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Don't Let Me Down
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2008/05/10のBlog
[ 10:50 ] [ 日記 ]
よく“1冊の本”というようなことを言いますね。

“無人島にもっていく1冊の本”とか“これまでに読んだ本から1冊を選ぶなら”とか。

だれもぼくに聞いているわけじゃないが(笑)これを考えてみよう。

ぼくが無人島にもっていくなら、なるべくむずかしい本を選ぶね(笑)

これまでに読んだ本で、“すごい!”(いろんな意味で)と思った本は、1冊以上あって選ぶのはむずかしい。

でも“好きな本”なら、すぐ思い浮かぶ3冊(3種類)がある。

もちろんこの3冊については、これまでも引用したり書いたりしている。

★ フランク・ハーバート『砂の惑星デューン 第1部、第2部』(文庫本5冊)
★ スティーヴン・キング『IT』(文庫本4冊)
★ 村上春樹『ダンス、ダンス、ダンス』


“好きな本”であるというのは、これらが客観的に“優れた本”では必ずしもないからだ。

現在の若いひとはこだわらないだろうが、ハーバートとキングは“エンターテイメント”ジャンルである。

また『ダンス、ダンス、ダンス』はいちおう“純文”ジャンルであろうが、そうなってくると、このジャンルには錚々たる古典から現代に至る“傑作”がひしめいている。

ドストエフスキーや漱石の作品と比較して『ダンス、ダンス、ダンス』の方が傑作であるというのは、結構困難である(笑)
しかも“現代日本文学”でいっても、現在のぼくの評価では村上春樹より、中上健次のほうが上である。

たぶん中上の『熊野集』は熟成してぼくの4番目の“好きな本”に育つであろう。

もちろんこの他にも“本当に好きな本”はたくさんある。
ナボコフ『記憶よ、語れ』とか山本周五郎『樅の木は残った』、大江健三郎初期短篇、ビュトール『時間割』などなど。

とくに『IT』は長すぎて欠陥の多い小説である。
キングの作品でも『シャイニング』や『デッド・ゾーン』などを最高傑作にあげるひとも多いだろう(ぼくはそれらも好きではあるが;笑)

一方ハーバートの『砂の惑星』はぼくには欠点の少ない小説と思えるが、日本での評価は欧米と違って低い(リンチの映画化がひどかった影響もあるのだろう)
この物語に比べれば『スター・ウォーズ』などは無様なオモチャである。

しかもこのSFがすぐれているのは、“エンターテイメント”であることである。
“純文”的SFなら、レムの『ソラリスの陽のもとに』のような傑作があるではないか。

なぜ今日こんなことを書いているかというと、“面白い(夢中になる)小説が読みたいなぁー”とこのごろ思うからである。
面白い映画でもいいよ。

つまり近年“面白い”といわれているものすべてが、ぼくには面白くないのだ(爆)

ぼくのような“歳”のものがこういう愚痴を言うと、“若者たち”は“もう感覚が古くなって現代モノについていけないんだ”と喜ぶだろうが、断じてそうではない(笑)

彼らが、ほんとうに面白いものを知らない(理解できない)だけのことなのだ(笑)



[ 09:43 ] [ 日記 ]
暗い土曜日の朝、また“サーバーが混みあって”いる。
休日の所在ない心を抱えて、アクセスしている“さまよえる心”が多数あるのであろうか(笑)

唐突だが“詩人”とは誰のことであろうか?
先日の講演会で辺見庸は、生命保険のCMをやっている有名詩人を罵倒した。
この有名詩人は、ぼくも好きな人であり、このブログにもしばしば引用している。

だが、先日朝日新聞に掲載されたこの詩人の詩を読んで、ああこのひとはもう詩を発表すべきでないとぼくも思った。

ぼくはこの詩人にかなり早い時期に出会った。
まだ詩というものをあまり読んでない時期に。
前にも書いたと思うが、寺山修司のラジオでの朗読で出会った。

《からまつの変わらない実直と
しらかばの若い思想と
浅間の美しいわがままと
そしてそれらすべての歌の中を
僕の感傷が跳ねてゆく
(その時突然の驟雨だ)》

その後大学生の頃の詩人はランボーとロートレアモンであった。
うすい岩波文庫と“かっこよい”現代思潮社のロートレアモンであった。
ランボーには文庫本が毎日持ち歩くうちにヨレヨレに毛羽立ってくるようなイメージがあった。
ロートレアモンには“紫色”がよく似合った。

