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世界読書放浪
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2008/01/16のBlog
副題が「中国一の百貨店 天津伊勢丹の秘密」となっていて、「中国一」かどうかは知らんが、著者は天津伊勢丹元社長。ということで、中国ビジネス本の系譜なのだけど、やはり「中国人論」に走ってしまって、どうにもツマラン。非典、アジアカップ、反日デモのときも現駐だった様で、その辺は参考になるのだが、そうした「ニュースの現場」にいたことが、また一人「中国通」を誕生させたのかもしれん。百貨店の社員は、どんな理不尽な客でも、「神様」として扱わなくてはならんから、大変だなあと昔は思っていたのだが、自分で客商売を経験すると、惰性でいくらでもできることが分かった。最近、クレーマーの問題が騒がれているが、学校とか役所とか「客商売」という意識がない現場ばかりで問題が表面化している様な気もする。図書館も外部委託になってから、クソジジイの扱いがうまくなって日頃感心している次第である。中国の百貨店が正に革命的変化を遂げたのも、要は「客商売」になったからという簡単な話なのではあるが、それも、革命は一日にして成就した訳でもなかろう。なんでもこの人の先代まで、「ローカル」に「バカヤロー」と怒鳴っていた現派がいたそうだが、それも驚きだ。とはいえ、「TIC問題」とかで盛り上がって、適当に息抜きでもしているから、やっていけるところもあるのだろう。この本もその延長線上のものかと思っていたら、後半になって、中国人に先入観を持たないとか、教訓をどんどん並べてきて、なんか矛盾したことになってきた。まあ矛盾を矛盾と思わないのが、この業界、しいては「日本株式会社」のやり方だということでは納得いくのだが。
この時期にケネディというのも、大統領選を意識したものなのだろうか。本も腐るほどあるは、映画もあるわのアメリカの皇族とも言われている家だから、あらかた語りつくされてるのかとも思うのだが、その多くが「神話」であるということは、この本に書いてあることが「実像」かというところは別にして、その通りなのだろう。著者は中学生の時にケネディ暗殺があって、それ以来真相追究をライフワークとしている人らしい。当時の中学生の間で、そうした「推理」が流行っていたのかどうか分からぬが、アメリカ留学を経て、大学教員をしながら、ケネディ本を何冊も出し続け、遂に真犯人を特定するに至ったそうだ。その真犯人も実名で登場するのだけど、その詳細については既出の本で明らかにしてるとのこと。この説は全く知らなかったのだが、世紀を揺るがすスクープとなった気配はないから、「ディープ・スロート」に教えてもらったのではなく、あくまで著者の推理から導き出されたものみたい。しかし、実在の人物を名指しして訴えられたりせんかったのかな。まあ、よく言うマフィア以外に、フーバーとか、ジョンソンとか、フルシチョフ説もあるんだから、真犯人の疑いをかけられるのも、名誉みたいなところがあるのかもしれん。今までの評伝と、ちょっと変わってる点はJFKの病気にかなりの比重を置いている点。ヤク中だったという話は聞いたことがあったが、若い頃から入退院と手術を繰り返した結果、投薬の副作用で苦しんでいたらしい。安倍シンゾウと同じ病気だとは知らなかったが、安倍もJFKも、精悍なイメージがウリだっただけに、政治家というのは俳優の様なものであるということは意識させられる。こうした側面から描くのも、著者自身が病魔と闘っているということと関係があるのだろう。ということで、評伝としては大変面白かったのだが、「チリのリマ」とい記述はJFKの発言を(ママ)した訳ではないだろう。編集の白戸氏は自分に叱咤激励する必要もありそうだが。
2008/01/15のBlog
