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2008/06/29のBlog
[ 17:02 ]
[ オールドソウル・ベテランの新作 ]
[ 16:35 ]
[ セッション ]
黒人女性向けの雑誌『エッセンス』が、95年から毎年ニューオーリンズで行っている(洪水の年はヒューストン)「エッセンス・ミュージック・フェスティヴァル」はブラック系の音楽(&文化)の祭典として有名です。ステージに上がるアーティストも新旧織り交ぜ、毎回のように話題を呼んでいます。たしか、復活したアレサもこのフェスで元気な姿を観せたと記憶しています。
来月29日に、過去の名演を集めたCDが発表されます。『Essence Music Festival, Vol.1: Songs From Our Triumphant Return To New Orleans』というのが正式タイトル。Vol.1ですから続編も期待されます。こういうコンピの場合嬉しいのはレコード会社の垣根を越えて収録されている事。メアリー・J、ビヨンセ、クリス・ブラウン、ニーヨといった最前線の人から、メイズやオージェイズといったライブに定評のあるベテランまで収録されています。正にソウル~現代R&Bの“エッセンス”が味わえそうです。楽しみですね。因みに発行レーベルはビヨンセ親父の所有だそうです。
♪内容
♪今年のフェス
♪サンプル
来月29日に、過去の名演を集めたCDが発表されます。『Essence Music Festival, Vol.1: Songs From Our Triumphant Return To New Orleans』というのが正式タイトル。Vol.1ですから続編も期待されます。こういうコンピの場合嬉しいのはレコード会社の垣根を越えて収録されている事。メアリー・J、ビヨンセ、クリス・ブラウン、ニーヨといった最前線の人から、メイズやオージェイズといったライブに定評のあるベテランまで収録されています。正にソウル~現代R&Bの“エッセンス”が味わえそうです。楽しみですね。因みに発行レーベルはビヨンセ親父の所有だそうです。
♪内容
♪今年のフェス
♪サンプル
2008/06/28のBlog
[ 14:37 ]
[ オールドソウル・ベテランの新作 ]
世界遺産的ソウルシンガー、アル・グリーンの新録。プロデュース陣は、本人に加え、オールド感覚にも新しい感覚にも通じているクエストラブとジェイムズ・ポイザー。ウィリー・ミッチェルも一枚噛んでいるそうです。<ブルーノート>発。
“甦るハイ・サウンド”と謳っている通り、リズムの取り方、音の軟らかさ、ギターのフレーズ、ホーン・アレンジ等、かつてのアル・グリーンを取り巻いていた鉄壁のサウンドを彷彿とさせます。アルの、悶々としたファルセット・ヴォイスも健在です。
と、ここまでの纏めで済ませて良い感じもします。しかし個人的には、何となく引っ掛かる部分が有ります。とはいえ、私の耳が極めて“保守的”なのも事実。以下の文章を、頑迷固陋な繰り言と無視されても、致し方ないところかも知れません。
堅苦しく書きましたが、自分自身でも「ここまで考えなくても好いかな?」と思う気持ちが有るから歯切れが悪いのです。しかしあくまで自分の意見は意見として書いてみましょう・・・。
先日、ネット友達の方から、アル・グリーンの70年代スタジオライブのDVDを頂きました。内容は素晴らしく、ソウル・ファンなら間違いなく身震い必至のものでした。そのDVDから感じ取れるものが、本アルバムには無いような気がするのです。キーワードは“汗”と“熱”。別にシャウトが多いとかどうかではなく、シンガーとバックの相乗作用によるダイナミズムがあまり感じられないのです。より細かく見ると一つの曲の中に「おー、きたきた」という部分とハイ・サウンドのパーツが並べてあるだけと感じる部分が混在しているように思えるのです。アル・グリーンのヴォーカルも(曲構成の所為もあるでしょうが)70年のようにイントロ→中盤→サビの流れで引き付けるというより、アル節を散りばめているという感じなのです。
