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2008/09/30のBlog
[ 22:03 ]
[ 表紙 ]
2008/09/01のBlog
[ 13:51 ]
2008/08/31のBlog
[ 11:22 ]
2008/08/30のBlog
[ 20:16 ]
[ 徳島点描(徳島のはてな?) ]
[ 08:52 ]
[ モンゴルの旅 ]
もう終わった筈のモンゴルバーチャル旅ですが、もうひとつだけ気になっている事が残っていました(^_^;)。
それは、チベット仏教(モンゴル仏教)の裏面史です。どこまでがほんとなのか判らない暗黒面の情報が散見されます。
写真の本は日本モンゴル親善協会の理事「山本泰生」が書かれたものです。
そこにも後述する司馬遼太郎の「モンゴル紀行」と同様の内容が書かれています。
○17~18世紀のおおよそ200年間、清の支配がモンゴルに及ぶなかで、ラマ僧によつ搾取と蓄財が横行。働き手の男子の多くが僧籍に入り、労働力不足で社会の生産力が大きく低下、
○解脱のひとつの手段として性行為を教義に取り込み、ラマ僧が信徒の初夜権をも握る、
○ために梅毒が蔓延、人口激減で民族滅亡の危機に至った。
うーん、ここでいうラマ教はチベット仏教の事(どちらかという否定的に言うときの呼び名という事で使われていない筈なんですが)。宗教が国を駄目にしていったと言い切っています。
それは、チベット仏教(モンゴル仏教)の裏面史です。どこまでがほんとなのか判らない暗黒面の情報が散見されます。
写真の本は日本モンゴル親善協会の理事「山本泰生」が書かれたものです。
そこにも後述する司馬遼太郎の「モンゴル紀行」と同様の内容が書かれています。
○17~18世紀のおおよそ200年間、清の支配がモンゴルに及ぶなかで、ラマ僧によつ搾取と蓄財が横行。働き手の男子の多くが僧籍に入り、労働力不足で社会の生産力が大きく低下、
○解脱のひとつの手段として性行為を教義に取り込み、ラマ僧が信徒の初夜権をも握る、
○ために梅毒が蔓延、人口激減で民族滅亡の危機に至った。
うーん、ここでいうラマ教はチベット仏教の事(どちらかという否定的に言うときの呼び名という事で使われていない筈なんですが)。宗教が国を駄目にしていったと言い切っています。
チベット仏教とモンゴルの関係、中国の元・明・清との表の関係、歴史は書物・文献にしっかりと書かれていて、明確に判ります。
チベット仏教サキャ派が元のフビライの信任をえて帝師となり,代々帝師を宮廷に送りこんだという表の歴史は色々と情報があります。でもその裏面史というか暗黒の部分がよく判らない。インドで始まった「性を使った修行道」を取り入れ発展させた「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」がねじ曲げられ、後宮がタントラ仏教の卑猥な面を喜ぶのに迎合して元の滅亡を早めたともいわれてます。
そして、次の明朝も約1世紀にわたって後宮の猥褻な要請におもねり,歴代皇帝を惑乱。チベット仏教を黒祠邪教とするぬぐいがたい印象を中国に残したという事も言われてます。山東省から来日していた知人から中国の早口言葉を教えてもらった時に、「黄色の帽子、ラマ僧」が出てきたのに驚いた事があります。そんなところまで浸透していたんですね。
続いて、元がモンゴルの方へ引き上げ北元として明と対峙していた頃ですね。モンゴルの支配者「アルタンハーン」がチベットの高僧にダライラマの称号を与え、それがダライラマの始まり(名目上は3世らしい)。そして、その次のダライラマはモンゴル人(アルタンハーンの孫)らしい。どうもこの頃のモンゴル仏教も上記と同じくチベット仏教の一番怪しげな部分「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」をいい加減な状態、邪教とも思われるような形で表に出してしまったようです。
チベット仏教サキャ派が元のフビライの信任をえて帝師となり,代々帝師を宮廷に送りこんだという表の歴史は色々と情報があります。でもその裏面史というか暗黒の部分がよく判らない。インドで始まった「性を使った修行道」を取り入れ発展させた「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」がねじ曲げられ、後宮がタントラ仏教の卑猥な面を喜ぶのに迎合して元の滅亡を早めたともいわれてます。
そして、次の明朝も約1世紀にわたって後宮の猥褻な要請におもねり,歴代皇帝を惑乱。チベット仏教を黒祠邪教とするぬぐいがたい印象を中国に残したという事も言われてます。山東省から来日していた知人から中国の早口言葉を教えてもらった時に、「黄色の帽子、ラマ僧」が出てきたのに驚いた事があります。そんなところまで浸透していたんですね。
