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2008/07/25のBlog
[ 07:47 ]
[ 日記 ]
今日朝日社説<無差別殺傷―この連鎖を断ち切らねば>の最後にこうある;
《教育の取り組みも必要だ。どの事件の容疑者も、刃物を向ける相手への想像力に欠け、痛みに思いが至っていない。そんな人間をこれ以上生み出さないためには、命の大切さを幼いころから時間をかけて学ばせるしかない。 親も子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向けることが大切だ》
そのとおりである(爆)
しかしぼくの疑問は、《子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向ける》べき<親>に“人間の心が育っている”か否かである。
つまりいったいどこに<人間の心>が“ある”のかという問題である。
もし、無前提にこの社説を書く人や、今日の天声人語を書く人が、自分には“想像力があり”、“命の大切さが分かっている”と思っているなら(思っているらしい)、それは単なる<虚偽>である。
こういう自分自身に対する無批判と無思考こそ、彼らが<嘆く>現実を生み出しているのだ。
犯人を憎み、被害者を哀悼することなど、誰にでもできる。
けれども、それがみずからの個人的<感情>なら許せる。
しかしこのような<マスメディア>の公共の場で、ただただ<多数の共感に>おもねっているのは、<大人としての>倫理とは思えない。
ぼくは<人間の心>が、既知でなく未知であると繰り返し述べている。
それは<絶望>ではなく、<思考>への端緒である。
そこから<すべて>は始まるのである。
<想像力>は、思考と感性の厳しいトレーニングの日々の実践からしか生まれようがない。
<注記>
天声人語は言う;
《▼「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に励み、前向きな意欲に満ちていたと聞く。不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠い人だったのに違いない》
これは“ほんやのおねえちゃん”に対する<想像力>だろうか。
断じてそうではない。
天声人語は、<ただひとりの独自の生>であった“ほんやのおねえちゃん”を自分の独断のために利用しているだけである。
《~に違いない》というのは、この筆者の<独断>である。
天声人語は<不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者>に怒るあまり、“ほんやのおねえちゃん”を過剰に美化している。
しかしこの“天声人語の怒り”は、<本物>であろうか。
これは、<文章上のレトリック>にすぎない。
何度でも言う、ここで<無視>されているのは、“ほんやのおねえちゃん”の<独自の生>である。
これは<死者を哀悼すること>とは、決定的にちがっている。
どうして“ほんやのおねえちゃん”にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間が<なかった>と天声人語は<断定>できるのであろうか?
また天声人語氏自身にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間がなかったのだろうか。
それとも天声人語氏は、そういう瞬間を経験しないほど、<めぐまれていた>か<鈍感>であったのだろうか。
《教育の取り組みも必要だ。どの事件の容疑者も、刃物を向ける相手への想像力に欠け、痛みに思いが至っていない。そんな人間をこれ以上生み出さないためには、命の大切さを幼いころから時間をかけて学ばせるしかない。 親も子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向けることが大切だ》
そのとおりである(爆)
しかしぼくの疑問は、《子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向ける》べき<親>に“人間の心が育っている”か否かである。
つまりいったいどこに<人間の心>が“ある”のかという問題である。
もし、無前提にこの社説を書く人や、今日の天声人語を書く人が、自分には“想像力があり”、“命の大切さが分かっている”と思っているなら(思っているらしい)、それは単なる<虚偽>である。
こういう自分自身に対する無批判と無思考こそ、彼らが<嘆く>現実を生み出しているのだ。
犯人を憎み、被害者を哀悼することなど、誰にでもできる。
けれども、それがみずからの個人的<感情>なら許せる。
しかしこのような<マスメディア>の公共の場で、ただただ<多数の共感に>おもねっているのは、<大人としての>倫理とは思えない。
ぼくは<人間の心>が、既知でなく未知であると繰り返し述べている。
それは<絶望>ではなく、<思考>への端緒である。
そこから<すべて>は始まるのである。
<想像力>は、思考と感性の厳しいトレーニングの日々の実践からしか生まれようがない。
<注記>
天声人語は言う;
《▼「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に励み、前向きな意欲に満ちていたと聞く。不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠い人だったのに違いない》
これは“ほんやのおねえちゃん”に対する<想像力>だろうか。
断じてそうではない。
天声人語は、<ただひとりの独自の生>であった“ほんやのおねえちゃん”を自分の独断のために利用しているだけである。
《~に違いない》というのは、この筆者の<独断>である。
天声人語は<不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者>に怒るあまり、“ほんやのおねえちゃん”を過剰に美化している。
しかしこの“天声人語の怒り”は、<本物>であろうか。
これは、<文章上のレトリック>にすぎない。
何度でも言う、ここで<無視>されているのは、“ほんやのおねえちゃん”の<独自の生>である。
これは<死者を哀悼すること>とは、決定的にちがっている。
どうして“ほんやのおねえちゃん”にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間が<なかった>と天声人語は<断定>できるのであろうか?
