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2008/01/20のBlog
[ 00:26 ]
[ 米国 ]
日本のジャズ喫茶についてのの論文でサントリー学芸賞もとっている人だそうから、このくらいのものを日本語で書くのはお茶の子サイサイなのかもしらんが、これが「笑える日米文化批評集」かどうかとなると、ちょっとこれはという感じではある。この人が「変なガイジン」と言われる所以は、国内外から、日本の醜悪の根源という意見の一致をみる日本のオヤジ系に、進んで同化せんとしようとするところにあるのではないかとも思った。たしかに、幾ら英語圏白人といっても、団塊バツイチ、ハゲマスでは、ガイジンアドバンテージはそれほど無いだろう。その上、「センセイ」も返上するとなると、何の存在意義があるのかということにもなってしまうのだが、それこそがこの人の望む、哀愁に満ちた日本のオヤジの姿なのかもしれない。とはいえ、アメリカ人というインセンティブは、「祖国」を弁護する必要もなく、日本に対して「道徳的優位」を証明する必要もない。こういう立場の人は書く方もそうだろうが、読む方も精神的に楽である。外国人差別も、外来語批判も自虐ネタに聞こえる。「外タレ」の意味を取り違えているのもご愛嬌だが、「ジョーク」は止めてくれ、ラクレから要望があったのかも知らんが、クソ面白くないジョークを披露するのは万死に値する。どうもアメリカ人のこの病気にだけは付き合いきれない。居酒屋でもっとオヤジギャグを研究してくれ。




2008/01/19のBlog
[ 12:40 ]
[ ロシア ]
岩波の「多民族国家ソ連の興亡」というシリーズの第三弾らしい。シリーズといっても、全て同じ著者が書いているので、個人の三部作という位置づけの様だ。著者によると、この三巻目だけが「ホット」の話題を扱っているとのことなのだが、テーマとなるのはソ連崩壊からチェチェン戦争が泥沼化するまでの時期だから、もはや「歴史」の一ページの時代の話である。ということは、おそらく前二冊はソ連時代の「民族」がテーマであったと思われる。現実的に「民族一般」というものはありえず、ロシア研究を長年してきた著者は、ロシアというフィルターを通した「民族」を論ずることの限界を感じているらしい。その意味ではソ連時代の「隠された」民族問題の方が、親ロシアであれ、反ロシアであれ、問題が単純化されているだけに論ずるに易なところはあるだろう。チェチェン関係の本は私もこれまで何冊か読んでいるのだが、どうにも頭の整理が付かない。カフカースの中でもチェチェンは特殊であるということは分かるのだが、この地域の本質的問題が、国家にあるのか、宗教にあるのか、言語にあるのか、部族にあるのか、民族にあるのか、利権にあるのかイマイチよく分からん。おそらくその全てを内包しているのだろうが、その辺を理解する教科書というより、ますます混乱してしまったという印象。ただ、著者が意味じくも告白している通り、ロシアの影響力というものが、考えているより巨大であるということは確かである様だ。「露帝何年」か知らんが、民族という概念すらロシアから移入したものである以上、自主独立の道は険しい。






[ 01:51 ]
[ 韓国 ]
前の新書からもう6年も経ったのか。別に転向したという訳ではないのだろうが、著者にとってこの年月は大きかった様だ。韓国人がワールドカップを契機にナショナリズムという病から解放されたとしているのだが、その病の絶頂であったワールドカップで、韓国のナショナリズムという病を発見してしまった日本に「嫌韓」の嚆矢が生じたのも皮肉な話である。そこから両国のベクトルが反対方向に向かっているというのは、韓国で生活している著者の実感としてあるのかもしれないが、日本で生活していない分、日本の情報を2ちゃんなどのインターネットに中に求めてしまっていて、ミイラ取りがミイラになってしまった感もある。日本中が嫌韓で溢れかえっているなら、ニューカマーのコリアン・タウンが出現することもないだろう。とはいえ、この本は当たりである。まるで黒田勝弘に挑戦するかのようなタイトルだが、黒田に対しての敬意も表しており、先の毎日記者の「脱日説」と合わせて、韓国人の対日観が一枚岩でなくなってきたということだけは確かなようだ。同時に、著者の様な立場をとる者も、韓国に滞在して「嫌韓」を発信する日本人もいる訳で、日本人も自由に韓国に向き合うことができる時代になったということは進歩なのだと思う。それにしても、新書という限られた紙幅で、この中身の充実ぶりはスゴイ。宗教について、深く触れていない理由まで書いてあるのだが、これはアフガン人質事件の最中であったこととも関係している様だ。「ナショナリズムという病」の説明としては、ほぼ完璧であると思うのだが、ナショナリズムの正悪二元論を超越した「ナショナリズムという愉しみ」というものも理解する必要はあると思う。