続いて、元がモンゴルの方へ引き上げ北元として明と対峙していた頃ですね。モンゴルの支配者「アルタンハーン」がチベットの高僧にダライラマの称号を与え、それがダライラマの始まり(名目上は3世らしい)。そして、その次のダライラマはモンゴル人(アルタンハーンの孫)らしい。どうもこの頃のモンゴル仏教も上記と同じくチベット仏教の一番怪しげな部分「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」をいい加減な状態、邪教とも思われるような形で表に出してしまったようです。
そして清の時代になってですが、これもほんとかどうか判りませんが司馬遼太郎のモンゴル紀行に書かれているのが以下の衝撃的な内容です。
○清朝がモンゴル人の民族的活気を殺ぐためにラマ教をすすめた事が衰弱に拍車をかけた。
○生産を支える男子の多くが僧になり、ラマ教には僧が初夜権を持つという奇習があり、しかもその性的権威を通じ、僧が梅毒を蔓延させるなどもあって人口まで激減。
○清朝の対モンゴル政策には梅毒をひろめることまでふくんでいたといわれる。
○モンゴル人の精神と生活を自立できないまでに退廃させたのはラマ教であるとされていた。事実そうであったあったろう。
と書かれています。
本来のチベット仏教の本質とは違うと思いますが、これでは、元、明、清を通して限りなく左道の邪教のような印象になってしまいます。
一方では、風紀が乱れてしまったチベット仏教を15世紀初めころに現れたツォンカパによるゲルク派は、「小乗仏教以来の僧団の戒律を重んじて,タントラ仏教の解釈学を徹底させ,そこに含まれていた戒律に触れる性的実践との関与をいっさい絶った。その上で顕教による般若波羅蜜の修習を終えた者のうち,きわめて優れた素質のあるものが,利他行を完成するためにこの世で一切智者(仏)の境地に到達しようとするとき,無上瑜伽タントラの実習が許されるとした」と表の歴史では言われています。
うーん、実際のところはどうなんでしょうか。表側もあれば裏側もある。それが世の常ですが、暗黒面の大きさ・拡がりがどうであったが問題ですね。
そういう暗黒面の流れの大きさによっては、宗教を否定する社会主義の時代にソ連によるモンゴル仏教の破壊、中国共産党による破壊というのは判らないでもないような気がします。
そんな古い時代のことでもありませんから、チベット仏教の内部には記録が残っているのではないでしょうか。いろんなタメにするような情報も飛び交っていて、なにが本当なのか曖昧なままです。ここはダライラマ14世にきちんと情報公開をしてもらいたいと思うのですが・・・。
2008/08/29のBlog
[ 08:20 ]
[ 徒然Diary ]
伊方発電所、佐田岬の施設でいただいた資料の続きです。
もうひとつの面白い話が出ていました。「奥方に化けた古狐」の民話で、四国に狐がいない理由が出ていました。
ところで、もう随分前になりますが、阿波狸合戦という凄く面白い小説を読みました。そこにも四国に狐がいない理由が書かれていました。
二つの話、理由が全く違うので「あれれ」と思って少し調べてみましたが、どちらも民話として伝承されているようですね。
まずは、阿波狸合戦の方での話です
昔、四国には沢山の狐が住んでいたが、いたずらをして人間を困らせていた。そこで、弘法大師が怒って、「四国から出ていけ。鉄の橋ができたら帰ってよい」と、おっしゃった。そして、明治になって四国に鉄道や鉄橋ができ、四国に狐が帰ってきたそうです(^_^)。弘法大師の故郷である讃岐がある四国ですし、真言宗の巡礼コース、四国八十八箇所があるところですから、弘法大師の言い伝えには事欠きません。
続いて、伊方発電所でもらった資料の話です
道後公園の中に400年ほど昔、湯築城という河野氏の居城があった。河野通直という3代目城主のときに、奥方が突然二人になってしまった。この二人は背丈から何からうりふたつで、どちらが本当の奥方か見分けがつかなかった。途方に暮れて医者に見せても「何ぞ魂が分かれる奇病かもしれん」というだけでさっぱり埒があかなかった。その時、通直公は「いい考えがある」といい、二人の奥方を座敷牢に閉じ込めてしまった。そして牢内の奥方に何も食べ物を与えてはならぬと家来達に申し付けた。4日後、食べ物を差し入れ、通直公は二人の食事ぶりを眺めることにした。すると、一人の奥方は落ち着いて箸を運ぶのに対し、もう一人はガツガツとむしゃぶりついている。それを見た通直公はただちに後者を取り押さえた。すると、古狐が正体を現した。
通直公は大層腹を立て、この狐を火あぶりにしようと、庭に積んだ薪の上に吊るした。そのとき、大小3000匹の狐が城にやってきて、代表格の狐が懇願した。「この狐は貴狐明神の子孫で、四国狐の統領です。焼き殺そうならば、きっと領内に災いをもたらすでしょう。お助け戴くならば、必ずやこの御恩に報いましょう」と。
