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2008/09/07のBlog
“天木直人ブログ”の最新記事に共感するので引用する、タイトルは<面従復背の政治、面従復背の日本からの解放>である。

<面従復背>(めんじゅうふくはい):表面は服従するように見せかけて、内心では反抗すること。

このブログで天木氏は辻井喬(堤清二)の回顧録「叙情と闘争」からの引用にもとづいて以下のようなブログを書いている;


《1978年、ソ連がまだゴチゴチの共産主義国家であった時、堤はエルミタージュ美術館を訪れてそこの女性キュレーターの次のような言動を見た。
地下の倉庫に眠っている数々の名画(ボッシュ、ブリューゲルからはじまって黄金時代のスペインの名画、ラ・トゥール 、プッサン、ファン・ダイクなど、そしてロココ美術の次に印象派、後期印象派など)を案内された堤は、
 
「これらの絵は地方の美術館に貸し出すことはないんですか」
とそのキュレーターに尋ねる。すると彼女は、
「ありません。なぜならこれらは社会主義リアリズムの作品ではなく、くだらないもので国民教育上もよくないのですから」
と答える。

しかし、そういう言葉とは裏腹に彼女が名画に触る手つきは、さもいとおしい物を扱う際の柔らかさだった、と書いている。
そして、その後に、堤は続けて次のように書いているのだ。

・・・僕は中年の女性キュレーターが、本当はこれらの絵が好きだし、その価値をよく知っているのだと覚り、すると面従腹背という言葉が浮かんできた。
僕はその直感を口にはださず、夜行列車のなかで、この国で役人として無事に勤めあげるためには自分の思想を持たない事だ、と言ったP・イリイチの言葉を反芻していた・・・

人間だから思想を持たないということは不可能に近い。とすれば彼が主張したことの実質は面従腹背ということではないか。表向きは従っているように見せて、本音は隠しておくこと・・・・

そういった後で、堤は自分自身の生き方がそうではなかったのか。父親に対する少年時代の自分、ビジネスマンとしてゆく先々で違和感を覚える自分を、押し隠してきたのではないか、と自問するのである。

思うに面従腹背の経験は、古今東西を問わずあらゆる人間が経験する事に違いない。
そしてその矛盾にもはや耐え切れなくなった時、人も、国家も、自壊し、大きな転換を余儀なくされる。

日本の政治も、日本国民の意識も、今まさにその時期にさしかかっているのではないか。

面従腹背の欺瞞をかなぐり捨てて一度ぐらいは本音で生きてみろ、崩壊の後に待っているのは絶望ではなく、希望だ。それが人間解放なのだ。
そういう時代の声が聞こえるような気がする》
(以上引用)




たしかに<面従復背>でさえない“日本人”も多く見受けられる。

なんでもOKとしまりなく“受け入れる”、心の広い方々が。
なにが起こっても“しょうがない”のである。

♪ああしょうがない、雨の日はしょうがない♪

しかし、《表面は服従するように見せかけて、内心では反抗する》気概をまだ失わない方々の奮起を期待する(笑)




昨日のニュースにこういうのがある;

<橋下知事、職員の仕事ぶり「隠し撮り」 国際児童文学館>アサヒコム2008年9月6日19時44分
この記事にこうある;
《知事によると、私設秘書にビデオカメラを持たせて8月中の2日間、存廃の論議が進む複数の公の施設を「覆面リサーチ」したという。文学館以外にどこを調査したのかは明かさなかった。
 文学館のビデオを見た感想として、「マンガばかりが並んでいるから『マンガ図書館』に名前を変えるべきだ」「職員にやる気がない」と厳しく批判した》


ならば、ぼくは橋下知事に質問したい。

あなたはこれまでどんな<マンガ>を読んできたのか?

あなたはこれまでどんな<マンガ以外の本>を読んできたのか?

