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Don't Let Me Down
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2008/05/19のBlog
私的な主体があるが、公的な主体がない、のではない。

政治意識をもった主体はないが、恋する主体はある、のでもない。

つまり<ない>ときには、すべてない。









このブログもずいぶん長く続けてきた。
中断したこともあったし、“アダージョ”宣言したのに、たいした変化もなく日々“連発”し続けている。
先日のブログで“アクセス数の無効”について書いたが、このアクセス数を無視し得ないのも事実である。

日々数百件のアクセス数はある。
連発すれば、それなりにアクセス数は増え、たまに更新なしでも200アクセス位はある。
ぼくが知りたいのは、アクセスしてくださる人々が、ぼくのブログの“どこ”に興味を持っているかである。

もちろんぼくのブログに反感を持つ人、批判を持つ人、あまりピンとこないひとも読んでいる。
ぼくの場合も“嫌いなので気にかかってしょうがない”人々というのがいる(笑)
逆にぼくに共感したり、ぼくを理解してくださる方々もいるだろう。
しかし彼らもぼくの“なに”を理解し、共感してくれているのだろう。
ぼく自身が、<このブログ>を理解し、共感していないかもしれない時に(爆)


いま<連帯>はどのように可能か?

《一連(ひとつらなり)の妖怪が―ロストジェネレーションという名の妖怪が、日本中を歩き回っている……私たちは、いまだ名づけられ得ぬ存在として日々働き暮らし死んでいきつつある。その数20000000人》
《全国のロスジェネ諸君!今こそ団結せよ》

5月下旬発刊の『超左翼マガジン ロスジェネ』の“ロスジェネ宣言”である(今日朝日朝刊“ポリティカにっぽん”)

この雑誌の編集長浅尾大輔氏は語る;
《絶滅したと思われていたプロレタリア文学がゾンビのようによみがえる。私たちは依然として蟹工船で働いていた。娯楽はあふれている。マンガ・ゲーム・ギャンブル・インターネット。しかし、気づけばそこから1歩も脱出できない。密封された奴隷船》

《ネット右翼だってオタクだって、同じ生きづらさの中で生きているんです。わかりあえると思うんですよ。われわれの言葉がリアルであれば》


ぼくは“ロスジェネ”ではないらしいが(笑)、上記発言に共感する。
《密封された奴隷船》から“出る”ためには、“言葉がリアル”でなければならいということに。

たとえば上記を紹介しているこのコラムの筆者早野透氏の今回のコラムの結びの言葉は、リアルな言葉ではない;
《若者たちは、行きづらさにめげずに、自分たちの言葉と思想、自分たちの歌声で、「優しさの連帯」をつくろうとしているらしい、そんな気がした》

《……らしい、そんな気がした》というのは、どういう<意味>であろうか?

ぼくたちは、毎日、瞬間瞬間に、“そんな気がして”生きているのである。
つまり、次の瞬間には、“そんな気がした”ことを忘れることも可能である。
たしかにぼくたちは、日々の“そんな気がした”あぶくのような情感を文章にすることもできる。
それでなんとなく満足であり、それを“ひとに読んでもらえる”ならラッキー!である。