通直公は「それならば、今回限り許してやろう。但し、今後はこの四国の地から出ていくのだぞ」と狐の縄を解き放し、逃がしてやった。その日を境に、四国の狐は船に乗って中国地方に渡ってしまい、四国から狐は居なくなったという。どうも、この古狐は雌狐だったのかしら、イケメンの通直公に惚れてしまったらしくて、愛しい人の奥方に化けたという話もあるとか。
うーん、後の方の話が面白うそう。
去年かな、道後には行きましたが、松山城と道後温泉、雲の上ミュージアムを見て大洲の方へと移動したので、湯築城跡のある道後公園には足をのばさなかったです。こんな話を知ってれば立ち寄ったのに残念。
まだ発掘調査は1/3くらいだそうですが、鎌倉~室町の守護 河野氏の居城だったそう。秀吉が四国を統一するまで続いたそうだし、阿波の守護 細川氏(その後の三好氏)よりも期間も長いし、城跡遺跡の残存状況も良さそう。
もうひとつの面白い話が出ていました。「奥方に化けた古狐」の民話で、四国に狐がいない理由が出ていました。
ところで、もう随分前になりますが、阿波狸合戦という凄く面白い小説を読みました。そこにも四国に狐がいない理由が書かれていました。
二つの話、理由が全く違うので「あれれ」と思って少し調べてみましたが、どちらも民話として伝承されているようですね。
まずは、阿波狸合戦の方での話です
昔、四国には沢山の狐が住んでいたが、いたずらをして人間を困らせていた。そこで、弘法大師が怒って、「四国から出ていけ。鉄の橋ができたら帰ってよい」と、おっしゃった。そして、明治になって四国に鉄道や鉄橋ができ、四国に狐が帰ってきたそうです(^_^)。弘法大師の故郷である讃岐がある四国ですし、真言宗の巡礼コース、四国八十八箇所があるところですから、弘法大師の言い伝えには事欠きません。
続いて、伊方発電所でもらった資料の話です
道後公園の中に400年ほど昔、湯築城という河野氏の居城があった。河野通直という3代目城主のときに、奥方が突然二人になってしまった。この二人は背丈から何からうりふたつで、どちらが本当の奥方か見分けがつかなかった。途方に暮れて医者に見せても「何ぞ魂が分かれる奇病かもしれん」というだけでさっぱり埒があかなかった。その時、通直公は「いい考えがある」といい、二人の奥方を座敷牢に閉じ込めてしまった。そして牢内の奥方に何も食べ物を与えてはならぬと家来達に申し付けた。4日後、食べ物を差し入れ、通直公は二人の食事ぶりを眺めることにした。すると、一人の奥方は落ち着いて箸を運ぶのに対し、もう一人はガツガツとむしゃぶりついている。それを見た通直公はただちに後者を取り押さえた。すると、古狐が正体を現した。
通直公は大層腹を立て、この狐を火あぶりにしようと、庭に積んだ薪の上に吊るした。そのとき、大小3000匹の狐が城にやってきて、代表格の狐が懇願した。「この狐は貴狐明神の子孫で、四国狐の統領です。焼き殺そうならば、きっと領内に災いをもたらすでしょう。お助け戴くならば、必ずやこの御恩に報いましょう」と。
通直公は「それならば、今回限り許してやろう。但し、今後はこの四国の地から出ていくのだぞ」と狐の縄を解き放し、逃がしてやった。その日を境に、四国の狐は船に乗って中国地方に渡ってしまい、四国から狐は居なくなったという。どうも、この古狐は雌狐だったのかしら、イケメンの通直公に惚れてしまったらしくて、愛しい人の奥方に化けたという話もあるとか。
うーん、後の方の話が面白うそう。
去年かな、道後には行きましたが、松山城と道後温泉、雲の上ミュージアムを見て大洲の方へと移動したので、湯築城跡のある道後公園には足をのばさなかったです。こんな話を知ってれば立ち寄ったのに残念。
まだ発掘調査は1/3くらいだそうですが、鎌倉~室町の守護 河野氏の居城だったそう。秀吉が四国を統一するまで続いたそうだし、阿波の守護 細川氏(その後の三好氏)よりも期間も長いし、城跡遺跡の残存状況も良さそう。
2008/08/28のBlog
[ 09:16 ]
[ 徒然Diary ]
先日、知人夫妻を伊方発電所に案内したときに道の駅でもらった資料を見ていると面白い記事が出ていました。
ところで四国の一番西になる佐田岬ですが、日本で一番細長い半島、岬らしいですね。
この地図は伊方発電所で頂いた紙袋に印刷されていたものです。
ところで四国の一番西になる佐田岬ですが、日本で一番細長い半島、岬らしいですね。
この地図は伊方発電所で頂いた紙袋に印刷されていたものです。
2008/08/27のBlog
[ 09:04 ]
[ 徒然Diary ]
2008/08/26のBlog
[ 20:47 ]
