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2008/05/16のBlog
[ 06:09 ]
[ 日記 ]
下記ブログを書いて2時前に寝たらまた悪夢を見て、さっき5:30に起きた。
この夢は下記の夢とはまったくちがった映画のような(自分が映画の人物であるような)夢。
しかし(今考えると)すべての状況がリアルじゃない。
しかも非常に不思議なのは、妻が登場している(つまり普段の夢に妻が登場することはない)しかも現実の生活のようにかなり密着した距離にいる。
めざめる間際のシーンをいちばんよく覚えているわけだが、ぼくは現実の家とはまったくちがった、かなり広く立派な浴室で風呂に入ろうとしている(ギャングたちが引き上げたからだ)
すると、玄関に(広いマンションのようでも一戸建てのようでもある)誰かが来る。
ぼくは“ギャングがもどってきた”と恐怖に襲われるが、妻はギャングたちがいた時から一貫して強気で(笑)、さっさと応対に出てドアを開けてしまう(妻は病気ではない!)
ぼくは“ああこりゃいかん!”と思う。
しかし訪問者は女である、ぼくはほっとする<追記>
その途端、彼女の声が聞える;“カイフク手術はいかがですか?”
“カイフク手術”?
だがすぐ分かる;“開腹手術”。
もはや細部は明らかでないが、この夢でぼくは“ギャングたち”に家をずっと占拠されていて(メインのギャングとチンピラあわせて10人以上いるようである)、メインのギャング数人に(かれらのキャラクターはあまり明瞭でない)手を変え品を変え脅されてきた。
“脅されてきた”というのは夢がはじまったとき、そういう状況がすでに経過してしばらく経っていたからだ。
事実ぼくは煙草が吸いたいと思うが、ない。
それで“さっき”殴られたとき煙草が入ったジャケット(このジャケットは近年ぼくが買い物に失敗したと思った夏の薄いジャケットである=これだけが現実にある物である)ごとよれよれになったのだと“思い出す”(つまりジャケットがよれよれになるほどぼくも殴られた後なのだ)
そうするとギャングの子分が、煙草をもってくる。
このように彼らは、集団で、ぼくを脅したり、優しい言葉をかけたりを繰り返しているのだ(つまりその状況がこの夢の大部分なのだが、いまその具体的なセリフなどを思い出せない)
しかも不思議なのは、彼らギャングたちの“要求”が明らかでない。
ぼくは手を変え品を変え脅されているのだが、なんで脅されているのかわからない。
そして(なぜか)彼らは引き上げていったのだが、最初に書いたシーンになるわけである。
ぼくはいつもこういう夢を見ているのではないのである(笑)
<追記>
これを書いて、”女が訪ねてくる”ということの意味がわかった。
今日は金曜日で普段はぼくはアルバイトで家にいないが、ヘルパーが来る日なのである。
ぼくは昨日ミーティングで仕事に出たので今日は休み、このヘルパーをぼくは苦手としている(爆)
この夢は下記の夢とはまったくちがった映画のような(自分が映画の人物であるような)夢。
しかし(今考えると)すべての状況がリアルじゃない。
しかも非常に不思議なのは、妻が登場している(つまり普段の夢に妻が登場することはない)しかも現実の生活のようにかなり密着した距離にいる。
めざめる間際のシーンをいちばんよく覚えているわけだが、ぼくは現実の家とはまったくちがった、かなり広く立派な浴室で風呂に入ろうとしている(ギャングたちが引き上げたからだ)
すると、玄関に(広いマンションのようでも一戸建てのようでもある)誰かが来る。
ぼくは“ギャングがもどってきた”と恐怖に襲われるが、妻はギャングたちがいた時から一貫して強気で(笑)、さっさと応対に出てドアを開けてしまう(妻は病気ではない!)
ぼくは“ああこりゃいかん!”と思う。
しかし訪問者は女である、ぼくはほっとする<追記>
その途端、彼女の声が聞える;“カイフク手術はいかがですか?”
“カイフク手術”?
だがすぐ分かる;“開腹手術”。
もはや細部は明らかでないが、この夢でぼくは“ギャングたち”に家をずっと占拠されていて(メインのギャングとチンピラあわせて10人以上いるようである)、メインのギャング数人に(かれらのキャラクターはあまり明瞭でない)手を変え品を変え脅されてきた。
“脅されてきた”というのは夢がはじまったとき、そういう状況がすでに経過してしばらく経っていたからだ。
事実ぼくは煙草が吸いたいと思うが、ない。
それで“さっき”殴られたとき煙草が入ったジャケット(このジャケットは近年ぼくが買い物に失敗したと思った夏の薄いジャケットである=これだけが現実にある物である)ごとよれよれになったのだと“思い出す”(つまりジャケットがよれよれになるほどぼくも殴られた後なのだ)
そうするとギャングの子分が、煙草をもってくる。
このように彼らは、集団で、ぼくを脅したり、優しい言葉をかけたりを繰り返しているのだ(つまりその状況がこの夢の大部分なのだが、いまその具体的なセリフなどを思い出せない)
しかも不思議なのは、彼らギャングたちの“要求”が明らかでない。
ぼくは手を変え品を変え脅されているのだが、なんで脅されているのかわからない。
そして(なぜか)彼らは引き上げていったのだが、最初に書いたシーンになるわけである。
ぼくはいつもこういう夢を見ているのではないのである(笑)
<追記>
これを書いて、”女が訪ねてくる”ということの意味がわかった。
今日は金曜日で普段はぼくはアルバイトで家にいないが、ヘルパーが来る日なのである。
ぼくは昨日ミーティングで仕事に出たので今日は休み、このヘルパーをぼくは苦手としている(爆)
[ 01:25 ]
[ 日記 ]
下記ブログを書いてただちに寝た、下記ブログには[ 更新日時:2008/05/15 21:38 ]とあるので、10時前に寝てしまった。
そしたら、12時に起きてしまった、典型的悪夢を見て、そこから抜け出すために、無理矢理起きたのである。
そして(あいかわらず)ブログを見たら、不破利晴ブログが更新されていて、ぼくの大澤真幸氏に関するブログがリンクされていて、彼の『文明の内なる衝突』への(自己批判を含む)批判が展開されていた。
ぼくは大澤氏の“親戚”ではないが(笑)、これは一種のぼくに対する批判でもあるので、ただちにコメントを二つ書いた、暇な方は参照してほしい。
ぼくはこういう双方向的なコミュニケーションが、ブログの神髄であると考える。
起きた時、“悪夢”について書こうかどうしようか迷った。
書く必要を感じたのは、まさにこの悪夢がブログをテーマにしていることがはっきりわかるものであったから。
しかし“迷った”のは、どんな夢でも、言語化すると夢の実質がどんどん失われてしまうから。
それと夢の話は、聞き手には退屈だろうから。
しかし自分のために、その概略をなんとか言葉にしたい。
この夢では“二つのこと”が同時進行していた。
A:ぼくはある仕事をしている(ブログを書いているのではない)
その仕事は期限も迫っているが、ぼくの能力、体力、神経、根気をはるかに超えるような仕事なのである。
その仕事をやりながら、その仕事をやり遂げられない(期限までに、それどころか期限がなくても)ことがぼくにはわかってしまっている。
だが闇雲にぼくはその仕事を続けている(その負担は具体的には目から脳・胃への重苦しさとなって感受されている)
しかし、これがミソだが、ぼくがしている仕事というのは、“アニメを見ている”(かなり大きなスクリーンで)ことなのである(笑)
それも“アニメをつくっている”とか“アニメを見て批評する”という仕事では、ない。
つまりアニメを見て、“何をする”のかぼくにはわかっていないのである、ただ“義務”だけがある。
B:上記と同時に(笑)、ぼくはブログを“書いている”(しかしその行為は夢の現実にはない、現実は上記の“仕事”である)
しかも、あらゆる読者の顰蹙を買うようなブログを書き続けることが止められない。
現実のブログでは、“これは書きすぎだ”とか、ここまで他人の悪口を書くと自分の品性が疑われるというような反省=判断で書かないことまでも、夢の中のぼくはどんどん書くことを止められない。
レトリックやユーモアで緩和することもできず、ひたすら露骨に書き続ける。
事実このぼくのブログに対する様々な“非難の声”がなんとなく聞こえてくる(その声を発している人々は、“なんとなく”今のぼくの現実生活に関わっている人々なのである;笑)
しかも彼らの(ぼくに対する)非難は、あまり露骨ではなく、非常に“良識的”である。
《ああ、warmgunたら、またあんなこと書いて、あれじゃかえって自分がみじめなのよねぇー》といったような非難なのである。
上記AとBが同時進行し、どんどんエスカレートし、もうたまらん、どうしたらいいかわからん!
というところで、目が覚めた。
あまりにも意味が明瞭な夢ではないか!
