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2008/07/22のBlog
[ 07:38 ]
[ 日記 ]
天声人語については、もう書くのをやめようと思っていた。
けれども今日の天声人語には怒りを感じる、引用する;
《▼博士とまではいかなくても「生涯学習」に意欲を持つ人が増えている。内閣府の先ごろの調べでは、特に60代に目立っている。退職期を迎えた「団塊の世代」が熱心なためらしい。学ぶのは楽しいし、知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう▼「わが人生という無二の書物を、どこまでも読み続けていこう」と言ったのは誰だったか。「読む」とは味わうという意味らしい。つまり人生という物語を自らつづって、自ら味わう。一線を退いた「高齢学徒」が、漱石先生も一目置くような物語を、続々とつづる世になれば面白い》
ぜんぜん《面白く》ないのである。
すくなくとも、ぼくはこれを書いている<50代のガキ>から舐められるゆわれは、ない。
だいいち、この文章は、夏目漱石に対して失礼であり(ぼくは漱石ファンではない)、もっと広く<日本の近代の先人>に対して失礼である<注>
ぼくは<生涯学習>などしようとは思っていない。
ただ本を読み、その過程で彼らから学ぶことがあったら学び、そこから自分で考えることが出てきたら、書くだけである。
その<作業>はここで“天声人語ガキ”が言っているような《知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう》などという、ボケの寝言とは“似て非なる”ものである。
“似て非なるもの”の<差異>こそが、すべてである。
それだけが<表現>である。
それだけが思考の生理としての<文体>である。
これがわからぬものには、一行の文章も書いてほしくない。
ましてや“大新聞”で、日々愚劣な醜態をさらすな。
《自分の人生の物語を自らつづる》だって!
君にはその<意味>がわかっているのか。
君こそ<天声人語>ではなく、自分の言葉で語れ。
そのためには、根本的な<自分の言葉の獲得>が必要であろう。
仕事に行きます(爆)
<追記>
天木直人氏は<政治家>について書いている;
《しかしいまの日本の政治と政治家を見ている限り、私がいつも半分冗談で、半分真剣に訴えている、すべての政党、政治家は不要である、という思いが、どんどんと膨れ上がっていく。
「この豚野郎はどいつもダメだ」(米国のカルト映画監督ジョン・ウオルター)の心境に共感を覚える。》
日本の<マスメディア>もまったく同様である。
《この豚野郎はどいつもダメだ》
<注>
<具体的>に書こう。
もし天声人語氏がこれまでに、“漱石”の文章を一度でもちゃんと<読み>、震撼させられたなら、ここでのように“漱石”の名を持ち出すことは不可能である。
この<名>が“漱石”である必要はない。
けれども、<漱石の文章>を読み得ないものに、どうして漱石以外のひとの文章が読み得ようか。
<文章>の話ではない、どうして他者の言葉を聴き得ようか?
他者の言葉を聴けない者が、どうして《自分の人生の物語を自らつづり》得ようか?
けれども今日の天声人語には怒りを感じる、引用する;
《▼博士とまではいかなくても「生涯学習」に意欲を持つ人が増えている。内閣府の先ごろの調べでは、特に60代に目立っている。退職期を迎えた「団塊の世代」が熱心なためらしい。学ぶのは楽しいし、知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう▼「わが人生という無二の書物を、どこまでも読み続けていこう」と言ったのは誰だったか。「読む」とは味わうという意味らしい。つまり人生という物語を自らつづって、自ら味わう。一線を退いた「高齢学徒」が、漱石先生も一目置くような物語を、続々とつづる世になれば面白い》
ぜんぜん《面白く》ないのである。
すくなくとも、ぼくはこれを書いている<50代のガキ>から舐められるゆわれは、ない。
だいいち、この文章は、夏目漱石に対して失礼であり(ぼくは漱石ファンではない)、もっと広く<日本の近代の先人>に対して失礼である<注>
ぼくは<生涯学習>などしようとは思っていない。
ただ本を読み、その過程で彼らから学ぶことがあったら学び、そこから自分で考えることが出てきたら、書くだけである。
その<作業>はここで“天声人語ガキ”が言っているような《知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう》などという、ボケの寝言とは“似て非なる”ものである。
“似て非なるもの”の<差異>こそが、すべてである。
それだけが<表現>である。
それだけが思考の生理としての<文体>である。
これがわからぬものには、一行の文章も書いてほしくない。
ましてや“大新聞”で、日々愚劣な醜態をさらすな。
《自分の人生の物語を自らつづる》だって!