[ 徳島点描(徳島のはてな?) ]
四国・九州アイランドリーグの徳島チーム「インディゴソックス」、ホーム球場が4つもあるのかしら。そのひとつ、徳島の南になる阿南市の「アグリあなんスタジアム」です。
今年の3月には欽ちゃん球団 「茨城ゴールデンゴールズ」と欽ちゃんが来県、徳島インディゴソックスと試合をした球場です。
今年の3月には欽ちゃん球団 「茨城ゴールデンゴールズ」と欽ちゃんが来県、徳島インディゴソックスと試合をした球場です。
2008/08/25のBlog
[ 20:46 ]
[ 男の料理((笑) ]
2ヶ月も続けて欠席してしまった「男の料理教室」にやっと出席できました。
今回の献立は、
・ミニ親子丼
・いわしの梅酢煮
いま鰯を入手するのはたいへんだそうですね。だいぶ前に注文しておいて、やっと入手できたそうです。手捌きで「うろこ、頭、内臓」を除いた後に酢で下ゆでします。
・トマトそうめん
これらに先生方が作っておいてくださった鳴門金時入りようかんが、本日の献立でした。
休んでいた間に、参加者がだいぶ増えたようです。
今回の献立は、
・ミニ親子丼
・いわしの梅酢煮
いま鰯を入手するのはたいへんだそうですね。だいぶ前に注文しておいて、やっと入手できたそうです。手捌きで「うろこ、頭、内臓」を除いた後に酢で下ゆでします。
・トマトそうめん
これらに先生方が作っておいてくださった鳴門金時入りようかんが、本日の献立でした。
休んでいた間に、参加者がだいぶ増えたようです。
2008/08/24のBlog
[ 10:04 ]
[ 徒然Diary ]
ちょっとした好奇心でとある地方の城と支配者などの歴史を調べています。
そこで、ふと思ったのが苗字、姓の歴史です。
上記のように昔に遡って歴史を調べていると何々家の家系などが出てきます。もちろん苗字が表記されています。
ところが、学校で教わった歴史では、江戸時代は苗字帯刀令があって、苗字をつけられたのは武士階級、せいぜい名主クラス。他は「八ちぁん、くまさん」の世界。そして明治になって苗字をつけろという国の命令で、お寺の住職につけてもらったりと色々だった。これが学校で教わった苗字の近代の歴史でした。
学校時代から最近まで、ずーっと疑問にも思わなかったのですが、江戸時代以前に貴族とか武士階級から農民などの階級に変わっていって、かつ名主にはならなかった一族などに伝わっている系図の苗字はいったいなんなでしょう。急に疑問を持って調べています。
まずは苗字と姓の違いがやっと分かりました。
徳川家康=徳川次郎三郎源朝臣家康
「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、
「源」が氏(「姓」、本姓とも呼ばれる)、
「朝臣」が古代の姓(かばね、古代に存在した家の家格)、
「家康」が諱(いみな、つまり本名)になる。
とややこしい。
で、名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来たものだそうです。
そして江戸時代です。幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。
ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。
また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。魚や野菜などの食べ物、土地にちなんだ名字が多く見られるのもこのためで、「○○の人」と分かりやすくするため、用いられていたと言われている。
さらに江戸時代の寺院の寄進帳には、その村の全ての農民が名字を記入している例が大半であり、小作人までもが名字を持っていたという文献も数多く残っている。 これは全国各地に見られることである。
現在は「江戸時代の庶民には名字が無かった」という説は、研究家の間でほぼ完全に否定されている。
しかし一部には名字を持たなかった庶民、何らかの理由で名字を失った庶民がいたと思われる。
うーん、江戸時代はついこの前なのに、こんな事も歴史の中で忘れられていったんですね。
そこで、ふと思ったのが苗字、姓の歴史です。
上記のように昔に遡って歴史を調べていると何々家の家系などが出てきます。もちろん苗字が表記されています。
ところが、学校で教わった歴史では、江戸時代は苗字帯刀令があって、苗字をつけられたのは武士階級、せいぜい名主クラス。他は「八ちぁん、くまさん」の世界。そして明治になって苗字をつけろという国の命令で、お寺の住職につけてもらったりと色々だった。これが学校で教わった苗字の近代の歴史でした。
学校時代から最近まで、ずーっと疑問にも思わなかったのですが、江戸時代以前に貴族とか武士階級から農民などの階級に変わっていって、かつ名主にはならなかった一族などに伝わっている系図の苗字はいったいなんなでしょう。急に疑問を持って調べています。
