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竹林の愚人
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2006/07/06のBlog
chandra'sさんのブログを見て、無性に欲しくなり応募しましたら、今日届いていました。
アンケートにはあまりにも正直に(車は欲しくないと)書いたので、とても応募資格がないなと、あきらめていたのですが。
さすが超優良企業トヨタですね。
2006/07/05のBlog
小川 隆夫 「ジャズ・トーク・ジャズ」 河出書房新社 2006.04.20.

 ジャズはある意味で行き着くところまで行っていた。マイルスを先頭にひた走っていたジャズだが、気がついてみたら音楽的な進化を至上のものとし過ぎたため、一般の音楽ファンが望む形からかけ離れようとしていたとも言える。ぼくは熱心なファンになって数年目だったが、ジャズがある種の袋小路に差しかかっていたことは薄々感じていた。そんなときにジャズとロックが興味深い形で融合し始めたのだから、その面白さに飛びついても非難はされないだろう。
 そのころ夢中になって読んでいた『スイングジャーナル』にも、少しずつだがロックの記事が掲載されるようになってきた。たとえば、もう少しあとのことだが、同誌のディスク・レビューでジミ・ヘンドリックスの『アクシス・ボールド・アズエフヴニュニパーサル』が取り上げられ、ファイヴ・スターが献上されたこともあった。評者は植草甚一だ。
 ロックはロックで大変なことになっていた。69年にニューヨーク郊外のウッドストックで開催されたフェスティヴァルに30万人ものひとが押し寄せたのだ。これほど多くのひとが集まった音楽イヴェントは空前絶後だった。そしてこの時期を境に、ジャズのミュージシャンはそれまで以上に積極的な形でロックやロックのミュージシャンとの関わりを持ち始める。
黎明期からさまざまな音楽と結びつくことで発展してきたジャズ。初期のジャズにはブルースや黒人霊歌やゴスペルからの影響が少なからず認められた。スイング時代は、それ以前からあったダンスのリズムを取り入れることで大きな評判を呼んだ。モダン・ジャズの時代に入ってからも、現代音楽や民族音楽、そしてロックやR&Bなど、ジャズ以外のポピュラー・ミュージツクの要素を巧みに取り入れて発展を遂げてきた。
 ジャズは文化や社会情勢とも密接に繋がっている。フュージョンが注目を浴びるようになった時期は、ヴェトナム戦争が泥沼の様相を呈していた。そんなときに、アメリカではラヴ&ピースを掲げるヒッピーたちのフラワー・ムーヴメントが盛り上がっていた。それに呼応するかのように、反体制の象徴として支持された音楽がロックだった。
 ジャズ・ロックからフュージョンへと至るジャズ・サイドでの変化もこれらの動きと無縁でない。新しいファッションや文化が次々と生まれた60年代-それと連動するように発展していったのがジャズ・ロックであり、その後に登場するフュージョンだった。
 だが、元を正すなら、ジャズこそが〈反体制の音楽〉と呼ばれていた。そのポジションがいつの間にかロックに奪われていたことも、ジャズの置かれた状況を物語っている。ジャズがロックに接近したのは、反体制の音楽であるというアイデンティティを無意識のうちにも確認したかったからだろうか?
 最後にマイルスの言葉を紹介しておこう。
「おれの音楽が時代を動かしたとは思わない。そんなことはひとりじやできないんだ。もしそうだとしたら、おれの周りに集まってきた連中がおれの音楽に共鳴して、さまざまなことをやり始めたのが理由だろう。おれはやりたいことをやる。それ以外に何を考えるっていうんだ」
 社会の動きと連動するように発展したと書いたが、あるいは連動せざるを得なかったのかもしれない。
しかしマイルスの言葉には毅然としたものがあった。これによって、ぼくはフュージョンの時代もポジティヴなものと受け止めることができる。
2006/07/02のBlog
エーテル・コッハー&ハンス・アマン 「赤十字の父 アンリー・デュナン」 春風社 2005.10.20.

