ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
Don't Let Me Down
Blog
[ 総Blog数:4233件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2008/07/19のBlog
現在ぼくがアルバイトをしているNPO周辺で参照されている本がある。

この本のことを知ったのはこの本が出版された数年前であったにもかかわらず、ぼくは億劫でこの本を手にすることがなかった。
ぼくは<自分の身近な問題>が億劫であるという、<悪癖>をもつ。

昨日、アルバイト先講習でこの本の序章部分のコピーが配布され、ぼく自身始めてこの本に触れて衝撃を受けた。
タイトルは『当事者主権』(岩波新書2003)である。
著者は20歳のときに交通事故で四肢麻痺になりその後<障害者自立生活運動>を実践してきた中西正司氏と社会学者上野千鶴子氏の共著である。

昨日この本を購入し、いまその序章を読んだ。
非常に重要なことが書かれているので引用する。
ただし、こういう<部分引用>では、著者の主張が硬直して受け取られる怖れがある(説明や具体例がカットされるので)
また、この“序章”は“理念的な(抽象的な)”ことが述べられている。
こういう<主張>をもたらした著者たちの実践については、この本に直接あたってほしい。

しかし、ぼくに興味深いのはこういう<理念>自体でもある。
なぜなら<理念=思想>なくしては、どんな現実的<運動>も不可能である。


★ 当事者とはだれか?当事者主権とは何か?
ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、当事者とはサービスのエンドユーザーのことである。だからニーズに応じて、人はだれでも当事者になる可能性を持っている。
当事者とは「問題をかかえた人々」と同義ではない。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から来ている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである。

★ 当事者主権は、何よりも人格の尊厳にもとづいている。主権とは自分の身体と精神に対する誰からも侵されない自己統治権、すなわち自己決定権をさす。私のこの権利は、誰にも譲ることができないし、誰からも侵されない、とする立場が「当事者主権」である。

★ 当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも―国家も、家族も、専門家も―私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である。

★障害者の自立とは何か。24時間介護を受けても、自立していると言えるのか?
自立生活運動が生んだ「自立」の概念は、それまでの近代個人主義的な「自立」の考え方―だれにも迷惑をかけずに、ひとりで生きていくこと―に、大きなパラダイム転換をもたらした。
ふつう私たちは「自立」というと、他人の世話にならず単独で生きていくことを想定する。だがそのような自立は幻想にすぎない。どの人も自分以外の他人によってニーズを満たしてもらわなければ、生きていくことができない。社会は自立した個人の集まりから成り立っているように見えて、その実、相互依存する人々の集まりから成り立っている。人生の最初も、最期にも、人と人とが支え合い、お互いに必要を満たしあって生きるのはあたりまえのことであり、だれかから助けを受けたからといって、そのことで自分の主権を侵される理由にはならない。
人々が相互依存して生きている社会で、他人の助けを得ないことが、なぜ理想とされるのか。だれからも助けを得ない人は、豊かな人生を送っているとはいえない。障害を持った人が、必要な助けを必要なだけ得られる社会は、どんな人も安心して生きていける社会だ。それは、障害の有無にかかわらず、私が私の人生の主人公であることを貫くためである。障害者運動から生まれた「自立」の概念は、非障害者を標準にできあがった、それまでの「自立」観を、大きく変えた。

★ 当事者主権は、こうしたパラダイム転換からもたらされた。この社会で「お客様」であり、「厄介者」であり、「お荷物」であるとは、どういうことだろう。超高齢化社会のなかで、だれもがいつかは「障害者」となり、ハンディを抱えこむことが予想されるとき、人生のうちで依存する者もおらず、人に依存する必要もない一時期にだけ合わせてつくられた社会のしくみを、根本的に考え直す時機が来ている。

★専門家は「客観性」の名において、当事者の「主観性」を否定してきた。当事者学があきらかにするのは、当事者でなくてはわからないこと、当事者だからこそわかることがある、という主観的な立場の主張である。したがって、当事者主権とは、社会的弱者の自己定義権と自己決定権とを、第三者に決してゆだねない、という宣言でもある。
専門家が「客観性」の名においてやってきたことに対する批判が、ここにはある。というのも「客観性」や「中立性」の名のもとで、専門家は、現在ある支配的な秩序を維持することに貢献してきたからである。