また天声人語氏自身にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間がなかったのだろうか。
それとも天声人語氏は、そういう瞬間を経験しないほど、<めぐまれていた>か<鈍感>であったのだろうか。
2008/07/24のBlog
[ 11:29 ]
[ 日記 ]
先日ユーチューブからいくつかのビデオクリップを選んで貼り付けたが、分散したため、現時点で<自分が見たいもの>をさらに厳選し、まとめて貼り付ける。
★Janis Joplin Monterey
★Robert Palmer - Addicted To Love
★Rory Gallagher - A Million Miles Away Irish Tour 1974
★Grand Funk Railroad Heartbreaker
★Bob Dylan:Alll along the watchtower1995
★Grace Jones -I've seen that face before...
★Zep:Since I've been Loving you
★Peter Gabriel - Here Comes The Flood
★HUMBLE PIE - C'mon Everybody (1974)
★Don't let me down
★U2 :One
★Jimi Hendrix - Improvisation at Woodstock 1969
★Janis Joplin Monterey
★Robert Palmer - Addicted To Love
★Rory Gallagher - A Million Miles Away Irish Tour 1974
★Grand Funk Railroad Heartbreaker
★Bob Dylan:Alll along the watchtower1995
★Grace Jones -I've seen that face before...
★Zep:Since I've been Loving you
★Peter Gabriel - Here Comes The Flood
★HUMBLE PIE - C'mon Everybody (1974)
★Don't let me down
★U2 :One
★Jimi Hendrix - Improvisation at Woodstock 1969
[ 09:53 ]
[ 日記 ]
ぼくは、空の写真が好きである、雲の写真というべきか。
ぼくは、夕方の光が好きである。
ぼくは、雨の日の写真が、樹木の写真が好きである。
ぼくは、真昼の光、この夏の光、冬の光が好きである。
ぼくは、光が透過する花びらの写真が好きである。
ぼくは、特に白い花の写真が好きである。
あなたも、好きか?
ぼくは、撮れなかった写真が好きである。
それは、深夜の大都会の街路である。
あるいは、霧につつまれた高原の村である。
あるいは嵐のあとの早朝の海辺でも、砂漠に向かう道でもよい。
あるいは、ぼくの心の底にあり、夢の中で、ちらっとかいま見るあなたの顔である。
顔、肉、あなたの肉と水を持った存在のボリュームであり、それはペラペラの写真には決して撮れないものである。
だから、ぼくは意地になって、ペラペラの写真を、撮る、のである。
ぼくの生まれなかった娘へ。
ぼくは、夕方の光が好きである。
ぼくは、雨の日の写真が、樹木の写真が好きである。
ぼくは、真昼の光、この夏の光、冬の光が好きである。
ぼくは、光が透過する花びらの写真が好きである。
ぼくは、特に白い花の写真が好きである。
あなたも、好きか?
ぼくは、撮れなかった写真が好きである。
それは、深夜の大都会の街路である。
あるいは、霧につつまれた高原の村である。
あるいは嵐のあとの早朝の海辺でも、砂漠に向かう道でもよい。
あるいは、ぼくの心の底にあり、夢の中で、ちらっとかいま見るあなたの顔である。
顔、肉、あなたの肉と水を持った存在のボリュームであり、それはペラペラの写真には決して撮れないものである。
だから、ぼくは意地になって、ペラペラの写真を、撮る、のである。
ぼくの生まれなかった娘へ。
[ 07:45 ]
[ 日記 ]
今日の読売新聞社説<無差別殺傷 繰り返される身勝手な凶行>後半部;
《秋葉原事件では、若者の不安定雇用や格差社会と結びつけた主張もあった。だが、いつの社会にも格差はあり、厳しい就職難の時代もあった。どんな理由であっても正当化の余地はない。
不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが、自らの努力不足や忍耐不足を省みず、他人や社会が悪いといった責任転嫁の風潮が強まっていないか。
最高裁は今月11日、山口県のJR下関駅で9年前に起きた殺傷事件の被告に対し、「落ち度のない通行人らを無差別に襲った犯行は極めて悪質で酌量の余地はない」として死刑を言い渡した。
平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべきだ。それでこそ遺族の納得も得られる。
今年上半期の殺人の発生件数は649件で、昨年同期より10%増えた。4年連続で減少傾向にあっただけに、気がかりな数字だ。
埼玉県川口市では中学3年の長女が父親を刺殺するなど、子供が突然、親に襲いかかる家庭内の事件も多発している。
暮らしを通じて自然と善悪のけじめを身につけ、自立する力を養っていく。遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
これを書いているひとは、なにかを<言った気になっている>のだろうか。
《どんな理由であっても正当化の余地はない》とか言っているが、だれが<正当化>しているのだろうか?
