Blog
2008/05/08のBlog
[ 11:17 ]
[ 日記 ]
下記ブログでぼくが“考え抜かれた言説は、ストレートで率直であるのだ”と書いた根拠は、ぼくがこれまでの生涯で読んだ(聞いた)言説のうち、ぼくに“意味あるもの”である言説の具体性において言っているのだ。
その言説は“文学の言葉”でも、“思想の言葉”でも、どっかのおっさんの言葉でもよかった。
“言葉”でない、“風景”でも、その日の雲の流れや陽射しでもよかった。
もちろん“映画”の1シーン、1枚の写真、音楽のあるフレーズ、リズム、あるひとの一瞬の表情でもよかった。
ぼくはこの<具体性>を、よく日常口にされる“あなたの言っていることは現実的ではない”という場合の“現実的(現実性)>にこそ対比したい。
この場合の<現実性>とは、徹頭徹尾“いまあることしかわからない”という、近視眼的、短絡的、現状維持的、無思考的な<感受性=認識>のことなのだ。
こういう<立場>のひとには、<倫理>がない。
まさに<倫理>とは定義不可能のものと思われている。
しかしぼくに言わせれば、上記のような<現実性>に居座るものには“倫理がない”と言うことによって、<倫理>は定義可能である。
いいですか、すくなくとも<倫理>は、抹香臭い<お説教>のことではない。
結局、“自由に生きるな”(だれかの規則にしたがって生きろ)とか、“死んだふりをして生きろ”と言うことでは、ない。
たとえば、<現在>の世界において問われている<倫理>は、“テロとの戦争”という事態に、自分はどういう認識を持ち、それにもとづく“立場”を取るかという<選択>である。
ただちに<選択>できなくてもいいが、その選択をおこなうために“考える”ことは万人の<義務>である。
なぜ“テロとの戦争”という問題が、こういう倫理基準を問う“問題”であるかを、<説明>する必要があるだろうか?
あなたが、ぼくにそれを“問う”なら、ぼくは、ぼくなりの仕方で100通りの“説明”をすることは、できる。
しかしそれ自体を考えていただきたい。
ぼくがその<本質>と考えることだけを述べておく;
復讐の連鎖は、全体的壊滅にいたる。
以上である。
きわめてシンプルです。
ある特定の<個人>であっても、ある特定の<集団>であっても、ある特定の<国家>であっても、ある特定の<民族>であっても、ある特定の<宗教>であっても、相手を殲滅するまで、憎んではならない。
たしかに<対話>(コミュニケーション)は楽観不能である。
<だから、言葉はある>(笑)
ぼくは“最悪を予言する”預言者たちを信用しない、という感性はわかる。
しかし現在世界が向かっているのは(とくにぼくが住んでいる国が向かっている)のは、<最悪の事態>だと感じている。
それは<全体的壊滅>である。
もし<世界>や<日本国>という“形”が残ろうとも(それさえおぼつかないが)、それはまったくの形骸であろう。
端的に“人間の消滅”である。
それは“現在進行している事態”である。
たとえば、ぼくたちは“反戦・非戦”といい、“憲法改定(特に9条)反対”という。
けれども、そこにおいてぼくたちは(あるいは“9条の会”は)いかなる<提言>をしているのか?
ぼくは大澤真幸が『逆接の民主主義』において行なった二つの提言を支持する。
その<具体性>において。
この提言とは以下の二つである;
① 北朝鮮を民主化する―そのために“日本国”はあらゆる“援助”を行なう
② 自衛隊を解体する―そのために“日本国”は“贈与”の理念による“平和部隊”を編成、あらゆる戦地に派遣する
この提言およびその“理念”と“方法の具体性”においては、『逆接の民主主義』を直接参照してほしい(ぼく自身、まだこの本を途中までしか読んでないので、また取上げるかもしれないが)
この大澤氏の提案全体に対しての批判や異論は当然あっていい。
またこの大澤氏の提案の趣旨に賛同しても、それらの実行の具体性についても、色々な提言があっていい。
けれども、ぼくはこういう提案を、現実的でないと一笑に付す人々をこそ軽蔑する。
ぼく自身、かつてこのブログでこう書かなかったであろうか。
<日本国憲法の理念を、あらゆる機会を捉えて世界に発信せよ>
現憲法は“護られる”ものではない。
世界に示すべき理念である。
それは<テロとの戦争>のこの時代にこそ、そのリアルな輝きを増してきているのだ。
また日本国憲法の理念は、9条の戦争放棄のみにあるのではない。
それは、“すべての”人々が平和に生きる世界を希求している。
まちがえてはならない、“すべてのひとびと”がである。
また日本国憲法は、“完璧”ではない。
しかし完璧な法などというものが、いったいどんな“人間”によって作成可能なのか。
ぼくたちは<完璧な法>に従って生きるのではない。
その法の指針を参照しながら、自らの生き方を、他者とともに手さぐりして生きる。
そういう態度のみが<倫理的>なのではないか。
そのためには<知識>も<論理=サイエンス>も必要である。
しかしなによりも貴重なのは、名づけることができない、ある生き方の姿勢なのだ。
その言説は“文学の言葉”でも、“思想の言葉”でも、どっかのおっさんの言葉でもよかった。
“言葉”でない、“風景”でも、その日の雲の流れや陽射しでもよかった。
もちろん“映画”の1シーン、1枚の写真、音楽のあるフレーズ、リズム、あるひとの一瞬の表情でもよかった。
ぼくはこの<具体性>を、よく日常口にされる“あなたの言っていることは現実的ではない”という場合の“現実的(現実性)>にこそ対比したい。
この場合の<現実性>とは、徹頭徹尾“いまあることしかわからない”という、近視眼的、短絡的、現状維持的、無思考的な<感受性=認識>のことなのだ。
こういう<立場>のひとには、<倫理>がない。
まさに<倫理>とは定義不可能のものと思われている。
しかしぼくに言わせれば、上記のような<現実性>に居座るものには“倫理がない”と言うことによって、<倫理>は定義可能である。
いいですか、すくなくとも<倫理>は、抹香臭い<お説教>のことではない。
結局、“自由に生きるな”(だれかの規則にしたがって生きろ)とか、“死んだふりをして生きろ”と言うことでは、ない。
たとえば、<現在>の世界において問われている<倫理>は、“テロとの戦争”という事態に、自分はどういう認識を持ち、それにもとづく“立場”を取るかという<選択>である。
ただちに<選択>できなくてもいいが、その選択をおこなうために“考える”ことは万人の<義務>である。
なぜ“テロとの戦争”という問題が、こういう倫理基準を問う“問題”であるかを、<説明>する必要があるだろうか?
