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Don't Let Me Down
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2008/05/25のBlog
音楽とはなんでしょうか(笑)

ぼくは<音楽>のことを書くとき、その“詞”について書くことが多いし、かなりいい加減な“訳詞”も試みている。

だからといって、音楽の歌詞に特に関心があるのではない、というか音楽には“歌詞=詩”がない音楽もある。

歌詞がある音楽も、それは詩として独立してあるわけではない。
音楽とは詞があってもなくても、メロディーやリズムや声の質や楽器の音の緊密な総合体である。

だから“歌詞”だけを切り離して論ずることはできない。
だからある“アーティスト”の個性というようなことが言われるのだが、これまた言葉では言い表しがたい。

たまたま矢野顕子と中島みゆきを続けて聴いて、船酔いのような気分になることも可能である(笑)<注>

ぼくはこの二人のファンではないし、彼女たちを年代順にフォローしてきたのでもない。
矢野顕子は“TONG POO”ぐらいしかちゃんと聴いていない。
しかしこのひとの強烈な“個性”はわかる。

ここで書きたいのは“あの”中島みゆきである。
彼女については(ついても)皆さんの方が詳しいであろう。

ぼくが(なぜか)買ったCDに“歌でしか言えない”というのがある。
このCDがどういう“評判”だったかもぼくは知らない。
ぼくがこのCDで聴くのは“南三条”という曲のみである(笑)

しかしこの曲は、あきらかに彼女の“代表曲”に比べてすぐれた曲ではない。
この当時(2001とある)彼女はハードロック化を目指したのか(笑)、ブルース・スプリングスティーンばりのアップテンポの曲である。
ここでもぼくが書きたいのは(書くほかないのは)この曲の“詞”のことである。
中島みゆきの歌詞は(ぼくが知る限りでも)谷川俊太郎や倉本聡に絶賛された。
ぼくも彼女の実力を認める。
その彼女の詞としては、この曲はたいして成功していない。
歌詞カードでその詞だけを読むとあきらかである。
しかもこの“説明過剰の詩”は、アップテンポの曲に乗るのがむずかしい。
かなり無理なところがある。

しかもこの曲で歌われる“事件”はかなり“エグイ”(笑)
けれども、こういう“状況”はわりとありふれたことでもあろう。
ありふれた“エグイ失恋の物語”が疾走するのだ。

以上さんざんけなしてきたのは、ぼくがこの曲(歌詞)が好きであり、この曲を擁護するためである。
つまりぼくたちは(音楽においても)欠点のないものだけを愛するのではない。

ぼくはこの曲の歌詞の《ずっと憎んで来た》という言葉のストレートさにこの曲を聴くたびに打たれる。

そしてぼくを感動させるのは(もちろん)このリフレインである;
《南三条泣きながら走った 胸の中であの雨はやまない 南三条よみがえる夏の日 あの街並みはあとかたもないのに》

ぼくは“南三条”の出身者でもなく(笑)、“おんな”でもない(笑)
男としての失恋体験を、この歌の主人公に重ね合わせるわけでもない。

けれどもこの歌を聴くとぼくには、“あの夏の日”に泣きながら南三条を疾走する少女が見える。
それだけで十分である。

(どうも以上のことは、前にももっと簡単に書いたような気がする、繰り返しだったら、ごめんよ、いまこの曲を聴いてまた書きたくなった;笑)



<注>

矢野顕子のあとに坂本龍一を聴くことも(もちろん)可能である、事実いま聴いている(爆)

”THATNESS & TEHRENESS”を。






2008/05/24のBlog
実は(実はというほどのことではないが)、ここ1週間、Windows Media PlayerへのCDからの音楽取り込みを続けている。

自分が持っているすべてのCDの中から、“好きな曲”だけを選んで取り込む。
ぼくはPCを買うたびにこの作業を繰り返してきた。
かなり何台も買い換えたので、もう何回もやった(笑)

ぼくの世代は若い時、アルバムをLPで所有していた。
CDになってそれを徐々に買い換えることと、新譜CDを買う二重のコストを強いられた。
結局、LPで所有していた時よりも、CD所有が上回ってはいないが、CDも数百枚にはなった。

音楽を聴く時間自体が少なくなったし、聴く音楽も限られるようになるし、“新譜”には食指が動かない(例外はある、にしても)