君にはその<意味>がわかっているのか。
君こそ<天声人語>ではなく、自分の言葉で語れ。
そのためには、根本的な<自分の言葉の獲得>が必要であろう。
仕事に行きます(爆)
<追記>
天木直人氏は<政治家>について書いている;
《しかしいまの日本の政治と政治家を見ている限り、私がいつも半分冗談で、半分真剣に訴えている、すべての政党、政治家は不要である、という思いが、どんどんと膨れ上がっていく。
「この豚野郎はどいつもダメだ」(米国のカルト映画監督ジョン・ウオルター)の心境に共感を覚える。》
日本の<マスメディア>もまったく同様である。
《この豚野郎はどいつもダメだ》
<注>
<具体的>に書こう。
もし天声人語氏がこれまでに、“漱石”の文章を一度でもちゃんと<読み>、震撼させられたなら、ここでのように“漱石”の名を持ち出すことは不可能である。
この<名>が“漱石”である必要はない。
けれども、<漱石の文章>を読み得ないものに、どうして漱石以外のひとの文章が読み得ようか。
<文章>の話ではない、どうして他者の言葉を聴き得ようか?
他者の言葉を聴けない者が、どうして《自分の人生の物語を自らつづり》得ようか?
2008/07/21のBlog
[ 22:19 ]
[ 日記 ]
おんなのほほえみのうしろにうかぶ
もうひとつのかおは
いつまでもかたちにならずに
おとこのこころとからだのはざまで
あえかにただよっている
だいちにみをなげうち
ひとというひとをうらぎり
わがみをひのなかにおこうとも
そのかおをかいまみることはできない
そのかおはとおいやまやまにまぎれ
なみだつうみのそこにひそみ
おおむかしのもりのおくにかくれ
たえまなくかたりかけるけれど
そのことばのわかるものはいない
けしてみたされることのないあこがれと
つかのまのしらべのうちに
そのかおのおとずれをききとる
<谷川俊太郎:もうひとつのかお>
もうひとつのかおは
いつまでもかたちにならずに
おとこのこころとからだのはざまで
あえかにただよっている
だいちにみをなげうち
ひとというひとをうらぎり
わがみをひのなかにおこうとも
そのかおをかいまみることはできない
そのかおはとおいやまやまにまぎれ
なみだつうみのそこにひそみ
おおむかしのもりのおくにかくれ
たえまなくかたりかけるけれど
そのことばのわかるものはいない
けしてみたされることのないあこがれと
つかのまのしらべのうちに
そのかおのおとずれをききとる
<谷川俊太郎:もうひとつのかお>
[ 16:22 ]
[ 日記 ]
下記ブログで<嘘>について書いたあと、昨日の朝日読書ページにあった書評を思い出した。
えーっと、ガサガサ:机の下の新聞を探す音。
ありました;
《「女性は男性より嘘が上手」とあるが、男は女より嘘を見破るのが下手(女は男の嘘をたやすく見抜く)なだけではないか。男性諸君、本書で眼力を磨いてみては》(梶山寿子というひとの『嘘を見破る質問力』という本の書評)
いやあ、ぼくのようにいままで、“嘘を見抜けないで”さんざん<女>にだまされてきた<男>には、こたえる指摘ですなぁー(うっそ~!)
しかしこのライターの女性は、えらく“男の嘘を見抜く”ことに自信たっぷりじゃない?
こういう“ひと(女)”こそ、“男に究極的に騙される”おそれがあるから、気をつけたほうがいいよ(爆)
ただしこのひとが言っている《残念なのは正真正銘の嘘つきに対処する法が(この本には)あまり書かれていないこと》というのには共感するね(この本は読んでないが!)
<正真正銘の嘘つき>は、内心笑っているのよね(笑)
えーっと、ガサガサ:机の下の新聞を探す音。
ありました;
《「女性は男性より嘘が上手」とあるが、男は女より嘘を見破るのが下手(女は男の嘘をたやすく見抜く)なだけではないか。男性諸君、本書で眼力を磨いてみては》(梶山寿子というひとの『嘘を見破る質問力』という本の書評)
いやあ、ぼくのようにいままで、“嘘を見抜けないで”さんざん<女>にだまされてきた<男>には、こたえる指摘ですなぁー(うっそ~!)
しかしこのライターの女性は、えらく“男の嘘を見抜く”ことに自信たっぷりじゃない?
こういう“ひと(女)”こそ、“男に究極的に騙される”おそれがあるから、気をつけたほうがいいよ(爆)
ただしこのひとが言っている《残念なのは正真正銘の嘘つきに対処する法が(この本には)あまり書かれていないこと》というのには共感するね(この本は読んでないが!)