具体的な回答をお願いする。

ひとを<批判>するひとは、その前に<自己検討>が必要だと思われる<注>

そういう過程を経ないで、<他人>を盗撮・批判することは、たんなるファシズムである。




<注>

<自己検討したくないから>何も・誰も批判しないひと、というのも多いようである。



2008/09/06のBlog
なぜマスメディアは、自民党総裁選などという田舎芝居に熱狂しているのであろうか?
これでは、マスメディアが自民党の広告宣伝機関でしかないことを、“天下に”わめいているだけではないか。
ぼくはどの猿が“自民党総裁”になるかなどについて、まったく興味を持たない。

さて、今日の天声人語は、めずらしく映画の話題である。
要約するのが面倒なので、全文を貼り付ける;

“映画の故・黒澤明監督が「羅生門」のあとに作った映画の評判は、散々だった。「当分は冷や飯を食わされる」と覚悟を決め、憂さ晴らしに川へ釣りに出かけた。ところが、何かに引っかけて糸がぷつりと切れる▼仕掛けの予備はない。ついていない時はこんなものかと帰宅すると、奥さんが飛び出して来た。ベネチア国際映画祭で「羅生門」が最高賞を取ったと知らされる。自作が参加していることさえ知らなかったと、自伝につづっている▼歳月は流れて、今年のベネチアにも「日本の風」が吹く。最高賞を競う部門に3作品が招かれた。北野武監督「アキレスと亀」、宮崎駿監督「崖(がけ)の上のポニョ」、押井守監督「スカイ・クロラ」である▼宮崎、押井作品はいまや日本のお家芸のアニメ映画だ。わびしく釣り糸を垂れた黒澤と違い、3人とも現地入りして、自作のお披露目に会見にと忙しい。前評判は良いと伝わっている▼3本はどれも、監督の哲学や技量に裏打ちされた深い世界がある。しかし国内を見渡せば、そうした作品ばかりではない。いま作られる多くは、ベストセラー本や人気テレビドラマの映画化なのだという。海外での評価の一方、邦画全体の底は案外浅いのが実情らしい▼生前の黒澤も、邦画の商業主義に辛口の意見をしていた。そして晩年まで、「まだ映画が何かよく分かっていない」と口にした。映画人にとっては永遠の問いに違いない。きょうは没して10年の命日。そしてベネチアの賞はあす発表される。金獅子のゆくえを見守っていることだろう。
(以上引用)


《3本はどれも、監督の哲学や技量に裏打ちされた深い世界がある。しかし国内を見渡せば、そうした作品ばかりではない》
と天声人語氏は言っているが、彼はまず、この3本の映画を見たのだろうか。

その上で、《3本はどれも、監督の哲学や技量に裏打ちされた深い世界がある》と“断言”できるのだろうか。

もしそうなら、《3本はどれも、監督の哲学や技量に裏打ちされた深い世界がある》という根拠をしめすべきではないか。

ある作品について、自分がその映画を見た感想を示さず、ただその監督の<名>が有名である“から”、その作品がすぐれているとするのは、<権威主義>である。

一般に(映画に限らず)<権威主義>は、“ある作品への愛”とは反対の態度である。

黒澤明もくだらない作品を撮った。
どんな“巨匠”であろうと、失敗作を撮ることはある。
けれどもその作品をつくる者(この場合は監督)を“関心を持ったり、愛する”なら、その失敗作の<意味>も見る必要がある。

ただの<有名>という権威におもねり、世界の映画祭での<受賞>のみに関心を持つのは、なんの“芸術に対する愛”ではない。

ぼくは<芸術>というような言葉もつかいたくない。
たとえば1本の映画は、ある“監督”のもとに集結された、スタッフの<表出への意志>の結晶なのだ。

<人間>とは、自分を表現したい<動物>なのだ。
もちろんここでの<自分>というのは、“この世界を感受している存在”のことである。

もし黒澤明が《「まだ映画が何かよく分かっていない」と口にした》なら、彼は自分の人生と世界についての“自分の無知”を語ったのだ。

<無知>であるから、<探究と表出(表現)>がある。
それが(たとえば)1本の映画である。

ぼくはベネチア国際映画祭で“日本映画”が受賞するか否かなど、どうでもいい。
しかし今回だけは、“スカイ・クロラ”の動向に注目する。

ぼくが嫌悪する<権威主義的世界>とでも呼ぶべき世界が展開されている。
それは“有名なモノ”がカタログのようにただ延々と並べられた<世界>である。

もしある作品が、“意味をもつ”なら、その作品は、それらカタログ世界の<秩序>自体を破るものである。

“見たことのない世界”を開示、現前させるものである。

<権威主義>とは、惰性である。
<魂>の死である。






2008/09/05のBlog
今日の言葉;

(結婚を決めた理由は)「言葉にするのは難しいですが、彼が“圧倒的”だったんです。言い負かされるのも、健やかな時も常に“圧倒”されたんです。彼に出会ってなかったら結婚はしていなかったですね」。ちなみに高井氏の容姿については、無精ひげをはやした、ワイルドなタイプだという。


男たちよ!

