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2008/09/12のBlog
[ 20:36 ]
[ 山歩き ]
徳島の標高が約1000mの大川原高原。タマゴタケなどキノコがわんさかという話を聞いて早速の野次馬です(^_^)。
まずは本命のタマゴタケ。驚異的な成長速度です。前日は卵の殻の中、もしくはちょこと顔を出していたのが、もう堂々たる傘を開いてます。
まずは本命のタマゴタケ。驚異的な成長速度です。前日は卵の殻の中、もしくはちょこと顔を出していたのが、もう堂々たる傘を開いてます。
タマゴタケだけではありません。肉厚の大きなキノコがわんさか。
タマゴタケはスープにすると滅茶苦茶おいしいそうだけど、他のキノコは食べられるのかな?
以前に丹沢の山頂キノコパーティーであたってしまい、一晩苦しんだトラウマが・・・・
タマゴタケはスープにすると滅茶苦茶おいしいそうだけど、他のキノコは食べられるのかな?
以前に丹沢の山頂キノコパーティーであたってしまい、一晩苦しんだトラウマが・・・・
2008/09/10のBlog
[ 20:20 ]
[ 徳島点描(徳島のはてな?) ]
先日、由緒あるお寺の万福寺。ここで開演された桂七福さんの「まんぷく寄席」を聞かせていただきました。
NHKの朝ドラ「ちりとてちん」で初めて聞いた上方落語を生で聞かせてもらいました。迫力もあり、実に面白い。枕にも引き込まれました。ここの和尚さんのお話も実に面白い。
ところで、上方落語に対応するのは江戸落語で良いのかな?。
話は違いますが、昔から理解できていないのが京阪神という言葉です。大昔ですが、京阪神は東京と神戸・京都を含む大阪地域を指すのだと思い込んでいた時期があります(恥ずかし)。京都、大阪、神戸の京阪神に対応する用語は首都圏なんでしょうか?
NHKの朝ドラ「ちりとてちん」で初めて聞いた上方落語を生で聞かせてもらいました。迫力もあり、実に面白い。枕にも引き込まれました。ここの和尚さんのお話も実に面白い。
ところで、上方落語に対応するのは江戸落語で良いのかな?。
話は違いますが、昔から理解できていないのが京阪神という言葉です。大昔ですが、京阪神は東京と神戸・京都を含む大阪地域を指すのだと思い込んでいた時期があります(恥ずかし)。京都、大阪、神戸の京阪神に対応する用語は首都圏なんでしょうか?
本題とは違いますが、落語が始まる前に廊下の奥に「マヤ・マンダラ・ミュージアム」という札の架かっている部屋を見つけました。なんだろうと覗かせていただくと、真っ暗なかにチベット仏教のタンカ、マンダラなどからケースに入った仏像などが展示されています。早速、お寺の方に断って、中に入らせてもらいました。すぐ後に和尚さんが会場に来られたのでお声をかけると、もう一度ミュージアムに案内してくださいました。
護法神、白ターラの描かれたタンカからマンダラなどチベットで見かけた絵が沢山あり、マニ車とか仏像などが沢山展示されていました。チベット、ネパールの物が多かったですが、ブータンのもありました。チベット語の経典、チベットの吟遊詩人・行者のミラレバ像もありました。凄い、日本の徳島のお寺でこれだけのチベット仏教の物が収集されているとは。
写真を出させてもらいたいところですが、遠慮します。
護法神、白ターラの描かれたタンカからマンダラなどチベットで見かけた絵が沢山あり、マニ車とか仏像などが沢山展示されていました。チベット、ネパールの物が多かったですが、ブータンのもありました。チベット語の経典、チベットの吟遊詩人・行者のミラレバ像もありました。凄い、日本の徳島のお寺でこれだけのチベット仏教の物が収集されているとは。
写真を出させてもらいたいところですが、遠慮します。
このお寺には色んな話があって興味津々です。実は、以前に「八百屋お七」のお地蔵さんがあると聞いて興味がありました。戦後に再建されたお地蔵さんですが、やっと拝見することができました。この話(お七の養父母は阿波の人、恋の相手である吉三郎が江戸から運んできた「お七地蔵)の真偽はまだ納得できる状態ではないです。どうして徳島出身の養父母が江戸の町で大店それも地産地消の八百屋の大店を開けるのかとか、日本のあちこちにあるお七の墓とか碑との関係とか。恋人は吉三郎でなく別の人で吉三郎はお七を騙した悪者との説だとか。
もうひとつ、ここには庚午事件での切腹した人の碑がありました。この切腹は明治初期で日本での最後の切腹裁定だったらしい。
このお寺は真言宗で開基が859年。平安初期と古い由緒あるお寺ですね。
ご住職のお話では江戸時代の藩主の蜂須賀さんが入国した際に近くの別の場所から移転させられたとの事。大昔の助任荘で、そこに建立されたお寺だとのこと。造東大寺の荘園だと仰っていたけど、これは時代が違うかもかなあ?