一方で、“あまい”詩も読んだ。
橋の下を流れるセーヌとか3本の?マッチとかエルザの瞳とか。

オーデンやディラン・トマスを知ったのはいつだったのか;《危険の感覚は失せてはならない》

《ぼくは見る 荒廃のなかにある夏の少年たちが、
黄金の十分の一税を不毛のまま並べ、
収穫による貯えもなしに、大地を凍らすのを。》

ぼくもまた、“夏の少年”であった。

長田弘を田村隆一を読んだのは、いつだったか。

もちろん最初に読んだ日付は問題ではない、それらの言葉は繰り返され、何度も復活し、そのたびに鍛えられたのだ。

《クリストファーよ、ぼくたちは何処にいるのか》

《「なぜ小鳥は鳴くか」
ふかい闇の中でぼくは夢からさめた
非常に高いところから落ちてくるものに
感動したのだ
そしてまた夢のなかへ「次の行」へ
ぼくは入っていった》

ぼくが会社を辞めて、ぼくの人生が変わった頃、あの有名詩人の言葉がつきまとっていた;
《その日と同じように今日
雲が動き陽がかげる
どんなに愛しても
足りなかった》

またぼくの机の前に貼ってある詩は、古びた;
《或る時わたしは帰ってくるだろう
やせて雨にぬれた犬をつれて
他の人にもしその犬の烈しい存在
深い精神が見えなかったら
その犬の口をのぞけ
狂気の歯と凍る涎の輝く》





[ 07:04 ] [ 日記 ]
昨夜はヒジョーにはやく寝たため、1時過ぎに起きてネットをみて、3時過ぎまた寝て6時ごろ起きた。

妻のブログで自分の写真を見て、北イタリア旅行のことを思い、あの時あの路地に入り振り返って写真を撮った時のこと、その光を思い出した。
“あの路地を通って……”

つまりちょっと“詩的”な気分になったのである、外は曇りで重く、鳩のグルルという声が聞える。
そういえば、ストレイザで泊まったホテルの庭には鳩小屋があって、朝方たくさんの鳩が旋回した。

そしてネットを見るとアサヒコム・アクセストップはこのニュースであった;

<「死刑になりたい」無差別犯罪なぜ>2008年05月10日03時01分
 「死刑になりたい」。こんな動機で、見知らぬ人を襲う容疑者が相次いでいる。茨城県で3月に男が駅周辺で8人を殺傷した事件、鹿児島県で4月に自衛官がタクシー運転手を殺した事件……。犯罪を抑える狙いの死刑制度が、逆に凶行を誘発していることになるが、それはなぜか。識者の見方も割れる。(本山秀樹)
 茨城県土浦市のJR荒川沖駅の8人殺傷事件。逮捕された無職金川真大容疑者(24)は、調べに対して「自殺するのは痛いから嫌だった。複数殺せば死刑になれると思った」と供述したという。鹿児島県姶良(あいら)町のタクシー運転手殺害事件で、陸上自衛隊員の少年(19)も「人を殺して死刑になりたかった」と県警に話したという。
 さらには、2月に東京都新宿区にある神社のトイレでタクシー運転手の頭を金づちで殴ったとして殺人未遂容疑で逮捕された無職の男(31)も、昨年9月に広島・平和記念公園で男性を刺殺したとされる無職男(63)も「死刑になりたい」と動機を語ったとされる。
 いずれも容疑者たちは「死にたいが死にきれなかった」などとも供述したという。特定の人に殺意を抱いたわけではなく、死刑制度を使って間接的に自殺を図ったというわけだ。
 精神医学の世界では、他人の力を借りて自らを死に追いやることを「間接自殺」と呼ぶという。教義で自殺を禁じているキリスト教圏では当てはまるケースが多いが、日本では珍しいとされてきた。
 犯罪精神医学が専門の影山任佐(じんすけ)・東京工業大教授は「『死刑になりたい』との動機が日本で目立つようになったのは、自殺の多さと無関係ではないだろう」と指摘する。
 警察庁の統計では、06年の自殺者は全国で3万2155人。9年連続で3万人を超えている。影山教授は「自殺を願う人は生命を尊重する心に欠ける。だから、他人を巻き添えにした間接自殺が起こり得る」という。
 同教授は「死刑執行や死刑判決が大きく報じられ、『殺せば死ねる』との学習効果で犯行が引き起こされている可能性がある」とも分析。「国として自殺対策に本気で取り組むことが必要だ」と説く。
 一方で、「間接自殺は昔からあった」と言うのは、刑法専攻の椎橋隆幸・中央大教授だ。「警察が公表し、報道されることで、増えているような印象を持つのではないか」と指摘。死刑制度を存続すべきだという立場に立つ椎橋教授は「死刑制度は罪と罰を均衡させ、社会の正義を守る観点で必要だ。死刑が動機の事件が起きたから死刑を廃止すべきだという主張があるなら、乱暴な議論だ」と話す。
(以上引用)