ひねくれ者的意見かとは思いますが、ハイ・サウンドに拘らない方が良かったのではないかとも思います。どうしても“あの頃”と比べてしまうんですよ。そういう意味でちょっとハイから離れて感じる部分に逆に面白さがあるような気もします。
ジョン・レジェンド、コリーヌ・ベイリー・レイ、アンソニー・ハミルトンがゲスト参加。中でもコリーヌはご本人のアルバムはあまりピンと来なかったけど、ここでは存在感有り。一瞬アル・グリーンのアルバムである事を忘れます。そういえば前段に書いた事に拘るならジョン・レジェンドみたいに色んな引き出しを持ったアーティストがプロデュースしても面白かったかも知れません。
とはいえ、1、8、10、11は気に入ってます。特に10はブルース濃度が高く個人的にはかなり好き。10、11タイプのオールド味が強いのを最後の方に持っていったというのもこのアルバムのポリシーを感じます。
1曲目(タイトル曲)の「レイ・イット・ダウン、レイ・イット・ダウン・・・」というリフレインが最近脳内で響き続けているのも確かな事実です。
アルが現代に生き続けるためには、ゴスペルに徹するか、マラコに行くか、ジョン・レジェンドタイプの力を借りるか・・・などと妄想してみたりしました。
♪内容
♪制作風景
♪70年代
♪サンプル
“甦るハイ・サウンド”と謳っている通り、リズムの取り方、音の軟らかさ、ギターのフレーズ、ホーン・アレンジ等、かつてのアル・グリーンを取り巻いていた鉄壁のサウンドを彷彿とさせます。アルの、悶々としたファルセット・ヴォイスも健在です。
と、ここまでの纏めで済ませて良い感じもします。しかし個人的には、何となく引っ掛かる部分が有ります。とはいえ、私の耳が極めて“保守的”なのも事実。以下の文章を、頑迷固陋な繰り言と無視されても、致し方ないところかも知れません。
堅苦しく書きましたが、自分自身でも「ここまで考えなくても好いかな?」と思う気持ちが有るから歯切れが悪いのです。しかしあくまで自分の意見は意見として書いてみましょう・・・。
先日、ネット友達の方から、アル・グリーンの70年代スタジオライブのDVDを頂きました。内容は素晴らしく、ソウル・ファンなら間違いなく身震い必至のものでした。そのDVDから感じ取れるものが、本アルバムには無いような気がするのです。キーワードは“汗”と“熱”。別にシャウトが多いとかどうかではなく、シンガーとバックの相乗作用によるダイナミズムがあまり感じられないのです。より細かく見ると一つの曲の中に「おー、きたきた」という部分とハイ・サウンドのパーツが並べてあるだけと感じる部分が混在しているように思えるのです。アル・グリーンのヴォーカルも(曲構成の所為もあるでしょうが)70年のようにイントロ→中盤→サビの流れで引き付けるというより、アル節を散りばめているという感じなのです。
ひねくれ者的意見かとは思いますが、ハイ・サウンドに拘らない方が良かったのではないかとも思います。どうしても“あの頃”と比べてしまうんですよ。そういう意味でちょっとハイから離れて感じる部分に逆に面白さがあるような気もします。
ジョン・レジェンド、コリーヌ・ベイリー・レイ、アンソニー・ハミルトンがゲスト参加。中でもコリーヌはご本人のアルバムはあまりピンと来なかったけど、ここでは存在感有り。一瞬アル・グリーンのアルバムである事を忘れます。そういえば前段に書いた事に拘るならジョン・レジェンドみたいに色んな引き出しを持ったアーティストがプロデュースしても面白かったかも知れません。