ぼくは単純な男なのである(爆)
また、寝よう(笑)
そしたら、12時に起きてしまった、典型的悪夢を見て、そこから抜け出すために、無理矢理起きたのである。
そして(あいかわらず)ブログを見たら、不破利晴ブログが更新されていて、ぼくの大澤真幸氏に関するブログがリンクされていて、彼の『文明の内なる衝突』への(自己批判を含む)批判が展開されていた。
ぼくは大澤氏の“親戚”ではないが(笑)、これは一種のぼくに対する批判でもあるので、ただちにコメントを二つ書いた、暇な方は参照してほしい。
ぼくはこういう双方向的なコミュニケーションが、ブログの神髄であると考える。
起きた時、“悪夢”について書こうかどうしようか迷った。
書く必要を感じたのは、まさにこの悪夢がブログをテーマにしていることがはっきりわかるものであったから。
しかし“迷った”のは、どんな夢でも、言語化すると夢の実質がどんどん失われてしまうから。
それと夢の話は、聞き手には退屈だろうから。
しかし自分のために、その概略をなんとか言葉にしたい。
この夢では“二つのこと”が同時進行していた。
A:ぼくはある仕事をしている(ブログを書いているのではない)
その仕事は期限も迫っているが、ぼくの能力、体力、神経、根気をはるかに超えるような仕事なのである。
その仕事をやりながら、その仕事をやり遂げられない(期限までに、それどころか期限がなくても)ことがぼくにはわかってしまっている。
だが闇雲にぼくはその仕事を続けている(その負担は具体的には目から脳・胃への重苦しさとなって感受されている)
しかし、これがミソだが、ぼくがしている仕事というのは、“アニメを見ている”(かなり大きなスクリーンで)ことなのである(笑)
それも“アニメをつくっている”とか“アニメを見て批評する”という仕事では、ない。
つまりアニメを見て、“何をする”のかぼくにはわかっていないのである、ただ“義務”だけがある。
B:上記と同時に(笑)、ぼくはブログを“書いている”(しかしその行為は夢の現実にはない、現実は上記の“仕事”である)
しかも、あらゆる読者の顰蹙を買うようなブログを書き続けることが止められない。
現実のブログでは、“これは書きすぎだ”とか、ここまで他人の悪口を書くと自分の品性が疑われるというような反省=判断で書かないことまでも、夢の中のぼくはどんどん書くことを止められない。
レトリックやユーモアで緩和することもできず、ひたすら露骨に書き続ける。
事実このぼくのブログに対する様々な“非難の声”がなんとなく聞こえてくる(その声を発している人々は、“なんとなく”今のぼくの現実生活に関わっている人々なのである;笑)
しかも彼らの(ぼくに対する)非難は、あまり露骨ではなく、非常に“良識的”である。
《ああ、warmgunたら、またあんなこと書いて、あれじゃかえって自分がみじめなのよねぇー》といったような非難なのである。
上記AとBが同時進行し、どんどんエスカレートし、もうたまらん、どうしたらいいかわからん!
というところで、目が覚めた。
あまりにも意味が明瞭な夢ではないか!
ぼくは単純な男なのである(爆)
また、寝よう(笑)
2008/05/15のBlog
[ 21:27 ]
[ 日記 ]
今日はブログを書いてない、どうしようか?(笑)
ジジェクについての解説書を読んでいたら、“陽否陳述(アポファシス)”という言葉があることを知った。
“陽否陳述(アポファシス)”というのは、《ある主題について、それを口にはしないといいながら口にするという技法である》。
たとえば、《大臣の背信については、わたしはいかなる状況であれけっして論じることはない》という発言がそうなのだとある(笑)
ぼくもやってみよう。
《ぼくは有名人や金持ちが皆バカで、下衆だなどと決して口にしない》
今日は仕事だった。
ぼくの現在の労働時間は短く、仕事もそれほどハードではない。
だが仕事に行くだけで疲れる(笑)
つまりぼくにとっては、このパソコン付き穴倉から出て、世間の風にあたるだけで疲れる。
やや(そうとう)大袈裟に言うと、異次元空間の軋みにさらされるのである。
といっても、“世間”に出ても、何も変わったことが“ある”わけではないのである。
なんか世間はやけに“のどやか”でもある。
歌舞伎町のホストは今日も昼間からダラダラ歩いているのである(笑)
むしろそのことが、ぼくに眩暈を起こさせ、ベリー・タイアドな気分をもたらす。
ジョン・レノンのレイジーな声が耳もとで、ささやく。
《俺はそんなに疲れた》
だがもちろん、そうじゃないひともいるんだ。
《何か、いい夜じゃない?》と深夜のワインバーで、ボトルが回ってくるよーな“人生”である。
そういうひとにとっては、《今日も奇跡は生まれている》のである。
今日の朝日新聞夕刊を参照のこと!
《誰かにワインを振る舞いたくなるような夜。シャンソンの歌詞のようだ》
そうだろうか?そうだろうか?そうだろうか?(爆)
シャンソンは、そんなチンケな”ムード”を歌っていたのだろうか。
その”詞”は、そんなにだらしない”言葉”だっただろうか。
もちろん”シャンソン”でなくてもよい、のである。
ああ嫌だこの田舎国の田舎首都の田舎者たちは。
“コンプレックス”というのは、劣等感のみでなく、優越感も意味する。
《天国のような夜が降ってくる》夢でもみよう。
《これはフィクションだってあなたたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?》
<古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』>
もう寝ます。
明日からは、
明日からは、真面目に読書して、”読書日記”を書こうね(笑)
ぼくよりも、頭が良く、かつ、我慢強いひとの本を読むんだ。
ジジェクについての解説書を読んでいたら、“陽否陳述(アポファシス)”という言葉があることを知った。
“陽否陳述(アポファシス)”というのは、《ある主題について、それを口にはしないといいながら口にするという技法である》。
たとえば、《大臣の背信については、わたしはいかなる状況であれけっして論じることはない》という発言がそうなのだとある(笑)
ぼくもやってみよう。
《ぼくは有名人や金持ちが皆バカで、下衆だなどと決して口にしない》
今日は仕事だった。
ぼくの現在の労働時間は短く、仕事もそれほどハードではない。
だが仕事に行くだけで疲れる(笑)
つまりぼくにとっては、このパソコン付き穴倉から出て、世間の風にあたるだけで疲れる。
やや(そうとう)大袈裟に言うと、異次元空間の軋みにさらされるのである。
といっても、“世間”に出ても、何も変わったことが“ある”わけではないのである。
なんか世間はやけに“のどやか”でもある。
歌舞伎町のホストは今日も昼間からダラダラ歩いているのである(笑)
むしろそのことが、ぼくに眩暈を起こさせ、ベリー・タイアドな気分をもたらす。
ジョン・レノンのレイジーな声が耳もとで、ささやく。
《俺はそんなに疲れた》
だがもちろん、そうじゃないひともいるんだ。
《何か、いい夜じゃない?》と深夜のワインバーで、ボトルが回ってくるよーな“人生”である。
そういうひとにとっては、《今日も奇跡は生まれている》のである。
今日の朝日新聞夕刊を参照のこと!
《誰かにワインを振る舞いたくなるような夜。シャンソンの歌詞のようだ》
そうだろうか?そうだろうか?そうだろうか?(爆)
シャンソンは、そんなチンケな”ムード”を歌っていたのだろうか。
その”詞”は、そんなにだらしない”言葉”だっただろうか。
もちろん”シャンソン”でなくてもよい、のである。
ああ嫌だこの田舎国の田舎首都の田舎者たちは。
“コンプレックス”というのは、劣等感のみでなく、優越感も意味する。
《天国のような夜が降ってくる》夢でもみよう。
《これはフィクションだってあなたたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?》
<古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』>
もう寝ます。
明日からは、
明日からは、真面目に読書して、”読書日記”を書こうね(笑)
ぼくよりも、頭が良く、かつ、我慢強いひとの本を読むんだ。
2008/05/14のBlog
[ 16:50 ]
[ 日記 ]
このところ毎日の新聞を見ない方が普通になった。
机の脇に見てない新聞がたまっていく。
けれども貧乏性なのか捨てられない。
いまも、まとめてめくってみた(まだ途中)
そうすると、“ひっかかる”記事や広告がやっぱり出てくる。
そうすると、ブログに書いておきたくなる、これも貧乏性なのである。
もう今日のブログにあまり時間を費やしたくない(笑)ので、ランダムに印象に残った記事をメモする(もちろん、すべて朝日新聞である;笑)
★『奥の細道』のどの句が好きかの投票のランキングが出ている(5/13夕刊)
ベスト10のうちぼくが好きな句を考えた。
《五月雨の降のこしてや光堂》
《一家に遊女もねたり萩と月》
★ 養老孟司と川上弘美(5/13夕刊)
この二人が、11面に並んで載っている。
ぼくはこのふたりがなんとなく嫌いである(笑)
だから、どうして“嫌い”なのかと、いつもこのふたりの発言やふたりに関する記事を読んでしまう(笑)、つまりこういうことも“関心がある”といえるのである。
この記事を読んでもどうして嫌いか結論がでない、たぶん“顔(表情)”がきらいなのだ。
★ “政態拝見:曽我豪論説委員”(5/13朝刊)
朝日新聞の論説委員は“自民党びいき”であることを隠さなくなった。
これは民主党が自民党より“ひどい”ことを、かれらが熟知しているからである可能性がある(ただの“保身”である可能性もある)
★ 『週刊朝日』広告(5/13朝刊)
この雑誌も“朝日新聞”が発行している(はずだ!)
ここでも自民党の“宣伝”と“平成皇室”が売りである、朝日新聞社とは何者か?