ぼくは“間接自殺”という言葉をはじめて知ったが、自分が自殺する変わりに人を殺すという動機がありうることは感じていた。

だから、まず“死刑制度”に殺人の抑止効果がある、というのは疑わしい。
すくなくとも、そのようにしか考えられないひとは、人間をあまりにも単純に考えている。

すべてのひとが“自分と同じように”単純ではない、という想像力に欠けている(笑)

もちろんぼくはすべての殺人者が、自分が死にたいので他人を殺しているとは思っていないが。

ぼくにも上記記事で影山任佐教授が言っている、“自殺の多さが問題だ”という指摘は考えるべきことだと思う。

ついでに言っておくと、こういう記事で必ず並べて出される“反対意見”の椎橋隆幸教授の“間接自殺は昔からあった”、“警察が公表し、報道されることで、増えているような印象を持つのではないか”という“意見”にも注目する。

ぼくは“……は昔からあった、警察発表や報道が増えたから、増えたように見える”式の論議をするひとは、かならず“保守主義者”だと確信している。

つまりぼく自身もこういう論議をするひとに、これまで遭遇している。

しかもこういうひとの“ロジック”が間違っているとは限らない。
“江戸時代から殺人はあったし、殺害数は現在より多かったかもしれない”(爆)

要するに問題は“数”(統計データ)ではなく“質”(その意味、その“現在的意味”)である。

ぼくはこの<現在的意味>に鈍感な、<現在的意味>をいつもあえて無視したい人々を<保守主義者>と呼ぶ。

ぼくたちのフィーリングは兼好法師とおなじでは、ない。
それは『徒然草』がくだらないという“意味”ではない。
ただ“ちがっている”のである。

ぼくは古典や伝統文化(の本物)には、敬意を払いたい。
けれども現在の問題は現在の問題なのである。

何か決定的に“新しいこと”(それが良いことであるとは限らないが)が起こっていることに対する感性とそれに対応する論理の構築が必要である。

《死刑制度は罪と罰を均衡させ、社会の正義を守る》などといつまでも言っていられるひとこそ、自分が“乱暴な議論”をしていることに気づかない(気づきたくない)

問題は、自殺したい人、自殺に追い込まれる人の“増加”である。
もちろんそれにはさまざまな“原因”があるだろう。
それは個人的な問題、社会的な問題であるだろう。

ぼくも“この先を考える”と妻とともに自殺する可能性がゼロとは思えない<追記>

ぼくたちは、“そういう社会に”生きている。

つまり、“機能不全に陥った社会”にである。




<追記>

たしかにこういう”不安”の根本にあるのは、経済的問題である。

しかしそれだけではない。

それは”矜持”を失ってまで生きたくはない、という問題である。

あるいは、よろこび、生きる喜び、他者との関係の悦びを失って生きたくはない、という”予感”である。



2008/05/09のBlog
[ 19:35 ] [ 日記 ]
今日は仕事だったので新聞をみていない。

帰ってネットをみていたら、天木直人ブログが、笑うべき“朝日新聞の記事”について書いている。

ぼくは仕事の日は、通勤の時とか昼休みとかにブログのことを思い出す、しかし仕事場でブログを見ることはほとんどない。
今日は、ぼくのブログは読書ノートにしよう、朝日新聞の批判などしていても(自分にとって)なんの意味もないと考えていたのだ(笑)

