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2008/07/25のBlog
[ 10:09 ]
[ 日記 ]
<過去ログさらに引用>;死と言葉について
★もうひとつ過去ログを;
昨日仕事帰り、高橋睦郎詩集(現代詩文庫)を買った。
四方田犬彦『見ることの塩』扉に引用されていた詩がなんであるかが、Amazonカスタマー・レビューで判明したからであった。
私の見ることは 塩である
私の見ることには 癒しがない
視界のはるかな果てに立つ樹は 落ちる鶫(つぐみ)の群れは
痛い異物となって 眼の肉に突き刺さる
見ることへの 絶えまない渇きによって
私の眼は 内へ 円錐形に剥(そ)がれた
私の見ることは 容赦ない錐もみである
慰めの水がない 影がない
この詩は<汚れたる者はさらに汚れることをなせ>という詩集の“目の欲 あるいは 鷲の種族”という連作詩最初の「見者の不幸」という詩であった。
この連作の最初にはヨハネの第1書簡が引用されている。
私の見ることは 塩である
私の見ることには 癒しがない
を読んだとき、ぼくに浮かんだのは砂漠であった。
四方田犬彦の本が“パレスチナ・セルビア紀行”であったからでもあったが、この言葉のなかに砂漠と、空気の乾燥があった。
くっきりとものが見えてしまう世界。
湿気で視界がくもらず、頭がボーっとしない世界。
それは、ぼく及びぼくの属している世界の反対であった。
ぼくはクリスチャンではないが、前にもこのブログで荒野をさまようイエスの幻想を書いた。
もっとも貧しき土地のもっとも貧しき人々から現われた、湿り気のない言葉として。
しかし、ここで、ぼくがそういうふうに幻視すること自体が、あまったれたことでもあった。
ぼくは結局、この湿り気の多い言葉から脱することはできないし、ほんとうは脱したくもない。
ぼくは夢遊のうちにくたばりそうである。
けれども、時には、こういう、身の引き締まる言葉を聞くのはいい。
この糞湿気たくにでは。
また、わたしの見ることには限りがない。
★さらに引用;
”「私、死のことならもうなんでも知っているわよ、おじさん。いろんな臭いも全部知ってる。どうやったら苦痛を忘れさせてやれるか。いつ大静脈にモルヒネを打ってやればいいか。死ぬまえに塩水で腸を空にしてやる方法もね。あんな仕事、軍のお偉方にもやらせればいいんだわ。一人一人、全員に。川越の命令を出す人間は、看護の経験を持つ者に限るべきよ。こんな責任を押しつけて、いったい私たちをなんだと思っているの。看護婦は牧師じゃないのよ。誰も行きたがらないところへ導いてやって、おまけに苦しまないようにもしてやれ、なんて。そんな方法を、私たちがどうして知ってるっていうの。軍隊が死者のためにやってる葬式なんて、私には信じられない。あのくだらない演説!よく言えるわよ。人の死をよくあんなふうにぬけぬけと……」
”この屋敷は男ばっかり……。ハナは、むき出しの腕に口をつけ、肌の匂いをかぐ。なつかしい匂い。自分だけの味と匂い。はじめてこの匂いに気づいたのは、十代のいつ……いや、どこでだったろう。時間より場所だったように思える。自分の前腕に吸いついてキスの練習をし、手首の匂いをかぎ、かがんで腿に鼻を寄せた。両手をカップにして息を吹き込み、跳ね返ってくる自分の息をかいだりもしたっけ……。投げ出した裸足が、まだらの石の上で白く見える。ハナはその足をさすりながら、工兵が戦争中に見てきたというあちこちの石像のことを思った。あるとき、半男半女の美しい嘆きの天使像の横で眠った、と言っていた。寝ころんでその像を見上げながら、戦争中はじめて平穏な気分になれた、とも。”
<「イギリス人の患者」 ”いつか、火”>
★ さらに引用;
だからある作者の生涯は、何も教えてくれないのは事実である。しかし同時にその読み方を知っていれば、すべてを見いだすことができるのも事実である。作者の生は作品に開かれているからである。未知の動物を観察しても、こうした動物の中で働き、支配している法則は理解できないのと同じように、セザンヌを見知っていた人々の証言は、彼が出来事や経験に加えた変容を見抜いていない。彼らは彼の意味を見ることができず、瞬間ごとに彼を包み込む光、このどこからきたものでもない光を見ることができない。しかしセザンヌ自身も自らの光の中心であったことはなく、10日のうちの9日は、自分の周囲にその経験的な生の悲惨さと、失敗に終わった試みと、未知の祝祭の残り物しか見出さなかった。セザンヌは相変わらず世界において、キャンバスの上に、色彩を使って、自分の自由を実現しなければならなかった。彼は自分に価値があるという証拠を、他者と他者による同意に求めざるをえなかった。彼が自分の筆の下で生まれてくる絵に疑問を抱き、他人がキャンバスに投げ掛けるまなざしを盗み見したのはそのためである。彼が制作をやめなかったのもそのためである。私たちは自分の生から離れることがない。観念も自由も、そのものを直視することはできないのである。
<モーリス・メルロ=ポンティ “セザンヌの疑い”>
★もうひとつ過去ログを;
昨日仕事帰り、高橋睦郎詩集(現代詩文庫)を買った。
四方田犬彦『見ることの塩』扉に引用されていた詩がなんであるかが、Amazonカスタマー・レビューで判明したからであった。
私の見ることは 塩である
私の見ることには 癒しがない
視界のはるかな果てに立つ樹は 落ちる鶫(つぐみ)の群れは
痛い異物となって 眼の肉に突き刺さる
見ることへの 絶えまない渇きによって
私の眼は 内へ 円錐形に剥(そ)がれた