誰もしていないし、<ぼく>もしていない。
誰もが<正当化していない>ことを、気張って“否定”しても、しょうもないではないか。
《不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが》とおっしゃることが、<現実に>改善されてないことが問題なのである。
《平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべき》だと<死刑>判決の実例を挙げるわけだが、いくら死刑にしても犯罪がなくならないことについては、この論説委員はどう考えるのだろうか。
《遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
という文章の“語尾=・・・・・・考えてみたい”というのは、どういう<意味>であろうか。
ぼくはこういう<不正確な日本語>を使う人にイライラするのである。
“・・・・・・考えてみたい”というのは、これからの意志であろうか。
なぜこの社説で<考え>ないのだろうか(爆)
このひとはいつもいつも、<考えること>を将来に“先送り”するのであろうか。
それは<現在において考えない>という態度表明ではないか。
《秋葉原事件では、若者の不安定雇用や格差社会と結びつけた主張もあった。だが、いつの社会にも格差はあり、厳しい就職難の時代もあった。どんな理由であっても正当化の余地はない。
不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが、自らの努力不足や忍耐不足を省みず、他人や社会が悪いといった責任転嫁の風潮が強まっていないか。
最高裁は今月11日、山口県のJR下関駅で9年前に起きた殺傷事件の被告に対し、「落ち度のない通行人らを無差別に襲った犯行は極めて悪質で酌量の余地はない」として死刑を言い渡した。
平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべきだ。それでこそ遺族の納得も得られる。
今年上半期の殺人の発生件数は649件で、昨年同期より10%増えた。4年連続で減少傾向にあっただけに、気がかりな数字だ。
埼玉県川口市では中学3年の長女が父親を刺殺するなど、子供が突然、親に襲いかかる家庭内の事件も多発している。
暮らしを通じて自然と善悪のけじめを身につけ、自立する力を養っていく。遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
これを書いているひとは、なにかを<言った気になっている>のだろうか。
《どんな理由であっても正当化の余地はない》とか言っているが、だれが<正当化>しているのだろうか?
誰もしていないし、<ぼく>もしていない。
誰もが<正当化していない>ことを、気張って“否定”しても、しょうもないではないか。
《不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが》とおっしゃることが、<現実に>改善されてないことが問題なのである。
《平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべき》だと<死刑>判決の実例を挙げるわけだが、いくら死刑にしても犯罪がなくならないことについては、この論説委員はどう考えるのだろうか。
《遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
という文章の“語尾=・・・・・・考えてみたい”というのは、どういう<意味>であろうか。
ぼくはこういう<不正確な日本語>を使う人にイライラするのである。
“・・・・・・考えてみたい”というのは、これからの意志であろうか。
なぜこの社説で<考え>ないのだろうか(爆)
このひとはいつもいつも、<考えること>を将来に“先送り”するのであろうか。
それは<現在において考えない>という態度表明ではないか。
[ 06:12 ]
[ 日記 ]
単純な事実というものがある。
“日本人は詮索好き”だといわれるが、本当にそうか?
たとえばぼくは“33年3ヶ月”サラリーマンだった“キャリアを持つ。
だがサラーリーマンを離脱したこの5年数ヶ月、“あなたはどんなお仕事をしていたんですか?”という質問をされたことがない(笑)
現在のぼくは、いつもジーンズにTシャツ姿である。
ぼくに“会う”ひとは、<現在のぼく>が、過去もずっと続いていたと思うのであろうか?!
それとも、“ぶしつけな質問はしない”という日本人独特の!<思いやり>であろうか?
いやいや、“彼ら”<注>は、単に他人に関心がないだけである(爆)
<注>
みんな、いいひとである(笑)
<追記>
それなら、“彼等”は<現在のぼく>に関心を持っているのだろうか。
ぼくは近年、“妻がパーキンソン病である(ず~っと)”ということを<公言>している(昔はそうでなかった)
また、“ブログを書いている”と公言している(だが、アドレスは教えない;爆、しかしただひとりだが自ら“発見”した人もいる;また“お仕事”よろしく!)
