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小文句たれぶ~
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2008/07/24のBlog
とにかくヘタしたら毎週のように発生する猟奇的事件。
 突発的と言うにはあまりにも非論理的で不条理な殺意の犠牲者ばかり。だけど、報道を見ているとそれはそれでまた、どこかおかしい所だらけな気がする。

この手の事件が起こると、必ずどのチャンネルでも新聞でも、とにかく必死になって“理由”を探している。
 肉親を殺した犯人の場合は、それまでの生活にいびつな所はなかったか、家族関係はぎくしゃくしてはいなかったか、とそっちの線ばかりで調べまくってるようにニュースは言う。
 前の日に何かケンカでもしてなかったか、とか、それまでに叱られた事が原因ではないかとか。

 そして無関係な人を殺した場合は、普段の生活に不満はなかったのか、なにが犯人を衝動殺人に駆り立てたのかを探しに探し、見つからなかったらなんでもいいから適当に猟奇的な映画だのコミックだのを槍玉にしているように思えてならない。
 だが、以前ならともかく、最近の事件はあまりにも不条理すぎて、コミックやアニメやゲームの真似と言うにも『やおい』の度合いがひどすぎて、マスコミもこじつけのしようがないのである。

 そしてそういうことがあって、犯人が若齢とか、かろうじて青年と言えそうな年代の場合はじきに教育はどうなってたかとか、これもそういう方面に矛先が向かうことになる。
 そしてお座なりな『答え』として出てくるのが、文科省あたりが発表する、人間的な情緒の教育がどうとかという話。

 私は学生の時、いわゆる不良グループから目の敵にされてまる一年半、今考えたらよくぞ生き延びたと思うほどの辛い目に遭っていた。あいにく私は自殺を考えるよりも、そいつらをひとりづつ、さまざまな手段で皆殺しにする事を考えた。6人はいたかねえ。
 しかし実行しなかった。なんで耐えられたかというと、女手で高校まで行かせてくれた母と祖母に迷惑がかかるからだ。
 結局、二年の後半までにそいつらは順番にドロップアウトして行ったし、残ったヤツは腰抜けなので一人や二人では何もできなかった。

 だけど、思うのだが───ほんとに、理由なんてなくても人は殺せるんじゃないだろうか。
 一般人たちが安心したいためだけに、必死で理由をこじつけているとしか思えない。だってそういう犯人たち、みんな一様に罪の意識なさそうだろう?いや、実際ないのだ。
「いま、激しく後悔している」なんてのは十中八九、弁護士が言わせているだけの詭弁。

 殺人、自殺に限らず、人間をとんでもない行動に駆り立てる事ができる要素があるとしたら、それはたったひとつだけ。
 後先を考えない思考回路。これに尽きるのではないだろうか?
 行動の因果関係を考えるのは当たり前であり、それが良識だと思っている事が実は大間違いではないかと考える。皆さんも出くわした経験ないだろうか?
 たとえば、ラッシュ時で大勢の人が後から後からどんどんやってくるのに、下り階段の最上段や途中でいきなり立ち止まる人。
 たとえば、各駅停車の満員電車のドアで仁王立ちのまま携帯メールを打ってる人。
 または、言葉がようやくわかり始めたくらいの赤ん坊と言っていい幼児を手も繋がずにクルマの通る道で勝手に歩かせる親。
 (こんにゃくゼリーをノドに詰めて幼児が亡くなった事件も、親がほったらかしで物を食べさせるから起こった事件だと思うが)
 ほかにも多々ある。刃物を使うのに、刃が進む方向に手を置いている人。怪我して当たり前である。また、通路を人が通れば揺れるのは当たり前なのに、不安定な物を積み重ねている雑貨店。
 事件で言えば、真夏にしめきった部屋やクルマに幼い子供を置いたまま出かける親。

 実はゴミのポイ捨て、吸い殻のポイ捨ても同じ次元である。そういうことをしたら、あとあとどうなるのかなんて考えてない。だから注意されたら真顔で驚く。とぼけているのではない。本当に脳髄がボケているのだ。