しかしそういう所に、“リアルな言葉”は、あるはずはない。
だから“リアルな連帯は”不可能である。

ぼくたちは“決して”、生活の困窮によって連帯するのではない。
そんな連帯はとっくに失敗している。
ぼくたちは、あくまで“言葉のリアル”によって連帯するのである。

現在のロスジェネ問題もけっして“雇用問題”ではない。

きょうのAERA広告は以下のような“メッセージ”を掲げている;
《会社は家族だ》
またこういう見出しもある;《「再生家族」絆たぐる物語》

また新潮新書広告にこうある;
《頭痛のタネは新入社員》


ぼくは長く生き過ぎて(笑)こういう<繰り返し>を見過ぎてしまった。
若い方々には<新鮮>なことが、さっぱり新鮮ではない<注>

願わくは、同じ過ちを繰り返さないでほしい。
ぼくは<闘うな>といっているのではない。

<闘いの質を転換せよ>と言いたい。
それは<闘いの言葉を転換せよ>ということを意味する。

もっとリアルな言葉を。
それだけが課題である。

それだけがこの<家族(血縁・擬似血縁)-町内(村)-学校-会社-国家>の密封された奴隷船から、外に出るかすかな希望である。

この<世間>を、<社会>に変えなければならない。

そうでなければ、ぼくたちはついに、<個人=主体>では在り得ない。

ただ<夢遊の人々>の一員として消滅するだけである。



<注>

“だから”、<古典>の言葉の方が新鮮である。

ぼくにとっての<古典>の中核は、いわゆる古典ではなく、“戦後の”<モダン・クラシックス>とでも呼ぶべき<古典>のことである。





まったく<ニュース>が面白くない。

そのニュースが報じられる必要もないことである、ということもある。

しかしそのニュースの対象(事件・事実)自体は意味ありそうなことであっても、報じ方によって、すでにそのニュースが、どうでもいいことのように思えるように報道される。

つまり“ニュースの自殺”とでも言うべき事態である。

ぼくは、むかしほぼ毎日“ニュース・ステーション”を見ていた時もあった。
しかし久米宏の最後の頃からつまらなくなり、フルダチに変わって最初のころは見ていたが、だんだんアホらしくなった。
彼だけでなく横にいる女性や“解説男”も、番組の構成のわぞとらしい硬直も。

数日前、“なんとなく”地上波チャンネルに切り替えたら、このフルダチが中国の地震について報じていた、まったく“相変わらず”であった、彼が報じるとどんな大事件も“相変わらず”になるのである。
たいした才能である、すぐ“地上波”を脱し、映画チャンネルに切り替えた(笑)

しかしこれは現在の“テレビの機能”そのものではないか。
ニュースとは“まったく新しい出来事”のことなのである。
現在の“報道”は、この“まったく新しい出来事”の<毒=意味>を抜いて、“御家庭の皆様”が安心して見れるものに加工したり、“本当のこと(意味)を報道しないように”演出しているのだ。

テレビも“文字”報道も同じである、そのテクニックに多少の差異があるだけだ。

最近の朝日新聞の“おどろくべき変貌”についても、朝日新聞はもちろん(笑)大手メディアは決して報じない(当たり前である)

いくつかの“良心的ブログ”が“右翼的バッシングでない”朝日新聞批判を続けているが、天木直人ブログがその核心をつくブログを掲載している。

タイトルは<目を疑った物価高についての朝日新聞の社説>である、引用する;

18日の朝日新聞は、最近の物価高に関し、「食卓の風景を変えよう」と題する社説を掲げていた。
何を訴えているのだろうと思って読み進むうちに、わが目を疑うような社説である事に気づいた。
値上がりの背景にあるグローバリズムの影響や、政府の対応の遅れなどに関する分析なしに、いきなり、「これを機会に食生活のゆがみを直そう」、と呼びかけているのだ。
身近な食材を使う工夫をすれば、世界市場の影響をあまり受けないで済む、食料自給率を高めることにもなるし、健康を取り戻すことも出来る。一人ひとりの知恵が食卓の風景を変え、それが暮らしを守ることにもなる、などと書いているのだ。
私は朝日新聞が、国民の不満を政府に向けさせまいとして、意図的にこのような社説を書いた、と言うつもりは無い。
「発想を変えれば、マイナスをプラスに転じることができるのだ」という事を示し、いいことのない最近の世の中でも前向きに生きよう、と軽く呼びかけた軽い社説であると善意に受けとめたい。
しかし、このような記事は結果的に国民の目を曇らせることになる。
何よりも、農政や消費者行政を監視し、国民の政府に対する批判的視点を啓蒙すべき大手新聞の書く社説ではない。

最近の朝日新聞は、弱者の痛みを忘れ、すっかり高みの視点にたった新聞になってしまったようだ。日々朝日を読みながらつくづくそう感じる。
面白い記事が極端に少なくなってしまった。学ぶべき記事がめっきりなくなってしまった。
(以上引用)


《最近の朝日新聞は、弱者の痛みを忘れ、すっかり高みの視点にたった新聞になってしまったようだ。日々朝日を読みながらつくづくそう感じる》

まったく同感であるが、ぼくには《善意に受け止める》というような余裕はない。

以上の天木ブログ引用のぼくが省略した個所で天木氏はこういう問題についての読売新聞と東京新聞の社説を評価している。

しかし朝日新聞より読売や東京や産経が“良い”ということも言えない。

その個々の社説によっては、“出来、不出来”というようなレベルも確かにある。
けれども、現在のすべてのマスメディアの“基本姿勢”が信頼できない。

つまりかれらの<立場>がである。
かれらが“誰のために”書いているのかが、疑わしいのだ。

わざわざその“事件=事実”の意味を消去するような報道(映像=言説)に接し続けていると、ぼくたちは“この世界のリアル=意味”への感覚自体を破壊されてしまう。

もうすでに破壊されてしまった人々の群がみえる。


2008/05/18のBlog
さっき煙草を買いに外に出たら、薄日はあるが、雲の多い空であった。
この季節はこんなに天気がわるかったであろうか?と思う。
今日は2008年5月18日である。
最近、この日付を確認しないと、自分が“いつ”にいるかが、わからなくなる。

