Blog
2008/08/23のBlog
[ 01:11 ]
[ 欧州(複数国) ]
この新書は結構、売れたみたいだね。タイトル勝ちなんだろうけど、在欧日妻の凡エッセイに過ぎなかった。ネタ元になる様な話は実際にあったのかもしれないが、書いてあることの、ほとんどはフィクションであろう。それは、それで別に構わないのだが、オランダ、フランス、イタリア人がステレオタイプっぽい。スリナムとマダガスカルに「第三世界」を代表されているのだが、これも、ちょっとリアリティに欠けるなあ。結局、ダンナであるスウェーデン人ぐらいしか現実的ではないのだけど、こういう誇張した民族ネタは、あちらでも、国際関係本の王道とは言えるのであろう。70年代に渡欧であれば、それなりの苦労があったと思えるし、最初の渡航先であるイギリスについては、恨みつらみしか書いていない事情も察しられる。結局、日本批判なのか、欧州批判なのか、そっちつかずな感じもした。新書なんだから、変な小細工などせず、積年の恨みを吐き出してもよかったのではないかとも思う。ダンナは日本語を読むことができる人だったのだろうか。




2008/08/22のBlog
[ 12:45 ]
[ フィンランド ]
明石の「知るための」シリーズは順番が決まっている訳ではないんだろうが、このフィンランド編は、明らかに繰り上げ出版であろう。しかし、明石はフィンランド教育ものを既に5冊も出していたのか。その売れ行きが期待通りではなかったのかもしれんが、この本での教育の章はわずか一章。他の章でも教育に言及している箇所は少なく、古くからフィンランドに携わってきた執筆人は昨今のブームに懐疑的な眼を持っているのかもしれない。執筆人は総勢30名。日フィン友好協会とかの面々なのだろうか。研究者以外の人が結構混じっていて、若いときにフィンランドのペンパルと文通していた人とか、エスペラントの人、外務省の人も入ってる。トリは館野泉。編者はフィンランド史の新旧コンビで、百瀬が1932年生まれ、石野が1974年生まれ。百瀬は序章で一章、一章、内容を総説するという論文集スタイル。国際関係学の泰斗らしいが、これまで、こういう軽い読み物は手がけたことがなかったのかな。編者二人の意向もあるのだろう、歴史、文学方面に力が入っている。過去のフィンランドもの教育、社会福祉礼賛の一辺倒だったので、大変有意義なものではあると思うのだが、フィンランドが日本と同じ国連の「旧敵国」であることは、あまり触れたくないことみたい。石野さんの専門でもあるらしい『カレワラ』という抒情詩が再三、登場するのだが、過大評価な気がしないでもない。カウリスマキやムーミンも、もちろんあるのだが、カウリスマキがニューヨーク映画祭の出席を取り止めたのは、キアロスタミの件だろうが、イラク人監督とかにされてるのは酷い。正誤表も付けてるんだから、次版は訂正する様に。あと「在日フィンランド人第二世代のアイデンティティ」というのは珍しい。執筆者自身がそうなのかどうか分からぬが、滋賀に寄宿制のフィンランド人学校があるとは初耳。そんなに生徒がいるもんなのか。在日三十年超というフィンランド人奥さんや、宣教師が日本語で書いたものもあるが、ツルネンについては完全無視みたいだね。あれはやっぱり日本のフィンランド関係者にとっては蚊帳の外みたいな存在なのだろうか。








