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世界読書放浪
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2008/05/04のBlog
親北というより、植民地贖罪派といえる著者なのだが、これはわりと客観的なシロモノだった。「創氏改名」が強制的であったか否かについては、実際に自分で、その手続きをしたという人はあらかた亡くなり、月山明博の様な二世の「記憶」が、戦後韓国の「歴史認識」の枠内において、史実化されてしまった側面はあるだろう。ただ、「従軍慰安婦」や「強制連行」の様に日帝支配の象徴とまでになっていないのは、善良無垢な市民を身体的拘束を伴って連行するという「被害者イメージ」で語り継ぐには、不都合があるからでもあろう。著者は当然、その抵抗の記録を発掘しているのだが、岩波の水野本を以っても、この件に関しては「事大」の側面というのも否めない気がした。韓国人にその認識があったのか、あるのかは分からないが、著者も梶山季之の「族譜」が、韓国人の認識を改めさせたという「定説」自体は否定はしていない。梶山の小説が虚構に基づいていることは批判しているのだが、小説という性質上、史実に忠実である必要はなかろう。「創氏改名」に日本人が反対していたことは事実なのだが、それが日本人による差別であったにせよ、その動きを利用して阻止に持ち込むことは、やはり難しかったのだろうか。よく混同される「氏」と「姓」の問題や、女性側からみた改名問題など、「創氏改名」も多層的に考える必要があるとは感じた。今日の「通名」がその流れを汲むものであることは否定しないが、それが日本社会の変わらぬ差別であると単純に結論付けているのは、どうだろうか。著者のイデオロギー的なものにかかってくる問題なのだろうが、「在日」のアイデンティティとしての通名や、利便性のみで使用する通名も考慮すべきではなかろうか。
これも建築畑の人ではなく、「都市計画」が専門の著者の博論もの。モロッコに2年、フランスに2年、シリアに1年半の留学したとのことだが、この辺の学術言語は皆、仏語かな。この分野は研究より、実践重視だろうから、歴史史料というより、都市保全の参考資料として、実践的に読まれることを前提にしているのかと思う。というわけで、トーシロには難しいものなのだが、アンリ・プロストという人は名前を聞いたことがあった。著者は後藤新平の台湾・満洲の仕事に準えて、日本の都市計画のアジアへの拡散はもっと評価されてもいいとしているのだが、元々、都市計画の発展は植民地と密接な関係があるものだろう。それを否定したり、賛美したりすると、どうしても政治的な色彩を帯びてしまうのだが、初期に移住したフランス人が「古きモロッコ人」と、自分たちを位置づけていたというのも興味深い話だ。今はどうなのか分からんが、タンジェに船で着いたら、ウザイ連中が常に付きまとって来て閉口した。フェスに移動しても、すぐキターとなったのだが、傍にいた爺さんがウザオを一喝してから、ラバト、カサブランカ、メクネス、マラケシュと一切、ウザオに絡まれなくなり、快適な旅を続けられたのは不思議だった。まさか、爺さんが秘密警察ではなかろうが、フェスの魔力というものを感じ入った二十歳の夏だった。
2008/05/03のBlog
足かけ何年か。このシリーズも、ようやくこれで最後かと思いきや、まだフランスが残っているのか。出来上がった順に出しているのかそうか分からんけど、著者は、このシリーズが発刊し始めた頃はまだ院生で、自分が書くことになるとは想像もしていなかったという。それで、博論やスカラシップの報告書を下敷きに、アサヒビールの研究助成金も得て、調査に邁進したとのこと。その調査は付章のインドネシア食材事典に生かされているのだろうが、一週間に食べたものを記録してもらうインフォーマントも、相当な数に上っている。単にアンケートを回収するだけなら、それほど難しいことはないのだろうが、一人一人の詳しいプロフィールや感想もついていて、著者が時間をかけてインタビューしていたことを窺わせる。