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2008/05/14のBlog
[ 14:16 ]
[ 日記 ]
今朝書いたsnapshot s1719への注記;
大澤氏のこの本を推薦する根拠の“ひとつ”は、ここでの考察が“世界水準にある”ことです。
具体的には、ハーバーマス、デリダ、ロールズ、ベンヤミン、ラカン、ジジェクなどといった、“現代の思想家たち”が参照されていることです。
またこれらの“翻訳書のある”思想家だけではなく、“翻訳書がない”思想家も参照されている。
ぼくがなぜこれを言うか?
現在<日本>は、新たな鎖国状態にあるからです。
ぼくはマーチン・ジェイの『暴力の屈折』に参照されている“現在のアメリカ思想家が書いた本”が軒並み翻訳されていないことにショックを受けたと、前にこのブログに書いた。
またこれまでに良心的な出版社によって翻訳出版された海外思想家の翻訳書が、どんどん品切れになり、書店から姿を消している。
ぼくが“現在出版されているある種の本”を憎むのは、これらの“新しい本”が、端的に、良心的な本の場所を奪い、駆逐しているからだ。
ぼくは自分自身が“POPカルチャー的人間”でもあるので、こういう“事態”に複雑な感慨を持つものである。
しかも現在海外で出版されている“思考”が、“POPカルチャー”自体への、この国では考えられていない考察を展開している可能性もある。
またぼくが“日本の現在が鎖国状態にある”という意味は、現在のマスメディア的言説の本質に係わる。
つまり、テレビや新聞がいかに“海外の現地から”取材・発信していても、その言説が鎖国的であるという“事実”がある(しかも近年のイラクのように、一番肝心の時に日本のマスメディアが現地にまったく“いない”という事態もあった)
海外にいかに“赴任”しようと、自分がいる場所を“まったく見ていない”ジャーナリストというのが多々見受けられる。
またぼくが言う“マスメディア的言説”というのは、テレビ・新聞・雑誌などのいわゆる“ジャーナリズム”のみを意味しない。
“大学の先生方”が書いている本も意味する。
“文学や小説の言説”や“映画”や“音楽”や“アート”も意味します。
大澤氏のこの本を推薦する根拠の“ひとつ”は、ここでの考察が“世界水準にある”ことです。
具体的には、ハーバーマス、デリダ、ロールズ、ベンヤミン、ラカン、ジジェクなどといった、“現代の思想家たち”が参照されていることです。
またこれらの“翻訳書のある”思想家だけではなく、“翻訳書がない”思想家も参照されている。
ぼくがなぜこれを言うか?
現在<日本>は、新たな鎖国状態にあるからです。
ぼくはマーチン・ジェイの『暴力の屈折』に参照されている“現在のアメリカ思想家が書いた本”が軒並み翻訳されていないことにショックを受けたと、前にこのブログに書いた。
またこれまでに良心的な出版社によって翻訳出版された海外思想家の翻訳書が、どんどん品切れになり、書店から姿を消している。
ぼくが“現在出版されているある種の本”を憎むのは、これらの“新しい本”が、端的に、良心的な本の場所を奪い、駆逐しているからだ。
ぼくは自分自身が“POPカルチャー的人間”でもあるので、こういう“事態”に複雑な感慨を持つものである。
しかも現在海外で出版されている“思考”が、“POPカルチャー”自体への、この国では考えられていない考察を展開している可能性もある。
またぼくが“日本の現在が鎖国状態にある”という意味は、現在のマスメディア的言説の本質に係わる。
つまり、テレビや新聞がいかに“海外の現地から”取材・発信していても、その言説が鎖国的であるという“事実”がある(しかも近年のイラクのように、一番肝心の時に日本のマスメディアが現地にまったく“いない”という事態もあった)
海外にいかに“赴任”しようと、自分がいる場所を“まったく見ていない”ジャーナリストというのが多々見受けられる。
またぼくが言う“マスメディア的言説”というのは、テレビ・新聞・雑誌などのいわゆる“ジャーナリズム”のみを意味しない。
“大学の先生方”が書いている本も意味する。
“文学や小説の言説”や“映画”や“音楽”や“アート”も意味します。
[ 13:00 ]
[ 日記 ]
ツナミン・ブログで医療・介護情報サイト“CB(キャリア・ブレイン)サイト”が「後期高齢者医療制度」の廃止を求めている茨城県医師会会長・原中勝征さんへのインタビューを掲載しているのを知った。
全文を貼り付ける;
<「高齢者いじめの制度は許せない」後期高齢者医療制度 茨城県医師会会長・原中勝征さん>
75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼び、健康保険や国民健康保険から追い出して強制加入させ、保険料を年金から天引きするだけでなく、保険料を払えなければ保険証を取り上げる―。厚生労働省は「長寿医療制度」という呼称を使用したポスターやチラシなどで「後期高齢者医療制度」への理解を求めたが、保険証の未着や保険料の天引きミスなど、混乱は続いた。制度の廃止を求める動きも活発化している。制度開始前、茨城県医師会は都道府県レベルの医師会では初めて同制度の廃止を求める声明を発表。「みなさん、こんな高齢者いじめの制度が許せますか!」と題するポスターを作成し、反対の署名活動を展開している。後期高齢者医療制度をめぐる問題について、同医師会会長の原中勝征さんに話を聞いた。(新井裕充)
―制度がスタートする前の3月下旬の理事会で、反対する方針を決定したそうですね。
全会一致で決めました。主治医が受け取ることができる「後期高齢者診療料」(患者一人につき月6000円)の届け出をしないで、従来通り出来高払いで算定するように会員医師に呼び掛けています。また、「後期高齢者診療料」の届け出条件である研修会を開催していません。厚労省は慌てて「介護保険の主治医研修会に出席した場合でも主治医として認める」とか、「研修を受講したという自己申告でも認める」などと言いだしました。おかしな話です。
―県民からの反対署名も集まっているようですね。
4月下旬、新聞の折り込み広告で制度の廃止に関する署名を求めました。ものすごい反響で、毎日のようにファクスなどが届いています。そのほとんどは生活苦で、例えば、「高級官僚や政治家に不正な使い方をされて生活が苦しいです」「余生を寂しく過ごしています」「官僚を野放しにすることは国民いじめです」といった内容です。
―「長寿」ではなく、「末期」高齢者医療制度と言う人もいます。
終末期の診療方針について、主治医が患者の家族と話し合って署名をさせれば、その主治医に手数料が入るなんて、そんなばかな制度がありますか。食う物も食えずに戦時中を生き抜いた、戦後の高度経済成長を支えたご老人を“うば捨て山”に追いやるような制度は断じて許せません。老人を大切にしない国の姿勢が問われていると思います。
―なぜ、このような制度をつくったのでしょうか。
「新たな財源を生み出す」「老人医療費を抑制する」という二つの目的が考えられます。医療費の財源が不足していますから、現在の国民皆保険制度を守るためには新しい財源を生み出す制度が必要です。しかし、目的税(消費税)は財務省の管轄になりますから、集めたお金を財務省がハンドリングしてしまう。これは厚労省にとって好ましくないので、自分たちで使えるお金を集めることができる制度として、後期高齢者医療制度をつくったのです。
―「老人医療費を抑制する」という目的ですが、老人医療費は伸びているのでしょうか。
老人医療費が伸びているとは必ずしも言い切れません。東北大の病院管理学の教授は、医療費の伸びの一番大きい部分が「高額医療費」であるとして、医学や科学の進歩によって高度な治療方法や高額な薬剤が開発されたことを医療費増加の主な原因に挙げています。厚労省の医療費の推計もでたらめです。1995年の予測では、医療費が2025年に141兆円になると言っていました。しかし、2005年に出した予測では69兆円に下方修正しています。せめて10兆円ぐらいの変更ならいいですが、半分以下になるというのはおかしいでしょう。でたらめな数字を出して、国民に「大変だ」という意識を持たせて洗脳しようというやり方はいけません。
■75歳以上の老人医療費を無料に
―テレビなどで原中会長が発言している内容に対して、厚労省は反発しているそうですね。
(後期高齢者医療制度を設計した)保険局医療課の原徳壽課長は、わたしの発言が「間違っている」と反論しているようです。「フリーアクセス(自由な受診)は制限していません。好きな病院に自由に行くことができます」と言う。それなら、どうしてこんな制度をつくったのでしょう。なぜ、主治医の報酬を高くしたのでしょうか。(主治医である)内科の先生が耳鼻科や眼科の先生に患者を紹介したとき、耳鼻科や眼科の診療報酬の方が安くなっています。自分が主治医の報酬をもらっていて、紹介先の先生が安い診療報酬になることを承知で、「当院の患者さんをお願いします」と言えますか。つまり、後期高齢者診療料はフリーアクセスを阻止するための手段なのです。
―しかし、主治医が高齢者の心身の状態を総合的に把握して、重複投薬や重複検査を減らすという厚労省の考えにも理解できる部分があります。