さて、今日の朝日新聞読書ページ。
結局、現在のぼくは“本”にしか関心がない。
これは、褒められた態度では、ない。
しかし、“しかたがない”のである(笑)

今日の読書ページの全体は、まだよく読んでいない、最初のページについてだけ書く。

まず引用;《かすかな声が聞えてくるとき、僕たちもまた、つながりの世界の住人になっているはずなのだ》(重松清)

ぼくはnadjaさんがこういう文章を書くなら、素直に読む(爆)
しかし、重松清のような自分自身が流行作家であるものが、こういうことを“言い続ける”のは素直に聞けない。

ようするにぼくは、読んでないのに“現在の小説”に不信感をもつものである。
それがケータイ小説だろうと芥川賞だろうと。

逆に言うと、もしその小説が、“この時代にとって”意味あるものなら、ぼくはその小説を読まずにはいられない。

ひところの村上春樹は、そういう存在であった(現在はちがう)

ぼくの予想では、現在日本で書かれている“もっとも良質な小説”は、春樹の亜流である。
だから読む必要を感じない。
もし、例外があるのなら、コメント欄でぼくに教えてほしい(日本の小説である)

この読書ページのコラムで、小池真理子さん(これまた有名作家である)が、70年代初頭に高校時代か浪人時代であった世代であったことを知った。
これはぼくとは、大学4年分の差がある世代である。
けれどもぼくもクラハシを読んだ、オオエやヨシモトと共に。
ぼくにとって、クラハシは、“おんな大江健三郎”的ではあったが、この“おんな”の魅力も絶大であった。
ここで小池さんが取上げている『暗い旅』が、ぼくにとってもクラハシで一番好きな作品だった、『パルタイ』、『聖少女』も読んだが。

小池さんが言う、オオエ、ヨシモト、クラハシの“記号化”というのは、確かにある側面を捉えている(ぜんぜんそういう人々を読まなかった同世代もたくさんいるのだが)
けれども肝心なことはこうである。
そういう“記号”の背景には、海外文学と海外思想が“あった”ということである。
たとえば大江健三郎の“背後”には、サルトルや渡部一夫教授による“フランス啓蒙思想”が、あった。

さらにサルトルの周辺には、フランス文学の背景だけでなく、フッサール、ハイデガーなどの“ドイツ現象学”やヘーゲルの導入があった。
またヘミングウェイやフォークナーの“影響”があり、サルトルの周辺では、“ヌーボ・ロマン”と呼ばれた小説の革新が進行していた。

むしろ“グローバル”だったのは、“この昔”の方ではないか。
また中上健次は柄谷行人に薦められてフォークナーを“読んだ”。
かれが自分の拠点である<路地>の土着性と神話性から発して、<世界性>へ達しようとした苦闘は、読む目があるものには読み落としようがないことである。

なぜひところからの“アメリカ文学”や村上春樹のように“ミニマル”に語ること“だけ”が文学になったのであろうか。
なぜ重松清氏は“かすかな声”しか聞かないのであろうか(笑)

ぼくは“大声で喚く”のが好きではない、現実でも文学でも。
しかし“この世”には、“かすかな声”ではない声も存在する。

この今日の読書ページ第1面下の集英社広告に、ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら』という自伝がある。
戦後ドイツのリベラルな作家が、晩年になって自分が“ナチスの武装親衛隊員だった”ことを書いたのである。