そうしたら、さっそく朝日新聞の“驚くべき記事”である、どうもぼくは朝日新聞に祟られているらしい。

天木直人ブログの一部を引用する;

《このインアビュー記事に違和感を抱いた私はおかしいのだろうか。

第一線を退いたとはいえ、早野氏は長年政治部の記者を務めた人物である。今日の日本の混迷の根本原因は5年半の小泉政権の結果引き起こされたものであるという事を知らないはずはない。

いくら保守化したとはいえ、朝日新聞は権力を監視する事を標榜してきたこの国のジャーナリズムを代表する大手新聞である。その朝日新聞が、このようなちょうちん記事を大きく掲載するとは。

せめて早野氏にはインタビューの最後に言って欲しかった。
「5年半もこの国の首相を務めたあなたが、今国民が苦しんでいる時に、日本の未来についてとるべき政策を何も語らなくていいのか」、と。
「好き勝手な余生を送るのは御自由だが、自分の楽しみだけを追求するのであれば、議員バッジをはずしてからにして欲しい」ぐらいの事は言えたのではなかったか。》
(以上引用)


まったく同感である。

天木氏は“おかしく”ないのである(笑)
小泉の顔など二度と見たくない方もこの国にはたくさんいらっしゃると思う。

もう上記の天木氏のブログで充分ではあるが、ぼくとしてはもう一箇所この記事から引用したい;
《「嘘のよさ、嘘の真実というものもある。正義の旗をがんがん振りかざすだけではね」。小泉政治の「嘘」を面白いと見るか、不実とみるか》


こう書いているのは、早野透という“長年政治部の記者を務めた人物”なのである。

この朝日新聞人間は小泉政治の嘘を、面白いと思うのか、不実と思うのか?
“自分の意見”を言って欲しい。

自分の意見がないものなど、“記者”として失格なだけでなく、“人間失格”である。
こういう男がベテランとしてのさばっているから、朝日は“死に体”となった。

小泉氏にもいいたい。
いったい現在どこに“正義の旗をがんがん振りかざす”ひとがいるのであろうか!

“あなたの時代から”、ほぼすべてのひとがあなたをモデルにして、“正義”を侮蔑する嘘つきになったのである。

自国の憲法にまったく虚偽の解釈をすることが、あなたによって率先して行なわれた以上、“国民”が法や正義になんの敬意も払わなくなったのは、あなたの責任である。

あなたの“罪”は吉兆や中国ギョーザどころではない。

あなたのようなひとは、死ぬまでオペラ“鑑賞”に空虚な嘘をたくすだけである。

ぼくは音楽を愛するものとして、あなたのような“音楽鑑賞”をこころから軽蔑する。


ぼくは”猿”の相手をしていたくない。



2008/05/08のBlog
[ 11:17 ] [ 日記 ]
下記ブログでぼくが“考え抜かれた言説は、ストレートで率直であるのだ”と書いた根拠は、ぼくがこれまでの生涯で読んだ(聞いた)言説のうち、ぼくに“意味あるもの”である言説の具体性において言っているのだ。

その言説は“文学の言葉”でも、“思想の言葉”でも、どっかのおっさんの言葉でもよかった。

“言葉”でない、“風景”でも、その日の雲の流れや陽射しでもよかった。
もちろん“映画”の1シーン、1枚の写真、音楽のあるフレーズ、リズム、あるひとの一瞬の表情でもよかった。

ぼくはこの<具体性>を、よく日常口にされる“あなたの言っていることは現実的ではない”という場合の“現実的(現実性)>にこそ対比したい。

この場合の<現実性>とは、徹頭徹尾“いまあることしかわからない”という、近視眼的、短絡的、現状維持的、無思考的な<感受性=認識>のことなのだ。

こういう<立場>のひとには、<倫理>がない。
まさに<倫理>とは定義不可能のものと思われている。

しかしぼくに言わせれば、上記のような<現実性>に居座るものには“倫理がない”と言うことによって、<倫理>は定義可能である。

いいですか、すくなくとも<倫理>は、抹香臭い<お説教>のことではない。
結局、“自由に生きるな”(だれかの規則にしたがって生きろ)とか、“死んだふりをして生きろ”と言うことでは、ない。