★ 当事者学は、実のところ、どんな差別問題にも、非当事者はどこにもいない、ということをも明らかにしてきた。なぜなら、差別を受ける者が当事者なら、他方で、差別をつくる者も、うらがえしの意味で当事者だからである。

★ 私たちの社会は民主主義の社会だということになっているが、多数決民主主義、代表制の間接民主主義の原理のもとにある。当事者主権の考え方は、この代表制・多数決民主主義に対抗する。

★ そのためには「最大多数の最大幸福」を基準とするような「公共性」の理念を組み替えなければならない。公共性は、少数者の犠牲のもとに成り立ってはならない。ラディカルな民主主義の立場は、少数者であっても多様性を容認し、他人と違っていていい権利、違うからといって差別されない権利を擁護してきた。

★ 制度がユニバーサル(普遍)であるとは、例外がひとりもない、という意味である。当事者主権とは、あなたがたのいう普遍は、私ひとりがそれにあてはまらないことで挫折する、と宣言できる権利のことである。制度設計の基準を、平均にではなく「最期のひとり」に合わせる。そのためには多数決を絶対視しない。そういう合意形成を可能にするような、ラディカルな民主主義をめざしたい。




もっとはっきり言うべきだろうか(笑)

ぼくが嫌いなのは<無知に居直るひと>である。

たぶんこの<無知>にもいろんな“タイプ”がある。

ただ知らないひとと、知らないことを(わざわざ)選ぶ人とか。
間違ったことのみを選択的に<知る>人とか(笑)
でもそんなことはどうでもいい、まさに“結果は同じ”ではないか。

まさに無知に居直る<彼ら>こそ、<結果>ばかり気にしているではないか。

<彼ら>の“道徳観”ほど笑うべきものはない。

なんと<彼ら>には、<基準>が、確固とした、こびりついた糞のような<基準>があるのである。

彼らは、なにを<体験しようと>この<基準>を疑わない。
もしこれを<疑う>と、<自分>が崩壊してしまうのだ。
その程度の<自分>しか持ち合わせていない。

彼らの<正義>とは、この<基準>から逸脱しているか否かの判定である。
彼らにとって<犯罪者>というのは、基準から逸脱したひとであり、この基準に合う人間に“更生させれば良い”だけである。

<基準>そのものは、決して、決して、決して、<疑われない>。

しかしこの場合の、<疑う>という行為こそ、<考える>ということである。

だから、まさに、<無知>というのは、<知識(の量)>の問題ではなく、<倫理>の問題である。



<追記>

この夏の<不快>は、個人的問題であろうか、<環境問題>であろうか。

ぼくは<この問題>を、<環境問題>としてとらえる(考える)ことを望む(I hope so.)

ぼくは、現在の問題(2008年7月19日6:48AMの問題)、あなたの日々の不快を、常識的言説のレベルから抜け出るように<考える>ことを望む(I hope so.)

<メタレベル>に抜け出る。

しかし<メタレベル>とは、<常識的世界=世間>の上空に舞い上がって俯瞰することではない。

ぼくのいう<メタレベル>とは、むしろ逆に<基礎に帰る>ことである。

ベースに帰る、ホームに還る。

基礎の基礎、基本のキに帰る。

あなたが、動物であることに帰り、文明や文化を再度始めなければならない。

I hope so.



ぼくが他者に望むのは、”hope”である。

ぼくが望むのは、”want”である。



<コメント>

最近<ブックマーク>から2名をはずしました。

こういうことにあまり神経質になるべきではないかもしれないが、やはり”こだわり”ます(笑)

片方の方はぼくのブログをブックマークして下さっているので、はずしてくださって結構です。

もう一人の方は、前にはぼくのブログをブックマークしていたようなのに(記憶違いかもしれない)、現在ブックマークしてないね。
最初からブックマークしてなかったなら、なおとんでもない(笑)

この方は、このブログメンバーのなかで、少数の”現実に会ったひと”なのでブックマークしていました。
しかし彼は”すでに”別のコメント欄で”ぼく”を揶揄する発言をしています。