★ すごい見開き広告(5/13朝刊)
ぼくには意味不明であるが、“ゲーム”の広告であるらしい、ゲームだけが元気である(ゲームをするひとが、ではない)
★ “銀の街から”という映画の連載コラムがある(5/13朝刊)
ぼくはだいぶ前から、これを読む気力が失せた(今日も読まない)
現在日本には“老齢の方”以外に“映画評論家”がいない、素人のたわごと(ほとんど筋の紹介のみ)が、なんで映画評論(映画についての言説)であろうか。
(これを書いているひとも、”顔も”きらいである;うふふ)
★ “80年代とは何だったのか” (5/13朝刊)
なんだったんでしょう(爆)
『広告批評』が休刊だそうだ、天野爺さんごくろうさん(もう編集長じゃないのかも)
ぼくはこの雑誌にぜんぜん“思い入れ”がない。
“爺さん”はちゃんと“CM天気図”でブラピの夢を見ている。
香山リカさん、ねぇ~(爆)、嫌いじゃないよ!(あまり読んだことなし)
中沢新一に《80年代は砂上の楼閣、何も積み上げられていなかった》と迫っているそうだ。
まったく異議なし!中沢など偽学者の典型ではないか。
★ “東京医師会”広告(5/13朝刊)
ぼくは無知にして、東京医師会という団体についてつまびらかにしない。
しかしこの“東京宣言”は虚偽広告である可能性がある。
《私たちは医療制度が変わっても、今までと同じ医療を提供することを宣言する》
★ “坂田栄一郎さん写真展”(5/14朝刊)
「AERA」はきらいだが(見る気もしないが)、この“顔写真”展はみたい気もする。
特に行幸地下ギャラリー展示を(行幸地下ギャラリーって、どこ?;笑)
地下通路展示なので、それを“写真に撮る”ことが可能のようである。
数年前だったら、すぐに行ったと思う(なぜこうも出不精になったのか!とくにここ数日のように寒いと、いかん)、6/8まで開催。
上記を書いたあと、また溜まっていた新聞の残りを見た。
★ “逆風満帆:小倉智昭”(5/10 be on Saturday)
こういう“同世代=還暦”の有名人の記事は不快である(爆)
それにしても、“キャスター”という職業は奇怪である、彼らの“専門”はなにか?
《過ぎたるは、及ばざるが如し》
★ “時の肖像:高橋郁男論説顧問”(5/12朝刊)
これまた“還暦”の話題である。
《石畳の下には浜辺がある》
《オンリーイエスタデー》
この“論説”に書いてあることで、ぼくの知らないことは、ひとつも、ない。
たしかに1968年は、ぼくになつかしくないことは、“ない”。
しかし、だからこそ、こういう風に語ってほしく“ない”。
なぜこの“論説顧問”は、チェコのバーツラフ広場やパリ郊外のパリ大ナンテール校まで行って、この程度のことしか書けないのか。
ぼくを行かせてくれれば、これよりはましな文章を書くことをお約束しよう(爆)
★ さて昨日朝刊に毎月楽しみな光文社古典新訳文庫広告;
今月新刊は次の2冊である;
プルースト『消え去ったアルベルチーヌ』:ぼくが読めずにいる『失われた時を求めて』でもいちばんダイナミックな展開があるときいている部分である、この訳者は知らない。
チェスタトン『木曜日だった男』:これはかねてから“玄人筋”に評価高い『木曜日の男』の新訳だろう、ぼくは読んでいない。
2冊とも買うことになるだろう、だが、いつ読めるのか!(笑)
ああ、
やっと義務をはたした気分になった、もはや夜ではないか。
ひょっとして、夕刊が来ているのでは!
”賽の河原”状態ではないか。
”シジフォスの神話”みたく、かっこよくないが。
机の脇に見てない新聞がたまっていく。
けれども貧乏性なのか捨てられない。
いまも、まとめてめくってみた(まだ途中)
そうすると、“ひっかかる”記事や広告がやっぱり出てくる。
そうすると、ブログに書いておきたくなる、これも貧乏性なのである。
もう今日のブログにあまり時間を費やしたくない(笑)ので、ランダムに印象に残った記事をメモする(もちろん、すべて朝日新聞である;笑)
★『奥の細道』のどの句が好きかの投票のランキングが出ている(5/13夕刊)
ベスト10のうちぼくが好きな句を考えた。
《五月雨の降のこしてや光堂》
《一家に遊女もねたり萩と月》
★ 養老孟司と川上弘美(5/13夕刊)
この二人が、11面に並んで載っている。
ぼくはこのふたりがなんとなく嫌いである(笑)
だから、どうして“嫌い”なのかと、いつもこのふたりの発言やふたりに関する記事を読んでしまう(笑)、つまりこういうことも“関心がある”といえるのである。
この記事を読んでもどうして嫌いか結論がでない、たぶん“顔(表情)”がきらいなのだ。
★ “政態拝見:曽我豪論説委員”(5/13朝刊)
朝日新聞の論説委員は“自民党びいき”であることを隠さなくなった。
これは民主党が自民党より“ひどい”ことを、かれらが熟知しているからである可能性がある(ただの“保身”である可能性もある)
★ 『週刊朝日』広告(5/13朝刊)
この雑誌も“朝日新聞”が発行している(はずだ!)
ここでも自民党の“宣伝”と“平成皇室”が売りである、朝日新聞社とは何者か?
★ すごい見開き広告(5/13朝刊)
ぼくには意味不明であるが、“ゲーム”の広告であるらしい、ゲームだけが元気である(ゲームをするひとが、ではない)
★ “銀の街から”という映画の連載コラムがある(5/13朝刊)
ぼくはだいぶ前から、これを読む気力が失せた(今日も読まない)
現在日本には“老齢の方”以外に“映画評論家”がいない、素人のたわごと(ほとんど筋の紹介のみ)が、なんで映画評論(映画についての言説)であろうか。
(これを書いているひとも、”顔も”きらいである;うふふ)
★ “80年代とは何だったのか” (5/13朝刊)
なんだったんでしょう(爆)
『広告批評』が休刊だそうだ、天野爺さんごくろうさん(もう編集長じゃないのかも)
ぼくはこの雑誌にぜんぜん“思い入れ”がない。
“爺さん”はちゃんと“CM天気図”でブラピの夢を見ている。
香山リカさん、ねぇ~(爆)、嫌いじゃないよ!(あまり読んだことなし)
中沢新一に《80年代は砂上の楼閣、何も積み上げられていなかった》と迫っているそうだ。
まったく異議なし!中沢など偽学者の典型ではないか。
★ “東京医師会”広告(5/13朝刊)
ぼくは無知にして、東京医師会という団体についてつまびらかにしない。
しかしこの“東京宣言”は虚偽広告である可能性がある。
《私たちは医療制度が変わっても、今までと同じ医療を提供することを宣言する》
★ “坂田栄一郎さん写真展”(5/14朝刊)
「AERA」はきらいだが(見る気もしないが)、この“顔写真”展はみたい気もする。
特に行幸地下ギャラリー展示を(行幸地下ギャラリーって、どこ?;笑)
地下通路展示なので、それを“写真に撮る”ことが可能のようである。
数年前だったら、すぐに行ったと思う(なぜこうも出不精になったのか!とくにここ数日のように寒いと、いかん)、6/8まで開催。
上記を書いたあと、また溜まっていた新聞の残りを見た。
★ “逆風満帆:小倉智昭”(5/10 be on Saturday)
こういう“同世代=還暦”の有名人の記事は不快である(爆)
それにしても、“キャスター”という職業は奇怪である、彼らの“専門”はなにか?
《過ぎたるは、及ばざるが如し》
★ “時の肖像:高橋郁男論説顧問”(5/12朝刊)
これまた“還暦”の話題である。
《石畳の下には浜辺がある》
《オンリーイエスタデー》
この“論説”に書いてあることで、ぼくの知らないことは、ひとつも、ない。
たしかに1968年は、ぼくになつかしくないことは、“ない”。
しかし、だからこそ、こういう風に語ってほしく“ない”。
なぜこの“論説顧問”は、チェコのバーツラフ広場やパリ郊外のパリ大ナンテール校まで行って、この程度のことしか書けないのか。
ぼくを行かせてくれれば、これよりはましな文章を書くことをお約束しよう(爆)
★ さて昨日朝刊に毎月楽しみな光文社古典新訳文庫広告;
今月新刊は次の2冊である;
プルースト『消え去ったアルベルチーヌ』:ぼくが読めずにいる『失われた時を求めて』でもいちばんダイナミックな展開があるときいている部分である、この訳者は知らない。
チェスタトン『木曜日だった男』:これはかねてから“玄人筋”に評価高い『木曜日の男』の新訳だろう、ぼくは読んでいない。
2冊とも買うことになるだろう、だが、いつ読めるのか!(笑)
ああ、
やっと義務をはたした気分になった、もはや夜ではないか。
ひょっとして、夕刊が来ているのでは!