私の見ることは 容赦ない錐もみである
慰めの水がない 影がない
この詩は<汚れたる者はさらに汚れることをなせ>という詩集の“目の欲 あるいは 鷲の種族”という連作詩最初の「見者の不幸」という詩であった。
この連作の最初にはヨハネの第1書簡が引用されている。
私の見ることは 塩である
私の見ることには 癒しがない
を読んだとき、ぼくに浮かんだのは砂漠であった。
四方田犬彦の本が“パレスチナ・セルビア紀行”であったからでもあったが、この言葉のなかに砂漠と、空気の乾燥があった。
くっきりとものが見えてしまう世界。
湿気で視界がくもらず、頭がボーっとしない世界。
それは、ぼく及びぼくの属している世界の反対であった。
ぼくはクリスチャンではないが、前にもこのブログで荒野をさまようイエスの幻想を書いた。
もっとも貧しき土地のもっとも貧しき人々から現われた、湿り気のない言葉として。
しかし、ここで、ぼくがそういうふうに幻視すること自体が、あまったれたことでもあった。
ぼくは結局、この湿り気の多い言葉から脱することはできないし、ほんとうは脱したくもない。
ぼくは夢遊のうちにくたばりそうである。
けれども、時には、こういう、身の引き締まる言葉を聞くのはいい。
この糞湿気たくにでは。
また、わたしの見ることには限りがない。
★さらに引用;
”「私、死のことならもうなんでも知っているわよ、おじさん。いろんな臭いも全部知ってる。どうやったら苦痛を忘れさせてやれるか。いつ大静脈にモルヒネを打ってやればいいか。死ぬまえに塩水で腸を空にしてやる方法もね。あんな仕事、軍のお偉方にもやらせればいいんだわ。一人一人、全員に。川越の命令を出す人間は、看護の経験を持つ者に限るべきよ。こんな責任を押しつけて、いったい私たちをなんだと思っているの。看護婦は牧師じゃないのよ。誰も行きたがらないところへ導いてやって、おまけに苦しまないようにもしてやれ、なんて。そんな方法を、私たちがどうして知ってるっていうの。軍隊が死者のためにやってる葬式なんて、私には信じられない。あのくだらない演説!よく言えるわよ。人の死をよくあんなふうにぬけぬけと……」
”この屋敷は男ばっかり……。ハナは、むき出しの腕に口をつけ、肌の匂いをかぐ。なつかしい匂い。自分だけの味と匂い。はじめてこの匂いに気づいたのは、十代のいつ……いや、どこでだったろう。時間より場所だったように思える。自分の前腕に吸いついてキスの練習をし、手首の匂いをかぎ、かがんで腿に鼻を寄せた。両手をカップにして息を吹き込み、跳ね返ってくる自分の息をかいだりもしたっけ……。投げ出した裸足が、まだらの石の上で白く見える。ハナはその足をさすりながら、工兵が戦争中に見てきたというあちこちの石像のことを思った。あるとき、半男半女の美しい嘆きの天使像の横で眠った、と言っていた。寝ころんでその像を見上げながら、戦争中はじめて平穏な気分になれた、とも。”
<「イギリス人の患者」 ”いつか、火”>
★ さらに引用;
だからある作者の生涯は、何も教えてくれないのは事実である。しかし同時にその読み方を知っていれば、すべてを見いだすことができるのも事実である。作者の生は作品に開かれているからである。未知の動物を観察しても、こうした動物の中で働き、支配している法則は理解できないのと同じように、セザンヌを見知っていた人々の証言は、彼が出来事や経験に加えた変容を見抜いていない。彼らは彼の意味を見ることができず、瞬間ごとに彼を包み込む光、このどこからきたものでもない光を見ることができない。しかしセザンヌ自身も自らの光の中心であったことはなく、10日のうちの9日は、自分の周囲にその経験的な生の悲惨さと、失敗に終わった試みと、未知の祝祭の残り物しか見出さなかった。セザンヌは相変わらず世界において、キャンバスの上に、色彩を使って、自分の自由を実現しなければならなかった。彼は自分に価値があるという証拠を、他者と他者による同意に求めざるをえなかった。彼が自分の筆の下で生まれてくる絵に疑問を抱き、他人がキャンバスに投げ掛けるまなざしを盗み見したのはそのためである。彼が制作をやめなかったのもそのためである。私たちは自分の生から離れることがない。観念も自由も、そのものを直視することはできないのである。
<モーリス・メルロ=ポンティ “セザンヌの疑い”>
[ 09:56 ]
[ 日記 ]
夏休みの読書に向かって、自分に気合を入れるために、昔書いたブログ(引用のみ=四方田による中上)を貼り付ける;
★
語りえない
1992年、信濃町の病院を訪れたわたしにむかって、中上健次は秋幸のその後の物語を書く構想をはっきりと語り、台湾への取材旅行を計画しているという。わたしはもう彼にはいくばくもの時間が残されていないことを直感する。いったい彼が現在進行形のこと以外を語ったためしがあっただろうか。過去や、あるいは未来に言及したことがあっただろうか。秋幸はもう一度路地に帰ってくるのだ、と中上は宣言する。だがわたしは、この断言ゆえにそれがもはやありえないことを確信する。
★
服喪2
ある作家の書き遺したものを読むことは、彼が眺めた風景を眺めたり、彼が聴いた音楽をもう一度聴いてみることと、どのように違う行為なのだろうか。ソウルの市場の喧騒。熊野の夜の闇。羽田飛行場。アルバート・アイラー。サムルノリ。死者について語ることが必要な時というものがある。だが、それはいつまでも続かない。あるとき、もはや死者に向き合ってではなく、死者の傍らに並びながら語ることが求められることになるのだ。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 中上健次の生涯”>