他のコメント欄で<揶揄>するなら、ぼくのブログのコメント欄に書くか、自分のブログでwarmgunの名を上げて<批判>してほしい。

そうすれば、ぼくも”100倍にして”お返しします(爆)

逆に、”彫刻家 西嶋雄志”氏をブックマークした。
この方にもお会いしたことがある。
にもかかわらず、ひところほとんど更新されていないので、なんとなくブックマークしないできた。
ぼくが迂闊だった、謝罪する。




本を読むことで良いことは、自分がモヤモヤと“考えて”いて、適切な表現が見出せないことに、適切な表現がなされている<言葉>が発見できる場合である。

これが<本>である必要はなく、ブログでも新聞でも、隣の人の言葉でも、よい。

そういう<言葉>が、朝日新聞にはないし、ブログにもほとんどない、と思う。

最近<本>がほとんど読めないのだが、(ましては“朝日新聞”など読んでいられるか!)、未練たらしくいろんな本をちょこちょこ拾い読みする。

そういう<その本>に対しては失礼な読書であっても、上記のような<言葉>にめぐり合うことはある。

近日の<言葉>はこうである:

《本書の第3部において差し出される様々な問いに、私も読者も、時には答えを保留することもあるだろう。しかしそれは決して逃げているのではない。なぜなら「― せねばならない」と指し示す「道徳」と異なり、「倫理」とは、あり得べき複数の可能性の中で思考を継続させる誠実さそのものだからである》<今橋映子『フォト・リテラシー』中公新書2008>

ここでの「道徳」と「倫理」の決定的ちがいについての<定義>に注目する。

ぼくが上記の文章を読んで、ただちに想起した<問題>は、“山本モナ問題”であったと言ったら、ぼくの<論点>を実感してもらえるだろうか(笑)

もちろんここで、この著者がのべているのは、“山本モナ問題”ではない(爆)

ぼくはずっと、<論理的思考>の限界のようなものについて考えている。
あるいは<現実的解決策の提言>というようなものの“有効性”について。

ぼくたちは、なにかを考えたとき、<結論>をださなければならないのだろうか。
もっと“狭く”、なにか現実的な“解決策”を“提言”しなくてはならないのか。

しかし、これはただちに、どっちみち考えても“わからない”ことは、考えないとか、提言(現実的解決策)を見出せない思考は無意味だから何も考えないということを意味しない。


《あり得べき複数の可能性の中で思考を継続させる誠実さそのもの》

というのは的確な<定義>であると思えた。

けれども<思考>には、ある具体性のレベルというべきものが必要である。
この<具体性のレベル>について、ぼくは的確な<表現>を見出せていない。


<追記>

上記を書いて、<反省>した。

<思考の誠実さ>というのは、<純粋さ>(ナイーブであること)とも決定的にちがう。



2008/07/17のBlog
人類の進化についての最新情報をもりこみ、やさしく解説した本がある。
三井誠『人類進化の700万年』(講談社現代新書2005)。

この本の“第4章日本列島の人類史”のなかに、<日本人という幻想>という記述があったので引用する;

★ 旧石器時代さらに縄文時代の日本列島の人類の由来が、なかなか解き明かせないことをみてきた。石器などを研究する考古学、人骨を調べる人類学、遺伝情報から迫る遺伝学―。それぞれの分野で謎が残るうえ、それぞれが描き出す筋書きもうまく一致しない。ただ、はっきりしてきているのは、縄文時代までの日本列島の人類の由来は、決して「南」か「北」かの二者択一ではなく、様々な時代に南からも北からも人類が入り込んできた可能性が高いということだ。

★ さらに、三千年前以降になると、「渡来系」と呼ばれる人たちが大陸から水田稲作を持ち込み、弥生時代の幕が上る。彼らがそれまでにいた人たちと混血を繰り返し現代日本人につながってきたと考えられる。

★ 「日本人」というと、実体がある存在のように思えるが、明確に定義するのはむずかしい。
私たちが中国や韓国の人たちと日本人を見分けるときには、服装や髪型、化粧の仕方などが頼りになる。しかし、そうした文化的な特徴を取り払ってしまい、その人の体や骨の特徴だけで日本人であることを言い当てるのは専門家でもほぼ不可能といわれる。また、遺伝情報という切り口でも、ある一人の遺伝情報を見て、その人が日本人なのか韓国人なのかを言い当てることはほとんどできない。そうした視点で見れば、「日本人」というのは単なる幻想のように思えてくる。

