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2008/05/16のBlog
ひところ、村上春樹や柴田元幸が“新しいアメリカ文学”を精力的に紹介した時期があった、村上春樹が今も翻訳を続けていることも知られているだろう。

当時春樹ファンだったぼくもこれに注目、アーヴィング、オブライエン、オースター、エリクソンなどを読んでみたが、あまりピンとこなかった。
(アーヴィング原作の2本の映画『ガープの世界』と『ホテル・ニューハンプシャー』はわりと好きである)
もっと前に読んだサリンジャーやヴォネガットも(あまりピンとこない)。

春樹のインタビューで彼がフィッツジェラルドのファンであることを知ったが、ぼくは“ギャツビー”があまり好きでなかった。

なぜ春樹はフィッツジェラルド好きで、ヘミングウェイのことを言わないのか?と思った<注>
ぼくにとって“アメリカ文学”はヘミングウェイであった(現在はフォークナーに注目)

ただしぼくは、ヘミングウェイの短篇のファンであった。
しかし『武器よさらば』“だけ”は好きな長編である(『日はまた昇る』は読み終わってさえいない)

ぼくはヘミングウェイの短篇を何度も読み返したが、『武器よさらば』は書き出しと第38章の冒頭を時々読んでみる。
この第38章の冒頭をぼくは受験参考書の例文で読んで、感動した。
けれども結局、原書のペーパーバックは買ったが、これ全体を英語で読んだことはない。

昨年パーキンソン患者・関係者の集会で行った北イタリアのマッジョーレ湖畔のストレーザが、『武器よさらば』のイタリアからの脱出の町であることを知った、まったくの偶然である。

そのときから(もはやおぼえていない)この物語を読み返してみたいと思った。
昨日仕事帰りの紀伊国屋書店で、光文社古典新訳文庫新刊を見ていて、前に出ていた『武器よさらば』の新訳を手にした。
主人公の語りは“おれ”である。

《その年、夏も終わりの頃、おれたちはある村の屋敷で暮らしていた。村からは川がみえ、そのむこうには平野が広がり、さらにその先には山が連なっていた。川の浅いところは水面から出た大小の石が日光で白く乾き、澄んだ水が軽やかに流れ、深いところは青くみえた。部隊が次々に屋敷の横の道を通り、まきあげる土埃が木々の葉を白っぽく染めあげた……》

ぼくはこういう描写が好きである。
“ああ幸せな小説”と思う。

ヘミングウェイは“マッチョ”ではないと訳者の金原瑞人氏は言う、“センチメンタル”であると。
ぼくも賛成である。

訳者は《ヘミングウェイは訳していてとても快い》という。
ぼくも読んでいて快い、これが“幸せ”の理由である。


上記を書いていて、この小説と近年ぼくが偏愛する『イギリス人の患者』の“風土的共通性”に気づいた(こちらはイタリア→カイロ→砂漠であるけれど)
かたや第1次大戦、かたや第2次大戦であるけれども。
だから描かれる“恋”も変化したのである。

ぼくはひところ流行のアメリカ現代小説もラテンアメリカ文学も読みそこねた気がする。
いま、納戸からほとんど読んでいないエリクソンの処女作『彷徨う日々』を取り出してきた。
こういう“現代という悪夢”のような小説も読まずばなるまい(笑)

悪夢によって悪夢を鎮めるために。




<注>

ぼくと春樹が”共通に好き”だった作家は、スティーヴン・キングであった!

春樹は”今でも”キングが好きであろうか?

ぼくは今でも、キングが好きである。

アメリカの大学町では、誰も口にしないというキングが。



今日の天声人語は晩年(といってもはやく死んだわけだが)の正岡子規の話題から以下のように展開する(それにしてもなぜ“子規”なのであろうか、この筆者は江戸や明治が好きらしい);

《▼寝たきりの子規は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、子規の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、子規は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない》


ここに書かれている“事実”は、天声人語氏のせいではない(笑)

《だれもがいつかは老いるし、病む》という事実は“誰もが知っている”はず、なのである。

しかし、そうなのだろうか。
たとえば、やはり年齢により、その人の人生の“条件”により、その“知り方”はちがっている。

もっとはっきり言えば“自分だけは”老いず、病には無縁だと考えたいひとも多いようである。
あるいは、自分と自分の周辺だけは、老いと病から防衛する(できる)となぜか“信じている”ようなひともいる。