とはいえ、1、8、10、11は気に入ってます。特に10はブルース濃度が高く個人的にはかなり好き。10、11タイプのオールド味が強いのを最後の方に持っていったというのもこのアルバムのポリシーを感じます。
1曲目(タイトル曲)の「レイ・イット・ダウン、レイ・イット・ダウン・・・」というリフレインが最近脳内で響き続けているのも確かな事実です。
アルが現代に生き続けるためには、ゴスペルに徹するか、マラコに行くか、ジョン・レジェンドタイプの力を借りるか・・・などと妄想してみたりしました。
♪内容
♪制作風景
♪70年代
♪サンプル
2008/06/22のBlog
[ 20:58 ]
[ ロック・歌謡曲他 ]
最近、尾崎豊のファンの意見を反映して創ったオムニバスが2枚出たそうで、その内の「バラード編」をヨメさんがレンタルしてきました。
彼の存在は知ってましたが、余りジックリと聴いた事は有りませんでした。この人はとにかく歌を歌うというより、感情をそのままに奔出させている感じです。叫びたいままに叫び、泣きたいままに泣き、囁きたいままに囁く・・・ストレートに彼の気持ちが伝わるというか、彼の世界に飲み込まれるような感じです。
精神科医の香山リカさんは大学で教鞭も取っておられるのですが、学生に尾崎を聴かせたら「うざい」という意見が多かったそうです。なるほど。この人は聴く前に思い入れを持っておくか、精神的に参っているかしないと引いちゃうかも知れません。あまりに剥き身すぎるのです。
実人生も波乱に満ちていたそうで、自分の歌の世界と生き方がある意味一致していたのかも知れません。もう少し余裕が有れば、曲も聴きやすく彼自身もああいった亡くなり方はしなかったかも知れません。しかし、1曲アッサリ目の平均的J-POPな曲が有るんですが、彼らしさが希薄ですね。やはり運命だったのでしょう。
それにしても、カリスマとして多くの若者に愛されていた尾崎豊も現代の若者からすると、少し遠くから眺める存在なのでしょうか?一度こういう音楽を一人でジッと聴くのも良いと思うんですけどね。「うざい」はないと思うよ・・・。
彼の存在は知ってましたが、余りジックリと聴いた事は有りませんでした。この人はとにかく歌を歌うというより、感情をそのままに奔出させている感じです。叫びたいままに叫び、泣きたいままに泣き、囁きたいままに囁く・・・ストレートに彼の気持ちが伝わるというか、彼の世界に飲み込まれるような感じです。
精神科医の香山リカさんは大学で教鞭も取っておられるのですが、学生に尾崎を聴かせたら「うざい」という意見が多かったそうです。なるほど。この人は聴く前に思い入れを持っておくか、精神的に参っているかしないと引いちゃうかも知れません。あまりに剥き身すぎるのです。
実人生も波乱に満ちていたそうで、自分の歌の世界と生き方がある意味一致していたのかも知れません。もう少し余裕が有れば、曲も聴きやすく彼自身もああいった亡くなり方はしなかったかも知れません。しかし、1曲アッサリ目の平均的J-POPな曲が有るんですが、彼らしさが希薄ですね。やはり運命だったのでしょう。
それにしても、カリスマとして多くの若者に愛されていた尾崎豊も現代の若者からすると、少し遠くから眺める存在なのでしょうか?一度こういう音楽を一人でジッと聴くのも良いと思うんですけどね。「うざい」はないと思うよ・・・。
[ 15:55 ]
[ 創作 ]
♪前回分
あたりの風景は、「この世」とも、想像していた「あの世」とも全く違うものだった。一面の花畑どころか、一輪の花さえ見当たらない。蓮華が浮かぶ荘厳な河も流れておらず、手招きする人もいなかった。一面真っ白の世界で、空と地平の区別さえつかない。圧迫感はなかったが、地に足を着けている感覚もなかった。