男はワイルドで圧倒的でなければならぬ(らしい)







いつもいつも《信じたい》などと言っている<男>はダメなのである。

おばさんにしかモテない。

《▼検査と新薬物のいたちごっこ。ついには遺伝子まで操作する「遺伝子ドーピング」など、不正は人間の身体深くへ潜行しつつある。「薬」の字源は呪術師の振る鈴ともいう。北京の感動をくれた選手すべてが、鈴の音の誘惑に打ち勝っていたと信じたい》(今日天声人語)



“マイコミジャーナル”に8月21日に新宿の映画館で行われた押井守監督のトークショーの模様が掲載されているので引用したい。
ぼくには特に“客席からの質問”の部分が興味深かった。


<押井守監督が語る『スカイ・クロラ』再見のススメ>

「『スカイ・クロラ』では雲の上の世界は全部3Dで作ってて、雲は全部パーティクルという動く3Dのモデルなんですよね。青空は天球を作って貼り込んで、それに太陽の光源を乗せている。そういう作りになってます。ただしコックピットのキャラクターは作画してあるわけですね。戦闘機は絶えず移動してますんで、キャノピーのフレームの影が身体の上を流れる。人工の光源を置いて、服を着て目鼻もついたダミーの3Dの人形に流れる影を落とし込んで、そこに流れる影を作画に全部写し取って描いている。さらに反射を合成して、キャノピーのアクリル樹脂の細かな傷を全部加えて、細かいリフレクションを足していく。それが要するに飛行機が動く度に全部変化するわけで、3次元を主として2次元を追従させている。

これが逆に地上では3次元をちょこちょこ使ってます。ドアとか引き出しとかは全部3次元で作って、それに素材を貼り込んでいるわけですね。ドライブインの酒ビンとか全部1本1本3次元で作って、それにラベルを貼り込んで並べてる。そうしないとああいう細かい情報量を持った独特の雰囲気って出ないんですよ。筆の幅では描けないから。この作品ではそういうふうに主従を入れ替えてます。僕は2Dと3Dは両方必要だってことをずっと主張してて、ハリウッドみたいに3次元で全部作る、もしくはどこかの巨匠みたいに『全部鉛筆で描くんだ』とかね(笑)、そうやって素材を一元化するのは作り手としては同じ考え方をすればいいから非常に作りやすいんです。でも僕の映画ではいろんな素材を使いこなして最終的な画面にする。レベルの異なる素材をいかにひとつの鍋に放り込んで料理するか。料理の深い味はそうやって出るもんだという。今回は2次元の素材と3次元の素材を使いこなすことで映画をより重層的にしたかった。

これはこの作品にとって最大のテーマなんですけど、彼らは空を飛んで死と隣り合わせの空中戦をしているときだけ生の実感を感じ取れる。ただしそこは非日常の世界であって、非日常の世界に人間は住めないわけですよね。その一方で生活する時間というのは極めて退屈である。問題なのはどんな人間でも必ず日常に帰ってくる。つまり彼らが戦闘機に乗って一生飛び続けていたいと思ったとしても、寿命が尽きる前に燃料が尽きる。燃料切れで帰るか、それとも撃墜されて地上に激突するか、いずれにせよ帰ってくる。それがこの作品のテーマですよね。どんなにつらくても僕らは日常に生きるしかない、人間は地上でしか生き死にできないんだという世界観ですよ。ただ日常の世界のなかで背負うべきものと出会ったときに初めて違った種類の、非日常の世界に匹敵し得るような時間を獲得できるんだということを表現したかったんです。

気づいた方もいるかもしれないですけども、雲の上を飛んでるときの時間の流れと、地上で彼らがビールを飲んだりタバコを吸ったりしてる時間と、時間の経過が違うんですね。映画の時間軸というのはいくらでも操作できるので、非常にまったりとした時間を地上で表現して、一方で圧縮された濃厚な時間は雲の上で表現する。そのために情報量のあり方を変えたかったんですよ。地上ではドライブインの酒ビンだったりマッチのラベルだったり、ありとあらゆるところに瑣末な情報が満ちている。だけど空の上の情報は雲の変化、光線の変化しかない。よりシンプルな情報で満たされた世界がいかにすばらしいか。それを瑣末なディテールで満ちた日常の地上と対比して鮮やかに描くことで作品のテーマと一致するだろうと。世界観とテーマの一致というのは、例えてみればそういうことなんですよ。