★ 日本列島が現在のような形になったのは約1万年前以降とされる。それまでは、気候が寒冷化して海面が下がるたびに、北海道がサハリンを通して大陸とつながっていた。また、西のほうでは、九州と朝鮮半島がつながるか、あるいは対馬海峡が川のように狭くなったりしていた。日本列島はいつも孤島だったわけではない。
アジアの東端の日本列島には、アジア大陸から多様な人たちがやってきただろう。




比喩で話をする。

トマトを見たことも食べたこともないひとに、どうやって<トマトというもの>について説明できるだろうか?

あなたは<言葉>で描写するだろうか。
“赤くて、丸くて、最近はいろんな形と名前があって、大小さまざま”
“すっぱいのよね”

あなたはトマトの絵を描いたり、トマトの写真をみせることもできる。
けれども、ここでのぼくの<論点>は、“実物を提示できない”場合ということにある。

どんなに言葉をついやし、その<イメージ>を見せたところで、<トマト>に触れ、トマトを味わう時の体験そのものを伝えることは不可能ではないか。

それだけではない。
実物ではなく、それを言葉で描写し、絵で描写する時、<誤解>が生じることもあり得る。
それも、<実物>より“まずい”ものを想像する場合と実物より“おいしい”ものを想像する場合がありうる。

もっとまずいのは、<トマト>というものについて、あなたが説明したのに、それを聞いた相手には、<なんの印象も残らない>場合である。

“だから”、あなたの<描写>は“過度に”なるかもしれない。
声が大きくなったり、熱を帯びたり、ジェスチャーが大袈裟になるかもしれない。
“しつこく”説明するかもしれない(爆)

“あのさー、酸っぱいんだが、独特の酸っぱさなんよ!ちょっと青臭くてさ、熟すとどんどん赤くなって、ぐにゃぐにゃになるのよね”

相手には通じたであろうか!(笑)

以上の<トマト>の話は、<比喩>である。


今日は昼から仕事です(笑)



<追記>

現在、<トマト>にも様々なグレードがあり、値段がちがう。

けれどもどんな<現地直送>の高いトマトであろうと、ぼくが子供の頃、近所の畑から盗んだトマトの味にかなわない。

はっきりいえば、最近のトマトなどトマトではない。

こういうことを言うと、ぼくが子供時代の”ノスタルジー”にふけっていると思うひともいるだろう。

記憶の中のトマトは、”過剰においしい”のではないかと。

たしかに、こういう<記憶の変形>ということも、ある。

しかし、単純に、<昔のトマト>は、もっとトマトの味がしていたのである。



<追記No.2>

もっと”まずい”場合が想定できる(笑)

あなたが<トマト>について説明している相手が、トマトを見たことも食べたこともないのに、すでに<トマトについて知っている>(と思っている)場合である。





2008/07/16のBlog
ユーチューブでU2の映像をハシゴしていて、”ブラディ・サンディ”クリップを見つけた。

この曲はよく知っているが、この映像は初めてだった。
また当時の”アイルランド紛争”についても漠然とした記憶しかない。

たしかに北アイルランドは”イギリス”にとって<外国>だったともいえる。

しかしこの映像を見て、ぼくが受け取ったのは以下の<真実>である。

あらゆる<軍隊>は、<われわれに向かって>銃口を向けることがあり得る。

天安門や光州を見よ。

戦後、”わが国”では自衛隊が<われわれに>銃口を向けたことはない。
しかし<機動隊>によって、負傷したものはいた。

将来にわたって、<自衛隊がわれわれに銃口を向けない>という保障はないのだ。

しかもそれは、自衛隊員個々人の<意思>とは無関係でありうる。

それが<軍隊>ではないのか?