造東大寺が機能してたのは藤原氏が権力を確立し始めた奈良時代まで。律令国家の安定期に造東大寺司の荘園として新島荘が設定されたといわれてますね。徳島出身の女性、粟凡直若子(後の板野命婦(いたのみょうぶ)が宮中で藤原一族の勢力拡大とともに力を持って、中国・四国の東大寺荘園の設定に影響力をふるったとか。
その後、中世になって富田荘ができて、助任荘もせいぜいその頃にできたのでは?
もうひとつ、ここには庚午事件での切腹した人の碑がありました。この切腹は明治初期で日本での最後の切腹裁定だったらしい。
このお寺は真言宗で開基が859年。平安初期と古い由緒あるお寺ですね。
ご住職のお話では江戸時代の藩主の蜂須賀さんが入国した際に近くの別の場所から移転させられたとの事。大昔の助任荘で、そこに建立されたお寺だとのこと。造東大寺の荘園だと仰っていたけど、これは時代が違うかもかなあ?
造東大寺が機能してたのは藤原氏が権力を確立し始めた奈良時代まで。律令国家の安定期に造東大寺司の荘園として新島荘が設定されたといわれてますね。徳島出身の女性、粟凡直若子(後の板野命婦(いたのみょうぶ)が宮中で藤原一族の勢力拡大とともに力を持って、中国・四国の東大寺荘園の設定に影響力をふるったとか。
その後、中世になって富田荘ができて、助任荘もせいぜいその頃にできたのでは?
2008/09/09のBlog
[ 17:35 ]
[ 徳島点描(徳島のはてな?) ]
博物館で銅鐸の講演がありました。
銅鐸は全国で500~550個が出土、うち徳島からは約1割の48個が見つかっているそうです。全国で2~3位らしい。”何故?“というのが、講演のメインテーマ。
実は銅鐸というと、緑青のような錆が出た重た~い感じの物と思い込んでました。もちろん、音が出るなんて思ったこともない。
そして50年も前の学校で教わった知識、近畿~東海の「銅鐸文化圏」と九州の「銅矛文化圏」というように古代の日本を2分する古い知識しかなかったです。
銅鐸は全国で500~550個が出土、うち徳島からは約1割の48個が見つかっているそうです。全国で2~3位らしい。”何故?“というのが、講演のメインテーマ。
実は銅鐸というと、緑青のような錆が出た重た~い感じの物と思い込んでました。もちろん、音が出るなんて思ったこともない。
そして50年も前の学校で教わった知識、近畿~東海の「銅鐸文化圏」と九州の「銅矛文化圏」というように古代の日本を2分する古い知識しかなかったです。
木の棒、鹿の角などで叩くと綺麗な音が出ます。
いやあ実際に音を出して祭祀に使われた物であろうと実感できました。鐘というよりはベルにちかいようです。吊して内側につけたべろ?で音を出すそう。音もベルに近いかな。
銅鐸を再現して音楽を演奏している方がいらっしゃるようです。以下のURLで視聴できます。
銅鐸の演奏
いやあ実際に音を出して祭祀に使われた物であろうと実感できました。鐘というよりはベルにちかいようです。吊して内側につけたべろ?で音を出すそう。音もベルに近いかな。
銅鐸を再現して音楽を演奏している方がいらっしゃるようです。以下のURLで視聴できます。
銅鐸の演奏
そして銅鐸は謎の存在らしいですね。
畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然に姿を消してしまうそうです。
そして、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される事が多いそうで、銅矛、銅剣と違って『古事記』『日本書紀』などの古文献には、全く登場しない謎の青銅器だそう。
うーん、ロマンですね。どうも大和朝廷に繋がる部族に滅ぼされた部族のものだったのかしら。で、その滅ぼした部族が銅矛・銅剣の文化を持つ戦闘的な九州の部族だったとすると、伝説「神武東征」の素になる事があったのではないか・・なんて想像が膨らみます。
畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然に姿を消してしまうそうです。
そして、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される事が多いそうで、銅矛、銅剣と違って『古事記』『日本書紀』などの古文献には、全く登場しない謎の青銅器だそう。
うーん、ロマンですね。どうも大和朝廷に繋がる部族に滅ぼされた部族のものだったのかしら。で、その滅ぼした部族が銅矛・銅剣の文化を持つ戦闘的な九州の部族だったとすると、伝説「神武東征」の素になる事があったのではないか・・なんて想像が膨らみます。
2008/09/08のBlog
[ 16:13 ]
[ 山歩き ]
不安定な天候が回復する見通しもなく、木曽御嶽は次回にと回して旅を切り上げることにしました。
前日は関ヶ原方面で豪雨であった筈ですが、名神高速から見える伊吹山はくっきり、雲がかかっていません。一昨年、更にその前年に来ましたが、こんなに空にくっきりと浮かび上がった伊吹山を見るのは初めて。こりゃあ、山が呼んでいます。急遽、関ヶ原ICを出て伊吹スカイラインへ。
スカイラインを中腹の辺りまで登ったところで、道路をよろよろと歩いている鹿?、犬?を見かけて停車。近寄ってみるとな、なんとカモシカの子供です。もう親から離れる時期なんでしょうかしら。随分と弱っている様子で、足が定まらずよろよろしている感じです。
毛も一部剥げていますし、野犬に襲われたか病気なのか?