映画の世界観とは構造的にドラマの本質と重ね合わせて描かれるべきであって、昔やった『イノセンス』という作品は垂直軸の世界なんだと。つまり井戸の底のような深いところで主人公のバトーは人形と出会って、高い塔から俯瞰する世界でヒロインの素子に再会する。しかもその素子というのは衛星経由で垂直軸に下りてくる。だからあの世界の建築は、縦に縦にという垂直線の建築様式であるゴシックである必要があった。深い井戸の底と天上の世界。ダンテの『神曲』から思いついたんですけどね。人間はその垂直軸の真ん中で非常に宙ぶらりんに生きている、そういう映画にしたかったんですよ。

今回の『スカイ・クロラ』は垂直軸というよりは、雲で分断された地上と空のふたつの世界であって、地上には絶えず空から降りてくる者を待つ存在がいる。それは飛行機が下りてくる度に吠える犬だったりするわけですね。そういう構造をいかに作品のなかに仕込んでいくか。例えば地上では彼らがバイクや車に乗っても水平方向にしか移動しない。その水平方向の移動も水平線がまったく動かない、つまり移動感のない表現をするために、絶えず正面か後ろから撮影してる。あれもCGとかデジタルで表現が可能になった新しい表現ですけど、地上では縦に縦に進むほど移動感が消滅していく。そういうことがこの作品の一番大きな仕掛けだと言えると思います」

客席からの質問

――監督はキルドレになりたいと思いますか?

「僕はティーチャーみたいな奴になりたいというか、絶えず堂々たる大人を目指して生きようというかね。ただ誰の中にもキルドレな部分、子どもであり続けたい部分って必ずあると思うんですね。それはべつに構わないと思う。そのこと自体は不自然じゃないから。ただそういう自覚があるかどうかが一番重要なんだと思う。自分のなかにある子どもとか女性とかね、人間というのは自分が思っているような一元的な存在じゃない。そのなかで自分が選び取った人格は何なのか。それが自分が自分である根拠であり、そのことを自分でどう評価するかなんですよ。この映画のなかでも繰り返し語られてるんですけど、僕は大人の男たることを目指してます。それは肉体的にも精神的にも。まあ、ほぼそれを手に入れたかなっていう(笑)」

――「ティーチャーのようになりたい」ということでしたが、函南のように自分を殺しにくる人が来たらどうしますか?

「ああ、殺すよ。僕は自分が痛い思いをするぐらいだったら相手に痛い思いをさせたいし、自分が死ぬぐらいなら殺したほうがマシであるっていう、そういうふうに考えるようになった。大人の男ってべつに暴力的な人間のことを指すわけじゃないの。そういう判断を瞬時になせる人間、そういう覚悟のなかで生きるというかね。かつてそれは侍とか武道家とか言われた人間たちがそうだったけど、べつに精神主義的な話ではないんだよ。女の人だって同じことで、自分の子どもが殺されそうになったときにどうするか。それはとくにいまみたいな時代だったら仮定の話じゃないよね。そのことを覚悟して生きることがつまり大人の男であり、もしかしたら大人の女なんだよ。それを保留して生きることはいまの世の中ならいつだって可能なんだよね。でも自分の人生はそういう覚悟なしには生きられない。他人の人生はどうでもいいんだよ。社会的通念も関係ないと考えてますね」

――原作と比べて函南の性格が温厚になっている印象ですが、それにはどんな意味があるんでしょうか?