★
中上健次はこうした文体の錬金術に充分自覚的であった。彼がジェイムズ・ジョイスを語り、ジョン・コルトレンに言及するとき、そこで語られていたのはけっして隠喩としての音楽などではなく、現実に発話行為の根底にある音楽の物質性であり、リズムであり、即興演奏だけが提示することができるモラルであった。
★
こうした文体の実験の背後に、声の人であった中上を想定することは可能であるし、また正当でもある。だが同時にその背後に、密林の蔦のように絡まりあうエクリチュールの文様を思い浮かべることは、さらに正当なことではないかとわたしは考えている。改行どころか、句点も読点もなく、構文の秩序も、動作の主体の論理的一致も置去りにしたまま、どこまでも終わることなく書き続けられる文。おそらくそれは通常の400字詰め原稿用紙からはけっして生れることのなかった、異常な文のあり方であろう。中上健次があるときみずから選択した集計用紙という、けっしてこれまで文学的実践には用いられることのなかった用紙が、それを可能にした。文学が文様でもあり同時に声でもあること。書くことが織りこむことであると同時に、織り解いてゆくことでもあること。中上健次は一見矛盾するかのように見えるこうした作業を、生涯にわたって実践し続けた。「何の変哲もない」集計用紙の束を通して世界の文様を精密に写しとったばかりではない。みずからが謎めいた、巨大な文様であることを、身をもって生きたのである。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 声と文様”>
★
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”>
★
語りえない
1992年、信濃町の病院を訪れたわたしにむかって、中上健次は秋幸のその後の物語を書く構想をはっきりと語り、台湾への取材旅行を計画しているという。わたしはもう彼にはいくばくもの時間が残されていないことを直感する。いったい彼が現在進行形のこと以外を語ったためしがあっただろうか。過去や、あるいは未来に言及したことがあっただろうか。秋幸はもう一度路地に帰ってくるのだ、と中上は宣言する。だがわたしは、この断言ゆえにそれがもはやありえないことを確信する。
★
服喪2
ある作家の書き遺したものを読むことは、彼が眺めた風景を眺めたり、彼が聴いた音楽をもう一度聴いてみることと、どのように違う行為なのだろうか。ソウルの市場の喧騒。熊野の夜の闇。羽田飛行場。アルバート・アイラー。サムルノリ。死者について語ることが必要な時というものがある。だが、それはいつまでも続かない。あるとき、もはや死者に向き合ってではなく、死者の傍らに並びながら語ることが求められることになるのだ。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 中上健次の生涯”>
★
中上健次はこうした文体の錬金術に充分自覚的であった。彼がジェイムズ・ジョイスを語り、ジョン・コルトレンに言及するとき、そこで語られていたのはけっして隠喩としての音楽などではなく、現実に発話行為の根底にある音楽の物質性であり、リズムであり、即興演奏だけが提示することができるモラルであった。
★
こうした文体の実験の背後に、声の人であった中上を想定することは可能であるし、また正当でもある。だが同時にその背後に、密林の蔦のように絡まりあうエクリチュールの文様を思い浮かべることは、さらに正当なことではないかとわたしは考えている。改行どころか、句点も読点もなく、構文の秩序も、動作の主体の論理的一致も置去りにしたまま、どこまでも終わることなく書き続けられる文。おそらくそれは通常の400字詰め原稿用紙からはけっして生れることのなかった、異常な文のあり方であろう。中上健次があるときみずから選択した集計用紙という、けっしてこれまで文学的実践には用いられることのなかった用紙が、それを可能にした。文学が文様でもあり同時に声でもあること。書くことが織りこむことであると同時に、織り解いてゆくことでもあること。中上健次は一見矛盾するかのように見えるこうした作業を、生涯にわたって実践し続けた。「何の変哲もない」集計用紙の束を通して世界の文様を精密に写しとったばかりではない。みずからが謎めいた、巨大な文様であることを、身をもって生きたのである。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 声と文様”>
★
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”>
[ 07:47 ]
[ 日記 ]
今日朝日社説<無差別殺傷―この連鎖を断ち切らねば>の最後にこうある;
《教育の取り組みも必要だ。どの事件の容疑者も、刃物を向ける相手への想像力に欠け、痛みに思いが至っていない。そんな人間をこれ以上生み出さないためには、命の大切さを幼いころから時間をかけて学ばせるしかない。 親も子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向けることが大切だ》
そのとおりである(爆)
しかしぼくの疑問は、《子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向ける》べき<親>に“人間の心が育っている”か否かである。
つまりいったいどこに<人間の心>が“ある”のかという問題である。