しかし、<このこと>について質問されたこともほとんどない。
昨日ある講習の“先生”との講義前の雑談のなかで、“昨年、妻とヨーロッパのパーキンソン患者・関係者集会に北イタリアへ行った”と話した。
ぼくとしては、ただの“話題”であったが、講義を終えた先生が、“warmgunさん、昨年<イタリアへ行ったこと>を話してください”と言った。
時間もなく、ぼくは人前で話すのが苦手なので、一言、二言述べただけだが、内心うれしかった。
つまり、“こういうこと”が、ぼくの“業界でさえ”ないのである。
しかし、もちろん、こういう<他者への無関心>というのは、“相互関係”(お互いさま)であろう。
けれども、<ぼく>が、このような<関係>しかない<世間>を信用しないことには(観念論ではない)<根拠がある>ことを実証するために、あえて<自分の体験>を書いた。
“日本人は詮索好き”だといわれるが、本当にそうか?
たとえばぼくは“33年3ヶ月”サラリーマンだった“キャリアを持つ。
だがサラーリーマンを離脱したこの5年数ヶ月、“あなたはどんなお仕事をしていたんですか?”という質問をされたことがない(笑)
現在のぼくは、いつもジーンズにTシャツ姿である。
ぼくに“会う”ひとは、<現在のぼく>が、過去もずっと続いていたと思うのであろうか?!
それとも、“ぶしつけな質問はしない”という日本人独特の!<思いやり>であろうか?
いやいや、“彼ら”<注>は、単に他人に関心がないだけである(爆)
<注>
みんな、いいひとである(笑)
<追記>
それなら、“彼等”は<現在のぼく>に関心を持っているのだろうか。
ぼくは近年、“妻がパーキンソン病である(ず~っと)”ということを<公言>している(昔はそうでなかった)
また、“ブログを書いている”と公言している(だが、アドレスは教えない;爆、しかしただひとりだが自ら“発見”した人もいる;また“お仕事”よろしく!)
しかし、<このこと>について質問されたこともほとんどない。
昨日ある講習の“先生”との講義前の雑談のなかで、“昨年、妻とヨーロッパのパーキンソン患者・関係者集会に北イタリアへ行った”と話した。
ぼくとしては、ただの“話題”であったが、講義を終えた先生が、“warmgunさん、昨年<イタリアへ行ったこと>を話してください”と言った。
時間もなく、ぼくは人前で話すのが苦手なので、一言、二言述べただけだが、内心うれしかった。
つまり、“こういうこと”が、ぼくの“業界でさえ”ないのである。
しかし、もちろん、こういう<他者への無関心>というのは、“相互関係”(お互いさま)であろう。
けれども、<ぼく>が、このような<関係>しかない<世間>を信用しないことには(観念論ではない)<根拠がある>ことを実証するために、あえて<自分の体験>を書いた。
[ 05:18 ]
[ 日記 ]
日々のニュースを見て、それに対してなにか<意見>を書かなくてはならないと思うのは、ブログを書き始めてからの悪い習慣ではないだろうか。
つまりブログを書くまでは、いちいち<ニュース>に意見や感想を持っていたのだろうか。
けれども、いわゆる<ニュース>ではなく、<自分の身辺のこと>(ほとんどどーでもいいことではないか?)を飽きずに書いているブログを見ると、そうでないことが書きたくなるわけである。
“徒然なるままに、独り言を書く”というような、<謙虚な態度>は、実は、<書くこと>を舐めているのではないだろうか。
過去にも<そういうこと>を掲げて色々<書いた>ひともいたわけだが、彼らは、決して<どーでもいいこと>を書こうとしたわけではない。
たぶん<彼等>は、<世間>とはちがう事を書こうとしたのだ。
ここでの<世間と自分との距離>の認識こそ、決定的であった。
なんとか<世間の一員になるため>に書いているひととは、雲泥の差なのである。
《雲泥》というのは上品な言葉であるが、<味噌と糞>の差であると言うべきである。
たぶんぼくが<批判>している“マスメディアの言説”というものが、<世間>であるのは(世間でしかないのは)、“理の当然”である。
つまり<マスメディア>こそが、<世間>である。
そこでは事件をおこした中学生が所属していた学校の校長が“親は皆さん愛してる”などとの愚劣な言葉を“言わなければならない”のである。
こういう“言葉”に、<寒気>を感じないないなら、あなたは立派な“おばさん=おじさん”であり、世間から排除される恐れはない。
安泰である。
アンタイ!!
