。3位はロシアの10%だった。

 外務省は「全体としては日米関係への高い評価が維持されている」としている。
(以上引用)


官僚=外務省の”感性”は、すんばらしいね!



[ 09:17 ] [ 日記 ]
今日、天声人語は言う;

《▼いま「信」は細り、不信をこえて「崩信」の時代という。最近の本紙世論調査では「世の中は信用できない人が多い」は64%、「人は自分のことだけ考えている」は67%にのぼっている。悲観したくはない。だが、そんなものさと受け流せる数字では、もうないように思う》




じゃあ天声人語さん、あなたは、どうすればいいと思うんですか?

“あなたは”どうすれば“この不信もしくは崩信”を解消できると“考える”のでしょうか。

信頼されてないのは、マスメディア自体なんです。

“あなた”のようなことを、毎日言っているひとのことなんだ。



2008/05/05のBlog
[ 13:16 ] [ 日記 ]
ゴールデン・ウィークである(笑)
ぼくの生活は普段とぜんぜん変わらないが、このブログを見ているだけで、いつもとちがった“空気”を感じる。

つまり”シラーとした空気”ですな。

今日もニュースや新聞や他の方々のブログを見て、“感じる”ことはある。

“きっこのブログ”は《「人でなし」には「人権」も必要なし》を掲げている。
ぼくはこの超有名ブログをほとんど読んでいなかったのだが、たまたま“光市母子殺害事件”に関するブログを読んでから注目した。

ぼくはそのことに先日のブログでふれて、彼女を“おばさん”と呼んだ。
今日の彼女のブログを読んで、さらに批判の必要を感じる。
けれども、これがやりにくいのは彼女が“引用・転載”を禁止しているからである。
これ自体がおかしい。
ブログにおける文章や写真の“転載”を禁ずるのは、ブログの精神に反する。
こういうことを公然と宣言する“きっこ”さんは、自分の本を買わせようとしているとしか思えない。

また(よく読んでないが)“きっこのブログ”がただの“右翼的バッシング・ブログ”であるなら、ぼくもこだわらない。
しかし彼女は、“反自民、反憲法改定”ブログのはずである。

そのブログが、“死刑制度批判”に関しては、おそるべきバッシングを展開している。
この精神構造こそが問題と思える。

ぼくはレイプにも、レイプ未遂にも、レイプした上での殺害にも、激しい怒りを持つものである。
もしその(レイプ)の潜在的可能性が、“男”であることの“条件”ならば(それを肯定する)、それを“自己批判”する。

けれどもそれを踏まえたうえでの“死刑制度批判”の言説こそが必要である。
“レイプ”が悲惨であること、あらゆる“暴力を被るもの”、“殺されるもの”が悲惨であることへの想像力は必要である。
けれども実際に被害を被ったものと、そうでなくそれを“想像するもの”との間の“みぞ・ずれ”はきっこさんが言うとおり、越えようがないのも事実である。

いいですか、ある個人の“すべての”体験は、けっして“他者”が想像し切れるものでは、ない。

あたりまえではないか。

“だから”、言葉はある。

死刑制度という個別の制度についていうのなら、“だから”、法はある。

けれどもぼくは、“個別の制度”のみにこだわっては、いない。

だから繰り返す;
“だから”、言葉はある。


実は“きっこのブログ”批判以外に、今日朝日新聞“クロストーク”についても書くつもりだったが、急に気力が衰えた(爆)がんばって書こう(笑)

この記事では1965年生れの政治学者苅部直氏が“70歳を越えた”蜷川幸雄氏と“クロス×トーク”している。
その感想で苅部氏は以下のように述べている;
《70歳をこえても好奇心が旺盛でおられるのに、驚嘆してしまう》

こういう発言は、“差別発言”ではないか?(笑)

この対談のなかで蜷川氏は55歳以上の“老人”を公募して立ち上げた“ゴールド・シアター”稽古の時のことを以下のように語っている;
《なぜ、ぼくが念を押さないと「わかった」という表情がでてこないのか。なぜ年をとると全員、仮面のような顔になるのか。みんなで「老いの現在」を計っているところがあります》