まずは苗字と姓の違いがやっと分かりました。
徳川家康=徳川次郎三郎源朝臣家康
「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、
「源」が氏(「姓」、本姓とも呼ばれる)、
「朝臣」が古代の姓(かばね、古代に存在した家の家格)、
「家康」が諱(いみな、つまり本名)になる。
とややこしい。
で、名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来たものだそうです。
そして江戸時代です。幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。
ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。
また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。魚や野菜などの食べ物、土地にちなんだ名字が多く見られるのもこのためで、「○○の人」と分かりやすくするため、用いられていたと言われている。
さらに江戸時代の寺院の寄進帳には、その村の全ての農民が名字を記入している例が大半であり、小作人までもが名字を持っていたという文献も数多く残っている。 これは全国各地に見られることである。
現在は「江戸時代の庶民には名字が無かった」という説は、研究家の間でほぼ完全に否定されている。
しかし一部には名字を持たなかった庶民、何らかの理由で名字を失った庶民がいたと思われる。
うーん、江戸時代はついこの前なのに、こんな事も歴史の中で忘れられていったんですね。
2008/08/23のBlog
[ 14:14 ]
[ 徒然Diary ]
苦しいような酷暑もおさまってなんとか普通の夏に戻り、朝夕は秋の雰囲気も感じられるようになりました。
昨日、知人を伊方発電所のビジターハウスに案内するため早起きして時の早朝の空です。秋の空に朝焼けに赤く染まった雲。もう秋です。
昨日、知人を伊方発電所のビジターハウスに案内するため早起きして時の早朝の空です。秋の空に朝焼けに赤く染まった雲。もう秋です。
2008/08/20のBlog
[ 08:55 ]
[ 徳島点描(徳島のはてな?) ]
先日、図書館に行ったとき、面白そうな展示があり寄ってきました。
昭和30年代~昭和40年代の徳島の街の風景、遊園地、観光地などを撮した写真を展示しています。副題が「団塊の世代が若かったころ」です(^_^)。
昭和30年代~昭和40年代の徳島の街の風景、遊園地、観光地などを撮した写真を展示しています。副題が「団塊の世代が若かったころ」です(^_^)。
2008/08/17のBlog
[ 20:07 ]
[ パソコンQ&A集 ]
昨日のパソコンQ&Aでの対応です。
WORD2007は持っていないし、使った事がありません。以前に複数の図形を挿入してグループ化する質問がありました。色々と調べて、前のバージョンとは違って、描画キャンパスを作っておかないと操作できない事がわかりました。前のバージョンまでは描画キャンパスを作ると何かと操作性が悪くて、メリットもなく表示しない設定にしている方が多かったと思います。WORD2007では描画キャンパスが必要なようです。
今回は、単純に印刷レイアウト表示で上側の余白が表示されなくなった、かつページ余白マークも表示されなくなってしまったという質問でした。はて、どこかに設定があるんでしょうね。
前のバージョンですとメニューバーのツールでオプションの辺りにあったと思います。
ところが、WORD2007ではそんなメニューバー表示がありません。
なんとか質問に応えようとネット検索・・・なんと、添付画像のようにWORDウィンドウの上のところに憑依されているロゴマークの中にそうした設定をする機能が隠れていました。そんなの分からないですよねえ。勝手にかえるな!!とマイクロソフトに言いたい。
まあ、今更ですが。取り敢えず余白とページ余白マークの表示が復活出来ました。
WORD2007は持っていないし、使った事がありません。以前に複数の図形を挿入してグループ化する質問がありました。色々と調べて、前のバージョンとは違って、描画キャンパスを作っておかないと操作できない事がわかりました。前のバージョンまでは描画キャンパスを作ると何かと操作性が悪くて、メリットもなく表示しない設定にしている方が多かったと思います。WORD2007では描画キャンパスが必要なようです。
今回は、単純に印刷レイアウト表示で上側の余白が表示されなくなった、かつページ余白マークも表示されなくなってしまったという質問でした。はて、どこかに設定があるんでしょうね。