ぼくたちは、軍隊や戦争や暴力について、あまりにも<抽象的な>感覚しか持ち得ていないのではないか。


U2 : Bloody Sunday




やっぱりねー、とひどく納得のこのニュース(現在ヤフー・アクセスランク1位!);

“<台湾>離婚率最高…日本人男性と台湾人女性の組み合わせ” 7月16日10時16分配信 毎日新聞

 【台北・庄司哲也】日本人男性と台湾人女性のカップルは最悪の組み合わせ--。台湾紙「中国時報」(14日付)は、国際結婚でこの組み合わせの離婚率が突出して高いと報じた。日本と台湾は、社会や文化的背景が似ているとされるが、日本人の「亭主関白」ぶりに台湾人女性がついていけないという。
 台湾行政院(内閣)の統計によると、昨年1年間でこの組み合わせの離婚率は28.84%で、約4組に1組が離婚。2位のベトナム人男性-台湾人女性カップルの9.83%を大きく引き離している。日本人女性と台湾人男性の組み合わせは3.65%だった。
 日本人の亭主関白ぶりについて、台湾の離婚女性支援団体「晩晴協会」は「台湾女性がほっとする暇がない」と説明。日本人男性との離婚経験がある台湾の女性タレント、温翠蘋(おんすいぴん)さんは、妻は控えめにしなければならないといった日本社会の伝統以外にも「夫の仕事のストレス、住宅の狭さ、物価高も日本に嫁いだ台湾女性が適応できない原因」とコメントしている。
 台湾人女性が昨年嫁いだ外国人は日本人が341人と最多。台湾で日本人男性は「桃太郎」との俗称で呼ばれているが、この桃太郎、台湾人女性には「鬼門」のようだ。




しかし、このニュースは、“日本人男性と台湾人女性のカップル”が多いから、こういうニュースなっているわけだ。

もし“日本人男性”が、台湾以外の国の女性と結婚することが多くなったら、“相手”がどこの国の女性であろうと、その離婚率は最高になると予想される(笑)

つまり、日本人男性に”耐えられる”のは、<日本人女性>のみである。
ここに<現在日本のナショナリズム>の根拠がある(爆)

<日本人女性>のみなさん、ご苦労様です。



それにしても、湿気多く、不快な暑さですね。

この<不快>においても、トウキョウの夏は、世界一ではないでしょうか!





<オマケ>

Zep:Since I've been Loving you

Zep:Since I've been Loving you


John Lennon: Stand by me

Stand by me "Orginal"inclusiv with River Phoenix


U2:With or Without you(rattle and hum)

U2 :One




下記ブログで取り上げた『失われた範列』(1973)は、モランの<人間の科学ゼロ年>の“開始宣言”であった。

それは彼個人の“宣言”であると同時に、“5月革命“以後の、世界的な人文科学と自然科学の”総合化的探究“の現実の動きと連動していた。

もっと具体的には哲学・社会学・人類学的思考と分子生物学や脳科学やサイバネティックスによってもたらされた“新たな認識”の相互交流による<新たな思考>の実行と、そのための場をつくる実践でもあった。
モランというひとは、そういう時代のドラマに関与する位置にいた。

それはモラン個人の実践であると同時に、その時代のムーブメントでもあったのだ。
それから40年近くが経過した現在、それらの“動向”はどこへ消え果たのだろうか。

“フランス”の情報が、“わが国”に入りにくくなったばかりではないと、思われる。
フランスにおいても、これらの革新は消滅したのだろうか?

<わが国>においては、60年代の“大学騒乱”が、そもそも何の<学>に対する“異議申し立て”ではなかったことは、”歴史的“に明らかである。

<わが国大学>は、その“騒乱に学び”、手品のような“明るいキャンパス”を出現させた。
<なにもなかった>のである(笑)

それどころか、この巧妙な“支配者たち”は、善良な両親による善良なお坊ちゃんお嬢ちゃんを相手の<商売>に奔走し、素直で明るい小型<商売人>の大量生産に成功した。
この<傾向>は現在に至るどころか、<大学>の<商店化>は目を覆わんばかりであり、大学で稼ぐだけでは収まらない<教授>たちが、マスメディアに出演し駄本を量産して金稼ぎに余念がないことは、みなさま御存知の通りである。

この<事実>だけでも、<戦後>の破綻を立証するには充分である。

しかし<問題>はこんなことではない(笑)

そもそもモランだけではない“あの時代の人々”の<構想>とは何だったのかを、<現在において>問う必要がある。

それが<挫折>だったなら、その<意味>を問う。

そもそもモラン等の<思考>の中心にあったのは、生物としての人間についての<新しい認識=根源的認識>であったと思われる。
具体的には、それはこの本でモランが展開しているひとつのモチーフである<人類の進化>の問題であった。

人類の進化の<スパン>から見れば、この<40年の歴史>、この<60年の歴史>、この<100年の歴史>、この<2000年の歴史>も一瞬にすぎない。

まさに、ぼくらひとりひとりのせいぜい<100年にも満たない生>から、これらの膨大な生命の歴史をいかに認識するのか?