博士論文ものなのだろうか。大変な労作である。香港と日本映画交流史というと、中平康や西本正といった60年代に香港に渡った映画人を思い浮かべるのだが、その当時の「香港映画」の嚆矢は戦前の上海にある訳で、中華電影や抗日映画の時代から膨大なタイトルを挙げ、解説していく。映画史的にはオーソドックスなスタイルなのだろうが、日本に対してより厳しい見方をしているのは、「中国人」と「香港人」の間で揺れる香港人の悲哀がよく出ている感じがする。とはいえ、中華電影を評価しないのは、中国の資料がそうなっているからだともしており、日本側の資料の「過大評価」が気になる様である。そうした「映画版歴史認識」のギャップが、著者のテーマでもある様で、60年代の日本映画人の香港映画の貢献についても、日本側の「過大評価」を指摘している。香港側からみれば、それは映画産業の急成長に伴う人材不足の解消といった側面が主であり、技術の差はあったにせよ、文化の上から下へといった言説で語られることには忸怩たる思いがあるのかもしれない。この辺は映画を文化として考えるか、産業として考えるかといった問題になると思うが、ほぼ国内で完結するマーケットで発展した日本映画と、海外マーケットを前提とした香港映画では、「映画文化」そのものが異なるということが言えると思う。しかし、ともにローカル色を出すことで、一方は芸術的に、一方は大衆的に、「普遍化」したというのも興味深い現象ではある。その意味では香港と日本の映画は本質的には同じ構造下にあり、結果的に交流するのも必然だったのではないかという気もする。「映画史的」に止まってしまっていた大陸は別としても、両者と深い繋がりがあった台湾映画にあまり言及していないのも、著者の「中国人意識」というより、それが政府のコントロールの下にあったこととも関係してよう。韓国も含めて、当時の東アジアで自由な製作状況にあったのは日本と香港だけであったということでもある。著者が副題としている「アジア映画ネットワークのルーツを探る」と意味もその辺りにあるのだろう。
新風はエライことになってしまった様だが、文芸は大丈夫なのだろうか。御苑前にでかいビルおっ立てたけど、この著者もその人柱として貢献したのだろう。プロフィールは「昭和28年東京都出身」とあるだけの、この上ない簡素な経歴。まあ文芸社の著者だから、それでイイとは思うのだが、この手の作品は著者と版元をツッコムしかないので、その点、やはり気になる。高校生の息子(アメリカ生まれだそうだ)との二人旅の様だが、団塊ジュニアが高校生というのは結構、トシいってからの子どもか。と思ったら、更にトシの離れた妹がいるらしい。どうも再婚したらしく、この長男が1歳の時に先妻に先立たれたとのこと。そうした家庭の事情と、この旅が関係しているのか分からんが、本にしたこととは大いに関係している様だ。イマドキ高校生の息子さんが、オヤジと二人旅してくれるケースは余りないと思うが、「オレを産んでくれたお母さんってどんな人だった?」なんてドラマみたいなセリフも入ってる。別にカトリックでも、キリスト教徒でもない様だが、思わずサンティアゴ巡礼してしまう団塊の悲しい性。その意味ではホントに歩いたのだからタイトルに偽りなしなんだけど、息子さんはよう一緒に歩いてはくれなかったようで、先にスイスイ歩いていったそうだが、道中に「中林」とか道標をつけて、オヤジを涙させたりしている。ということで、息子への愛情を吐露しておしまいとなるのだが、カラオケで杉田二郎とか唄って勝手に涙しているオヤジよりはマシだろうが、こんなことを世間様に読まれては息子も困ってしまうのではなかろうか。まあいずれにしても、息子に捧げたこの本を息子が読むのは、せいぜい自分が父親になったときか、オヤジの葬式の後になるのが関の山だろうけど。
2008/01/14のBlog
これが明石の「アジア現代女性史」シリーズ第一弾らしい。この前読んだのは中国売春撲滅政策だったけど、こちらは「タイの売春宿へ人身売買されるビルマの女性たち」。原題もそんなタイトルだった様だが、これが「現代の奴隷制」へと変化するのも、「従軍慰安婦=性奴隷」定着を意識した人たちの思惑と関係しているのだろう。まあ、それはそれとして、原書はどっかの人権団体がまとめた1993年のものらしい。従軍慰安婦は15年前から、かあり「進歩」があった訳だが、「現代の性奴隷」はどんなもんであろうか。聞くところによると、タイにワンサカいた海外NGOは、問題がより深刻なカンボジアとかラオスに移動してしまい、国内にスポンサーを持たない地場NGOは壊滅状態になっているという話もある。