確かに、患者の健康状態などを把握した上で、適切なアドバイスをする医師は必要です。老人になると、足や目が悪くなり、病気も増えます。「老老介護」の世帯や独居老人もいます。そこで、近所の診療所の先生が医師の立場から面倒を見てあげる必要があります。これは、「かかりつけ医」という呼称で日本医師会も主張しています。そこで、厚労省は「日医も認めているじゃないか」と言いますが、日医が主張している「かかりつけ医」と厚労省の「主治医」は違います。日医の言う「かかりつけ医」は、医師の社会的な奉仕を広げた内容であって、ほかの病院に行くことを阻止する制度ではありません。
―厚労省は「主治医は一人」とか、「主病(主な病気)は一つ」と言っていますから、やはりフリーアクセスを制限しますね。
老人になるといろいろな病気を持っていますが、「主な病気は一つだけ」ということが、この制度の根本にあります。ですから、主病を扱った医師だけが高い診察料を受け取ることができて、副病を扱った医師は安くなるようにしたのです。内科医は心臓や血圧は診ることができますが、目の病気や前立腺肥大、脳出血後のリハビリ、外科手術が必要な胃がんなどは診れませんから、専門の医師に頼む必要があります。しかし、これらのうちどれが主病であるか、医学的に一つに決められるのでしょうか。「主治医は一人」「主病は一つ」という言い方をすることは、「高齢者を総合的に診る」という考えとは違います。高齢者を総合的に診るための制度であるなら、高齢者が気軽に何度も病院に行けるような制度にすべきです。わたしは、75歳以上の老人医療費は無料にすべきだと考えています。
■後期高齢者医療制度は廃止すべき
―75歳以上の老人医療費を無料にするとして、財源はどうしましょうか。
国家予算の一般会計83兆円に対し、各省庁が資金の使い道を握る特別会計は240兆円あるといわれています。この240兆円の中の1兆円を回せばいい。後期高齢者の医療保険料は全部で約8100億円、やがて1兆2000万円にまで増えるといわれていますが、240兆円の中から1兆円ぐらい出せないわけないでしょう。特別会計を一般会計に回して国民のために使わなければ、どんなに間接税を上げようと国民は幸せになれません。後期高齢者の保険料なんて、必要ないのです。国の無駄遣いや利権に染まった国家予算を減らせばいいのです。
―年金記録の問題も解決していないのに、お年寄りの少ない年金から天引きする。批判が噴出するのは当然ですね。
後期高齢者医療制度が社会保障制度であるなら、年金の少ない高齢者に対して保険料を免除するなど、何らかのセーフティーネットが必要です。憲法25条(生存権)により、国は国民の最低限度の生活を保障する義務がありますから、生活が苦しいお年寄りを保護する責任があるはずです。それなのに、戦後の荒廃から今日の日本をつくったご老人の年金から税金を取って、介護保険料を取って、さらに後期高齢者保険料を取る。これは、国の老人に対する基本的な姿勢が間違っているとしか言いようがありません。やはり、後期高齢者医療制度はいったん廃止して、改めてお金の出し方を国民全体で考えるべきでしょう。厚労省が本当の数字を出した上で、「医療費が足りませんから、この方法しかありません」ときちんと提案すれば、わたしたちも協力します。しかし、現在のままでは、厚労省はますます国民の信頼を失うでしょう。こんな高齢者いじめの制度は許せません。
(更新:2008/05/09 20:05 キャリアブレイン )
全文を貼り付ける;
<「高齢者いじめの制度は許せない」後期高齢者医療制度 茨城県医師会会長・原中勝征さん>
75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼び、健康保険や国民健康保険から追い出して強制加入させ、保険料を年金から天引きするだけでなく、保険料を払えなければ保険証を取り上げる―。厚生労働省は「長寿医療制度」という呼称を使用したポスターやチラシなどで「後期高齢者医療制度」への理解を求めたが、保険証の未着や保険料の天引きミスなど、混乱は続いた。制度の廃止を求める動きも活発化している。制度開始前、茨城県医師会は都道府県レベルの医師会では初めて同制度の廃止を求める声明を発表。「みなさん、こんな高齢者いじめの制度が許せますか!」と題するポスターを作成し、反対の署名活動を展開している。後期高齢者医療制度をめぐる問題について、同医師会会長の原中勝征さんに話を聞いた。(新井裕充)
―制度がスタートする前の3月下旬の理事会で、反対する方針を決定したそうですね。
全会一致で決めました。主治医が受け取ることができる「後期高齢者診療料」(患者一人につき月6000円)の届け出をしないで、従来通り出来高払いで算定するように会員医師に呼び掛けています。また、「後期高齢者診療料」の届け出条件である研修会を開催していません。厚労省は慌てて「介護保険の主治医研修会に出席した場合でも主治医として認める」とか、「研修を受講したという自己申告でも認める」などと言いだしました。おかしな話です。
―県民からの反対署名も集まっているようですね。
4月下旬、新聞の折り込み広告で制度の廃止に関する署名を求めました。ものすごい反響で、毎日のようにファクスなどが届いています。そのほとんどは生活苦で、例えば、「高級官僚や政治家に不正な使い方をされて生活が苦しいです」「余生を寂しく過ごしています」「官僚を野放しにすることは国民いじめです」といった内容です。
―「長寿」ではなく、「末期」高齢者医療制度と言う人もいます。
終末期の診療方針について、主治医が患者の家族と話し合って署名をさせれば、その主治医に手数料が入るなんて、そんなばかな制度がありますか。食う物も食えずに戦時中を生き抜いた、戦後の高度経済成長を支えたご老人を“うば捨て山”に追いやるような制度は断じて許せません。老人を大切にしない国の姿勢が問われていると思います。
―なぜ、このような制度をつくったのでしょうか。
「新たな財源を生み出す」「老人医療費を抑制する」という二つの目的が考えられます。医療費の財源が不足していますから、現在の国民皆保険制度を守るためには新しい財源を生み出す制度が必要です。しかし、目的税(消費税)は財務省の管轄になりますから、集めたお金を財務省がハンドリングしてしまう。これは厚労省にとって好ましくないので、自分たちで使えるお金を集めることができる制度として、後期高齢者医療制度をつくったのです。
―「老人医療費を抑制する」という目的ですが、老人医療費は伸びているのでしょうか。
老人医療費が伸びているとは必ずしも言い切れません。東北大の病院管理学の教授は、医療費の伸びの一番大きい部分が「高額医療費」であるとして、医学や科学の進歩によって高度な治療方法や高額な薬剤が開発されたことを医療費増加の主な原因に挙げています。厚労省の医療費の推計もでたらめです。1995年の予測では、医療費が2025年に141兆円になると言っていました。しかし、2005年に出した予測では69兆円に下方修正しています。せめて10兆円ぐらいの変更ならいいですが、半分以下になるというのはおかしいでしょう。でたらめな数字を出して、国民に「大変だ」という意識を持たせて洗脳しようというやり方はいけません。
■75歳以上の老人医療費を無料に
―テレビなどで原中会長が発言している内容に対して、厚労省は反発しているそうですね。
(後期高齢者医療制度を設計した)保険局医療課の原徳壽課長は、わたしの発言が「間違っている」と反論しているようです。「フリーアクセス(自由な受診)は制限していません。好きな病院に自由に行くことができます」と言う。それなら、どうしてこんな制度をつくったのでしょう。なぜ、主治医の報酬を高くしたのでしょうか。(主治医である)内科の先生が耳鼻科や眼科の先生に患者を紹介したとき、耳鼻科や眼科の診療報酬の方が安くなっています。自分が主治医の報酬をもらっていて、紹介先の先生が安い診療報酬になることを承知で、「当院の患者さんをお願いします」と言えますか。つまり、後期高齢者診療料はフリーアクセスを阻止するための手段なのです。
―しかし、主治医が高齢者の心身の状態を総合的に把握して、重複投薬や重複検査を減らすという厚労省の考えにも理解できる部分があります。
確かに、患者の健康状態などを把握した上で、適切なアドバイスをする医師は必要です。老人になると、足や目が悪くなり、病気も増えます。「老老介護」の世帯や独居老人もいます。そこで、近所の診療所の先生が医師の立場から面倒を見てあげる必要があります。これは、「かかりつけ医」という呼称で日本医師会も主張しています。そこで、厚労省は「日医も認めているじゃないか」と言いますが、日医が主張している「かかりつけ医」と厚労省の「主治医」は違います。日医の言う「かかりつけ医」は、医師の社会的な奉仕を広げた内容であって、ほかの病院に行くことを阻止する制度ではありません。
―厚労省は「主治医は一人」とか、「主病(主な病気)は一つ」と言っていますから、やはりフリーアクセスを制限しますね。
老人になるといろいろな病気を持っていますが、「主な病気は一つだけ」ということが、この制度の根本にあります。ですから、主病を扱った医師だけが高い診察料を受け取ることができて、副病を扱った医師は安くなるようにしたのです。内科医は心臓や血圧は診ることができますが、目の病気や前立腺肥大、脳出血後のリハビリ、外科手術が必要な胃がんなどは診れませんから、専門の医師に頼む必要があります。しかし、これらのうちどれが主病であるか、医学的に一つに決められるのでしょうか。「主治医は一人」「主病は一つ」という言い方をすることは、「高齢者を総合的に診る」という考えとは違います。高齢者を総合的に診るための制度であるなら、高齢者が気軽に何度も病院に行けるような制度にすべきです。わたしは、75歳以上の老人医療費は無料にすべきだと考えています。