もし、無前提にこの社説を書く人や、今日の天声人語を書く人が、自分には“想像力があり”、“命の大切さが分かっている”と思っているなら(思っているらしい)、それは単なる<虚偽>である。
こういう自分自身に対する無批判と無思考こそ、彼らが<嘆く>現実を生み出しているのだ。
犯人を憎み、被害者を哀悼することなど、誰にでもできる。
けれども、それがみずからの個人的<感情>なら許せる。
しかしこのような<マスメディア>の公共の場で、ただただ<多数の共感に>おもねっているのは、<大人としての>倫理とは思えない。
ぼくは<人間の心>が、既知でなく未知であると繰り返し述べている。
それは<絶望>ではなく、<思考>への端緒である。
そこから<すべて>は始まるのである。
<想像力>は、思考と感性の厳しいトレーニングの日々の実践からしか生まれようがない。
<注記>
天声人語は言う;
《▼「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に励み、前向きな意欲に満ちていたと聞く。不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠い人だったのに違いない》
これは“ほんやのおねえちゃん”に対する<想像力>だろうか。
断じてそうではない。
天声人語は、<ただひとりの独自の生>であった“ほんやのおねえちゃん”を自分の独断のために利用しているだけである。
《~に違いない》というのは、この筆者の<独断>である。
天声人語は<不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者>に怒るあまり、“ほんやのおねえちゃん”を過剰に美化している。
しかしこの“天声人語の怒り”は、<本物>であろうか。
これは、<文章上のレトリック>にすぎない。
何度でも言う、ここで<無視>されているのは、“ほんやのおねえちゃん”の<独自の生>である。
これは<死者を哀悼すること>とは、決定的にちがっている。
どうして“ほんやのおねえちゃん”にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間が<なかった>と天声人語は<断定>できるのであろうか?
また天声人語氏自身にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間がなかったのだろうか。
それとも天声人語氏は、そういう瞬間を経験しないほど、<めぐまれていた>か<鈍感>であったのだろうか。
《教育の取り組みも必要だ。どの事件の容疑者も、刃物を向ける相手への想像力に欠け、痛みに思いが至っていない。そんな人間をこれ以上生み出さないためには、命の大切さを幼いころから時間をかけて学ばせるしかない。 親も子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向けることが大切だ》
そのとおりである(爆)
しかしぼくの疑問は、《子どもの成績ばかりでなく、人間としての心が育っているかどうかに目を向ける》べき<親>に“人間の心が育っている”か否かである。
つまりいったいどこに<人間の心>が“ある”のかという問題である。
もし、無前提にこの社説を書く人や、今日の天声人語を書く人が、自分には“想像力があり”、“命の大切さが分かっている”と思っているなら(思っているらしい)、それは単なる<虚偽>である。
こういう自分自身に対する無批判と無思考こそ、彼らが<嘆く>現実を生み出しているのだ。
犯人を憎み、被害者を哀悼することなど、誰にでもできる。
けれども、それがみずからの個人的<感情>なら許せる。
しかしこのような<マスメディア>の公共の場で、ただただ<多数の共感に>おもねっているのは、<大人としての>倫理とは思えない。
ぼくは<人間の心>が、既知でなく未知であると繰り返し述べている。
それは<絶望>ではなく、<思考>への端緒である。
そこから<すべて>は始まるのである。
<想像力>は、思考と感性の厳しいトレーニングの日々の実践からしか生まれようがない。
<注記>
天声人語は言う;
《▼「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に励み、前向きな意欲に満ちていたと聞く。不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠い人だったのに違いない》
これは“ほんやのおねえちゃん”に対する<想像力>だろうか。
断じてそうではない。
天声人語は、<ただひとりの独自の生>であった“ほんやのおねえちゃん”を自分の独断のために利用しているだけである。
《~に違いない》というのは、この筆者の<独断>である。
天声人語は<不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者>に怒るあまり、“ほんやのおねえちゃん”を過剰に美化している。
しかしこの“天声人語の怒り”は、<本物>であろうか。
これは、<文章上のレトリック>にすぎない。
何度でも言う、ここで<無視>されているのは、“ほんやのおねえちゃん”の<独自の生>である。
これは<死者を哀悼すること>とは、決定的にちがっている。
どうして“ほんやのおねえちゃん”にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間が<なかった>と天声人語は<断定>できるのであろうか?