<正真正銘の嘘つき>は、内心笑っているのよね(笑)
[ 12:44 ]
[ 日記 ]
ぼくが“渇いたのどが水を求めるように”中上健次を読みたくなるのは、そこに<嘘のない言葉>が書かれているからである。
それは中上が<真実を語った>ということとは、同義ではない。
また、中上が<模倣(他者の影響)>や通俗性(商業主義)と無縁だったということでもない。
彼が、書きえたもの、書き遺したものの、言葉と文体(表出)に、嘘がなかったのだと思う。
まさにぼくがそう感じるのは、中上の作品を<読む>という現在の行為においてである。
たとえば、ぼくが決して見たくないブログがある(笑)
なぜこのブログを“意識する”かといえば、そのブログがいつも“ブックマーカー・リスト”にいるからである(爆)、このひとは節操なく“どこにでもいる”。
ブックマーカー・リストを非表示にすることはできるが、この人のために他のブックマークしてくださっている方々を“非表示”にするわけにはいかない。
ぼくは<鳥男くん>にまったく“賛同”するものではないが、彼がこの“不節操ブログ”をDoblogランキングで追い抜いているのは、気分が良い(笑)
え!このブログの書き出しの話題と、この話題はどこでつながるって?
聞くだけ、野暮だよ。
たとえばこの不節操ブログの最初に(いま1年ぶりぐらいに見たのだ!)“7月のことば”というのがある。
そこにこうあった;
《愛を探すのは不可能だと言って、愛を受け付けないことはやめなさい。
愛を受け取る最短の方法は愛を与えることである。
愛を失う最短の方法はそれにあまりにもしがみつくことである。
愛を保つ最善の方法は、愛に羽を与えることである。》
このひとは<伝道師>を気取っているのであろうか(笑)
ぼくはあらゆる<説教>が嫌いである。
説教するとき、ひとは、なにも考えていない。
また、説教を聞く人はなにも考えられない。
しかしなによりも嫌なのは、そこに<嘘のない言葉>への感性が決定的に<ない>ことである。
それは中上が<真実を語った>ということとは、同義ではない。
また、中上が<模倣(他者の影響)>や通俗性(商業主義)と無縁だったということでもない。
彼が、書きえたもの、書き遺したものの、言葉と文体(表出)に、嘘がなかったのだと思う。
まさにぼくがそう感じるのは、中上の作品を<読む>という現在の行為においてである。
たとえば、ぼくが決して見たくないブログがある(笑)
なぜこのブログを“意識する”かといえば、そのブログがいつも“ブックマーカー・リスト”にいるからである(爆)、このひとは節操なく“どこにでもいる”。
ブックマーカー・リストを非表示にすることはできるが、この人のために他のブックマークしてくださっている方々を“非表示”にするわけにはいかない。
ぼくは<鳥男くん>にまったく“賛同”するものではないが、彼がこの“不節操ブログ”をDoblogランキングで追い抜いているのは、気分が良い(笑)
え!このブログの書き出しの話題と、この話題はどこでつながるって?
聞くだけ、野暮だよ。
たとえばこの不節操ブログの最初に(いま1年ぶりぐらいに見たのだ!)“7月のことば”というのがある。
そこにこうあった;
《愛を探すのは不可能だと言って、愛を受け付けないことはやめなさい。
愛を受け取る最短の方法は愛を与えることである。
愛を失う最短の方法はそれにあまりにもしがみつくことである。
愛を保つ最善の方法は、愛に羽を与えることである。》
このひとは<伝道師>を気取っているのであろうか(笑)
ぼくはあらゆる<説教>が嫌いである。
説教するとき、ひとは、なにも考えていない。
また、説教を聞く人はなにも考えられない。
しかしなによりも嫌なのは、そこに<嘘のない言葉>への感性が決定的に<ない>ことである。
[ 10:42 ]
[ 日記 ]
ぼくの<問い>は、こうである。
“あなたは自分の知りたいことだけを知りたいのだろうか?”
それとも、
“自分がいままで知らなかったことを知りたいのだろうか?”