「大丈夫か?」と声をかけるも、当然返事はナシ。そうこうするうちに道端の葉っぱを食べて、急斜面を登り姿を消しました。流石にカモシカです、とても登れないような急斜面を登っていきました。食欲もあったし大丈夫かな。
前日は関ヶ原方面で豪雨であった筈ですが、名神高速から見える伊吹山はくっきり、雲がかかっていません。一昨年、更にその前年に来ましたが、こんなに空にくっきりと浮かび上がった伊吹山を見るのは初めて。こりゃあ、山が呼んでいます。急遽、関ヶ原ICを出て伊吹スカイラインへ。
スカイラインを中腹の辺りまで登ったところで、道路をよろよろと歩いている鹿?、犬?を見かけて停車。近寄ってみるとな、なんとカモシカの子供です。もう親から離れる時期なんでしょうかしら。随分と弱っている様子で、足が定まらずよろよろしている感じです。
毛も一部剥げていますし、野犬に襲われたか病気なのか?
「大丈夫か?」と声をかけるも、当然返事はナシ。そうこうするうちに道端の葉っぱを食べて、急斜面を登り姿を消しました。流石にカモシカです、とても登れないような急斜面を登っていきました。食欲もあったし大丈夫かな。
やはり天候不安定。スカイライン走行中に霧が出てしまい、山頂での展望はなしでした。
そうそう、スカイ蘭の途中で巨大望遠を三脚につけて何やら待機中のカメラマンが何人もおられrました。カメラは水平方向を向いています。展望もないし、その角度だと谷を挟んだ山の稜線があるだけ。何を狙っているんでしょう?
そうそう、スカイ蘭の途中で巨大望遠を三脚につけて何やら待機中のカメラマンが何人もおられrました。カメラは水平方向を向いています。展望もないし、その角度だと谷を挟んだ山の稜線があるだけ。何を狙っているんでしょう?
2008/09/07のBlog
[ 15:52 ]
[ 山歩き ]
やはり天気が不安定で局地豪雨が続いてます。3000m級の山での雷も豪雨も怖いです。山から観光に変更して友人に郡上八幡に連れて行ってもらいました。
まずは、世界でも珍しいらしい「立体迷路型鍾乳洞」の美山鍾乳洞へ。
付近一帯は美山洞穴郡と呼ばれ、約2億5千万年前のペルム紀の海底で出来た石灰岩が多くあり、その中に数十の鍾乳洞が分布していて、これらの洞穴からナウマン象、ヘラ鹿、ヒョウ、大角鹿などの化石が発見されているらしい。
事前に申し込むと、照明の無い未開洞で、ケービング体験もできるらしいですね。
まずは、世界でも珍しいらしい「立体迷路型鍾乳洞」の美山鍾乳洞へ。
付近一帯は美山洞穴郡と呼ばれ、約2億5千万年前のペルム紀の海底で出来た石灰岩が多くあり、その中に数十の鍾乳洞が分布していて、これらの洞穴からナウマン象、ヘラ鹿、ヒョウ、大角鹿などの化石が発見されているらしい。
事前に申し込むと、照明の無い未開洞で、ケービング体験もできるらしいですね。
続いては食品見本の体験工房。
食品サンプル製作は郡上八幡の代表的な地場産業だとか。ここ出身の岩崎瀧三氏が設立した会社が全国の大半を創り出しているそうです。
今は合成樹脂で製作しているが、以前は蝋細工。体験工房では蝋を湯に流して作ります。写真はレタスを作っているところ。
食品サンプル製作は郡上八幡の代表的な地場産業だとか。ここ出身の岩崎瀧三氏が設立した会社が全国の大半を創り出しているそうです。
今は合成樹脂で製作しているが、以前は蝋細工。体験工房では蝋を湯に流して作ります。写真はレタスを作っているところ。
そして宗祇水。
「日本名水百選」の第1号だそうです。案内板には「文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました」と書かれてました。
生活用水として順番に野菜だの食器だのを洗うと聞いていたので、もっと広くて長い流れかと思ってましたが、極めて小規模。かつ小雨のせいか、湧水の量もそんなに多くはなくて澄み切った水という印象ではありません。この小さい水路で、湧き水の祠から順番に飲料水、米等洗い場、野菜等洗い場、そして写真では切れて写っていない「さらし場(桶などをつける)」と別れているようです。いまでも実用になっているのかしら?