だからたまに“棚卸し”をするのも良い。
昔さんざん聴いたのに、最近ちっとも聴かない曲を、久しぶりで聴く。
あるいは、買ってはみたもののほとんど聴いてないCD(あなたにもあるでしょう?)を聴く。

いま聴いていたのは、ローリー・アンダーソン“Strange Angels”(1989)である。
このCD1曲目の同タイトル曲の出だしの歌詞はこうである;
《天国はTVのようなものだという
完璧なひとつの小さな世界で
あなたのことなど全然必要としていない》

天国とはTVのことであった!
<天国=TV>あるいは<TV=天国>なのである。
TVが<アメリカ文明>であることは偶然では、ない。

これこそ<この世界>についての“完璧な定義”ではないか。
少なくともローリー・アンダーソンがこう歌った<1989年>以降は!

アメリカ人である、アメリカ文明渦中にあったローリーには、先見性(予言性)があったといえる。

繰り返す(笑);

《天国はTVのようなものだという
完璧なひとつの小さな世界で
あなたのことなど全然必要としていない》(爆)




<追記>

西アフリカ“マリ”のサリフ・ケイタを知っているか?
彼の1991年のアルバムに“Amen”というのがある、ぼくもこれしか聴いたことがない。
彼のメッセージも聴こう;

《そう、お母さん
ああ、楽しさが真剣さを殺すことはない
……
僕は自分が何もわからない間抜けである振りをしようとした
僕は口がきけない振りをしようとした
僕は目が見えない振りをしようとした
ああ、ぼくは耳が聴こえない振りさえしようとした
世界に背を向けようとしていたんだ
でもどうしても僕はこの世界で起こっていることに気付かない振りをすることはできなかった》

《自分一人が言葉の主ではない
美わしい声は地面の下に眠っている
死は何者も容赦しはしない》




なぜか今日、ある詩人の詩を思い出した。
有名な詩人であり、有名な詩である、ぼくも前に引用したことがある。

今日の気分でいくつか引用しよう;

静物のこころは怒り
そのうはべは哀しむ
この器の白き瞳(め)にうつる
窓ぎはのみどりはつめたし。
<静物>


昆虫の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮かびあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。
<初夏の印象>


われの中学にありたる日は
艶めく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寝ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日直射して熱く帽子に照りぬ。
<中学の校庭>


有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅人のねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さえ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科は過ぎずや
空気枕の口金をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごごろ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。
<夜汽車>


以上すべて萩原朔太郎。



ぼくが必要あって見ている“PD掲示板”にこうあった;

《数学のようにスパッとわりきれれば良いのですが、
国語のように、色々な解釈がある病気なのですね。PDは》

“PD”とは、Parkinson's diseaseのことである。

ぼくは病気に限らず、人間に係わることは《国語のように、色々な解釈がある》のだと思う。

けれども、《色々な解釈がある》から、すべてを相対化し、受動的に成り行きにまかせて、すべてを自然災害のように受け入れるのではない。

“色々な解釈を知ったうえで”、ある解釈を選ぶという決断も(時には)必要である。



<付録>
なにか文章を書くということには、二つの方向があるような気がする。

断片的な“感じ”を並べる場合と、文章の長さに関係なく“ある論述”を目指す場合である。

もちろんこのふたつは入り組んでいるし、それがそれを書く人のテクニックや、思想の熟練度によるわけではない。
つまりある印象を書き連ねたような文章が、劣った文章ではない。

しかしぼくたちの習慣は(たぶん教育のせいで)、文章を書くときなにかを“論述”しなければならない、というプレッシャーを生み出している。

かくしてこの世には、不可解な“論述”文章が氾濫するわけである。
ほんとうの“論述”文章というのは、“考えたあと”にしか書けないのだ。

考えてもいないのに何かを“論述”してしまう文章ほど不愉快な文章はない。
ぼくは“ブログ”や“2ちゃんねる”の文章を言っているのではない。

マスメディアの言説、“プロの言説”について言っている。

ぼくはなにも考えない文章を<売る>ひとが大嫌いである。
逆になにかを(少しでも;笑)考えているひとの文章を読むとやたら感動する。

ぼくは現在の天声人語や新聞社説のようなメディア自体の論説のみでなく、現在メディアに“露出している”有名人の言説がことごとく“不快”である(例外は、ある)