たとえば、<現在>の世界において問われている<倫理>は、“テロとの戦争”という事態に、自分はどういう認識を持ち、それにもとづく“立場”を取るかという<選択>である。

ただちに<選択>できなくてもいいが、その選択をおこなうために“考える”ことは万人の<義務>である。

なぜ“テロとの戦争”という問題が、こういう倫理基準を問う“問題”であるかを、<説明>する必要があるだろうか?

あなたが、ぼくにそれを“問う”なら、ぼくは、ぼくなりの仕方で100通りの“説明”をすることは、できる。

しかしそれ自体を考えていただきたい。

ぼくがその<本質>と考えることだけを述べておく;
復讐の連鎖は、全体的壊滅にいたる。

以上である。
きわめてシンプルです。

ある特定の<個人>であっても、ある特定の<集団>であっても、ある特定の<国家>であっても、ある特定の<民族>であっても、ある特定の<宗教>であっても、相手を殲滅するまで、憎んではならない。

たしかに<対話>(コミュニケーション)は楽観不能である。

<だから、言葉はある>(笑)

ぼくは“最悪を予言する”預言者たちを信用しない、という感性はわかる。

しかし現在世界が向かっているのは(とくにぼくが住んでいる国が向かっている)のは、<最悪の事態>だと感じている。

それは<全体的壊滅>である。
もし<世界>や<日本国>という“形”が残ろうとも(それさえおぼつかないが)、それはまったくの形骸であろう。
端的に“人間の消滅”である。

それは“現在進行している事態”である。

たとえば、ぼくたちは“反戦・非戦”といい、“憲法改定(特に9条)反対”という。

けれども、そこにおいてぼくたちは(あるいは“9条の会”は)いかなる<提言>をしているのか?

ぼくは大澤真幸が『逆接の民主主義』において行なった二つの提言を支持する。
その<具体性>において。

この提言とは以下の二つである;
① 北朝鮮を民主化する―そのために“日本国”はあらゆる“援助”を行なう
② 自衛隊を解体する―そのために“日本国”は“贈与”の理念による“平和部隊”を編成、あらゆる戦地に派遣する

この提言およびその“理念”と“方法の具体性”においては、『逆接の民主主義』を直接参照してほしい(ぼく自身、まだこの本を途中までしか読んでないので、また取上げるかもしれないが)

この大澤氏の提案全体に対しての批判や異論は当然あっていい。
またこの大澤氏の提案の趣旨に賛同しても、それらの実行の具体性についても、色々な提言があっていい。
けれども、ぼくはこういう提案を、現実的でないと一笑に付す人々をこそ軽蔑する。

ぼく自身、かつてこのブログでこう書かなかったであろうか。

<日本国憲法の理念を、あらゆる機会を捉えて世界に発信せよ>

現憲法は“護られる”ものではない。
世界に示すべき理念である。

それは<テロとの戦争>のこの時代にこそ、そのリアルな輝きを増してきているのだ。

また日本国憲法の理念は、9条の戦争放棄のみにあるのではない。
それは、“すべての”人々が平和に生きる世界を希求している。
まちがえてはならない、“すべてのひとびと”がである。

また日本国憲法は、“完璧”ではない。
しかし完璧な法などというものが、いったいどんな“人間”によって作成可能なのか。

ぼくたちは<完璧な法>に従って生きるのではない。

その法の指針を参照しながら、自らの生き方を、他者とともに手さぐりして生きる。
そういう態度のみが<倫理的>なのではないか。

そのためには<知識>も<論理=サイエンス>も必要である。

しかしなによりも貴重なのは、名づけることができない、ある生き方の姿勢なのだ。




[ 08:54 ] [ 日記 ]
この世界は、複雑でもあるが、単純でもある。

だからぼくたちは、複雑な事を考えることの根気を失うべきではない。
けれども“単純な真実”に対する“感覚”も失うべきではない。

ぼくは現在のマスメディアのほぼあらゆる“言説”が不快である。

なぜかれらは単純な事実を語らないのか。
なぜ彼らは、最低の“レトリック”で読者をあざむくことばかりに“労力”を使っているのか。

もっと“率直に(ストレート)に語る”ことはできないのか。

ぼくが“毎日”天声人語の“ような”言説に感じる不快感である。

それは確かに“利害”への配慮であり、それを“言説の公平性”に見せかけているのだ。

いま“ストレートに語るべきこと”は無数にある。
たとえば昨日の天木直人ブログは、パチンコ業界と警察OBの天下り癒着を追及した『紙の爆弾』という雑誌について以下のように書いている;