この<知ること>への問いは、日々のニュースから、この世界や社会、人間の本質の探求にもかかわっている。
つまりぼくにとって<知ること>への<態度>はひとつであると思える。
たとえば日々報道される<事件>について、われわれは何を知るのか。
何を“知ろうとする”のか。
<川口父刺殺>「父親が家族を殺す夢を見て」…長女供述 7月20日21時26分配信 毎日新聞
埼玉県川口市で私立中3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、長女が20日までの県警武南署の調べに対し、「寝ている時に父親が家族を殺す夢を見て、父親を殺そうと思いついた」などと供述していることが分かった。県警は、衝動的な事件の可能性があるとみて、長女が通う中学の関係者らから事情を聴き、動機の解明を進めている。
同署は同日午前、長女を殺人容疑でさいたま地検へ送検。地検の請求で10日間の拘置が認められた。また、同署は現場の自宅マンションを殺人容疑で捜索し、長女の日記や携帯電話など十数点を押収した。これまでの調べに対して長女は「勉強しろと言われることが煩わしかった」と供述。母親(49)は「ちゃんと勉強しなさいとは言ってきたが、普通の家庭と同じだと思う」と話しているという。また、事件前日、長女は中学で追試を受ける予定だったが欠席した。母親は「休日だと思っていた」と話しており、長女が追試のことを両親に隠していた可能性もあるという。
長女は19日午前3時ごろ、自宅マンションの寝室で寝ていた父親の胸などを包丁で刺し、失血死させた疑いが持たれている。胸の傷は肺まで達していた。【浅野翔太郎】
上記の記事であなたは、なにかを<知った>であろうか。
現在の事件報道には明確な<壁>がある。
“警察発表しか書かない=書けない”という壁である。
この記事には非常に奇妙な表現がある;
《県警は、衝動的な事件の可能性があるとみて、長女が通う中学の関係者らから事情を聴き、動機の解明を進めている》
いったい《衝動的な事件の可能性がある》とは何を意味するのか。
マスメディアは、いつもいつもこのような“奥歯に物がはさまった”ような言い方を続ける。
だからぼくのマスメディアに対する問いはこうである。
“あなたがたは、事件の真相(真の事実)が<分かった>なら、それを報道するんですか?”
真相に迫らないニュースなど、いくら報道されても、クソの役にもたたない。
<事件報道>に限らないのである。
なにも“知らない”、<物知り>だけが、はびこる。
<井戸端会議おばさん>が。
“あなたは自分の知りたいことだけを知りたいのだろうか?”
それとも、
“自分がいままで知らなかったことを知りたいのだろうか?”
この<知ること>への問いは、日々のニュースから、この世界や社会、人間の本質の探求にもかかわっている。
つまりぼくにとって<知ること>への<態度>はひとつであると思える。
たとえば日々報道される<事件>について、われわれは何を知るのか。
何を“知ろうとする”のか。
<川口父刺殺>「父親が家族を殺す夢を見て」…長女供述 7月20日21時26分配信 毎日新聞
埼玉県川口市で私立中3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、長女が20日までの県警武南署の調べに対し、「寝ている時に父親が家族を殺す夢を見て、父親を殺そうと思いついた」などと供述していることが分かった。県警は、衝動的な事件の可能性があるとみて、長女が通う中学の関係者らから事情を聴き、動機の解明を進めている。
同署は同日午前、長女を殺人容疑でさいたま地検へ送検。地検の請求で10日間の拘置が認められた。また、同署は現場の自宅マンションを殺人容疑で捜索し、長女の日記や携帯電話など十数点を押収した。これまでの調べに対して長女は「勉強しろと言われることが煩わしかった」と供述。母親(49)は「ちゃんと勉強しなさいとは言ってきたが、普通の家庭と同じだと思う」と話しているという。また、事件前日、長女は中学で追試を受ける予定だったが欠席した。母親は「休日だと思っていた」と話しており、長女が追試のことを両親に隠していた可能性もあるという。
長女は19日午前3時ごろ、自宅マンションの寝室で寝ていた父親の胸などを包丁で刺し、失血死させた疑いが持たれている。胸の傷は肺まで達していた。【浅野翔太郎】
上記の記事であなたは、なにかを<知った>であろうか。
現在の事件報道には明確な<壁>がある。
“警察発表しか書かない=書けない”という壁である。
この記事には非常に奇妙な表現がある;
《県警は、衝動的な事件の可能性があるとみて、長女が通う中学の関係者らから事情を聴き、動機の解明を進めている》
いったい《衝動的な事件の可能性がある》とは何を意味するのか。
マスメディアは、いつもいつもこのような“奥歯に物がはさまった”ような言い方を続ける。
だからぼくのマスメディアに対する問いはこうである。
“あなたがたは、事件の真相(真の事実)が<分かった>なら、それを報道するんですか?”