また天声人語氏自身にも、《不平不満を社会や他人のせいだと決め込む》瞬間がなかったのだろうか。
それとも天声人語氏は、そういう瞬間を経験しないほど、<めぐまれていた>か<鈍感>であったのだろうか。
2008/07/24のBlog
[ 11:29 ]
[ 日記 ]
先日ユーチューブからいくつかのビデオクリップを選んで貼り付けたが、分散したため、現時点で<自分が見たいもの>をさらに厳選し、まとめて貼り付ける。
★Janis Joplin Monterey
★Robert Palmer - Addicted To Love
★Rory Gallagher - A Million Miles Away Irish Tour 1974
★Grand Funk Railroad Heartbreaker
★Bob Dylan:Alll along the watchtower1995
★Grace Jones -I've seen that face before...
★Zep:Since I've been Loving you
★Peter Gabriel - Here Comes The Flood
★HUMBLE PIE - C'mon Everybody (1974)
★Don't let me down
★U2 :One
★Jimi Hendrix - Improvisation at Woodstock 1969
★Janis Joplin Monterey
★Robert Palmer - Addicted To Love
★Rory Gallagher - A Million Miles Away Irish Tour 1974
★Grand Funk Railroad Heartbreaker
★Bob Dylan:Alll along the watchtower1995
★Grace Jones -I've seen that face before...
★Zep:Since I've been Loving you
★Peter Gabriel - Here Comes The Flood
★HUMBLE PIE - C'mon Everybody (1974)
★Don't let me down
★U2 :One
★Jimi Hendrix - Improvisation at Woodstock 1969
[ 09:53 ]
[ 日記 ]
ぼくは、空の写真が好きである、雲の写真というべきか。
ぼくは、夕方の光が好きである。
ぼくは、雨の日の写真が、樹木の写真が好きである。
ぼくは、真昼の光、この夏の光、冬の光が好きである。
ぼくは、光が透過する花びらの写真が好きである。
ぼくは、特に白い花の写真が好きである。
あなたも、好きか?
ぼくは、撮れなかった写真が好きである。
それは、深夜の大都会の街路である。
あるいは、霧につつまれた高原の村である。
あるいは嵐のあとの早朝の海辺でも、砂漠に向かう道でもよい。
あるいは、ぼくの心の底にあり、夢の中で、ちらっとかいま見るあなたの顔である。
顔、肉、あなたの肉と水を持った存在のボリュームであり、それはペラペラの写真には決して撮れないものである。
だから、ぼくは意地になって、ペラペラの写真を、撮る、のである。
ぼくの生まれなかった娘へ。
ぼくは、夕方の光が好きである。
ぼくは、雨の日の写真が、樹木の写真が好きである。
ぼくは、真昼の光、この夏の光、冬の光が好きである。
ぼくは、光が透過する花びらの写真が好きである。
ぼくは、特に白い花の写真が好きである。
あなたも、好きか?
ぼくは、撮れなかった写真が好きである。
それは、深夜の大都会の街路である。
あるいは、霧につつまれた高原の村である。
あるいは嵐のあとの早朝の海辺でも、砂漠に向かう道でもよい。
あるいは、ぼくの心の底にあり、夢の中で、ちらっとかいま見るあなたの顔である。
顔、肉、あなたの肉と水を持った存在のボリュームであり、それはペラペラの写真には決して撮れないものである。
だから、ぼくは意地になって、ペラペラの写真を、撮る、のである。
ぼくの生まれなかった娘へ。
[ 07:45 ]
[ 日記 ]
今日の読売新聞社説<無差別殺傷 繰り返される身勝手な凶行>後半部;
《秋葉原事件では、若者の不安定雇用や格差社会と結びつけた主張もあった。だが、いつの社会にも格差はあり、厳しい就職難の時代もあった。どんな理由であっても正当化の余地はない。
不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが、自らの努力不足や忍耐不足を省みず、他人や社会が悪いといった責任転嫁の風潮が強まっていないか。
最高裁は今月11日、山口県のJR下関駅で9年前に起きた殺傷事件の被告に対し、「落ち度のない通行人らを無差別に襲った犯行は極めて悪質で酌量の余地はない」として死刑を言い渡した。
平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべきだ。それでこそ遺族の納得も得られる。
今年上半期の殺人の発生件数は649件で、昨年同期より10%増えた。4年連続で減少傾向にあっただけに、気がかりな数字だ。
埼玉県川口市では中学3年の長女が父親を刺殺するなど、子供が突然、親に襲いかかる家庭内の事件も多発している。
暮らしを通じて自然と善悪のけじめを身につけ、自立する力を養っていく。遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
これを書いているひとは、なにかを<言った気になっている>のだろうか。
《どんな理由であっても正当化の余地はない》とか言っているが、だれが<正当化>しているのだろうか?