これが<本質的な問い>である。

これは<誇大妄想>を意味しない。
ぼくたちの<一瞬の生>の意味を問うものである。


この本の最初には<年表>が掲げられている;

宇宙 7,000,000,000年
地球 5,000,000,000年
生命 2,000,000,000年
脊椎動物 600,000,000年
爬虫類 300,000,000年
哺乳類 200,000,000年
類人猿 10,000,000年
ヒト科 4,000,000年
ホモ・サピエンス 100,000年~50,000年
都市・国家 10,000年
哲学 2,500年
人間の科学 0年





ぼくの現在の仕事のひとつは、“ヘルパー”を仕事とする人々への“講習”のセッティングをすることである。

最近のその講座で、ある精神科医の話を聞いた。
ぼく個人にとってもいくつかの印象的な話があったし、講座途中の休憩時間に個人的な質問もした。
その質問の内容は、“うつ症状”と“うつ病”のちがいは、量的な差異か、本質的な差異か?“というものだった。

“先生”の答えは、<うつ症状>というのはあらゆる原因を含む症状であって、それが<うつ病>によるものとは限定できないというものだった。
これはぼくには納得のゆく回答であったが、そもそも<うつ病>とか<統合失調症>とよばれている<病>自体の“定義”が、問題だと思える。

またこの日の話のなかで“先生”は、“人格障害”のもっとも明らかな特徴(症状)は、<なにも学ばないこと>であると述べた。

“彼ら”は、同じ<ミス>を何度も繰り返す。

耳の痛い話である(爆)

ぼくには、自分自身を含め、現在この社会に生きるほとんどの人々が<人格障害>であるように思える。

しかしこのような<現状>を認識することは必要であるが、それを嘆いていてもしょうがない。
すこしでも、それを克服するよう努めようではないか。

しかもその<方法>はきわめてシンプルである。

<学べば>いいのである。

しかしもちろん、この<学ぶこと>が困難なのである。
ぼくたちは、だれかが“考えたことのすばらしい結論”のみを、安直に“効率的に”学ぼうとしていないだろうか。

どの<思考>が一番いい思考であるか、どのひとの<人生の指南>がいちばん自分にフィットするか、どの<思想>が即座に自分の<力>に役立つか。
このような<態度>で学ぼうとしてはいないだろうか。

たとえば、“歴史上の”数々の思想家を(それは“哲学者”のみではない、“作家”でもある)、“チャート式”にならべて、誰がいちばん“いい”思想家であるかを判定しようとしていないだろうか。

スーパー店頭で、“良い大根”を選ぶように。

たしかに<哲学>の世界、<文学>の世界にも、“流行”はあるのである。
そこでは、なにかが<古く>、なにかが<新しい>。

しかし“マルクス”は古く、“グローバル資本主義”が新しいというのは、いかなる<根拠>をもっているのかを、“あなた”は自分の思想として述べることができるか?

もしそうでないなら、あなたの<思想>は無効である、無意味である。

<だから>ぼくたちは、<学ぶ>。

もちろん<マルクス>というのは、ひとつの例にすぎない。
ぼくは、当然、“左翼と右翼の図式”などと無縁である。

もちろん硬直した左翼も硬直した右翼も、過去にあったし、現在にもある。
それを“無効”というものにもあるのである。

だからぼくたちは、<学ぶ>。

もし政治的なものに関心がないとか、イデオロギー的なもの全般が私は嫌いであるなら、その根拠と正当性について学ぶ。

ぼくは、“現在の”、<右翼=ナショナリスト>の言説が嫌いである。

それはぼくが、<日本を愛していない>からではない(爆)