真相に迫らないニュースなど、いくら報道されても、クソの役にもたたない。
<事件報道>に限らないのである。
なにも“知らない”、<物知り>だけが、はびこる。
<井戸端会議おばさん>が。
[ 10:11 ]
[ 日記 ]
“非国民通信”が長文の力作ブログを書いている。
タイトルは<不寛容に寛容な国>である。
“現在の状況”への非常に的確な<批判>になっていると感じた。
ぼく自身は、<不寛容に寛容な人々>を<おばさん>と呼んでいる。
ぼくにとってポイントと思われる点を引用する;
★例えば、この日本の社会はどうでしょうか? 人種差別や歴史修正主義、その他諸々のヘイトスピーチや些細なことで人を咎め立てることに対してこれほど寛容な国はなかなかありません。しかしその結果は? 日本は寛容な社会でしょうか? 不寛容に対して寛容である結果としてどこに行き着いたか、それは真摯に受け止める必要があります。
★「君の意見には反対だ、だが君がその意見を言う権利は死んでも守る」 そんな言葉もあります。これだけ聞いてみると名言にもなるでしょう。ですが、それも時と場合によりけりです。「偏見と憎悪を煽る言動には反対だ、だが君が偏見と憎悪を煽る権利は死んでも守る」などと暗に語っている人がいたら、その人はもはや寛容ではありません。筋金入りの馬鹿であるか、強い方に尻尾を振ろうとする日和見主義者であるかのどちらかです。たとえその人自身が先頭に立ってヘイトスピーチを繰り返さなかったとしても、決して免責されるものではありません。
★ところが、諸々の要因から寛容であったはずの人々が不寛容に対して寛容に振る舞い、不寛容への変更に荷担してしまいます。よくあるケースの一つは、安易な共闘志向と言うべきでしょうか、大まかな目的の面で連携できるかに見える人と「共闘」するために、その人と対立する部分を引っ込めてしまう、相手の不寛容な部分を都合良くスルーしてしまう、そんな傾向です。
★具体的には「敵を同じくする連合」ですね。例えば反共産主義・反ソヴェト連邦でありさえすれば自陣営と見なし、その不寛容に目をつぶる時代がありました。反ソ反共であれば軍事独裁政権も人権弾圧も条約破棄の軍備拡張も許容してきた過去があったわけです。そして今の日本であれば「反自公政権」や「反貧困」が反共に代わる役割を担っています。何よりもまず自民党政権の打倒、このためには大同小異だと、もっともらしい言説は方々で見られます。
★ 「右と左は手を結べるか」と副題に銘打った超左翼(左翼ではないと言いたいのでしょう)マガジンこと『ロスジェネ』など、危うさを感じさせる典型的な例です。仮に「今」の段階でまともなことを主張していたとしても、です。編集長の浅尾大輔はこう語ります「ネット右翼だってオタクだって、同じ生きづらさの中で生きてるんですよ。わかりあえると思うんですよ。われわれの言葉がリアルであれば。」と。いやはや寛容なことです。でもどうでしょうか? 「リアルな言葉」に目を向けてこなかったからこそ、排外主義者や歴史修正主義者をやっているのではないでしょうか? 「言葉がリアルであればわかりあえる」のなら、人種差別や歴史修正主義なんて存在しません。リアルから目を背けて偏見にしがみついてきたからこそ今があるのです
★ リアルから目を背けて虚構や偏見にしがみつくことを選んできた人々と、どうやって「わかりあえる」つもりなのでしょうか? 少なくとも従来通りの「リアル」では通用しません。今まで通用しなかったものが、新創刊の雑誌で主張すれば通用する、そんな甘い夢を抱いているわけでもないでしょう。そこで懸念される最悪の事態は「わかりあえる」ことを目的とし、そのために「リアル」の方をねじ曲げてしまう可能性です。そして「わかりあえた」事柄が「リアル」として認定されてしまう……
★ 反・貧困や反・新自由主義では共闘できるかに見える人というのは少なからずいるわけですが、同様に少なからず排外主義者や戦前派、全体主義者もこれに含まれています。それでも、反貧困、反新自由主義で手を結ばないと多数派になれないとして、そこで決断されるのは何か? 対立している部分に目をつぶること、差別や歴史の捏造、人権無視、手段の誤りには目をつぶって、相手が受け容れやすいような「リアル」を差し出すことでしょうか? 前例から察するにその行き着く先は、国家社会主義日本労働者党にも見えますが。