たしかにぼくたちは、この日常の中での“かすかな声”への感受性を失うべきではない。
しかしぼくたちを包み込む“大きな歴史の流れ”も存在する。

ぼくたちにはこの“大きな歴史の流れ”に対する、“微細な感覚”が要求されている。
“大きな歴史の流れ”とは結局、多様で重層する様々な<声>である。

そのニュアンス、その声の質に耳を澄まそう。
それは、(ある意味では)ある歌を歌う人の声、その声の質感やその息のあえぎを感受するのとおなじである。

“ジャンル”ではない。
ぼくにとって、本を読む行為は、そういう声を聴くための訓練である。



<追記>

歴史のなかの無数の声も、”いま・ここ”で感受される。

”死者”は生きる。
”未来の人々”はみつめる、現在のわれわれを。



しつこいが“鳥男”君のブログを“ネタ”に(また)使わせてほしい。
彼を非難したいためではなく、(自分にもある)現在の“多数の意識”について考えるためだ。

《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》

《それにしても四川省の地震の様子はひどい。
ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》

上記の文章は、二つとも彼のブログにあった文章である。

つまり、現在の“われわれ日本人”には美意識があるから、中国人被災者のように救援物資を奪い合うような醜い(美しくない)振る舞いはできない、のであろうか?

ただちにそうでないことがわかる。
ひとは本当に渇けば泥水でも飲むし、本当に飢えれば他人の食物を奪う。
ぼくたちが“上品に”振る舞えるなら、それは本当に渇いても、飢えてもいないからであり、民族的特性によるのではない。

だからこの“豊かな社会”に生まれた事を感謝しなければならないのだろうか。
とくに“隣国の悲惨”とのコントラストによって、限りない自己満足の言説を続けていればいいのか。

あるいは“その豊かな社会”が、格差社会へと変貌していく危機にたいして、新しい貧困の出現に対して戦うべきであろうか。

そうではあるのだが、ぼくはむしろ<欲望の劣化>について考えたい。

つまり再び鳥男君を持ち出して恐縮だが、彼の欲望の“定義”=《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》というのは、正しい認識か?を問いたい。

むしろ“誰もが”たぶん納得するであろう《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》というこの万人の欲望の“実質”を問いたい。

つまり、“そうでないひともいる”とか、自分のなかにもそうでない部分がある、とかいったことでは、ない。

ぼくたちは、“本当に” 《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》ということを“欲望しているか?”を問いたい。


今日の朝日新聞。
“耕論:それってサヨク?”という記事がある。

《生存をかけた若者の反撃》
《新たな階級闘争の始まり》
《バーチャル左翼に危うさ》
これらの見出しを見ただけで筆者(発言者)には申し訳ないが、読む気がおこらない。
すでに書かれていることが、わかっているからだ。

《時代が一回りした》
《ソ連崩壊で決着がついた》
《左翼崩壊とともに右翼もアイデンティティーを失った》
《残ったのは市場原理のみ》
《“ロスジェネ”の共同体志向》

退屈である(笑)
間違ったことを言ってはいないだろうが、退屈であり、“その分だけ正しくない”のである。

《蟹工船》!退屈である(笑)
《資本論勉強会》これはいい、ガンバロー(爆)
《生存をかけた反撃》その通りだ、しかし。

《グローバルに広がる新たな階級闘争の始まり》
《闘わなければなにも起きない》

そうなんよ!しかし。

闘うためには<欲望>がいる。



さて、いいかげん天声人語の事は書きたくない。
このブログをずっと読んで下さっている方々は、このおっちゃんしつこいな、同じことばっか言ってる、とお思いだろうが、ぼくはマンネリは嫌いである。

少しでも新鮮な話題を提供したい(爆)

けれども今日の“話題”も天声人語から始めたい、まず引用する;
《久しぶりにビワを食べた。球体とも卵形ともつかぬ外見に、枇杷(びわ)色と呼ぶしかない果肉。ほのかな甘みと酸味が懐かしい。中国原産というが、この実が醸す曖昧(あいまい)さは和のものだ。フルーツより水菓子の名が似合う》

ぼくもビワをしょっちゅう食べているわけではないが、子供の頃から時々食べている。
あるシーズンにしか食べられないもの(果物に限らない)を食べるのは好きである。

この天声人語の“論旨”は、“種無しビワ”がつくられたこと、そういう品種改良の最先端技術はあるものの食料自給率が低いという、わが国の現状を批判しているようだ。
この論旨は別にいい。
ぼくが気になったのは引用個所の《中国原産というが、この実が醸す曖昧(あいまい)さは和のものだ》という部分である。

ぼくは《中国原産》にこだわっているのではない(笑)
《この実が醸す曖昧(あいまい)さは和のものだ》にこだわる(どこが、たとえばアメリカが原産の“文化”でもよい)