“仮面のような顔”で“老いの現在を計る”人々。

差別し、差別されるシステムのなかで、相互に“その存在を計る”ひとびと。

ぼくはこういう演劇の舞台のみでではなく、この日常のなかで、“仮面のような顔”をかなぐり捨てて生きることを望むものである。

“ぼく”のみではなく、“みなさん”が(笑)

老いも若きも。



<追記>

ぼくのこのブログは、すべて文章・映像の無断引用・転載、批判を許可しています(笑)

すべては”タダ”なのであります。

つまりこのブログ世界だけでは、資本主義のルールは無視されます。

”NTT DATA”さんの御協力により!




[ 10:30 ] [ 日記 ]
子供の日である。

この“戦後61年”、子供だったぼくは61歳の“大人”になった(笑)
この“戦後”が、自分の年齢と同じであるという“運命”にぼくはこだわる。
“運命”とは、必然のことよりも、偶然のことであると思えるにしても。

この間、日本“社会”も変質したのである。
テレビが変質し、街の風景が変質し、そこを歩く人々の表情や動作が変質した。

この変質を説明する“言葉”は、さまざまにありえよう。
変化したのは“経済”であったのか、“欲望”であったのか。

“現在”をあらわす、もっとも平凡な言葉は、“消費社会”である。
ぼくたちは、なにかを買っていないと楽しくない、充実感を得られない“人間”となったのである。

この“買う”対象は、“モノ”ばかりではない。
情報、観念、行為、雰囲気、アイドル、趣味、レジャーなどなども、その対象である。

その“社会”にとって、その多数にとって重要なことは、主流であることは、なんの意味もなくても、意味あることなのである。

ある“こと”の意味を問うこと、価値を考えること自体が忘れさられ、“自然”となる。
まさにこの“共同の幻想”が、“現実=リアル”と呼ばれる。
その幻想から逃れようとするものも、もっと極端な趣味=幻想に逃れた。


子供の日。
読売新聞社説は《つたわるよ めとめをあわせてはなしたら》という児童福祉週間標語を引用し《こどもの日 目と目を合わせて話そう》という社説を掲げている。

これを読んでぼくがただちに想起したのは、昨夜真夜中ごろ書いた下記のブログであった。

この『事件の核心』から引用しているとき、ぼくは“子供の日”をまったく意識していなかった。
偶然、そこを読み打たれたので、ただちに引用した。

そこでは、まさに、“大人と子供が”互いの目を見ていた。
むかし自分の子を失って父親になりそこねた初老の男が、(第2次大戦末期に)ドイツ潜水艦に撃沈され漂流して救出された瀕死の子供の死に立ち会っている。

子供は漂流中、すでに両親が死んでいることを知らない。
瀕死の意識の混乱のなかで、たまたま立ち会った男を“父”と誤認し、誤認された男は、父を演じることで子供の死を安らかにしようとした。

ここにおいて、まったくの他人、“偽の父子”が、互いの目と目を見つめ合う瞬間が描かれた。

これは“ブンガク”であった。

ぼくたちは、ブンガクの世界に生きていない、もっと“散文的”な世界に生きていると、“リアルに”語るべきか。

散文的なこの世界においては、ひとの命は軽い。
いや“ひとの命”が軽いのではなく、日常のあらゆる“意味”が軽いのである。
“些細なこと”の意味が軽いのである。

あるいは人間にかかわるすべての“こと”に、些細であることと、大袈裟であることの区別などないのだ、と思える。

ぼくたちは、たぶん、文学と社会学(社会についての学)を同時に必要としている。




2008/05/04のBlog
[ 23:38 ] [ 日記 ]
引用:グレアム・グリーン『事件の核心』(ハヤカワepi文庫2005、オリジナル1948)