2008/01/18のBlog
[ 11:17 ]
[ イタリア ]
青土の本はたまにこういうのがあるのだけど、著者の略歴は掲載していない。女性で音楽畑の人ということは分かるのだが、息子さんのイタリア留学に付き添って滞在というのは、息子さんが小さい可能性も、成人している可能性もあるか。などと考えていたら、前に新書で読んだ人だった。前の本の記憶は、ほとんど飛んでいるのだが、音楽家の歴史ものだった様だ。今回は暮らしエッセイで、イタリアン貴族とのお付き合い話とかなので、クラシックとかセレブとかが性に合わない野郎が読んで面白いものではない。アントニオーニの夢を見る話だけは面白かったが、アントニオーニの嫁さんってホントにそんな人だったのかいな。しかし、この著者はどういう経緯でイタリアン貴族のお仲間入りをしたんだろうか。別に叶姉妹とか、デビ夫人みたいなイカガワシイものではないとは思うが。




[ 01:04 ]
[ 米国 ]
国際派ながら、かなーり地味な創成社新書。中々お目にかかれないのだが、こんな本を見つけた。『フォーチュン』の日本関係の記事を読み直して、戦中、戦後のアメリカの目に映った日本を紹介するというもので、著者は元NHKの人。なんでも寺島実郎が物産に勤務していた時に米国で知り合い、その後の寺島の『フォーチュン』に関する著作に誘発されたとのこと。寺島については、ちょっとアレだし、その本は読んでいないのだが、これが二番煎じだとしても、結構面白く読めた。著者は米兵にDDTを振りかけられた世代だそうだが、この前の日系人ものを書いた元ロサンゼルス特派員に続き、NHKの人は結構、ペンの方に向いている人が多いのかもしれん。そういえば『大仏破壊』の人の新作も気に掛かるし、新シル本も若手Dが結構イイ事書いていたことも思い出した。さすがにアナ系の本までは手を出さないけど。で、本題に戻すと、著者が焦点にしようとしていたのは、『フォーチュン』をはじめとするタイム社系列の報道がアメリカの対日政策、占領政策にどう影響を与えたかという点。その親玉だったルースについては、中国生まれでガチガチの親中反共で知られているのだが、宋美齢工作や南京大虐殺報道でも名前が出てくる人なので、当然ながら日本嫌いは徹底していたらしい。ドラッガーがここの記者だったということは知らなかったが、戦後ドラッガーが日本を評価しはじめると、ルースは顔をしかめたのだとか。その他にガルブレイスなども記者として関わっていたそうだ。ついでにマコ・イワマツと伊佐千尋の父親が同じ人だったというのも初耳だった。マコは亡くなったと聞いたが、伊佐千尋は今何をしているのだろう。そんなこんなで色々と興味深いのではあるが、有名な『汝の敵日本を知れ』とか、『菊と刀』といった政府筋のマスメディア以上に、世論喚起という点からも『フォーチュン』は米国の対日政策に影響を与えたことは確かではあろう。GHQの占領政策が素人同然の若手が手探りで遂行したということは指摘されている通りなのだが、それがイラク占領の決断に関係していたとなると、やはり複雑である。子ブッシュは懲りずに、まだ日本の民主化云々とか言ってるそうだが、こうした押し付けがましいものは、はっきり拒絶せんといかんのではなかろうか。