★私などであれば「うるせぇ、クソして寝ろ!」と追い返してしまうような場面でも、心優しさから真剣に向き合う人もいます。どうしようもない暴論や、目の回りそうな超理論、単なるデマ、こうしたコメントにも分け隔てない態度で、何とか「理解しよう」と努める人もいます。そうした人々の「優しさ」に私は敬服しつつも、真っ当な意見とヘイトスピーチを同列に扱いかねない態度に苛立ちを感じることがあります。そんな優しい人への私からのメッセージの一つがこちら(過去ログにリンクが張ってある)ですが、ともあれこのパターンにもまた危うさを感じるわけです。
★あらゆるものを友と見なし、それに寛容であることが出来れば、理想としては素晴らしいことだと思います。しかし寛容であるためには、それに対して寛容であればもはや寛容ではいられないもの、敢えて不寛容となり退けねばならないものがあります。退けるべきか否か、そのジャッジは良い方向にも悪い方向にも向かうでしょう。ただ不寛容に対してすら寛容である、その結果として寛容であり続けることの難しさは意識されるべきです。
*全文を”非国民通信”で確認してください、リンクしてあります。
タイトルは<不寛容に寛容な国>である。
“現在の状況”への非常に的確な<批判>になっていると感じた。
ぼく自身は、<不寛容に寛容な人々>を<おばさん>と呼んでいる。
ぼくにとってポイントと思われる点を引用する;
★例えば、この日本の社会はどうでしょうか? 人種差別や歴史修正主義、その他諸々のヘイトスピーチや些細なことで人を咎め立てることに対してこれほど寛容な国はなかなかありません。しかしその結果は? 日本は寛容な社会でしょうか? 不寛容に対して寛容である結果としてどこに行き着いたか、それは真摯に受け止める必要があります。
★「君の意見には反対だ、だが君がその意見を言う権利は死んでも守る」 そんな言葉もあります。これだけ聞いてみると名言にもなるでしょう。ですが、それも時と場合によりけりです。「偏見と憎悪を煽る言動には反対だ、だが君が偏見と憎悪を煽る権利は死んでも守る」などと暗に語っている人がいたら、その人はもはや寛容ではありません。筋金入りの馬鹿であるか、強い方に尻尾を振ろうとする日和見主義者であるかのどちらかです。たとえその人自身が先頭に立ってヘイトスピーチを繰り返さなかったとしても、決して免責されるものではありません。
★ところが、諸々の要因から寛容であったはずの人々が不寛容に対して寛容に振る舞い、不寛容への変更に荷担してしまいます。よくあるケースの一つは、安易な共闘志向と言うべきでしょうか、大まかな目的の面で連携できるかに見える人と「共闘」するために、その人と対立する部分を引っ込めてしまう、相手の不寛容な部分を都合良くスルーしてしまう、そんな傾向です。
★具体的には「敵を同じくする連合」ですね。例えば反共産主義・反ソヴェト連邦でありさえすれば自陣営と見なし、その不寛容に目をつぶる時代がありました。反ソ反共であれば軍事独裁政権も人権弾圧も条約破棄の軍備拡張も許容してきた過去があったわけです。そして今の日本であれば「反自公政権」や「反貧困」が反共に代わる役割を担っています。何よりもまず自民党政権の打倒、このためには大同小異だと、もっともらしい言説は方々で見られます。
★ 「右と左は手を結べるか」と副題に銘打った超左翼(左翼ではないと言いたいのでしょう)マガジンこと『ロスジェネ』など、危うさを感じさせる典型的な例です。仮に「今」の段階でまともなことを主張していたとしても、です。編集長の浅尾大輔はこう語ります「ネット右翼だってオタクだって、同じ生きづらさの中で生きてるんですよ。わかりあえると思うんですよ。われわれの言葉がリアルであれば。」と。いやはや寛容なことです。でもどうでしょうか? 「リアルな言葉」に目を向けてこなかったからこそ、排外主義者や歴史修正主義者をやっているのではないでしょうか? 「言葉がリアルであればわかりあえる」のなら、人種差別や歴史修正主義なんて存在しません。リアルから目を背けて偏見にしがみついてきたからこそ今があるのです
★ リアルから目を背けて虚構や偏見にしがみつくことを選んできた人々と、どうやって「わかりあえる」つもりなのでしょうか? 少なくとも従来通りの「リアル」では通用しません。今まで通用しなかったものが、新創刊の雑誌で主張すれば通用する、そんな甘い夢を抱いているわけでもないでしょう。そこで懸念される最悪の事態は「わかりあえる」ことを目的とし、そのために「リアル」の方をねじ曲げてしまう可能性です。そして「わかりあえた」事柄が「リアル」として認定されてしまう……