自分の周囲には、おし黙った人々の群れ。彼らも又真っ白だった。服を着ているのか裸なのか判断も付けにくい状況。全身が白ずくめなのだが、着ぐるみを着ている感じでもない。かといって皮膚感覚も無い。髪の毛も無い。身につけている物も全く無いのだ。顔に表情も無く、目・鼻・口は有るものの、線で描かれただけの、肉感の無い“軽いデッサン”みたいな感じだった。そう、表情や肉感が欠けているマネキンかロウ人形のような集団だ。
子供や老人の姿は見当たらない。皆ダンと同じぐらいの背丈で、体格も大差は無かった。あらためて顔付きをよく見ると一人一人違いはある。中年者も若者もいるようだが、「老人」という感じの人はいなかった。女性がいるのに気付いたのは、胸のふくらみだったが、皆一様な大きさで、女性らしさの象徴というよりただ区別するために便宜上ふくらんでいる気がした。
と、突然一人の「女性」がダンの左ひじを軽くつかみ、集団から外れるよう目で合図した。ふたりは見えないスケートリンクの上を滑るように、スイーッと群れから離れた。ものの5分も経たぬうちに、女性は手の平をダンに向け、止まるように合図した。しばらく前方に目をやっているのでダンもつられて前方向を見ていると、次第にぼやけた霧のようなものが焦点を結び、白く細長い建物が目の前に現れた。女性は扉を開けることもせずダンを引き連れたまま、建物の壁を通過し中へ入った。
内部も白一色だったがソファーとテーブルといった調度品は置いてあった。「座って」と女性は言った。ダンが静かに腰を下ろすと女性はどう喋ろうか思案している様子で、表情が固い。マネキンに見つめられているようでダンは彼女から目を逸らす事ができなかった。「私は亜美。ここはどこか聴きたいでしょうね。正直言って私にもよく分からないの。あなたも死のうとしたのよね。私がいろいろ教わった人もそう言ってたわ、私もそうだし。でも、ここは天国とも地獄とも違うみたいなのよ」
亜美の説明を理解するには実際にここで「暮らして」みなければダメだろう。ダンも彼女が何を言っているのか殆ど分からなかった。彼女の話では、彼女や出会った集団はひがな一日何をするでもなくただ移動しているだけだという。たまに今居るような「ルーム」と呼ばれる「部屋」で寛ぐこともできる。自分が部屋に入りたいと思えば部屋が現れるらしい。
女性は落ち着かない様子が消えなかったが、やがて「一番大事なことを言っておくわね。この世界では喋る事を禁じられているの。後であなたも見かけると思うけど、空を飛んでいる、灰色の鳥みたいな人間みたいなのがここには居るの。ソルジャーというんだけど、そいつらがもし、喋っている人間を見つけると捕まえるのよ」
「今、喋ってるのは?」
「そう、これも危険な行為。ルームの中は音が漏れにくいとはいえ全然聞こえないわけじゃないの。それじゃこれから先は念じる事で話をしましょう。私に何か心の中で喋りかけてみて」
ダンは事の重大さが飲み込めない上、特に話しかける事も思いつかなかったので彼女を見つめ、何の悪気も無く問いかけた。
「あなたはお幾つなんですか?」
亜美は両腰に手を当て、苦笑しながら即答した。「この世界でも女性に歳は聞くもんじゃないわ」
(つづく)
あたりの風景は、「この世」とも、想像していた「あの世」とも全く違うものだった。一面の花畑どころか、一輪の花さえ見当たらない。蓮華が浮かぶ荘厳な河も流れておらず、手招きする人もいなかった。一面真っ白の世界で、空と地平の区別さえつかない。圧迫感はなかったが、地に足を着けている感覚もなかった。