 全部、因果関係を予測するという、ごくごく初歩的な智恵、単純な危険回避のための思考回路が欠落している結果ではないだろうか。
 これを教育のせいだとするのなら、子供に経験値を与えてやらなかった事がすべてだ。子供は幼ければ幼いほど、単純で軽微な痛みを経験させる事で、もっと大きな痛みや危険を予想・想像できる空想力を養う必要があるのに、最初から安易な安全を与え続けた事で結局まちがった親心が子供たちの想像力を奪っているのだと思う。

 ならば、誰もが今横行しているような事件を起こすのか!?そんな馬鹿な、と仰る方もおられるだろう。
 私は可能性は高いと思う。だって、人の痛みが分らないだけでなく、自分の痛みも予想できないのだから。もちろん、自分がしでかした事で遺された家族がどうなるかなんて考えてもいない。いや、考えられないのだ。
 そういう風に育ててしまったのだから。

 愛のムチをちゃんと貰えなかった可哀そうな彼らに、今更「なんでそんな事をした」なんて訊いても無駄である。理由はないのだから。
 その道理が理解できない自称オトナに彼らが理解できるわけもなし。

 彼らには「なぜ殺した!?」ではなく、「人を殺しちゃいけないんだよ」と諭して教えるのが先かも知れない。 
 ただし。彼らに罪がないとは死んでも言わない。最近流行の『身心膠着』なんて認めない。やってることは社会的には狂っていても、彼らの精神は間違いなく正気なのだから。
 だけど、一生社会に放し飼いにしてはいけない人種である事もこれで確定した。
 
2008/06/05のBlog
呆れましたね。またまたあの、必死に働くマジメな日本人庶民にとっての『過労で死ね』法こと『サマータイム法案』を蒸し返す馬鹿議員がいるらしい。

 しかも今回は党派を越えて悪事を目論んでいる輩がいるそうな。
 知りたいのはそのカラクリ。サマータイム法案が通れば悪徳議員がなんらかの形で儲かるワケですが、はたしてこんなKYで反エコな悪法で誰が得をするのかが判らない。
 少なくとも、残業残業で毎日の睡眠はおろか、決まった食事の時間さえもままならない貧乏暇なし労働者は、ただでさえ少ない睡眠時間をこの悪法によって更に一時間削られてしまうのです。
 早起きが三文の得になるのは、毎日必ず定時で帰れるヒマな業種だけ。…ってユーか、役人の為のゴマスリなんですよ。

 馬鹿議員たちはこれが省エネになるような論法を展開してますが、逆にフル稼働が朝もはよから始まって、いつものように深夜まで仕事するだけの事だとなぜ解らんか、この馬鹿どもめが!!

 そしてサマータイム法案を支持した連中は平日の陽の高い内からビール呑んでほろ酔いで帰ってもまだゴールデンタイムなワケで、日付が変わる頃やっと家に帰り着く真面目な労働者は貴重な睡眠時間を削られても文句も言えず、過労死しても訴え出た先がそんな奴らだから取り合ってもくれない、という仕掛けやね。

 人殺し法案、絶対阻止すべし!!

2007/10/19のBlog

 昨夜ニュースを見ていたら、またまた消費税を上げないと収支が合わない、このままではいずれナニモカモ破綻する…みたいなことを今の大蔵省だか財務省だかのオバハン大臣がぼーっとのたもーていた。
 まあ、毎年今頃になると必ず出てくるようなネタだが、自民党全盛でどんなドジを踏み続け、あくどいことをやり続けていても、純朴な国民は隣近所の付き合いだけで票を稼げた時代ではなくなっているのに、次の選挙を前にしてよくぞまたおのが無能と阿呆を露呈してくれた。
 正直なところ、あんたらみたいな連中の給料を全国から没収したら増税どころか減税も可能だろう。あと、土建屋とつるんで無意味に垂れ流しになっている公的工事費とか、無用な広報広告代とか、上げていけば無駄しかない。