★ 子供に目をやると、その頭に聖体拝領用の白いヴェールがかけられているのが見えた。それは蚊帳にあたる光のいたずらと彼の心が生んだ錯覚だった。彼は両手に顔を埋め、見まいとした。彼自身の子供が死んだとき彼はアフリカにいた。彼はその場に立ちあわずにすんだことをつねに神に感謝していた。だが人は結局なにごとも避け通すことはできないようだった。人間であるためにはそのにがい杯を飲みほさねばならなかった。かりに一度目は運よく避け、二度目は臆病に逃げおおせたとしても、三度目には眼前に突きつけられるのだ。

★ 彼はまた祈った、「天なる父よ、この子を守りたまえ。この子に平安を与えたまえ」呼吸が乱れ、詰まり、やっとのことでふたたびはじまった。指のあいだから彼は六歳の子の顔が力仕事をする土方の顔のようにけいれんするのを見ることができた。「父よ」と彼は祈った、「この子に平安を与えたまえ。私の平安を永遠に奪いたまおうとも、この子に平安を与えたまえ」彼の手に汗が吹き出した。「父よ……」

★ 彼は小さなかすれた声が「お父さん」とくり返すのを聞いた、顔をあげると青い血走った目が彼を見つめているのが見えた。彼は恐怖におびえながら思った、おれが立ちあわずにすんだと思っていたものはこれなのだ。彼はボールズ夫人を呼びたかった、ただ呼ぶ声が出なかった。彼はその重いことばをもう一度くり返そうとして子供の胸があえいでいるのを見た、彼はベッドに近寄って言った、「そうだよ、おまえ。話してはいけない。私はここにいるよ」終夜灯が彼の握り拳の影をシーツに投げかけ、それが子供の目を捕らえた。笑おうとする努力でその子の顔はけいれんした、彼は手を引っこめた。「眠りなさい、おまえ」と彼は言った、「眠いだろう。お眠り」そっと埋めておいた記憶がよみがえってきた、彼はハンカチをとり出すと兎の頭の影がその子の枕に落ちるようにした。「ほら、おまえの兎さんだよ」と彼は言った、「いっしょに眠ってくれるからね。おまえが眠るまで兎さんもここにいるよ。お眠り」汗が彼の顔を流れ落ちて口に入った、それは涙のように塩からい味がした。「お眠り」彼は兎の耳をピクピク、ピクピク動かした。そのときボールズ夫人の声が彼のすぐうしろから低く聞えてきた。「もうおよしなさい」と彼女はきびしく言った、「その子は死んだのです」




[ 14:32 ] [ 日記 ]
木村拓哉総理大臣。

木村拓哉総理大臣は今日の朝日新聞be on Sundayで、のたまう;

《国を考える“回路”できた》(爆)

まさにここでぼくらは、“爆笑”すべきである。

“爆笑問題”だけにまかせておけないネタ(問題)なのである。

いかなる“回路”ができたのであろうか;
この記事は言う;
《治療法がなく、難病指定されない病気に苦しむ患者を取上げた番組を見て、「国って何なんだろうと考えるようになりました」。不思議であり興味を抱けるテーマでもあるという》

“キムタクって、こういうことに気がついて、立派だわぁー”
と感心すべきだろうか、この若き総理大臣の“感性”に。

ぼくはそうは、思わない、35にもなってこんなことを言っている(言っていられる)のは“芸能人”とはいえ“うかつ”である。

一体全体、こういう発言に“共感する”(あるいは“あがめたてまつる”)フツーの人々の感性とは、何なんであろうか?

キムタクが自分と“同じくらい愚か”なことに共感するのか。
しかし、キムタクは“あなた”とはまったく共通点のない境遇にあり、だいいち、あなたとは“稼ぎ”がちがう。

ぼくは、なんどもこのブログで言っているように“ひとを顔で判断する”。
だから、当然、間違うこともある。
けれどもぼくは自分の“論理”より“感性”を信じる。

今日のこの記事の写真にも見られるキムタクの顔は、ダメである(笑)
ぼくは“美男”をやっかんでいるのではない、もはや、そういう競争心を抱けない年齢である(笑)

ぼくはこの“顔”に、“幼い偏狭さ”しか見ることができない。
たしかにこの“幼い偏狭さ”というのが、“現在の若者の顔”のおおきな傾向である。
だから、この顔が好きなひとが多いのだと思う(好きなひとが、おばさんだろうと、ばあちゃんだろうと、おとーさんだろうと)