「基本的にはこの映画の主人公はやっぱり草薙水素だと思ってるんですよ。原作を読んだ瞬間からそういうふうに思ったんです。原作は函南優一の一人称で書かれてますよね。だからこそ最後に語り手である優一が草薙水素を射殺して終わるわけだけど、つまり小説の必然で、優一の一人称で語られている以上、語り手は死なないわけだよね。で、映画はそれがない分だけ結末が読みにくい。僕はそれが映画の面白いところだと思ってるけれど、僕の理屈では最後に地上に立っている人間が主人公なんです。どんなに魅力的な人物であろうと途中で退場した人間は主人公じゃないんですね。
よくだから『スカイ・クロラ』を特攻隊の映画と比較する人がいるんですけど、それはそれで間違ってない部分もあるんですよ。ただ僕に言わせれば、明確に特攻隊映画と違う最大の部分は、やっぱり生きることをテーマにしたということです。いかにして生きるか。生き残るかと言ってもいいんだけど、最後に滑走路に立っている人間は誰なんだっていう。でも草薙水素が去り、草薙瑞希が去り、犬も去って、最後に滑走路と空と雲だけが残った。じつは世界だけが最後に残るんで、風とともに人間が去ってもびくともしない。微塵も変わらない世界に僕らは生きている。でも『だからこそ、そこに立つ理由があるんだ』って考えて作りましたね。
(函南優一役の)加瀬亮にも同じことを言われてちょっと参ったこともあるんだけど、優一君はそういう意味では、どうとらえていいかわからない不思議な男なんですよ。自分についてなにも知らない。そういう人物は『アヴァロン』のアッシュとか前にも出したことあるんですけど、でもそれは僕らの日常の映し絵なんだよね。『僕らが日常を送る上で自分に関する知識ってどれだけ必要なんだろう?』っていう。それはおそらく優一君とたいして変わらない。函南優一君というのは、つまり僕らなんだよね」



2008/09/03のBlog
翻訳小説が売れないそうだ。
もちろん小説でない翻訳モノも売れないだろう。

ぼくは近年、<小説>以外の本を読もうとしていた。
“教養を身につけ、世界が知りたかった”からである(笑)

しかし(当然)<小説>が気になっていた。
ぼくがこれまでに読んだ本で、“小説以外で”重要な本はもちろんある。
しかし、子供の頃を含め、今心に残っているのは圧倒的に小説である。

ぼくは『イギリス人の患者』という小説を愛した。
この小説が“現代世界の文学”でどのような位置をしめるかなど、どうでもいいではないか。
あなたは自分が好きになった男or女が、客観的に優れているかどうかを気にするだろうか。

この『イギリス人の患者』の訳者は土屋政雄というひとであった。
1944年生まれだから、ぼくとほぼ同年代。
あるとき、この人は他になにを訳しているのか?と思った。
この人はカズオ・イシグロ『日の名残り』の訳者であった(ぼくは未読)
新潮文庫にある『アンジェラの灰』、『コールドマウンテン』の訳者であった。
このひとが訳したカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』が文庫になったので昨日買った。


訳文がよいかわるいかは、その訳者の技量(語学力とか)でもあるが、感覚でもあろう。
しかし、翻訳小説の魅力というものは、たしかにある。

単純に、そこには“見慣れない光景”が開かれているのだ。
その光景が都市であっても、原野であっても。
その光景が現在であっても、過去であっても、未来であっても。

★ わたしの名前はキャシー・H。いま31歳で、介護人をもう11年以上やっています(略)わたしが介護した提供者の回復ぶりは、みな期待以上でした。回復にかかる時間は驚くほど短く、「動揺」に分類される提供者など、四度目の提供以前でさえほとんどいませんでした。あら、これはやはり自慢でしょうか。
(カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』書き出し;ぼくはこの小説を読み始めたばかりで、“提供者”とか“動揺”がなにを意味するかを知らない;笑)

★ 朝のかすかな気配とともに、蠅がうごめき始めた。インマンの目と、首の大きな傷が蠅を引き寄せる。その羽音と皮膚にとまる足の感触は、やがて庭いっぱいの雄鶏より強力な目覚ましとなり、病室でのインマンの一日がまた始まる。
★ 窓はドアのように大きい。この窓はきっとどこか別の場所に開いていて、通り抜ければその場所に行ける……。寝ているあいだ、何度もそう思った。
★ ひと夏ずっと窓と相対してきたインマンには、もういいかげん種切れだろうという思いがあった。これだけ毎日見つづけたのだから、この灰色の窓も、もう語りたいことをすべて語り尽くしたろう。だが、この朝、窓は不意に学校の教室にすわる少年の姿を呼び起こし、インマンを驚かせた。
(チャールズ・フレイジャー『コールドマウンテン』)