あるいは、自分がこの国の人々の《だれもがいつかは老いるし、病む》という条件に責任がある(彼らのためになにかをすることが仕事である)人々に、さっぱりそのような“意識”がみられないのも奇妙なことである。

《平気で生きられる穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない》

しかし“言うまでもない”ことが実現していない(のも言うまでもない)
《手を打つのは今しかない》のである。

しかし誰が手を打つのか。

“自己責任”、“自助努力”なのであろうか。

直接関係ないが先日の松本人志の“硫化水素自殺者はアホ”発言報道への若い人々(とみられる)方々のコメントを読んだ。
ほとんどの人々が松本を擁護している。
かれらは硫化水素自殺は他者に迷惑をかけるから、そんな奴はアホだと罵っている。
これは“正論”であろう。
しかし彼らの大部分が自殺者を“アホ”呼ばわりするのは許せない。

ぼくは自殺を推奨はしない。
しかし自殺者にも様々な条件と理由があったと思う。

また自分が自殺に追い込まれないという確信はどうして得られるのか。
また殺人の場合と同様、なぜ彼らは被害者と自分を同一視しかしないのか。

自分は加害者の家族・親戚や友人にもなりうるし、自殺者の家族・親戚や友人にもなりうる。

それとも、自分の“血筋”や友人にはそうゆう“アホ”はいないと、確信できるのであろうか。

想像力が貧困なのは“為政者”(権力側の人間)だけではないのである、残念ながら。



ぼくは大澤真幸『逆接の民主主義』の論点の大部分に共感したが、この本の最後の部分に違和感を持った。

それは大澤氏が“日常的な愛”について述べた部分である。

彼は、男がある女を愛する場合、彼女が完璧ではなく、欠点があるから愛するのだという。
つまりその“欠点”は憎悪にも連なりうるものなのである。

ここまでは、まったく納得である(笑)

だが続けて大澤氏は書く、なぜかひとは“欠点”を愛するのか;

《愛さているのは、他者の内にあって、何ものとしても積極的に特徴づけられない「それ以上の何か」なのだ。特異的な性質は、その「それ以上の何か」の代理物にすぎない。それは、「それ以上の何か」との対照において「不足しているもの」として、つまり否定性を帯びて現前することになるわけだ》

ここにおいて、“それ以上の何か”が求められるということは納得できるが、この論理展開(感情の動き)は、ぼくにはすっと入ってこない。

つまり愛しているということが起こる、持続するということは、彼女の内に「それ以上の何か」を求め、それと対照して“不足しているもの”を“欠点として”愛するということになる。

そうだろうか?
ぼくはこんな複雑な愛し方をしていない(笑)

たしかに彼女に欠点を見るのは、“それ以上の何か”をもとめているからであるかもしれない。

しかしその欠点を愛するのは、彼女のその欠点における“特異性”ではないか。
つまり“欠点”というものが、“私”が女性に求める“それ以上の何か”によって生じるとしても(実際にそうだろう)、“彼女の欠点”を愛するのは、彼女が“それ以上の何か”に達し得ないその独自性を愛するのである<追記>

だから“ぼく”にとって、“彼女”は<任意の他者>では、ない。

この大澤氏の論議の文脈では、上記のぼくのような考えでは、“普遍的な愛への潜在的可能性”はなくなってしまう(のだろうか?)

困ったことだが、どうもぼくは普遍的な愛には縁遠いのである(笑)