自分の周囲には、おし黙った人々の群れ。彼らも又真っ白だった。服を着ているのか裸なのか判断も付けにくい状況。全身が白ずくめなのだが、着ぐるみを着ている感じでもない。かといって皮膚感覚も無い。髪の毛も無い。身につけている物も全く無いのだ。顔に表情も無く、目・鼻・口は有るものの、線で描かれただけの、肉感の無い“軽いデッサン”みたいな感じだった。そう、表情や肉感が欠けているマネキンかロウ人形のような集団だ。
子供や老人の姿は見当たらない。皆ダンと同じぐらいの背丈で、体格も大差は無かった。あらためて顔付きをよく見ると一人一人違いはある。中年者も若者もいるようだが、「老人」という感じの人はいなかった。女性がいるのに気付いたのは、胸のふくらみだったが、皆一様な大きさで、女性らしさの象徴というよりただ区別するために便宜上ふくらんでいる気がした。
と、突然一人の「女性」がダンの左ひじを軽くつかみ、集団から外れるよう目で合図した。ふたりは見えないスケートリンクの上を滑るように、スイーッと群れから離れた。ものの5分も経たぬうちに、女性は手の平をダンに向け、止まるように合図した。しばらく前方に目をやっているのでダンもつられて前方向を見ていると、次第にぼやけた霧のようなものが焦点を結び、白く細長い建物が目の前に現れた。女性は扉を開けることもせずダンを引き連れたまま、建物の壁を通過し中へ入った。
内部も白一色だったがソファーとテーブルといった調度品は置いてあった。「座って」と女性は言った。ダンが静かに腰を下ろすと女性はどう喋ろうか思案している様子で、表情が固い。マネキンに見つめられているようでダンは彼女から目を逸らす事ができなかった。「私は亜美。ここはどこか聴きたいでしょうね。正直言って私にもよく分からないの。あなたも死のうとしたのよね。私がいろいろ教わった人もそう言ってたわ、私もそうだし。でも、ここは天国とも地獄とも違うみたいなのよ」
亜美の説明を理解するには実際にここで「暮らして」みなければダメだろう。ダンも彼女が何を言っているのか殆ど分からなかった。彼女の話では、彼女や出会った集団はひがな一日何をするでもなくただ移動しているだけだという。たまに今居るような「ルーム」と呼ばれる「部屋」で寛ぐこともできる。自分が部屋に入りたいと思えば部屋が現れるらしい。
女性は落ち着かない様子が消えなかったが、やがて「一番大事なことを言っておくわね。この世界では喋る事を禁じられているの。後であなたも見かけると思うけど、空を飛んでいる、灰色の鳥みたいな人間みたいなのがここには居るの。ソルジャーというんだけど、そいつらがもし、喋っている人間を見つけると捕まえるのよ」
「今、喋ってるのは?」
「そう、これも危険な行為。ルームの中は音が漏れにくいとはいえ全然聞こえないわけじゃないの。それじゃこれから先は念じる事で話をしましょう。私に何か心の中で喋りかけてみて」
ダンは事の重大さが飲み込めない上、特に話しかける事も思いつかなかったので彼女を見つめ、何の悪気も無く問いかけた。
「あなたはお幾つなんですか?」
亜美は両腰に手を当て、苦笑しながら即答した。「この世界でも女性に歳は聞くもんじゃないわ」
(つづく)
2008/06/21のBlog
[ 20:49 ]
[ はじブラ流 ]
ちいさい頃から、雨の日は気分が晴れず、なんだか淋しい気分になりますが、調べてみたら科学的根拠が有ったのですね。
要するに低気圧のため身体に酸素がいきわたらず、“苦しい”わけですね。酸素は重要なのだ。
その他にも、雨の日の憂鬱さは人間心理に微妙な変化を与えるようです。
苦しいから人工呼吸をしてほしいのかな?
要するに低気圧のため身体に酸素がいきわたらず、“苦しい”わけですね。酸素は重要なのだ。
その他にも、雨の日の憂鬱さは人間心理に微妙な変化を与えるようです。
苦しいから人工呼吸をしてほしいのかな?