ここで、ぼくは今までに“言ったことがないこと”(このブログでも、他の場所でも)を言ってしまいたくなる。

この総理大臣の“顔”を見ていると言いたくなる。

ここで“総理大臣発言”を繰り返す;
《治療法がなく、難病指定されない病気に苦しむ患者を取上げた番組を見て、「国って何なんだろうと考えるようになりました」。不思議であり興味を抱けるテーマでもあるという》


ぼくは“難病のひと”と30年以上暮らした、”総理大臣“にもそういう体験をした上で発言したり、”演技したり“していただきたい。

<体験>が無理なら、<想像>していただきたい(爆)




[ 13:35 ] [ 日記 ]
今日の天声人語については、一言(笑)

冒頭を引用する;
《そういえば、野菜や果物の花をどれほど知っているだろう。『キャベツにだって花が咲く』(光文社新書)を読んで指を折った。静岡県農林技術研究所の専門家、稲垣栄洋(ひでひろ)さんが野菜の不思議を説いた近刊だ》

ぼくは“ひと”がどんな本を読もうと、いちいち文句をつける気はない(笑)

ましてや、この『キャベツにだって花が咲く』という新書が悪い本だとは思わない(読んでないし)

しかし(笑)天声人語氏はどうしてこういう“人畜無害”な本ばかりを話題にするのか。
そこに“意図”はないのだろうか。

たとえば“新書”でいえば、ぼくは新宿紀伊国屋書店の“新書売上げトップ10”がガラスケースに並べられているのを、見ている。
“売上げ”の良い本が、良い本であるとも限らない。

しかし“売上げ”があるトレンド(世間の関心)を示していることも事実である。
つい先日のこの“新書売上げトップ10”には、このブログで扱った大澤真幸『不可能性の時代』が5位に入っていた。
これはぼくには意外であった、新書とはいえ、かなり高度な内容だからだ。

しかもこの“新書売上げトップ10”には、岩波新書新刊の『反貧困』、『高度成長-シリーズ日本近現代史』も入っている。
今年に入って『ルポ貧困大国アメリカ』がロングセラーになっている。

ぼくは岩波書店および岩波新書を“贔屓にしている”のではない。
どちらかといえば、学生の時から“岩波の本”は苦手としていたし、現在でもその“傾向”には批判もある(それは、内容ばかりでなく装丁などの“センス”、すぐ在庫切れになること、“文庫”にもっと早く入れるべきものを入れないことなど)

けれども“リニューアル”以来の“岩波新書”は、いい<注>
もはやテレビ・新聞・ネットではこの日本の状況も、世界情勢もわからなくなってきている現在、岩波新書的なもの(ほかの新書でもいい)は必須である。

しかしみなさん御存知の通り、現在、毎月、あらゆる出版社から、あらゆるテーマの新書が刊行されている。

まさに“玉石混交”、もっとひどい言葉を使えば“味噌も糞もごっちゃになっている”。

だいいち、“新書”で扱う必要もない“漫談”のようなテーマと文体=言説の“新書”も多い。
だから、どの新書を買うか・読むかが問題である。

天声人語氏の選択(新書に限らない”教養”)は、ここにおいても、ずれまくっている(笑)



<注>

最近の岩波新書には、“現在に密着しよう”(アクチュアルなテーマを選ぼう、アクチュアルに考えよう)という意欲が見られる。

この“意欲”こそ、現在全マスメディア(出版社を含む)が失っているものである。

この“状況”のなかで、ぼくたちが自分自身を“叱咤激励”しなければ、維持できない、手放しつつ(あきらめつつ)ある態度=姿勢である。







[ 12:43 ] [ 日記 ]
ぼくがこのブログを書いていていつも思う矛盾は、自分があまり関心がないことばかり書いてしまうという矛盾である(笑)

なぜか?
たとえばニュース・ネタを取上げるのは、それが(一応)“読者”にも共有されているので、“前提”を説明しなくていいからである(楽チンである)

“天声人語”について書くのは、朝日新聞の読者がそれなりにいること、あるいは朝日新聞を購読していなくても皆が“天声人語”を知っていること、さらに今ではネットで誰もが“天声人語”を読めるからである。

これが“グレアム・グリーン”(誰でもいいが)となると、だれもがこのひとを“知っている”のかは不明である(“キムタク”ならその心配はない!)