あなたが、ぼくにそれを“問う”なら、ぼくは、ぼくなりの仕方で100通りの“説明”をすることは、できる。
しかしそれ自体を考えていただきたい。
ぼくがその<本質>と考えることだけを述べておく;
復讐の連鎖は、全体的壊滅にいたる。
以上である。
きわめてシンプルです。
ある特定の<個人>であっても、ある特定の<集団>であっても、ある特定の<国家>であっても、ある特定の<民族>であっても、ある特定の<宗教>であっても、相手を殲滅するまで、憎んではならない。
たしかに<対話>(コミュニケーション)は楽観不能である。
<だから、言葉はある>(笑)
ぼくは“最悪を予言する”預言者たちを信用しない、という感性はわかる。
しかし現在世界が向かっているのは(とくにぼくが住んでいる国が向かっている)のは、<最悪の事態>だと感じている。
それは<全体的壊滅>である。
もし<世界>や<日本国>という“形”が残ろうとも(それさえおぼつかないが)、それはまったくの形骸であろう。
端的に“人間の消滅”である。
それは“現在進行している事態”である。
たとえば、ぼくたちは“反戦・非戦”といい、“憲法改定(特に9条)反対”という。
けれども、そこにおいてぼくたちは(あるいは“9条の会”は)いかなる<提言>をしているのか?
ぼくは大澤真幸が『逆接の民主主義』において行なった二つの提言を支持する。
その<具体性>において。
この提言とは以下の二つである;
① 北朝鮮を民主化する―そのために“日本国”はあらゆる“援助”を行なう
② 自衛隊を解体する―そのために“日本国”は“贈与”の理念による“平和部隊”を編成、あらゆる戦地に派遣する
この提言およびその“理念”と“方法の具体性”においては、『逆接の民主主義』を直接参照してほしい(ぼく自身、まだこの本を途中までしか読んでないので、また取上げるかもしれないが)
この大澤氏の提案全体に対しての批判や異論は当然あっていい。
またこの大澤氏の提案の趣旨に賛同しても、それらの実行の具体性についても、色々な提言があっていい。
けれども、ぼくはこういう提案を、現実的でないと一笑に付す人々をこそ軽蔑する。
ぼく自身、かつてこのブログでこう書かなかったであろうか。
<日本国憲法の理念を、あらゆる機会を捉えて世界に発信せよ>
現憲法は“護られる”ものではない。
世界に示すべき理念である。
それは<テロとの戦争>のこの時代にこそ、そのリアルな輝きを増してきているのだ。
また日本国憲法の理念は、9条の戦争放棄のみにあるのではない。
それは、“すべての”人々が平和に生きる世界を希求している。
まちがえてはならない、“すべてのひとびと”がである。
また日本国憲法は、“完璧”ではない。
しかし完璧な法などというものが、いったいどんな“人間”によって作成可能なのか。
ぼくたちは<完璧な法>に従って生きるのではない。
その法の指針を参照しながら、自らの生き方を、他者とともに手さぐりして生きる。
そういう態度のみが<倫理的>なのではないか。
そのためには<知識>も<論理=サイエンス>も必要である。
しかしなによりも貴重なのは、名づけることができない、ある生き方の姿勢なのだ。
[ 08:54 ]
[ 日記 ]
この世界は、複雑でもあるが、単純でもある。
だからぼくたちは、複雑な事を考えることの根気を失うべきではない。
けれども“単純な真実”に対する“感覚”も失うべきではない。
ぼくは現在のマスメディアのほぼあらゆる“言説”が不快である。
なぜかれらは単純な事実を語らないのか。
なぜ彼らは、最低の“レトリック”で読者をあざむくことばかりに“労力”を使っているのか。
もっと“率直に(ストレート)に語る”ことはできないのか。
ぼくが“毎日”天声人語の“ような”言説に感じる不快感である。
それは確かに“利害”への配慮であり、それを“言説の公平性”に見せかけているのだ。
いま“ストレートに語るべきこと”は無数にある。
たとえば昨日の天木直人ブログは、パチンコ業界と警察OBの天下り癒着を追及した『紙の爆弾』という雑誌について以下のように書いている;
《およそ天下りはどの官庁のそれも醜悪なのであるが、警察官僚の天下りは、国家権力の悪用と直結しているだけに最も醜悪である。
それを正面から追及したばかりに、鹿砦社の松岡利康社長は名誉毀損で逮捕され、懲役1年2ヶ月、執行猶予4年の刑を受けた。
マスコミ人が名誉毀損で逮捕され、192日間も拘留されるなどということは前代未聞であるのに、大手マスコミは、松岡社長が「暴露本」出版社の社長であるといわんばかりに、松岡社長逮捕を無視した。だから、この事件は世の中に広く知られることはない。》
ぼくは『紙の爆弾』という雑誌を読んだことがないし、この雑誌の発行者が拘留されたことも知らなかった。
しかし、ぼくにもこのブログで天木氏が以下のように書いていることは、“よくわかる”。
《「朝すばっ!」の司会者であるみのもんたの一日のギャラが800万円であると、芸能レポーターの梨本勝が話している。
そういう人間に反権力の報道ができるのか。そこに群がる解説者たちが弱者の立場に身を置く事が出来るのか。》
ここには、“あまりにもシンプルな事実”がある。
ぼくには“みのもんたのような人間”も、“彼の言説を聞いていられる人間”もまったく信用できない。
“みのもんたのような人間”とは、現在のほぼすべてのテレビ人間のことではないか。
かれらを“ジャーナリスト”と呼ぶのである。
ぼくは“人間がなにかを言うときは”ストレートであるべきだと思う。
考え抜かれた言説は、ストレートで率直であるのだ。
だから“言い訳の言説”とともに“ストレートさを装った言説”を憎む。
だからぼくたちは、複雑な事を考えることの根気を失うべきではない。
けれども“単純な真実”に対する“感覚”も失うべきではない。
ぼくは現在のマスメディアのほぼあらゆる“言説”が不快である。
なぜかれらは単純な事実を語らないのか。
なぜ彼らは、最低の“レトリック”で読者をあざむくことばかりに“労力”を使っているのか。
もっと“率直に(ストレート)に語る”ことはできないのか。
ぼくが“毎日”天声人語の“ような”言説に感じる不快感である。
それは確かに“利害”への配慮であり、それを“言説の公平性”に見せかけているのだ。
いま“ストレートに語るべきこと”は無数にある。
たとえば昨日の天木直人ブログは、パチンコ業界と警察OBの天下り癒着を追及した『紙の爆弾』という雑誌について以下のように書いている;
《およそ天下りはどの官庁のそれも醜悪なのであるが、警察官僚の天下りは、国家権力の悪用と直結しているだけに最も醜悪である。
それを正面から追及したばかりに、鹿砦社の松岡利康社長は名誉毀損で逮捕され、懲役1年2ヶ月、執行猶予4年の刑を受けた。
マスコミ人が名誉毀損で逮捕され、192日間も拘留されるなどということは前代未聞であるのに、大手マスコミは、松岡社長が「暴露本」出版社の社長であるといわんばかりに、松岡社長逮捕を無視した。だから、この事件は世の中に広く知られることはない。》
ぼくは『紙の爆弾』という雑誌を読んだことがないし、この雑誌の発行者が拘留されたことも知らなかった。
しかし、ぼくにもこのブログで天木氏が以下のように書いていることは、“よくわかる”。
《「朝すばっ!」の司会者であるみのもんたの一日のギャラが800万円であると、芸能レポーターの梨本勝が話している。
そういう人間に反権力の報道ができるのか。そこに群がる解説者たちが弱者の立場に身を置く事が出来るのか。》
ここには、“あまりにもシンプルな事実”がある。
ぼくには“みのもんたのような人間”も、“彼の言説を聞いていられる人間”もまったく信用できない。
“みのもんたのような人間”とは、現在のほぼすべてのテレビ人間のことではないか。
かれらを“ジャーナリスト”と呼ぶのである。
ぼくは“人間がなにかを言うときは”ストレートであるべきだと思う。
考え抜かれた言説は、ストレートで率直であるのだ。
だから“言い訳の言説”とともに“ストレートさを装った言説”を憎む。
2008/05/07のBlog
[ 21:07 ]