 そもそも地方自治でも優秀な知事が登場した所では、旧来の確執や妄執を切り捨てて無駄をどんどん切り詰め、優れた人材さえ配置すれば上杉鷹山の善政のごとく財政は甦る可能性があることを見せてくれているだけに、いまの政府財政のバカさ加減を浮き彫りにするのに見事すぎる人材といえるだろう。

 そもそも、高度成長時代からバブルの頃に、さながら札びらで人のホゲタを叩くような調子であちらこちらの後進国へ金を貸しまくって、今度は自分がビンボーになってもまだ金貸しを続けているのである。
 驚くのはあの中国にさえ“援助”しつづけているのだ。もともと地下資源に恵まれ、広大な国土を持ち、さらには自国で宇宙船を飛ばす技術力を身につけ、いまや世界を経済と労働力で支配せんとの勢いのあの国に、である。ちゃんちゃらオカシイ話だ。

 だいたい、何処の世界に自分のフトコロが寒いのに、他人の援助をやろうなどと考える阿呆がいるのだろうか。
 税金を上げるとか言う前に、貸した金を返してもらえ。我々の血税を相談もなく勝手に貸し出したのはお前らだ、私らぢゃない。

 聞けば大阪市役所の役人共、ずっと給料が上がってない、景気は回復してきてるのだからベアしろと知事に迫ったそうだ。
 いったいいくらの給料で文句たれてるのかと言えば、筆者と変わらない40代半ばで年収600万あるのだそうで?ボーナスは4ヶ月分ももらっているそうだ。

 ぶっちゃけた話、今のまともな仕事で真面目に稼いでいる同年代は年収400万もあればかなり良い方である。呑気な役人共めは、年収200万の人が半数を占めているという事実を知らないのだろう。ましてボーナスなど何年もないのがほとんどである。
 景気が回復しているなどとほざいているのは小泉の飼い犬だった竹中が吹いた大ボラであり、それを真に受けていたのは役人と、人を泣かせて儲けていた立場の連中だけだ。

 小泉が去り、安倍がさじを投げた今、やっと報道管制が緩んだマスコミたちはようやく庶民の怨嗟の声を電波に乗せはじめている。

 社会のダニ共、今の日本が穏和な時代であることを感謝したまえ。
 庶民が元気で血の気が多かった昔だったら、お前らはとっくに一揆や打ち壊しのドサクサで生ゴミになっていたはずだからだ。しかし、いつまでも皆が大人しいと思ったら大間違いである。
 チョーシにのんなよ。
2006/11/21のBlog
今日帰宅時に電車でFMを聴いていたら、ニュースでまた、そう、またまた『酔っぱらい運転の男が小学生の列にとびこんだ云々』って事件があった。
 これ、一体どうなってるんだろうか。

 こんなに毎週のように飲酒運転のニュース報道があって、飲酒運転の犠牲で亡くなった人の家族の哀しみや恨み、怒りが伝えられているのにもかかわらず、それでも酒を飲んで運転する大馬鹿野郎が絶えないとは信じられない。
 酒かっくらって運転している連中は別段アル中、つまり飲まないと精神的に常態を保てないというわけでもなさそうなのだ。もっとも、アル中と診断された人物から運転免許をとりあげないなどという事があるとしたらそれも狂っているが。
 弁護士は「被告にそんなつもりはなかった、軽い出来心で悪意はなかった」とオキマリの論法で庇うのだろうが、これほど連日飲酒運転による犠牲者のニュースが発信されている中で、なんらの危機感・罪悪感を感じることなく酒をカッ食らってハンドルを握った事自体に悪意がある。

 ようするに確信犯、ってヤツだ。酒を飲んでクルマを運転することがそのまま殺人に繋がることは理解できていないはずがないのだ。できてないというなら、そんないかれたオツムのヤツに運転免許を出した自治体だか運輸省も罰されるべきだ。
 言い換えれば最初から『殺人を犯すつもりで酒を飲んで運転している』のだから実弾入りの拳銃を持って強盗に入るのと同じだ。
 しかし、彼らに降りる判決は軽い。実際に軽いから同じ事件が多発・連発する。轢くことは故意でなくても飲酒運転は故意である。わざと罪を犯していながら屁理屈がまかり通って軽い罰だけで済むのだとしたら、殺したい相手めがけて酒をあおりながら轢き殺しに行ったヤツもいるのではないか。