[ 02:47 ]
[ 中国 ]
いくら中国本がそこにあるからって、こんな本まで手を出さなくてもいいのにと我ながら思うのだが、中国本読みという病は治りそうもないので、読んでしまった。東農大の博論ものらしい。農大という学校も別にダイコンとかばっか作っている訳ではなく、「農学経済学専攻博士課程」というトコなのだとか。ということで、シイタケの栽培方法とか、マニアックなことは書いておらず、中国は乾シイタケの需要しかなかったのに、日本の会社がナマを探しに来たもんだから、早速、台湾人がやってきて、生シイを作り始め、それが輸出でどんどん売れるもんだから、みんな乾シイをやめて生シイを作って、いつの間にか国内の市場もナマが優勢になってしまったというお話。中国のシイタケというと、日本にける中国毒菜の元祖なのだが、何日置いても、全く腐らず、変色しないシイタケには、さすがに気味悪いものを感じたものである。さすがに、最近は数日で変色する様にできているみたいだが、汁が出てしまうラーメンとかに入れたりするのは、やっぱりマズかったかな。この本でも中国人も、衛生に問題があるので、市場ではいうなくスーパーで買うというアンケート結果が出たりしているのだが、管理が煩いスーパーや輸出向けではなく、価格的には安くても仲買人は農貿市場で売るのを好むという。仲買人同士の商いで品物が、在庫になることなく、確実に捌けるからからというのだが、輸出、スーパー、市場、その底辺で捌かれる商品の行き先は、果たして何処に。






[ 00:50 ]
[ 欧州(複数国) ]
昔、「おじいさんの台所」という本が売れたことがあったのだが、そのおじいさんも亡くなられていると思うので、別にあやかった訳ではなかろう。ポーランドとエストニアという変わった組み合わせの国を訪ねて、現地のおばあちゃんの写真を撮り、飯を食うというよく分からんコンセプトの本。版元はTELとFAXが番号兼用のところだが、コードはサンクチュアリ出版。マルチが関係したトコなのだろうか。飯はガイドブックに載ってる様なレストランではなく、大衆食堂で食ったり、おばあちゃんに作ってもらったりしているので、その辺は好感が持てるのだが、ポーランドとエストニアのおばあちゃんは、共産主義時代を生き抜いてきた人たちだから、お洒落なレストランなどは別に行くこともないのか。写真で見る限り、あんまり食いたくなる様なブツはないのだが、タリンの食堂のウェイトレスが怪訝そうな顔で見つめている写真が面白かった。タリンの地下食堂にイキナリ、東洋人が現れて、写真を撮られたりしたら、まあそうなるわな。




2008/08/21のBlog
[ 12:27 ]
[ 韓国 ]
よくある街歩き本なのだが、パラパラめくっていたら、イスラーム寺院やリトルフランスなんて記事があったので、読んでみた。美味しい鍋の店や、お洒落なカフェなんてものを、なんとかクリアして読んでみたのだが、そのフランス村と日本人村の記述が、如何にも韓国人らしい感じがした。フランス村は「フランス人による、フランス人のための、フランス人のための街」ということなのだが、実際、フランス人が経営している店などは一箇所もなく、利用者も多くは韓国人とのこと。日本人が日本人村で群れて歩いているのに、フランス人はそうではないのは、個人主義だからだそうだが、単にフランス人が目立つほどいないということではないかと思う。とはいえ、そんなフランス人を閉鎖的とし、日本人村の日本人は韓国語を話す人が多いと喜んでいたりもする。梨泰院でもそうなのだが、地元の評価はどうあれ、ソウルで外国を感じさせる様な所はないだるう。六本木も昔から街を歩く限り、外国といった雰囲気は全くないのだが、韓国で、仁川チャイナタウン建設計画みたいな、無理な「世界化」が頓挫しているのをみると、ロスでも、東京でも、北京でも、ジャカルタでも拡がる「コリアンタウン」にヒントを求めた方がいいように思える。