ぼくは『コールドマウンテン』の映画も見てないし、この作者についても知らない。
カヴァーにある作者紹介に、“この小説の完成に7年かけた”とある。

現在日本の作家に、7年かけて書くモチーフをもった人がいるだろうか。





<追記>

上記ブログを読み返して、奇妙な”偶然”に気づいた。

『イギリス人の患者』と、読み始めた『わたしを離さないで』・『コールドマウンテン』というのは、<患者と介護人>の物語であるらしいのだ。

ぼくたちは、<すべて>、患者であると同時に介護人であるのではないか。

介護人であると同時に患者である、と言ってもよい。



今日の“マイホームパパ=天声人語”は、福田辞任劇を“運動会の棒倒し”に喩えている;
《運動会の季節、福田首相の辞任に「棒倒し」が浮かぶ。小沢民主党が揺さぶるのは当たり前だ。だが気がつけば、味方のはずの与党は、棒を守る手を休めている。休めるばかりか、揺さぶりをかける者までいる》

これが書き出しである。
このあとに教養を無意味に‘ひけらかす“、<鷹羽狩行、和辻哲郎、平沼騏一郎>というぼくのような無教養のものにはピンとこない<名>が続き、アメリカ大好きマイホームパパの本領発揮の”佳境の米大統領選“が参照される。

この部分は“無意味”なのでカットし(笑)、いっきょに最終段落の“結論”を読む;
《▼海の向こうの民主主義の光景に、わが政界をかえりみる。もうこれ以上、与党が民意を問わずに権力の座にしがみつくことはできまい。敵も味方もガラガラポンの解散・総選挙で、立てるべき「棒」を決めるのは国民である》


つまりマイホームパパ天声人語氏にとっては、“すべて”は<運動会>なのである(爆)


あまりにもくだらないので、見出しをみるだけで内容がわかる“社説”は読まないで、いろんなページにある<識者>のコメントを読んでみる。

この<識者>とは誰か、今日朝日朝刊で目についた方々の<肩書き>だけを列挙する;

★ 経済同友会代表幹事
★ 政策研究大学院大教授(現代日本政治論)
★ 東京大学教授(社会経済学)
★ ノンフィクション作家
★ 同志社大教授(国際経済)
★ 法政大学教授(政治学)
★ 東京都知事


ざっと読んだだけだが、ぼくは上記の人々の<言葉>からなにひとつ思考を喚起されなかった。
つまり、読んでも読まなくても同じだ。

もしこれらの“識者=専門家”の言葉が、状況をとらえ、生きているなら、<こんな日本>ではありえない。



いつもいつも<無意味な言葉>を発して稼ぎ続ける人々というのは、たんなる<詐欺師>ではないか。

しかしこの世には<無意味でない言葉>を発しているひとはいるし、すでに死んだ人々の<無意味でない言葉>をまだ、聴くことはできる。


ぼくは、それらの言葉に耳を傾ける。

つまりただ本を読む。



《安倍前首相に続く福田首相の政権投げ出しをマスコミは嬉々として報じている。
「無責任すぎる!」と怒ったふりをしていても、その裏には、こうして毎度繰り返される政界ドタバタ茶番劇を報じるのが楽しくて仕方がないという本音が透けて見える。
 その証拠に、昨夜からどのテレビ局も、福田辞任による今後の政局予想というマスコミお得意のネタではしゃいでいるようだ。
 しかし、国民の大半は盛り上がるどころかしらけきっているというのが実情だろう。テレビをつけて、政治家の顔が映っていると、うんざりしつつすぐにチャンネルを切り替える人が多いのではないだろうか》
イスマタリアン・ブログ;“次々と政権投げ出す政権党”


ぼくはテレビによる“福田辞任劇”を1秒も見ていない。
“その夜”は、テレビは見たが、ぼくが見ていたのは『24』(爆)と『モンテクリスト伯』の最終回であった(爆)
『モンテクリスト伯』最終回(もうなんども放映されている)を見終わったら日付は変わっており、寝る前に不破ブログを見たら“「自民党」研究序説 Part-6 福田康夫崩壊!!”記事があり、れれれっとネットニュースを見た。

《しかし、国民の大半は盛り上がるどころかしらけきっているというのが実情だろう。テレビをつけて、政治家の顔が映っていると、うんざりしつつすぐにチャンネルを切り替える人が多いのではないだろうか》

しかし、テレビで“見たくない”のは、<政治家の顔>だけであろうか?