<追記>

これは”精神的な問題”や”性格的な問題”のみを意味しない。

それは、ルックスの問題や性的な問題も意味する。

大澤氏も”完璧な美人は愛せない”ということも問題にしているのだから、これは”心身問題”である。



こんどは夢の話じゃありません。

“二項対立”的思考というものがあるね。

しかしこれは、ある“二項”が現実に対立しているというよりも、対立させて考えた方がわかりやすいという“方法”のために用いられる。

しかしそうした“思考”をしているうちに、現実に“二項が”もともと対立しているように思えてしまう。

ぼくが最近気になっている“二項対立”というのは(たとえば)以下のような“概念”である。

A:<感性的(感覚的)>と(論理的=ロジカル=サイエンス>

B:<自由な行為>と<ルールに従った行為>

これらの“2項”がぜんぜん対立していない、というわけでもありません。

つまりこれら概念の“係わり”こそ問題です。


たとえば、概念Bについては、<法>の問題なんじゃないでしょうか。

さらに、<共同性>と<公共性>の問題ではないでしょうか。

逆に言えば、100%の“共同性”の集団も、100%の“公共性”の集団もありえない。

<家族>だって、そこに属している個人が社会的存在である以上(客観的にそうなんですから)、家族内に限り、“共同性”だけで生きられるはずはない。

またいかに“公共性”を装った集団(学校-会社-ナントカ団体-国家)であろうと“公共性”だけの人間の関係があるわけではない。

また“原始的社会”が共同体であり、“近代社会”が公共的社会であるというのも、それほど明瞭ではない、特に後者。
特にこの日本“社会”。

この社会は、ほとんど原始的な“部族社会”ではないのでしょうか。
あらゆる“現代性”を超えて。
やはり“血縁的・呪術的”なものが支配している。
あなたの“内面の秘められた根拠として”、“共同の幻想”として。

“社会学者”さん?(爆)



<追記>

日本に限らないが、現代の<権力関係>というのは、血縁もしくは”偽血縁”関係ではないか。

具体的には”ハバツ”の連合である”政党”。

”天下り”とか”コネ就職”とかも。

なによりも”結婚”(笑)

”結婚”してるから、”不倫”もあるわけで。



[ 06:09 ] [ 日記 ]
下記ブログを書いて2時前に寝たらまた悪夢を見て、さっき5:30に起きた。

この夢は下記の夢とはまったくちがった映画のような(自分が映画の人物であるような)夢。

しかし(今考えると)すべての状況がリアルじゃない。

しかも非常に不思議なのは、妻が登場している(つまり普段の夢に妻が登場することはない)しかも現実の生活のようにかなり密着した距離にいる。

めざめる間際のシーンをいちばんよく覚えているわけだが、ぼくは現実の家とはまったくちがった、かなり広く立派な浴室で風呂に入ろうとしている(ギャングたちが引き上げたからだ)
すると、玄関に(広いマンションのようでも一戸建てのようでもある)誰かが来る。
ぼくは“ギャングがもどってきた”と恐怖に襲われるが、妻はギャングたちがいた時から一貫して強気で(笑)、さっさと応対に出てドアを開けてしまう(妻は病気ではない!)
ぼくは“ああこりゃいかん!”と思う。
しかし訪問者は女である、ぼくはほっとする<追記>
その途端、彼女の声が聞える;“カイフク手術はいかがですか?”
“カイフク手術”?
だがすぐ分かる;“開腹手術”。

もはや細部は明らかでないが、この夢でぼくは“ギャングたち”に家をずっと占拠されていて(メインのギャングとチンピラあわせて10人以上いるようである)、メインのギャング数人に(かれらのキャラクターはあまり明瞭でない)手を変え品を変え脅されてきた。
“脅されてきた”というのは夢がはじまったとき、そういう状況がすでに経過してしばらく経っていたからだ。
事実ぼくは煙草が吸いたいと思うが、ない。
それで“さっき”殴られたとき煙草が入ったジャケット(このジャケットは近年ぼくが買い物に失敗したと思った夏の薄いジャケットである=これだけが現実にある物である)ごとよれよれになったのだと“思い出す”(つまりジャケットがよれよれになるほどぼくも殴られた後なのだ)
そうするとギャングの子分が、煙草をもってくる。

このように彼らは、集団で、ぼくを脅したり、優しい言葉をかけたりを繰り返しているのだ(つまりその状況がこの夢の大部分なのだが、いまその具体的なセリフなどを思い出せない)
しかも不思議なのは、彼らギャングたちの“要求”が明らかでない。
ぼくは手を変え品を変え脅されているのだが、なんで脅されているのかわからない。

そして(なぜか)彼らは引き上げていったのだが、最初に書いたシーンになるわけである。

ぼくはいつもこういう夢を見ているのではないのである(笑)




<追記>

これを書いて、”女が訪ねてくる”ということの意味がわかった。

今日は金曜日で普段はぼくはアルバイトで家にいないが、ヘルパーが来る日なのである。

ぼくは昨日ミーティングで仕事に出たので今日は休み、このヘルパーをぼくは苦手としている(爆)