政府機関から資金援助を一切受けてないことを謳っているこの人権団体のバックはどこなのかは分からんが、ビルマ政府とタイ警察の体質がそう変わっていない以上、問題が解決するのは困難であろう。いずれにしても、現在進行形の「性奴隷」や「民族浄化」より、「過去の歴史」が問題にされるのも、問題の本質が政治にあることを表していよう。黄金町ガード下が一夜にして一掃されたみたいなことを、エイズ危機さえ乗り越えてしまったメーサイやラノーンに望むのは無理があるのだが、タイ人からタイ少数民族、ビルマ、ビルマ山地、中国内陸、更には最近の北朝鮮と供給元を変えてきた現状をみると、市場原理というものがここでも働いているのが判る。昭和恐慌の時代の東北ではないが、売春は経済問題であり、政治問題である人権との折り合いが付かないことには皆、薄々気が付いていると思う。最古の職業云々言うつもりはないが、北朝鮮からルクセンブルグまで「性奴隷」は存在している以上、出口のない運動を続けるなら、合法化なり、国営化なりを議論する余地はあるとは思うけど。
「ルーツ」といっても、当然アレックス・ヘイリーではない。「SPORTS yeh!」って雑誌に連載されていたというサッカー本。クリロナから始って、トッティ、馬、バラック、ルイルイ、フィーゴ、ラウール、デルピエロ、ぶっフォン、杏里、マルディー二、じらるディーの、バレ論、六辺、凸といった欧州球界のスターたちの下積み時代の話なのだが、何故か締めはパクチソン。パクは京都ではなく、水原になるのだが、少年時代に神童ではなかったのもこの人だけの様。凸もブラジルではなく、アルベルカなのだけど、あの避暑地クラブは消滅したのか。そのポルトガル4つを書いているのは執筆者代表みたいになっている小宮良行というバルセロナ在住の人らしい。フィーゴやルイコス田が地元で嫌われている証言もとっていて、この辺は面白い。フィーゴの親友が中国系ポルトガル人(それもチーナという名前らしい)というのは初耳だが、日本食マニアらしいし、この人はオリエンタル・フェチなのかな。ロッペンの髪の毛は抗癌剤の影響だったのか。なるほど親父はフサだ。それにしても、体力的な影響は無かったのだろうか。あのスピード自体化け物だけど、自転車のアームストロングみたいな疑惑は出ていないみたいだし、まだまだやれそうだね。
2008/01/13のBlog
新版だそうだ。とはいえ92年の旧版に加筆修正した訳では無い様で、印刷まで含めて時代を感じさせるものとなっている。旧版も読んだ様な記憶はあるのだが、著者の27歳の時のデビュー作だったらしい。当時は全く気にならなかったと思うが、今読むと内容以前に、さすがに違和感がある部分が目立つ。著者がドイツのトルコ人たちにインタビューしたものが、そのまま載っているだけなのだが、ブルーカラー人たちの話し言葉と、学者とかケースワーカーの人たちの話し言葉をステレオタイプ的に区別しているのは気になった。本人の使用言語がドイツ語かトルコ語の明記もないのだが、日本語で「オレ」とか「ワシ」とかの一人称で意訳すると、著者の意図がどうだったのかは分からないが、「くだけた感じ」より、「無教養」の印象が先行すると思う。しかし、当時のスタンダードを考えれば、これが自然だったのかもしれない。いずれにしても、この時期に、「旧版」と一寸違わぬ「新版」を出す意図はなんなんだろう。統一が文字通り完成し、EU統合も実現し、ドイツの外国人問題もトルコ人問題とイコールでは、なくなってしまい、更には国籍法の改正もあったのだが、そうした変化について後追いしている訳でもない。たしかに「歴史資料」としての価値はあると思うのだが、版を重ねる名著という訳ではなかったろう。ドイツのトルコ人社会の多様性については伝わったけど、その「クルド性」について全く触れていないのも不思議だ。トルコをテーマにしているという著者にとって、当時はその後の取材にでも支障でもあったのであろうか。