[ 02:34 ]
[ 米国 ]
キネ旬の本がここに登場するのも初めてじゃないかな。しかも佐藤忠男御大だ。しかし、一番最後にこれは1976年の講談社新書に、新しいエッセイを加えたものとか書いてあって、ガクっときた。とはいえ、そんなことは感じさせないほど、面白かったのはさすがなのだが、時代に合わなくなったので削除した章って、どんなもんだったんだろう。やっぱ傾向系の話だろうか。残った3章は「自惚れ鏡としての映画」、「アメリカ映画のヒーロー」、「日本映画のヒーローの系譜」というものなのであるが、ロッセリーニはファシズムの過去を覆い隠しているとか、ブルースリーは座頭市だとか現在でも結構ラジカルな評論。新たに加えられた章にはJホラーや成瀬もあって、別にアメリカや得意の「アジア」に限った内容ではないのだが、こうして読んでいくと、全ての映画はアメリカに繋がっているということは理解できる。「自惚れ鏡のアメリカ映画」が拡散した結果、映画は世界各地でもその国、地域の「自惚れ鏡」であることが普遍となったということであろう。例の各国の監督のオムニバス作品である「セプテンバー11」も一見、そうした「自惚れ鏡」を超える試みの様で、その実、各国バラバラの「自惚れ鏡」であることを解説しているのは面白い。著者が、この中で唯一、評価したのがサミラ・マクバルフの様だが、私はブルキナファソのヤツの方が面白かった。アモス・ギダイのが最悪なのは、この映画を観た人全てが同感することかと思うが、エジプトのヤツもミラ・ナイールのもたしかに酷い「自惚れ鏡」ではあった。今村については、さすがに柵があるのか控えめで、息子の脚本のせいにしたりしているのだが、まあワースト5には入っているのは疑いのないところだろう。アメリカの自惚れ鏡を批判する鏡も、また自惚れ鏡であったという構図は、映画がアメリカの一極支配であるうちは変わらないものなのであろう。








[ 00:05 ]
[ 中国 ]
「人民日報」の記事を集めた日本僑報社の本。2008年版も出ている様だが、とりえず2007版から。訳しているのは日本人と中国人の混成みたいだが、「俗に言う提灯記事はいっさい排除してあります」とある。日本僑報社にとっての「俗に言う提灯記事」がどんなものを意味しているのか知らんが、日本僑報社から出た「人民日報」の本に中央を批判する様な内容が書かれている訳はない。「人民日報」の記事でもこうした記事が載るというのは、政府に自浄作用があるということだから、日本もそこは見習わなくてはならないとか言っているのだが、何をアホなことをぬかしてるのか。書いてあるのは、地方の汚職とか、民間の不手際で、人民が嫌な目にあったといった類のもので、それは「自浄」などではなく、日本では「指導」と呼ぶ。上海で、オーストラリア人が事故に遭って、犯人の代わりに一般の上海人が多数、謝ったとかいう話を「美談」と捉えているのは理解できない。エイズ女子大生の話も啓蒙なのだろうが、エイズということで国外追放された留学生の人権問題など、訳者は想像だにせんのだろう。知材問題や、食品輸出ではなぜか日本が加害者とされているし、どこが「自浄作用」なのか教えていただきたいものだ。人民や地方をダシにして、道徳的優越を保つ「人民日報」が、このメディア隆盛時代に、人民に相手にされなくなったのも当然か。日本僑報社が「必読!」としているんだから、「友好人士」はこれを読んで学習せねばならんのだろうが。