[ 日記 ]
今日は仕事だったのでこのブログは、今日になったミッドナイトに書いた1本だけなのに、アクセス数は現在時点で昨日を上回る。
ジジェクのおかげであろうか(笑)
まったくドブログ読者のレベルは高いのである(爆)
ジジェク新刊が河出文庫より出ました;『ロベスピエール/毛沢東』という。
関係ないが、きょうも仕事帰りに”チンタオ・ビール”小瓶を飲みました、暑かったね。
もう、寝ます。
ジジェクのおかげであろうか(笑)
まったくドブログ読者のレベルは高いのである(爆)
ジジェク新刊が河出文庫より出ました;『ロベスピエール/毛沢東』という。
関係ないが、きょうも仕事帰りに”チンタオ・ビール”小瓶を飲みました、暑かったね。
もう、寝ます。
[ 01:00 ]
[ 日記 ]
スラヴォイ・ジジェクは語る;
★ もちろん観念論的な用語を使ってこの謎を説明するのは簡単です。意識は進化論的な用語では説明できない、それゆえ精神主義的な局面が必要である、と。しかし、精神分析によって私たちはもう一つ別のパースペクティヴを定式化できるのではないかと思います。ここ最近わたしが関心を抱いていることですが、厳密に進化論的見地から、意識とは錯誤―進化の機能不全―のようなものである、そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ、という矛盾する考え方です。
★ 意識とは本来「何かが間違っている」という瞬間、あるいはラカンの用語を使えば、<現実界>の経験、不可能な極限の経験と結びついています。本来の自覚はある失敗や死すべき運命―生物学的な織物のなかの暗礁のようなもの―という体験によって推進されています。そして人間性、哲学的内省、進歩などと関係する、あらゆる形而上学的な局面は、この根本的なトラウマ的裂け目ゆえに、最終的に出現するのです。
★ 認知主義のなかで、私たちは機能不全というパラドクスと遭遇しています。つまり、自覚や人間の心が、ある非経済的な身振り、なんらかの失敗を前提としているということです。ですから、認知主義的な進化論という点からは説明できない、ある根本的な機能不全の形勢に出くわしてしまうのです。
★ さて、言うまでもなくこの苦境を覆す解決策は、ドイツ観念論と精神分析には、この機能不全に対する特定の用語があるということです。すなわちドイツ観念論では、それは絶対的で自己関係的な否定性であり、精神分析においては死の欲動でしょう。これこそが私が一般的に行なっていることの核心にあるものです。
★ ですから私にとって重要な点は、理性の過剰が理性そのものに内在しているということなのです。理性は理性そのものから発した何ものかと対峙しているのではなく、むしろ理性が対峙しているのは他ならぬ、自らの構成的狂気なのです。これは私たちに死の欲動を想起させますが、なぜならこの死の欲動というのが、まさに理性のこの構成的狂気のための名だからでしょう。
★ すでにドイツ観念論で私がかなり関心をもっていたのは、否定性(死の欲動)とともに、自然でも文化でもなく、その中間に位置するものがあるという観念です。私たちは自然から文化へとじかに経過してしまうことはできません。自然において何かがひどく間違った方向に向かっているのです。つまり、自然が不自然な怪物を生み出し、またこの怪物的なものに対処し、それを飼いならすためにこそ、わたしたちは象徴化を行なっているのだということです。
★ この根源となる次元、この超越論的な条件、これこそが私の興味を惹きつけているのです。なぜでしょうか。言うまでもなく、この次元がいつもここにあるからです。その次元が以前に生じ、そして今私たちが真理の領域のなかにいるという意味で、それが根源的であるということではありません。そう、言わばそれは、爆発しそうになりながら、つねに私たちを支えている次元なのです。
<以上『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社2005)より引用>
<感想>
これは“感想”であって、“解説”では、ありません(笑)
つまり、上記の文章(発言)を読んで、“あなた”はなにを理解するでしょうか。
つまり、こういう文章を読んで、ぼくが“すべてを”理解するわけではありません。
この“引用”はダイジェストですし、この“部分”は長いインタビューの1部にすぎません。
ほんとうは“全文”が読まれるべきであり、さらにジジェクの他の著書や、“ドイツ観念論”(カントとかヘーゲル)やフロイト-ラカン理論の理解も必要です。
けれどもぼくがこういう乱暴な“引用”をしていることにも根拠はあると思う。
ひとは“すべてを読む”ことはできないからです。
こういう“引用”をぼくがしているのは、まず自分のための“備忘録”としてです。
しかし、こういう引用で、このブログを読んでいる方々(つまりジジェクもラカンも知らない方)に、いきなりこういう文章に出会って欲しいというのもぼくの望み(野心)です。
ぼくがこの引用個所を選んだのは、最後の《そう、言わばそれは、爆発しそうになりながら、つねに私たちを支えている次元なのです》という“言葉”だったかもしれない。
あるいは途中で出てくる《それを飼いならすためにこそ、わたしたちは象徴化を行なっている》だったかも知れない。
最初の《そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ》という言葉がきっかけだったのは確かです。
ぼくはこれらの言葉と、ジジェクの“思想”を理解できているのではありません。
ただここでの“象徴化”というような言葉を、勝手に先日このブログに書いた《だから、言葉はある》に勝手に結びつけて“共感”したいのです。
おやすみなさい。
★ もちろん観念論的な用語を使ってこの謎を説明するのは簡単です。意識は進化論的な用語では説明できない、それゆえ精神主義的な局面が必要である、と。しかし、精神分析によって私たちはもう一つ別のパースペクティヴを定式化できるのではないかと思います。ここ最近わたしが関心を抱いていることですが、厳密に進化論的見地から、意識とは錯誤―進化の機能不全―のようなものである、そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ、という矛盾する考え方です。
★ 意識とは本来「何かが間違っている」という瞬間、あるいはラカンの用語を使えば、<現実界>の経験、不可能な極限の経験と結びついています。本来の自覚はある失敗や死すべき運命―生物学的な織物のなかの暗礁のようなもの―という体験によって推進されています。そして人間性、哲学的内省、進歩などと関係する、あらゆる形而上学的な局面は、この根本的なトラウマ的裂け目ゆえに、最終的に出現するのです。
★ 認知主義のなかで、私たちは機能不全というパラドクスと遭遇しています。つまり、自覚や人間の心が、ある非経済的な身振り、なんらかの失敗を前提としているということです。ですから、認知主義的な進化論という点からは説明できない、ある根本的な機能不全の形勢に出くわしてしまうのです。
★ さて、言うまでもなくこの苦境を覆す解決策は、ドイツ観念論と精神分析には、この機能不全に対する特定の用語があるということです。すなわちドイツ観念論では、それは絶対的で自己関係的な否定性であり、精神分析においては死の欲動でしょう。これこそが私が一般的に行なっていることの核心にあるものです。
★ ですから私にとって重要な点は、理性の過剰が理性そのものに内在しているということなのです。理性は理性そのものから発した何ものかと対峙しているのではなく、むしろ理性が対峙しているのは他ならぬ、自らの構成的狂気なのです。これは私たちに死の欲動を想起させますが、なぜならこの死の欲動というのが、まさに理性のこの構成的狂気のための名だからでしょう。