★ 反・貧困や反・新自由主義では共闘できるかに見える人というのは少なからずいるわけですが、同様に少なからず排外主義者や戦前派、全体主義者もこれに含まれています。それでも、反貧困、反新自由主義で手を結ばないと多数派になれないとして、そこで決断されるのは何か? 対立している部分に目をつぶること、差別や歴史の捏造、人権無視、手段の誤りには目をつぶって、相手が受け容れやすいような「リアル」を差し出すことでしょうか? 前例から察するにその行き着く先は、国家社会主義日本労働者党にも見えますが。
★私などであれば「うるせぇ、クソして寝ろ!」と追い返してしまうような場面でも、心優しさから真剣に向き合う人もいます。どうしようもない暴論や、目の回りそうな超理論、単なるデマ、こうしたコメントにも分け隔てない態度で、何とか「理解しよう」と努める人もいます。そうした人々の「優しさ」に私は敬服しつつも、真っ当な意見とヘイトスピーチを同列に扱いかねない態度に苛立ちを感じることがあります。そんな優しい人への私からのメッセージの一つがこちら(過去ログにリンクが張ってある)ですが、ともあれこのパターンにもまた危うさを感じるわけです。
★あらゆるものを友と見なし、それに寛容であることが出来れば、理想としては素晴らしいことだと思います。しかし寛容であるためには、それに対して寛容であればもはや寛容ではいられないもの、敢えて不寛容となり退けねばならないものがあります。退けるべきか否か、そのジャッジは良い方向にも悪い方向にも向かうでしょう。ただ不寛容に対してすら寛容である、その結果として寛容であり続けることの難しさは意識されるべきです。
*全文を”非国民通信”で確認してください、リンクしてあります。
2008/07/20のBlog
[ 22:18 ]
[ 日記 ]
最近ぼくのブログやツナミン・ブログなどで、朝日新聞批判が繰り広げられ、ツナミンの朝日新聞購読終了宣言も出た。
しかし、ぼくも天声人語批判、朝日新聞批判の折々に書いたように、この問題は朝日新聞に固有の問題ではありえない。
もちろん<新聞>固有の問題ではありえない。
もっと影響力(衰えたとはいえ)ある<テレビ>の問題である。
またこのテレビと“大差ない”<ネット>の問題である。
現在こういうニュースが出ている;
<「記事点検されず」 毎日新聞、英文サイト検証記事掲載>アサヒコム2008年7月20日20時14分
毎日新聞社の英文サイトに不適切な英訳記事が掲載され続けた問題で、同社は20日、記事がチェックされずに掲載されていたなどとする検証記事を掲載した。内容を問題視する指摘を放置したことも明らかにし、「深刻な失態。信頼を裏切ったことを深くおわびする」と紙面で説明した。 (以下略)
このニュースがアサヒコムに出るのは初めてかもしれないが、ぼくは他でこのニュースをすでに読んでいた。
ばかばかしいほど“杜撰(ずさん)”な話なのである。
“毎日新聞よ、お前もか!”と言っている場合ではない。
その<メディア>の“思想内容”などを問う前に、もはやそのマスメディアの企業としての人的配置や組織構造、日々の実務のシステム自体の<機能>が根本的にマヒしているのではないかというぼくの疑いが、立証されつつある。
テレビ業界についても、もちろんそうである。
今日朝日朝刊“耕論”にホリプロ会長兼社長の堀義貴氏の発言がある;
《テレビの制作現場は疲弊して久しい(略)勤務時間は長くてきつく、年収が極端に低いと聞く。働くだけ働かされて中年になったらアイデアが枯渇する―。人づてにそう聞いているから、番組の作り手もいない。テレビ制作の底辺部は、ずたずたに崩れている》
《底辺部は、ずたずたに崩れている》時、その<上層部>が“健全”であることなどありえないではないか(笑)
上記の堀氏の発言は、<現状認識>である。
つまりテレビ関係者の誰の目にも明らかな認識であろう。
この認識をもとにした堀氏の<意見>には賛同しかねる。
堀氏はこう言っている;
《役所の審議会に出るような人からは「ドキュメンタリーとか、硬派の良質な番組を作ってくれ」と言われる。本当にドラマやバラエティーを見ているのかと思う。テレビの何が面白いのかに関心のない人ではないか。誰も見ないし、スポンサーはつかないだろう。視聴者ニーズ不在の番組を並べることになる》
さすが“ホリプロ社長”らしい<通俗>なご意見である。
こういう<社長>が牛耳っているから現在のテレビは《ずたずたに崩れた》のである。