彼らは一番肝心なこと(これが何かは難しいが)を考える事を放棄しているから文章が書けている。

たしかにこれは<感覚的な>ことでもある。
だから、この<感覚>(感じ)は、その文章全部を読まなくても、ある部分の引用であっても“わかってしまう”。

だからぼくはこのブログで、ある本の“部分引用”を続けている。
もちろんその著者の思考は、その本の1冊全体を読んで判断すべきだし、1冊ではなくその著者の別の著書や、その著者が影響を受けたひとの本へと連なり、広がってゆくべきではあるが。

ある本に書かれていることというのは、“筋”ではないのである。
それは小説であろうが、思想書であろうが変わらない。
ぼくたちはある本を読むとき、その著者のロジックの整合性のみを読むのではない。
ましてやその<結論>を読むのでもない。


これは<本を読む>ことに限らない。

ぼくは現在のアルバイト先の昼休みに、新宿歌舞伎町の喫茶店でコーヒーを飲む。
そこにはかなり奇妙な人々が出入りしている(笑)

昨日そこであるカップルを目撃し、かれらの会話が聞えた。
つまりぼくがここで<奇妙>と表記したのは、彼らが<これまでのぼくの人生にいなかった>人々であるということである。

彼らも<ぼくと同じように>リアルに存在している。
ぼくがまったく体験し得ない関係のなかで彼らは(彼らこそ)<実存>している。

ぼくは自分の<観念性>を自己批判しているのではない。
そうではなく、多様な人生の<現実がある>ということに、あらためて気づいた。

ぼくたちは<そういう人生>を、テレビや映画や小説などで“かいま見る”。
そして<世の中>について、すべて知った気でいる。

そして<世の中をすべて知ったかのような>高みの言説を繰り広げてしまう。

しかし<ぼくたち>は知らないのだ。

まさにぼくたちはマスメディア的な<平準化された=にせ公共的>言説に、あまりにも馴らされてしまった。

このブログで“私的な”ことを書いているときにも(ときにこそ)この<にせ公共的言説>が忍び込む。
この言説が奪うのは、<真の公共的言説>である。

特殊の(特殊なものの具体の)中からしか公共性(共通の場)は出現しない。



<ハト山法相、サイバンインコに 裁判員制度PR>アサヒコム2008年05月23日22時08分

<橋下知事VS枚方市長激論 「財政悪化の戦犯誰だ」>アサヒコム2008年05月24日00時04分

<生きたまま、祖父に火=教習所寮から当日外出-老夫婦殺害で孫の男・島根>5月24日0時31分配信 時事通信

<駐輪場に女性遺体=22歳次男を逮捕へ-新宿のマンション・警視庁>5月24日1時10分配信 時事通信

<“産婦人科”「モンスターハズバンド」が急増 妻に付き添い暴力・暴言>5月20日12時2分配信 毎日新聞

<”ネットカフェ難民”しんどい」と訴える妊婦まで 100人の実態調査>5月22日14時1分配信 毎日新聞




<追記>

コメント;ビューティフルじゃない。



2008/05/23のBlog
調子にのってるぜ 運のいいエンジェル
また想い出しちゃう やさしくされたこと
歩道橋わたるとき 空に踊るエンジェル
お月さま おねがい あの娘をかえして

うそつきだから 甘いメロディー知ってる
いつも笑い返して ぼくに見えないことしてる

調子にのってるぜ 気まぐれエンジェル
ガードレールけとばして 見上げる空

うそつきだから 甘いメロディー知ってる
いつも笑い返して ぼくに見えないことしてる

調子っぱずれだぜ うそつきエンジェル
また想い出しちゃう やさしくされたこと
歩道橋わたるとき 空に踊るエンジェル
お月さま おねがい あの娘をかえして

<RC SUCCESSION :エンジェル>





やっぱり、年をとるというのは、無駄なもの(こと)を捨てていくことだね。

ほっとくと、どんどん溜まっていく。
自分の生涯のゴミにかこまれて死にたくないね(笑)
自分の生涯のゴミを遺贈する相手もいないし。

ぼくは何十年前の洋服も持っている。
ジーパンだけでもずいぶんある。
ここ数年、またかなりの本を買ってしまい、本棚も納戸も満杯であり、机の周辺に本の山がどんどん増えていく。
ビューティフルでない。
これらの本を絶対に死ぬまでに読めないのは明らかである(笑)