”賽の河原”状態ではないか。
”シジフォスの神話”みたく、かっこよくないが。
[ 14:16 ]
[ 日記 ]
今朝書いたsnapshot s1719への注記;
大澤氏のこの本を推薦する根拠の“ひとつ”は、ここでの考察が“世界水準にある”ことです。
具体的には、ハーバーマス、デリダ、ロールズ、ベンヤミン、ラカン、ジジェクなどといった、“現代の思想家たち”が参照されていることです。
またこれらの“翻訳書のある”思想家だけではなく、“翻訳書がない”思想家も参照されている。
ぼくがなぜこれを言うか?
現在<日本>は、新たな鎖国状態にあるからです。
ぼくはマーチン・ジェイの『暴力の屈折』に参照されている“現在のアメリカ思想家が書いた本”が軒並み翻訳されていないことにショックを受けたと、前にこのブログに書いた。
またこれまでに良心的な出版社によって翻訳出版された海外思想家の翻訳書が、どんどん品切れになり、書店から姿を消している。
ぼくが“現在出版されているある種の本”を憎むのは、これらの“新しい本”が、端的に、良心的な本の場所を奪い、駆逐しているからだ。
ぼくは自分自身が“POPカルチャー的人間”でもあるので、こういう“事態”に複雑な感慨を持つものである。
しかも現在海外で出版されている“思考”が、“POPカルチャー”自体への、この国では考えられていない考察を展開している可能性もある。
またぼくが“日本の現在が鎖国状態にある”という意味は、現在のマスメディア的言説の本質に係わる。
つまり、テレビや新聞がいかに“海外の現地から”取材・発信していても、その言説が鎖国的であるという“事実”がある(しかも近年のイラクのように、一番肝心の時に日本のマスメディアが現地にまったく“いない”という事態もあった)
海外にいかに“赴任”しようと、自分がいる場所を“まったく見ていない”ジャーナリストというのが多々見受けられる。
またぼくが言う“マスメディア的言説”というのは、テレビ・新聞・雑誌などのいわゆる“ジャーナリズム”のみを意味しない。
“大学の先生方”が書いている本も意味する。
“文学や小説の言説”や“映画”や“音楽”や“アート”も意味します。
大澤氏のこの本を推薦する根拠の“ひとつ”は、ここでの考察が“世界水準にある”ことです。
具体的には、ハーバーマス、デリダ、ロールズ、ベンヤミン、ラカン、ジジェクなどといった、“現代の思想家たち”が参照されていることです。
またこれらの“翻訳書のある”思想家だけではなく、“翻訳書がない”思想家も参照されている。
ぼくがなぜこれを言うか?
現在<日本>は、新たな鎖国状態にあるからです。
ぼくはマーチン・ジェイの『暴力の屈折』に参照されている“現在のアメリカ思想家が書いた本”が軒並み翻訳されていないことにショックを受けたと、前にこのブログに書いた。
またこれまでに良心的な出版社によって翻訳出版された海外思想家の翻訳書が、どんどん品切れになり、書店から姿を消している。
ぼくが“現在出版されているある種の本”を憎むのは、これらの“新しい本”が、端的に、良心的な本の場所を奪い、駆逐しているからだ。
ぼくは自分自身が“POPカルチャー的人間”でもあるので、こういう“事態”に複雑な感慨を持つものである。
しかも現在海外で出版されている“思考”が、“POPカルチャー”自体への、この国では考えられていない考察を展開している可能性もある。
またぼくが“日本の現在が鎖国状態にある”という意味は、現在のマスメディア的言説の本質に係わる。
つまり、テレビや新聞がいかに“海外の現地から”取材・発信していても、その言説が鎖国的であるという“事実”がある(しかも近年のイラクのように、一番肝心の時に日本のマスメディアが現地にまったく“いない”という事態もあった)
海外にいかに“赴任”しようと、自分がいる場所を“まったく見ていない”ジャーナリストというのが多々見受けられる。
またぼくが言う“マスメディア的言説”というのは、テレビ・新聞・雑誌などのいわゆる“ジャーナリズム”のみを意味しない。
“大学の先生方”が書いている本も意味する。
“文学や小説の言説”や“映画”や“音楽”や“アート”も意味します。
[ 13:00 ]
[ 日記 ]
ツナミン・ブログで医療・介護情報サイト“CB(キャリア・ブレイン)サイト”が「後期高齢者医療制度」の廃止を求めている茨城県医師会会長・原中勝征さんへのインタビューを掲載しているのを知った。
全文を貼り付ける;
<「高齢者いじめの制度は許せない」後期高齢者医療制度 茨城県医師会会長・原中勝征さん>
75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼び、健康保険や国民健康保険から追い出して強制加入させ、保険料を年金から天引きするだけでなく、保険料を払えなければ保険証を取り上げる―。厚生労働省は「長寿医療制度」という呼称を使用したポスターやチラシなどで「後期高齢者医療制度」への理解を求めたが、保険証の未着や保険料の天引きミスなど、混乱は続いた。制度の廃止を求める動きも活発化している。制度開始前、茨城県医師会は都道府県レベルの医師会では初めて同制度の廃止を求める声明を発表。「みなさん、こんな高齢者いじめの制度が許せますか!」と題するポスターを作成し、反対の署名活動を展開している。後期高齢者医療制度をめぐる問題について、同医師会会長の原中勝征さんに話を聞いた。(新井裕充)
―制度がスタートする前の3月下旬の理事会で、反対する方針を決定したそうですね。
全会一致で決めました。主治医が受け取ることができる「後期高齢者診療料」(患者一人につき月6000円)の届け出をしないで、従来通り出来高払いで算定するように会員医師に呼び掛けています。また、「後期高齢者診療料」の届け出条件である研修会を開催していません。厚労省は慌てて「介護保険の主治医研修会に出席した場合でも主治医として認める」とか、「研修を受講したという自己申告でも認める」などと言いだしました。おかしな話です。
―県民からの反対署名も集まっているようですね。
4月下旬、新聞の折り込み広告で制度の廃止に関する署名を求めました。ものすごい反響で、毎日のようにファクスなどが届いています。そのほとんどは生活苦で、例えば、「高級官僚や政治家に不正な使い方をされて生活が苦しいです」「余生を寂しく過ごしています」「官僚を野放しにすることは国民いじめです」といった内容です。
―「長寿」ではなく、「末期」高齢者医療制度と言う人もいます。
終末期の診療方針について、主治医が患者の家族と話し合って署名をさせれば、その主治医に手数料が入るなんて、そんなばかな制度がありますか。食う物も食えずに戦時中を生き抜いた、戦後の高度経済成長を支えたご老人を“うば捨て山”に追いやるような制度は断じて許せません。老人を大切にしない国の姿勢が問われていると思います。
―なぜ、このような制度をつくったのでしょうか。
「新たな財源を生み出す」「老人医療費を抑制する」という二つの目的が考えられます。医療費の財源が不足していますから、現在の国民皆保険制度を守るためには新しい財源を生み出す制度が必要です。しかし、目的税(消費税)は財務省の管轄になりますから、集めたお金を財務省がハンドリングしてしまう。これは厚労省にとって好ましくないので、自分たちで使えるお金を集めることができる制度として、後期高齢者医療制度をつくったのです。
―「老人医療費を抑制する」という目的ですが、老人医療費は伸びているのでしょうか。
老人医療費が伸びているとは必ずしも言い切れません。東北大の病院管理学の教授は、医療費の伸びの一番大きい部分が「高額医療費」であるとして、医学や科学の進歩によって高度な治療方法や高額な薬剤が開発されたことを医療費増加の主な原因に挙げています。厚労省の医療費の推計もでたらめです。1995年の予測では、医療費が2025年に141兆円になると言っていました。しかし、2005年に出した予測では69兆円に下方修正しています。せめて10兆円ぐらいの変更ならいいですが、半分以下になるというのはおかしいでしょう。でたらめな数字を出して、国民に「大変だ」という意識を持たせて洗脳しようというやり方はいけません。
■75歳以上の老人医療費を無料に
―テレビなどで原中会長が発言している内容に対して、厚労省は反発しているそうですね。
(後期高齢者医療制度を設計した)保険局医療課の原徳壽課長は、わたしの発言が「間違っている」と反論しているようです。「フリーアクセス(自由な受診)は制限していません。好きな病院に自由に行くことができます」と言う。それなら、どうしてこんな制度をつくったのでしょう。なぜ、主治医の報酬を高くしたのでしょうか。(主治医である)内科の先生が耳鼻科や眼科の先生に患者を紹介したとき、耳鼻科や眼科の診療報酬の方が安くなっています。自分が主治医の報酬をもらっていて、紹介先の先生が安い診療報酬になることを承知で、「当院の患者さんをお願いします」と言えますか。つまり、後期高齢者診療料はフリーアクセスを阻止するための手段なのです。
―しかし、主治医が高齢者の心身の状態を総合的に把握して、重複投薬や重複検査を減らすという厚労省の考えにも理解できる部分があります。
確かに、患者の健康状態などを把握した上で、適切なアドバイスをする医師は必要です。老人になると、足や目が悪くなり、病気も増えます。「老老介護」の世帯や独居老人もいます。そこで、近所の診療所の先生が医師の立場から面倒を見てあげる必要があります。これは、「かかりつけ医」という呼称で日本医師会も主張しています。そこで、厚労省は「日医も認めているじゃないか」と言いますが、日医が主張している「かかりつけ医」と厚労省の「主治医」は違います。日医の言う「かかりつけ医」は、医師の社会的な奉仕を広げた内容であって、ほかの病院に行くことを阻止する制度ではありません。