その食生活もさることながら、インドネシア人の多様性といったものをあらためて感じさせられた。インドネシアの女子高生やOLが何を食べているかといったことは、あまり知る機会もないのだが、食の中身こそ違えど、本質的なものは日本のソレと、あまり変わらないものだということも分かった。つまり、インドネシアの女子高生はハンバーガーとかパスタを外国料理と認識していなかったり、OLも「お一人様」で食したり、評判のお店をお友達と食べ歩きしたりしている。大学生男子の食生活がムチャクチャだったり、お年寄りの食生活が習慣的に質素だったりするのも普遍的なものなのかもしれない。宗教的禁忌や家政婦の有無といったものが日本と異なるのかもしれないが、屋台や物売りは、ファーストフードやコンビニと同じ位置づけにあろう。「ホカホカベントー」という大衆向け日本食チェーンが受けているというのは知らなかったが、その起源であろう「ほっかほっか亭」の名前が内輪もめから姿を消そうとしていることを考えると感慨深いものがある。しかし、サンドウィッチってインドネシアになかったかな。どっかで食べた様な気もするのだけど。
岩波初のブータン本かもしれないが、今枝由郎自体は翻訳集を岩波文庫で出したことがあるらしい。例の「ラサ暴動」の前に完成した新書で、主題はブータンだから、その言及はないのだけど、NHK出版のブータン本で書い多様な激しい中国批判は皆無。中国の「チベット進入」とか書いていたりもするのだが、これは「撫順の奇跡」から岩波に出向中のクマさんが、「侵攻」を「進入」に書き換えさせたのかもしれない。それとは関係ないのだろうが、相変わらずのブータン賛歌は、ブータン政府の代言人の立場も健在といったところだろうか。ネパール人問題についても、一応、説明があるのだが、この辺が政府の「公式見解」なのだろう。ほとんどブータンの代名詞となってしまっているGNHについては、国王自ら、「一人歩きしている」と語ったそうで、ブータン国内では、翻訳語として使われることはあっても、国民の間で話題となることは、ほとんどないそうだ。これはGNHに詭弁の匂いを感じる人たちに対するメッセージなのかもしれない。と、批判面から先に書いてしまったが、これは、結構面白い本だった。というのも、著者がブータンに「魅せられる」までの過程が詳しく綴られているからで、ここまで入国に時間と労力をかけたのなら、ブータンに魅せられないと損といった気持ちにもなるだろう。河口慧海やハラーの時代ではないのだから、ティンブ入り自体に意味がある訳ではないのだが、著者が何度も「専門はチベットなので、別にブータンでなくても良かった」と弁明するのも、不自然な感じがする。結局、10年も滞在することになったのも、偶然ではなく、運命的なものを感じてたからだと思う。自身を不信心者と位置づけているのだが、それもブータン人になり切れなかった自分への言い訳なのかもしれない。
このカナリア書房は、ちょっと前に似た様なコンセプトの本を読んだばかりなのだが、著者に名前が出ているブレインワークスっていうヤツが、カナリアの親会社らしい。つまりは「アジア」に出て行け、起業しろ、ついてはウチがコンサルするという会社なのだが、この本はそれをモロ出しにしたようなもん。たしかにタイは「アジア」の中では、条件が一、二を争うトコだと思うのだが、どうも「バッポン・オジサン」とか「外こもり」が自分を「タイ通」だと勘違いして、「ビジネス」を始めてしまうイメージも拭えない。そのパートナーは、えてして日本語を話す「タイ女」とか「華人」だったりもするのだが、それは別に日本人だけの問題ではなく、各国毎に網を広げている連中が存在するのだろう。「ビジネス」をする方も、金儲けというより、タイで暮らす手段として考えているケースが多いと思うのだが、暗中模索の段階においては、この手の本で釣られることもあるのかもしれない。それにしても、タイの外国人最低賃金が国別に定められているというのはスゴイな。日本人は6万バーツでトップ・グループか。今は5万に下がったらしいが、日本人より、ヨーロッパ人を雇った方が安くつくというのもなんだか。