前のバージョンですとメニューバーのツールでオプションの辺りにあったと思います。
ところが、WORD2007ではそんなメニューバー表示がありません。
なんとか質問に応えようとネット検索・・・なんと、添付画像のようにWORDウィンドウの上のところに憑依されているロゴマークの中にそうした設定をする機能が隠れていました。そんなの分からないですよねえ。勝手にかえるな!!とマイクロソフトに言いたい。
まあ、今更ですが。取り敢えず余白とページ余白マークの表示が復活出来ました。
2008/08/16のBlog
[ 20:51 ]
[ モンゴルの旅 ]
モンゴルのバーチャル旅もやっとこれで終わりです(^_^)。
前回は旅行記、ガイドブックを中心に調べて、今回は歴史関係の本を図書館で借りてきました。
元朝のあと、明朝そして清朝がモンゴルをどのように扱ったのかを知りたかったのですが、なかなか良い資料がないですね。伝統的に歴史を書物に残す中国と書き物して残さない遊牧民の国の違いが歴然としてます。
その中でも、宮脇淳子さんのまとめられた「モンゴルの歴史、遊牧民の誕生からモンゴル国まで」は力作です。紀元前千年頃から中央ユーラシアに名前が出てきた遊牧騎馬民族キンメリア人・スキタイ人に始まり現代の民主化されたモンゴル国までの約3000年を一気にまとめておられます。
秦、漢と匈奴の時代を経て、漢が滅び漢族が激減し鮮卑が中心となる隋、唐の時代(漢までの時代の漢族と言葉まで変化してしまったそう)、そしてモンゴルの先祖が登場する時代から、やっとチンギスハーンへと話は移っていきます。
その後も、モンゴル帝国の時代に入ってチンギスハーン、フビライなどの有名どころから明朝・清朝・中華民国の時代まで耳慣れないモンゴルの「なんとかハーン」の名前が次々と出てきて、昨晩は明け方までジューンガル、ホンタイジ、ガルダン・・・時々はダライラマ何世といった名前が頭の中を渦巻いて眠られずの状態でした。
個人的に興味のあったところを掻い摘んでまとめておきました。
・1229年にチンギスハーンの後にオゴディハーンが即位。この時代に金朝を滅ぼし、カラコルムに首都を置く。そして、本格的なヨーロッパへの侵入を開始、遠くポーランド、ハンガリーまで席捲した。高麗やインド、イランに遠征軍が派遣され、チベットへの侵攻もこの時期。
・1260年には、サキャ派の座主パクパが元王朝の初代皇帝・フビライに招請され、帝師となる。フビライ配下の文化・宗教顧問として活躍した。フビライからモンゴル語と漢語の表記を一本化する公用語の制定を命じられて1269年、チベット文字を基礎としたパスパ文字を作り上げた。朱子学を公認し、再開した科挙の試験に朱子学を採用したのも元。
・百年後の1368年、紅布群の残党であった朱元璋が大明皇帝になる。元の恵宗が上都に更に内モンゴルへと逃げ、中国式ではここで元が滅びた事になるが、実際には勢力を維持していて、北元の時代になる。
そして、明朝の制度はモンゴル式で中国式ではなかったらしい。
・1547年にはアルタンハーンがモンゴル高原の実権を握り、漢人を入植させたりチベット仏教の復活もさせる。
・1578年にアルタンハーンはチベットのデブン寺の貫主ソェナム・ギャツォにダライラマの称号をおくる。これがダライラマの始まり。ダライとはモンゴル語で大海を意味する。ラマはチベット語で師(教師・指導者)を意味し、サンスクリットのグルにあたる。ダライラマ称号を2代に遡らせたので、始まりが3世。次の4世はンテン・ギャツォはアルタンハーンの孫スメルタイジの子。
・1616年になると、ヌルハチが後金国を建てる。その子のホンタイジは民族名を女直人からマンジュと改名、満州人となる。・1635年にホンタイジが元朝の玉璽を受け取って、1636年に国号を大清とし、マンジュ人・モンゴル人・高麗系漢人の皇帝となる。
・1644年には明が滅びて清の時代に。文化的にはモンゴルの影響が大。ヌルハチ時代にはモンゴル文字から満州文字を作り公用語に。またホンタイジの5人の皇后はすべてモンゴル人。
・1632年頃にチベットのカルマ派、ゲルク派の争いが起きて、施主になるモンゴル領主も巻き込まれる。
・1642年頃にモンゴルのグーシー・ハーンがダライ・ラマ5世から持教法王の称号を受ける。モンゴル語ではグーシ・ハーン。グーシ・ハーンは、自身の配下を率いてチベットに移住。1642年までに青海、カムを含むチベットを統一しチベット王となり、ダライラマ5世をチベット仏教の教主とする。これがダライラマ政権の始まり。
・18世紀初めにグーシ・ハーンの子孫たちはダライ・ラマ六世の認定をめぐって分裂、ジュンガル、清朝の康熙帝ら外部勢力を導き入れる抗争を行って衰退、清朝の雍正帝はこれに乗じ、年羹堯を司令官とする軍勢を青海に派兵した。