下記ブログを書いてただちに寝た、下記ブログには[ 更新日時:2008/05/15 21:38 ]とあるので、10時前に寝てしまった。

そしたら、12時に起きてしまった、典型的悪夢を見て、そこから抜け出すために、無理矢理起きたのである。

そして(あいかわらず)ブログを見たら、不破利晴ブログが更新されていて、ぼくの大澤真幸氏に関するブログがリンクされていて、彼の『文明の内なる衝突』への(自己批判を含む)批判が展開されていた。

ぼくは大澤氏の“親戚”ではないが(笑)、これは一種のぼくに対する批判でもあるので、ただちにコメントを二つ書いた、暇な方は参照してほしい。
ぼくはこういう双方向的なコミュニケーションが、ブログの神髄であると考える。


起きた時、“悪夢”について書こうかどうしようか迷った。
書く必要を感じたのは、まさにこの悪夢がブログをテーマにしていることがはっきりわかるものであったから。
しかし“迷った”のは、どんな夢でも、言語化すると夢の実質がどんどん失われてしまうから。
それと夢の話は、聞き手には退屈だろうから。

しかし自分のために、その概略をなんとか言葉にしたい。
この夢では“二つのこと”が同時進行していた。

A:ぼくはある仕事をしている(ブログを書いているのではない)
その仕事は期限も迫っているが、ぼくの能力、体力、神経、根気をはるかに超えるような仕事なのである。
その仕事をやりながら、その仕事をやり遂げられない(期限までに、それどころか期限がなくても)ことがぼくにはわかってしまっている。
だが闇雲にぼくはその仕事を続けている(その負担は具体的には目から脳・胃への重苦しさとなって感受されている)
しかし、これがミソだが、ぼくがしている仕事というのは、“アニメを見ている”(かなり大きなスクリーンで)ことなのである(笑)
それも“アニメをつくっている”とか“アニメを見て批評する”という仕事では、ない。
つまりアニメを見て、“何をする”のかぼくにはわかっていないのである、ただ“義務”だけがある。

B:上記と同時に(笑)、ぼくはブログを“書いている”(しかしその行為は夢の現実にはない、現実は上記の“仕事”である)
しかも、あらゆる読者の顰蹙を買うようなブログを書き続けることが止められない。
現実のブログでは、“これは書きすぎだ”とか、ここまで他人の悪口を書くと自分の品性が疑われるというような反省=判断で書かないことまでも、夢の中のぼくはどんどん書くことを止められない。
レトリックやユーモアで緩和することもできず、ひたすら露骨に書き続ける。
事実このぼくのブログに対する様々な“非難の声”がなんとなく聞こえてくる(その声を発している人々は、“なんとなく”今のぼくの現実生活に関わっている人々なのである;笑)
しかも彼らの(ぼくに対する)非難は、あまり露骨ではなく、非常に“良識的”である。
《ああ、warmgunたら、またあんなこと書いて、あれじゃかえって自分がみじめなのよねぇー》といったような非難なのである。

上記AとBが同時進行し、どんどんエスカレートし、もうたまらん、どうしたらいいかわからん!
というところで、目が覚めた。

あまりにも意味が明瞭な夢ではないか!

ぼくは単純な男なのである(爆)


また、寝よう(笑)





2008/05/15のBlog
今日はブログを書いてない、どうしようか?(笑)

ジジェクについての解説書を読んでいたら、“陽否陳述(アポファシス)”という言葉があることを知った。

“陽否陳述(アポファシス)”というのは、《ある主題について、それを口にはしないといいながら口にするという技法である》。

たとえば、《大臣の背信については、わたしはいかなる状況であれけっして論じることはない》という発言がそうなのだとある(笑)

ぼくもやってみよう。
《ぼくは有名人や金持ちが皆バカで、下衆だなどと決して口にしない》


今日は仕事だった。
ぼくの現在の労働時間は短く、仕事もそれほどハードではない。
だが仕事に行くだけで疲れる(笑)

つまりぼくにとっては、このパソコン付き穴倉から出て、世間の風にあたるだけで疲れる。
やや(そうとう)大袈裟に言うと、異次元空間の軋みにさらされるのである。

といっても、“世間”に出ても、何も変わったことが“ある”わけではないのである。
なんか世間はやけに“のどやか”でもある。
歌舞伎町のホストは今日も昼間からダラダラ歩いているのである(笑)

むしろそのことが、ぼくに眩暈を起こさせ、ベリー・タイアドな気分をもたらす。
ジョン・レノンのレイジーな声が耳もとで、ささやく。
《俺はそんなに疲れた》

だがもちろん、そうじゃないひともいるんだ。
《何か、いい夜じゃない?》と深夜のワインバーで、ボトルが回ってくるよーな“人生”である。
そういうひとにとっては、《今日も奇跡は生まれている》のである。
今日の朝日新聞夕刊を参照のこと!