《およそ天下りはどの官庁のそれも醜悪なのであるが、警察官僚の天下りは、国家権力の悪用と直結しているだけに最も醜悪である。
それを正面から追及したばかりに、鹿砦社の松岡利康社長は名誉毀損で逮捕され、懲役1年2ヶ月、執行猶予4年の刑を受けた。
マスコミ人が名誉毀損で逮捕され、192日間も拘留されるなどということは前代未聞であるのに、大手マスコミは、松岡社長が「暴露本」出版社の社長であるといわんばかりに、松岡社長逮捕を無視した。だから、この事件は世の中に広く知られることはない。》


ぼくは『紙の爆弾』という雑誌を読んだことがないし、この雑誌の発行者が拘留されたことも知らなかった。

しかし、ぼくにもこのブログで天木氏が以下のように書いていることは、“よくわかる”。


《「朝すばっ!」の司会者であるみのもんたの一日のギャラが800万円であると、芸能レポーターの梨本勝が話している。
そういう人間に反権力の報道ができるのか。そこに群がる解説者たちが弱者の立場に身を置く事が出来るのか。》


ここには、“あまりにもシンプルな事実”がある。

ぼくには“みのもんたのような人間”も、“彼の言説を聞いていられる人間”もまったく信用できない。

“みのもんたのような人間”とは、現在のほぼすべてのテレビ人間のことではないか。

かれらを“ジャーナリスト”と呼ぶのである。

ぼくは“人間がなにかを言うときは”ストレートであるべきだと思う。

考え抜かれた言説は、ストレートで率直であるのだ。

だから“言い訳の言説”とともに“ストレートさを装った言説”を憎む。






2008/05/07のBlog
[ 21:07 ] [ 日記 ]
今日は仕事だったのでこのブログは、今日になったミッドナイトに書いた1本だけなのに、アクセス数は現在時点で昨日を上回る。

ジジェクのおかげであろうか(笑)

まったくドブログ読者のレベルは高いのである(爆)

ジジェク新刊が河出文庫より出ました;『ロベスピエール/毛沢東』という。

関係ないが、きょうも仕事帰りに”チンタオ・ビール”小瓶を飲みました、暑かったね。



もう、寝ます。




[ 01:00 ] [ 日記 ]
スラヴォイ・ジジェクは語る;

★ もちろん観念論的な用語を使ってこの謎を説明するのは簡単です。意識は進化論的な用語では説明できない、それゆえ精神主義的な局面が必要である、と。しかし、精神分析によって私たちはもう一つ別のパースペクティヴを定式化できるのではないかと思います。ここ最近わたしが関心を抱いていることですが、厳密に進化論的見地から、意識とは錯誤―進化の機能不全―のようなものである、そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ、という矛盾する考え方です。

★ 意識とは本来「何かが間違っている」という瞬間、あるいはラカンの用語を使えば、<現実界>の経験、不可能な極限の経験と結びついています。本来の自覚はある失敗や死すべき運命―生物学的な織物のなかの暗礁のようなもの―という体験によって推進されています。そして人間性、哲学的内省、進歩などと関係する、あらゆる形而上学的な局面は、この根本的なトラウマ的裂け目ゆえに、最終的に出現するのです。

★ 認知主義のなかで、私たちは機能不全というパラドクスと遭遇しています。つまり、自覚や人間の心が、ある非経済的な身振り、なんらかの失敗を前提としているということです。ですから、認知主義的な進化論という点からは説明できない、ある根本的な機能不全の形勢に出くわしてしまうのです。