原書は2003年らしい。シカゴ・トリビューンで、その年の10冊に選ばれたそうだが、これがスゴイことなのかどうかはよく分からん。ジョン万次郎から、岡倉天心、ヘンリー・アダムス、モースに小泉八雲、フェノロサといった日本と米国に関わった人たちの物語を主題としているのだが、二段組の翻訳モノだから、結構疲れた。ルーズベルトが柔術をしていたなんて話は知らなかったし、それを指南したビゲロウという人や、鎌倉大仏を描いたラファージといった筋金入りのジャパニストについても知らなかったので、勉強にはなったのだけど、こうしたオムニバスで「アメリカのみた日本」を突きつけられると、やはり戸惑いは感じる。時代背景が異なるのだが、先に読んだ「ジャパナメリカ」と同質の「まなざし」を感じるし、一部の「クール」な人たちが日本を「発見」するという構図は普遍なものなのだろう。その「クール」な人たちは、ほぼ例外なく本国で問題を抱えていたわけだが、当時は冒険に等しかった日本への旅を決意させたのも西洋文明に対するアンチテーゼがあったのだろう。「野蛮」を文明化する使命を帯びた宣教師の受け入れを制限してきたことが、日本を「文明国」たる地位に留めたというのも皮肉な話なのだが、それは現在の「先進国」或いは「OECD諸国」で唯一の非キリスト教国である日本の「神秘的なイメージ」にも繋がっている。それを「模倣」というキーワードで捉えるか、より本質的なものを探し求めるかが、「日本」というものを理解する鍵なのだろう。まあそれは、あくまでも外国人にとっての話だけど。
2008/01/12のBlog
著者は在日の研究者だそうだが、「韓国ナショナリズム」を批判する数少ない立場の人とのこと。ただ、鄭大均の様なメジャーな人ではないので、その主張がどんなものなのかはよく分からない。これが初めての著作ということもあり、今までの論文まとめをごった煮でまとめた形なので、「韓国ナショナリズム」を批判的に捉えているのは最後の「在韓華僑物語」と、あとがきで、韓国の「記憶の操作」に言及しているところくらいしか印象には残らなかった。まあ「ナショナリズム批判」とかは世の研究者のお題目の様なものなのだが、副題が「抵抗のナショナリズム批判」となっているのは、世のナショナリズム批判が、「狭隘なナショリズム」と「抵抗のナショナリズム」を区別する詭弁に著者は「抵抗」しているのかもしれない。「狭隘」と「抵抗」の間に何があるかというと、所謂「歴史認識」の問題に辿りつくのだが、巷に溢れる「ナショナリズム批判」が説得力を持たないのも、それが「党派」の問題に過ぎないことを「無知なる大衆」は見抜いているからである。その上で「民族主義」を軽々と語るべきではないというのが著者のスタンスなのだが、「在日」であることが研究上のアドバンテージになることを日本人に言われることは、「この上ない暴力」だと感じている様だ。それは在日の「党派性」を打開したいという著者の意図と、日本人の「党派性」が衝突するという矛盾なのかもしれないが、単に「逆差別」を指摘されることに怒りを感じたということなのかもしれない。ただ、少なくともそうした「感情」の経験をしたことは研究上のアドバンテージになっている様な気もする。それにしても、韓国人はベトナム人から嫌われているということを聞いて、ベトナム語を習いにいくことにしたというのもスゴイ話だ。そこでベトナム人講師が都合よく韓国人を非難するというのは、ちょっと出来過ぎた感はあるが、あらゆる批判を「想定済み」とする著者にとって、想定通りの批判を受けることが、自分という存在意義を確認できる手段になっているのかもしれない。日本人が在日を羨ましいという言説はおそらく「想定外」のことだったのだろう。私は、とりあえず「落地化生」は「落地生根」ではないかと批判しておくが、実はそれも想定済みで、韓国語では「落地化生」なのかもしれない。韓国人が朝鮮族を揶揄するという「黒竜江」ということばが、香港人が大陸を揶揄することばと同じだったことは発見だったが。
南アフリカ人の自然保護活動家が、バグダッドの動物園を略奪がら救うために、単身乗り込んで奮闘する著者の情熱が溢れた感動ノンフィクションと早川は紹介してるんだけど、まあそれだけで、イラク人とは関係ない話だということが分かる。クウェート動物園の人たちと乗り込んでいったんだから、第一単身じゃねえじゃないかよ。ということで、アラブ人は人の数に入らず、ライオンの方が大事というのは如何にも南アフリカ白人らしい価値観ではある。この惑星の倫理観に反することは認められないとか、アパルトヘイト野郎の環境屋にお説教されて、感動するのはグリーンピース・ジャパンの人たちくらいなもんではないか。衛星電話でアメ兵を釣るところなどは、この前の不肖のヤツと同じなのだが、不肖に言わせたら、人間の盾以上のゴミになるのだろう。要するに世界のあらゆる畜生どもが集結したのが、陥落したバグダッドということなのだろう。ウダイのライオンを仕留めたのもこの男らしいが、クマが檻の中で放置されているのをみて、動物虐待は許されない、惑星の倫理に反してるとかぬかしている。そのくせ、エサとして1頭5ドルでロバを買い占めたそうで、アホ臭いったらありゃしない。そこら中で人が死んでるバクダッドで、動物愛護も結構なのだけど、これじゃあ「象の花子」の話が高尚に聞こえるわい。