1830年から1840年にかけて、フランスはアルジェリアに何度も軍隊を送り、征服して植民地としました。アルジェリアでの利益を見込んだ資金がつぎこまれ、経済活動が活発になりました。ジュネーヴの銀行も資金を投入して利益を得ました。
アンリー・デュナンは、1853年、銀行の2人の顧客から依頼を受けました。アルジェリアのセティフ地区を視察してほししいという依頼でした。デュナンは、アルジェリアへ何度も旅行することによって、思いっきりのいい投資家がいかに早く利益を手に入れたかを知りました。
信仰深いデュナンはいつも手に聖書をもち、イスラム教の住民を説得してカリヴァン派の福音に誘い込もうと試みました。デュナンは、アルジェリアで小麦粉を製造してヨーロッパに輸出できるようにするため、土地を手に入れ、近代的な製粉装置の製造を委託しました。そのための資金を、彼は親戚や知人に頼んで集めました。デュナンによって設立された「モン・ジェミラ製粉会社」のために、50万スイス・フランの株を引き受けたのです。デュナンは資金の提供者に10%の利回りを約束し、人々は彼の言葉を信じました。しかしパリの植民地担当官庁は、デュナンの会社のために土地や水をまったく割り当てなかったのです。思い悩んだ末、一番高い地位にいるフランス人だけが植民地省を動かすことができると考え、デュナンはナポレオン3世のもとへと向かいました。皇帝が大軍を率いてイタリアに滞在していることを耳にし、イタリアで皇帝を訪問する決心をしました。
デュナンは、彼が生きた時代における最大の軍事的対決で犠牲になった人々と、情け容赦もなく対面させられたのです。1859年6月2日の朝、東西から押し寄せたそれぞれ15万人の兵がソルフェリーノで対決しました。そして、夕方には4万人もの死者と負傷者が戦場に横たわっていました。デュナンはショックをおさえて、すばやく手を差しのべました。土地の人たちは、この白衣を着たよそ者が、決して好奇心だけの観戦者ではなく、献身的に手をかし、驚くべきやり方で自国民のみならず敵陣営の犠牲者にまで手をさしのべていることを知りました。
デュナンは、『ソルフェリーノの思い出』の原稿を、自費で非売品として1600部印刷しました。1862年11月から、彼はこの本をヨーロッパで地位のある重要人物に、個人の立場で献本しました。いち早く賛同したのは、ギュスターヴ・モワニエでした。「ジュネーヴ公益福祉協会」での講演を要請。デュナンの考えは会員の参道を得、「国際常置委員会」の名称を有する「5人委員会」に委任されたのです。
パレ・ダテネでの1863年10月26日からの会議は、大きな成果をあげました。16カ国の政府代表と個人での資格での参加希望者13人が、数日間話し合い、デュナンによって提案された、戦場における自由意思による救護者の組織化、権利、義務に関する10の決議文に理解を示しました。第8条で、救護者は目印として赤い十字のついた白い腕章を身につけることが規定されました。
モワニエの指揮のもとに仕上げられた10カ条は、盤石の原則であることを証明しました。赤十字は、140年以上前から、戦争発生時における最も定評のある、世界規模の救護組織へと発展し始めました。
かつて「5人委員会」から出発した組織は、今日ではジュネーブに本部を持つ「赤十字国際委員会」として192の条約締結国にいる1億人の会員と自由意思による救護者から成り立っています。
デュナンは、ヨーロッパ全土で賞賛され、祝福されました。ナポレオンは、彼にレジョン・ドヌール勲章の授与を許可しました。しかし、同時に大きな心配事で苦しむことになりました。彼の北アフリカでの事業は停滞し、負債がたまってしまったのです。1867年10月、ジュネーブ信用銀行は破産を申し立てました。民事裁判所で審理され、判決を受けたデュナンは、全財産を失うとともに、もう決して完全に回復することのできない、精神的・肉体的挫折を味わったのです。貧乏になり、人々から排斥された39歳のデュナンは、ジュネーブを永久に立ち去りました。
「私の亡骸は、どんな儀式もおこなわずに、チューリッヒで火葬されるのが私の心からの願いです」。1910年10月30日、「ああ、私のまわりはなんと暗くなったのだ」という最後の言葉を発し、永遠の眠りにつきました。死者は鉄道でチューリッヒに運ばれ、簡単な火葬の儀式がおこなわれ、鎮魂日の11月2日、遺灰はチューリッヒのジールフェルト墓地に埋葬されました。
鷲巣 力 「宅急便130年戦争」 新潮社新書 2006.01.20.

個人が小口の荷物を送ろうとすると、その方法はきわめて限られていた。国鉄の小荷物を使うか、郵便小包を使うか、いずれかだった。
ともに「官」が行う輸送事業であり、サービスは悪く、扱いは乱暴で、所要日数は多く、ストライキも多く、いつ届くかも分からない。そんな状況が続いていた。
 小荷物が厄介なのは、荷物を発送するときには、荷物を取扱駅にもち込まねばならず、また荷物を受け取るときには、着駅まで出向いて受け取らねばならなかった。だが、国鉄にはこの小荷物輸送を改善しようという意思はなく、1986年(昭和61年)廃止された。個人の小口貨物の輸送に関しては、郵便小包が独占場だったのである。
ところが、宅配便が誕生し、普及するとともに、郵便小包の取扱個数は、宅配便に浸食され減少していく。便利でしかも速い宅配便が歓迎された。郵便小包は日数がかかり、発送は郵便局へ持ち込まねばならず、荷札をつけることや、紐がきちんとかけられていることなどが求められ、荷造りも厄介だ。郵便小包が敬遠されるのも当然であった。
宅配便が成長する過程で、その先頭をはしっていたヤマトは、他の業者と闘い、警察庁と交渉し、運輸省と闘い、郵政省と戦ってこなければならなかった。今日もなお郵政公社と闘っている。だが、こうした闘いの試練を通して宅配便は成長してきた。ヤマトは必要があれば「官」との闘いを厭わない。他社は「官」と闘わなかったから、「官」と「民」との闘いは、取りも直さず、「官」と「ヤマト」の闘いということになった。だが、闘いの結果得られたものは、他社も恩恵を受ける、という図式で今日まで進んで来た。
宅配便の普及に引きすられながらも郵政省は努力していた。宅配便業と競合する分野ではサービスも格段によくなった。宅急便とゆうパックの料金を比較すると、料金体系が異なるので厳密に比較するのは難しいが、ゆうパックのほうが安い。では、なぜヤマトは高い料金となり、郵政公社は安い料金になるのか。なぜヤマトはゆうパックとの併売を拒むのか、という疑問が起きる。
 ヤマトにしてみれば、信書便市場では事実上の独占を維持し、宅配便市場では法人税を免除されるなどの恩典を受けた郵政公社と、民間企業が同じ土俵で闘えというのでは、公正・公平ではないではないか、という。
 信書の分野では、信書便法では参入してもよいとされるが、実際は、郵政公社の独占とするための法であった。ゆうパックの安い料金は、優遇処置があるからこそ可能であって、民間企業では不可能だ、とヤマトは主張した。そして「民営化」論争の中でも、公正な競争が保証されることを訴えたのである。
いずれ民営化される巨大会社が、現在与えられているさまざまな優遇処置を利用して、「民」のやって来た仕事を奪っていく。それは、公平性からいえば、大いに疑問である。少なくとも完全民営化されるまでの期間、郵政公社の行動に一定の歯止めをかけるか、同条件での競争にしなければ公平ではあるまい。そうしなければ民業圧迫はますます進むだろう。