2008/06/14のBlog
[ 16:55 ]
[ 本・映画・TV等 ]
解説に「小品」とあるように、短編小説とも随筆とも色合いの違う作品群です。作者の思いや考えがストレートに近い感覚で表現されていて、漱石という人物に近付いた気にさえなります。
映画化もされている「夢十夜」は、実際に見た夢を軸に構成されています。幻想的でホラー感覚を味わえる部分も有りますが、基本的に、昔話や伝説・故事の類に通じるような、土俗的な雰囲気に満ちています。“夢判断”という観点から、人物漱石の心理学的分析も可能なのでしょうが、私の場合それよりも、物語性の深さに単純に引き込まれました。
小学校高学年の頃から本を読むのは好きでしたが、所謂“文豪”と呼ばれる作家のものは余り読んでいません。今回漱石作品に触れ、文章表現の緻密さと、そこから立ち昇ってくるイマジネーションの奥深さに圧倒されるばかりでした。
漱石が大病を患った際の、身体の変調の様子や、病床から見える限られた景色、さまざまな物事に思いを寄せる様子を描いた「思い出す事など」も徹底した表現力に、多大な感情移入をしてしまいます。読んでいて自分が床に臥せているような気になりました。
優れたシンガーが、メロディーの美しさの前に、自らの声質や歌唱力の素晴らしさを印象付けているようなものです。文章自体に味わいとパワーを感じるのです。
たまには文豪も好いものです。
映画化もされている「夢十夜」は、実際に見た夢を軸に構成されています。幻想的でホラー感覚を味わえる部分も有りますが、基本的に、昔話や伝説・故事の類に通じるような、土俗的な雰囲気に満ちています。“夢判断”という観点から、人物漱石の心理学的分析も可能なのでしょうが、私の場合それよりも、物語性の深さに単純に引き込まれました。
小学校高学年の頃から本を読むのは好きでしたが、所謂“文豪”と呼ばれる作家のものは余り読んでいません。今回漱石作品に触れ、文章表現の緻密さと、そこから立ち昇ってくるイマジネーションの奥深さに圧倒されるばかりでした。
漱石が大病を患った際の、身体の変調の様子や、病床から見える限られた景色、さまざまな物事に思いを寄せる様子を描いた「思い出す事など」も徹底した表現力に、多大な感情移入をしてしまいます。読んでいて自分が床に臥せているような気になりました。
優れたシンガーが、メロディーの美しさの前に、自らの声質や歌唱力の素晴らしさを印象付けているようなものです。文章自体に味わいとパワーを感じるのです。
たまには文豪も好いものです。
2008/06/08のBlog
[ 16:28 ]
[ 追悼 ]
先日マヘリア・ジャクソンを聴いてまして、ちょっと歌い出しただけで包み込まれるような深く温かい歌唱に、今更ながらひれ伏してしまいました。
去る6月2日、ロックンロールの生みの親(の一人)ボ・ディドリーが亡くなりました。昨年脳卒中で倒れてからリハビリに励んでいたものの、再びステージに立つ事は出来ませんでした。彼の訃報を新聞で読み、あのジャングル・ビートが脳裏に浮かんだと同時に、何故かマヘリアの深い歌声も甦ったのです。追悼の気持ちがゴスペルへの連想を呼んだという気持ちも有るかと思います。しかし、マヘリアが「深い」ようにボ・ディドリーも只管深いのです。
「ロックンロールは乗りだぜ!」と俗に言われるように絶妙なダンスビートを紡がなければ意味が有りません。聴く者が自然と身体を揺らせ、音楽に没頭できる曲でなければいけません。ただ、「乗り」が命だからといって中身が無いのでは決してありません。チャック・ベリーが軽快さの中に微妙な翳を持つように、ボ・ディドリーのロックンロールも黒くて濃くてぶっとくて、深いのです。ロックンロールに「深み」がなければ、調子の好い曲だけが生き残り、アーティスト自身は忘れ去られ、後を継ぐ者や、彼をリスペクトして止まないミュージシャンやファンなど存在しなくなるのです。
ボ・ディドリーは様々なミュージシャンやファンに愛され、最後の最後まで充実したステージを務め上げた特筆すべきアーティストです。また、一人我々は重要な音楽家を看取ってしまいました。今はただ感謝の気持ちを彼に捧げるのみです。ありがとう、ボ・ディドリー!貴方は永遠に生きています!