―厚労省は「主治医は一人」とか、「主病(主な病気)は一つ」と言っていますから、やはりフリーアクセスを制限しますね。
老人になるといろいろな病気を持っていますが、「主な病気は一つだけ」ということが、この制度の根本にあります。ですから、主病を扱った医師だけが高い診察料を受け取ることができて、副病を扱った医師は安くなるようにしたのです。内科医は心臓や血圧は診ることができますが、目の病気や前立腺肥大、脳出血後のリハビリ、外科手術が必要な胃がんなどは診れませんから、専門の医師に頼む必要があります。しかし、これらのうちどれが主病であるか、医学的に一つに決められるのでしょうか。「主治医は一人」「主病は一つ」という言い方をすることは、「高齢者を総合的に診る」という考えとは違います。高齢者を総合的に診るための制度であるなら、高齢者が気軽に何度も病院に行けるような制度にすべきです。わたしは、75歳以上の老人医療費は無料にすべきだと考えています。
■後期高齢者医療制度は廃止すべき
―75歳以上の老人医療費を無料にするとして、財源はどうしましょうか。
国家予算の一般会計83兆円に対し、各省庁が資金の使い道を握る特別会計は240兆円あるといわれています。この240兆円の中の1兆円を回せばいい。後期高齢者の医療保険料は全部で約8100億円、やがて1兆2000万円にまで増えるといわれていますが、240兆円の中から1兆円ぐらい出せないわけないでしょう。特別会計を一般会計に回して国民のために使わなければ、どんなに間接税を上げようと国民は幸せになれません。後期高齢者の保険料なんて、必要ないのです。国の無駄遣いや利権に染まった国家予算を減らせばいいのです。
―年金記録の問題も解決していないのに、お年寄りの少ない年金から天引きする。批判が噴出するのは当然ですね。
後期高齢者医療制度が社会保障制度であるなら、年金の少ない高齢者に対して保険料を免除するなど、何らかのセーフティーネットが必要です。憲法25条(生存権)により、国は国民の最低限度の生活を保障する義務がありますから、生活が苦しいお年寄りを保護する責任があるはずです。それなのに、戦後の荒廃から今日の日本をつくったご老人の年金から税金を取って、介護保険料を取って、さらに後期高齢者保険料を取る。これは、国の老人に対する基本的な姿勢が間違っているとしか言いようがありません。やはり、後期高齢者医療制度はいったん廃止して、改めてお金の出し方を国民全体で考えるべきでしょう。厚労省が本当の数字を出した上で、「医療費が足りませんから、この方法しかありません」ときちんと提案すれば、わたしたちも協力します。しかし、現在のままでは、厚労省はますます国民の信頼を失うでしょう。こんな高齢者いじめの制度は許せません。
(更新:2008/05/09 20:05 キャリアブレイン )
全文を貼り付ける;
<「高齢者いじめの制度は許せない」後期高齢者医療制度 茨城県医師会会長・原中勝征さん>
75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼び、健康保険や国民健康保険から追い出して強制加入させ、保険料を年金から天引きするだけでなく、保険料を払えなければ保険証を取り上げる―。厚生労働省は「長寿医療制度」という呼称を使用したポスターやチラシなどで「後期高齢者医療制度」への理解を求めたが、保険証の未着や保険料の天引きミスなど、混乱は続いた。制度の廃止を求める動きも活発化している。制度開始前、茨城県医師会は都道府県レベルの医師会では初めて同制度の廃止を求める声明を発表。「みなさん、こんな高齢者いじめの制度が許せますか!」と題するポスターを作成し、反対の署名活動を展開している。後期高齢者医療制度をめぐる問題について、同医師会会長の原中勝征さんに話を聞いた。(新井裕充)
―制度がスタートする前の3月下旬の理事会で、反対する方針を決定したそうですね。
全会一致で決めました。主治医が受け取ることができる「後期高齢者診療料」(患者一人につき月6000円)の届け出をしないで、従来通り出来高払いで算定するように会員医師に呼び掛けています。また、「後期高齢者診療料」の届け出条件である研修会を開催していません。厚労省は慌てて「介護保険の主治医研修会に出席した場合でも主治医として認める」とか、「研修を受講したという自己申告でも認める」などと言いだしました。おかしな話です。
―県民からの反対署名も集まっているようですね。
4月下旬、新聞の折り込み広告で制度の廃止に関する署名を求めました。ものすごい反響で、毎日のようにファクスなどが届いています。そのほとんどは生活苦で、例えば、「高級官僚や政治家に不正な使い方をされて生活が苦しいです」「余生を寂しく過ごしています」「官僚を野放しにすることは国民いじめです」といった内容です。
―「長寿」ではなく、「末期」高齢者医療制度と言う人もいます。
終末期の診療方針について、主治医が患者の家族と話し合って署名をさせれば、その主治医に手数料が入るなんて、そんなばかな制度がありますか。食う物も食えずに戦時中を生き抜いた、戦後の高度経済成長を支えたご老人を“うば捨て山”に追いやるような制度は断じて許せません。老人を大切にしない国の姿勢が問われていると思います。
―なぜ、このような制度をつくったのでしょうか。
「新たな財源を生み出す」「老人医療費を抑制する」という二つの目的が考えられます。医療費の財源が不足していますから、現在の国民皆保険制度を守るためには新しい財源を生み出す制度が必要です。しかし、目的税(消費税)は財務省の管轄になりますから、集めたお金を財務省がハンドリングしてしまう。これは厚労省にとって好ましくないので、自分たちで使えるお金を集めることができる制度として、後期高齢者医療制度をつくったのです。
―「老人医療費を抑制する」という目的ですが、老人医療費は伸びているのでしょうか。
老人医療費が伸びているとは必ずしも言い切れません。東北大の病院管理学の教授は、医療費の伸びの一番大きい部分が「高額医療費」であるとして、医学や科学の進歩によって高度な治療方法や高額な薬剤が開発されたことを医療費増加の主な原因に挙げています。厚労省の医療費の推計もでたらめです。1995年の予測では、医療費が2025年に141兆円になると言っていました。しかし、2005年に出した予測では69兆円に下方修正しています。せめて10兆円ぐらいの変更ならいいですが、半分以下になるというのはおかしいでしょう。でたらめな数字を出して、国民に「大変だ」という意識を持たせて洗脳しようというやり方はいけません。
■75歳以上の老人医療費を無料に
―テレビなどで原中会長が発言している内容に対して、厚労省は反発しているそうですね。
(後期高齢者医療制度を設計した)保険局医療課の原徳壽課長は、わたしの発言が「間違っている」と反論しているようです。「フリーアクセス(自由な受診)は制限していません。好きな病院に自由に行くことができます」と言う。それなら、どうしてこんな制度をつくったのでしょう。なぜ、主治医の報酬を高くしたのでしょうか。(主治医である)内科の先生が耳鼻科や眼科の先生に患者を紹介したとき、耳鼻科や眼科の診療報酬の方が安くなっています。自分が主治医の報酬をもらっていて、紹介先の先生が安い診療報酬になることを承知で、「当院の患者さんをお願いします」と言えますか。つまり、後期高齢者診療料はフリーアクセスを阻止するための手段なのです。
―しかし、主治医が高齢者の心身の状態を総合的に把握して、重複投薬や重複検査を減らすという厚労省の考えにも理解できる部分があります。
確かに、患者の健康状態などを把握した上で、適切なアドバイスをする医師は必要です。老人になると、足や目が悪くなり、病気も増えます。「老老介護」の世帯や独居老人もいます。そこで、近所の診療所の先生が医師の立場から面倒を見てあげる必要があります。これは、「かかりつけ医」という呼称で日本医師会も主張しています。そこで、厚労省は「日医も認めているじゃないか」と言いますが、日医が主張している「かかりつけ医」と厚労省の「主治医」は違います。日医の言う「かかりつけ医」は、医師の社会的な奉仕を広げた内容であって、ほかの病院に行くことを阻止する制度ではありません。
―厚労省は「主治医は一人」とか、「主病(主な病気)は一つ」と言っていますから、やはりフリーアクセスを制限しますね。
老人になるといろいろな病気を持っていますが、「主な病気は一つだけ」ということが、この制度の根本にあります。ですから、主病を扱った医師だけが高い診察料を受け取ることができて、副病を扱った医師は安くなるようにしたのです。内科医は心臓や血圧は診ることができますが、目の病気や前立腺肥大、脳出血後のリハビリ、外科手術が必要な胃がんなどは診れませんから、専門の医師に頼む必要があります。しかし、これらのうちどれが主病であるか、医学的に一つに決められるのでしょうか。「主治医は一人」「主病は一つ」という言い方をすることは、「高齢者を総合的に診る」という考えとは違います。高齢者を総合的に診るための制度であるなら、高齢者が気軽に何度も病院に行けるような制度にすべきです。わたしは、75歳以上の老人医療費は無料にすべきだと考えています。
■後期高齢者医療制度は廃止すべき
―75歳以上の老人医療費を無料にするとして、財源はどうしましょうか。
国家予算の一般会計83兆円に対し、各省庁が資金の使い道を握る特別会計は240兆円あるといわれています。この240兆円の中の1兆円を回せばいい。後期高齢者の医療保険料は全部で約8100億円、やがて1兆2000万円にまで増えるといわれていますが、240兆円の中から1兆円ぐらい出せないわけないでしょう。特別会計を一般会計に回して国民のために使わなければ、どんなに間接税を上げようと国民は幸せになれません。後期高齢者の保険料なんて、必要ないのです。国の無駄遣いや利権に染まった国家予算を減らせばいいのです。