誰もしていないし、<ぼく>もしていない。
誰もが<正当化していない>ことを、気張って“否定”しても、しょうもないではないか。
《不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが》とおっしゃることが、<現実に>改善されてないことが問題なのである。
《平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべき》だと<死刑>判決の実例を挙げるわけだが、いくら死刑にしても犯罪がなくならないことについては、この論説委員はどう考えるのだろうか。
《遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
という文章の“語尾=・・・・・・考えてみたい”というのは、どういう<意味>であろうか。
ぼくはこういう<不正確な日本語>を使う人にイライラするのである。
“・・・・・・考えてみたい”というのは、これからの意志であろうか。
なぜこの社説で<考え>ないのだろうか(爆)
このひとはいつもいつも、<考えること>を将来に“先送り”するのであろうか。
それは<現在において考えない>という態度表明ではないか。
《秋葉原事件では、若者の不安定雇用や格差社会と結びつけた主張もあった。だが、いつの社会にも格差はあり、厳しい就職難の時代もあった。どんな理由であっても正当化の余地はない。
不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが、自らの努力不足や忍耐不足を省みず、他人や社会が悪いといった責任転嫁の風潮が強まっていないか。
最高裁は今月11日、山口県のJR下関駅で9年前に起きた殺傷事件の被告に対し、「落ち度のない通行人らを無差別に襲った犯行は極めて悪質で酌量の余地はない」として死刑を言い渡した。
平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべきだ。それでこそ遺族の納得も得られる。
今年上半期の殺人の発生件数は649件で、昨年同期より10%増えた。4年連続で減少傾向にあっただけに、気がかりな数字だ。
埼玉県川口市では中学3年の長女が父親を刺殺するなど、子供が突然、親に襲いかかる家庭内の事件も多発している。
暮らしを通じて自然と善悪のけじめを身につけ、自立する力を養っていく。遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
これを書いているひとは、なにかを<言った気になっている>のだろうか。
《どんな理由であっても正当化の余地はない》とか言っているが、だれが<正当化>しているのだろうか?
誰もしていないし、<ぼく>もしていない。
誰もが<正当化していない>ことを、気張って“否定”しても、しょうもないではないか。
《不安定雇用などを改善していくことはもちろんだが》とおっしゃることが、<現実に>改善されてないことが問題なのである。
《平穏な生活を守るために、犯罪には毅然と対処すべき》だと<死刑>判決の実例を挙げるわけだが、いくら死刑にしても犯罪がなくならないことについては、この論説委員はどう考えるのだろうか。
《遠回りではあるが、そんな家庭や地域の力を取り戻していくことも考えてみたい》
という文章の“語尾=・・・・・・考えてみたい”というのは、どういう<意味>であろうか。
ぼくはこういう<不正確な日本語>を使う人にイライラするのである。
“・・・・・・考えてみたい”というのは、これからの意志であろうか。
なぜこの社説で<考え>ないのだろうか(爆)
このひとはいつもいつも、<考えること>を将来に“先送り”するのであろうか。
それは<現在において考えない>という態度表明ではないか。
[ 06:12 ]
[ 日記 ]
単純な事実というものがある。
“日本人は詮索好き”だといわれるが、本当にそうか?
たとえばぼくは“33年3ヶ月”サラリーマンだった“キャリアを持つ。
だがサラーリーマンを離脱したこの5年数ヶ月、“あなたはどんなお仕事をしていたんですか?”という質問をされたことがない(笑)
現在のぼくは、いつもジーンズにTシャツ姿である。
ぼくに“会う”ひとは、<現在のぼく>が、過去もずっと続いていたと思うのであろうか?!
それとも、“ぶしつけな質問はしない”という日本人独特の!<思いやり>であろうか?
いやいや、“彼ら”<注>は、単に他人に関心がないだけである(爆)
<注>
みんな、いいひとである(笑)
<追記>
それなら、“彼等”は<現在のぼく>に関心を持っているのだろうか。
ぼくは近年、“妻がパーキンソン病である(ず~っと)”ということを<公言>している(昔はそうでなかった)
また、“ブログを書いている”と公言している(だが、アドレスは教えない;爆、しかしただひとりだが自ら“発見”した人もいる;また“お仕事”よろしく!)
しかし、<このこと>について質問されたこともほとんどない。
昨日ある講習の“先生”との講義前の雑談のなかで、“昨年、妻とヨーロッパのパーキンソン患者・関係者集会に北イタリアへ行った”と話した。
ぼくとしては、ただの“話題”であったが、講義を終えた先生が、“warmgunさん、昨年<イタリアへ行ったこと>を話してください”と言った。
時間もなく、ぼくは人前で話すのが苦手なので、一言、二言述べただけだが、内心うれしかった。
つまり、“こういうこと”が、ぼくの“業界でさえ”ないのである。
しかし、もちろん、こういう<他者への無関心>というのは、“相互関係”(お互いさま)であろう。
けれども、<ぼく>が、このような<関係>しかない<世間>を信用しないことには(観念論ではない)<根拠がある>ことを実証するために、あえて<自分の体験>を書いた。
“日本人は詮索好き”だといわれるが、本当にそうか?
たとえばぼくは“33年3ヶ月”サラリーマンだった“キャリアを持つ。
だがサラーリーマンを離脱したこの5年数ヶ月、“あなたはどんなお仕事をしていたんですか?”という質問をされたことがない(笑)
現在のぼくは、いつもジーンズにTシャツ姿である。
ぼくに“会う”ひとは、<現在のぼく>が、過去もずっと続いていたと思うのであろうか?!
それとも、“ぶしつけな質問はしない”という日本人独特の!<思いやり>であろうか?