2008/08/20のBlog
[ 13:20 ]
[ ロシア ]
「来日ロシア人研究会」のこのシリーズも4巻目まできたか。前巻ではタイトルが変わって、白系ロシア人の番外編まで出たから、方向転換したのかと思ったのだが、4巻目で、また元に戻してきた。しかし、よくネタが続くものだ。戦後のソ連人来日までやるのだろうか。別にネタがつきたわけではなかろうが、今回はわりと有名どころが多い。ヤンコフスキー家については大河ドラマを読んだし、タウトの写真日記もダイジェスト版を読んだ。シャリャーピンやネフスキーという人も有名な人なのだろう。このシリーズで好きなのはひっそり日本に暮らしている(いた)無名のロシア人のインタビューなのだが、その意味では最初のデミトリエフ・マリヤとズヴェーレヴァ・オリガさんがイイ。オリガさんはなんとキューバからの登場で、お姉さんは前に登場済みなのだとか。なんでも紹介者は国会図書館からキューバの研究所に派遣されている人なのだそうだが、そこに日本語通訳として現れたのがロシア人のオリガさんだったそうだ。この紹介者は別にロシア人研究をやっている人ではなかった様だが、そこから来日ロシア人に興味を持ち、オリガさんを日本に招待して、この報告会が開かれたという次第。キューバには結構ワケ有り外国人がいるのだが、こういう繋がりは面白い。オリガさんと一緒にするのはよくないが、トロツキー暗殺犯もキューバで晩年を過ごしている。後は日本における正教会の内部事情なども興味深い。宗教がロシア研究とかロシア語取得の手段であった時代があった訳だが、それが社会主義に取って代わられた。その意味では佐藤優の登場は復古的なものなのだが、ソ連崩壊後の空白はこうして埋められていくものなのだろう。「来日ロシア人研究会」も科研の資金が続く限り、本を出していかなくはならない様だが、たまにこうしや物好きが読むこともあるので、是非、頑張って続けて欲しいものである。






[ 02:43 ]
[ ブラジル ]
まあタレント本なんだろうけど、この人については前に読んだ加部究の本でも興味深いことが書いてあったので読んでみた。著者は「スポーツ新聞」を退社したフリーの人らしいが、中村俊輔本も出しているらしい。で、やっぱりこれも提灯本の域を超えるものではなかった。一応、ブラジルまで取材に行って、美人の誉れが高い母ちゃんにも会ったりしているのだが、サッカー番のクセが抜け切れないのか、試合ダイジェストが多くて疲れる。トゥーリオが初めて飛行機に乗ったのは日本に行くときだったそうだが、市役所で日本のビザがついたパスポートを受け取ったというのは、どういうことなのだろう。あと、別に日系人だから5年で帰化できた訳ではない筈だが、ちょっとチェックをいれたくなる。しかし、なんで「闘莉王」なんて相撲取りみたいな漢字名にしたんかいな。別に「トゥーリオ」とカタカナ表記でよかろうに。ラモスまではマトモだったのに、「呂比須」、「三都洲」とか変な漢字名が続いたから、それに倣ったのだろうか。エステグロも北京用に漢字を用意していたっていうし、このままではジュニーニョも「寿兄如」とかになりかねん。まあブラジル人に限らず、あちらの人たちは漢字好きだから、漢字にしないと日本人になった気がしないというのはあるのだけど。関係ないけど、今回の五輪の参加選手って全員、漢字表記統一してんのかな。アナウンスもせなならんし、中文で公式記録も出してんだろうから、組織委員会が人海戦術で、リストをもとに「漢字起こし」したんだろうな。アンリは中国の放送では「ヘンリー」とか呼ばれていたけど、日本みたいに、その国の発音を調べるなんてことはしてないだろうし、これだけ膨大な数になるとそれも無理というもの。しかし、その点でも、日本の選手は労をかけさせてないのに、どこが相手でも常にブーイングされるというのはやりきれんなあ。




[ 00:36 ]
[ 米国 ]
シンポジウム本。発表者は1929年から1976年生まれまで総勢7名のアメ文学者。アメリカにおける「反知性主義」を文学から読み取ろうというものらしい。このテーマについてはホブスタッター著『アメリカにおける反知性主義』(1962)という古典があるそうだが、最近のブッシュジュニアやマイケル・ムーアに例をとるまでもなく、左右保守りべ問わず、「反知性」はアメリカ大衆の伝統的な考え方らしい。知識人が尊敬されない社会というのは、ある種の階級闘争なのかもしれないが、チョムスキーとかサイードといった連中が本国よりも、日本をはじめとする海外で持ち上げられるのも分かる様な気がする。チョムが知識人の責任云々など言ってるのを不思議に思っていたのが、これは彼なりの反「反知性主義」だったのかもしれない。ということで、「知識人」が差別もされなければ、とりたて特別視もされない日本というのは、なるほど階級を克服した平等型社会なのではあろう。今の低所得者は丸山眞男をひっぱたかなくても、論壇で「知識人」と勝負することもできる。そんな国で「反知性の帝国」の病を理解するのは難しいところなのだが、この国の「知識人」は「反知性主義」にも「知性」で応えるしか術がないということは分かった。途中、「知」の側の人間の限界みたいな話はあるのだが、アカデミズムの作法に縛られながら「反知性」を論じるのも滑稽な感じがした。日本のシステムでは、いくら本を読んだところで「知識人」になどにはなれないのだがら、これからも読みたい様に本を読んで、書きたい様に感想を書くことにしよう。いつまで続くか分からんけど。