―年金記録の問題も解決していないのに、お年寄りの少ない年金から天引きする。批判が噴出するのは当然ですね。
後期高齢者医療制度が社会保障制度であるなら、年金の少ない高齢者に対して保険料を免除するなど、何らかのセーフティーネットが必要です。憲法25条(生存権)により、国は国民の最低限度の生活を保障する義務がありますから、生活が苦しいお年寄りを保護する責任があるはずです。それなのに、戦後の荒廃から今日の日本をつくったご老人の年金から税金を取って、介護保険料を取って、さらに後期高齢者保険料を取る。これは、国の老人に対する基本的な姿勢が間違っているとしか言いようがありません。やはり、後期高齢者医療制度はいったん廃止して、改めてお金の出し方を国民全体で考えるべきでしょう。厚労省が本当の数字を出した上で、「医療費が足りませんから、この方法しかありません」ときちんと提案すれば、わたしたちも協力します。しかし、現在のままでは、厚労省はますます国民の信頼を失うでしょう。こんな高齢者いじめの制度は許せません。
(更新:2008/05/09 20:05 キャリアブレイン )
[ 11:17 ]
[ 日記 ]
《真に開かれた民主主義》
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
大澤真幸氏は『逆接の民主主義』において、これを考え、具体案を提起している。
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
というのは、何を意味するか。
このことについて、このコンパクトな新書に、めまぐるしい“思考”がつまっている。
ぼく自身これを元に“考える”必要があるし、この本はそのための起爆装置に満ちている。
たとえば《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》という命題の逆はなにか;
《「民主主義」を逆方向に「乗り越える」ときに得られるのが、全体主義である》
まさに明確である。
ぼくはこの“定義”を信じる。
大澤氏の多様な論議のなかから、<歴史>についての考察を取上げたい。
ぼくはこの記述に一種の感動をおぼえた;
まず歴史は、《必然的に勝者の歴史であるほかない》
《だが、このような通常の歴史認識の中では、構造的に脱落するものがある。敗者である。あるいは、こう言ってもよい、歴史の渦中の生成する行為に含まれていた自由と可能性である、と》
《つまり、事後の視点にとっては、歴史は、「ここ」へと至る必然の連鎖だが、渦中にあっては、つまり歴史の過程に参加していた者にとっては、それは、必然とはほど遠い。そこでは、「他でもありえた」中にあって、「これ」が実現し、また選ばれていく、連続だったのだ。後からの歴史の中には登録されることがない、「他でもありえた」という可能性、こうした可能性に加担した人々、こうした可能性の中でしか意味を与えられない人々、これが歴史の敗者である。歴史の生成の中に参与するならば、任意の地点に、敗者の可能性が隣接している》
《誰もが、敗者たりえたという可能性があるのだ。敗者でありえたということこそが、歴史の渦中にあって、人は自由な選択の主体であったということ以外の何ものでもあるまい》
《フロイトに「死の欲動」という奇妙な仮説を吹き込んだ反復強迫とは、歴史の生成の中にありながら、歴史記述の中からは抹消されてしまう、この「他でありえた」という偶有性を再発掘しようとする試みの繰り返しであると解釈することができる。
偶有性は、事後の視点からは抹消されてしまうので、ただ、その地点に回帰するということの反復によってしか回復しえないのだ》
もし現在において“アクチュアルな”思考が可能ならば、この本での大澤氏のような思考を意味する。
ぼくはこの新書『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)を烈しく推薦します(笑)
あなたが、この本と共に考える事を。
”天声人語”を読んでいる場合ではありません(爆)
あらゆる”マスメディア的言説”を。
それは”右であれ左であれリベラルであれ”、<全体主義への道>にしか至りません。
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
大澤真幸氏は『逆接の民主主義』において、これを考え、具体案を提起している。
《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》
というのは、何を意味するか。
このことについて、このコンパクトな新書に、めまぐるしい“思考”がつまっている。
ぼく自身これを元に“考える”必要があるし、この本はそのための起爆装置に満ちている。
たとえば《「民主主義」を<民主主義>の方へと乗り越える》という命題の逆はなにか;
《「民主主義」を逆方向に「乗り越える」ときに得られるのが、全体主義である》
まさに明確である。
ぼくはこの“定義”を信じる。
大澤氏の多様な論議のなかから、<歴史>についての考察を取上げたい。
ぼくはこの記述に一種の感動をおぼえた;
まず歴史は、《必然的に勝者の歴史であるほかない》
《だが、このような通常の歴史認識の中では、構造的に脱落するものがある。敗者である。あるいは、こう言ってもよい、歴史の渦中の生成する行為に含まれていた自由と可能性である、と》
《つまり、事後の視点にとっては、歴史は、「ここ」へと至る必然の連鎖だが、渦中にあっては、つまり歴史の過程に参加していた者にとっては、それは、必然とはほど遠い。そこでは、「他でもありえた」中にあって、「これ」が実現し、また選ばれていく、連続だったのだ。後からの歴史の中には登録されることがない、「他でもありえた」という可能性、こうした可能性に加担した人々、こうした可能性の中でしか意味を与えられない人々、これが歴史の敗者である。歴史の生成の中に参与するならば、任意の地点に、敗者の可能性が隣接している》
《誰もが、敗者たりえたという可能性があるのだ。敗者でありえたということこそが、歴史の渦中にあって、人は自由な選択の主体であったということ以外の何ものでもあるまい》
《フロイトに「死の欲動」という奇妙な仮説を吹き込んだ反復強迫とは、歴史の生成の中にありながら、歴史記述の中からは抹消されてしまう、この「他でありえた」という偶有性を再発掘しようとする試みの繰り返しであると解釈することができる。
偶有性は、事後の視点からは抹消されてしまうので、ただ、その地点に回帰するということの反復によってしか回復しえないのだ》
もし現在において“アクチュアルな”思考が可能ならば、この本での大澤氏のような思考を意味する。
ぼくはこの新書『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)を烈しく推薦します(笑)
あなたが、この本と共に考える事を。
”天声人語”を読んでいる場合ではありません(爆)
あらゆる”マスメディア的言説”を。
それは”右であれ左であれリベラルであれ”、<全体主義への道>にしか至りません。
2008/05/13のBlog
[ 08:14 ]
[ 日記 ]
今日の天声人語!(笑)
まず言っておきたいが、昨年(かな?)天声人語のライターが変わった時の紹介を読んだが、現在のライターは二人で、年齢は50過ぎのはずである(ぼくの記憶違いでなければ)
つまり“ぼく”より10歳程度年下なのである。
ああ、それなのに、この“センス”の古さはなに!
たぶん彼らは“朝日新聞”読者が高齢者のみになったのに対応して、“高齢者的話題とセンス”に徹するよう“努力”しているのである。
まさか自分より高齢者の“上司”にのみ気を使っているのではあるまい(笑)
具体的には、天声人語が“引用”するものは、ことごとく“古臭い”。
ぼくは昭和初期にいるような気がする。
すくなくともこれは、“戦後”の感性では、ない。
今日の天声人語?(笑)
今日の天声人語は、戦後すぐに庶民が詠んだ「平和百人一首」を収めた新刊『百のうた 千の想(おも)い』をネタにしている。
つまり“戦後”を話題にしている。
その展開はいかに?(笑)
最後はこう結ばれている;
《▼米粉の増産支援に、政府が乗り出すそうだ。小麦の代わりに、パンやめんの原材料に使うのだという。米も石炭も、国の「ピンチ」で光が当たるのは、思えば皮肉である。食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポンが、60年前の歌に照らされるように浮かび上がる。》
はあー、そうなんですか!(爆)
えっと、“戦後60年”、朝日新聞は“ずっとあった”のではありませぬか?
その間(いやそれ以前、戦中も)朝日新聞は、影響力あるメディアだったのではないのですか?
そうなると、現在の《食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポン》に朝日新聞も責任がある。
つまり過去のあらゆる時点で、朝日新聞が今日のように、《思えば皮肉である》などと“達観している”うちに、この戦後60年は経過し、《心細く肥満したニッポン》が出現したのである。
つまり朝日新聞の(天声人語の)ような言説もこの“戦後60年”の《心細く肥満したニッポン》製造に寄与してきたのである。
だからこういう言説の連鎖を断ち切る言説でなければ、これからの“60年後”はもっとひどくなるだけである(侮蔑の笑;ひひひ)
まず言っておきたいが、昨年(かな?)天声人語のライターが変わった時の紹介を読んだが、現在のライターは二人で、年齢は50過ぎのはずである(ぼくの記憶違いでなければ)
つまり“ぼく”より10歳程度年下なのである。
ああ、それなのに、この“センス”の古さはなに!