★ さて、言うまでもなくこの苦境を覆す解決策は、ドイツ観念論と精神分析には、この機能不全に対する特定の用語があるということです。すなわちドイツ観念論では、それは絶対的で自己関係的な否定性であり、精神分析においては死の欲動でしょう。これこそが私が一般的に行なっていることの核心にあるものです。

★ ですから私にとって重要な点は、理性の過剰が理性そのものに内在しているということなのです。理性は理性そのものから発した何ものかと対峙しているのではなく、むしろ理性が対峙しているのは他ならぬ、自らの構成的狂気なのです。これは私たちに死の欲動を想起させますが、なぜならこの死の欲動というのが、まさに理性のこの構成的狂気のための名だからでしょう。

★ すでにドイツ観念論で私がかなり関心をもっていたのは、否定性(死の欲動)とともに、自然でも文化でもなく、その中間に位置するものがあるという観念です。私たちは自然から文化へとじかに経過してしまうことはできません。自然において何かがひどく間違った方向に向かっているのです。つまり、自然が不自然な怪物を生み出し、またこの怪物的なものに対処し、それを飼いならすためにこそ、わたしたちは象徴化を行なっているのだということです。

★ この根源となる次元、この超越論的な条件、これこそが私の興味を惹きつけているのです。なぜでしょうか。言うまでもなく、この次元がいつもここにあるからです。その次元が以前に生じ、そして今私たちが真理の領域のなかにいるという意味で、それが根源的であるということではありません。そう、言わばそれは、爆発しそうになりながら、つねに私たちを支えている次元なのです。

<以上『ジジェク自身によるジジェク』(河出書房新社2005)より引用>





<感想>

これは“感想”であって、“解説”では、ありません(笑)

つまり、上記の文章(発言)を読んで、“あなた”はなにを理解するでしょうか。
つまり、こういう文章を読んで、ぼくが“すべてを”理解するわけではありません。

この“引用”はダイジェストですし、この“部分”は長いインタビューの1部にすぎません。

ほんとうは“全文”が読まれるべきであり、さらにジジェクの他の著書や、“ドイツ観念論”(カントとかヘーゲル)やフロイト-ラカン理論の理解も必要です。

けれどもぼくがこういう乱暴な“引用”をしていることにも根拠はあると思う。
ひとは“すべてを読む”ことはできないからです。

こういう“引用”をぼくがしているのは、まず自分のための“備忘録”としてです。
しかし、こういう引用で、このブログを読んでいる方々(つまりジジェクもラカンも知らない方)に、いきなりこういう文章に出会って欲しいというのもぼくの望み(野心)です。

ぼくがこの引用個所を選んだのは、最後の《そう、言わばそれは、爆発しそうになりながら、つねに私たちを支えている次元なのです》という“言葉”だったかもしれない。

あるいは途中で出てくる《それを飼いならすためにこそ、わたしたちは象徴化を行なっている》だったかも知れない。
最初の《そしてこの錯誤のなかから奇跡が生じたのだ》という言葉がきっかけだったのは確かです。

ぼくはこれらの言葉と、ジジェクの“思想”を理解できているのではありません。
ただここでの“象徴化”というような言葉を、勝手に先日このブログに書いた《だから、言葉はある》に勝手に結びつけて“共感”したいのです。

おやすみなさい。




2008/05/06のBlog
[ 12:51 ] [ 日記 ]
GW中、どこにも行けなくて(ぼくのように)ひがんでいるひと、”ヒメヒカゲ備忘録”でエジプト旅行ができるよ(エジプト料理付き)


さらに、”教育問題”を考えたいひとには、”堀裕嗣ブログ”が現場からの切実なメッセージを発信している。



ツナミン・ブログには<死刑賛成論の構造分析>が出ている。
その”追記”部分を引用する;