かくして、<言葉>に対する<鈍感>は、見えない皮下脂肪のように日々堆積してゆくのであった。
たぶん、<個々の問題>などはないのである。
すべては<人間>がやっていることなのである。
<政治家>や<官僚>が腐敗しているのでも、馬鹿なのでもない。
もし<政治家や官僚が腐敗している>なら、われわれ全員が腐敗している。
もし“気狂いが刃物を振って”いるなら、われわれ全員が<気狂い>ではないか。
まあ<程度の差>があるらしいのである(爆)
“だから”、<論理>は求められる。
<倫理>が求められる。
<学>が求められる。
しかしこの<学>が捉え損ねてきたものがある。
<学>とは、“哲学”、“自然科学”、“人文諸科学”、“文学”などと呼ばれてきたものである。
これまでのあらゆる<学>が捉え損ね、現在も直面している<テーマ>があると思える。
ぼくは、とりあえず以下のテーマを掲げる;
<性>、<病気>、<老化>である。
これをもっと“包括的に”、<暴力と権力と死>ということもできるが、ぼくは<性・病気・老化>の“具体性”において考える必要があると考える。
それらが<肉体>の問題だからである。
もちろん、“これまでのひと”も上記について考えてきた、しかし、決定的に<不充分>であるか、“彼らが考えたこと”がわれわれにまだ充分理解されていないのだ。
ぼくたちは、<なにかから逸脱したひとを正道にもどす>のではない。
もしそうなら、<そこから逸脱したもの>があらかじめ決定されていなければならない。
しかしそのような<基準=ルール>が、まさに、ない。
“そのような基準=ルールがある”と言っているのは<世間>なのであるが、この<基準>では、<日々逸脱する人々>をもはや“回収”することはできない。
ぼくはシニシズムやペシミズムを語っているのではない。
すべてのひとが、<世間>から“逸脱して”思考することを、呼びかけるだけである。
“この世間”に未来がないというより、<意味がない>ことが、決定的な<危機>である。
こう書くとき、すでに、<危機>という言葉の意味が、褪せてゆくのを感じる。
つまり現在においては、<危機>さえも<無意味>に侵食されている。
つまりブログを書くまでは、いちいち<ニュース>に意見や感想を持っていたのだろうか。
けれども、いわゆる<ニュース>ではなく、<自分の身辺のこと>(ほとんどどーでもいいことではないか?)を飽きずに書いているブログを見ると、そうでないことが書きたくなるわけである。
“徒然なるままに、独り言を書く”というような、<謙虚な態度>は、実は、<書くこと>を舐めているのではないだろうか。
過去にも<そういうこと>を掲げて色々<書いた>ひともいたわけだが、彼らは、決して<どーでもいいこと>を書こうとしたわけではない。
たぶん<彼等>は、<世間>とはちがう事を書こうとしたのだ。
ここでの<世間と自分との距離>の認識こそ、決定的であった。
なんとか<世間の一員になるため>に書いているひととは、雲泥の差なのである。
《雲泥》というのは上品な言葉であるが、<味噌と糞>の差であると言うべきである。
たぶんぼくが<批判>している“マスメディアの言説”というものが、<世間>であるのは(世間でしかないのは)、“理の当然”である。
つまり<マスメディア>こそが、<世間>である。
そこでは事件をおこした中学生が所属していた学校の校長が“親は皆さん愛してる”などとの愚劣な言葉を“言わなければならない”のである。
こういう“言葉”に、<寒気>を感じないないなら、あなたは立派な“おばさん=おじさん”であり、世間から排除される恐れはない。
安泰である。
アンタイ!!
かくして、<言葉>に対する<鈍感>は、見えない皮下脂肪のように日々堆積してゆくのであった。
たぶん、<個々の問題>などはないのである。
すべては<人間>がやっていることなのである。
<政治家>や<官僚>が腐敗しているのでも、馬鹿なのでもない。
もし<政治家や官僚が腐敗している>なら、われわれ全員が腐敗している。
もし“気狂いが刃物を振って”いるなら、われわれ全員が<気狂い>ではないか。
まあ<程度の差>があるらしいのである(爆)
“だから”、<論理>は求められる。
<倫理>が求められる。
<学>が求められる。
しかしこの<学>が捉え損ねてきたものがある。
<学>とは、“哲学”、“自然科学”、“人文諸科学”、“文学”などと呼ばれてきたものである。
これまでのあらゆる<学>が捉え損ね、現在も直面している<テーマ>があると思える。
ぼくは、とりあえず以下のテーマを掲げる;
<性>、<病気>、<老化>である。
これをもっと“包括的に”、<暴力と権力と死>ということもできるが、ぼくは<性・病気・老化>の“具体性”において考える必要があると考える。
それらが<肉体>の問題だからである。
もちろん、“これまでのひと”も上記について考えてきた、しかし、決定的に<不充分>であるか、“彼らが考えたこと”がわれわれにまだ充分理解されていないのだ。
ぼくたちは、<なにかから逸脱したひとを正道にもどす>のではない。
もしそうなら、<そこから逸脱したもの>があらかじめ決定されていなければならない。
しかしそのような<基準=ルール>が、まさに、ない。
“そのような基準=ルールがある”と言っているのは<世間>なのであるが、この<基準>では、<日々逸脱する人々>をもはや“回収”することはできない。
ぼくはシニシズムやペシミズムを語っているのではない。
すべてのひとが、<世間>から“逸脱して”思考することを、呼びかけるだけである。
“この世間”に未来がないというより、<意味がない>ことが、決定的な<危機>である。
こう書くとき、すでに、<危機>という言葉の意味が、褪せてゆくのを感じる。
つまり現在においては、<危機>さえも<無意味>に侵食されている。