2008/05/02のBlog
著者は新疆医科大学客座教授という人らしい。日大板橋時代に新疆医科大学が研修生を受け入れてから、交流を続けているとのことで、それは結構のことなのだが、そういう性質の本である以上、きな臭い話は皆無。当地で行っている研究はウィグル人の長寿者についての様で、100歳超全員に検診を受けてもらうなんてことをしたらしい。何でもウィグル人は長寿だが、カザフ人は短命だそうで、両者が気候風土が似たような地域に住んでいる以上、何か理由がありそうだということ。その理由は結局よく分からないのだが、ビルカバンバもウィグルも実のところ、100歳以上というのは自主申告であることが多く、70歳を過ぎると、年齢を1.5倍とかに水増しする現象があるのだという。ビルカバンバの100寿者の多くが80歳前後ではないかという話は知らなかったが、泉重千代さんも、実際は90代ではなかったかという説があるのは知らなかった。ということで、ウィグル人の100寿者全員に会いに行くなんてことは、それほど難しいことではない様だが、当地では男性の方が女性より長寿というのは考えさせられるものがある。それは世界的趨勢とは逆なのだが、女性の初婚年齢が早いことや、結婚離婚の繰り返しや、出産回数の多さと関係あるとのこと。イスラーム圏の女性に離婚が多いことは、知られていることなのであるが、42回も結婚したという女性もいたという。男は男で、奥さん数人、子ども100人とかいう話があるかと思いきや、ウィグル人男性の生活は意外と質素だそうで、死ぬ2週間前まで働いていたという100寿者もいたらしい。まあ、コトが老人関係なので、日本人も漢族もウィグル族も和気あいあいで研究していた様だが、血の気の多い連中も老人と医者には頭があがらないといったところだろう。最後に自分が理事をしている高校の卒業式の話があるのだが、浦和学院か。まあ、素直に感動すればよいのかもしれんが、新疆はお年寄りや家族を大切にするから素晴らしい、翻って日本は酷いなんて陳腐な結論になるのを避けるために、取ってつけた感じも否めないな。
国際交流基金「異文化理解講座」の書籍化も忘れた頃に出てくるな。山川もシリーズということで、順番に出しているのかもしれんが、本チャンの講座があったのは2005年1月だったという。テーマ的に3年くらいでは、大した変化はないから、川島真の「中国の外交」みたいに、さっさと出す必要もなかったのかもしれない。ただ、遅れの理由は、編者のグループの共同研究が東大出版会のシリーズで1冊出したばっかりというところにあった様で、噛み砕いたやさしいものを出さねばならんと、逆にリキ入れたからだという。で、山川さんゴメンとかあとがきで謝ってもいるのだが、果たして本文が、噛み砕いたものになっているかどうかは微妙。その点、コラムは合格点なのだが、「異文化理解講座」も結構、難しいことやってんなというのが正直な印象。コラムで面白かったのは、インドネシアの「ハラール中華」。ガチガチのムスリムなら、それでも恐くて食えんのだろうが、ジャカルタくらいならOKだろう。「シンガポール印尼僑」の人たちの投資だそうだが、インドネシアの国家予算を上回る資産をシンガポールのインドネシア人が持っているというのはスゴイな。シンガポールの富裕層の3分の一がインドネシア出身とのことだが、となると「共産クーデター」とか「反華人暴動」もシンガポールの陰謀でないのと疑いたくもなる。そんな感じで、「民衆のイスラーム」のケース・スタディが続くのだが、エジプト、イラン、トルコ、インドとか非中東アラブばかりなのはなぜだろう。編者は自分で専門ではないモロッコについて書くハメになったとか言ってるけど、非中東アラブでいこうという取り決めでもあったのだろうか。たしかに、「イスラーム」というと中東アラブのイメージが強すぎるし、中東アラブの方も自分たちが、イスラームの本家だという自負があるだろう。その意味では中東アラブは「宗教のイスラーム」であって、「民衆のイスラーム」はイスラームの後発地域に残っているということなのだろうか。