たぶん彼らは“朝日新聞”読者が高齢者のみになったのに対応して、“高齢者的話題とセンス”に徹するよう“努力”しているのである。
まさか自分より高齢者の“上司”にのみ気を使っているのではあるまい(笑)
具体的には、天声人語が“引用”するものは、ことごとく“古臭い”。
ぼくは昭和初期にいるような気がする。
すくなくともこれは、“戦後”の感性では、ない。
今日の天声人語?(笑)
今日の天声人語は、戦後すぐに庶民が詠んだ「平和百人一首」を収めた新刊『百のうた 千の想(おも)い』をネタにしている。
つまり“戦後”を話題にしている。
その展開はいかに?(笑)
最後はこう結ばれている;
《▼米粉の増産支援に、政府が乗り出すそうだ。小麦の代わりに、パンやめんの原材料に使うのだという。米も石炭も、国の「ピンチ」で光が当たるのは、思えば皮肉である。食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポンが、60年前の歌に照らされるように浮かび上がる。》
はあー、そうなんですか!(爆)
えっと、“戦後60年”、朝日新聞は“ずっとあった”のではありませぬか?
その間(いやそれ以前、戦中も)朝日新聞は、影響力あるメディアだったのではないのですか?
そうなると、現在の《食糧の自給率39%、エネルギーはわずか4%。心細く肥満したニッポン》に朝日新聞も責任がある。
つまり過去のあらゆる時点で、朝日新聞が今日のように、《思えば皮肉である》などと“達観している”うちに、この戦後60年は経過し、《心細く肥満したニッポン》が出現したのである。
つまり朝日新聞の(天声人語の)ような言説もこの“戦後60年”の《心細く肥満したニッポン》製造に寄与してきたのである。
だからこういう言説の連鎖を断ち切る言説でなければ、これからの“60年後”はもっとひどくなるだけである(侮蔑の笑;ひひひ)
[ 07:38 ]
[ 日記 ]
中国での地震のニュースがずらっと並ぶヤフーニュース・アクセス・ランキングの2位にこういうニュースがある;
<松本人志が硫化水素自殺で「放言」、「アホが死んだら別に俺はええねん」>J-CASTニュース
松本人志のラジオ番組での発言が、“2ちゃんねる”やニコニコ動画で話題になっているというのだ。
いちおう松本人志がなにを言ったのかをこの記事からひろってみる;
《まず、松本さんが、「いま自殺もはやっているでしょ」と話題を振った。そして、「何かよう分からん。なんや、あれ。なんか液体の、あれやわ、ガスみたいな」と言葉に詰まると、高須さんが、「硫化水素やね」と助け舟を出した。
松本さんは、相槌を打つと、マスコミに不満をぶつけた。
「ニュースが面白がってんねん。今日は何件あったとか、やっとるわけよ。もうええねん、もう一切そのニュースはなし」
さらに、「自殺なんてね。報道すればするほど、あいつら寂しいヤツらだから、俺も死のうって思うヤツがたくさん出てくんねん」と批判した。
そして、「問題発言」とされたのは、松本さんの次の発言だ。
「まあ、ある意味ね。ちょうどええ時期に、そんなアホが死んだら別に俺はええねんけど」
こうした会話で、2人は盛り上がった。高須さんが「ええこと言ったね、松本さん」と水を向けると、松本さんは、「ほんとに間違ってないわ、俺らはね」とうれしそうだった。》
(以上引用)
なんか、引用しているだけで気力が失せるような、くだらなさである。
だから“こういうくだらない話”は無視するという、“正当な”立場もありえ得る。
だがぼくのブログは、ちゃんと“山本モナ”や“羊水発言”も取上げてきた歴史がある(笑)
ぼくは、ようするに松本人志も“2ちゃんねる”的な人々も嫌いである。
なぜなら、彼らは“同じ人々(同じフィーリングの人々)”であるから。
つまり松本人志にとっては、“2ちゃんねる的な人々“こそがお客さんなのである。
この記事での松本人志が《マスコミに不満をぶつけた》というのは、論理矛盾である。
松本人志が“マスコミ”なのである。
これはみのもんたが“何々をズバッと切り捨てた”と同じ構造である。
彼らは“自己批判”しているのであろうか!
とんでもない、<保身>しているだけである。
ここでの問題の本質は“硫化水素で自殺する人々の続出”という新たな事態である。
それは“硫化水素”という新たな自殺法の存在と、その使用が他者を巻き込むという特質の問題である。
しかしさらに(硫化水素に限らない)近年の<自殺>の高い水準がなぜこうも持続し、さらにこれが増大の傾向にあることを示している。
そうであるから、“この社会の現在”がなぜ自殺者を生み出してしまうかについての根本的感性と考察が必要である。
たしかに硫化水素自殺が“流行”しているから、それに乗ってしまうという“アホな”人間もいるだろう。
しかしその場合も、なぜこんなに“アホな人間が多くなったか”が問題である。
さらにこういう“アホな人間”こそ松本の“飯のタネ”であることへの反省が松本のような“お笑い人間”には必要であろう。
ぼくはこの松本発言に次の2点を感じる;
① 芸能人の“勝ち組”的傲慢。
② いやなことは笑って誤魔化す(見ないで考えないで誤魔化す)卑怯。
本来の“お笑い芸人”とは、“認識したうえで”、それを笑いで批判したり、ぶっ飛ばしたりする“芸”であった。
それは時代に対するするどい感受性と批判精神によって実現するものであった。
自分の弱さ、あるいは弱さを抱えざるを得ない“人間”の苦しみを洞察しうる所から生まれる“笑い”であった。
いったい松本人志のような庶民でもなく、知識人でもない“大衆ぼっちゃん”芸人になにが“分かる”のか。
ほとんどテレビ局やラジオ局で寝泊りしているような人間にどんな“世間の空気”が読めるのか。
あるいは松本人志は、“まともな本”を読んだことがあるのだろうか。
“まともな映画”をみたことがあるの?(笑)
もちろんぼくは松本人志の先輩である、テレビ村でボス面しているすべての“偽芸人”にこう言いたい。
たけしにタモリ、聞いてんのか(爆)
<松本人志が硫化水素自殺で「放言」、「アホが死んだら別に俺はええねん」>J-CASTニュース
松本人志のラジオ番組での発言が、“2ちゃんねる”やニコニコ動画で話題になっているというのだ。
いちおう松本人志がなにを言ったのかをこの記事からひろってみる;
《まず、松本さんが、「いま自殺もはやっているでしょ」と話題を振った。そして、「何かよう分からん。なんや、あれ。なんか液体の、あれやわ、ガスみたいな」と言葉に詰まると、高須さんが、「硫化水素やね」と助け舟を出した。
松本さんは、相槌を打つと、マスコミに不満をぶつけた。
「ニュースが面白がってんねん。今日は何件あったとか、やっとるわけよ。もうええねん、もう一切そのニュースはなし」
さらに、「自殺なんてね。報道すればするほど、あいつら寂しいヤツらだから、俺も死のうって思うヤツがたくさん出てくんねん」と批判した。
そして、「問題発言」とされたのは、松本さんの次の発言だ。
「まあ、ある意味ね。ちょうどええ時期に、そんなアホが死んだら別に俺はええねんけど」
こうした会話で、2人は盛り上がった。高須さんが「ええこと言ったね、松本さん」と水を向けると、松本さんは、「ほんとに間違ってないわ、俺らはね」とうれしそうだった。》
(以上引用)
なんか、引用しているだけで気力が失せるような、くだらなさである。
だから“こういうくだらない話”は無視するという、“正当な”立場もありえ得る。
だがぼくのブログは、ちゃんと“山本モナ”や“羊水発言”も取上げてきた歴史がある(笑)
ぼくは、ようするに松本人志も“2ちゃんねる”的な人々も嫌いである。
なぜなら、彼らは“同じ人々(同じフィーリングの人々)”であるから。
つまり松本人志にとっては、“2ちゃんねる的な人々“こそがお客さんなのである。
この記事での松本人志が《マスコミに不満をぶつけた》というのは、論理矛盾である。
松本人志が“マスコミ”なのである。
これはみのもんたが“何々をズバッと切り捨てた”と同じ構造である。
彼らは“自己批判”しているのであろうか!