2008/07/23のBlog
[ 21:08 ]
[ 日記 ]
★ 硝子戸の中から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉だの、赤い実の結った(なった)梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ目に着くが、その他にこれといって数え立てるほどのものは殆ど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
★ 私は電車の中でポケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注いでいる読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて(ならべて)紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。
★ 去年から欧州では大きな戦争が始まっている。そうして戦争が何時済むとも見当が付かない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来るべき総選挙は政治界の人々にとって大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だ不景気だと零して(こぼして)いる。年中行事でいえば、相撲が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中に凝と(じっと)坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押し退けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出てこない。ただ春に何か書いて見ろといわれたから、自分以外にあまり関係のない詰まらぬ事を書くのである。それが何時までつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯(へんしゅう)の都合とできまるのだから、判然(はっきり)した見当は今付きかねる。
<夏目漱石:『硝子戸の中』1915>
★ 私は電車の中でポケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注いでいる読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて(ならべて)紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。
★ 去年から欧州では大きな戦争が始まっている。そうして戦争が何時済むとも見当が付かない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来るべき総選挙は政治界の人々にとって大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だ不景気だと零して(こぼして)いる。年中行事でいえば、相撲が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中に凝と(じっと)坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押し退けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出てこない。ただ春に何か書いて見ろといわれたから、自分以外にあまり関係のない詰まらぬ事を書くのである。それが何時までつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯(へんしゅう)の都合とできまるのだから、判然(はっきり)した見当は今付きかねる。
<夏目漱石:『硝子戸の中』1915>
[ 07:08 ]
[ 日記 ]
今朝は、はやく起きて、天声人語ではなく、“マキノコ”を読むことからはじめた。
最近のマキノコの二つのブログを読みコメントとして以下の文を考えた;
《そうなんだと思う、ぼくにはマキノコがわからない。
だが、詩のようなもの=キイを叩く=無意味だがやめることはできない=なげやり=怖い=泣く=自堕落=わたしを突き放し綱をつけて=観察し=詩=キイを叩くという連鎖が女である、たぶん詩は誕生している、産まれている。
つまりぼくという男にとっては、ここにおいて詩と女に出会っている。
ぼくには無垢な時間はない》
これを、マキノコのコメント欄に書くか、自分のブログ(つまり、ここ)に書くか両方に書くか迷ったが(笑)、<ここ>に書くことにした。
その<判断>が正しいかどうかはわからない(笑)
たぶんこういうことに、ぼくがなぜ<こだわって>いるかを、<いぶかしむ>ひともいる。
たぶんぼくの昨朝の昨日唯一のブログを読んで、<いぶかしむ>ひともいただろう。
“なぜ、このひとはこんなにも怒るのか”と(爆)
やっぱ暑気あたりではないかと。
たしかに、そうでもある。
ぼくも<ある生理>において生きているのであり、その生理は、残念ながら<男>という存在である。
昨日のブログの<主題>は、<年齢>であった。
ぼくが天声人語を書く人々に対して、<50代のガキ>という言葉を“太字”にしたのが、昨日のブログの<テーマ>であった、つまり<偏見>がである。
だから、たぶん、ぼくにはこの“偏見”を説明する<義務>がある。
けれどもそれは、現在において<億劫>なだけでなく、そもそも億劫である。
つまりぼくは<誰にでもわること>のみを、書きたくはない。
ただひとこと言っておくと、ぼくは“生涯学習”というような<言葉>にこだわるものである。