 またしかし、なんだって不思議なほど狙い澄ましたように“小学生の列へ飛び込む”なんてことになるのだろうか?酔っぱらってどこかへ突っ込むなら塀でも電柱でも日本には道路の障害物など数え切れないほどあるのに、よりもよって子供の列に飛び込むというのも奇妙な話だ。
 おもしろがって子供を狙って突っ込んだのだろうか。違う、と言い訳しても結果的に同じ事になっているのだから故意だろうが過ちだろうが、背負う罪は同じだ。

 奇妙なことは他にもある。

 これまたニュースで言っていたことだが、一般への無作為アンケートで「飲酒運転への罰則を強化すべきか」という問いに対して7割がイエスと応え、「ひき逃げに対しての罰則は強化すべきか」のイエスは6割だったという。
 では、それぞれの残りである3割と4割の「ノー」ないし「現状で充分だ」と応えた人たちはどう考えているのだろうか。ここに「飲んで運転してもいいじゃん」と考えている馬鹿がいることが見え隠れしているし、「どうせ自分には災難は降りかからない」とタカをくくっている阿呆が見える。

 今回のことで報道特番などで取り上げられることが多くなったからご存じの方も多いだろうが、人を轢いた場合、酔って轢いたその場で逮捕されるよりも一度現場を離れてから自首した方が体内のアルコールが減ることもあって罪が軽くなるのだそうだ。
 要するにひき逃げした方がトクということになる。
 こんなバカな法律がまかり通っている日本の道交法ってなんなのだろう。しかも今国会でもこれを改めようという動きすらないようだ。政治屋やその家族には飲酒運転をよくやる連中が多いということなのか。違うというなら即刻法をマトモなものに改めていただきたいものだ。

 これはもしかすると禁煙または喫煙マナーを固持する姿勢が世界的運動になっているのにもかかわらず、今も歩き煙草、ポイ捨て、ところかまわず喫煙などというだらしない連中がいるのと同じ理由なのではないか。
 そもそもマナーを守り、ちゃんと他人に気を配った喫煙ができるホンモノの愛煙家たちは、嫌煙権について語られはじめたはるか以前から、きちんと周りへの気配りができた人のはずである。筆者の友人の喫煙者はみなそうだった。

 結局、今も町なかで最低限の喫煙マナーすら守れない連中というのは、単なるニコチン中毒患者のボンクラどもなのだから犯罪者扱いでいい。道ばたで泥酔していてもトラ箱にぶち込まれるのだ。罰金など軽いものである。
 同じく、飲酒運転に関してこれだけ取り沙汰されている中で、いまだに飲酒運転をやっているということは当人も巨大なリスクを背負う覚悟があるのだから殺人未遂罪として扱っていいのである。
 いわんや実際に殺傷事件を起こした場合に情状酌量の余地はない。いや、あってはならない。
2006/11/06のBlog
コレといった猟奇的事件もなかったためか、文科省としては“必須”として定めた科目なのに、受験のためには必要ではないとして省いていた……関連のニュースで10月は明け暮れたような気がする。
 現実を認識できないどっかのアホ大臣だかアホ議員だかが無理矢理はじめた『ゆとり教育』とやらのせいで、やらねばならないことがあるのに学校は休みというバカな精度ができた。
 進学のための進学を目的とする今の“教育”方式のままでは、結局は塾へ通う時間が増えるだけなのは火を見るよりも明らかだ。それでなくても学校不要論があったところへもってきて、ますます何のために学校へ通うのか意味を見いだすことさえ難しくなっていた。
 不正をはたらいた連中を庇うわけではないが、目的が受験突破のみ、時間はない、やらねばならないことは山積みだ…となれば、受験に不要なものは省こうと考えるのは当然のことである。