《誰かにワインを振る舞いたくなるような夜。シャンソンの歌詞のようだ》

そうだろうか?そうだろうか?そうだろうか?(爆)

シャンソンは、そんなチンケな”ムード”を歌っていたのだろうか。

その”詞”は、そんなにだらしない”言葉”だっただろうか。
もちろん”シャンソン”でなくてもよい、のである。

ああ嫌だこの田舎国の田舎首都の田舎者たちは。
“コンプレックス”というのは、劣等感のみでなく、優越感も意味する。

《天国のような夜が降ってくる》夢でもみよう。


《これはフィクションだってあなたたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?》
<古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』>

もう寝ます。


明日からは、
明日からは、真面目に読書して、”読書日記”を書こうね(笑)

ぼくよりも、頭が良く、かつ、我慢強いひとの本を読むんだ。



2008/05/14のBlog
[ 16:50 ] [ 日記 ]
このところ毎日の新聞を見ない方が普通になった。
机の脇に見てない新聞がたまっていく。

けれども貧乏性なのか捨てられない。
いまも、まとめてめくってみた(まだ途中)
そうすると、“ひっかかる”記事や広告がやっぱり出てくる。

そうすると、ブログに書いておきたくなる、これも貧乏性なのである。
もう今日のブログにあまり時間を費やしたくない(笑)ので、ランダムに印象に残った記事をメモする(もちろん、すべて朝日新聞である;笑)

★『奥の細道』のどの句が好きかの投票のランキングが出ている(5/13夕刊)
ベスト10のうちぼくが好きな句を考えた。
《五月雨の降のこしてや光堂》
《一家に遊女もねたり萩と月》

★ 養老孟司と川上弘美(5/13夕刊)
この二人が、11面に並んで載っている。
ぼくはこのふたりがなんとなく嫌いである(笑)
だから、どうして“嫌い”なのかと、いつもこのふたりの発言やふたりに関する記事を読んでしまう(笑)、つまりこういうことも“関心がある”といえるのである。
この記事を読んでもどうして嫌いか結論がでない、たぶん“顔(表情)”がきらいなのだ。

★ “政態拝見:曽我豪論説委員”(5/13朝刊)
朝日新聞の論説委員は“自民党びいき”であることを隠さなくなった。
これは民主党が自民党より“ひどい”ことを、かれらが熟知しているからである可能性がある(ただの“保身”である可能性もある)

★ 『週刊朝日』広告(5/13朝刊)
この雑誌も“朝日新聞”が発行している(はずだ!)
ここでも自民党の“宣伝”と“平成皇室”が売りである、朝日新聞社とは何者か?

★ すごい見開き広告(5/13朝刊)
ぼくには意味不明であるが、“ゲーム”の広告であるらしい、ゲームだけが元気である(ゲームをするひとが、ではない)

★ “銀の街から”という映画の連載コラムがある(5/13朝刊)
ぼくはだいぶ前から、これを読む気力が失せた(今日も読まない)
現在日本には“老齢の方”以外に“映画評論家”がいない、素人のたわごと(ほとんど筋の紹介のみ)が、なんで映画評論(映画についての言説)であろうか。
(これを書いているひとも、”顔も”きらいである;うふふ)

★ “80年代とは何だったのか” (5/13朝刊)
なんだったんでしょう(爆)
『広告批評』が休刊だそうだ、天野爺さんごくろうさん(もう編集長じゃないのかも)
ぼくはこの雑誌にぜんぜん“思い入れ”がない。
“爺さん”はちゃんと“CM天気図”でブラピの夢を見ている。
香山リカさん、ねぇ~(爆)、嫌いじゃないよ!(あまり読んだことなし)
中沢新一に《80年代は砂上の楼閣、何も積み上げられていなかった》と迫っているそうだ。
まったく異議なし!中沢など偽学者の典型ではないか。