・1723年、清朝軍はグーシ・ハーンの子孫たちを制圧、支配下に組み込んだ。1720年には清の公認したダライラマ7世がラサに入城。清によるチベット保護の始まり。・1779年には全モンゴル人が清皇帝に服する。清はモンゴル族を同盟者として扱い保護。種族別自治が原則で中国人、満州人、モンゴル人、チベット人、イスラム教徒それぞれに法典をつくる。モンゴの旗長は清朝皇族と同じ扱い。満州、モンゴルへの漢人農民の入植を厳しく禁じる。漢人商人に対しても1年以上の滞在、固定家屋の所有、モンゴル人との結婚を禁じる。
・1862年にイスラム教徒の反乱、漢人将軍が平定。これをきっかけに清王朝の方針が変化。満州人とモンゴル人が連合して漢人を統治、チベットとイスラム教徒を保護するという建前から満漢一家の方針に変化。中国商人がモンゴルに進出、モンゴルの国家財政を脅かすほどに。1902年には漢人の入植も奨励し、内モンゴルの放牧地は著しく減少。
・・・・その後、清/中華民国/日本/ロシアその後のソビエトがモンゴルで入り乱れて自国の権限拡大を争う。基本的には中国の宗主権を認め、外モンゴルは自治、内モンゴルは中国領のままで推移か。満州国と日本軍が攻め込みソ連・モンゴル軍に壊滅したのがノモンハン事変。
知りたかった明朝、清朝によるモンゴル支配の本当の実態、特に清がチベット仏教を利用してモンゴルを押さえ込んだとか、モンゴルを弱体化するためラマ僧よる梅毒を蔓延させたとかいった、一部で言われる俗説がなぜ出てきたのか不明なままです。
前回は旅行記、ガイドブックを中心に調べて、今回は歴史関係の本を図書館で借りてきました。
元朝のあと、明朝そして清朝がモンゴルをどのように扱ったのかを知りたかったのですが、なかなか良い資料がないですね。伝統的に歴史を書物に残す中国と書き物して残さない遊牧民の国の違いが歴然としてます。
その中でも、宮脇淳子さんのまとめられた「モンゴルの歴史、遊牧民の誕生からモンゴル国まで」は力作です。紀元前千年頃から中央ユーラシアに名前が出てきた遊牧騎馬民族キンメリア人・スキタイ人に始まり現代の民主化されたモンゴル国までの約3000年を一気にまとめておられます。
秦、漢と匈奴の時代を経て、漢が滅び漢族が激減し鮮卑が中心となる隋、唐の時代(漢までの時代の漢族と言葉まで変化してしまったそう)、そしてモンゴルの先祖が登場する時代から、やっとチンギスハーンへと話は移っていきます。
その後も、モンゴル帝国の時代に入ってチンギスハーン、フビライなどの有名どころから明朝・清朝・中華民国の時代まで耳慣れないモンゴルの「なんとかハーン」の名前が次々と出てきて、昨晩は明け方までジューンガル、ホンタイジ、ガルダン・・・時々はダライラマ何世といった名前が頭の中を渦巻いて眠られずの状態でした。
個人的に興味のあったところを掻い摘んでまとめておきました。
・1229年にチンギスハーンの後にオゴディハーンが即位。この時代に金朝を滅ぼし、カラコルムに首都を置く。そして、本格的なヨーロッパへの侵入を開始、遠くポーランド、ハンガリーまで席捲した。高麗やインド、イランに遠征軍が派遣され、チベットへの侵攻もこの時期。
・1260年には、サキャ派の座主パクパが元王朝の初代皇帝・フビライに招請され、帝師となる。フビライ配下の文化・宗教顧問として活躍した。フビライからモンゴル語と漢語の表記を一本化する公用語の制定を命じられて1269年、チベット文字を基礎としたパスパ文字を作り上げた。朱子学を公認し、再開した科挙の試験に朱子学を採用したのも元。
・百年後の1368年、紅布群の残党であった朱元璋が大明皇帝になる。元の恵宗が上都に更に内モンゴルへと逃げ、中国式ではここで元が滅びた事になるが、実際には勢力を維持していて、北元の時代になる。
そして、明朝の制度はモンゴル式で中国式ではなかったらしい。
・1547年にはアルタンハーンがモンゴル高原の実権を握り、漢人を入植させたりチベット仏教の復活もさせる。
・1578年にアルタンハーンはチベットのデブン寺の貫主ソェナム・ギャツォにダライラマの称号をおくる。これがダライラマの始まり。ダライとはモンゴル語で大海を意味する。ラマはチベット語で師(教師・指導者)を意味し、サンスクリットのグルにあたる。ダライラマ称号を2代に遡らせたので、始まりが3世。次の4世はンテン・ギャツォはアルタンハーンの孫スメルタイジの子。
・1616年になると、ヌルハチが後金国を建てる。その子のホンタイジは民族名を女直人からマンジュと改名、満州人となる。・1635年にホンタイジが元朝の玉璽を受け取って、1636年に国号を大清とし、マンジュ人・モンゴル人・高麗系漢人の皇帝となる。