早稲田の「アジア太平洋研究選書」の第7弾らしいが、著者二人は20年差の慶應同門コンビ。このシリーズのプロデューサー、後藤乾一の推薦らしい。取り上げているのは1950年から2005年までなのだが、前2つと後ろ2つを先輩、真ん中2つを後輩、その前後を共同という見事に均等な役割分担。後輩の方の専門が、岸・佐藤兄弟の時代ということもあるのだろうが、波多野澄雄が研究者として一本立ちしたのは福田ドクトリンの頃か。戦後賠償はさすがに覚えていないだろうが、興味深かったのはやはりこの時代。しかし、この頃の「東南アジア」がパキスタンまで範疇にあったとは知らなかった。今日の「南アジア」という概念はまだなかった様だが、賠償問題や国際社会復帰が絡んだ日本の「東南アジア政策」において、インド・パキスタンの「スターリング圏」の動きは大変気に掛かるものだったらしい。また、「東南アジア」への中共の影響力拡大に対する対抗という意味合いも強かったとのことだが、これは当時と現在では、どちらが現実的な話なのだろうか。特にその鍵を握っていたのが、スカルノのインドネシアだが、日本と中国を天秤にかけ、両方に深入りしてすると、自滅の道を辿るという痛い教訓が、その後のASEAN政治家の共通認識になったのではないかとも思った。日本がスカルノを切ったのは、スカルノが中国の核実験成功を賞賛したからというのもリアルな話だ。根本七保子はハニトラ要員だったのだろうが、橋本とか谷垣のハニーなんていうのは、中国が三十年後に、日本にしっぺ返ししたものかもしれない。例によって、また中国の話になってしまうのだが、ARFにおける中国の能動的発言というのも興味深い。それは台湾や南シナ海において、ARFが中国の足かせとなることを警戒しているからだという。最近の聖火リレーでもチベットでもそうだが、黙っていると動きを止められてしまうという恐怖感が、この国は根強い様だ。チベット青年会とか東トルキスタン・イスラム運動がテロ組織だとかいう、いい加減な情報をばら撒いたり、留学生を動員して五星紅旗で沿道を占拠した「予防外交」の失敗には、賢明な外交部は気付いていると思うのだが。
2008/05/01のBlog
防衛弘済会なる版元があったとは知らなかったが、財団法人らしい。「自衛隊100科」なんて本や、名越二荒之助や保守キャラで再売出し中の大高未貴の本も出している。となると、当然この本もその系列かと思いきや、著者は元朝日記者。モスクワ支局長をしていたらしいが、1925年生まれというから、正に冷戦真っ最中の話。木村汎とは関係ないみたいだが、退社後は袴田のいる青学で名誉教授まで勤めたらしい。この時代ががったタイトルも齢80を過ぎてるのだから、責められるものではないのだが、旧制大阪外国語学校でロシア語を始め、朝日入社が1950年というのはスゴイな。プラハの春のチェコ事件は現地で体験したそうだが、「壁の向こう側」萌えの私には当時の貴重な話があれこれとあった。モスクワの日本大使館盗聴器事件というのも興味深いが、西独の盗聴器バスターが、帰国後に報復で殺されていたとは知らなかった。著者は結局、「中国の手先」ということで、ソ連から退去させられたみたいだが、朝日にその通告がされると、本社は通常移動で処理をしたらしい。当時は西側報道陣にとって、ソ連から強制退去になるのは「勲章」だったそうで、その辺を著者は立腹しているのだが、もはやソ連入国がかなわない以上、報道の一線から退き、社内の研究室に廻らざるおえなかったのだろう。その後「週刊現代」で「CIAの協力員」として名前が挙がったこともあるらしいが、立花隆は分かるけど、H大のU、S新聞のSも、実名でもいいんじゃないの。これはレフチェンコ証言で明るみに出たKGBの逆情報だそうだが、当時は「中国の手先」より、「CIAの手先」の方がダメージが大きかったということか。その中国がロシアと仲直りしたもんだから、韓国に呼ばれる様になったらしいが、韓国も自分で東側と関係を深めると、台湾へと足先を変えている。そこでハルピン学院出身のロシア研究家などとも交流するのだが、蒋経国は、やはりロシアの研究だけは継続させていたみたい。とはいえ、この辺になると、トシのせいか、ほとんど観光旅行の色彩が強くなり、同世代である日本語族との交流が楽しかった様子。そして、80を過ぎて、防衛弘済会から出版となるのだが、それも回帰現象みたいなものなのだろうか。