「日本名水百選」の第1号だそうです。案内板には「文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました」と書かれてました。
生活用水として順番に野菜だの食器だのを洗うと聞いていたので、もっと広くて長い流れかと思ってましたが、極めて小規模。かつ小雨のせいか、湧水の量もそんなに多くはなくて澄み切った水という印象ではありません。この小さい水路で、湧き水の祠から順番に飲料水、米等洗い場、野菜等洗い場、そして写真では切れて写っていない「さらし場(桶などをつける)」と別れているようです。いまでも実用になっているのかしら?
少し離れた城山には郡上八幡城。
戦国時代末期(1559)に遠藤盛数が砦を築き、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められたとの事。
その後、城主は次々と替わっていったようですが、明治4年の廃藩置県とともに廃城、翌年から石垣を残してすべて取りこわされたそうです。いまの城は、昭和8年に再建された。
城に行く途中に、最近立てられたばかりの「山内一豊、千代」の銅像があり、NHKの大河ドラマでは近江の出身とされた千代が実は郡上の出身であると書かれてました。
城の中にも千代に関連した展示が随所にあり、町の中にも「山内一豊夫人顕彰会」の看板が散見されます。頑張っているようですね。
戦国時代末期(1559)に遠藤盛数が砦を築き、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められたとの事。
その後、城主は次々と替わっていったようですが、明治4年の廃藩置県とともに廃城、翌年から石垣を残してすべて取りこわされたそうです。いまの城は、昭和8年に再建された。
城に行く途中に、最近立てられたばかりの「山内一豊、千代」の銅像があり、NHKの大河ドラマでは近江の出身とされた千代が実は郡上の出身であると書かれてました。
城の中にも千代に関連した展示が随所にあり、町の中にも「山内一豊夫人顕彰会」の看板が散見されます。頑張っているようですね。
2008/09/06のBlog
[ 19:53 ]
[ 山歩き ]
考古天文学というジャンルがあるんですね。金山巨石群は組織的な考古天文学的調査が行われた日本で最初のサイトだそうです。イギリスのストーンヘンジのように、太陽暦として機能するように設計され建設されたと推定される、いくつかの事実が明らかになったそうで、現地でも詳しい説明が表示されていますが・・・チンプンカンプン、理解できませんでした。ここら辺りは縄文時代に大きな集落があったんでしょうね。
流石に雨模様の平日、ハイカーは入っていないようです。
登り始めた登山道に沢山のトチの実が落ちていました。
暫く登るとあちらこちらの木肌に熊の爪痕が残っています。丹沢でも時折見かけた爪痕で鹿による皮剥とは全く違っています。熊さんが冬ごもりするブナの「うろ」があると地元の山ガイドに書いてありましたが、写真の右の大きな「うろ」などもそうかも。
ありゃ、ここは熊さんのテリトリーなんだ。
登り始めた登山道に沢山のトチの実が落ちていました。
暫く登るとあちらこちらの木肌に熊の爪痕が残っています。丹沢でも時折見かけた爪痕で鹿による皮剥とは全く違っています。熊さんが冬ごもりするブナの「うろ」があると地元の山ガイドに書いてありましたが、写真の右の大きな「うろ」などもそうかも。
ありゃ、ここは熊さんのテリトリーなんだ。
山頂までは何事もなく到着。ただ、雨はかなり激しくなってきました。
風も出て雨粒が吹き付けてくるので、すぐ下山に入ります。雨の中を黙々と下りていく・・・これはマズイですねえ。木の爪痕が見えなくなったので、こちら側の斜面にはあまりいないのかと思ってしまったですが、なんと途中のカーブしたところで先頭を行く友人(ご主人)が熊~と大声。そしてドシンという大きな音と地響きです。なんと木に登っていた熊さんが驚いて落下、幸いなことに谷の方へ逃げていきました。
それからは、カナダで教えてもらった「熊へ人が来るのを知らせる叫び声「ホー」」を時々山しながら下山しました。この叫び声は丹沢の道無き道の探索とかヤブ漕ぎのときにも聞いています。
もう熊さんと遭遇することもなく登山口に戻りましたが、今度はヒル騒動です。4人ともスパッツにヒルがくっついていて、ひとりは吸い付かれてしまいました。
この後は、河の対岸にある美輝の里で汗を流して友人宅に無事に帰還です。
風も出て雨粒が吹き付けてくるので、すぐ下山に入ります。雨の中を黙々と下りていく・・・これはマズイですねえ。木の爪痕が見えなくなったので、こちら側の斜面にはあまりいないのかと思ってしまったですが、なんと途中のカーブしたところで先頭を行く友人(ご主人)が熊~と大声。そしてドシンという大きな音と地響きです。なんと木に登っていた熊さんが驚いて落下、幸いなことに谷の方へ逃げていきました。