・1644年には明が滅びて清の時代に。文化的にはモンゴルの影響が大。ヌルハチ時代にはモンゴル文字から満州文字を作り公用語に。またホンタイジの5人の皇后はすべてモンゴル人。
・1632年頃にチベットのカルマ派、ゲルク派の争いが起きて、施主になるモンゴル領主も巻き込まれる。
・1642年頃にモンゴルのグーシー・ハーンがダライ・ラマ5世から持教法王の称号を受ける。モンゴル語ではグーシ・ハーン。グーシ・ハーンは、自身の配下を率いてチベットに移住。1642年までに青海、カムを含むチベットを統一しチベット王となり、ダライラマ5世をチベット仏教の教主とする。これがダライラマ政権の始まり。
・18世紀初めにグーシ・ハーンの子孫たちはダライ・ラマ六世の認定をめぐって分裂、ジュンガル、清朝の康熙帝ら外部勢力を導き入れる抗争を行って衰退、清朝の雍正帝はこれに乗じ、年羹堯を司令官とする軍勢を青海に派兵した。
・1723年、清朝軍はグーシ・ハーンの子孫たちを制圧、支配下に組み込んだ。1720年には清の公認したダライラマ7世がラサに入城。清によるチベット保護の始まり。・1779年には全モンゴル人が清皇帝に服する。清はモンゴル族を同盟者として扱い保護。種族別自治が原則で中国人、満州人、モンゴル人、チベット人、イスラム教徒それぞれに法典をつくる。モンゴの旗長は清朝皇族と同じ扱い。満州、モンゴルへの漢人農民の入植を厳しく禁じる。漢人商人に対しても1年以上の滞在、固定家屋の所有、モンゴル人との結婚を禁じる。
・1862年にイスラム教徒の反乱、漢人将軍が平定。これをきっかけに清王朝の方針が変化。満州人とモンゴル人が連合して漢人を統治、チベットとイスラム教徒を保護するという建前から満漢一家の方針に変化。中国商人がモンゴルに進出、モンゴルの国家財政を脅かすほどに。1902年には漢人の入植も奨励し、内モンゴルの放牧地は著しく減少。
・・・・その後、清/中華民国/日本/ロシアその後のソビエトがモンゴルで入り乱れて自国の権限拡大を争う。基本的には中国の宗主権を認め、外モンゴルは自治、内モンゴルは中国領のままで推移か。満州国と日本軍が攻め込みソ連・モンゴル軍に壊滅したのがノモンハン事変。
知りたかった明朝、清朝によるモンゴル支配の本当の実態、特に清がチベット仏教を利用してモンゴルを押さえ込んだとか、モンゴルを弱体化するためラマ僧よる梅毒を蔓延させたとかいった、一部で言われる俗説がなぜ出てきたのか不明なままです。
2008/08/14のBlog
[ 20:54 ]
[ 電脳遊び、IT ]
熱中症で絶不調のリナックスザウルスSL-C1000をSL-C3000に更新。
リナザウのユーザーで作る「Zaurusユーザのための無料総合ポータルサイト」で教えてもらったSL-C3000在庫品を格安アウトレットで入手。
34℃の室温はもちろん、外出時には40℃近くなった灼熱地獄でも快適に動いております。これが本来の姿なんでしょうねえ。
これまでコンパクトフラッシュ型のミニハードディスクを使ってましたが、今回は内臓されていて不要。コンパクトフラッシュのカード挿入口がせっかく開いたので、ここに入れるコンパクトフラッシュ型の無線LANも入手しました。これまた、製品がほとんど無くて中古品を探してネットで購入です。いま入手しておかないと、遠からず入手不能になりそうです。でも、一世代、二世代前の仕様でしょうかしら。
ESS-IDにWEP暗号を設定、簡単に自宅の無線スポットに繋がりました。さて、街中ではどうでしょうね。
無線スポットは有料が多いし、無料といっているFreeSpotも実際には飲食店とかホテルの中ですから有料と同じですね。Spot検索で近くの公共施設が出てきましたが、暗号方式がWPA-PSK。うーん、古い無線LANカードだし、SL-C3000は対応していないみたい。
こうなると、FONの仲間にはいるのが一番かな。でも、参加すると地図上にスポットを提供する自宅が表示されてしまいますよねえ。なんだかねえ。
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これまでコンパクトフラッシュ型のミニハードディスクを使ってましたが、今回は内臓されていて不要。コンパクトフラッシュのカード挿入口がせっかく開いたので、ここに入れるコンパクトフラッシュ型の無線LANも入手しました。これまた、製品がほとんど無くて中古品を探してネットで購入です。いま入手しておかないと、遠からず入手不能になりそうです。でも、一世代、二世代前の仕様でしょうかしら。
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こうなると、FONの仲間にはいるのが一番かな。でも、参加すると地図上にスポットを提供する自宅が表示されてしまいますよねえ。なんだかねえ。
2008/08/13のBlog