とんでもない、<保身>しているだけである。
ここでの問題の本質は“硫化水素で自殺する人々の続出”という新たな事態である。
それは“硫化水素”という新たな自殺法の存在と、その使用が他者を巻き込むという特質の問題である。
しかしさらに(硫化水素に限らない)近年の<自殺>の高い水準がなぜこうも持続し、さらにこれが増大の傾向にあることを示している。
そうであるから、“この社会の現在”がなぜ自殺者を生み出してしまうかについての根本的感性と考察が必要である。
たしかに硫化水素自殺が“流行”しているから、それに乗ってしまうという“アホな”人間もいるだろう。
しかしその場合も、なぜこんなに“アホな人間が多くなったか”が問題である。
さらにこういう“アホな人間”こそ松本の“飯のタネ”であることへの反省が松本のような“お笑い人間”には必要であろう。
ぼくはこの松本発言に次の2点を感じる;
① 芸能人の“勝ち組”的傲慢。
② いやなことは笑って誤魔化す(見ないで考えないで誤魔化す)卑怯。
本来の“お笑い芸人”とは、“認識したうえで”、それを笑いで批判したり、ぶっ飛ばしたりする“芸”であった。
それは時代に対するするどい感受性と批判精神によって実現するものであった。
自分の弱さ、あるいは弱さを抱えざるを得ない“人間”の苦しみを洞察しうる所から生まれる“笑い”であった。
いったい松本人志のような庶民でもなく、知識人でもない“大衆ぼっちゃん”芸人になにが“分かる”のか。
ほとんどテレビ局やラジオ局で寝泊りしているような人間にどんな“世間の空気”が読めるのか。
あるいは松本人志は、“まともな本”を読んだことがあるのだろうか。
“まともな映画”をみたことがあるの?(笑)
もちろんぼくは松本人志の先輩である、テレビ村でボス面しているすべての“偽芸人”にこう言いたい。
たけしにタモリ、聞いてんのか(爆)
[ 05:33 ]
[ 日記 ]
無無無。
むむむ。
ムムム。
“無”がみっつあるから<3無主義>という。
最近“愛読”している天木直人ブログが<3無主義>について書いている。
タイトルは“強く生きることの難しさと大切さ”という、前半を引用する;
<強く生きることの難しさと大切さ>
このところ、政治がまったくつまらなくなってきている。それはなぜか。政治家に理想がなくなったからだ。政治家という特権を手放すことを恐れ、闘う事を恐れて、皆が保身に走っているからだ。
そして、それを国民が許している。国民の間で政治対する怒りが失せ、あきらめの気持ちが強くなっているからだ。国民もまた保身に汲々としているのだ。
12日の産経新聞の「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆が目に留まった。
小林毅論説委員の手になる「一筆多論」のなかで、彼はこう書いている。
かつて「三無主義」という言葉があった。「無気力、無責任、無関心」のことである。これは、昭和40年代後半の若者の姿勢を、戦後復興に懸命に取り組み高度成長を実現した人々が、苦々しい表情で批判した言葉だ。
しかし最近の日本には、新しい三無主義がはびこっているように見える。しかもそれは「若者限定」ではなく、老若男女を問わず、社会全体を広く、深く覆っている。
それは、そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか、という新三無主義の風潮である・・・
この風潮が、「似非改革」を叫ぶ小泉元首相にだまされて熱狂した国民を生み、その小泉改革にだまされた、苦しめられたことがわかった今では、その怒りを小泉批判に向かわせることなく、逆に、より弱いものをいじめる方向に暴力的に走らせている。
権力者にとっては、なんと都合のいい国民であろうか。
(以上引用)
つまり<3無主義>というのは、
むかし=「無気力、無責任、無関心」
現在=「そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか」という風潮
なのである。
この<3無主義>が産経新聞の“「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆”にあったというのは奇怪であるが(つまり産経新聞のような下世話な話題と馬鹿げたバッシング新聞がなにを言うのか!)、一応状況の本質をとらえているように思える。
すなわち<無理・無駄・無意味>という3無主義がである。
“政治家”も“国民”も、保身に走るのみ。
失われたのは<理想>である。
たしかにこの<理想>というのは、曲者である。
たぶん産経新聞が“吹き飛ばして”実現したい理想とぼくの理想はぜんぜん異なっている。
つまり<戦艦大和>のような、無様な巨体が何の役に立たないだけでなく、まったく<美しくない>ことが問題なのだ。
そんな昔ではなく、<美しい国>というような本をベストセラーにした“この国の責任者=支配者”が、まったく“美しくない”人であったことも明らかである。
その前の“責任者”が、上記で天木氏も言っている“「似非改革」で国民をだましてこの惨憺たる現在をもたらした”小泉という男である。
この男自身は、“オペラ鑑賞”で余生を優雅に送ればよいものを、みっともなく未練たっぷりに愚劣な発言をメディアに撒き散らしている、美しくない。
この時、だからこそ、こういう言葉が身に沁みるのである;
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
“コンシステントな表現者でありつづけたいと願う心”
というのは、“誠実に生きたいと願うこころ”のことではないか。
たしかに、“願ってもそう生きられない”のが、この人生である。
なぜならこの<社会>が、この<世界>がそれを許さない。
ここに挫折と“3無主義”が現れる。
つまり、あっさりあきらめるひとが多いのである。
諦めた方が生きやすい。
ただそれだけである。
だからむしろ、こういうことである。
“誠実に生きることを放棄しないなら”、
自分をいかに“コンシステントな表現者”にするか。
<追記>
自分を“コンシステントな表現者”にするための<方法と実践>。
それは多様であっていいし、多様であるべきだ。
そのひとの、その時点での”資質”のようなものが、やはり、あるだろう。
ぼく自身は不器用な人間である。
身体を動かすのが苦手である(笑)
だからぼくにとっては、読むこと書くことの”実践”がある。
読むこと書くことの”連鎖”をつくりだす。
ぼくが聞きえる言葉を聞き、ぼくが書きうる言葉を書き続ける。
もう残り時間は少ないが、こうした実践は、ある。
むむむ。
ムムム。
“無”がみっつあるから<3無主義>という。
最近“愛読”している天木直人ブログが<3無主義>について書いている。
タイトルは“強く生きることの難しさと大切さ”という、前半を引用する;
<強く生きることの難しさと大切さ>
このところ、政治がまったくつまらなくなってきている。それはなぜか。政治家に理想がなくなったからだ。政治家という特権を手放すことを恐れ、闘う事を恐れて、皆が保身に走っているからだ。
そして、それを国民が許している。国民の間で政治対する怒りが失せ、あきらめの気持ちが強くなっているからだ。国民もまた保身に汲々としているのだ。
12日の産経新聞の「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆が目に留まった。
小林毅論説委員の手になる「一筆多論」のなかで、彼はこう書いている。
かつて「三無主義」という言葉があった。「無気力、無責任、無関心」のことである。これは、昭和40年代後半の若者の姿勢を、戦後復興に懸命に取り組み高度成長を実現した人々が、苦々しい表情で批判した言葉だ。
しかし最近の日本には、新しい三無主義がはびこっているように見える。しかもそれは「若者限定」ではなく、老若男女を問わず、社会全体を広く、深く覆っている。
それは、そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか、という新三無主義の風潮である・・・
この風潮が、「似非改革」を叫ぶ小泉元首相にだまされて熱狂した国民を生み、その小泉改革にだまされた、苦しめられたことがわかった今では、その怒りを小泉批判に向かわせることなく、逆に、より弱いものをいじめる方向に暴力的に走らせている。
権力者にとっては、なんと都合のいい国民であろうか。
(以上引用)
つまり<3無主義>というのは、
むかし=「無気力、無責任、無関心」
現在=「そんなの「無理」だし、頑張っても「無駄」、何を言っても「無意味」じゃないか」という風潮
なのである。
この<3無主義>が産経新聞の“「新三無主義を吹き飛ばせ」という随筆”にあったというのは奇怪であるが(つまり産経新聞のような下世話な話題と馬鹿げたバッシング新聞がなにを言うのか!)、一応状況の本質をとらえているように思える。
すなわち<無理・無駄・無意味>という3無主義がである。
“政治家”も“国民”も、保身に走るのみ。
失われたのは<理想>である。
たしかにこの<理想>というのは、曲者である。
たぶん産経新聞が“吹き飛ばして”実現したい理想とぼくの理想はぜんぜん異なっている。
つまり<戦艦大和>のような、無様な巨体が何の役に立たないだけでなく、まったく<美しくない>ことが問題なのだ。
そんな昔ではなく、<美しい国>というような本をベストセラーにした“この国の責任者=支配者”が、まったく“美しくない”人であったことも明らかである。
その前の“責任者”が、上記で天木氏も言っている“「似非改革」で国民をだましてこの惨憺たる現在をもたらした”小泉という男である。
この男自身は、“オペラ鑑賞”で余生を優雅に送ればよいものを、みっともなく未練たっぷりに愚劣な発言をメディアに撒き散らしている、美しくない。
この時、だからこそ、こういう言葉が身に沁みるのである;
《この国を被う(おおう)時代の空気は「知的不誠実」にある。辻褄の合った(コンシステントな)表現者でありつづけたい、そう願う心さえ捨て去られて久しい》(内橋克人)
“コンシステントな表現者でありつづけたいと願う心”
というのは、“誠実に生きたいと願うこころ”のことではないか。
たしかに、“願ってもそう生きられない”のが、この人生である。
なぜならこの<社会>が、この<世界>がそれを許さない。
ここに挫折と“3無主義”が現れる。
つまり、あっさりあきらめるひとが多いのである。
諦めた方が生きやすい。
ただそれだけである。
だからむしろ、こういうことである。
“誠実に生きることを放棄しないなら”、
自分をいかに“コンシステントな表現者”にするか。
<追記>
自分を“コンシステントな表現者”にするための<方法と実践>。
それは多様であっていいし、多様であるべきだ。
そのひとの、その時点での”資質”のようなものが、やはり、あるだろう。
ぼく自身は不器用な人間である。
身体を動かすのが苦手である(笑)
だからぼくにとっては、読むこと書くことの”実践”がある。
読むこと書くことの”連鎖”をつくりだす。
ぼくが聞きえる言葉を聞き、ぼくが書きうる言葉を書き続ける。
もう残り時間は少ないが、こうした実践は、ある。