それからは、カナダで教えてもらった「熊へ人が来るのを知らせる叫び声「ホー」」を時々山しながら下山しました。この叫び声は丹沢の道無き道の探索とかヤブ漕ぎのときにも聞いています。
もう熊さんと遭遇することもなく登山口に戻りましたが、今度はヒル騒動です。4人ともスパッツにヒルがくっついていて、ひとりは吸い付かれてしまいました。
この後は、河の対岸にある美輝の里で汗を流して友人宅に無事に帰還です。
[ 15:14 ]
[ 山歩き ]
下呂に実家のある友人ご夫妻にお世話になって山と旅を満喫。
移動の翌日は乗鞍岳を目指しました。
2700m付近の畳平までスカイラインが通じていて、手軽にいつでも行けるだろうと山歩きの対象としてあまり考えたことがありませんでした。それに八ヶ岳などから眺めると北アルプスの端っこにちょこんとあるといったイメージですもの(ゴメン)。
今年のアルプス方面の山はどこにしようかと調べていて、実は乗鞍岳は最高峰が3000mを超えている火山で、主峰の剣ヶ峰の回りには朝日岳、摩利支天岳、富士見岳、屏風岳など23の山があると初めて判りました・・・恥ずかし(^_^;)。
当日の朝はまずまずのお天気でスカイラインを走るシャトルバスの車窓からは笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高連峰などを眺められました。槍の穂先に雲がかかっています。岳沢らしい雪渓の白い筋も見えます。
移動の翌日は乗鞍岳を目指しました。
2700m付近の畳平までスカイラインが通じていて、手軽にいつでも行けるだろうと山歩きの対象としてあまり考えたことがありませんでした。それに八ヶ岳などから眺めると北アルプスの端っこにちょこんとあるといったイメージですもの(ゴメン)。
今年のアルプス方面の山はどこにしようかと調べていて、実は乗鞍岳は最高峰が3000mを超えている火山で、主峰の剣ヶ峰の回りには朝日岳、摩利支天岳、富士見岳、屏風岳など23の山があると初めて判りました・・・恥ずかし(^_^;)。
当日の朝はまずまずのお天気でスカイラインを走るシャトルバスの車窓からは笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高連峰などを眺められました。槍の穂先に雲がかかっています。岳沢らしい雪渓の白い筋も見えます。
帰る途中で「ドライブステーション板橋」、「お美津稲荷」そして「名刹の禅昌寺」と案内していただきました。
「ドライブステーション板蔵」には、飛騨の名物「板蔵ラーメン」の観光工場があり無料で試食ができました。石原軍団の代表作「西部警察」の舞台にもなったところだそうです。店先に沢山吊るされていた赤い人形は「さるぼぼ」。飛騨の名物、土産品だそう。
飛騨で生まれた郷土人形で、子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与えられたそうです。 おばあちゃんが子供や孫にこつこつ作ってあげたとか。
たさるぼぼとは、飛騨の言葉で「猿の赤ん坊(ぼぼ)」という意味。赤い顔と体が猿の赤ん坊に似ていることが由来です。
「猿」という読みをかけて、「災いが”さる”」、「家庭”猿”満(かていえんまん)」、「”猿”むすび(えんむすび)」など、厄除けや縁結び、女性の安産のお守りとしても、さるぼぼは重宝されているとか。いつ頃から作られ始めたのかというといった情報は見つからなかったです。 2007年に「飛騨のさるぼぼ」として地域団体商標に登録されたといのはありました。
全国の稲荷神社のお使いキツネが集まったと言う伝説のある「お美津稲荷」を見学して禅昌寺へ。
平安時代の建立で天下十刹に数えられ「飛騨一美しいと言われているとか。残念ながら閉まっていて中の見学はできませんでしたが、庭の奥にある「国の天然記念物に指定されている推定樹齢1200年余の大杉」は見ることができました。樹高45m、周囲12mだそう。
「ドライブステーション板蔵」には、飛騨の名物「板蔵ラーメン」の観光工場があり無料で試食ができました。石原軍団の代表作「西部警察」の舞台にもなったところだそうです。店先に沢山吊るされていた赤い人形は「さるぼぼ」。飛騨の名物、土産品だそう。
飛騨で生まれた郷土人形で、子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与えられたそうです。 おばあちゃんが子供や孫にこつこつ作ってあげたとか。
たさるぼぼとは、飛騨の言葉で「猿の赤ん坊(ぼぼ)」という意味。赤い顔と体が猿の赤ん坊に似ていることが由来です。