ぼくは現在日本のドラマやバラエティーがまったく面白くないから、まったく見ていない。
だからぼくも《ドキュメンタリーとか、硬派の良質な番組を作ってくれ》と言いたい。
しかしこれらの番組の<内容>と<表現>は、《役所の審議会に出るような人》の<趣味>とはまったく一致しないであろう。
堀氏は《テレビを良くするのも、悪くするのも視聴者だ》と言っている。
こういう<発言>こそ、われわれ視聴者をなめきっているのだ。
自分の<悪趣味>を視聴者に押し付け、テレビ番組制作を底辺でささえ、まさに現実の<仕事>をしている人々の<創造への意欲>を精神的にも労働条件的にも奪ってきたのは、“ホリプロ”や“ヨシモト”のような<俗物根性>ではないか。
たしかに、<視聴者>の方も悪趣味である。
しかし本当に良くて面白い番組が“ジャンルを問わず”制作・放送されるなら、<視聴者>は目覚める。
そうでなければ、“マスメディアと視聴者”は仲良く<愚劣な夢の中で>心中するだけである。
しかし、ぼくも天声人語批判、朝日新聞批判の折々に書いたように、この問題は朝日新聞に固有の問題ではありえない。
もちろん<新聞>固有の問題ではありえない。
もっと影響力(衰えたとはいえ)ある<テレビ>の問題である。
またこのテレビと“大差ない”<ネット>の問題である。
現在こういうニュースが出ている;
<「記事点検されず」 毎日新聞、英文サイト検証記事掲載>アサヒコム2008年7月20日20時14分
毎日新聞社の英文サイトに不適切な英訳記事が掲載され続けた問題で、同社は20日、記事がチェックされずに掲載されていたなどとする検証記事を掲載した。内容を問題視する指摘を放置したことも明らかにし、「深刻な失態。信頼を裏切ったことを深くおわびする」と紙面で説明した。 (以下略)
このニュースがアサヒコムに出るのは初めてかもしれないが、ぼくは他でこのニュースをすでに読んでいた。
ばかばかしいほど“杜撰(ずさん)”な話なのである。
“毎日新聞よ、お前もか!”と言っている場合ではない。
その<メディア>の“思想内容”などを問う前に、もはやそのマスメディアの企業としての人的配置や組織構造、日々の実務のシステム自体の<機能>が根本的にマヒしているのではないかというぼくの疑いが、立証されつつある。
テレビ業界についても、もちろんそうである。
今日朝日朝刊“耕論”にホリプロ会長兼社長の堀義貴氏の発言がある;
《テレビの制作現場は疲弊して久しい(略)勤務時間は長くてきつく、年収が極端に低いと聞く。働くだけ働かされて中年になったらアイデアが枯渇する―。人づてにそう聞いているから、番組の作り手もいない。テレビ制作の底辺部は、ずたずたに崩れている》
《底辺部は、ずたずたに崩れている》時、その<上層部>が“健全”であることなどありえないではないか(笑)
上記の堀氏の発言は、<現状認識>である。
つまりテレビ関係者の誰の目にも明らかな認識であろう。
この認識をもとにした堀氏の<意見>には賛同しかねる。
堀氏はこう言っている;
《役所の審議会に出るような人からは「ドキュメンタリーとか、硬派の良質な番組を作ってくれ」と言われる。本当にドラマやバラエティーを見ているのかと思う。テレビの何が面白いのかに関心のない人ではないか。誰も見ないし、スポンサーはつかないだろう。視聴者ニーズ不在の番組を並べることになる》
さすが“ホリプロ社長”らしい<通俗>なご意見である。
こういう<社長>が牛耳っているから現在のテレビは《ずたずたに崩れた》のである。
ぼくは現在日本のドラマやバラエティーがまったく面白くないから、まったく見ていない。
だからぼくも《ドキュメンタリーとか、硬派の良質な番組を作ってくれ》と言いたい。
しかしこれらの番組の<内容>と<表現>は、《役所の審議会に出るような人》の<趣味>とはまったく一致しないであろう。
堀氏は《テレビを良くするのも、悪くするのも視聴者だ》と言っている。
こういう<発言>こそ、われわれ視聴者をなめきっているのだ。
自分の<悪趣味>を視聴者に押し付け、テレビ番組制作を底辺でささえ、まさに現実の<仕事>をしている人々の<創造への意欲>を精神的にも労働条件的にも奪ってきたのは、“ホリプロ”や“ヨシモト”のような<俗物根性>ではないか。
たしかに、<視聴者>の方も悪趣味である。
しかし本当に良くて面白い番組が“ジャンルを問わず”制作・放送されるなら、<視聴者>は目覚める。
そうでなければ、“マスメディアと視聴者”は仲良く<愚劣な夢の中で>心中するだけである。