もちろん、無駄なものを捨てられないのは、なにが無駄なものかが分からないからである。

あ~あ。

こういう時は<本能>を信じるのみである。




2008/05/22のBlog
<宮崎元専務証人喚問 与党欠席>NHK 05月22日 17時30分

22日、参議院外交防衛委員会で行われた防衛商社・山田洋行の宮崎元伸元専務に対する証人喚問で、自民・公明両党は、宮崎氏の意向に反して報道各社の撮影が許可されたことは認められないとして欠席し、野党側だけが質疑を行う異例の事態となりました。


<山田洋行:宮崎元専務、秋山氏側に1億4400万円>毎日新聞 2008年5月22日 20時32分

 防衛専門商社「山田洋行」元専務、宮崎元伸被告(69)=贈賄罪などで公判中=は22日、参院外交防衛委員会の証人喚問で社団法人「日米平和・文化交流協会」の秋山直紀専務理事(58)側に約1億4400万円を提供したことを明らかにした。秋山氏が1月の参考人招致で否定した1億円が含まれており、疑惑は一層深まった。

 喚問の撮影に反対した自民、公明両党が欠席し2委員の質問が中止された。個人的な事情による議員の欠席は過去にもあったが、会派の欠席は初めて。

 福岡県苅田(かんだ)港の毒ガス処理事業(03年入札)を巡り、宮崎被告は秋山氏が顧問を務める米国法人「アドバック・インターナショナル・コーポレーション」に1億円を送金した事実を認めた。そのうえで「漁協や暴力団の現地対策費として(秋山氏から)求められた」と証言。さらに06年までの4年間、アドバック社や秋山氏が理事を務めていたこともある米国の非営利法人「カウンシルフォーナショナルセキュリティー」にコンサルタント料や寄付名目で毎年10万ドル(計約4400万円)を送金したことも明らかにした。

 06年12月、東京・赤坂の料亭で秋山氏や久間章生元防衛相と会食したり、秋山氏の依頼で久間氏のパーティー券を2枚購入したことにも言及。額賀福志郎財務相については「中国からの来客を迎えた20人近い会合の中で額賀先生が終わりのころちょっと顔を出した」「赤坂の小さなカラオケバーに額賀さんが顔を出した」などと述べた。赤坂の出席者は4人だったという。久間氏は「記憶にない」、額賀氏は「大勢の中で(同席したこと)はある」などと説明してきた。【伊藤一郎】





このごろ、新聞を見るのに身が入らないが、ネットニュースはそれなりにチェックしているつもりだったが、見逃していた。

昨日のニュースを天木氏のブログで知った、以下の通り、いよいよスター・ウォーズである;

<ミサイル監視衛星も保有可能に 宇宙基本法が成立>アサヒコム2008年05月21日12時25分

 宇宙の軍事利用も可能にする宇宙基本法が、21日の参院本会議で、共同提案した民主、自民、公明3党などの賛成多数で可決・成立した。

 同法は宇宙開発を「我が国の安全保障に資するよう行わなければならない」と明記。宇宙開発が進む一方、高度なミサイル監視衛星を持つ可能性も生まれるなど、宇宙政策の転換点となりそうだ。

 また内閣に「宇宙開発戦略本部」を新設し、総合的な宇宙計画を作る。首相が本部長となって担当閣僚を置き、研究開発は文部科学省、産業振興は経済産業省にと分かれていた宇宙政策を集約する。

 自公両党は昨年6月、議員立法で今回とほぼ同じ内容の法案を提出。第1条に「憲法の平和主義の理念を踏まえ」との一文を加えたことで、民主党との共同提案にこぎ着けた。3党は審議で「宇宙開発は専守防衛の範囲内に限る」と強調、委員会の実質審議は衆参とも約2時間だった。



<追記>

天木氏も言っているが、まずこの法案は、憲法違反である。

だれかが言ってたよね;《防衛のためでない、戦争はない》

それにしても民主党というのは何なんでしょう!