この名前を、なんとなく聞いたことがあるひとでも、“カトリック作家?イギリスの”といった具合であれば、“カトリック作家”というのはどういう作家なのであろうか。
あるいは“スパイ小説の?”というひともいるかも知れない。
もっと詳しいひとは、“本人もスパイだったのよね”と言うかもしれない(笑)

以上は“前置き”である(笑;先が長い、どうしよう)

ぼくは昨日テレビで見た“映画”の話をしようと思う。
しかもこの映画は全体として、たいして“いい映画”とは思えない。
けれどもこの映画について書く気になったのは、“人を殺す”ということについて“考える”手掛かりがあったからである。

このブログに即していえば、このブログの最近の“ひとつのモチーフ”は、<死刑制度>だったからである。
この映画のタイトルは『悪魔の呼ぶ海へ』(2000)という。
それで困るのは、この話をするためには、この映画の“筋”を説明しなければならないことである、これが面倒なのである。

なるべく簡潔に書く;
★ 19世紀の末に、アメリカの僻地の島(大きな島でなく小さな島がいくつかある)で女性二人が殺された。
★ その夜事件があったその島の1軒の家には、3人の女性がいた。生き残った女性は結婚してノールウェイからこの島にやってきた移民である。殺された二人のうち一人は彼女の姉であり、もう一人は当時その島を訪問中の彼女の兄の妻である。
(この夜、生き残った女性の夫と彼女の兄は、夫の仕事の関係で不在であった)
★ 生き残った女性(彼女をこの映画の主人公とすべきだろう)の証言で、犯人は彼女の家に前に“居候”していた男とされ、裁判後この男は“処刑”された。

以上は“過去”の話である、映画における“現在”では、この事件に関心を持った女性カメラマンとその夫(ショーン・ペン!=1作だけ大成功の詩集を出して書けなくなった“詩人”である;笑)が、この事件のあった島に行くため詩人の弟のヨットに乗り組みこの島へ行く。なぜかこのヨットには弟の色っぽいガールフレンドも乗っていて、“詩人”にセックスアピールを展開するというようなスリルもある。

この“説明”で状況がわかっていただけたでしょうか?(笑)

要するに(笑)犯人は生き残った女性であり、彼女は無実の男をおとし入れたことを反省し、裁判後に自分が犯人であるという手紙を検事宛に出したのだが、男は縛り首にされてしまった。
(この“居候男”は事件の前に、この女主人公を誘惑し(失敗!)、彼女の兄の妻をレイプしたらしい)

さてこのブログで言いたいことの核心は、彼女がなぜ二人の女性(姉と夫の妻)を殺したのかということである(はずである)。

それほど“あっと驚くような理由”があるわけではない。
けれども、“それが問題”なのである。

彼女自身が“告白状”で自分の“殺人”に驚いているのだ。
自分が人間二人までを、一夜で殺してしまった、“怒りの力”にである。

もっと詳しく書くべきであろうが、(予想通り)説明だけで疲れた。

ただし、以上の記述は(とりあえず)“死刑制度”を認めるか認めないかの“論拠”を提出することを意図してはいない。

ただぼくはこの全体的にはパッとしない映画で、この女主人公の“怒りの力”にのみ感銘をうけた、だがこの“力”を無前提に肯定するのではない。

なによりもこのヒロインを演じた女優(ノールウェイ系なのか白人としても色白で、少女のように華奢だが、黙々とあらゆる家事労働をこなす)はこの映画で唯一見るべきものであった。



<追記>

さきほど、レーザー角膜手術を昨日敢行した不破利晴君が訪問している。

手術は成功であったと思われる、芽出度い!