2008/01/17のBlog
[ 13:05 ]
[ 中国 ]
これはかなり面白かった。果たして「銃後の日本社会」がどのようなものであったかについては、もはや歴史である以上、「正史」を書く人が決めることなのだろうが、「反戦平和」側も、「侵略反省」側も、「戦争」という「財産」を消化しつくしてしまい、「戦争」というものを新たに構築する必要が出てきたのが最近の状況なのかもしれない。著者が話題を呼んだ赤木智弘の論文に感化されたことは、あとがきで触れられるのだが、「戦後世代」に求められるのは先の戦争の「反省」ではなく、戦争を問い直すことであろう。戦争によって、「格差是正」の萌芽が生ずるというのも皮肉な話だが、戦後の「経済成長」だけではなく、戦後の「民主主義」がスムーズに進行したのも、戦中にその基盤が整いつつあったからということも言えるのではなかろうか。皇民化教育だけで、国民を戦争に邁進させることなどできはしない。そこに「変化」の光明をみたからこそ国民は戦争に協力したのだろう。閉塞感が拡がる中、国体の偽善を逆手にとって自己実現を図る手段は、中国の「反日デモ」と同じ構図とも言えるのだが、その原因とされている「愛国教育」が「皇民化教育」と同じ論理にある通り、大日本帝国のイデオロギーはあくまで、儒教的なものであった。戦前の日本と現在の中国が同じ社会構造にあることは『月給百円サラリーマン』などでも指摘されている通りなのだが、北朝鮮が大日本帝国の精神に忠実な国家を作り上げたことでも、それは「日本的」とは異質なものであったことが分かる。「神州」を掲げる国が「神の国」を批判するのも近親憎悪みたいなものであろう。著者が高く評価する「京都学派」が、戦後に「進歩派知識人」の攻撃を受けたのも、その文脈で考えれば分かりやすい。中国大陸の前線で、農民の子である日本の兵士たちがみたものは何であったのかを考えると、南京大虐殺も、殴られる丸山眞男も、「国家」の欺瞞に対するしっぺ返しであった様な気がする。戦争が希望である世界の人々に、満ち足りた人々が「平和」を訴えることほど空虚なことはない。










[ 01:28 ]
[ 韓国 ]
出版不況の中、団塊市場は無視できない貴重な需要層なのか、この手の「思い出もの」が多く出ている。上野千鶴子に強く要請されて、長年の沈黙を破って、このテーマで書いたプルーストの翻訳で知られる著者はその系譜に当たらないのかもしれないが、かなり「時代の精神」を感じさせるものであることには変わりはない。現代の感覚で読むと「党派性」が前面に出ていることが気になるが、当時の「知識人」としてはそれが普通であっただろう。「新日本文学会」にも所属していたそうだが、著者は「同志」として登場する中嶋嶺雄や佐藤勝巳の様に「転向」という道を辿らず、「沈黙」の道を辿った。そこに著者の「思考」の限界を覗うことは可能なのだが、アルジェリア独立戦争、サルトル、そしてジャン・ジュネにインスパイヤされたことを著者が語ってる通り、その動機はあくまでも他動的なものであったと言えよう。日本をフランス、アルジェリアを朝鮮、サルトルを自分、ジュネを李珍宇に重ね合わせたのだが、結局、その方法論も「国家」と「民族」の関係性という不毛な議論の中に収斂していく。李にしても、金嬉老にしても、「民族」を以って、「国家」が免罪すべき「犯罪」だったのだろうかという疑問は残るが、著者の様な「知識人」にとって、読書家でIQが高い、民族差別を声高に訴える、或いは極貧の生活をしているといった背景は、加害者を被害者とするに十分な条件なのだろう。金嬉老が出獄後、韓国でどうなったかについて言及しないのも不自然ではある。李珍宇にコミットしたのが、その死後であることは仕方ないが、回答を「民族」に求め、「越境」に失敗した李珍宇の世界の反省が、金嬉老事件の迷走に繋がったという感はある。この辺は戦後日本の「知識人」を体現したものでもあろう。お約束の「美しい国」批判は結構なのだが、「拉致」を「強制連行」で打ち消す言説には反論しておきたい。問題になっているのは「拉致」という行為そのものというより、北朝鮮が現在「拉致」されている被害者の存在を抹消している行為である。断罪しているのは「過去」ではなく現在の行為なのだ。著者の様に差別の原風景を知っている人間とは違い、現代を生きる人たちは「過去」は幻想で作り上げるしか外ない。読書という行為を「至高」の「思考」とする文化はかつて存在したのだろうし、現在でもそうした目的意識を持った読書をしている人はいるだろう。しかし、私を含めた読書など単なる「嗜好」にしか過ぎない人間にとって、読書で「幻想」を作り上げるには「現実」が大きな障害となる。