★ すでにドイツ観念論で私がかなり関心をもっていたのは、否定性(死の欲動)とともに、自然でも文化でもなく、その中間に位置するものがあるという観念です。私たちは自然から文化へとじかに経過してしまうことはできません。自然において何かがひどく間違った方向に向かっているのです。つまり、自然が不自然な怪物を生み出し、またこの怪物的なものに対処し、それを飼いならすためにこそ、わたしたちは象徴化を行なっているのだということです。
★ この根源となる次元、この超越論的な条件、これこそが私の興味を惹きつけているのです。なぜでしょうか。言うまでもなく、この次元がいつもここにあるからです。その次元が以前に生じ、そして今私たちが真理の領域のなかにいるという意味で、それが根源的であるということではありません。そう、言わばそれは、爆発しそうになりながら、つねに私たちを支えている次元なのです。
<以上『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社2005)より引用>
<感想>
これは“感想”であって、“解説”では、ありません(笑)
つまり、上記の文章(発言)を読んで、“あなた”はなにを理解するでしょうか。
つまり、こういう文章を読んで、ぼくが“すべてを”理解するわけではありません。
この“引用”はダイジェストですし、この“部分”は長いインタビューの1部にすぎません。
ほんとうは“全文”が読まれるべきであり、さらにジジェクの他の著書や、“ドイツ観念論”(カントとかヘーゲル)やフロイト-ラカン理論の理解も必要です。
けれどもぼくがこういう乱暴な“引用”をしていることにも根拠はあると思う。
ひとは“すべてを読む”ことはできないからです。
こういう“引用”をぼくがしているのは、まず自分のための“備忘録”としてです。
しかし、こういう引用で、このブログを読んでいる方々(つまりジジェクもラカンも知らない方)に、いきなりこういう文章に出会って欲しいというのもぼくの望み(野心)です。
ぼくがこの引用個所を選んだのは、最後の《そう、言わばそれは、爆発しそうになりながら、つねに私たちを支えている次元なのです》という“言葉”だったかもしれない。
あるいは途中で出てくる《それを飼いならすためにこそ、わたしたちは象徴化を行なっている》だったかも知れない。
最初の《そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ》という言葉がきっかけだったのは確かです。
ぼくはこれらの言葉と、ジジェクの“思想”を理解できているのではありません。
ただここでの“象徴化”というような言葉を、勝手に先日このブログに書いた《だから、言葉はある》に勝手に結びつけて“共感”したいのです。
おやすみなさい。
2008/05/06のBlog
[ 12:51 ]
[ 日記 ]
GW中、どこにも行けなくて(ぼくのように)ひがんでいるひと、”ヒメヒカゲ備忘録”でエジプト旅行ができるよ(エジプト料理付き)
さらに、”教育問題”を考えたいひとには、”堀裕嗣ブログ”が現場からの切実なメッセージを発信している。
ツナミン・ブログには<死刑賛成論の構造分析>が出ている。
その”追記”部分を引用する;
【追記】
しかし、どうしてこのような(2ちゃんねる的な)言論が跋扈するのかという社会的背景を考えるならば、日本社会の持つ特徴と大いに関係がありそうである。歴史学者の故・阿部謹也や刑法学者の佐藤直樹、精神医学者の木村敏らがつとに指摘しているように、日本には西洋流の社会や個人が存在せず、その代わりに存在しているのは、「世間」である。そこにおいては、主体性を持った個人は存在せず、大事なことは「場の空気」を読むことである。「場の空気」に合わない者、「場の空気」を乱す者は、厄介者として排除されることになる。したがって、そこにおいては、何よりも「場の空気」をいち早く読み、「場の空気」と一体化することである。そこでは論理もヘチマもないので、「場の空気」と一体化しさえすれば、もはやいかなる暴論でも許される。というよりも、過激な暴論であればあるほど、「場の空気」によって歓迎されるので、「場の力学」、すなわち集団的過剰同調促進機制によって、ますます過激化が進行することになる。
BPOによって批判されたマスコミの報道姿勢も、死刑存置論者の多数派感情への居直りとしか言いようのない放埓な感情論も、すべてこうした「世間」の“論理”である「場の力学」にその原因が求められるだろう。
(以上引用)
ツナミンの経歴は知らないが、彼のブログを読んでいれば彼が”法”の領域にかかわってきた人であることがわかる。
死刑制度についても、ぼくの”直情的批判”に対して、彼は法を踏まえた立場から論理展開しているので、参考にしてほしい。
ぼくにとっては、”死刑制度”そのものより、上記の論点(ツナミン追記の)が核心である。
なぜ”われわれ”は、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか。
特に現在の<学校>や<職場>において、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか?
あるいは、現在”リベラル”が言っている”これからの地域社会重視”において、今度は地域社会の空気を読むのであろうか。
あるいはぼくたちの”老後”は、病院や老人ホームやデイサービスといったような空間の空気を読む集団生活のなかで、自分の人生の最後を迎えるのであろうか。
今朝のブログで紹介した市野川『社会』の最初の部分で(すでに)衝撃的だったのは、
西欧において<社会>という”概念”が現れたのは、<個人主義>という概念があらわれたのと同時である、という指摘であった。
この<個人主義>の”運命”にも曲折があることは、知っているひとは知っている。
そしてこの個人主義=社会を”遅く学んだ”われわれは、現在先進国面(づら)して、この”グローバル世界”でイニシアティブさえ取ろうとしてきたのだ。
ぼくが何に憤っているかも、分かるひとにはわかるのだが、分からないひとにはなかなかわからない模様である(笑)
さらに、”教育問題”を考えたいひとには、”堀裕嗣ブログ”が現場からの切実なメッセージを発信している。
ツナミン・ブログには<死刑賛成論の構造分析>が出ている。
その”追記”部分を引用する;
【追記】
しかし、どうしてこのような(2ちゃんねる的な)言論が跋扈するのかという社会的背景を考えるならば、日本社会の持つ特徴と大いに関係がありそうである。歴史学者の故・阿部謹也や刑法学者の佐藤直樹、精神医学者の木村敏らがつとに指摘しているように、日本には西洋流の社会や個人が存在せず、その代わりに存在しているのは、「世間」である。そこにおいては、主体性を持った個人は存在せず、大事なことは「場の空気」を読むことである。「場の空気」に合わない者、「場の空気」を乱す者は、厄介者として排除されることになる。したがって、そこにおいては、何よりも「場の空気」をいち早く読み、「場の空気」と一体化することである。そこでは論理もヘチマもないので、「場の空気」と一体化しさえすれば、もはやいかなる暴論でも許される。というよりも、過激な暴論であればあるほど、「場の空気」によって歓迎されるので、「場の力学」、すなわち集団的過剰同調促進機制によって、ますます過激化が進行することになる。
BPOによって批判されたマスコミの報道姿勢も、死刑存置論者の多数派感情への居直りとしか言いようのない放埓な感情論も、すべてこうした「世間」の“論理”である「場の力学」にその原因が求められるだろう。
(以上引用)
ツナミンの経歴は知らないが、彼のブログを読んでいれば彼が”法”の領域にかかわってきた人であることがわかる。
死刑制度についても、ぼくの”直情的批判”に対して、彼は法を踏まえた立場から論理展開しているので、参考にしてほしい。
ぼくにとっては、”死刑制度”そのものより、上記の論点(ツナミン追記の)が核心である。
なぜ”われわれ”は、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか。
特に現在の<学校>や<職場>において、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか?