天声人語についての今日の話題はこれで終わりである(笑)
次に行こう。

昨日Doblogアクセス・ランキング3位にあった“鳥男の日記的web log”を批判し、その旨“鳥男”さんにコメントした。
彼のコメント欄は“承認制”になっているが、かれはこれを承認し返信してくれた。
《はい。読みました。結構何度も読みました。なんてレスすればよいのか分からないので一応お返事だけ》とある。
ぼくは率直に言って(ぼくは根が率直なので;笑)この返信がうれしかった。

さらに彼の最新ブログにこうある;
《さて…ちょっと言いたいことがある。
アクセス数のことだ。
前も書いたけど、なんでこんな数になるのか分からない。
おまけにランキング上位になんかなっている…。(だからブックマークされるのが多かったのか…)誰かが意図的にしているのだったら止めて欲しい。どんな意図があるのかわからないけど、オイラのblogがこんなアクセスがあるのは少し異常だ。大体、ずっと1日のアクセスが100前後をウロチョロしていたわけで…
チベット関連のことを書き始めたころから急に多くなった事を考えればそういうことなのかもしれないが…でも止めて欲しい。
多くのヒトに見られているというのは正直あまり良い気分ではない》
(以上引用)

ここからふたつのことがわかった。
A:“鳥男”は、アクセス数を稼ぎたいひとではない
B:アクセス数(の増加は)、誰かが意図的に行なっている可能性がある。

特にBが重要なのは、言うまでもない。
すなわちこのブログに限らず、現在のあらゆるランキングが意図的に操作されている可能性である。
こういうのを“だれも言わない当たり前の事”というのだろうか。


さてニュース・ランキグを見てみよう(笑)
昨日アサヒコム・ベスト10
1位:<惨敗巨人にナベツネ氏「こんなバカ、優勝しっこない」>
2位:<日本援助隊に中国「熱烈感謝」 ネットには冷たい意見も>
現在ヤフー総合ランキング
1位:<誰が郭晶晶を妊娠させた?虚報・競技妨害の陰謀説も>(5月14日19時50分配信 サーチナ・中国情報局)
2位:<日本隊が800人生き埋めの中学倒壊現場に到着>(5月18日1時43分配信 読売新聞
3位:<竹島は「我が国固有の領土」…新指導要領解説書に明記へ>5月18日3時2分配信 読売新聞

ヤフー1位の《郭晶晶を妊娠》は日付をみれば分かるように、ここ数日このランキング上位に居るのである、もはやニュースではない。

ならば何なんだ!
つまり、こういうのを“ニュースの娯楽化”というのであろうか。
ぼくはニュースが“つまらなくていい”とは思わないが、ニュースが面白くなるのは、こういう低レベルから脱するときだけだ。
ぼくはこういう”ゴシップネタ”だけについて言っているのではない。
NHKニュースや”報道ステーション”についても、言っている。

送り手も受け手も、2ちゃんねる的“評論家”ももっと真面目にやってほしい。
つまり“真面目さ”というのを(質的に)変えてほしいのだ。


長くなるが最後に“古典的に真面目な文章”(ぼくは共感しているのだ)を貼り付ける。
こういう文章はカットしては失礼なので、全文を;

<読者の皆さんへーこのブログは次の総選挙までとします>

このブログの読者に私の思いを伝えます。このブログは次の総選挙までとします。その理由は次のとおりです。

私はこのブログを通じて一人でも多くの人に自立した考えを持ってもらいたいと願って書きはじめ、そして書き続けてきました。
徒手空拳の一人の人間でも、問題意識を持って新聞や雑誌の記事を読めば、色々な事が見えてくる。それを自分の頭で考え、自分の意見を持つ習慣を身に着ければ、やがて皆さんは立派な評論家、有識者になれるはずです。
一人一人が、他人のお仕着せの考えに流されること無く、自分の確固とした意見を持つようになれば、この国を動かすことができる。読者の皆さんの意識が、叫びが、この国の権力を脅かし、日本の将来を切り開いていく、そう願って毎日書き続けてきました。
そうであればこそ、このブログはいつかの時点で役割を終えなくてはなりません。いつまでも際限なく書き続ける事は、読者の自立心を妨げる事になる。
読者には、いつの日にか、私になりかわって、声をあげ、行動を起こしてほしいのです。
私は、今日本は歴史的転換期に差しかかっていると思うのです。
 