■後期高齢者医療制度は廃止すべき
―75歳以上の老人医療費を無料にするとして、財源はどうしましょうか。
国家予算の一般会計83兆円に対し、各省庁が資金の使い道を握る特別会計は240兆円あるといわれています。この240兆円の中の1兆円を回せばいい。後期高齢者の医療保険料は全部で約8100億円、やがて1兆2000万円にまで増えるといわれていますが、240兆円の中から1兆円ぐらい出せないわけないでしょう。特別会計を一般会計に回して国民のために使わなければ、どんなに間接税を上げようと国民は幸せになれません。後期高齢者の保険料なんて、必要ないのです。国の無駄遣いや利権に染まった国家予算を減らせばいいのです。
―年金記録の問題も解決していないのに、お年寄りの少ない年金から天引きする。批判が噴出するのは当然ですね。
後期高齢者医療制度が社会保障制度であるなら、年金の少ない高齢者に対して保険料を免除するなど、何らかのセーフティーネットが必要です。憲法25条(生存権)により、国は国民の最低限度の生活を保障する義務がありますから、生活が苦しいお年寄りを保護する責任があるはずです。それなのに、戦後の荒廃から今日の日本をつくったご老人の年金から税金を取って、介護保険料を取って、さらに後期高齢者保険料を取る。これは、国の老人に対する基本的な姿勢が間違っているとしか言いようがありません。やはり、後期高齢者医療制度はいったん廃止して、改めてお金の出し方を国民全体で考えるべきでしょう。厚労省が本当の数字を出した上で、「医療費が足りませんから、この方法しかありません」ときちんと提案すれば、わたしたちも協力します。しかし、現在のままでは、厚労省はますます国民の信頼を失うでしょう。こんな高齢者いじめの制度は許せません。
(更新:2008/05/09 20:05 キャリアブレイン )
[ 11:17 ]
[ 日記 ]
《真に開かれた民主主義》
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
大澤真幸氏は『逆接の民主主義』において、これを考え、具体案を提起している。
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
というのは、何を意味するか。
このことについて、このコンパクトな新書に、めまぐるしい“思考”がつまっている。
ぼく自身これを元に“考える”必要があるし、この本はそのための起爆装置に満ちている。
たとえば《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》という命題の逆はなにか;
《「民主主義」を逆方向に「乗り越える」ときに得られるのが、全体主義である》
まさに明確である。
ぼくはこの“定義”を信じる。
大澤氏の多様な論議のなかから、<歴史>についての考察を取上げたい。
ぼくはこの記述に一種の感動をおぼえた;
まず歴史は、《必然的に勝者の歴史であるほかない》
《だが、このような通常の歴史認識の中では、構造的に脱落するものがある。敗者である。あるいは、こう言ってもよい、歴史の渦中の生成する行為に含まれていた自由と可能性である、と》
《つまり、事後の視点にとっては、歴史は、「ここ」へと至る必然の連鎖だが、渦中にあっては、つまり歴史の過程に参加していた者にとっては、それは、必然とはほど遠い。そこでは、「他でもありえた」中にあって、「これ」が実現し、また選ばれていく、連続だったのだ。後からの歴史の中には登録されることがない、「他でもありえた」という可能性、こうした可能性に加担した人々、こうした可能性の中でしか意味を与えられない人々、これが歴史の敗者である。歴史の生成の中に参与するならば、任意の地点に、敗者の可能性が隣接している》
《誰もが、敗者たりえたという可能性があるのだ。敗者でありえたということこそが、歴史の渦中にあって、人は自由な選択の主体であったということ以外の何ものでもあるまい》
《フロイトに「死の欲動」という奇妙な仮説を吹き込んだ反復強迫とは、歴史の生成の中にありながら、歴史記述の中からは抹消されてしまう、この「他でありえた」という偶有性を再発掘しようとする試みの繰り返しであると解釈することができる。
偶有性は、事後の視点からは抹消されてしまうので、ただ、その地点に回帰するということの反復によってしか回復しえないのだ》
もし現在において“アクチュアルな”思考が可能ならば、この本での大澤氏のような思考を意味する。
ぼくはこの新書『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)を烈しく推薦します(笑)
あなたが、この本と共に考える事を。
”天声人語”を読んでいる場合ではありません(爆)
あらゆる”マスメディア的言説”を。
それは”右であれ左であれリベラルであれ”、<全体主義への道>にしか至りません。
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
大澤真幸氏は『逆接の民主主義』において、これを考え、具体案を提起している。
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
というのは、何を意味するか。
このことについて、このコンパクトな新書に、めまぐるしい“思考”がつまっている。
ぼく自身これを元に“考える”必要があるし、この本はそのための起爆装置に満ちている。
たとえば《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》という命題の逆はなにか;
《「民主主義」を逆方向に「乗り越える」ときに得られるのが、全体主義である》
まさに明確である。
ぼくはこの“定義”を信じる。
大澤氏の多様な論議のなかから、<歴史>についての考察を取上げたい。
ぼくはこの記述に一種の感動をおぼえた;
まず歴史は、《必然的に勝者の歴史であるほかない》
《だが、このような通常の歴史認識の中では、構造的に脱落するものがある。敗者である。あるいは、こう言ってもよい、歴史の渦中の生成する行為に含まれていた自由と可能性である、と》
《つまり、事後の視点にとっては、歴史は、「ここ」へと至る必然の連鎖だが、渦中にあっては、つまり歴史の過程に参加していた者にとっては、それは、必然とはほど遠い。そこでは、「他でもありえた」中にあって、「これ」が実現し、また選ばれていく、連続だったのだ。後からの歴史の中には登録されることがない、「他でもありえた」という可能性、こうした可能性に加担した人々、こうした可能性の中でしか意味を与えられない人々、これが歴史の敗者である。歴史の生成の中に参与するならば、任意の地点に、敗者の可能性が隣接している》
《誰もが、敗者たりえたという可能性があるのだ。敗者でありえたということこそが、歴史の渦中にあって、人は自由な選択の主体であったということ以外の何ものでもあるまい》
《フロイトに「死の欲動」という奇妙な仮説を吹き込んだ反復強迫とは、歴史の生成の中にありながら、歴史記述の中からは抹消されてしまう、この「他でありえた」という偶有性を再発掘しようとする試みの繰り返しであると解釈することができる。
偶有性は、事後の視点からは抹消されてしまうので、ただ、その地点に回帰するということの反復によってしか回復しえないのだ》
もし現在において“アクチュアルな”思考が可能ならば、この本での大澤氏のような思考を意味する。
ぼくはこの新書『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)を烈しく推薦します(笑)
あなたが、この本と共に考える事を。
”天声人語”を読んでいる場合ではありません(爆)
あらゆる”マスメディア的言説”を。
それは”右であれ左であれリベラルであれ”、<全体主義への道>にしか至りません。
2008/05/13のBlog
[ 08:14 ]
[ 日記 ]
今日の天声人語!(笑)
まず言っておきたいが、昨年(かな?)天声人語のライターが変わった時の紹介を読んだが、現在のライターは二人で、年齢は50過ぎのはずである(ぼくの記憶違いでなければ)
つまり“ぼく”より10歳程度年下なのである。
ああ、それなのに、この“センス”の古さはなに!
たぶん彼らは“朝日新聞”読者が高齢者のみになったのに対応して、“高齢者的話題とセンス”に徹するよう“努力”しているのである。
まさか自分より高齢者の“上司”にのみ気を使っているのではあるまい(笑)
具体的には、天声人語が“引用”するものは、ことごとく“古臭い”。
ぼくは昭和初期にいるような気がする。
すくなくともこれは、“戦後”の感性では、ない。
今日の天声人語?(笑)
今日の天声人語は、戦後すぐに庶民が詠んだ「平和百人一首」を収めた新刊『百のうた 千の想(おも)い』をネタにしている。
つまり“戦後”を話題にしている。
その展開はいかに?(笑)
最後はこう結ばれている;
《▼米粉の増産支援に、政府が乗り出すそうだ。小麦の代わりに、パンやめんの原材料に使うのだという。米も石炭も、国の「ピンチ」で光が当たるのは、思えば皮肉である。食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポンが、60年前の歌に照らされるように浮かび上がる。》
はあー、そうなんですか!(爆)
えっと、“戦後60年”、朝日新聞は“ずっとあった”のではありませぬか?