あるいは、現在”リベラル”が言っている”これからの地域社会重視”において、今度は地域社会の空気を読むのであろうか。
あるいはぼくたちの”老後”は、病院や老人ホームやデイサービスといったような空間の空気を読む集団生活のなかで、自分の人生の最後を迎えるのであろうか。
今朝のブログで紹介した市野川『社会』の最初の部分で(すでに)衝撃的だったのは、
西欧において<社会>という”概念”が現れたのは、<個人主義>という概念があらわれたのと同時である、という指摘であった。
この<個人主義>の”運命”にも曲折があることは、知っているひとは知っている。
そしてこの個人主義=社会を”遅く学んだ”われわれは、現在先進国面(づら)して、この”グローバル世界”でイニシアティブさえ取ろうとしてきたのだ。
ぼくが何に憤っているかも、分かるひとにはわかるのだが、分からないひとにはなかなかわからない模様である(笑)
[ 12:18 ]
[ 日記 ]
ぼくも(は)あんまり“素朴”なことを言いたくはないんだが(笑)
“考える”ためには“知らなければ”なりません。
先日のブログで、“岩波新書”を読むことを提案しました。
岩波以外の“良い新書”でもいいです(笑)
もうひとつ、最近ぼくが“発見”したシリーズを推薦します。
実はぼくも初めてこのシリーズの1冊を買って読み始めたばかりなんですが(笑)
これまた岩波書店で恐縮ですが、“思考のフロンティア”というシリーズです。
いろんなテーマについて、“若手”が書いているらしい<注>
ぼくがまず買ったのは市野川容孝『社会』で、昨日岡真理『記憶/物語』もアマゾンに注文しました。
この市野川容孝『社会』の“はじめに”と本文を数ページ読んだだけで、ぼくには“目からウロコ”ですね(笑)
もちろんぼくのように“無教養”でない方には、この本に書かれているようなことは“常識”かも知れませんが。
しかしぼくの“偏見”によると、どうもここに書かれているようなことが、現在の日本人の“基本的認識”になっていないように思われます。
(誤解だったら許してね)
世間では“岩波文化人”を嫌う方々も多いようですが(実はぼくにもその傾向があったわけですが)、“世間”がこれだけ右傾化=保守化した現在、“岩波さん”もいい意味で“柔軟(ソフト)”になってきたようにお見受けします。
別に“岩波の本だけがいい”などというつもりは、全然ございません。
“現在の新書”と上記シリーズは、いいのではないか、という意味です。
<注>
このシリーズで扱われているテーマを、いくつか列挙します;
”身体・生命”、”デモクラシー”、”公共性”、”精神分析”、”法”、”暴力”、”正義”、”アイデンティティ・他者性”、”市場”、”原理主義”、”脱構築”、”権力”、”ジェンダー・セクシュアリテ”、”フェミニズム”、”環境”、”教育”、”資本”、”自由”、”難民”など
“考える”ためには“知らなければ”なりません。
先日のブログで、“岩波新書”を読むことを提案しました。
岩波以外の“良い新書”でもいいです(笑)
もうひとつ、最近ぼくが“発見”したシリーズを推薦します。
実はぼくも初めてこのシリーズの1冊を買って読み始めたばかりなんですが(笑)
これまた岩波書店で恐縮ですが、“思考のフロンティア”というシリーズです。
いろんなテーマについて、“若手”が書いているらしい<注>
ぼくがまず買ったのは市野川容孝『社会』で、昨日岡真理『記憶/物語』もアマゾンに注文しました。
この市野川容孝『社会』の“はじめに”と本文を数ページ読んだだけで、ぼくには“目からウロコ”ですね(笑)
もちろんぼくのように“無教養”でない方には、この本に書かれているようなことは“常識”かも知れませんが。
しかしぼくの“偏見”によると、どうもここに書かれているようなことが、現在の日本人の“基本的認識”になっていないように思われます。
(誤解だったら許してね)
世間では“岩波文化人”を嫌う方々も多いようですが(実はぼくにもその傾向があったわけですが)、“世間”がこれだけ右傾化=保守化した現在、“岩波さん”もいい意味で“柔軟(ソフト)”になってきたようにお見受けします。
別に“岩波の本だけがいい”などというつもりは、全然ございません。
“現在の新書”と上記シリーズは、いいのではないか、という意味です。
<注>
このシリーズで扱われているテーマを、いくつか列挙します;
”身体・生命”、”デモクラシー”、”公共性”、”精神分析”、”法”、”暴力”、”正義”、”アイデンティティ・他者性”、”市場”、”原理主義”、”脱構築”、”権力”、”ジェンダー・セクシュアリテ”、”フェミニズム”、”環境”、”教育”、”資本”、”自由”、”難民”など
[ 11:25 ]
[ 日記 ]
不信の時、不信の時代。
下記ブログの天声人語は“不信”について述べている。
《不信をこえて「崩信」の時代という》とおっしゃっている。
まずぼくはうかつにも、“崩信”という言葉をはじめて見た。
この《……という》という文章は、いったい“だれが”言っているのであろうか?
だれが“「崩信」の時代”と言っているのであろうか。
つまりテレビがマスメディアが世間が、言っているのであろうか?
つまり天声人語が“はじめて”、《不信をこえて「崩信」の時代という》と言ったとしても、これを読んだ人は“崩信”という言葉が、世間で広く使われていると誤解するのだ。
まず以上の“論点”を理解していただきたい。
さらにここで言われている、現代が“「崩信」の時代”であるという内容を検討する。
この天声人語があげているその根拠は、ホームで電車を待っているとき背後から押されるのではないかという恐怖と吉兆の食べ残し再利用(笑)の話である。
たしかにぼくもホームで不安を感じることもあるし、吉兆はけしからん。
けれどもぼくが感じている“不信”は、こういうものではない。
もっと巨大な不信である(爆)
つまりこの“社会構造”全体に対する不信である。
たとえばぼくは、“マスメディア”批判をしつこく続けているが、マスメディアというのは発信者側の問題のみではありえない。
マスメディアというのは、発信者と受信者の“相互関係”のことである。
“テレビ”をだれも見なかったら、テレビはただ電波を出す箱である。
観客がだれもいないお笑い芸人は、ひとりで笑うのであろうか(笑)
また当然、マスメディアのみに問題があるわけではない。
このブログや掲示板のような“水平的メディア”にも問題は山積しているではないか!