♪サイト
♪ウィキペディア
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♪動画
♪過去記事
去る6月2日、ロックンロールの生みの親(の一人)ボ・ディドリーが亡くなりました。昨年脳卒中で倒れてからリハビリに励んでいたものの、再びステージに立つ事は出来ませんでした。彼の訃報を新聞で読み、あのジャングル・ビートが脳裏に浮かんだと同時に、何故かマヘリアの深い歌声も甦ったのです。追悼の気持ちがゴスペルへの連想を呼んだという気持ちも有るかと思います。しかし、マヘリアが「深い」ようにボ・ディドリーも只管深いのです。
「ロックンロールは乗りだぜ!」と俗に言われるように絶妙なダンスビートを紡がなければ意味が有りません。聴く者が自然と身体を揺らせ、音楽に没頭できる曲でなければいけません。ただ、「乗り」が命だからといって中身が無いのでは決してありません。チャック・ベリーが軽快さの中に微妙な翳を持つように、ボ・ディドリーのロックンロールも黒くて濃くてぶっとくて、深いのです。ロックンロールに「深み」がなければ、調子の好い曲だけが生き残り、アーティスト自身は忘れ去られ、後を継ぐ者や、彼をリスペクトして止まないミュージシャンやファンなど存在しなくなるのです。
ボ・ディドリーは様々なミュージシャンやファンに愛され、最後の最後まで充実したステージを務め上げた特筆すべきアーティストです。また、一人我々は重要な音楽家を看取ってしまいました。今はただ感謝の気持ちを彼に捧げるのみです。ありがとう、ボ・ディドリー!貴方は永遠に生きています!
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2008/06/07のBlog
[ 16:58 ]
[ 現代R&B・ヒップホップ系 ]
デスティニーズ・チャイルドは、ビヨンセに代表されるように、各メンバーともゴスペルライクな感覚を持っているようです。2001年『サヴァイヴァー』リリース後「活動休止」が発表され、各人のソロ作が順番に発表された際、先陣を切ったミッシェル・ウィリアムスの当アルバムも、ゴスペル・アルバムとしてリリースされています。御大シャーリー・シーザーやメアリー・メアリー等ゴスペル界からのゲストも参加しています。
しかし、全体の印象では“R&B”の範疇は越えてないし、その方が彼女らしいと思います。
声は細めでややクセが有り、そのクセがゆったり目のビートに乗ると、ネオ・ソウル的展開さえ感じ、かなりの雰囲気を醸し出しています。
ゴスペル度の強い曲は、後半に集中しています。ミッシェルの声もよく伸びて心地好いのですが、小じんまりと纏まっちゃった印象です。アルバム全体のバランスを考えると、そぐわない感じもするのです。この辺を考えると、ビヨンセ辺りはゴスペルっぽさの出し方が上手いと、改めて思います。
ミッシェル・ウィリアムスはその後R&B中心になっているようで何よりです。歌唱の端々に、ゴスペル経験がフッと匂ってくる、そんな感じが彼女に似合うと思うのです。
♪サンプル
♪動画
♪サイト
♪Myspace
しかし、全体の印象では“R&B”の範疇は越えてないし、その方が彼女らしいと思います。
声は細めでややクセが有り、そのクセがゆったり目のビートに乗ると、ネオ・ソウル的展開さえ感じ、かなりの雰囲気を醸し出しています。
ゴスペル度の強い曲は、後半に集中しています。ミッシェルの声もよく伸びて心地好いのですが、小じんまりと纏まっちゃった印象です。アルバム全体のバランスを考えると、そぐわない感じもするのです。この辺を考えると、ビヨンセ辺りはゴスペルっぽさの出し方が上手いと、改めて思います。
ミッシェル・ウィリアムスはその後R&B中心になっているようで何よりです。歌唱の端々に、ゴスペル経験がフッと匂ってくる、そんな感じが彼女に似合うと思うのです。
♪サンプル
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[ 12:45 ]
[ ブルース ]
レコード棚の端から順番に聴いています。
●ジミー・ロジャース『ルデラ』(90年)
ライブ・ハウスも経営しているブルース・レーベルの<アントンズ>発。私が持っているのは<Pヴァイン>を経由した日本盤。因みに邦題は『シカゴ・バウンド』です。