いやいや、“彼ら”<注>は、単に他人に関心がないだけである(爆)
<注>
みんな、いいひとである(笑)
<追記>
それなら、“彼等”は<現在のぼく>に関心を持っているのだろうか。
ぼくは近年、“妻がパーキンソン病である(ず~っと)”ということを<公言>している(昔はそうでなかった)
また、“ブログを書いている”と公言している(だが、アドレスは教えない;爆、しかしただひとりだが自ら“発見”した人もいる;また“お仕事”よろしく!)
しかし、<このこと>について質問されたこともほとんどない。
昨日ある講習の“先生”との講義前の雑談のなかで、“昨年、妻とヨーロッパのパーキンソン患者・関係者集会に北イタリアへ行った”と話した。
ぼくとしては、ただの“話題”であったが、講義を終えた先生が、“warmgunさん、昨年<イタリアへ行ったこと>を話してください”と言った。
時間もなく、ぼくは人前で話すのが苦手なので、一言、二言述べただけだが、内心うれしかった。
つまり、“こういうこと”が、ぼくの“業界でさえ”ないのである。
しかし、もちろん、こういう<他者への無関心>というのは、“相互関係”(お互いさま)であろう。
けれども、<ぼく>が、このような<関係>しかない<世間>を信用しないことには(観念論ではない)<根拠がある>ことを実証するために、あえて<自分の体験>を書いた。
[ 05:18 ]
[ 日記 ]
日々のニュースを見て、それに対してなにか<意見>を書かなくてはならないと思うのは、ブログを書き始めてからの悪い習慣ではないだろうか。
つまりブログを書くまでは、いちいち<ニュース>に意見や感想を持っていたのだろうか。
けれども、いわゆる<ニュース>ではなく、<自分の身辺のこと>(ほとんどどーでもいいことではないか?)を飽きずに書いているブログを見ると、そうでないことが書きたくなるわけである。
“徒然なるままに、独り言を書く”というような、<謙虚な態度>は、実は、<書くこと>を舐めているのではないだろうか。
過去にも<そういうこと>を掲げて色々<書いた>ひともいたわけだが、彼らは、決して<どーでもいいこと>を書こうとしたわけではない。
たぶん<彼等>は、<世間>とはちがう事を書こうとしたのだ。
ここでの<世間と自分との距離>の認識こそ、決定的であった。
なんとか<世間の一員になるため>に書いているひととは、雲泥の差なのである。
《雲泥》というのは上品な言葉であるが、<味噌と糞>の差であると言うべきである。
たぶんぼくが<批判>している“マスメディアの言説”というものが、<世間>であるのは(世間でしかないのは)、“理の当然”である。
つまり<マスメディア>こそが、<世間>である。
そこでは事件をおこした中学生が所属していた学校の校長が“親は皆さん愛してる”などとの愚劣な言葉を“言わなければならない”のである。
こういう“言葉”に、<寒気>を感じないないなら、あなたは立派な“おばさん=おじさん”であり、世間から排除される恐れはない。
安泰である。
アンタイ!!
かくして、<言葉>に対する<鈍感>は、見えない皮下脂肪のように日々堆積してゆくのであった。
たぶん、<個々の問題>などはないのである。
すべては<人間>がやっていることなのである。
<政治家>や<官僚>が腐敗しているのでも、馬鹿なのでもない。
もし<政治家や官僚が腐敗している>なら、われわれ全員が腐敗している。
もし“気狂いが刃物を振って”いるなら、われわれ全員が<気狂い>ではないか。
まあ<程度の差>があるらしいのである(爆)
“だから”、<論理>は求められる。
<倫理>が求められる。
<学>が求められる。
しかしこの<学>が捉え損ねてきたものがある。
<学>とは、“哲学”、“自然科学”、“人文諸科学”、“文学”などと呼ばれてきたものである。
これまでのあらゆる<学>が捉え損ね、現在も直面している<テーマ>があると思える。
ぼくは、とりあえず以下のテーマを掲げる;
<性>、<病気>、<老化>である。
これをもっと“包括的に”、<暴力と権力と死>ということもできるが、ぼくは<性・病気・老化>の“具体性”において考える必要があると考える。
それらが<肉体>の問題だからである。
もちろん、“これまでのひと”も上記について考えてきた、しかし、決定的に<不充分>であるか、“彼らが考えたこと”がわれわれにまだ充分理解されていないのだ。
ぼくたちは、<なにかから逸脱したひとを正道にもどす>のではない。
もしそうなら、<そこから逸脱したもの>があらかじめ決定されていなければならない。
しかしそのような<基準=ルール>が、まさに、ない。
“そのような基準=ルールがある”と言っているのは<世間>なのであるが、この<基準>では、<日々逸脱する人々>をもはや“回収”することはできない。
ぼくはシニシズムやペシミズムを語っているのではない。
すべてのひとが、<世間>から“逸脱して”思考することを、呼びかけるだけである。
“この世間”に未来がないというより、<意味がない>ことが、決定的な<危機>である。
こう書くとき、すでに、<危機>という言葉の意味が、褪せてゆくのを感じる。
つまり現在においては、<危機>さえも<無意味>に侵食されている。
つまりブログを書くまでは、いちいち<ニュース>に意見や感想を持っていたのだろうか。
けれども、いわゆる<ニュース>ではなく、<自分の身辺のこと>(ほとんどどーでもいいことではないか?)を飽きずに書いているブログを見ると、そうでないことが書きたくなるわけである。
“徒然なるままに、独り言を書く”というような、<謙虚な態度>は、実は、<書くこと>を舐めているのではないだろうか。
過去にも<そういうこと>を掲げて色々<書いた>ひともいたわけだが、彼らは、決して<どーでもいいこと>を書こうとしたわけではない。
たぶん<彼等>は、<世間>とはちがう事を書こうとしたのだ。
ここでの<世間と自分との距離>の認識こそ、決定的であった。
なんとか<世間の一員になるため>に書いているひととは、雲泥の差なのである。
《雲泥》というのは上品な言葉であるが、<味噌と糞>の差であると言うべきである。
たぶんぼくが<批判>している“マスメディアの言説”というものが、<世間>であるのは(世間でしかないのは)、“理の当然”である。
つまり<マスメディア>こそが、<世間>である。
そこでは事件をおこした中学生が所属していた学校の校長が“親は皆さん愛してる”などとの愚劣な言葉を“言わなければならない”のである。
こういう“言葉”に、<寒気>を感じないないなら、あなたは立派な“おばさん=おじさん”であり、世間から排除される恐れはない。
安泰である。
アンタイ!!