 四半世紀以上も前に筆者が通っていた高校は正直言って“アホの子学校”だった。つまり文科省が目指すところの“学力”とはあまり相性が良くない学生が多い学校だったが、そんなレベルでさえも三年間で半分しか使わなかった教科書や、ひらかないまんまの副読本はけっこうあった。
 念のため書いておくが、筆者も文科省とは相性が悪かったものの、真面目だけが取り柄だったので教科書だけはロッカーに入れたまんまにせず、ちゃんと毎日運んだし授業をフケたこともない。それでもそんなもんだったのである。進学校ならば当時でも当然の話だったのではないか。ましてや“ゆとり教育(なんて皮肉なネーミングだろうか)”のせいで時間まで削られたらどうしようもない。

 呆れるのはその後の対応である。急いで抜けた(またはすっ飛ばした)授業を補習することでチャラにする、というのだ。しかもその教科の代表格はなんと世界史。
 筆者もそうだが、学生の頃つまらなかった授業のひとつが歴史である。理由は簡単だ。年号と項目の暗記になんの面白さがあろうか。
 そもそも歴史とは、過去の人間の生涯を追体験することによって今を考え、未来を考える学問の筈だ。で、なければ尊い生命の連なりをどうやって意味のあるものにできるというのか。
 現代人が歴史に学ぶことは多い。生き方、死に方、無数の人と人の関わり、それが織りなすものが時代である。だがそれを無視して年号と項目だけをひたすら暗記するのが今の日本の“教育”なのだ。このことに気がつくには、さまざまな作家のさまざまな考え方、見方を持った多くの歴史小説を読み倒し解釈する必要があったが、いざその面白さにハマればハマる程、いかに学校で詰め込もうとしていた『歴史』が無駄で意味のない物だということに気づく。

 そもそも歴史を日本と世界で分けること自体が狂っているのだ。世界の中に日本があるのである。北朝鮮やかつてのソ連のように、外国の情報をシャットアウトして自国バンザイ主義でいるのならばそんな教え方でもいいのかも知れないが、徳川幕府が鎖国していた間でさえも世界は大きく動いていて、しっかりと日本との関わりを持っていたわけだから、何年にどの老中が何タラいう政策をした…なんてのはむしろどーでもいい事柄である。
 大事なのは、なんでそんなことをそいつが考え、どうやって実行したのか、だからどんな影響が誰それにあったのか、それを後世はどう評価してきたか、そしてキミならどう評価するかということではないのか。

 実際、そうしたどーでもいい内容になってしまったものの教え方のせいで、ベネツィアのメディチ家とマルコポーロと北条時宗とモンゴルとは別個の話であって、長い間繋がらなかった。NHKアニメ『マルコポーロの冒険』と大河『北条時宗』などを観てはじめて横に繋がったのである。
 これに地理という学問があって、はじめてシルクロードの存在する意味が解ってくるのだが、いかんせんこれも別の教科としてしか教えないから、ただの地図の暗記術にしかならず、街角で「◯◯の国と首都はどこ?」みたいなインタビューをしたときにいい歳をしたオトナがびっくりするような答えを返してくれるのだ。
 これを常識知らずだと笑う前に、常識とは何なのかを考える必要がある。
 アメリカの首都を言い当てることができることなのか、それともブログを使いこなすことができることなのか、大臣の名前を知っていることなのか、携帯電話の裏技を知っていることなのか。

 興味がわかない教え方をされて覚えられるわけがないのである。
 よくエラソーに「学生の学力がどんどん落ちていて、日本の将来が懸念されますねえ」などと訳知り顔でコメントしているキャスターがいるが、その当人はいまや小学生でも精通しているネットゲームはおろかまともにネットサーフすらできないし、新聞などというタイムラグの大きな時代遅れの情報ツールをいまだに有り難そうにふりかざしているのだからお笑いである。

 逆に若者たちは最新のファッションだとか、最新ヒットチャートの動きとか、バイクの性能比較とかi-Podの使い方の裏技などならばプロ顔負けの知識量の筈なのは何故なのか、創造性のない暗記しかできなかった今の“教育”を担当する無能無芸な役人たちはちゃんとアタマを使うべきである。