2006/06/27のBlog
渡辺恒雄VS若宮啓文 「靖国」と小泉首相 朝日新聞社 2006.03.30.

 僕は学生時代から本当に反戦を、主張してきました。先の戦争で、何百万人もの人々が天皇の名の下で殺された。僕も徴兵され、二等兵でしたが奴隷的に酷使された。幸い僕は生き残ったが、ひどかったのは特攻隊です。戻ってくる燃料の入ってない飛行機に乗せられ自爆を強いられた。そういう残酷なことをやったんだ。僕は戦時中、こんなことを国がやるということは許せないと本当に思っていた。しかも天皇の名の下にでしょう。実際には、統帥棒を持つ天皇には許可を求めず、軍が勝手にやらせたのですが。
 戦時中の体験もあって、そういうことを命令した軍の首脳、それを見逃した政治家、そ
ういう連中に対する憎しみがいまだに消えないですよ。
靖国神社本殿の脇にある、あの遊就館がおかしい。あれは軍国主義礼賛の施設で、軍国主義をあおり、礼賛する展示品を並べた博物館を、靖国神社が経営しているわけだ。その後、靖国神社の宮司が、「なぜA級戦犯を合祀したか」「なぜA級戟犯を分祀できないか」などについて話しているのをいろいろ勉強してみて、僕はもう、とんでもないと思った。それで、新たに追悼施設をつくるべきであると考えたわけだ。読売新聞の論説委員会でもそういう話をして、読売新聞は2005年8月13日の紙面から、靖国参拝問題の前に、戦争責任の所在を明らかにすべきだというキャンペーンを始めました。このシリーズは一年間やりますよ。一年間やって、2006年の8月15日をめどに、軍、政府首脳らの責任の軽重度を記事にするつもりだ。道徳的責任や結果責任の軽重について、誰が一番悪かったか、誰ぐらいまではまだ許せるが、ここから先は本当によくない、というような判断基準を具体的に示そうと思っているんですよ。
 中国や韓国が首相参拝に反対しているからやめるというのはよくないと思う。日本人が外国人を殺したのは悪いけれども、日本国民自身も何百万人も殺されている。今、靖国神社に祀られている多くの人は被害者です。やはり、殺した人間と被害者とを区別しなければいかん。それから、加害者の方の責任の軽重をきちんと問うべきだ。歴史的にそれをはっきり検証して、「我々はこう考える」と言ってから、中国や韓国にもどういう迷惑をかけていたのかという問題が出てくるのです。やっぱり彼らが納得するような我々の反省というものが絶対に必要だ。読売新聞は読売新聞なりにやりますけれども、これを国の意思として、例えば国会に歴史検証委員会のようなものをつくつて、やらなければならないと思う。
神道というのは、教典がなくて、古事記、日本書紀などの神話を自由に解釈して八百万の神様をつくつた。しかし、今の宮司の南部さんの言っている神道の教学というものは、明治以降に天皇を現人神にしてしまった国家神道。廃仏毀釈をし、国教は神道だけだということをやってでき上がった国家神道の教学だ。そんなもののために日本の国民が真っ二に割れて、さらにアジア外交がめちゃめちゃにされている。これはたまらない。そんな権力を靖国神社に与えておくこと自体が間違っている。これを否定するには、やっぱり首相が行かないことですよ。公式参拝は一切やらないことです。それしかない。
 僕はジャーナリストだから、まず日本の過去の戦争責任というものを究明したいと思っています。しかし、政治家は、現実の外交を優先して考えなきゃいけない。小泉さんは政治をやっているんであって、イデオロギーで商売しているんじゃあない。国際関係を取り仕切っているんだから、靖国問題で中国や韓国を敵にするのは、もういいかげんにしてくれと言いたい。