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Don't Let Me Down
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2008/05/21のBlog
とりあえず<全幻想領域>というものを考える必要がある。

それから<全幻想領域>の“外(外部)”を考える。

比喩的に言えば、<全幻想領域>は“空気のある空間”であり、その外部とは空気なく、音なく、体温なく、凍りついた無音の世界であるというふうに。

光だけが貫通する。
つまり時間も空間もない。

つまり、われわれは、空気のある空間にしか生きられないことに飽きる(絶望する)のであるが(この生ぬるい場所)、しかし、われわれが生きられる空間、われわれが時間を発生させる場所は<ここ>にしかない。




2008/05/20のBlog
仕事から帰った夜は、文章を書く気力がない。

だが今日も仕事をしながら(笑)、仕事の合間に、“考えた”。
むしろ歩いている時、電車に乗っている1時間程度というのは、パソコンの前に座っている時より、脳は活動する。

とりとめがない、と言えばそうである。
ほとんど毎回同じ風景であり、同じ街であり、同じ空であり、同じようにすれちがう人の群であっても、考えることは同じではない。

もちろんぼくはいつも“観念的”なことばかりを考えているのではない。
けれども、そうとう“観念的”なことばかりを考えているのも事実だ。
きょうはまさに“観念的とは何か?“について考えていた。

特に現在ぼくにこの“主題”をもたらしたのは、大澤真幸の<第3者の審級>という“概念”であった。

この<第3者の審級>という言葉がなにを意味するかは、大澤氏の本を直接参照してほしい、これは大沢氏にとって“キー概念”であるからだ。

大澤氏と東浩紀氏の対談においてはこの<第3者の審級>は、東氏にとっては<大きな物語>という概念であるとされている。
ぼくはこれらを読んで、この概念は吉本隆明氏の<共同幻想>に近いと思った。

すなわち、<第3者の審級>=<大きな物語>=<共同幻想>である。

かつて吉本隆明氏を読んでいたころ、いくつか今でも印象に残る言葉があったが、そのひとつに、《マルクスを読んで、国家が幻想であるということを知って、顔色が青ざめるほどの衝撃を受けた》というような表現があった(記憶で引用しているので正確ではない)
つまり“軍国少年”だった吉本の覚醒であった。

吉本は<幻想>という言葉を<観念>という言葉と、ほぼ同義に用いていた。
また吉本が<共同(の)幻想>と言った時には、<個体の幻想>と<対の(ペアの)幻想>という概念が対比されていてた。

今日ぼくがこれらのことを“考えた”のは、彼らの概念の個別性に対する関心ではなく、そもそも人間にとって、あるいはその集合である社会にとってのこの<幻想>意味であった。
もっと露骨に言えば、人間はカネによって生きるのか、幻想によって生きるのかという問いであった
<疲労のため以下略:笑>



今日仕事帰りに買った市野川容孝『身体/生命』の最初にジンメルの『橋と扉』という本からの引用があった;

★ 事物がつながりをもつためには、まずもって隔てられていなければならない。分割されていなかったものを、いや、どんな意味においてであれ、分割されずにとどまっているものを結合することは、実際的にも、論理的にも意味をなさない。

これを受けて市野川容孝氏は以下のように書いている;

★ 橋と扉は、人間のそうした両義的な営みをよく示すものだとジンメルは言う。橋というのは、川や谷によって分離された二つの場所を結合させるものである。また扉というのは、境のない空間を、たとえば二つの部屋に分離する機能をもっているが、同時に、その二つを結びつける働きもする。つまり扉というのは(ただの壁とは違って)開くことができるという点に、その意味があるのである。

★橋と扉に象徴される分離と結合のこうした循環を、ジンメルは人間の営みのすべて―というよりも人間の「生」そのもの―に通低する一般的特徴として提示している。だとすれば、人が身体や生命について何かを語る際にも、分離しつつ結合するという両義的な作業が見てとれるのではないか。そうだとしたら、身体や生命について、人はどのようなかたちで分離と結合を行なうのか。
私の考えでは、少なくとも二つの軸が設定できる。一つは「精神」と「物質(身体)」という軸であり、もう一つは「自己」と「他者」という軸である。