<学習>とは、自分に未知なものを学ぶことである。
また<未知>とは、“知識”を知らないことではない。
もし<この世界>が、自分にとって未知なものでなくなっているなら、いくら“学習”しようと、<学ぶ>ことはない。
なによりも未知なのは、<自分>であり、自分の他者への<関心>である。
もしこのことに、決定的に<当惑>しないなら、学ぶことはありえない。
だからぼくは<あらゆるさかしらな言葉>が嫌いである。
自分もまたそのような言葉を使用してしまうことに、悶絶している(笑)
もし<言葉>が未知の中から生成しないなら、読むことも書くことも話すこともない。
<今日も>、仕事に行きます(爆)
<追記>
上記を書いたあと(笑)、今日の天声人語を読んだ。
天声人語氏も”しつこい”のである(笑);
▼人にせよ、風物にせよ、いつもとは違った「書物」に出会える夏休みである。心を澄まし、想像力をかきたてて、「見えない言葉」を読んでみるのもいい。思いがけない1行が、ひっそりと待ち受けているかも知れない。
ああ、そうかよ(爆)
最近のマキノコの二つのブログを読みコメントとして以下の文を考えた;
《そうなんだと思う、ぼくにはマキノコがわからない。
だが、詩のようなもの=キイを叩く=無意味だがやめることはできない=なげやり=怖い=泣く=自堕落=わたしを突き放し綱をつけて=観察し=詩=キイを叩くという連鎖が女である、たぶん詩は誕生している、産まれている。
つまりぼくという男にとっては、ここにおいて詩と女に出会っている。
ぼくには無垢な時間はない》
これを、マキノコのコメント欄に書くか、自分のブログ(つまり、ここ)に書くか両方に書くか迷ったが(笑)、<ここ>に書くことにした。
その<判断>が正しいかどうかはわからない(笑)
たぶんこういうことに、ぼくがなぜ<こだわって>いるかを、<いぶかしむ>ひともいる。
たぶんぼくの昨朝の昨日唯一のブログを読んで、<いぶかしむ>ひともいただろう。
“なぜ、このひとはこんなにも怒るのか”と(爆)
やっぱ暑気あたりではないかと。
たしかに、そうでもある。
ぼくも<ある生理>において生きているのであり、その生理は、残念ながら<男>という存在である。
昨日のブログの<主題>は、<年齢>であった。
ぼくが天声人語を書く人々に対して、<50代のガキ>という言葉を“太字”にしたのが、昨日のブログの<テーマ>であった、つまり<偏見>がである。
だから、たぶん、ぼくにはこの“偏見”を説明する<義務>がある。
けれどもそれは、現在において<億劫>なだけでなく、そもそも億劫である。
つまりぼくは<誰にでもわること>のみを、書きたくはない。
ただひとこと言っておくと、ぼくは“生涯学習”というような<言葉>にこだわるものである。
<学習>とは、自分に未知なものを学ぶことである。
また<未知>とは、“知識”を知らないことではない。
もし<この世界>が、自分にとって未知なものでなくなっているなら、いくら“学習”しようと、<学ぶ>ことはない。
なによりも未知なのは、<自分>であり、自分の他者への<関心>である。
もしこのことに、決定的に<当惑>しないなら、学ぶことはありえない。
だからぼくは<あらゆるさかしらな言葉>が嫌いである。
自分もまたそのような言葉を使用してしまうことに、悶絶している(笑)
もし<言葉>が未知の中から生成しないなら、読むことも書くことも話すこともない。
<今日も>、仕事に行きます(爆)
<追記>
上記を書いたあと(笑)、今日の天声人語を読んだ。
天声人語氏も”しつこい”のである(笑);
▼人にせよ、風物にせよ、いつもとは違った「書物」に出会える夏休みである。心を澄まし、想像力をかきたてて、「見えない言葉」を読んでみるのもいい。思いがけない1行が、ひっそりと待ち受けているかも知れない。
ああ、そうかよ(爆)
2008/07/22のBlog
[ 07:38 ]
[ 日記 ]
天声人語については、もう書くのをやめようと思っていた。
けれども今日の天声人語には怒りを感じる、引用する;
《▼博士とまではいかなくても「生涯学習」に意欲を持つ人が増えている。内閣府の先ごろの調べでは、特に60代に目立っている。退職期を迎えた「団塊の世代」が熱心なためらしい。学ぶのは楽しいし、知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう▼「わが人生という無二の書物を、どこまでも読み続けていこう」と言ったのは誰だったか。「読む」とは味わうという意味らしい。つまり人生という物語を自らつづって、自ら味わう。一線を退いた「高齢学徒」が、漱石先生も一目置くような物語を、続々とつづる世になれば面白い》
ぜんぜん《面白く》ないのである。
すくなくとも、ぼくはこれを書いている<50代のガキ>から舐められるゆわれは、ない。
だいいち、この文章は、夏目漱石に対して失礼であり(ぼくは漱石ファンではない)、もっと広く<日本の近代の先人>に対して失礼である<注>
ぼくは<生涯学習>などしようとは思っていない。
ただ本を読み、その過程で彼らから学ぶことがあったら学び、そこから自分で考えることが出てきたら、書くだけである。
その<作業>はここで“天声人語ガキ”が言っているような《知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう》などという、ボケの寝言とは“似て非なる”ものである。
“似て非なるもの”の<差異>こそが、すべてである。
それだけが<表現>である。
それだけが思考の生理としての<文体>である。
これがわからぬものには、一行の文章も書いてほしくない。
ましてや“大新聞”で、日々愚劣な醜態をさらすな。
《自分の人生の物語を自らつづる》だって!