なぜブログは、“電子的井戸端会議”の場でしかないのか。
もちろん“井戸端”が消滅したので、おばさんたちが愚痴を言い合う場も必要なのである。
しかしぼくのように“井戸端会議”がきらいであるという感性も存在する。
つまり井戸端会議の主要な話題は、“近所の”噂話と“ささやかな”意地悪のみであるからである。
あるいは“みんなが明るく、元気になる”話題である(笑)
しかしこういう“話題”についても、それを読めば読むほど元気がなくなるぼくのような“感性”も存在する。
《暗いうちはいい、明るいのは滅びの姿だ》(爆)
さてマスメディア批判をつづける、今日の朝日新聞朝刊広告である。
7面にある《変化の時は来た》という広告は何なんですか?!
マジ、朝日に(他の新聞にも出ているだろうが)公開質問します。
カネをもらえるからって、こういう“偽宗教”の広告を掲載するのは、朝日新聞の“良心”に反してはいないのでしょうか?
ぼくはこの“教団”についてなんの知識もございませんが、この広告に出ている文章を読む“だけで”これがインチキ宗教であることがわかる。
それをわからせるために、朝日新聞はこの広告を掲載しているのでしょうか(笑)
もうひとつ。
2面下の幻冬舎のカラー広告はなんなのさ(笑)
この幻冬舎の社主は売れるならどんな本でも出してしまうという節操のなさで有名ですね。
『沈黙入門』!!
“ぽっぷ仏教”!!!
《もう語らない。怒らない。求めない―余計なことは言わない生き方のすすめ》
たしかにねー(爆)
ぼくが“死体”なら、そういう“生き方”も可能よね。
たしかにぼくが“死体”なら、坊さんのお世話になるかもよ。
ぼくのアドヴァイスはただひとつ。
”自分”にも言っているアドヴァイスは、ただひとつ。
人間であるためには、考えなくちゃいけないよ。
<付録>
”信じること=信頼”について、興味深い記事がアサヒコムに出てます;
<「日本を信頼」7ポイント減少 米国で対日世論調査>2008年05月06日08時59分
日本は信頼できるパートナーだが、影は薄れがち――。外務省による米国での対日世論調査で、こんな傾向が浮かんだ。日本を「信頼できる」と答えた人は67%で、昨年より7ポイント減少。アジアの最も重要なパートナーに選んだ人も43%で昨年を5ポイント下回り、中国に迫られている。
米ギャラップ社に委託し、2~3月に18歳以上の1500人に電話で調査した。
日本を「信頼できない」とした人は18%で過去最低だったが、「意見なし」(15%)が前年より10ポイント増えた。アジアの最重要パートナーとして日本は1位を維持したが、95年の55%以来、減る傾向。2位の中国は昨年に続き、過去最高に並ぶ34%を占めた。3位はロシアの10%だった。
外務省は「全体としては日米関係への高い評価が維持されている」としている。
(以上引用)
官僚=外務省の”感性”は、すんばらしいね!
下記ブログの天声人語は“不信”について述べている。
《不信をこえて「崩信」の時代という》とおっしゃっている。
まずぼくはうかつにも、“崩信”という言葉をはじめて見た。
この《……という》という文章は、いったい“だれが”言っているのであろうか?
だれが“「崩信」の時代”と言っているのであろうか。
つまりテレビがマスメディアが世間が、言っているのであろうか?
つまり天声人語が“はじめて”、《不信をこえて「崩信」の時代という》と言ったとしても、これを読んだ人は“崩信”という言葉が、世間で広く使われていると誤解するのだ。
まず以上の“論点”を理解していただきたい。
さらにここで言われている、現代が“「崩信」の時代”であるという内容を検討する。
この天声人語があげているその根拠は、ホームで電車を待っているとき背後から押されるのではないかという恐怖と吉兆の食べ残し再利用(笑)の話である。
たしかにぼくもホームで不安を感じることもあるし、吉兆はけしからん。
けれどもぼくが感じている“不信”は、こういうものではない。
もっと巨大な不信である(爆)
つまりこの“社会構造”全体に対する不信である。
たとえばぼくは、“マスメディア”批判をしつこく続けているが、マスメディアというのは発信者側の問題のみではありえない。
マスメディアというのは、発信者と受信者の“相互関係”のことである。
“テレビ”をだれも見なかったら、テレビはただ電波を出す箱である。
観客がだれもいないお笑い芸人は、ひとりで笑うのであろうか(笑)
また当然、マスメディアのみに問題があるわけではない。
このブログや掲示板のような“水平的メディア”にも問題は山積しているではないか!
なぜブログは、“電子的井戸端会議”の場でしかないのか。
もちろん“井戸端”が消滅したので、おばさんたちが愚痴を言い合う場も必要なのである。
しかしぼくのように“井戸端会議”がきらいであるという感性も存在する。
つまり井戸端会議の主要な話題は、“近所の”噂話と“ささやかな”意地悪のみであるからである。
あるいは“みんなが明るく、元気になる”話題である(笑)
しかしこういう“話題”についても、それを読めば読むほど元気がなくなるぼくのような“感性”も存在する。
《暗いうちはいい、明るいのは滅びの姿だ》(爆)
さてマスメディア批判をつづける、今日の朝日新聞朝刊広告である。
7面にある《変化の時は来た》という広告は何なんですか?!
マジ、朝日に(他の新聞にも出ているだろうが)公開質問します。
カネをもらえるからって、こういう“偽宗教”の広告を掲載するのは、朝日新聞の“良心”に反してはいないのでしょうか?
ぼくはこの“教団”についてなんの知識もございませんが、この広告に出ている文章を読む“だけで”これがインチキ宗教であることがわかる。
それをわからせるために、朝日新聞はこの広告を掲載しているのでしょうか(笑)
もうひとつ。
2面下の幻冬舎のカラー広告はなんなのさ(笑)
この幻冬舎の社主は売れるならどんな本でも出してしまうという節操のなさで有名ですね。
『沈黙入門』!!
“ぽっぷ仏教”!!!
《もう語らない。怒らない。求めない―余計なことは言わない生き方のすすめ》
たしかにねー(爆)
ぼくが“死体”なら、そういう“生き方”も可能よね。
たしかにぼくが“死体”なら、坊さんのお世話になるかもよ。
ぼくのアドヴァイスはただひとつ。
”自分”にも言っているアドヴァイスは、ただひとつ。
人間であるためには、考えなくちゃいけないよ。
<付録>
”信じること=信頼”について、興味深い記事がアサヒコムに出てます;
<「日本を信頼」7ポイント減少 米国で対日世論調査>2008年05月06日08時59分
日本は信頼できるパートナーだが、影は薄れがち――。外務省による米国での対日世論調査で、こんな傾向が浮かんだ。日本を「信頼できる」と答えた人は67%で、昨年より7ポイント減少。アジアの最も重要なパートナーに選んだ人も43%で昨年を5ポイント下回り、中国に迫られている。
米ギャラップ社に委託し、2~3月に18歳以上の1500人に電話で調査した。
日本を「信頼できない」とした人は18%で過去最低だったが、「意見なし」(15%)が前年より10ポイント増えた。アジアの最重要パートナーとして日本は1位を維持したが、95年の55%以来、減る傾向。2位の中国は昨年に続き、過去最高に並ぶ34%を占めた。3位はロシアの10%だった。
外務省は「全体としては日米関係への高い評価が維持されている」としている。
(以上引用)
官僚=外務省の”感性”は、すんばらしいね!