《私は朝日新聞が、国民の不満を政府に向けさせまいとして、意図的にこのような社説を書いた、と言うつもりは無い。
「発想を変えれば、マイナスをプラスに転じることができるのだ」という事を示し、いいことのない最近の世の中でも前向きに生きよう、と軽く呼びかけた軽い社説であると善意に受けとめたい。
しかし、このような記事は結果的に国民の目を曇らせることになる。
何よりも、農政や消費者行政を監視し、国民の政府に対する批判的視点を啓蒙すべき大手新聞の書く社説ではない》

上記は先日も引用した天木直人ブログの朝日新聞社説批判の一節である。

さらに5月19日のブログで天木氏はこう書いた;
《メディアは、事件が起きた当初に大騒ぎするだけでなく、その終末まではっきりとフォローして記事にしてもらいたい。
テロ特措法延長問題も、年金未払い問題も、郵政改革問題も、何もかも、その後どうなっているのか、メディアはきっちりと国民に教えなくてはいけない。
メディアの一過性こそが、政府の政策の不備を許してきた、官僚支配の無責任さをつけあがらせてきたといえば言い過ぎだろうか》
(以上引用)


これはぼくもこのブログで取上げた“あたご衝突事故の捜査”を扱ったブログの結論部分である。

《19日の東京新聞が、「あたご衝突3ヶ月、長びく捜査」という見出しの記事を書いていた》のである。
“ぼくたち”はこの“事故”をすでに忘れている。

たしかにほとんどすべてを日々忘れていくこの健忘症は、ぼくたち自身の<責任>である。
しかしそれはマスメディアの責任ではないだろうか。

天木氏が言っていることは、《言い過ぎ》ではぜんぜんない。

まさに《メディアの一過性こそが、政府の政策の不備を許してきた、官僚支配の無責任さをつけあがらせてきた》のである。

これはこの国の政治問題のみに関与するのではない。

この国の<文化>に関与する。
文化とは生の充実である。
すべてを次々に忘れさり、新たな話題に群がり続ける“軽薄”は、<耐えられなく軽い>現実を生み出している。

つまりnothing is real をである。



2008/05/19のBlog
サザン活動休止記念ブログ(笑)

★ ロック史上もっともカコイイ曲:THE KINKSの“YOU REALLY GOT ME”と“ALL DAY AND ALL OF THE NIGHT”を続けて聴くときに得られるエモーション<追記>

★ ロック史上もっとも感動的な曲:BEATLESのというよりJOHN LENNONのというべき“GIRL”

★ ロック史上もっとも思索的な曲:BOB DYLANの“ONE MORE CUP OF COFEE”もしくは、“ALL ALONG THE WATCHTOWER”

★ ロック史上もっとも天才的なギタリスト:いうまでもなくJIMI HENDRIX

★ ロック史上もっともセクシーだったひと:う~ん。“I’m Sexy ? ”



<追記>

つづけて”SET ME FREE”と”SUNNY AFTERNOON”を聴くとなおいい。



★ロック史上ぼくが一番好きな歌詞のひとつは:U2の”WITH OR WITHOUT YOU”だな


See the stone set in your eyes
See the thorn twist in your side
I wait for you
Sleight of hand and twist of fate
On a bed of nails she makes me wait
And I wait...... without you

With or without you
With or without you

Through the storm we reach the shore
You give it all but I want more
And I’m waiting for you

With or without you
With or without out you
I can’t live
With or without you

And you give yourself away
And you give yourself away
And you give
And you give
And you give yourself away

My hands are tied
My body bruised , she’s got me with
Nothing left to win
And nothing else to lose

With or without you
With or without out you
I can’t live
With or without you



<再追記>

DAVID BOWIEとT.REXのどっちが好きかという問題は、結構デリケートな問題ではなかろうか。

なに、どっちも嫌い(ガハハハ)

ぼくはBOWIEも好きだが、T.REXのある種の曲が圧倒的に好きである。

明日も(あさっても!)仕事である、おやすみなさい(T.REXを聴きながら)