★ “東京医師会”広告(5/13朝刊)
ぼくは無知にして、東京医師会という団体についてつまびらかにしない。
しかしこの“東京宣言”は虚偽広告である可能性がある。
《私たちは医療制度が変わっても、今までと同じ医療を提供することを宣言する》

★ “坂田栄一郎さん写真展”(5/14朝刊)
「AERA」はきらいだが(見る気もしないが)、この“顔写真”展はみたい気もする。
特に行幸地下ギャラリー展示を(行幸地下ギャラリーって、どこ?;笑)
地下通路展示なので、それを“写真に撮る”ことが可能のようである。
数年前だったら、すぐに行ったと思う(なぜこうも出不精になったのか!とくにここ数日のように寒いと、いかん)、6/8まで開催。

上記を書いたあと、また溜まっていた新聞の残りを見た。

★ “逆風満帆:小倉智昭”(5/10 be on Saturday)
こういう“同世代=還暦”の有名人の記事は不快である(爆)
それにしても、“キャスター”という職業は奇怪である、彼らの“専門”はなにか?
《過ぎたるは、及ばざるが如し》

★ “時の肖像:高橋郁男論説顧問”(5/12朝刊)
これまた“還暦”の話題である。
《石畳の下には浜辺がある》
《オンリーイエスタデー》
この“論説”に書いてあることで、ぼくの知らないことは、ひとつも、ない。
たしかに1968年は、ぼくになつかしくないことは、“ない”。
しかし、だからこそ、こういう風に語ってほしく“ない”。
なぜこの“論説顧問”は、チェコのバーツラフ広場やパリ郊外のパリ大ナンテール校まで行って、この程度のことしか書けないのか。
ぼくを行かせてくれれば、これよりはましな文章を書くことをお約束しよう(爆)

★ さて昨日朝刊に毎月楽しみな光文社古典新訳文庫広告;
今月新刊は次の2冊である;
プルースト『消え去ったアルベルチーヌ』:ぼくが読めずにいる『失われた時を求めて』でもいちばんダイナミックな展開があるときいている部分である、この訳者は知らない。
チェスタトン『木曜日だった男』:これはかねてから“玄人筋”に評価高い『木曜日の男』の新訳だろう、ぼくは読んでいない。
2冊とも買うことになるだろう、だが、いつ読めるのか!(笑)


ああ、
やっと義務をはたした気分になった、もはや夜ではないか。

ひょっとして、夕刊が来ているのでは!

”賽の河原”状態ではないか。

”シジフォスの神話”みたく、かっこよくないが。




[ 14:16 ] [ 日記 ]
今朝書いたsnapshot s1719への注記;


大澤氏のこの本を推薦する根拠の“ひとつ”は、ここでの考察が“世界水準にある”ことです。
具体的には、ハーバーマス、デリダ、ロールズ、ベンヤミン、ラカン、ジジェクなどといった、“現代の思想家たち”が参照されていることです。

またこれらの“翻訳書のある”思想家だけではなく、“翻訳書がない”思想家も参照されている。

ぼくがなぜこれを言うか?

現在<日本>は、新たな鎖国状態にあるからです。
ぼくはマーチン・ジェイの『暴力の屈折』に参照されている“現在のアメリカ思想家が書いた本”が軒並み翻訳されていないことにショックを受けたと、前にこのブログに書いた。

またこれまでに良心的な出版社によって翻訳出版された海外思想家の翻訳書が、どんどん品切れになり、書店から姿を消している。

ぼくが“現在出版されているある種の本”を憎むのは、これらの“新しい本”が、端的に、良心的な本の場所を奪い、駆逐しているからだ。
ぼくは自分自身が“POPカルチャー的人間”でもあるので、こういう“事態”に複雑な感慨を持つものである。

しかも現在海外で出版されている“思考”が、“POPカルチャー”自体への、この国では考えられていない考察を展開している可能性もある。

またぼくが“日本の現在が鎖国状態にある”という意味は、現在のマスメディア的言説の本質に係わる。
つまり、テレビや新聞がいかに“海外の現地から”取材・発信していても、その言説が鎖国的であるという“事実”がある(しかも近年のイラクのように、一番肝心の時に日本のマスメディアが現地にまったく“いない”という事態もあった)
海外にいかに“赴任”しようと、自分がいる場所を“まったく見ていない”ジャーナリストというのが多々見受けられる。