その間(いやそれ以前、戦中も)朝日新聞は、影響力あるメディアだったのではないのですか?
そうなると、現在の《食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポン》に朝日新聞も責任がある。
つまり過去のあらゆる時点で、朝日新聞が今日のように、《思えば皮肉である》などと“達観している”うちに、この戦後60年は経過し、《心細く肥満したニッポン》が出現したのである。
つまり朝日新聞の(天声人語の)ような言説もこの“戦後60年”の《心細く肥満したニッポン》製造に寄与してきたのである。
だからこういう言説の連鎖を断ち切る言説でなければ、これからの“60年後”はもっとひどくなるだけである(侮蔑の笑;ひひひ)
まず言っておきたいが、昨年(かな?)天声人語のライターが変わった時の紹介を読んだが、現在のライターは二人で、年齢は50過ぎのはずである(ぼくの記憶違いでなければ)
つまり“ぼく”より10歳程度年下なのである。
ああ、それなのに、この“センス”の古さはなに!
たぶん彼らは“朝日新聞”読者が高齢者のみになったのに対応して、“高齢者的話題とセンス”に徹するよう“努力”しているのである。
まさか自分より高齢者の“上司”にのみ気を使っているのではあるまい(笑)
具体的には、天声人語が“引用”するものは、ことごとく“古臭い”。
ぼくは昭和初期にいるような気がする。
すくなくともこれは、“戦後”の感性では、ない。
今日の天声人語?(笑)
今日の天声人語は、戦後すぐに庶民が詠んだ「平和百人一首」を収めた新刊『百のうた 千の想(おも)い』をネタにしている。
つまり“戦後”を話題にしている。
その展開はいかに?(笑)
最後はこう結ばれている;
《▼米粉の増産支援に、政府が乗り出すそうだ。小麦の代わりに、パンやめんの原材料に使うのだという。米も石炭も、国の「ピンチ」で光が当たるのは、思えば皮肉である。食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポンが、60年前の歌に照らされるように浮かび上がる。》
はあー、そうなんですか!(爆)
えっと、“戦後60年”、朝日新聞は“ずっとあった”のではありませぬか?
その間(いやそれ以前、戦中も)朝日新聞は、影響力あるメディアだったのではないのですか?
そうなると、現在の《食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポン》に朝日新聞も責任がある。
つまり過去のあらゆる時点で、朝日新聞が今日のように、《思えば皮肉である》などと“達観している”うちに、この戦後60年は経過し、《心細く肥満したニッポン》が出現したのである。
つまり朝日新聞の(天声人語の)ような言説もこの“戦後60年”の《心細く肥満したニッポン》製造に寄与してきたのである。
だからこういう言説の連鎖を断ち切る言説でなければ、これからの“60年後”はもっとひどくなるだけである(侮蔑の笑;ひひひ)
[ 07:38 ]
[ 日記 ]
中国での地震のニュースがずらっと並ぶヤフーニュース・アクセス・ランキングの2位にこういうニュースがある;
<松本人志が硫化水素自殺で「放言」、「アホが死んだら別に俺はええねん」>J-CASTニュース
松本人志のラジオ番組での発言が、“2ちゃんねる”やニコニコ動画で話題になっているというのだ。
いちおう松本人志がなにを言ったのかをこの記事からひろってみる;
《まず、松本さんが、「いま自殺もはやっているでしょ」と話題を振った。そして、「何かよう分からん。なんや、あれ。なんか液体の、あれやわ、ガスみたいな」と言葉に詰まると、高須さんが、「硫化水素やね」と助け舟を出した。
松本さんは、相槌を打つと、マスコミに不満をぶつけた。
「ニュースが面白がってんねん。今日は何件あったとか、やっとるわけよ。もうええねん、もう一切そのニュースはなし」
さらに、「自殺なんてね。報道すればするほど、あいつら寂しいヤツらだから、俺も死のうって思うヤツがたくさん出てくんねん」と批判した。
そして、「問題発言」とされたのは、松本さんの次の発言だ。
「まあ、ある意味ね。ちょうどええ時期に、そんなアホが死んだら別に俺はええねんけど」
こうした会話で、2人は盛り上がった。高須さんが「ええこと言ったね、松本さん」と水を向けると、松本さんは、「ほんとに間違ってないわ、俺らはね」とうれしそうだった。》
(以上引用)
なんか、引用しているだけで気力が失せるような、くだらなさである。
だから“こういうくだらない話”は無視するという、“正当な”立場もありえ得る。
だがぼくのブログは、ちゃんと“山本モナ”や“羊水発言”も取上げてきた歴史がある(笑)
ぼくは、ようするに松本人志も“2ちゃんねる”的な人々も嫌いである。
なぜなら、彼らは“同じ人々(同じフィーリングの人々)”であるから。
つまり松本人志にとっては、“2ちゃんねる的な人々“こそがお客さんなのである。
この記事での松本人志が《マスコミに不満をぶつけた》というのは、論理矛盾である。
松本人志が“マスコミ”なのである。
これはみのもんたが“何々をズバッと切り捨てた”と同じ構造である。
彼らは“自己批判”しているのであろうか!
とんでもない、<保身>しているだけである。
ここでの問題の本質は“硫化水素で自殺する人々の続出”という新たな事態である。
それは“硫化水素”という新たな自殺法の存在と、その使用が他者を巻き込むという特質の問題である。
しかしさらに(硫化水素に限らない)近年の<自殺>の高い水準がなぜこうも持続し、さらにこれが増大の傾向にあることを示している。
そうであるから、“この社会の現在”がなぜ自殺者を生み出してしまうかについての根本的感性と考察が必要である。
たしかに硫化水素自殺が“流行”しているから、それに乗ってしまうという“アホな”人間もいるだろう。
しかしその場合も、なぜこんなに“アホな人間が多くなったか”が問題である。
さらにこういう“アホな人間”こそ松本の“飯のタネ”であることへの反省が松本のような“お笑い人間”には必要であろう。
ぼくはこの松本発言に次の2点を感じる;
① 芸能人の“勝ち組”的傲慢。
② いやなことは笑って誤魔化す(見ないで考えないで誤魔化す)卑怯。
本来の“お笑い芸人”とは、“認識したうえで”、それを笑いで批判したり、ぶっ飛ばしたりする“芸”であった。
それは時代に対するするどい感受性と批判精神によって実現するものであった。
自分の弱さ、あるいは弱さを抱えざるを得ない“人間”の苦しみを洞察しうる所から生まれる“笑い”であった。
いったい松本人志のような庶民でもなく、知識人でもない“大衆ぼっちゃん”芸人になにが“分かる”のか。
ほとんどテレビ局やラジオ局で寝泊りしているような人間にどんな“世間の空気”が読めるのか。
あるいは松本人志は、“まともな本”を読んだことがあるのだろうか。
“まともな映画”をみたことがあるの?(笑)
もちろんぼくは松本人志の先輩である、テレビ村でボス面しているすべての“偽芸人”にこう言いたい。
たけしにタモリ、聞いてんのか(爆)
<松本人志が硫化水素自殺で「放言」、「アホが死んだら別に俺はええねん」>J-CASTニュース
松本人志のラジオ番組での発言が、“2ちゃんねる”やニコニコ動画で話題になっているというのだ。
いちおう松本人志がなにを言ったのかをこの記事からひろってみる;
《まず、松本さんが、「いま自殺もはやっているでしょ」と話題を振った。そして、「何かよう分からん。なんや、あれ。なんか液体の、あれやわ、ガスみたいな」と言葉に詰まると、高須さんが、「硫化水素やね」と助け舟を出した。
松本さんは、相槌を打つと、マスコミに不満をぶつけた。
「ニュースが面白がってんねん。今日は何件あったとか、やっとるわけよ。もうええねん、もう一切そのニュースはなし」
さらに、「自殺なんてね。報道すればするほど、あいつら寂しいヤツらだから、俺も死のうって思うヤツがたくさん出てくんねん」と批判した。
そして、「問題発言」とされたのは、松本さんの次の発言だ。
「まあ、ある意味ね。ちょうどええ時期に、そんなアホが死んだら別に俺はええねんけど」
こうした会話で、2人は盛り上がった。高須さんが「ええこと言ったね、松本さん」と水を向けると、松本さんは、「ほんとに間違ってないわ、俺らはね」とうれしそうだった。》
(以上引用)
なんか、引用しているだけで気力が失せるような、くだらなさである。
だから“こういうくだらない話”は無視するという、“正当な”立場もありえ得る。
だがぼくのブログは、ちゃんと“山本モナ”や“羊水発言”も取上げてきた歴史がある(笑)
ぼくは、ようするに松本人志も“2ちゃんねる”的な人々も嫌いである。
なぜなら、彼らは“同じ人々(同じフィーリングの人々)”であるから。
つまり松本人志にとっては、“2ちゃんねる的な人々“こそがお客さんなのである。
この記事での松本人志が《マスコミに不満をぶつけた》というのは、論理矛盾である。
松本人志が“マスコミ”なのである。
これはみのもんたが“何々をズバッと切り捨てた”と同じ構造である。
彼らは“自己批判”しているのであろうか!