それは決して好ましい転換期ではありません。
それどころか、この日本という国が、踏みとどまることができるか、それともどんどんと悪い方向に流されて、漂流してしまうのか、その正念場に差しかかっていると思うのです。

そして、その一つの試金石が次の総選挙だと、私は、思います。次の総選挙は、戦後の政治史に残る選挙だと思うのです。
次の総選挙がいつあるかわかりません。しかし、たとえいつ、どのような形で行われようと、その時の国民の一票がこの国の将来を決めることになる。
私は自公政権は何があっても崩壊、消滅しなければ日本の将来はないと思っています。

ここまで日本を壊したのは自公政権でした。なんとしてでも下野させなければならない。責任をとらせなければならない。
しかし、たとえ自公政権がなくなっても、政界再編によって形を変えた自公政権的なものができるようでは、同じことです。日本に将来はない。
日本の政治は、革命的に変わらなければならないのです。

それは次回の総選挙だけで実現できるものではありません。何度も選挙を重ねて、本当の政治家による、本当の政治を実現しなければならないのです。
そして、次回の総選挙は、その始まりにしなくてはならないのです。
その事を訴えながら、私は次回総選挙の時ま、全力を傾けてこのブログを書き続けます。

一人でも多くの読者に気づいてほしい。今度の選挙では、いままでの政治をいったん全否定しなくてはならないと。
そこから再出発するのです。そして、その時は、あなたが私になるのです。

次の総選挙は、小泉元首相によれば来年のサミット後という事です。また、福田首相の唯一の仕事は、解散・総選挙をしないということらしいので当分は総選挙はありません。
だからこのブログはまだしばらく続きます。私は、まだしばらく書き続けなければなりません。
でも、そこまででいいでしょう。

私は書き疲れたからやめるのではありません。あなたに覚悟を迫っているのです。
誰からも命じられることなく、誰の支援を受けることなく、ただひたすら一人でパソコンの前で書いてきました。その姿を想像してください。
やがて、その私はいなくなる。しかしあなたが私になるのです。
その時には、もうあなたはブログを書く必要はなくなる。真実を見抜く力を持った自立したあなたが、立ち上がり、行動するのです。
その時を願って、私はその時まで、全力を傾けて書き続けます
<5/17天木直人ブログ>



2008/05/17のBlog
昨日のアクセス数が600件を超えたので、これはDoblogランキングのどの辺にいるのか?と見てみた、31位であった。

もちろん(笑)ぼくはアクセ数を取るためにブログを書いてはいない。
ただどういうブログが、今、アクセ数を取っているのかは、時々みる。
それはアクセス数を取るブログを書くためではない。

ランキング上位には、“あいかわらず”ブログが並ぶ。
その中に(3位に)“ちょっと普通”の(笑)タイトルのブログ(つまり金儲けに関係なさそな)ブログがあったので見てみた。

ぱっと見ただけで、丁寧に読んだわけではないことをあらかじめお断りしておく。

こう書いてある;
《それにしても四川省の地震の様子はひどい。
ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》


この文章にある《前書いた美意識ってヤツだ》という言葉が気になって、この人の前のブログも見ると、あった。
ある日この人はブログにこう書いた;
《問題は現実の方がみんな薄汚いんだよね。リアルに権力とお金を欲しがるんだよね。そう…下衆なんだよねぇ。それが一番問題なのだ》

そして次の日、そのブログを反省してこう書いた;
《人間だって同じだ。
お金が欲しい。
異性とセックスしたい。
権力を得たい。
みんなからチヤホヤされたい。

別に悪いことじゃないはずだ。
この社会の人間の価値はお金で量れると言い切れるオイラの中で完全に矛盾しているわけだ。そう、オイラが言いたいのは美学だ。そこに美しさがない。だからオイラは「下衆」という。美学なき欲望をオイラは下衆と呼ぶ。これは分かりやすい。

では、美学と欲望が相反したらどうなるのだろう?
オイラのような状況になる。どうしようもない。現実は理解している。でも、それを受け入れらない。美学があるから…。
矛盾なのだ。だからオイラは死ぬしかないと思う》
(以上引用)


つまり、このひとの言っていることは、矛盾していると自分で認めているのだ(笑)

ぼくも自分でブログを書いていて“矛盾している”ことに気づく。
そしてブログを書くことで、自分の矛盾を読者に見せることも、自分でそれに気づくことも“良いこと”だと考える。