またぼくが言う“マスメディア的言説”というのは、テレビ・新聞・雑誌などのいわゆる“ジャーナリズム”のみを意味しない。

大学の先生方”が書いている本も意味する。
“文学や小説の言説”や“映画”や“音楽”や“アート”も意味します。




[ 13:00 ] [ 日記 ]
ツナミン・ブログで医療・介護情報サイト“CB(キャリア・ブレイン)サイト”が「後期高齢者医療制度」の廃止を求めている茨城県医師会会長・原中勝征さんへのインタビューを掲載しているのを知った。

全文を貼り付ける;

<「高齢者いじめの制度は許せない」後期高齢者医療制度 茨城県医師会会長・原中勝征さん>

 75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼び、健康保険や国民健康保険から追い出して強制加入させ、保険料を年金から天引きするだけでなく、保険料を払えなければ保険証を取り上げる―。厚生労働省は「長寿医療制度」という呼称を使用したポスターやチラシなどで「後期高齢者医療制度」への理解を求めたが、保険証の未着や保険料の天引きミスなど、混乱は続いた。制度の廃止を求める動きも活発化している。制度開始前、茨城県医師会は都道府県レベルの医師会では初めて同制度の廃止を求める声明を発表。「みなさん、こんな高齢者いじめの制度が許せますか!」と題するポスターを作成し、反対の署名活動を展開している。後期高齢者医療制度をめぐる問題について、同医師会会長の原中勝征さんに話を聞いた。(新井裕充)


―制度がスタートする前の3月下旬の理事会で、反対する方針を決定したそうですね。
 全会一致で決めました。主治医が受け取ることができる「後期高齢者診療料」(患者一人につき月6000円)の届け出をしないで、従来通り出来高払いで算定するように会員医師に呼び掛けています。また、「後期高齢者診療料」の届け出条件である研修会を開催していません。厚労省は慌てて「介護保険の主治医研修会に出席した場合でも主治医として認める」とか、「研修を受講したという自己申告でも認める」などと言いだしました。おかしな話です。

―県民からの反対署名も集まっているようですね。
 4月下旬、新聞の折り込み広告で制度の廃止に関する署名を求めました。ものすごい反響で、毎日のようにファクスなどが届いています。そのほとんどは生活苦で、例えば、「高級官僚や政治家に不正な使い方をされて生活が苦しいです」「余生を寂しく過ごしています」「官僚を野放しにすることは国民いじめです」といった内容です。

―「長寿」ではなく、「末期」高齢者医療制度と言う人もいます。
終末期の診療方針について、主治医が患者の家族と話し合って署名をさせれば、その主治医に手数料が入るなんて、そんなばかな制度がありますか。食う物も食えずに戦時中を生き抜いた、戦後の高度経済成長を支えたご老人を“うば捨て山”に追いやるような制度は断じて許せません。老人を大切にしない国の姿勢が問われていると思います。

―なぜ、このような制度をつくったのでしょうか。
 「新たな財源を生み出す」「老人医療費を抑制する」という二つの目的が考えられます。医療費の財源が不足していますから、現在の国民皆保険制度を守るためには新しい財源を生み出す制度が必要です。しかし、目的税(消費税)は財務省の管轄になりますから、集めたお金を財務省がハンドリングしてしまう。これは厚労省にとって好ましくないので、自分たちで使えるお金を集めることができる制度として、後期高齢者医療制度をつくったのです。

―「老人医療費を抑制する」という目的ですが、老人医療費は伸びているのでしょうか。
 老人医療費が伸びているとは必ずしも言い切れません。東北大の病院管理学の教授は、医療費の伸びの一番大きい部分が「高額医療費」であるとして、医学や科学の進歩によって高度な治療方法や高額な薬剤が開発されたことを医療費増加の主な原因に挙げています。厚労省の医療費の推計もでたらめです。1995年の予測では、医療費が2025年に141兆円になると言っていました。しかし、2005年に出した予測では69兆円に下方修正しています。せめて10兆円ぐらいの変更ならいいですが、半分以下になるというのはおかしいでしょう。でたらめな数字を出して、国民に「大変だ」という意識を持たせて洗脳しようというやり方はいけません。