[ 09:17 ]
[ 日記 ]
今日、天声人語は言う;
《▼いま「信」は細り、不信をこえて「崩信」の時代という。最近の本紙世論調査では「世の中は信用できない人が多い」は64%、「人は自分のことだけ考えている」は67%にのぼっている。悲観したくはない。だが、そんなものさと受け流せる数字では、もうないように思う》
じゃあ天声人語さん、あなたは、どうすればいいと思うんですか?
“あなたは”どうすれば“この不信もしくは崩信”を解消できると“考える”のでしょうか。
信頼されてないのは、マスメディア自体なんです。
“あなた”のようなことを、毎日言っているひとのことなんだ。
《▼いま「信」は細り、不信をこえて「崩信」の時代という。最近の本紙世論調査では「世の中は信用できない人が多い」は64%、「人は自分のことだけ考えている」は67%にのぼっている。悲観したくはない。だが、そんなものさと受け流せる数字では、もうないように思う》
じゃあ天声人語さん、あなたは、どうすればいいと思うんですか?
“あなたは”どうすれば“この不信もしくは崩信”を解消できると“考える”のでしょうか。
信頼されてないのは、マスメディア自体なんです。
“あなた”のようなことを、毎日言っているひとのことなんだ。
2008/05/05のBlog
[ 13:16 ]
[ 日記 ]
ゴールデン・ウィークである(笑)
ぼくの生活は普段とぜんぜん変わらないが、このブログを見ているだけで、いつもとちがった“空気”を感じる。
つまり”シラーとした空気”ですな。
今日もニュースや新聞や他の方々のブログを見て、“感じる”ことはある。
“きっこのブログ”は《「人でなし」には「人権」も必要なし》を掲げている。
ぼくはこの超有名ブログをほとんど読んでいなかったのだが、たまたま“光市母子殺害事件”に関するブログを読んでから注目した。
ぼくはそのことに先日のブログでふれて、彼女を“おばさん”と呼んだ。
今日の彼女のブログを読んで、さらに批判の必要を感じる。
けれども、これがやりにくいのは彼女が“引用・転載”を禁止しているからである。
これ自体がおかしい。
ブログにおける文章や写真の“転載”を禁ずるのは、ブログの精神に反する。
こういうことを公然と宣言する“きっこ”さんは、自分の本を買わせようとしているとしか思えない。
また(よく読んでないが)“きっこのブログ”がただの“右翼的バッシング・ブログ”であるなら、ぼくもこだわらない。
しかし彼女は、“反自民、反憲法改定”ブログのはずである。
そのブログが、“死刑制度批判”に関しては、おそるべきバッシングを展開している。
この精神構造こそが問題と思える。
ぼくはレイプにも、レイプ未遂にも、レイプした上での殺害にも、激しい怒りを持つものである。
もしその(レイプ)の潜在的可能性が、“男”であることの“条件”ならば(それを肯定する)、それを“自己批判”する。
けれどもそれを踏まえたうえでの“死刑制度批判”の言説こそが必要である。
“レイプ”が悲惨であること、あらゆる“暴力を被るもの”、“殺されるもの”が悲惨であることへの想像力は必要である。
けれども実際に被害を被ったものと、そうでなくそれを“想像するもの”との間の“みぞ・ずれ”はきっこさんが言うとおり、越えようがないのも事実である。
いいですか、ある個人の“すべての”体験は、けっして“他者”が想像し切れるものでは、ない。
あたりまえではないか。
“だから”、言葉はある。
死刑制度という個別の制度についていうのなら、“だから”、法はある。
けれどもぼくは、“個別の制度”のみにこだわっては、いない。
だから繰り返す;
“だから”、言葉はある。
実は“きっこのブログ”批判以外に、今日朝日新聞“クロストーク”についても書くつもりだったが、急に気力が衰えた(爆)がんばって書こう(笑)
この記事では1965年生れの政治学者苅部直氏が“70歳を越えた”蜷川幸雄氏と“クロス×トーク”している。
その感想で苅部氏は以下のように述べている;
《70歳をこえても好奇心が旺盛でおられるのに、驚嘆してしまう》
こういう発言は、“差別発言”ではないか?(笑)
この対談のなかで蜷川氏は55歳以上の“老人”を公募して立ち上げた“ゴールド・シアター”稽古の時のことを以下のように語っている;
《なぜ、ぼくが念を押さないと「わかった」という表情がでてこないのか。なぜ年をとると全員、仮面のような顔になるのか。みんなで「老いの現在」を計っているところがあります》
“仮面のような顔”で“老いの現在を計る”人々。
差別し、差別されるシステムのなかで、相互に“その存在を計る”ひとびと。
ぼくはこういう演劇の舞台のみでではなく、この日常のなかで、“仮面のような顔”をかなぐり捨てて生きることを望むものである。
“ぼく”のみではなく、“みなさん”が(笑)
老いも若きも。
<追記>
ぼくのこのブログは、すべて文章・映像の無断引用・転載、批判を許可しています(笑)
すべては”タダ”なのであります。
つまりこのブログ世界だけでは、資本主義のルールは無視されます。
”NTT DATA”さんの御協力により!
ぼくの生活は普段とぜんぜん変わらないが、このブログを見ているだけで、いつもとちがった“空気”を感じる。
つまり”シラーとした空気”ですな。
今日もニュースや新聞や他の方々のブログを見て、“感じる”ことはある。
“きっこのブログ”は《「人でなし」には「人権」も必要なし》を掲げている。
ぼくはこの超有名ブログをほとんど読んでいなかったのだが、たまたま“光市母子殺害事件”に関するブログを読んでから注目した。
ぼくはそのことに先日のブログでふれて、彼女を“おばさん”と呼んだ。
今日の彼女のブログを読んで、さらに批判の必要を感じる。
けれども、これがやりにくいのは彼女が“引用・転載”を禁止しているからである。
これ自体がおかしい。
ブログにおける文章や写真の“転載”を禁ずるのは、ブログの精神に反する。
こういうことを公然と宣言する“きっこ”さんは、自分の本を買わせようとしているとしか思えない。
また(よく読んでないが)“きっこのブログ”がただの“右翼的バッシング・ブログ”であるなら、ぼくもこだわらない。
しかし彼女は、“反自民、反憲法改定”ブログのはずである。
そのブログが、“死刑制度批判”に関しては、おそるべきバッシングを展開している。
この精神構造こそが問題と思える。
ぼくはレイプにも、レイプ未遂にも、レイプした上での殺害にも、激しい怒りを持つものである。
もしその(レイプ)の潜在的可能性が、“男”であることの“条件”ならば(それを肯定する)、それを“自己批判”する。
けれどもそれを踏まえたうえでの“死刑制度批判”の言説こそが必要である。
“レイプ”が悲惨であること、あらゆる“暴力を被るもの”、“殺されるもの”が悲惨であることへの想像力は必要である。
けれども実際に被害を被ったものと、そうでなくそれを“想像するもの”との間の“みぞ・ずれ”はきっこさんが言うとおり、越えようがないのも事実である。
いいですか、ある個人の“すべての”体験は、けっして“他者”が想像し切れるものでは、ない。
あたりまえではないか。
“だから”、言葉はある。
死刑制度という個別の制度についていうのなら、“だから”、法はある。
けれどもぼくは、“個別の制度”のみにこだわっては、いない。
だから繰り返す;
“だから”、言葉はある。
実は“きっこのブログ”批判以外に、今日朝日新聞“クロストーク”についても書くつもりだったが、急に気力が衰えた(爆)がんばって書こう(笑)
この記事では1965年生れの政治学者苅部直氏が“70歳を越えた”蜷川幸雄氏と“クロス×トーク”している。
その感想で苅部氏は以下のように述べている;
《70歳をこえても好奇心が旺盛でおられるのに、驚嘆してしまう》
こういう発言は、“差別発言”ではないか?(笑)
この対談のなかで蜷川氏は55歳以上の“老人”を公募して立ち上げた“ゴールド・シアター”稽古の時のことを以下のように語っている;
《なぜ、ぼくが念を押さないと「わかった」という表情がでてこないのか。なぜ年をとると全員、仮面のような顔になるのか。みんなで「老いの現在」を計っているところがあります》
“仮面のような顔”で“老いの現在を計る”人々。
差別し、差別されるシステムのなかで、相互に“その存在を計る”ひとびと。
ぼくはこういう演劇の舞台のみでではなく、この日常のなかで、“仮面のような顔”をかなぐり捨てて生きることを望むものである。
“ぼく”のみではなく、“みなさん”が(笑)
老いも若きも。
<追記>
ぼくのこのブログは、すべて文章・映像の無断引用・転載、批判を許可しています(笑)
すべては”タダ”なのであります。
つまりこのブログ世界だけでは、資本主義のルールは無視されます。
”NTT DATA”さんの御協力により!