つまり“ひとが考える”というのは、そういうプロセスである(プロセスでしかない)
いや、“考える”だけではない、“そのように生きる”のである。

だから死ぬ必要はない。

もちろんここで、このひとが《オイラは死ぬしかない》と言っているのも、このひとのレトリックであり“美学”でもあろう。

しかし問題は、<矛盾>ではなく<美学>の方である。

《ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》

ぼくは、こういう文章と、こういう文章を書くひとに<美意識>や<美学>があるとは、とうてい認めがたい。

この程度の<矛盾>や<美意識>や、その<自己美学の自意識の矛盾>に酔っていてはだめだ。

もっと考えろ。

この筆者だけではなく、この“美意識ブログ”を読んでいる<多数>に言っている。



おそい朝昼兼用食事もすませたので、やっぱ書くか。
昨夜はテレビで映画を3時過ぎまで見ていて寝たのが遅かった。

この映画とは『Shall We ダンス?』(1996)という。
もちろん公開当時見ているし、結構話題になった映画だったと思う。
ネットで調べたら主演の草刈民代さんは主演女優賞をとっている。

この映画を、“ふつーに見ていると”、結構良い映画なのである。
役所広司もまだいまほどイヤミでもないし(笑)
柄本明や名前をわすれたがエグイ“ラテン系”ダンス男や、その他の脇役陣もわりと自然である。

まあ40過ぎて、真面目に仕事し、真面目に結婚し、真面目に子供をつくり、真面目にマイホームを手に入れたサラリーマン男の、“突発的情熱”が、比較的自然に描かれて、“普通の人々”の共感を得た。

上記のように書くと、するどい読者は、“またwarmgunは、普通の人々を罵倒したいんだ”と思われるだろう。

そうでもない、実はぼくはいくつかのシーンで涙さえ滲んだ(まあ、初老期になると涙腺もゆるむのだ)

けれども(笑)“批判”がある。
ぼくの一番の疑問は、この主人公男の“夫婦生活”である(爆)

わかってる、わかってるって、ぼくもそれほど“世間”にうとくはないのである。

ぼくも“一応”夫婦生活の経験者であるが、ぼくが経験してないのは“子供の存在”である。
当然、この映画でも子供は重要なポイントとなっている。
この主人公の“情熱”のハイライトのダンス大会で、彼を失敗させるのは彼の娘の客席からの声援であった。
しかし、この“夫婦の和解”をもたらすのも、この娘の“お母さんにダンスを教えて”のひとことであった。

“こんなに自分の子供に依存してよいのだろうか?”などという皮肉は言うまい。
子供のいないぼくにとっては、子供の存在は“神の声”のように思える。

しかしぼくがこの映画で“考えた”のは、上記のようなことも含むが、“普通の人々”とはだれか?ということだった。

つまりある種の映画が(映画でなくてもいいが)、良い映画とされたり、感動的な作品とされる場合の、“普通の人々”の存在や情感の存在である。
それへの“共感”である。

悪く言えば、“落としどころ”ですよ。
どうも、歳をとるということは、実人生でも、こういう映画体験でも“すれっからし”になっちゃうのよ。
けれどもこれは、“謙遜して”言っているので、ある意味では当然でしょう。

だから年取ると、カンドーしなくなるのよ(涙腺はゆるむが;笑)
“ああこの監督はここで感動させるように映画をつくっている”、ということがわかっちゃう。

つまりその作り手(監督など)が、どのように“普通の人々”をイメージし、その“共通感動を”仕掛けているかの手の内がわかる。

いっきょに“結論”にいきたい(笑)

現在、ぼくを真に感動させる作品(映画)は、上記に書いたようなことを“裏切る”作品である。
そのテーマと表現は多様であっても。

ぼくにとってこの映画で見るべきものは(つまりこの映画を最後までみさせたものは)草刈民代さんの“肉体”(表現)だった。

それはあらゆる意味やイデオロギーを超えて、そこに存在し、息づいていた。
彼女にとってもこの映画は、“一瞬の夏”だったかもしれない。



昨日たくさん書いたので、今日はいまのところ書くことなし。

写真はウェッブ・サイトより。

このひと、唇もきれいだね。










2008/05/16のBlog
下記ブログを書いていて、納戸に入っている翻訳小説に何があったか気になった。
何度も書いているように、ぼくは2003年会社を辞めた時に大量に本を処分した。
今考えると“狂気の沙汰”である。
その時、どういう基準で“本”を処分したのかが、自分にも定かでない。

海外翻訳小説もほとんど処分した!