とんでもない、<保身>しているだけである。
ここでの問題の本質は“硫化水素で自殺する人々の続出”という新たな事態である。
それは“硫化水素”という新たな自殺法の存在と、その使用が他者を巻き込むという特質の問題である。
しかしさらに(硫化水素に限らない)近年の<自殺>の高い水準がなぜこうも持続し、さらにこれが増大の傾向にあることを示している。
そうであるから、“この社会の現在”がなぜ自殺者を生み出してしまうかについての根本的感性と考察が必要である。
たしかに硫化水素自殺が“流行”しているから、それに乗ってしまうという“アホな”人間もいるだろう。
しかしその場合も、なぜこんなに“アホな人間が多くなったか”が問題である。
さらにこういう“アホな人間”こそ松本の“飯のタネ”であることへの反省が松本のような“お笑い人間”には必要であろう。
ぼくはこの松本発言に次の2点を感じる;
① 芸能人の“勝ち組”的傲慢。
② いやなことは笑って誤魔化す(見ないで考えないで誤魔化す)卑怯。
本来の“お笑い芸人”とは、“認識したうえで”、それを笑いで批判したり、ぶっ飛ばしたりする“芸”であった。
それは時代に対するするどい感受性と批判精神によって実現するものであった。
自分の弱さ、あるいは弱さを抱えざるを得ない“人間”の苦しみを洞察しうる所から生まれる“笑い”であった。
いったい松本人志のような庶民でもなく、知識人でもない“大衆ぼっちゃん”芸人になにが“分かる”のか。
ほとんどテレビ局やラジオ局で寝泊りしているような人間にどんな“世間の空気”が読めるのか。
あるいは松本人志は、“まともな本”を読んだことがあるのだろうか。
“まともな映画”をみたことがあるの?(笑)
もちろんぼくは松本人志の先輩である、テレビ村でボス面しているすべての“偽芸人”にこう言いたい。
たけしにタモリ、聞いてんのか(爆)
[ 05:33 ]
[ 日記 ]
無無無。
むむむ。
ムムム。
“無”がみっつあるから<3無主義>という。
最近“愛読”している天木直人ブログが<3無主義>について書いている。
タイトルは“強く生きることの難しさと大切さ”という、前半を引用する;
<強く生きることの難しさと大切さ>
このところ、政治がまったくつまらなくなってきている。それはなぜか。政治家に理想がなくなったからだ。政治家という特権を手放すことを恐れ、闘う事を恐れて、皆が保身に走っているからだ。
そして、それを国民が許している。国民の間で政治対する怒りが失せ、あきらめの気持ちが強くなっているからだ。国民もまた保身に汲々としているのだ。
12日の産経新聞の「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆が目に留まった。
小林毅論説委員の手になる「一筆多論」のなかで、彼はこう書いている。
かつて「三無主義」という言葉があった。「無気力、無責任、無関心」のことである。これは、昭和40年代後半の若者の姿勢を、戦後復興に懸命に取り組み高度成長を実現した人々が、苦々しい表情で批判した言葉だ。
しかし最近の日本には、新しい三無主義がはびこっているように見える。しかもそれは「若者限定」ではなく、老若男女を問わず、社会全体を広く、深く覆っている。
それは、そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか、という新三無主義の風潮である・・・
この風潮が、「似非改革」を叫ぶ小泉元首相にだまされて熱狂した国民を生み、その小泉改革にだまされた、苦しめられたことがわかった今では、その怒りを小泉批判に向かわせることなく、逆に、より弱いものをいじめる方向に暴力的に走らせている。
権力者にとっては、なんと都合のいい国民であろうか。
(以上引用)
つまり<3無主義>というのは、
むかし=「無気力、無責任、無関心」
現在=「そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか」という風潮
なのである。
この<3無主義>が産経新聞の“「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆”にあったというのは奇怪であるが(つまり産経新聞のような下世話な話題と馬鹿げたバッシング新聞がなにを言うのか!)、一応状況の本質をとらえているように思える。
すなわち<無理・無駄・無意味>という3無主義がである。
“政治家”も“国民”も、保身に走るのみ。
失われたのは<理想>である。
たしかにこの<理想>というのは、曲者である。
たぶん産経新聞が“吹き飛ばして”実現したい理想とぼくの理想はぜんぜん異なっている。
つまり<戦艦大和>のような、無様な巨体が何の役に立たないだけでなく、まったく<美しくない>ことが問題なのだ。
そんな昔ではなく、<美しい国>というような本をベストセラーにした“この国の責任者=支配者”が、まったく“美しくない”人であったことも明らかである。
その前の“責任者”が、上記で天木氏も言っている“「似非改革」で国民をだましてこの惨憺たる現在をもたらした”小泉という男である。
この男自身は、“オペラ鑑賞”で余生を優雅に送ればよいものを、みっともなく未練たっぷりに愚劣な発言をメディアに撒き散らしている、美しくない。
この時、だからこそ、こういう言葉が身に沁みるのである;
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
“コンシステントな表現者でありつづけたいと願う心”
というのは、“誠実に生きたいと願うこころ”のことではないか。
たしかに、“願ってもそう生きられない”のが、この人生である。
なぜならこの<社会>が、この<世界>がそれを許さない。
ここに挫折と“3無主義”が現れる。
つまり、あっさりあきらめるひとが多いのである。
諦めた方が生きやすい。
ただそれだけである。
だからむしろ、こういうことである。
“誠実に生きることを放棄しないなら”、
自分をいかに“コンシステントな表現者”にするか。
<追記>
自分を“コンシステントな表現者”にするための<方法と実践>。
それは多様であっていいし、多様であるべきだ。
そのひとの、その時点での”資質”のようなものが、やはり、あるだろう。
ぼく自身は不器用な人間である。
身体を動かすのが苦手である(笑)
だからぼくにとっては、読むこと書くことの”実践”がある。
読むこと書くことの”連鎖”をつくりだす。
ぼくが聞きえる言葉を聞き、ぼくが書きうる言葉を書き続ける。
もう残り時間は少ないが、こうした実践は、ある。
むむむ。
ムムム。
“無”がみっつあるから<3無主義>という。
最近“愛読”している天木直人ブログが<3無主義>について書いている。
タイトルは“強く生きることの難しさと大切さ”という、前半を引用する;
<強く生きることの難しさと大切さ>
このところ、政治がまったくつまらなくなってきている。それはなぜか。政治家に理想がなくなったからだ。政治家という特権を手放すことを恐れ、闘う事を恐れて、皆が保身に走っているからだ。
そして、それを国民が許している。国民の間で政治対する怒りが失せ、あきらめの気持ちが強くなっているからだ。国民もまた保身に汲々としているのだ。
12日の産経新聞の「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆が目に留まった。
小林毅論説委員の手になる「一筆多論」のなかで、彼はこう書いている。
かつて「三無主義」という言葉があった。「無気力、無責任、無関心」のことである。これは、昭和40年代後半の若者の姿勢を、戦後復興に懸命に取り組み高度成長を実現した人々が、苦々しい表情で批判した言葉だ。
しかし最近の日本には、新しい三無主義がはびこっているように見える。しかもそれは「若者限定」ではなく、老若男女を問わず、社会全体を広く、深く覆っている。
それは、そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか、という新三無主義の風潮である・・・
この風潮が、「似非改革」を叫ぶ小泉元首相にだまされて熱狂した国民を生み、その小泉改革にだまされた、苦しめられたことがわかった今では、その怒りを小泉批判に向かわせることなく、逆に、より弱いものをいじめる方向に暴力的に走らせている。
権力者にとっては、なんと都合のいい国民であろうか。
(以上引用)
つまり<3無主義>というのは、
むかし=「無気力、無責任、無関心」
現在=「そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか」という風潮
なのである。
この<3無主義>が産経新聞の“「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆”にあったというのは奇怪であるが(つまり産経新聞のような下世話な話題と馬鹿げたバッシング新聞がなにを言うのか!)、一応状況の本質をとらえているように思える。
すなわち<無理・無駄・無意味>という3無主義がである。
“政治家”も“国民”も、保身に走るのみ。
失われたのは<理想>である。
たしかにこの<理想>というのは、曲者である。
たぶん産経新聞が“吹き飛ばして”実現したい理想とぼくの理想はぜんぜん異なっている。
つまり<戦艦大和>のような、無様な巨体が何の役に立たないだけでなく、まったく<美しくない>ことが問題なのだ。
そんな昔ではなく、<美しい国>というような本をベストセラーにした“この国の責任者=支配者”が、まったく“美しくない”人であったことも明らかである。
その前の“責任者”が、上記で天木氏も言っている“「似非改革」で国民をだましてこの惨憺たる現在をもたらした”小泉という男である。
この男自身は、“オペラ鑑賞”で余生を優雅に送ればよいものを、みっともなく未練たっぷりに愚劣な発言をメディアに撒き散らしている、美しくない。
この時、だからこそ、こういう言葉が身に沁みるのである;
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
“コンシステントな表現者でありつづけたいと願う心”
というのは、“誠実に生きたいと願うこころ”のことではないか。
たしかに、“願ってもそう生きられない”のが、この人生である。
なぜならこの<社会>が、この<世界>がそれを許さない。
ここに挫折と“3無主義”が現れる。
つまり、あっさりあきらめるひとが多いのである。
諦めた方が生きやすい。
ただそれだけである。
だからむしろ、こういうことである。
“誠実に生きることを放棄しないなら”、
自分をいかに“コンシステントな表現者”にするか。
<追記>
自分を“コンシステントな表現者”にするための<方法と実践>。
それは多様であっていいし、多様であるべきだ。
そのひとの、その時点での”資質”のようなものが、やはり、あるだろう。
ぼく自身は不器用な人間である。
身体を動かすのが苦手である(笑)
だからぼくにとっては、読むこと書くことの”実践”がある。
読むこと書くことの”連鎖”をつくりだす。
ぼくが聞きえる言葉を聞き、ぼくが書きうる言葉を書き続ける。
もう残り時間は少ないが、こうした実践は、ある。
2008/05/12のBlog
[ 09:45 ]
[ 日記 ]
“なにかがおかしい”とか“この時代の空気が息苦しい”という感じがあって、なにか具体的な“こと”を手掛かりに文章を書く。
これをくり返すのであるが、自分がその“核心”に近づいているかどうかは、おぼつかない。
同じ事を書いてしまったり、どうどう巡りしているような気もする。
この<状況>を批判する適切な言葉はなんだろうか?と他者の言葉をさがす。
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
昨日朝日読書ページでみつけたこの言葉は、“適切”であると思えた。
ぼくは内橋克人氏についてはよく知らないが。
こういう言葉の正当性は、直感的にわかる。
そのうえで、ここで言われていることの意味を考える。
《コンシステントな表現者》とはどういう表現者であると“定義”できるか、さらに過去現在においてコンシステントな表現者と呼べるひとは誰か?