私的な主体があるが、公的な主体がない、のではない。

政治意識をもった主体はないが、恋する主体はある、のでもない。

つまり<ない>ときには、すべてない。









このブログもずいぶん長く続けてきた。
中断したこともあったし、“アダージョ”宣言したのに、たいした変化もなく日々“連発”し続けている。
先日のブログで“アクセス数の無効”について書いたが、このアクセス数を無視し得ないのも事実である。

日々数百件のアクセス数はある。
連発すれば、それなりにアクセス数は増え、たまに更新なしでも200アクセス位はある。
ぼくが知りたいのは、アクセスしてくださる人々が、ぼくのブログの“どこ”に興味を持っているかである。

もちろんぼくのブログに反感を持つ人、批判を持つ人、あまりピンとこないひとも読んでいる。
ぼくの場合も“嫌いなので気にかかってしょうがない”人々というのがいる(笑)
逆にぼくに共感したり、ぼくを理解してくださる方々もいるだろう。
しかし彼らもぼくの“なに”を理解し、共感してくれているのだろう。
ぼく自身が、<このブログ>を理解し、共感していないかもしれない時に(爆)


いま<連帯>はどのように可能か?

《一連(ひとつらなり)の妖怪が―ロストジェネレーションという名の妖怪が、日本中を歩き回っている……私たちは、いまだ名づけられ得ぬ存在として日々働き暮らし死んでいきつつある。その数20000000人》
《全国のロスジェネ諸君!今こそ団結せよ》

5月下旬発刊の『超左翼マガジン ロスジェネ』の“ロスジェネ宣言”である(今日朝日朝刊“ポリティカにっぽん”)

この雑誌の編集長浅尾大輔氏は語る;
《絶滅したと思われていたプロレタリア文学がゾンビのようによみがえる。私たちは依然として蟹工船で働いていた。娯楽はあふれている。マンガ・ゲーム・ギャンブル・インターネット。しかし、気づけばそこから1歩も脱出できない。密封された奴隷船》

《ネット右翼だってオタクだって、同じ生きづらさの中で生きているんです。わかりあえると思うんですよ。われわれの言葉がリアルであれば》


ぼくは“ロスジェネ”ではないらしいが(笑)、上記発言に共感する。
《密封された奴隷船》から“出る”ためには、“言葉がリアル”でなければならいということに。

たとえば上記を紹介しているこのコラムの筆者早野透氏の今回のコラムの結びの言葉は、リアルな言葉ではない;
《若者たちは、行きづらさにめげずに、自分たちの言葉と思想、自分たちの歌声で、「優しさの連帯」をつくろうとしているらしい、そんな気がした》

《……らしい、そんな気がした》というのは、どういう<意味>であろうか?

ぼくたちは、毎日、瞬間瞬間に、“そんな気がして”生きているのである。
つまり、次の瞬間には、“そんな気がした”ことを忘れることも可能である。
たしかにぼくたちは、日々の“そんな気がした”あぶくのような情感を文章にすることもできる。
それでなんとなく満足であり、それを“ひとに読んでもらえる”ならラッキー!である。