2008/08/19のBlog
[ 13:42 ]
[ 中国 ]
今年の北京商戦に岩波もそのものズバリの『北京』という新書を投入したのだが、今度は「紫禁城」か。この著者は岩波版『紫禁城の黄昏』の共訳者だが、中共史観に都合の悪い部分を削ったと、渡部昇一が完訳版を出すと、それに反論するかのごとく、岩波新書から『溥儀』を出した人か。『紫禁城の黄昏』の完訳版を出したコンビは最近、「米国人記者が見た戦前のシナと日本」を出したけど、まさかまた、それに対抗したという訳ではなかろう。ちなみに先に岩波版『紫禁城の黄昏』を著者と共訳したのが、先に『北京』を出した人なのだが、岩波の執念みたいなものも感じる。紫禁城の宮廷生活などには興味がないので、どうしてもその様な視点で読んでしまうのだが、、堕落した清朝が中国の没落を招いたという「公式見解」に沿ってはいる。乾隆帝漢人説など、満州族の漢化志向についてはその通りではあろう。面白かったのは同治帝は少年の頃、しばし紫禁城を抜け出し、屋台で涼粉をタダ食いしていたということ。カネを支払うなどということは少年は知らなかった訳で、屋台主もそれを察して代金を請求しなかったらしい。今の皇太子は目白のマクドナルドに「ご学友」とよく現れたらしいのだが、夜中に皇居を抜け出して、一人で吉野家の牛丼を食べたりしてもらいたいものである。






[ 03:07 ]
[ 韓国 ]
ご存知、切手博士の世界史シリーズだが、彩流社で切手紀行ものをシリーズ化すると思ったら、先に東洋経済連載のものを単行本化してきた。連載中から色んな出版社から話があったそうだが、なぜか福村出版。東洋経済新報は自分トコで出す気がなかったのかも知らんが、この著者の版元コレクションかもしれない。新書も四社から出てるし、最近は毎回版元を変えての出版。それが切手マニアの性格と関係あるのかどうか分からんが、ある種のコレクションではあろう。で、北朝鮮編の対として始まった連載らしいのだが、2段組で400ページもある大著。なんと5年も連載していたそうだ。著者もああまりの進行の遅さを気兼ねしていたらしいが、編集からは気が済むまで連載してくださいと、励まされたのかさじを投げられたのかよく分からん回答があり、5年もかかってしまったそうだ。初期の北朝鮮のときはそうでもなかったのだが、韓国に対しては、わりと厳しい見方をしているのは意外。北とか毛沢東の中国だと、切手学的に分かりやすい国なのだろうが、曲りなりにも自由主義陣営に属する韓国は、そこにプロパガンダ以外のメッセージを認めなくてはならないということなのかもしれない。「創氏改名」した息子が改名していない父に書いた日本語の手紙とか貴重なものもあり、こういうのは歴史学者にも必要なアプローチであろう。それにしても、専門地域が限定されないというのは、かなり大変なことなのではないかと思う。ソウル・オリンピックの開会式に名古屋市長が自殺したとか、聖火で鳥が焼け死んだんなんて話は記憶から飛んでいた。毎週一本としても、かなりきつかったのではなかろうか。