「猿」という読みをかけて、「災いが”さる”」、「家庭”猿”満(かていえんまん)」、「”猿”むすび(えんむすび)」など、厄除けや縁結び、女性の安産のお守りとしても、さるぼぼは重宝されているとか。いつ頃から作られ始めたのかというといった情報は見つからなかったです。 2007年に「飛騨のさるぼぼ」として地域団体商標に登録されたといのはありました。
全国の稲荷神社のお使いキツネが集まったと言う伝説のある「お美津稲荷」を見学して禅昌寺へ。
平安時代の建立で天下十刹に数えられ「飛騨一美しいと言われているとか。残念ながら閉まっていて中の見学はできませんでしたが、庭の奥にある「国の天然記念物に指定されている推定樹齢1200年余の大杉」は見ることができました。樹高45m、周囲12mだそう。
2008/09/01のBlog
[ 13:51 ]
2008/08/31のBlog
[ 11:22 ]
2008/08/30のBlog
[ 20:16 ]
[ 徳島点描(徳島のはてな?) ]
[ 08:52 ]
[ モンゴルの旅 ]
もう終わった筈のモンゴルバーチャル旅ですが、もうひとつだけ気になっている事が残っていました(^_^;)。
それは、チベット仏教(モンゴル仏教)の裏面史です。どこまでがほんとなのか判らない暗黒面の情報が散見されます。
写真の本は日本モンゴル親善協会の理事「山本泰生」が書かれたものです。
そこにも後述する司馬遼太郎の「モンゴル紀行」と同様の内容が書かれています。
○17~18世紀のおおよそ200年間、清の支配がモンゴルに及ぶなかで、ラマ僧によつ搾取と蓄財が横行。働き手の男子の多くが僧籍に入り、労働力不足で社会の生産力が大きく低下、
○解脱のひとつの手段として性行為を教義に取り込み、ラマ僧が信徒の初夜権をも握る、
○ために梅毒が蔓延、人口激減で民族滅亡の危機に至った。
うーん、ここでいうラマ教はチベット仏教の事(どちらかという否定的に言うときの呼び名という事で使われていない筈なんですが)。宗教が国を駄目にしていったと言い切っています。
それは、チベット仏教(モンゴル仏教)の裏面史です。どこまでがほんとなのか判らない暗黒面の情報が散見されます。
写真の本は日本モンゴル親善協会の理事「山本泰生」が書かれたものです。
そこにも後述する司馬遼太郎の「モンゴル紀行」と同様の内容が書かれています。
○17~18世紀のおおよそ200年間、清の支配がモンゴルに及ぶなかで、ラマ僧によつ搾取と蓄財が横行。働き手の男子の多くが僧籍に入り、労働力不足で社会の生産力が大きく低下、
○解脱のひとつの手段として性行為を教義に取り込み、ラマ僧が信徒の初夜権をも握る、
○ために梅毒が蔓延、人口激減で民族滅亡の危機に至った。
うーん、ここでいうラマ教はチベット仏教の事(どちらかという否定的に言うときの呼び名という事で使われていない筈なんですが)。宗教が国を駄目にしていったと言い切っています。
チベット仏教とモンゴルの関係、中国の元・明・清との表の関係、歴史は書物・文献にしっかりと書かれていて、明確に判ります。
チベット仏教サキャ派が元のフビライの信任をえて帝師となり,代々帝師を宮廷に送りこんだという表の歴史は色々と情報があります。でもその裏面史というか暗黒の部分がよく判らない。インドで始まった「性を使った修行道」を取り入れ発展させた「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」がねじ曲げられ、後宮がタントラ仏教の卑猥な面を喜ぶのに迎合して元の滅亡を早めたともいわれてます。
そして、次の明朝も約1世紀にわたって後宮の猥褻な要請におもねり,歴代皇帝を惑乱。チベット仏教を黒祠邪教とするぬぐいがたい印象を中国に残したという事も言われてます。山東省から来日していた知人から中国の早口言葉を教えてもらった時に、「黄色の帽子、ラマ僧」が出てきたのに驚いた事があります。そんなところまで浸透していたんですね。
続いて、元がモンゴルの方へ引き上げ北元として明と対峙していた頃ですね。モンゴルの支配者「アルタンハーン」がチベットの高僧にダライラマの称号を与え、それがダライラマの始まり(名目上は3世らしい)。そして、その次のダライラマはモンゴル人(アルタンハーンの孫)らしい。どうもこの頃のモンゴル仏教も上記と同じくチベット仏教の一番怪しげな部分「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」をいい加減な状態、邪教とも思われるような形で表に出してしまったようです。
チベット仏教サキャ派が元のフビライの信任をえて帝師となり,代々帝師を宮廷に送りこんだという表の歴史は色々と情報があります。でもその裏面史というか暗黒の部分がよく判らない。インドで始まった「性を使った修行道」を取り入れ発展させた「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」がねじ曲げられ、後宮がタントラ仏教の卑猥な面を喜ぶのに迎合して元の滅亡を早めたともいわれてます。