いま見たのは“妻の納戸の本”である。
あった、生き残っていた(笑)
その中にサム・シェパードの2冊の本『鷹の月』と『モーテル・クロニクルズ』があった。
妻は『ライト・スタッフ』や『ロンリー・ハート(クライム・オブ・ザ・ハート)』のサムの熱狂的ファンであった(現在も?)<注>

『鷹の月』の翻訳者の黒木三世というひとは、知らないひとである、女性であろうか?
1992年の‘あとがき’によると訳者は当時、サムとパティ・スミスが同棲したことのあるチェルシー・ホテルから2ブロック離れた所に住んでいた。

彼女はあとがきに書いている;

《かつて60,70年代には、ポップ・カルチャーのスポットだったチェルシー・ホテルは、その後、セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスがガール・フレンドを殺したとして逮捕されて(結局、事故死として釈放されるが、やがて本人はヘロインのオーバー・ドースで死亡する)、パンク少年少女のメッカという新しい要素を付け加えた。パティ・スミスはその後結婚してパンクの女王の座を降り、今はニューヨークの郊外で、爽やかに子育てに励んでいるという。“Horses”のジャケット写真を撮ったパティの親友、ロバート・メイプルソープはもはやこの世にいない。かつて彼らが住み、若いエネルギーを爆発させていたイースト・ヴィレッジには、今でも田舎(スモール・タウン)の少年少女たちが集まってくる。そして口の悪い者が、「リトル・トーキョー」とも「ニューヨークの竹下通り」とも呼ぶほど、日本の若者の姿がめっきり増えた。イースト・ヴィレッジは相変わらず、明日を夢見る若者にアーティスティックな夢を与えつづけているが、かつての創造性は薄れ、すべてが商業的になってしまった。サム・シェパードがここに到着してから、すでに30年の歳月が流れようとしている》

この訳者がこう書いたのは、1992年であった。
さらに長い年月が経過した。
ニューヨークが創造性を取り戻したとも、商業的でなくなったとも聞かない(笑)

サムやパティやシドの“前衛性”を、ガキの遊びと嘲笑するひともいるだろう。
かく言うぼくも、ニューヨークを歩いたことさえない。

すべてはオンリィ・イエスタデーであろうか。

『鷹の月HALK MOON』の最初から引用する;

《鷹の月 11月の月 俺の誕生の月 寒くなる月 秘密がメサの高原ホピの古代の聖地に囁く月 不毛の荒野が祈祷をもとめる月 アンテロープ鹿と角の族が兆しを見せる月 はじめて蛇を口にする月 精霊の踊りの蛇踊りの月 絵の具を塗った手と稲妻の月 長い黒髪を洗う月 俺の誕生の月 ― 鷹の月の月》


短い同棲のあいだに(チェルシーの日々に)、サムは“鷹の月”の、パティは“稲妻”のタトゥーを残したそうだ。



<注>

サム・シェパードには、ぼくと似ているところはひとつもない。



<追記>

『モーテル・クロニクルズ』冒頭も引用しよう;

《サウス・ダコタのラピッド・シティで、母が氷をナプキンに包んでぼくにしゃぶらせた。ぼくはそのころ歯が生えはじめたばかりで、歯茎が氷の冷たさで無感覚になった。
その夜、ぼくらはバッドランズを横断した。ぼくはプリマスの後部シートのうしろにある棚に寝そべって星を眺めた。窓ガラスにさわると、凍りつくように冷たかった。
平原の真ん中に、白い石膏でできた大きな恐竜たちが輪になって立っていた。ぼくらはそこで車を停めた。そばに町はない。恐竜たちと地面からそれを照らし出しているライトだけだ。
母はぼくを茶色の軍用毛布に包んで抱き上げ、ゆっくりハミングしながら、そこらを歩き回った。曲は「わが心のペグ」だったと思う。自分に聞かせるように、やさしくハミングしていた。心はどこか遠くをさまよっているようだった。
ぼくらはゆっくりと、恐竜たちの間を出たり入ったりしつづけた。足と足の間を、腹の下を、くぐり抜けた。ブロントザウルスのまわりを一周した。ティラノザウルスの歯を見上げた。恐竜たちはみな、目のかわりに青い小さなライトをつけていた。
そこには誰もいなかった。ただぼくと、母と、恐竜たちだけがいた。
80/9/1 ホームステッド・ヴァレー、カリフォルニア》