2008/01/16のBlog
[ 13:29 ]
[ 中国 ]
副題が「中国一の百貨店 天津伊勢丹の秘密」となっていて、「中国一」かどうかは知らんが、著者は天津伊勢丹元社長。ということで、中国ビジネス本の系譜なのだけど、やはり「中国人論」に走ってしまって、どうにもツマラン。非典、アジアカップ、反日デモのときも現駐だった様で、その辺は参考になるのだが、そうした「ニュースの現場」にいたことが、また一人「中国通」を誕生させたのかもしれん。百貨店の社員は、どんな理不尽な客でも、「神様」として扱わなくてはならんから、大変だなあと昔は思っていたのだが、自分で客商売を経験すると、惰性でいくらでもできることが分かった。最近、クレーマーの問題が騒がれているが、学校とか役所とか「客商売」という意識がない現場ばかりで問題が表面化している様な気もする。図書館も外部委託になってから、クソジジイの扱いがうまくなって日頃感心している次第である。中国の百貨店が正に革命的変化を遂げたのも、要は「客商売」になったからという簡単な話なのではあるが、それも、革命は一日にして成就した訳でもなかろう。なんでもこの人の先代まで、「ローカル」に「バカヤロー」と怒鳴っていた現派がいたそうだが、それも驚きだ。とはいえ、「TIC問題」とかで盛り上がって、適当に息抜きでもしているから、やっていけるところもあるのだろう。この本もその延長線上のものかと思っていたら、後半になって、中国人に先入観を持たないとか、教訓をどんどん並べてきて、なんか矛盾したことになってきた。まあ矛盾を矛盾と思わないのが、この業界、しいては「日本株式会社」のやり方だということでは納得いくのだが。




[ 00:11 ]
[ 米国 ]
この時期にケネディというのも、大統領選を意識したものなのだろうか。本も腐るほどあるは、映画もあるわのアメリカの皇族とも言われている家だから、あらかた語りつくされてるのかとも思うのだが、その多くが「神話」であるということは、この本に書いてあることが「実像」かというところは別にして、その通りなのだろう。著者は中学生の時にケネディ暗殺があって、それ以来真相追究をライフワークとしている人らしい。当時の中学生の間で、そうした「推理」が流行っていたのかどうか分からぬが、アメリカ留学を経て、大学教員をしながら、ケネディ本を何冊も出し続け、遂に真犯人を特定するに至ったそうだ。その真犯人も実名で登場するのだけど、その詳細については既出の本で明らかにしてるとのこと。この説は全く知らなかったのだが、世紀を揺るがすスクープとなった気配はないから、「ディープ・スロート」に教えてもらったのではなく、あくまで著者の推理から導き出されたものみたい。しかし、実在の人物を名指しして訴えられたりせんかったのかな。まあ、よく言うマフィア以外に、フーバーとか、ジョンソンとか、フルシチョフ説もあるんだから、真犯人の疑いをかけられるのも、名誉みたいなところがあるのかもしれん。今までの評伝と、ちょっと変わってる点はJFKの病気にかなりの比重を置いている点。ヤク中だったという話は聞いたことがあったが、若い頃から入退院と手術を繰り返した結果、投薬の副作用で苦しんでいたらしい。安倍シンゾウと同じ病気だとは知らなかったが、安倍もJFKも、精悍なイメージがウリだっただけに、政治家というのは俳優の様なものであるということは意識させられる。こうした側面から描くのも、著者自身が病魔と闘っているということと関係があるのだろう。ということで、評伝としては大変面白かったのだが、「チリのリマ」とい記述はJFKの発言を(ママ)した訳ではないだろう。編集の白戸氏は自分に叱咤激励する必要もありそうだが。








2008/01/15のBlog
[ 12:27 ]
[ 香港・マカオ ]
博士論文ものなのだろうか。大変な労作である。香港と日本映画交流史というと、中平康や西本正といった60年代に香港に渡った映画人を思い浮かべるのだが、その当時の「香港映画」の嚆矢は戦前の上海にある訳で、中華電影や抗日映画の時代から膨大なタイトルを挙げ、解説していく。映画史的にはオーソドックスなスタイルなのだろうが、日本に対してより厳しい見方をしているのは、「中国人」と「香港人」の間で揺れる香港人の悲哀がよく出ている感じがする。とはいえ、中華電影を評価しないのは、中国の資料がそうなっているからだともしており、日本側の資料の「過大評価」が気になる様である。そうした「映画版歴史認識」のギャップが、著者のテーマでもある様で、60年代の日本映画人の香港映画の貢献についても、日本側の「過大評価」を指摘している。香港側からみれば、それは映画産業の急成長に伴う人材不足の解消といった側面が主であり、技術の差はあったにせよ、文化の上から下へといった言説で語られることには忸怩たる思いがあるのかもしれない。この辺は映画を文化として考えるか、産業として考えるかといった問題になると思うが、ほぼ国内で完結するマーケットで発展した日本映画と、海外マーケットを前提とした香港映画では、「映画文化」そのものが異なるということが言えると思う。しかし、ともにローカル色を出すことで、一方は芸術的に、一方は大衆的に、「普遍化」したというのも興味深い現象ではある。その意味では香港と日本の映画は本質的には同じ構造下にあり、結果的に交流するのも必然だったのではないかという気もする。「映画史的」に止まってしまっていた大陸は別としても、両者と深い繋がりがあった台湾映画にあまり言及していないのも、著者の「中国人意識」というより、それが政府のコントロールの下にあったこととも関係してよう。韓国も含めて、当時の東アジアで自由な製作状況にあったのは日本と香港だけであったということでもある。著者が副題としている「アジア映画ネットワークのルーツを探る」と意味もその辺りにあるのだろう。