君にはその<意味>がわかっているのか。
君こそ<天声人語>ではなく、自分の言葉で語れ。
そのためには、根本的な<自分の言葉の獲得>が必要であろう。
仕事に行きます(爆)
<追記>
天木直人氏は<政治家>について書いている;
《しかしいまの日本の政治と政治家を見ている限り、私がいつも半分冗談で、半分真剣に訴えている、すべての政党、政治家は不要である、という思いが、どんどんと膨れ上がっていく。
「この豚野郎はどいつもダメだ」(米国のカルト映画監督ジョン・ウオルター)の心境に共感を覚える。》
日本の<マスメディア>もまったく同様である。
《この豚野郎はどいつもダメだ》
<注>
<具体的>に書こう。
もし天声人語氏がこれまでに、“漱石”の文章を一度でもちゃんと<読み>、震撼させられたなら、ここでのように“漱石”の名を持ち出すことは不可能である。
この<名>が“漱石”である必要はない。
けれども、<漱石の文章>を読み得ないものに、どうして漱石以外のひとの文章が読み得ようか。
<文章>の話ではない、どうして他者の言葉を聴き得ようか?
他者の言葉を聴けない者が、どうして《自分の人生の物語を自らつづり》得ようか?
けれども今日の天声人語には怒りを感じる、引用する;
《▼博士とまではいかなくても「生涯学習」に意欲を持つ人が増えている。内閣府の先ごろの調べでは、特に60代に目立っている。退職期を迎えた「団塊の世代」が熱心なためらしい。学ぶのは楽しいし、知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう▼「わが人生という無二の書物を、どこまでも読み続けていこう」と言ったのは誰だったか。「読む」とは味わうという意味らしい。つまり人生という物語を自らつづって、自ら味わう。一線を退いた「高齢学徒」が、漱石先生も一目置くような物語を、続々とつづる世になれば面白い》
ぜんぜん《面白く》ないのである。
すくなくとも、ぼくはこれを書いている<50代のガキ>から舐められるゆわれは、ない。
だいいち、この文章は、夏目漱石に対して失礼であり(ぼくは漱石ファンではない)、もっと広く<日本の近代の先人>に対して失礼である<注>
ぼくは<生涯学習>などしようとは思っていない。
ただ本を読み、その過程で彼らから学ぶことがあったら学び、そこから自分で考えることが出てきたら、書くだけである。
その<作業>はここで“天声人語ガキ”が言っているような《知識や教養のもたらす滋味は、人生を深めてもくれるだろう》などという、ボケの寝言とは“似て非なる”ものである。
“似て非なるもの”の<差異>こそが、すべてである。
それだけが<表現>である。
それだけが思考の生理としての<文体>である。
これがわからぬものには、一行の文章も書いてほしくない。
ましてや“大新聞”で、日々愚劣な醜態をさらすな。
《自分の人生の物語を自らつづる》だって!
君にはその<意味>がわかっているのか。
君こそ<天声人語>ではなく、自分の言葉で語れ。
そのためには、根本的な<自分の言葉の獲得>が必要であろう。
仕事に行きます(爆)
<追記>
天木直人氏は<政治家>について書いている;
《しかしいまの日本の政治と政治家を見ている限り、私がいつも半分冗談で、半分真剣に訴えている、すべての政党、政治家は不要である、という思いが、どんどんと膨れ上がっていく。
「この豚野郎はどいつもダメだ」(米国のカルト映画監督ジョン・ウオルター)の心境に共感を覚える。》
日本の<マスメディア>もまったく同様である。
《この豚野郎はどいつもダメだ》
<注>
<具体的>に書こう。
もし天声人語氏がこれまでに、“漱石”の文章を一度でもちゃんと<読み>、震撼させられたなら、ここでのように“漱石”の名を持ち出すことは不可能である。
この<名>が“漱石”である必要はない。
けれども、<漱石の文章>を読み得ないものに、どうして漱石以外のひとの文章が読み得ようか。
<文章>の話ではない、どうして他者の言葉を聴き得ようか?
他者の言葉を聴けない者が、どうして《自分の人生の物語を自らつづり》得ようか?