コンシステントな表現者とは、“論理的に辻褄のあったひと”のことであろうか。
たしかに、“あるひとつの発言(文章)”のなかでは、辻褄があっていなければならない。
けれどもこれまでのクリエイティヴな“思想家”の生涯をみれば、かれらは(むしろ)自分の思考をダイナミックに変化させている。
しかし、この“変化”もまた、彼らの生涯とそれにともなう思考の必然のようにみえる。
たとえば(よくは知らないが)ぼくはマルクスやニーチェやフロイト“のようなひと”の思考の生涯を思い浮かべる。
つまり“論理的な誠実さ”というのも、ただいわゆる“論理的整合性”の次元にあるだけではない。
むしろ“知的誠実さ”というのは、自分の論理の固着を“やぶる”ことでもあると思える。
またこのことは、自分の論理的思考の内部でのみ起こるのではないだろう。
どんなに浮世離れした“思想家”にも“生活”はあった。
だから“誠実さ”というのは、生き方のベーシックな姿勢のことではないか。
それは自分を放棄せず生きる、というような生き方のことではないか<注記>
そう考えるとき、内田氏の言う《この国を被う時代の空気は「知的不誠実」である》という言葉は、ある本質をダイレクトに捉えている。
まさに《コンシステントな表現者でありたい》というのは自ら<願う>ことなのだ。
この<願う>というモチーフ自体が失われつつあるのだ。
<追記>
”表現者”というのは学者や文筆家だけのことを意味しない。
生きているひとはみな、表現者である。
<注記>
自分の利害しか考えない(考えられない)ゴリゴリのエゴイストが、まったく自己を放棄したからっぽの人間であることは、ぜんぜん珍しいことではない。
これをくり返すのであるが、自分がその“核心”に近づいているかどうかは、おぼつかない。
同じ事を書いてしまったり、どうどう巡りしているような気もする。
この<状況>を批判する適切な言葉はなんだろうか?と他者の言葉をさがす。
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
昨日朝日読書ページでみつけたこの言葉は、“適切”であると思えた。
ぼくは内橋克人氏についてはよく知らないが。
こういう言葉の正当性は、直感的にわかる。
そのうえで、ここで言われていることの意味を考える。
《コンシステントな表現者》とはどういう表現者であると“定義”できるか、さらに過去現在においてコンシステントな表現者と呼べるひとは誰か?
コンシステントな表現者とは、“論理的に辻褄のあったひと”のことであろうか。
たしかに、“あるひとつの発言(文章)”のなかでは、辻褄があっていなければならない。
けれどもこれまでのクリエイティヴな“思想家”の生涯をみれば、かれらは(むしろ)自分の思考をダイナミックに変化させている。
しかし、この“変化”もまた、彼らの生涯とそれにともなう思考の必然のようにみえる。
たとえば(よくは知らないが)ぼくはマルクスやニーチェやフロイト“のようなひと”の思考の生涯を思い浮かべる。
つまり“論理的な誠実さ”というのも、ただいわゆる“論理的整合性”の次元にあるだけではない。
むしろ“知的誠実さ”というのは、自分の論理の固着を“やぶる”ことでもあると思える。
またこのことは、自分の論理的思考の内部でのみ起こるのではないだろう。
どんなに浮世離れした“思想家”にも“生活”はあった。
だから“誠実さ”というのは、生き方のベーシックな姿勢のことではないか。
それは自分を放棄せず生きる、というような生き方のことではないか<注記>
そう考えるとき、内田氏の言う《この国を被う時代の空気は「知的不誠実」である》という言葉は、ある本質をダイレクトに捉えている。
まさに《コンシステントな表現者でありたい》というのは自ら<願う>ことなのだ。
この<願う>というモチーフ自体が失われつつあるのだ。
<追記>
”表現者”というのは学者や文筆家だけのことを意味しない。
生きているひとはみな、表現者である。
<注記>
自分の利害しか考えない(考えられない)ゴリゴリのエゴイストが、まったく自己を放棄したからっぽの人間であることは、ぜんぜん珍しいことではない。
2008/05/11のBlog
[ 15:52 ]
[ 日記 ]
今日と昨日の新聞を、やっとめくって見た。
昨日の新聞の1面をめくると、2面下に『文藝春秋』の広告がある。
いちばん大きな見出しにこうある;
《決定版 零戦と戦艦大和》
その次に大きい見出しにこうある;
《救国提言 日本よ、「大きな政治」にかえれ》
麻生太郎と与謝野馨の写真つきである。
戦後60年は、なんだったのだろうか?(爆)<注>
なぜぼくらは、“猿”に支配されていなければならないのだろうか。
“文藝春秋”という雑誌はだれのためにあり、こういう雑誌を買うのは誰なのか。
《大和をどう使うべきだったのか》
ぼくはもっと<歴史>を知る必要があると考えている。
しかし、いったいぜんたい、今、《大和をどう使うべきだったのか》ということより“考えるべきこと”はないのだろうか。
つまり“歴史認識”自体として。
“歴史”とは、つねに現在の認識である。
おなじ文藝春秋社の文春文庫広告(今日)に、古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』が出ている。
この本に“歴史認識”があるかどうかは不明だが、面白かった。
文庫“あとがき”に古川氏は書いているそうだ(今日読書ページ);
《想像力の圧縮された爆弾をつくりたかった》
想像力と認識力。
たしかにそれが圧縮された爆弾が必要である。
そのような爆弾が、本屋の隅で、図書館の隅で、あるいはあなたの本棚の隅でさえ、あなたを待っているかもしれない。
その爆弾を不発に終わらせるか否かは、あなたの選択である。
<注>
現在において、”中国”を”中共”と呼んで悦に入っている(自己満足している)ような方々は、自分の歴史認識の欠如を反省していただきたい。
それは現在の”中国”という国家が好きか嫌いかとは別問題である。
自分の卑小な恨みをバッシングにたくすのも、自分の貧弱な夢を大袈裟な言説にたくすのも、まったく同じ”心理”の裏表である。
<追記>
上記ブログを書いた時には、読書ページをパッとみただけであった。
いま全体に目を通した。
今日の読書ページをざっと見るだけで、<現在>が大変な世の中であることが、わかる。
今日の読書ページの話題を列挙すればわかる;
★ ビューティ・ジャンキー(完璧な外見を求める欲望の果てには)
★ 学校裏サイト
★ モンスター・ペアレント
★ 親たちの暴走
★ 古代ギリシア民主主義(と現代と日本)
★ 米国はどこで道を誤ったか
★ 孤塁?