■75歳以上の老人医療費を無料に
―テレビなどで原中会長が発言している内容に対して、厚労省は反発しているそうですね。
 (後期高齢者医療制度を設計した)保険局医療課の原徳壽課長は、わたしの発言が「間違っている」と反論しているようです。「フリーアクセス(自由な受診)は制限していません。好きな病院に自由に行くことができます」と言う。それなら、どうしてこんな制度をつくったのでしょう。なぜ、主治医の報酬を高くしたのでしょうか。(主治医である)内科の先生が耳鼻科や眼科の先生に患者を紹介したとき、耳鼻科や眼科の診療報酬の方が安くなっています。自分が主治医の報酬をもらっていて、紹介先の先生が安い診療報酬になることを承知で、「当院の患者さんをお願いします」と言えますか。つまり、後期高齢者診療料はフリーアクセスを阻止するための手段なのです。

―しかし、主治医が高齢者の心身の状態を総合的に把握して、重複投薬や重複検査を減らすという厚労省の考えにも理解できる部分があります。
 確かに、患者の健康状態などを把握した上で、適切なアドバイスをする医師は必要です。老人になると、足や目が悪くなり、病気も増えます。「老老介護」の世帯や独居老人もいます。そこで、近所の診療所の先生が医師の立場から面倒を見てあげる必要があります。これは、「かかりつけ医」という呼称で日本医師会も主張しています。そこで、厚労省は「日医も認めているじゃないか」と言いますが、日医が主張している「かかりつけ医」と厚労省の「主治医」は違います。日医の言う「かかりつけ医」は、医師の社会的な奉仕を広げた内容であって、ほかの病院に行くことを阻止する制度ではありません。

―厚労省は「主治医は一人」とか、「主病(主な病気)は一つ」と言っていますから、やはりフリーアクセスを制限しますね。
 老人になるといろいろな病気を持っていますが、「主な病気は一つだけ」ということが、この制度の根本にあります。ですから、主病を扱った医師だけが高い診察料を受け取ることができて、副病を扱った医師は安くなるようにしたのです。内科医は心臓や血圧は診ることができますが、目の病気や前立腺肥大、脳出血後のリハビリ、外科手術が必要な胃がんなどは診れませんから、専門の医師に頼む必要があります。しかし、これらのうちどれが主病であるか、医学的に一つに決められるのでしょうか。「主治医は一人」「主病は一つ」という言い方をすることは、「高齢者を総合的に診る」という考えとは違います。高齢者を総合的に診るための制度であるなら、高齢者が気軽に何度も病院に行けるような制度にすべきです。わたしは、75歳以上の老人医療費は無料にすべきだと考えています。

■後期高齢者医療制度は廃止すべき
―75歳以上の老人医療費を無料にするとして、財源はどうしましょうか。
 国家予算の一般会計83兆円に対し、各省庁が資金の使い道を握る特別会計は240兆円あるといわれています。この240兆円の中の1兆円を回せばいい。後期高齢者の医療保険料は全部で約8100億円、やがて1兆2000万円にまで増えるといわれていますが、240兆円の中から1兆円ぐらい出せないわけないでしょう。特別会計を一般会計に回して国民のために使わなければ、どんなに間接税を上げようと国民は幸せになれません。後期高齢者の保険料なんて、必要ないのです。国の無駄遣いや利権に染まった国家予算を減らせばいいのです。

―年金記録の問題も解決していないのに、お年寄りの少ない年金から天引きする。批判が噴出するのは当然ですね。
 後期高齢者医療制度が社会保障制度であるなら、年金の少ない高齢者に対して保険料を免除するなど、何らかのセーフティーネットが必要です。憲法25条(生存権)により、国は国民の最低限度の生活を保障する義務がありますから、生活が苦しいお年寄りを保護する責任があるはずです。それなのに、戦後の荒廃から今日の日本をつくったご老人の年金から税金を取って、介護保険料を取って、さらに後期高齢者保険料を取る。これは、国の老人に対する基本的な姿勢が間違っているとしか言いようがありません。やはり、後期高齢者医療制度はいったん廃止して、改めてお金の出し方を国民全体で考えるべきでしょう。厚労省が本当の数字を出した上で、「医療費が足りませんから、この方法しかありません」ときちんと提案すれば、わたしたちも協力します。しかし、現在のままでは、厚労省はますます国民の信頼を失うでしょう。こんな高齢者いじめの制度は許せません。
(更新:2008/05/09 20:05 キャリアブレイン )