【追記】
 しかし、どうしてこのような(2ちゃんねる的な)言論が跋扈するのかという社会的背景を考えるならば、日本社会の持つ特徴と大いに関係がありそうである。歴史学者の故・阿部謹也や刑法学者の佐藤直樹、精神医学者の木村敏らがつとに指摘しているように、日本には西洋流の社会や個人が存在せず、その代わりに存在しているのは、「世間」である。そこにおいては、主体性を持った個人は存在せず、大事なことは「場の空気」を読むことである。「場の空気」に合わない者、「場の空気」を乱す者は、厄介者として排除されることになる。したがって、そこにおいては、何よりも「場の空気」をいち早く読み、「場の空気」と一体化することである。そこでは論理もヘチマもないので、「場の空気」と一体化しさえすれば、もはやいかなる暴論でも許される。というよりも、過激な暴論であればあるほど、「場の空気」によって歓迎されるので、「場の力学」、すなわち集団的過剰同調促進機制によって、ますます過激化が進行することになる。

 BPOによって批判されたマスコミの報道姿勢も、死刑存置論者の多数派感情への居直りとしか言いようのない放埓な感情論も、すべてこうした「世間」の“論理”である「場の力学」にその原因が求められるだろう。
(以上引用)




ツナミンの経歴は知らないが、彼のブログを読んでいれば彼が”法”の領域にかかわってきた人であることがわかる。

死刑制度についても、ぼくの”直情的批判”に対して、彼は法を踏まえた立場から論理展開しているので、参考にしてほしい。

ぼくにとっては、”死刑制度”そのものより、上記の論点(ツナミン追記の)が核心である。

なぜ”われわれ”は、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか。

特に現在の<学校>や<職場>において、いつまでも《空気を読んで》いるのであろうか?

あるいは、現在”リベラル”が言っている”これからの地域社会重視”において、今度は地域社会の空気を読むのであろうか。

あるいはぼくたちの”老後”は、病院や老人ホームやデイサービスといったような空間の空気を読む集団生活のなかで、自分の人生の最後を迎えるのであろうか。

今朝のブログで紹介した市野川『社会』の最初の部分で(すでに)衝撃的だったのは、
西欧において<社会>という”概念”が現れたのは、<個人主義>という概念があらわれたのと同時である、という指摘であった。

この<個人主義>の”運命”にも曲折があることは、知っているひとは知っている。

そしてこの個人主義=社会を”遅く学んだ”われわれは、現在先進国面(づら)して、この”グローバル世界”でイニシアティブさえ取ろうとしてきたのだ。

ぼくが何に憤っているかも、分かるひとにはわかるのだが、分からないひとにはなかなかわからない模様である(笑)




[ 12:18 ] [ 日記 ]
ぼくも(は)あんまり“素朴”なことを言いたくはないんだが(笑)

“考える”ためには“知らなければ”なりません。

先日のブログで、“岩波新書”を読むことを提案しました。
岩波以外の“良い新書”でもいいです(笑)

もうひとつ、最近ぼくが“発見”したシリーズを推薦します。

実はぼくも初めてこのシリーズの1冊を買って読み始めたばかりなんですが(笑)
これまた岩波書店で恐縮ですが、“思考のフロンティア”というシリーズです。

いろんなテーマについて、“若手”が書いているらしい<注>
ぼくがまず買ったのは市野川容孝『社会』で、昨日岡真理『記憶/物語』もアマゾンに注文しました。

この市野川容孝『社会』の“はじめに”と本文を数ページ読んだだけで、ぼくには“目からウロコ”ですね(笑)

もちろんぼくのように“無教養”でない方には、この本に書かれているようなことは“常識”かも知れませんが。

しかしぼくの“偏見”によると、どうもここに書かれているようなことが、現在の日本人の“基本的認識”になっていないように思われます。
(誤解だったら許してね)

世間では“岩波文化人”を嫌う方々も多いようですが(実はぼくにもその傾向があったわけですが)、“世間”がこれだけ右傾化=保守化した現在、“岩波さん”もいい意味で“柔軟(ソフト)”になってきたようにお見受けします。

別に“岩波の本だけがいい”などというつもりは、全然ございません。
“現在の新書”と上記シリーズは、いいのではないか、という意味です。



<注>

このシリーズで扱われているテーマを、いくつか列挙します;

”身体・生命”、”デモクラシー”、”公共性”、”精神分析”、”法”、”暴力”、”正義”、”アイデンティティ・他者性”、”市場”、”原理主義”、”脱構築”、”権力”、”ジェンダー・セクシュアリテ”、”フェミニズム”、”環境”、”教育”、”資本”、”自由”、”難民”など