しかしそういう所に、“リアルな言葉”は、あるはずはない。
だから“リアルな連帯は”不可能である。

ぼくたちは“決して”、生活の困窮によって連帯するのではない。
そんな連帯はとっくに失敗している。
ぼくたちは、あくまで“言葉のリアル”によって連帯するのである。

現在のロスジェネ問題もけっして“雇用問題”ではない。

きょうのAERA広告は以下のような“メッセージ”を掲げている;
《会社は家族だ》
またこういう見出しもある;《「再生家族」絆たぐる物語》

また新潮新書広告にこうある;
《頭痛のタネは新入社員》


ぼくは長く生き過ぎて(笑)こういう<繰り返し>を見過ぎてしまった。
若い方々には<新鮮>なことが、さっぱり新鮮ではない<注>

願わくは、同じ過ちを繰り返さないでほしい。
ぼくは<闘うな>といっているのではない。

<闘いの質を転換せよ>と言いたい。
それは<闘いの言葉を転換せよ>ということを意味する。

もっとリアルな言葉を。
それだけが課題である。

それだけがこの<家族(血縁・擬似血縁)-町内(村)-学校-会社-国家>の密封された奴隷船から、外に出るかすかな希望である。

この<世間>を、<社会>に変えなければならない。

そうでなければ、ぼくたちはついに、<個人=主体>では在り得ない。

ただ<夢遊の人々>の一員として消滅するだけである。



<注>

“だから”、<古典>の言葉の方が新鮮である。

ぼくにとっての<古典>の中核は、いわゆる古典ではなく、“戦後の”<モダン・クラシックス>とでも呼ぶべき<古典>のことである。





まったく<ニュース>が面白くない。

そのニュースが報じられる必要もないことである、ということもある。

しかしそのニュースの対象(事件・事実)自体は意味ありそうなことであっても、報じ方によって、すでにそのニュースが、どうでもいいことのように思えるように報道される。

つまり“ニュースの自殺”とでも言うべき事態である。

ぼくは、むかしほぼ毎日“ニュース・ステーション”を見ていた時もあった。
しかし久米宏の最後の頃からつまらなくなり、フルダチに変わって最初のころは見ていたが、だんだんアホらしくなった。
彼だけでなく横にいる女性や“解説男”も、番組の構成のわぞとらしい硬直も。

数日前、“なんとなく”地上波チャンネルに切り替えたら、このフルダチが中国の地震について報じていた、まったく“相変わらず”であった、彼が報じるとどんな大事件も“相変わらず”になるのである。
たいした才能である、すぐ“地上波”を脱し、映画チャンネルに切り替えた(笑)

しかしこれは現在の“テレビの機能”そのものではないか。
ニュースとは“まったく新しい出来事”のことなのである。
現在の“報道”は、この“まったく新しい出来事”の<毒=意味>を抜いて、“御家庭の皆様”が安心して見れるものに加工したり、“本当のこと(意味)を報道しないように”演出しているのだ。

テレビも“文字”報道も同じである、そのテクニックに多少の差異があるだけだ。

最近の朝日新聞の“おどろくべき変貌”についても、朝日新聞はもちろん(笑)大手メディアは決して報じない(当たり前である)

いくつかの“良心的ブログ”が“右翼的バッシングでない”朝日新聞批判を続けているが、天木直人ブログがその核心をつくブログを掲載している。

タイトルは<目を疑った物価高についての朝日新聞の社説>である、引用する;

18日の朝日新聞は、最近の物価高に関し、「食卓の風景を変えよう」と題する社説を掲げていた。
何を訴えているのだろうと思って読み進むうちに、わが目を疑うような社説である事に気づいた。
値上がりの背景にあるグローバリズムの影響や、政府の対応の遅れなどに関する分析なしに、いきなり、「これを機会に食生活のゆがみを直そう」、と呼びかけているのだ。
身近な食材を使う工夫をすれば、世界市場の影響をあまり受けないで済む、食料自給率を高めることにもなるし、健康を取り戻すことも出来る。一人ひとりの知恵が食卓の風景を変え、それが暮らしを守ることにもなる、などと書いているのだ。
私は朝日新聞が、国民の不満を政府に向けさせまいとして、意図的にこのような社説を書いた、と言うつもりは無い。
「発想を変えれば、マイナスをプラスに転じることができるのだ」という事を示し、いいことのない最近の世の中でも前向きに生きよう、と軽く呼びかけた軽い社説であると善意に受けとめたい。
しかし、このような記事は結果的に国民の目を曇らせることになる。
何よりも、農政や消費者行政を監視し、国民の政府に対する批判的視点を啓蒙すべき大手新聞の書く社説ではない。

最近の朝日新聞は、弱者の痛みを忘れ、すっかり高みの視点にたった新聞になってしまったようだ。日々朝日を読みながらつくづくそう感じる。
面白い記事が極端に少なくなってしまった。学ぶべき記事がめっきりなくなってしまった。
(以上引用)