★ アラブ・ミュージック
★ アジアの国民国家
★ 日本植民地
★ カラシニコフ
★ “格差”は多様な生き方か
★ B型自分の説明書(笑;ぼくはB型のひとと暮らしている)
★ 想像力の圧縮爆弾
★ 不可能性の時代
★ komomo(小桃)
★ LOVELESS
など
《わが日本は古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし》(中江兆民)
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
《日本人の思考の歴史には、「哲学なし」と言い捨てるだけではすまされない奥ゆきが、やはりあるのだろう》(苅部直)
楽観と悲観。
いずれにせよぼく(たち)は、知的に誠実でありたい。
<誠実>でありたいのだ。
昨日の新聞の1面をめくると、2面下に『文藝春秋』の広告がある。
いちばん大きな見出しにこうある;
《決定版 零戦と戦艦大和》
その次に大きい見出しにこうある;
《救国提言 日本よ、「大きな政治」にかえれ》
麻生太郎と与謝野馨の写真つきである。
戦後60年は、なんだったのだろうか?(爆)<注>
なぜぼくらは、“猿”に支配されていなければならないのだろうか。
“文藝春秋”という雑誌はだれのためにあり、こういう雑誌を買うのは誰なのか。
《大和をどう使うべきだったのか》
ぼくはもっと<歴史>を知る必要があると考えている。
しかし、いったいぜんたい、今、《大和をどう使うべきだったのか》ということより“考えるべきこと”はないのだろうか。
つまり“歴史認識”自体として。
“歴史”とは、つねに現在の認識である。
おなじ文藝春秋社の文春文庫広告(今日)に、古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』が出ている。
この本に“歴史認識”があるかどうかは不明だが、面白かった。
文庫“あとがき”に古川氏は書いているそうだ(今日読書ページ);
《想像力の圧縮された爆弾をつくりたかった》
想像力と認識力。
たしかにそれが圧縮された爆弾が必要である。
そのような爆弾が、本屋の隅で、図書館の隅で、あるいはあなたの本棚の隅でさえ、あなたを待っているかもしれない。
その爆弾を不発に終わらせるか否かは、あなたの選択である。
<注>
現在において、”中国”を”中共”と呼んで悦に入っている(自己満足している)ような方々は、自分の歴史認識の欠如を反省していただきたい。
それは現在の”中国”という国家が好きか嫌いかとは別問題である。
自分の卑小な恨みをバッシングにたくすのも、自分の貧弱な夢を大袈裟な言説にたくすのも、まったく同じ”心理”の裏表である。
<追記>
上記ブログを書いた時には、読書ページをパッとみただけであった。
いま全体に目を通した。
今日の読書ページをざっと見るだけで、<現在>が大変な世の中であることが、わかる。
今日の読書ページの話題を列挙すればわかる;
★ ビューティ・ジャンキー(完璧な外見を求める欲望の果てには)
★ 学校裏サイト
★ モンスター・ペアレント
★ 親たちの暴走
★ 古代ギリシア民主主義(と現代と日本)
★ 米国はどこで道を誤ったか
★ 孤塁?
★ アラブ・ミュージック
★ アジアの国民国家
★ 日本植民地
★ カラシニコフ
★ “格差”は多様な生き方か
★ B型自分の説明書(笑;ぼくはB型のひとと暮らしている)
★ 想像力の圧縮爆弾
★ 不可能性の時代
★ komomo(小桃)
★ LOVELESS
など
《わが日本は古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし》(中江兆民)
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
《日本人の思考の歴史には、「哲学なし」と言い捨てるだけではすまされない奥ゆきが、やはりあるのだろう》(苅部直)
楽観と悲観。
いずれにせよぼく(たち)は、知的に誠実でありたい。
<誠実>でありたいのだ。
[ 14:29 ]
[ 日記 ]
<音楽>の話題にする?(笑)
ぼくのこのブログには“ゴスペル”系の方々が多数ブックマークしてくださったり、“訪問”してくださっている。
ありがたいのだが、???でもある。
ぼくのブログは“ゴスペル・フィーリング”であろうか?(爆)
ぼくは“ゴスペル”について、あんまり知らないのである。
それは(たぶん)ぼくたち“世代”にとっては『ヨーロッパの夜』という記録映画で見たマヘリア・ジャクソンのようなひとのことであろうか。
あるいは、これもU2のアメリカ公演ドキュメントで見た、教会でU2が一緒に歌うシーンであろうか(いずれも素晴らしい)
一方、堀裕嗣ブログが“80年代の音楽”について書いている。
ぼくは昨日、読書もブログも倦怠なので(笑:そのわりにブログは書いたね)、音楽を長時間聴いた。
押入れのダンボール箱収納のCDもひっぱりだして、聴いたのである。
その時、“この音楽は何十年代の音楽であろうか?”と考えたのである。
つまり(たとえば)“80年代の音楽”とは“誰”だったのか?
“トーキング・ヘッズ”は?“ロキシー・ミュージック”は?“ジャパン”は?“ポリス”は?“クィーン”は?
“T.REX”やデヴィット・ボウイは、“70年代”であったか?
“ピンク・フロイド”は?“キング・クリムゾン”は?
ぼくにとってその年代がわりとはっきりしているのは、ヴェンチャーズ、ビートルズ、ストーンズ、ドアーズなどの、“グループ・サウンズ”の開始であり、クリーム、ジミ・ヘンドリクッス、『フィルモアの奇跡』、シカゴなどの“ニューロック”の開始であった。
ディラン、サイモンとガーファンクル、ザ・バンドなどのやや別の流れもあった。
その後は、“なんとなく順番がイメージできる”程度であり、ある時以降は“ほとんど聴かなくなった”。
“現役バンドやミュージシャン”でぼくが聞いたことがあるのは、ストーンズ、クラプトンなどの“生き残り”以外はU2(古いようで新しい:笑)とかREMくらいだろうか。
“ジャパン・ロック”には、一貫して関心がない。
けれどもたしかに、“年代によるフィーリングの変質(変化)”は、あった。
それは(いま聴いていると)結構くっきり分かるのである。
すごく単純に言うとそれは、“素人っぽさの消滅”であった。
それに対する“肯定評価と否定評価”がありうるのである。
うまければ(“テク”があったり、“サウンドが洗練されている”)というのは、肯定評価ではないのである。
それを評価するなら、ワーグナーやマーラーや(コイズミの好きな)“オペラ”でも聴けばよいではないか。
またこの“洗練”は、“商業主義”と密接に関連している。
でもたしかにこれを“説明”するのは、むずかしい。
ぼくの“世代”がこう言うと、単なる“ノスタルジー”と思われるし、そういうことが“ない”わけでは、ない。
たとえばぼくが最初にライヴを聴いた(見た)有名グループは“シカゴ”であった(たぶん3回行った)。
この時期のシカゴはアルバムで言えば2枚目くらいまでのシカゴであって、このグループもその後“洗練された”。
しかし今このシカゴの最初の2枚を聴くと、当時より感動するのである、その下手さに(笑)
というか、その時代の状況に音楽で取り組もうとする“試行錯誤”にである。
その中から生まれ得た“長い夜”のような傑作にである。
(当時ぼくは“ブリティッシュ”ファンであり、シカゴをさほど評価していなかった、当時はツェッペリンが好きであり、現在でもFREEの方が好きではあるが)
けれどもぼくはジョン・レノンやディランを越えるPOPS-ROCKは出現していない、とあえて言いたいのである<追記>
また一方に(以上の話題に出てこない)“ブラック・ミュージック”や“ジャズ”や“レゲエ”や“ラテン”や“アフリカ”や“演歌”などの広義の“民俗音楽とその都市化”の領域があるのである。
またぼくにとっては、ニーノ・ロータ、ジョルジュ・ドリュリューなどの“映画音楽”のクリエーターを忘れることはできない。
音楽の多様さ、広さには驚くべきものが“ある”のだ。
決してグールドの“バッハ”を忘れることはできない、キース・ジャレットの“トリオ”における“即興関係”の緊密さと自由の実現も。
<追記>
レノンやディランを神格化したのではない。
あらたなレヴォリューションを望む。
彼らの遺産を食いつぶすのではなく。
ぼくのこのブログには“ゴスペル”系の方々が多数ブックマークしてくださったり、“訪問”してくださっている。
ありがたいのだが、???でもある。
ぼくのブログは“ゴスペル・フィーリング”であろうか?(爆)
ぼくは“ゴスペル”について、あんまり知らないのである。
それは(たぶん)ぼくたち“世代”にとっては『ヨーロッパの夜』という記録映画で見たマヘリア・ジャクソンのようなひとのことであろうか。
あるいは、これもU2のアメリカ公演ドキュメントで見た、教会でU2が一緒に歌うシーンであろうか(いずれも素晴らしい)
一方、堀裕嗣ブログが“80年代の音楽”について書いている。
ぼくは昨日、読書もブログも倦怠なので(笑:そのわりにブログは書いたね)、音楽を長時間聴いた。
押入れのダンボール箱収納のCDもひっぱりだして、聴いたのである。
その時、“この音楽は何十年代の音楽であろうか?”と考えたのである。
つまり(たとえば)“80年代の音楽”とは“誰”だったのか?