著者は定年団塊で、東洋出版だから、自費の可能性大なのだが、エラく調べものに時間がかかったんではないかと思わせる旅行記。旅行記自体は、別にフツーなのだが、仏教歴史解説が壮大すぎて、読むのに難儀する。最初の方は「私の旅」と別に配置していたのだが、仏教話がどんどん侵食してきて、本居宣長とか三浦按針とか、スリランカと関係なさそうな人たちの解説をしたり、しまいには、血の十字架のキリスト教、目には目のイスラム教という危険な宗教に仏教徒は立ち向かえとか言い出す始末。主敵は生臭坊主ばかりの日本仏教だ。と弾劾して幕なのだが、シンハラ仏教原理主義者かいな。上座部仏教が大乗に比べて純粋なのかどうかは分からんが、スリランカでも生臭坊主は、ナンボでもいるだろう。「観光坊主」に一々、頭にきても仕方ないとも思うのだが、仏像めぐりに、ここまで情熱を捧げていれば、それも然りか。とりあえず、みうらじゅんみたいに「マイブーム」として仏像をめぐっている訳ではない。ただ、旅行記の方はそれほど悪くはないので、不信心な人間としては、旅行記だけに絞ってくれた方が助かったのだけど。
岩波新書のカラー版。ここのカラー版は結構キレイに出来ているので、陶磁器なんぞ、てんで興味がない私でも楽しく「鑑賞」できた。著者は「西洋陶磁史家」という人なのだそうだが、この世界もコレクターと実践家の人が多いから、十分、評論活動は成り立つのだろう。当たり前だが、「陶磁」の話であって、「陶磁器」とは限らないので、まあ色んなモノが登場する。「グロテスク」の語源が、「グロッタ」(洞窟)にあるとは初めて知ったが、「グロった」って「グロテスク」の派生語にないかな。そのグロったお鉢が西洋陶磁史の中で外せない作品にあるそうだが、コレはホントに気色悪い。ヘビとかカエルなどをあしらったものなのだが、こういうグロ系を集めた洞窟が貴族の間で流行して、それが「グロテスク」になったのだという。たしかに陶磁は絵よりリアルに迫るものがある。まあ「チャイナ」とか「ジャパン」なんて単語が残っているくらい、この世界も普遍的なものなのだが、アジアでは「陶磁器」以上に拡がりをみせなかったのはなぜだろう。やっぱり地震の関係なのか。
2008/04/30のBlog
よく分からんが、鞍山の昭和製鋼所に勤務していた人たちの親睦団体があって、その子ども会の人が、バラバラに出された親たちの手記をまとめて一冊の本にしたというものらしい。こども会といっても、当時こどもだったという人たちなのだから、こちらも、もう老人なのだが、この世代の人は、鞍山よりも、「8月15日」以降の記憶が鮮明なのだろう。タイトルはそうした思いを表したものかと思うが、「親と子が語り継ぐ」としているのも、自分の子どもの代に「語り継ぐ歴史」が無かったことを反省しているのかもしれない。もっとも、昭和製鋼所に勤務していた親たちの「歴史」も、子ども会は「手記」を読んで知ったのかもしれない。書籍化はそれを孫たちに引き継ぐという意味合いもあったと思う。孫の世代に語り継ぐには書籍よりウェブの方が有効なのだろうが、この時代、自分の親の歴史をブログで知るなんて子どもたちもいるのだろう。私自身、検索すると10年以上前に書いたホムペが未だにヒットして驚くことがあるのだが、このブログは子々孫々に残らないからこそ、書けているところがある。鞍鋼の親たちの手記も後世に残すために書いたものだから、どこか「教育的」な感じがしないでもない。最近読んだ山崎正和の新書の冒頭で、当時のゾッとする状況が書いてあったのだが、こども会の方もまた、「8月15日」以降の暗い記憶を、親たちが遺した鞍鋼の明るい記憶で中和させようとしたのかもしれない。