2008/01/11のBlog
「九大アジア叢書」もなかなかお目にかかれないと思ったら、改称してからまだ4冊しか出てなかったのか。中国の石炭政策のヤツが新刊みたいだけど、九大でもやはり「アジア」は中国か。ということで、こちらも自給自足の九大の先生が書いた本。人口からエイズ、環境、サーズ、タバコに酒まで一通り、説明がなされている。そうした基本事項が報告書チックになるのは、著者が元WHO(初の)中国駐在日本人職員という人だったから。ちなみに世銀(初の)日本人保健専門家という経歴でもあるそうだが、世銀にそんな専門職があること自体知らなかった。とはいえ、一応新書タイプなのだから、教科書ではなく、読み物としての色をつけることに苦心した跡は覗える。新書なのに複数の人からコラムを募って、その筋の専門からのナマの報告を載せるようにしていたりもする。中国についての本を出すのが長年の夢だったそうだが、なんでも、ジュネーブ本部勤務を辞してまで、九大に赴任したのも、「中国に近い」からという理由だそうだ。それだけ恋しいという中国なのだが、本文からは全くその気配が伝わってこないのも「国際公務員」の「品格」ということなのだろうか。サーズの時も中国勤務だったそうで、その裏話などは興味深い。WHOの下部組織が、純粋な地域割りになっていなくて、モンゴルが「モスクワで教育を受けたから」という理由で、ヨーロッパに入ったり、パキスタンが「インドと一緒はイヤだ」と地中海に入ったり、タイが「東南アジアに中国が入るなら大国扱いされないからイヤ」と日本が入る太平洋に行ったりといった事情は面白い。しかし、当時の中国最大の「WHO問題」とは、台湾問題であったろう。あの時の恨みを「台湾人民」は決して忘れない訳だが、その点については完全に無視。この辺は「国際公務員の品格」ではなく、「中国が恋しい」という旧国立大教員の事情を表しているのかもね。
アメ父とジャパ母の間に生まれ、米日で育ち日本在住という著者が書いた「ジャパン・クール」本なんだけど、私がこの方面(アニメとかマンガ)に明るくないこともあって、そこそこ面白くは読めた。たぶん真性の人からみれば、ツッコミところが多いかとは思うが、あくまでも一般アメリカ人読者を対象にした啓蒙本なので、これで良いのだろう。それほど違和感なく読めたのだが、おそらく日本語版は英語の原書とちょっと違うものなのではなかろうか。つまらんジョークが皆無だし、日本特殊論もほとんどない。ちなみに訳者は著者の反対で、ジャパ父とアメ母、日米育ちの米在住という人らしい。この本で書かれているような現象が、どれだけ実体を反映しているのか分からないが、著者や訳者はこうした動きがあると、精神的な既得権益が生じる立場ということになるのかもしれない。らだ、たしかに、著者が指摘する通り、日本人は外国人が日本を賞賛することに戸惑いを覚えるというのはあると思う。それが「自虐」なのか分からんが、「謙遜」ではなかろう。40歳以下の日本人はは外国人の評判を気にぜず、自分のやりたいことをするというのも、総じて言えばそうだろう。その「外国」が「アメリカ」なのか「アジア」なのかによって違うだけで、40歳以上の人たちは日本がどう見られているかを気にし過ぎという点では同じ構図である。その意味で、麻生太郎なんかが言ってることはみっともないのだけど、あの世代の人だとアメリカにまで、「オタク・カルチャー」が拡がっていることが単純に嬉しくて仕方ないんだろうな。韓流ブームに浮かれている韓国人なども一緒だけど、そうしてみると、アメリカや韓国、或いは中国の人たちにとって、この「オタク」というのも、ある種のカウンター・カルチャーなのかもしれないね。