“トーキング・ヘッズ”は?“ロキシー・ミュージック”は?“ジャパン”は?“ポリス”は?“クィーン”は?
“T.REX”やデヴィット・ボウイは、“70年代”であったか?
“ピンク・フロイド”は?“キング・クリムゾン”は?
ぼくにとってその年代がわりとはっきりしているのは、ヴェンチャーズ、ビートルズ、ストーンズ、ドアーズなどの、“グループ・サウンズ”の開始であり、クリーム、ジミ・ヘンドリクッス、『フィルモアの奇跡』、シカゴなどの“ニューロック”の開始であった。
ディラン、サイモンとガーファンクル、ザ・バンドなどのやや別の流れもあった。
その後は、“なんとなく順番がイメージできる”程度であり、ある時以降は“ほとんど聴かなくなった”。
“現役バンドやミュージシャン”でぼくが聞いたことがあるのは、ストーンズ、クラプトンなどの“生き残り”以外はU2(古いようで新しい:笑)とかREMくらいだろうか。
“ジャパン・ロック”には、一貫して関心がない。
けれどもたしかに、“年代によるフィーリングの変質(変化)”は、あった。
それは(いま聴いていると)結構くっきり分かるのである。
すごく単純に言うとそれは、“素人っぽさの消滅”であった。
それに対する“肯定評価と否定評価”がありうるのである。
うまければ(“テク”があったり、“サウンドが洗練されている”)というのは、肯定評価ではないのである。
それを評価するなら、ワーグナーやマーラーや(コイズミの好きな)“オペラ”でも聴けばよいではないか。
またこの“洗練”は、“商業主義”と密接に関連している。
でもたしかにこれを“説明”するのは、むずかしい。
ぼくの“世代”がこう言うと、単なる“ノスタルジー”と思われるし、そういうことが“ない”わけでは、ない。
たとえばぼくが最初にライヴを聴いた(見た)有名グループは“シカゴ”であった(たぶん3回行った)。
この時期のシカゴはアルバムで言えば2枚目くらいまでのシカゴであって、このグループもその後“洗練された”。
しかし今このシカゴの最初の2枚を聴くと、当時より感動するのである、その下手さに(笑)
というか、その時代の状況に音楽で取り組もうとする“試行錯誤”にである。
その中から生まれ得た“長い夜”のような傑作にである。
(当時ぼくは“ブリティッシュ”ファンであり、シカゴをさほど評価していなかった、当時はツェッペリンが好きであり、現在でもFREEの方が好きではあるが)
けれどもぼくはジョン・レノンやディランを越えるPOPS-ROCKは出現していない、とあえて言いたいのである<追記>
また一方に(以上の話題に出てこない)“ブラック・ミュージック”や“ジャズ”や“レゲエ”や“ラテン”や“アフリカ”や“演歌”などの広義の“民俗音楽とその都市化”の領域があるのである。
またぼくにとっては、ニーノ・ロータ、ジョルジュ・ドリュリューなどの“映画音楽”のクリエーターを忘れることはできない。
音楽の多様さ、広さには驚くべきものが“ある”のだ。
決してグールドの“バッハ”を忘れることはできない、キース・ジャレットの“トリオ”における“即興関係”の緊密さと自由の実現も。
<追記>
レノンやディランを神格化したのではない。
あらたなレヴォリューションを望む。
彼らの遺産を食いつぶすのではなく。
[ 12:50 ]
[ 日記 ]
たばこを買いに出たら、まだ雨だが空は明るい。
今日のぼくの“脳”は、理屈っぽい思考を拒否している。
“もう面倒だよ”とささやく。
しかし天声人語は、母の日の今日、“知的障害を負った母”について語る。
なぜ天声人語は、“障害者”について語ることが好きなのだろうか。
知的障害者は朝日新聞に入社できないであろう。
端的に(論理的に)言えば、障害者が“生きられる”社会でなければ、社会とは呼べないからである。
しかし、天声人語は、障害者を話題にするだけで、それを“社会関係の問題”として捉えてはいない。
いつもそれを“家族問題”にすり替えているのだ。
最近見ている人気ブログ“非国民通信”(なかなかいい)は、“携帯電話のマナー”について語る。
これを読んで、“なるほど”と思った。
ここで扱われているのは、日本社会における“公共性”の誤認(誤った認識)である。
だいいち、この“公共性”という言葉が、認識されていない。
この“公共性”とは、“公私混同”といわれるときの、<公>のことである。
まさに、<公>がわからなければ、<私>もわからない。
<私>がわからなければ、<公>がわからない。
ゆえに、<公と私>は“混同される”。
この<公私混同>は、ある個人の誤解や虚偽のレベルにあるだけでは、ない。
日本の<社会関係>の根底(本質)に、ある。
つまり、<公私混同する社会>とは、社会以前の<世間>にしかならない。
たぶんここに、現在日本の問題の<核心>がある。
これは<社会領域>や<政治領域>にあるだけではなく、<個人的な問題>、ごくプライベートな次元にも、ある。
なぜなら<私>なくしては<公>はなく、その逆も真であるからである。
具体的には、すべての<マナー>、すべての<モラル>はここに関与する<注>
“この社会”でこの問題を考えるためには二重の要請(困難)がある。
ひとつは、この“社会”の歴史的特殊性が現在にもたらしているものの検討である。
さらに、そもそもこの<公共性>という“概念と制度”をもたらした西欧における、その現在性が突き当たっている壁(限界)への認識である。
すなわち、<この国の特殊性>と<世界的な困難性>を同時に“考える”。
ぼくの“脳”が悲鳴をあげようとも(笑)
《叫びとささやき》
それが人間の条件ならば。
<アリス>はどこへ行った?
<注>
”車内でのケータイ使用がマナー違反である”ことは、<私>が判断する。
<だれかの判断>に従うのでは、ない。
”喫煙のマナー”は、<私>が、判断する。
そのためには、<私>が公共的存在でなければならない。
今日のぼくの“脳”は、理屈っぽい思考を拒否している。
“もう面倒だよ”とささやく。
しかし天声人語は、母の日の今日、“知的障害を負った母”について語る。
なぜ天声人語は、“障害者”について語ることが好きなのだろうか。
知的障害者は朝日新聞に入社できないであろう。
端的に(論理的に)言えば、障害者が“生きられる”社会でなければ、社会とは呼べないからである。
しかし、天声人語は、障害者を話題にするだけで、それを“社会関係の問題”として捉えてはいない。
いつもそれを“家族問題”にすり替えているのだ。
最近見ている人気ブログ“非国民通信”(なかなかいい)は、“携帯電話のマナー”について語る。
これを読んで、“なるほど”と思った。
ここで扱われているのは、日本社会における“公共性”の誤認(誤った認識)である。
だいいち、この“公共性”という言葉が、認識されていない。
この“公共性”とは、“公私混同”といわれるときの、<公>のことである。
まさに、<公>がわからなければ、<私>もわからない。
<私>がわからなければ、<公>がわからない。
ゆえに、<公と私>は“混同される”。
この<公私混同>は、ある個人の誤解や虚偽のレベルにあるだけでは、ない。
日本の<社会関係>の根底(本質)に、ある。
つまり、<公私混同する社会>とは、社会以前の<世間>にしかならない。
たぶんここに、現在日本の問題の<核心>がある。
これは<社会領域>や<政治領域>にあるだけではなく、<個人的な問題>、ごくプライベートな次元にも、ある。
なぜなら<私>なくしては<公>はなく、その逆も真であるからである。
具体的には、すべての<マナー>、すべての<モラル>はここに関与する<注>
“この社会”でこの問題を考えるためには二重の要請(困難)がある。
ひとつは、この“社会”の歴史的特殊性が現在にもたらしているものの検討である。
さらに、そもそもこの<公共性>という“概念と制度”をもたらした西欧における、その現在性が突き当たっている壁(限界)への認識である。
すなわち、<この国の特殊性>と<世界的な困難性>を同時に“考える”。
ぼくの“脳”が悲鳴をあげようとも(笑)
《叫びとささやき》
それが人間の条件ならば。
<アリス>はどこへ行った?
<注>
”車内でのケータイ使用がマナー違反である”ことは、<私>が判断する。
<だれかの判断>に従うのでは、ない。
”喫煙のマナー”は、<私>が、判断する。
そのためには、<私>が公共的存在でなければならない。