[ 00:23 ]
[ スペイン ]
新風はエライことになってしまった様だが、文芸は大丈夫なのだろうか。御苑前にでかいビルおっ立てたけど、この著者もその人柱として貢献したのだろう。プロフィールは「昭和28年東京都出身」とあるだけの、この上ない簡素な経歴。まあ文芸社の著者だから、それでイイとは思うのだが、この手の作品は著者と版元をツッコムしかないので、その点、やはり気になる。高校生の息子(アメリカ生まれだそうだ)との二人旅の様だが、団塊ジュニアが高校生というのは結構、トシいってからの子どもか。と思ったら、更にトシの離れた妹がいるらしい。どうも再婚したらしく、この長男が1歳の時に先妻に先立たれたとのこと。そうした家庭の事情と、この旅が関係しているのか分からんが、本にしたこととは大いに関係している様だ。イマドキ高校生の息子さんが、オヤジと二人旅してくれるケースは余りないと思うが、「オレを産んでくれたお母さんってどんな人だった?」なんてドラマみたいなセリフも入ってる。別にカトリックでも、キリスト教徒でもない様だが、思わずサンティアゴ巡礼してしまう団塊の悲しい性。その意味ではホントに歩いたのだからタイトルに偽りなしなんだけど、息子さんはよう一緒に歩いてはくれなかったようで、先にスイスイ歩いていったそうだが、道中に「中林」とか道標をつけて、オヤジを涙させたりしている。ということで、息子への愛情を吐露しておしまいとなるのだが、カラオケで杉田二郎とか唄って勝手に涙しているオヤジよりはマシだろうが、こんなことを世間様に読まれては息子も困ってしまうのではなかろうか。まあいずれにしても、息子に捧げたこの本を息子が読むのは、せいぜい自分が父親になったときか、オヤジの葬式の後になるのが関の山だろうけど。




2008/01/14のBlog
[ 13:02 ]
[ タイ ]
これが明石の「アジア現代女性史」シリーズ第一弾らしい。この前読んだのは中国売春撲滅政策だったけど、こちらは「タイの売春宿へ人身売買されるビルマの女性たち」。原題もそんなタイトルだった様だが、これが「現代の奴隷制」へと変化するのも、「従軍慰安婦=性奴隷」定着を意識した人たちの思惑と関係しているのだろう。まあ、それはそれとして、原書はどっかの人権団体がまとめた1993年のものらしい。従軍慰安婦は15年前から、かあり「進歩」があった訳だが、「現代の性奴隷」はどんなもんであろうか。聞くところによると、タイにワンサカいた海外NGOは、問題がより深刻なカンボジアとかラオスに移動してしまい、国内にスポンサーを持たない地場NGOは壊滅状態になっているという話もある。政府機関から資金援助を一切受けてないことを謳っているこの人権団体のバックはどこなのかは分からんが、ビルマ政府とタイ警察の体質がそう変わっていない以上、問題が解決するのは困難であろう。いずれにしても、現在進行形の「性奴隷」や「民族浄化」より、「過去の歴史」が問題にされるのも、問題の本質が政治にあることを表していよう。黄金町ガード下が一夜にして一掃されたみたいなことを、エイズ危機さえ乗り越えてしまったメーサイやラノーンに望むのは無理があるのだが、タイ人からタイ少数民族、ビルマ、ビルマ山地、中国内陸、更には最近の北朝鮮と供給元を変えてきた現状をみると、市場原理というものがここでも働いているのが判る。昭和恐慌の時代の東北ではないが、売春は経済問題であり、政治問題である人権との折り合いが付かないことには皆、薄々気が付いていると思う。最古の職業云々言うつもりはないが、北朝鮮からルクセンブルグまで「性奴隷」は存在している以上、出口のない運動を続けるなら、合法化なり、国営化なりを議論する余地はあるとは思うけど。