ぼくは日本人であろうと、何人であろうと、<学ばないひと>が嫌いである。

<学ばないひと>は必ず、ファシストになる。
彼らの<主義>は、<全体主義>という名で歴史的に呼ばれている<主義>である。

そこの“素朴な兄ちゃん”も反省してほしい。
<反省>とは、みずからを省みて、歴史と他者から学び、<みずから学ぶ>ことである。

実はこのブログは以下の文章を引用しようと、書き始められたものであった。
もはや長くなりすぎたので“はしょる”。

この本の最初と最後のみを乱暴に引用する、その“中間”については、あなたがこの本に直接あたるか、<想像>してほしい;

★ 今日、われわれは誰でも、自分たちが、哺乳類綱、霊長類、ヒト科、ヒト属、ホモ・サピエンス種の動物であること、われわれの体が300億の細胞から成る機械で、それが遺伝体系にコントロールされ、生殖され、その遺伝体系は2、30億年にわたる長い自然の進化の過程で作り出されたものであること、われわれがしゃべる口、われわれが書く手は生物学的器官であることを知っている。けれども、そうした知識は、われわれの肉体が、炭素、水素、酸素、窒素の組合せから成っていることをわれわれに知らせる知識と同じく、実効性のないものだ。

★ 人間的なあらゆるものの中にある不確かさ、偶然、悲劇についての十分な意識は、わたしを絶望に導くどころではなかった。逆に、精神的安全を危機と交換することは人の心を元気づける。なぜならそうやって人はチャンスをつかむからである。複雑性の多音価的真実は人の心を高揚させる。閉じた思考、閉じた科学、限られた、不具の、傲慢な真実の中で、わたしのように窒息している人々なら、わたしをわかってくれるだろう。一切を説明する呪文、一切を解決すると称する長ったらしい言葉から、永遠に身を引き離すということは気持ちがよい。結局のところ、世界を、生を、人間を、認識を、行動を、開いた体系と見做すことはわれわれを元気づける。底知れないものと虚無の上の割れ目、われわれの精神とわれわれの生の生まれながらの傷であるその開口は、われわれの精神とわれわれの生が、欲望し、呼吸し、飲み、食べ、接吻する、飢え乾いた口でもある。

<エドガール・モラン『失われた範列-人間の自然性』(叢書ウニベルシタス1975、オリジナル1973)



《底知れないものと虚無の上の割れ目、われわれの精神とわれわれの生の生まれながらの傷であるその開口は、われわれの精神とわれわれの生が、欲望し、呼吸し、飲み、食べ、接吻する、飢え乾いた口でもある》





2008/07/15のBlog
ぼくに関心があるのは、人間であることの悲劇(悲惨)です。
たぶん人間が人間であることの差異は(動物との差異)、自分の生涯の意味を見出すことです。
しかしぼくらは、<それ>を無から自由に生み出すことはできない。
ぼくという存在は、歴史に拘束されている。
歴史ということばがお嫌いなら、遺伝子に拘束されている。
しかもぼくらは、他者の事例から学ぶのだけれども、その他者を具体として受け取ることがなかなかできない。

ぼくたちは、もっと安易な、その社会の規範モデル(冠婚葬祭=儀式=形式)のみを参照してしまう。
しかしそうしているうちは、決して、<自分の意味>を産出できない。

まさに<産出>とは、なにかを<産む>ことです。

肉体的になにも<産む>ことができない、男という性であることの、決定的<不自然さ>というものがあるのです。

もちろん<産まない女性>という存在もあるのですが。


人類の歴史は、アフリカのひとりの女性からはじまった、というのが定説になりつつあるようです。

彼女が<産んだ>から人類ははじまったと。
しかし彼女を妊娠させたのは誰だったのでしょうか(笑)

しかしこれは、少なくとも、アダムの肋骨から産まれたイヴという<お話>とは、ちがった”強調点”をもっているのではないでしょうか。


今日も暑くなりそうです、仕事に行きます(笑)



<追記>

ぼくは現在”姦しい(かしましい:女3人)、<環境(エコ)問題>というのは、上記のような<論点>を考慮に入れて討議されなければ、<無意味>だと考えます。