そして、次の明朝も約1世紀にわたって後宮の猥褻な要請におもねり,歴代皇帝を惑乱。チベット仏教を黒祠邪教とするぬぐいがたい印象を中国に残したという事も言われてます。山東省から来日していた知人から中国の早口言葉を教えてもらった時に、「黄色の帽子、ラマ僧」が出てきたのに驚いた事があります。そんなところまで浸透していたんですね。
続いて、元がモンゴルの方へ引き上げ北元として明と対峙していた頃ですね。モンゴルの支配者「アルタンハーン」がチベットの高僧にダライラマの称号を与え、それがダライラマの始まり(名目上は3世らしい)。そして、その次のダライラマはモンゴル人(アルタンハーンの孫)らしい。どうもこの頃のモンゴル仏教も上記と同じくチベット仏教の一番怪しげな部分「無上瑜伽タントラ、性的ヨーガ」をいい加減な状態、邪教とも思われるような形で表に出してしまったようです。
そして清の時代になってですが、これもほんとかどうか判りませんが司馬遼太郎のモンゴル紀行に書かれているのが以下の衝撃的な内容です。
○清朝がモンゴル人の民族的活気を殺ぐためにラマ教をすすめた事が衰弱に拍車をかけた。
○生産を支える男子の多くが僧になり、ラマ教には僧が初夜権を持つという奇習があり、しかもその性的権威を通じ、僧が梅毒を蔓延させるなどもあって人口まで激減。
○清朝の対モンゴル政策には梅毒をひろめることまでふくんでいたといわれる。
○モンゴル人の精神と生活を自立できないまでに退廃させたのはラマ教であるとされていた。事実そうであったあったろう。
と書かれています。
本来のチベット仏教の本質とは違うと思いますが、これでは、元、明、清を通して限りなく左道の邪教のような印象になってしまいます。
一方では、風紀が乱れてしまったチベット仏教を15世紀初めころに現れたツォンカパによるゲルク派は、「小乗仏教以来の僧団の戒律を重んじて,タントラ仏教の解釈学を徹底させ,そこに含まれていた戒律に触れる性的実践との関与をいっさい絶った。その上で顕教による般若波羅蜜の修習を終えた者のうち,きわめて優れた素質のあるものが,利他行を完成するためにこの世で一切智者(仏)の境地に到達しようとするとき,無上瑜伽タントラの実習が許されるとした」と表の歴史では言われています。
うーん、実際のところはどうなんでしょうか。表側もあれば裏側もある。それが世の常ですが、暗黒面の大きさ・拡がりがどうであったが問題ですね。
そういう暗黒面の流れの大きさによっては、宗教を否定する社会主義の時代にソ連によるモンゴル仏教の破壊、中国共産党による破壊というのは判らないでもないような気がします。
そんな古い時代のことでもありませんから、チベット仏教の内部には記録が残っているのではないでしょうか。いろんなタメにするような情報も飛び交っていて、なにが本当なのか曖昧なままです。ここはダライラマ14世にきちんと情報公開をしてもらいたいと思うのですが・・・。
2008/08/29のBlog
[ 08:20 ]
[ 徒然Diary ]
伊方発電所、佐田岬の施設でいただいた資料の続きです。
もうひとつの面白い話が出ていました。「奥方に化けた古狐」の民話で、四国に狐がいない理由が出ていました。
ところで、もう随分前になりますが、阿波狸合戦という凄く面白い小説を読みました。そこにも四国に狐がいない理由が書かれていました。
二つの話、理由が全く違うので「あれれ」と思って少し調べてみましたが、どちらも民話として伝承されているようですね。
まずは、阿波狸合戦の方での話です
昔、四国には沢山の狐が住んでいたが、いたずらをして人間を困らせていた。そこで、弘法大師が怒って、「四国から出ていけ。鉄の橋ができたら帰ってよい」と、おっしゃった。そして、明治になって四国に鉄道や鉄橋ができ、四国に狐が帰ってきたそうです(^_^)。弘法大師の故郷である讃岐がある四国ですし、真言宗の巡礼コース、四国八十八箇所があるところですから、弘法大師の言い伝えには事欠きません。
続いて、伊方発電所でもらった資料の話です
道後公園の中に400年ほど昔、湯築城という河野氏の居城があった。河野通直という3代目城主のときに、奥方が突然二人になってしまった。この二人は背丈から何からうりふたつで、どちらが本当の奥方か見分けがつかなかった。途方に暮れて医者に見せても「何ぞ魂が分かれる奇病かもしれん」というだけでさっぱり埒があかなかった。その時、通直公は「いい考えがある」といい、二人の奥方を座敷牢に閉じ込めてしまった。そして牢内の奥方に何も食べ物を与えてはならぬと家来達に申し付けた。4日後、食べ物を差し入れ、通直公は二人の食事ぶりを眺めることにした。すると、一人の奥方は落ち着いて箸を運ぶのに対し、もう一人はガツガツとむしゃぶりついている。それを見た通直公はただちに後者を取り押さえた。すると、古狐が正体を現した。