スタジオ録音とライブ録音を混ぜていますが、明確な違いは感じられず、統一感はあります。プロデュースとハープ演奏をファビュラス・サンダーバーズのキム・ウィルソン(金日成じゃないよ)が担当。パイントップ・パーキンスやヒューバート・サムリンといった“職人”も参加しています。
全体に、緊張感と勢いの有る素晴らしい演奏ではあります。しかし、シカゴ黄金期の、くすんだような切羽詰まったような独特の空気感は感じられません。時代が違うのもあるでしょうが、メンバー個々の絡みが生み出すゾクゾクする瞬間が少ないんですよね・・・勿論、必ずシカゴに戻らなきゃいけない訳じゃないですが、ついつい比較してしまいます。“ブルースネス”というモノサシで測るなら、やはり“黄金期”の名に相応しい時代であったと痛感します。
パイントップ・パーキンスは味の有る演奏が時々聴こえますが、サムリンは余り存在感を感じませんでした。一番気になったのは、キム・ウィルソン。ちょっと“吹き過ぎ”な感じです。ライナーで小出斉さんが、サンダーバーズの時の方が抑制されているみたいな事を書かれてたので、普段より躁状態だったのかも知れません。しかし、邪魔というより、その闊達さが微笑ましくもあり、気になってしまうといった所です。
ジミー・ロジャースは流石で、特にヴォーカルはデルタの薫りを感じ、マディのような逞しさと哀切感に、聴き惚れてしまいます。つい、ギター・プレイに耳が向きがちですが、ヴォーカルからも味わい深さは滲み出ています。
●ジミー・ロジャース『ルデラ』(90年)
ライブ・ハウスも経営しているブルース・レーベルの<アントンズ>発。私が持っているのは<Pヴァイン>を経由した日本盤。因みに邦題は『シカゴ・バウンド』です。
スタジオ録音とライブ録音を混ぜていますが、明確な違いは感じられず、統一感はあります。プロデュースとハープ演奏をファビュラス・サンダーバーズのキム・ウィルソン(金日成じゃないよ)が担当。パイントップ・パーキンスやヒューバート・サムリンといった“職人”も参加しています。
全体に、緊張感と勢いの有る素晴らしい演奏ではあります。しかし、シカゴ黄金期の、くすんだような切羽詰まったような独特の空気感は感じられません。時代が違うのもあるでしょうが、メンバー個々の絡みが生み出すゾクゾクする瞬間が少ないんですよね・・・勿論、必ずシカゴに戻らなきゃいけない訳じゃないですが、ついつい比較してしまいます。“ブルースネス”というモノサシで測るなら、やはり“黄金期”の名に相応しい時代であったと痛感します。
パイントップ・パーキンスは味の有る演奏が時々聴こえますが、サムリンは余り存在感を感じませんでした。一番気になったのは、キム・ウィルソン。ちょっと“吹き過ぎ”な感じです。ライナーで小出斉さんが、サンダーバーズの時の方が抑制されているみたいな事を書かれてたので、普段より躁状態だったのかも知れません。しかし、邪魔というより、その闊達さが微笑ましくもあり、気になってしまうといった所です。
ジミー・ロジャースは流石で、特にヴォーカルはデルタの薫りを感じ、マディのような逞しさと哀切感に、聴き惚れてしまいます。つい、ギター・プレイに耳が向きがちですが、ヴォーカルからも味わい深さは滲み出ています。
ジミーは本盤の8年後に、シカゴ黄金期を再現したといわれるアルバムを発表しています(未聴)。黄金期では、リーダー作でも脇役に回っても定評の有ったジミーだけに、シカゴ・サウンドが体内に染み込んでいるのは間違いないようです。
♪動画
※ファビュラス・サンダーバーズは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの兄貴であるジミー・ヴォーンがギターを弾いている白人ブルース・バンドです。私はレイ・ヴォーンよりいなたい兄ちゃんのプレイが好きで、バンド自体も、アルバムは持ってないんですが、割りとイケるなあと思った記憶が有ります。結構ダウンホームです。
♪動画
※ファビュラス・サンダーバーズは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの兄貴であるジミー・ヴォーンがギターを弾いている白人ブルース・バンドです。私はレイ・ヴォーンよりいなたい兄ちゃんのプレイが好きで、バンド自体も、アルバムは持ってないんですが、割りとイケるなあと思った記憶が有ります。結構ダウンホームです。