《最近の朝日新聞は、弱者の痛みを忘れ、すっかり高みの視点にたった新聞になってしまったようだ。日々朝日を読みながらつくづくそう感じる》

まったく同感であるが、ぼくには《善意に受け止める》というような余裕はない。

以上の天木ブログ引用のぼくが省略した個所で天木氏はこういう問題についての読売新聞と東京新聞の社説を評価している。

しかし朝日新聞より読売や東京や産経が“良い”ということも言えない。

その個々の社説によっては、“出来、不出来”というようなレベルも確かにある。
けれども、現在のすべてのマスメディアの“基本姿勢”が信頼できない。

つまりかれらの<立場>がである。
かれらが“誰のために”書いているのかが、疑わしいのだ。

わざわざその“事件=事実”の意味を消去するような報道(映像=言説)に接し続けていると、ぼくたちは“この世界のリアル=意味”への感覚自体を破壊されてしまう。

もうすでに破壊されてしまった人々の群がみえる。


2008/05/18のBlog
さっき煙草を買いに外に出たら、薄日はあるが、雲の多い空であった。
この季節はこんなに天気がわるかったであろうか?と思う。
今日は2008年5月18日である。
最近、この日付を確認しないと、自分が“いつ”にいるかが、わからなくなる。

さて、今日の朝日新聞読書ページ。
結局、現在のぼくは“本”にしか関心がない。
これは、褒められた態度では、ない。
しかし、“しかたがない”のである(笑)

今日の読書ページの全体は、まだよく読んでいない、最初のページについてだけ書く。

まず引用;《かすかな声が聞えてくるとき、僕たちもまた、つながりの世界の住人になっているはずなのだ》(重松清)

ぼくはnadjaさんがこういう文章を書くなら、素直に読む(爆)
しかし、重松清のような自分自身が流行作家であるものが、こういうことを“言い続ける”のは素直に聞けない。

ようするにぼくは、読んでないのに“現在の小説”に不信感をもつものである。
それがケータイ小説だろうと芥川賞だろうと。

逆に言うと、もしその小説が、“この時代にとって”意味あるものなら、ぼくはその小説を読まずにはいられない。

ひところの村上春樹は、そういう存在であった(現在はちがう)

ぼくの予想では、現在日本で書かれている“もっとも良質な小説”は、春樹の亜流である。
だから読む必要を感じない。
もし、例外があるのなら、コメント欄でぼくに教えてほしい(日本の小説である)

この読書ページのコラムで、小池真理子さん(これまた有名作家である)が、70年代初頭に高校時代か浪人時代であった世代であったことを知った。
これはぼくとは、大学4年分の差がある世代である。
けれどもぼくもクラハシを読んだ、オオエやヨシモトと共に。
ぼくにとって、クラハシは、“おんな大江健三郎”的ではあったが、この“おんな”の魅力も絶大であった。
ここで小池さんが取上げている『暗い旅』が、ぼくにとってもクラハシで一番好きな作品だった、『パルタイ』、『聖少女』も読んだが。

小池さんが言う、オオエ、ヨシモト、クラハシの“記号化”というのは、確かにある側面を捉えている(ぜんぜんそういう人々を読まなかった同世代もたくさんいるのだが)
けれども肝心なことはこうである。
そういう“記号”の背景には、海外文学と海外思想が“あった”ということである。
たとえば大江健三郎の“背後”には、サルトルや渡部一夫教授による“フランス啓蒙思想”が、あった。

さらにサルトルの周辺には、フランス文学の背景だけでなく、フッサール、ハイデガーなどの“ドイツ現象学”やヘーゲルの導入があった。
またヘミングウェイやフォークナーの“影響”があり、サルトルの周辺では、“ヌーボ・ロマン”と呼ばれた小説の革新が進行していた。

むしろ“グローバル”だったのは、“この昔”の方ではないか。
また中上健次は柄谷行人に薦められてフォークナーを“読んだ”。
かれが自分の拠点である<路地>の土着性と神話性から発して、<世界性>へ達しようとした苦闘は、読む目があるものには読み落としようがないことである。

なぜひところからの“アメリカ文学”や村上春樹のように“ミニマル”に語ること“だけ”が文学になったのであろうか。
なぜ重松清氏は“かすかな声”しか聞かないのであろうか(笑)