かくして、<言葉>に対する<鈍感>は、見えない皮下脂肪のように日々堆積してゆくのであった。
たぶん、<個々の問題>などはないのである。
すべては<人間>がやっていることなのである。
<政治家>や<官僚>が腐敗しているのでも、馬鹿なのでもない。
もし<政治家や官僚が腐敗している>なら、われわれ全員が腐敗している。
もし“気狂いが刃物を振って”いるなら、われわれ全員が<気狂い>ではないか。
まあ<程度の差>があるらしいのである(爆)
“だから”、<論理>は求められる。
<倫理>が求められる。
<学>が求められる。
しかしこの<学>が捉え損ねてきたものがある。
<学>とは、“哲学”、“自然科学”、“人文諸科学”、“文学”などと呼ばれてきたものである。
これまでのあらゆる<学>が捉え損ね、現在も直面している<テーマ>があると思える。
ぼくは、とりあえず以下のテーマを掲げる;
<性>、<病気>、<老化>である。
これをもっと“包括的に”、<暴力と権力と死>ということもできるが、ぼくは<性・病気・老化>の“具体性”において考える必要があると考える。
それらが<肉体>の問題だからである。
もちろん、“これまでのひと”も上記について考えてきた、しかし、決定的に<不充分>であるか、“彼らが考えたこと”がわれわれにまだ充分理解されていないのだ。
ぼくたちは、<なにかから逸脱したひとを正道にもどす>のではない。
もしそうなら、<そこから逸脱したもの>があらかじめ決定されていなければならない。
しかしそのような<基準=ルール>が、まさに、ない。
“そのような基準=ルールがある”と言っているのは<世間>なのであるが、この<基準>では、<日々逸脱する人々>をもはや“回収”することはできない。
ぼくはシニシズムやペシミズムを語っているのではない。
すべてのひとが、<世間>から“逸脱して”思考することを、呼びかけるだけである。
“この世間”に未来がないというより、<意味がない>ことが、決定的な<危機>である。
こう書くとき、すでに、<危機>という言葉の意味が、褪せてゆくのを感じる。
つまり現在においては、<危機>さえも<無意味>に侵食されている。
2008/07/23のBlog
[ 21:08 ]
[ 日記 ]
★ 硝子戸の中から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉だの、赤い実の結った(なった)梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ目に着くが、その他にこれといって数え立てるほどのものは殆ど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
★ 私は電車の中でポケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注いでいる読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて(ならべて)紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。
★ 去年から欧州では大きな戦争が始まっている。そうして戦争が何時済むとも見当が付かない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来るべき総選挙は政治界の人々にとって大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だ不景気だと零して(こぼして)いる。年中行事でいえば、相撲が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中に凝と(じっと)坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押し退けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出てこない。ただ春に何か書いて見ろといわれたから、自分以外にあまり関係のない詰まらぬ事を書くのである。それが何時までつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯(へんしゅう)の都合とできまるのだから、判然(はっきり)した見当は今付きかねる。
<夏目漱石:『硝子戸の中』1915>
★ 私は電車の中でポケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注いでいる読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて(ならべて)紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。
★ 去年から欧州では大きな戦争が始まっている。そうして戦争が何時済むとも見当が付かない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来るべき総選挙は政治界の人々にとって大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だ不景気だと零して(こぼして)いる。年中行事でいえば、相撲が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中に凝と(じっと)坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押し退けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出てこない。ただ春に何か書いて見ろといわれたから、自分以外にあまり関係のない詰まらぬ事を書くのである。それが何時までつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯(へんしゅう)の都合とできまるのだから、判然(はっきり)した見当は今付きかねる。
<夏目漱石:『硝子戸の中』1915>