通直公は大層腹を立て、この狐を火あぶりにしようと、庭に積んだ薪の上に吊るした。そのとき、大小3000匹の狐が城にやってきて、代表格の狐が懇願した。「この狐は貴狐明神の子孫で、四国狐の統領です。焼き殺そうならば、きっと領内に災いをもたらすでしょう。お助け戴くならば、必ずやこの御恩に報いましょう」と。
通直公は「それならば、今回限り許してやろう。但し、今後はこの四国の地から出ていくのだぞ」と狐の縄を解き放し、逃がしてやった。その日を境に、四国の狐は船に乗って中国地方に渡ってしまい、四国から狐は居なくなったという。どうも、この古狐は雌狐だったのかしら、イケメンの通直公に惚れてしまったらしくて、愛しい人の奥方に化けたという話もあるとか。
うーん、後の方の話が面白うそう。
去年かな、道後には行きましたが、松山城と道後温泉、雲の上ミュージアムを見て大洲の方へと移動したので、湯築城跡のある道後公園には足をのばさなかったです。こんな話を知ってれば立ち寄ったのに残念。
まだ発掘調査は1/3くらいだそうですが、鎌倉~室町の守護 河野氏の居城だったそう。秀吉が四国を統一するまで続いたそうだし、阿波の守護 細川氏(その後の三好氏)よりも期間も長いし、城跡遺跡の残存状況も良さそう。
もうひとつの面白い話が出ていました。「奥方に化けた古狐」の民話で、四国に狐がいない理由が出ていました。
ところで、もう随分前になりますが、阿波狸合戦という凄く面白い小説を読みました。そこにも四国に狐がいない理由が書かれていました。
二つの話、理由が全く違うので「あれれ」と思って少し調べてみましたが、どちらも民話として伝承されているようですね。
まずは、阿波狸合戦の方での話です
昔、四国には沢山の狐が住んでいたが、いたずらをして人間を困らせていた。そこで、弘法大師が怒って、「四国から出ていけ。鉄の橋ができたら帰ってよい」と、おっしゃった。そして、明治になって四国に鉄道や鉄橋ができ、四国に狐が帰ってきたそうです(^_^)。弘法大師の故郷である讃岐がある四国ですし、真言宗の巡礼コース、四国八十八箇所があるところですから、弘法大師の言い伝えには事欠きません。
続いて、伊方発電所でもらった資料の話です
道後公園の中に400年ほど昔、湯築城という河野氏の居城があった。河野通直という3代目城主のときに、奥方が突然二人になってしまった。この二人は背丈から何からうりふたつで、どちらが本当の奥方か見分けがつかなかった。途方に暮れて医者に見せても「何ぞ魂が分かれる奇病かもしれん」というだけでさっぱり埒があかなかった。その時、通直公は「いい考えがある」といい、二人の奥方を座敷牢に閉じ込めてしまった。そして牢内の奥方に何も食べ物を与えてはならぬと家来達に申し付けた。4日後、食べ物を差し入れ、通直公は二人の食事ぶりを眺めることにした。すると、一人の奥方は落ち着いて箸を運ぶのに対し、もう一人はガツガツとむしゃぶりついている。それを見た通直公はただちに後者を取り押さえた。すると、古狐が正体を現した。
通直公は大層腹を立て、この狐を火あぶりにしようと、庭に積んだ薪の上に吊るした。そのとき、大小3000匹の狐が城にやってきて、代表格の狐が懇願した。「この狐は貴狐明神の子孫で、四国狐の統領です。焼き殺そうならば、きっと領内に災いをもたらすでしょう。お助け戴くならば、必ずやこの御恩に報いましょう」と。
通直公は「それならば、今回限り許してやろう。但し、今後はこの四国の地から出ていくのだぞ」と狐の縄を解き放し、逃がしてやった。その日を境に、四国の狐は船に乗って中国地方に渡ってしまい、四国から狐は居なくなったという。どうも、この古狐は雌狐だったのかしら、イケメンの通直公に惚れてしまったらしくて、愛しい人の奥方に化けたという話もあるとか。
うーん、後の方の話が面白うそう。
去年かな、道後には行きましたが、松山城と道後温泉、雲の上ミュージアムを見て大洲の方へと移動したので、湯築城跡のある道後公園には足をのばさなかったです。こんな話を知ってれば立ち寄ったのに残念。
まだ発掘調査は1/3くらいだそうですが、鎌倉~室町の守護 河野氏の居城だったそう。秀吉が四国を統一するまで続いたそうだし、阿波の守護 細川氏(その後の三好氏)よりも期間も長いし、城跡遺跡の残存状況も良さそう。
2008/08/28のBlog
[ 09:16 ]
[ 徒然Diary ]
先日、知人夫妻を伊方発電所に案内したときに道の駅でもらった資料を見ていると面白い記事が出ていました。
ところで四国の一番西になる佐田岬ですが、日本で一番細長い半島、岬らしいですね。
この地図は伊方発電所で頂いた紙袋に印刷されていたものです。
ところで四国の一番西になる佐田岬ですが、日本で一番細長い半島、岬らしいですね。
この地図は伊方発電所で頂いた紙袋に印刷されていたものです。
2008/08/27のBlog