ぼくは“大声で喚く”のが好きではない、現実でも文学でも。
しかし“この世”には、“かすかな声”ではない声も存在する。

この今日の読書ページ第1面下の集英社広告に、ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら』という自伝がある。
戦後ドイツのリベラルな作家が、晩年になって自分が“ナチスの武装親衛隊員だった”ことを書いたのである。

たしかにぼくたちは、この日常の中での“かすかな声”への感受性を失うべきではない。
しかしぼくたちを包み込む“大きな歴史の流れ”も存在する。

ぼくたちにはこの“大きな歴史の流れ”に対する、“微細な感覚”が要求されている。
“大きな歴史の流れ”とは結局、多様で重層する様々な<声>である。

そのニュアンス、その声の質に耳を澄まそう。
それは、(ある意味では)ある歌を歌う人の声、その声の質感やその息のあえぎを感受するのとおなじである。

“ジャンル”ではない。
ぼくにとって、本を読む行為は、そういう声を聴くための訓練である。



<追記>

歴史のなかの無数の声も、”いま・ここ”で感受される。

”死者”は生きる。
”未来の人々”はみつめる、現在のわれわれを。



しつこいが“鳥男”君のブログを“ネタ”に(また)使わせてほしい。
彼を非難したいためではなく、(自分にもある)現在の“多数の意識”について考えるためだ。

《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》

《それにしても四川省の地震の様子はひどい。
ひどいのは中国人の様子だ。救援物資を奪い合い…ああいうことって日本人じゃありえないだろう。こういう時、民度ってものが出てしまう。前書いた美意識ってヤツだ》

上記の文章は、二つとも彼のブログにあった文章である。

つまり、現在の“われわれ日本人”には美意識があるから、中国人被災者のように救援物資を奪い合うような醜い(美しくない)振る舞いはできない、のであろうか?

ただちにそうでないことがわかる。
ひとは本当に渇けば泥水でも飲むし、本当に飢えれば他人の食物を奪う。
ぼくたちが“上品に”振る舞えるなら、それは本当に渇いても、飢えてもいないからであり、民族的特性によるのではない。

だからこの“豊かな社会”に生まれた事を感謝しなければならないのだろうか。
とくに“隣国の悲惨”とのコントラストによって、限りない自己満足の言説を続けていればいいのか。

あるいは“その豊かな社会”が、格差社会へと変貌していく危機にたいして、新しい貧困の出現に対して戦うべきであろうか。

そうではあるのだが、ぼくはむしろ<欲望の劣化>について考えたい。

つまり再び鳥男君を持ち出して恐縮だが、彼の欲望の“定義”=《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》というのは、正しい認識か?を問いたい。

むしろ“誰もが”たぶん納得するであろう《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》というこの万人の欲望の“実質”を問いたい。

つまり、“そうでないひともいる”とか、自分のなかにもそうでない部分がある、とかいったことでは、ない。

ぼくたちは、“本当に” 《お金が欲しい。異性とセックスしたい。権力を得たい。みんなからチヤホヤされたい》ということを“欲望しているか?”を問いたい。


今日の朝日新聞。
“耕論:それってサヨク?”という記事がある。

《生存をかけた若者の反撃》
《新たな階級闘争の始まり》
《バーチャル左翼に危うさ》
これらの見出しを見ただけで筆者(発言者)には申し訳ないが、読む気がおこらない。
すでに書かれていることが、わかっているからだ。

《時代が一回りした》
《ソ連崩壊で決着がついた》
《左翼崩壊とともに右翼もアイデンティティーを失った》
《残ったのは市場原理のみ》
《“ロスジェネ”の共同体志向》

退屈である(笑)
間違ったことを言ってはいないだろうが、退屈であり、“その分だけ正しくない”のである。

《蟹工船》!退屈である(笑)
《資本論勉強会》これはいい、ガンバロー(爆)
《生存をかけた反撃》その通りだ、しかし。

《グローバルに広がる新たな階級闘争の始まり》
《闘わなければなにも起きない》

そうなんよ!しかし。

闘うためには<欲望>がいる。