ぼくは<他の顔>も見たくないのである。

これはもちろん“イスマタリアン”批判ではない。
ツナミンはこうも書いている;
《このように、あまりにも民主的正統性に欠けた愚劣極まりない政治状況に対し、主権者たる国民による民主的統制の手段・可能性が欠如している現状は、政治に対するシニシズムとアパシーを無限に増殖させ、さらなる政治腐敗の温床となるであろう》


なぜ、この文章が<朝日新聞>にないのであろうか。

なぜマスメディアは、“ねじれ国会”とか“テロリスト”とかの、なにひとつ思考されてない<言葉>を念仏のように繰り返すのみであろうか。

この“なぜ”は修辞的疑問文である。
マスメディアは確信犯的馬鹿である。

もちろん<確信犯的うそつき>と言うべきである。
かれらが保守したいのは、<自分の地位>のみである。

ぼくたちは、政治が好きなわけでは全然ないが、《政治に対するシニシズムとアパシー》が、すべてのもの(こと)に対する<シニシズムとアパシー>をもたらすことは、明瞭である。
(“シニシズム=死に沈む”と変換;笑)

もし日本の政治の現状を、<政局>としてしかとらえられないなら、<選択>は不能である。

だれが“自民党と同じ体質”の政党への<政権交代>を望むだろうか。
それは民主党のみではない(笑)

創価学会の支配、日米同盟という名の米国支配など言うまでもないことである。
ぼく自身は、いかなる“現実的選択”も呈示できない。

だからここで<しかし>というべきであろうか。

どんな<現実的>なかっこいいスローガンも発し得ない<注>
また<世間>は、“落ち込んだひと”のみを愛するであろう。

“落ち込んだひと”は、さんざん愚痴を言った後に、“明るく前向きに生きる”のである(笑)

たしかに個人の生活というのは、トリビアな<必然>の連鎖である。

その過程の“さなか”に、<違和>の点をつくりだす。
自分の内部の<異質>なものを根拠とする。

いったんこの惰性的な関係が壊れなければ、<関係>自体が決定的に喪われるだろう。



<注>

”改革”とか”民営化”とか”自民党をブッ壊す”とかいう、かっこいいスローガンの<コイズミ元首相>が現在日本の決定的無思考体質をもたらしたのは、歴史的真実である。

自民党など、とっくにぶっ壊れていた。
日本の<デモクラシー>も。

もちろんこの日本国にデモクラシーが実現したことなど一度もなかったが、”デモクラシーへの意欲(意志)”がぶっ壊れたのだ。

くだらない<人気者>に群がる体質だけが残った。

なんでも<売れれば>よいのだ。





それにしてもあなたは、麻生太郎とか小池百合子とか石原伸晃とかの<顔>が好きですか。
いちど<テレビ>でなく、<スチル>でじっくり観察することをお薦めします。

ぼくはこの<顔>だけでも、嫌いです。

ぼくは<人間の顔>が見たい。

猿の顔は動物園で見れる、国会で見る必要はない。

橋下徹知事というひとの顔も嫌いだな。

<良識>は”ひとを顔で判断してはいけない”と言う。

しかしそれなら、<ひと>を何で判断すればよいのだろうか?

<顔>が<商標>となったこの世界で。





2008/09/02のBlog
ひさしぶりに仕事に行くと疲れるね(笑)

ぼくの“出動”に合わせたかのような残暑。
ほぼ3週間ぶりの歌舞伎町は、なにひとつ変わっていない。
ぼくが死んでも“世界”はなにひとつ変らないことを実感する。
すでに死んでいるぼくが残暑の歌舞伎町を通過していく<ぼく>をみているような。

底の抜けたバケツのような“国”で60年以上ぶざまに泳いできたら、もう水がほとんどなかった(爆)

自分の手の中の水を飲むほかはない。



《「『ひとごとのように』とあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」。ふだん感情を表に出すことの少ない福田首相が、辞任会見の最後の質問で、珍しく気色ばんだ》
(アサヒコム)

これはなかなか面白い発言だと思う。

つまり<客観的>とはなにかについて、“日本国民”すべてが考えることを要請している。

ひさしぶりに仕事にいきます(笑)


ああー、退屈なニッポン!



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