[ 10:30 ]
[ 日記 ]
子供の日である。
この“戦後61年”、子供だったぼくは61歳の“大人”になった(笑)
この“戦後”が、自分の年齢と同じであるという“運命”にぼくはこだわる。
“運命”とは、必然のことよりも、偶然のことであると思えるにしても。
この間、日本“社会”も変質したのである。
テレビが変質し、街の風景が変質し、そこを歩く人々の表情や動作が変質した。
この変質を説明する“言葉”は、さまざまにありえよう。
変化したのは“経済”であったのか、“欲望”であったのか。
“現在”をあらわす、もっとも平凡な言葉は、“消費社会”である。
ぼくたちは、なにかを買っていないと楽しくない、充実感を得られない“人間”となったのである。
この“買う”対象は、“モノ”ばかりではない。
情報、観念、行為、雰囲気、アイドル、趣味、レジャーなどなども、その対象である。
その“社会”にとって、その多数にとって重要なことは、主流であることは、なんの意味もなくても、意味あることなのである。
ある“こと”の意味を問うこと、価値を考えること自体が忘れさられ、“自然”となる。
まさにこの“共同の幻想”が、“現実=リアル”と呼ばれる。
その幻想から逃れようとするものも、もっと極端な趣味=幻想に逃れた。
子供の日。
読売新聞社説は《つたわるよ めとめをあわせてはなしたら》という児童福祉週間標語を引用し《こどもの日 目と目を合わせて話そう》という社説を掲げている。
これを読んでぼくがただちに想起したのは、昨夜真夜中ごろ書いた下記のブログであった。
この『事件の核心』から引用しているとき、ぼくは“子供の日”をまったく意識していなかった。
偶然、そこを読み打たれたので、ただちに引用した。
そこでは、まさに、“大人と子供が”互いの目を見ていた。
むかし自分の子を失って父親になりそこねた初老の男が、(第2次大戦末期に)ドイツ潜水艦に撃沈され漂流して救出された瀕死の子供の死に立ち会っている。
子供は漂流中、すでに両親が死んでいることを知らない。
瀕死の意識の混乱のなかで、たまたま立ち会った男を“父”と誤認し、誤認された男は、父を演じることで子供の死を安らかにしようとした。
ここにおいて、まったくの他人、“偽の父子”が、互いの目と目を見つめ合う瞬間が描かれた。
これは“ブンガク”であった。
ぼくたちは、ブンガクの世界に生きていない、もっと“散文的”な世界に生きていると、“リアルに”語るべきか。
散文的なこの世界においては、ひとの命は軽い。
いや“ひとの命”が軽いのではなく、日常のあらゆる“意味”が軽いのである。
“些細なこと”の意味が軽いのである。
あるいは人間にかかわるすべての“こと”に、些細であることと、大袈裟であることの区別などないのだ、と思える。
ぼくたちは、たぶん、文学と社会学(社会についての学)を同時に必要としている。
この“戦後61年”、子供だったぼくは61歳の“大人”になった(笑)
この“戦後”が、自分の年齢と同じであるという“運命”にぼくはこだわる。
“運命”とは、必然のことよりも、偶然のことであると思えるにしても。
この間、日本“社会”も変質したのである。
テレビが変質し、街の風景が変質し、そこを歩く人々の表情や動作が変質した。
この変質を説明する“言葉”は、さまざまにありえよう。
変化したのは“経済”であったのか、“欲望”であったのか。
“現在”をあらわす、もっとも平凡な言葉は、“消費社会”である。
ぼくたちは、なにかを買っていないと楽しくない、充実感を得られない“人間”となったのである。
この“買う”対象は、“モノ”ばかりではない。
情報、観念、行為、雰囲気、アイドル、趣味、レジャーなどなども、その対象である。
その“社会”にとって、その多数にとって重要なことは、主流であることは、なんの意味もなくても、意味あることなのである。
ある“こと”の意味を問うこと、価値を考えること自体が忘れさられ、“自然”となる。
まさにこの“共同の幻想”が、“現実=リアル”と呼ばれる。
その幻想から逃れようとするものも、もっと極端な趣味=幻想に逃れた。
子供の日。
読売新聞社説は《つたわるよ めとめをあわせてはなしたら》という児童福祉週間標語を引用し《こどもの日 目と目を合わせて話そう》という社説を掲げている。
これを読んでぼくがただちに想起したのは、昨夜真夜中ごろ書いた下記のブログであった。
この『事件の核心』から引用しているとき、ぼくは“子供の日”をまったく意識していなかった。
偶然、そこを読み打たれたので、ただちに引用した。
そこでは、まさに、“大人と子供が”互いの目を見ていた。
むかし自分の子を失って父親になりそこねた初老の男が、(第2次大戦末期に)ドイツ潜水艦に撃沈され漂流して救出された瀕死の子供の死に立ち会っている。
子供は漂流中、すでに両親が死んでいることを知らない。
瀕死の意識の混乱のなかで、たまたま立ち会った男を“父”と誤認し、誤認された男は、父を演じることで子供の死を安らかにしようとした。
ここにおいて、まったくの他人、“偽の父子”が、互いの目と目を見つめ合う瞬間が描かれた。
これは“ブンガク”であった。
ぼくたちは、ブンガクの世界に生きていない、もっと“散文的”な世界に生きていると、“リアルに”語るべきか。
散文的なこの世界においては、ひとの命は軽い。
いや“ひとの命”が軽いのではなく、日常のあらゆる“意味”が軽いのである。
“些細なこと”の意味が軽いのである。
あるいは人間にかかわるすべての“こと”に、些細であることと、大袈裟であることの区別などないのだ、と思える。
ぼくたちは、たぶん、文学と社会学(社会についての学)を同時に必要としている。