 余談だが、筆者たちが教わってきた歴史も間違いだらけだということが最新の研究で判ってきたことが多い。たとえば源頼朝だとされていた肖像画が違っていたこと、足利尊氏だとされてきた絵もそうだった。しかも平安遷都の794年てのも怪しいらしい。

 そんないい加減な年号を紀元前から現代まで呪文のように暗記できたところで、年末の宴会でさえも使えないレベルのくだらない瞬間芸に過ぎないのである。

 “教育”、ばんざい。
2006/08/25のBlog
シュレッダーで指を失った幼児のニュースがここ数日飛び交っている。
 なんで日本という国はこういった不注意事故が多いのだろう。いや、それ以前に筆者が幼かった頃から変わらないのが、こうした事件の折に追及される責任のベクトルがどこかオカシイのだ。

 指を失った子供は哀れだ。気の毒以外の何ものでもない。幼い子供なのだからその危険性も、派生するであろう将来の苦労も知るよしもないからだ。
 さすがに日本のメーカーやマスコミはこうした場合には被害者としてケガした者を養護する立場を取るし、街頭インタビューでも同情的な意見以外はカットしているだろう。
 だが、ナマの声を言わせてもらえれば、電源の入ったシュレッダーの近くになぜ子供を近寄らせたのか。単純に目を離した親の責任ではないか。

 そもそも、シュレッダーは不要な紙を粉砕するための装置である。昨今のはCDも粉砕できるだけのパワーを持っている。CDなどはハサミやペンチを使ってさえもそう簡単に小間切れになどできるものではない。
 いわば調理器具や電動工具と変わらないのである。当然、大変危険なモノだ。
 たしかに指などを巻き込まないために最低限の安全装置や工夫は必要だろう。だが、そもそもシュレッダーに限らず、ハサミだのカッターだの定規だのピンセットだのと、オフィスや作業場には幼児など危険に対して経験値のない者には凶器ともいえるもののてんこ盛りである。
 そんな場所で子供を放し飼いにするのはもちろん、一秒でも手や目を離すなんて何が起こったとしても誰も責めることはできない。連れてきた大人が悪いのだ。

 シュレッダー会社の社長が「まさか幼児が手を突っ込むとは想定していなかった」と答えて一部マスコミから非難されていたようだが、彼がごもっともなのだ。そもそも電源の入ったシュレッダーに幼児が近づくなんて親がちゃんとしていたらあり得ないからだ。

 事実筆者も幼い頃にホチキスをもてあそんでいて指をぶち抜いた事があるが、それは親の目を盗んでしたイタズラの結果であり、その報いとしてケガという痛い目の他に火が出るほど親に叱られたものだ。
 血が吹き出る指よりも、叱られていることの方が痛かった。

 中学生の頃に初めて電動工具に触れることがあったが、それがいかに恐ろしいものかをこれまた徹底的に覚え込んだ上でない限り、近寄ることも許されるものではなかった。おかげでトラウマというか、いまだに電ノコやドリルを見ただけで身が引き締まる。

 なのに、最近そうした危険なことが当たり前の道具の扱いを誤ったが為に、取り返しのつかない事故で身体を損ずるという事件が多すぎるように感じるのだ。

 これはそもそも大人と呼ばれる年齢に達しているクセに、危険に対して信じられないほど鈍感になっている人が多すぎるためだと筆者は考える。
 安全の意味を勘違いしているのではないか。

 先の社長を「困ったものですね」と責めるマスコミはどうかしている。シュレッダー事件が発生した次の日、NHK朝のニュースでとりあげられたのが『幼児の安全対策のための展示会が開かれています』みたいなものだったが、これが笑えた。
 皆さんもご覧になったことがあると思うが、机など家具のカドに頭などをぶつけないために柔らかい樹脂で覆ったものや、万一飲み込んだときでもかろうじて呼吸が確保できるようにと穴の空いたキャップのペンなどを“スグレモノ”として紹介していた。

 はたしてそうか?

 よく考えてもらいたいが、子供は、まして幼い子供なればこそ言葉よりも経験で学んでゆくものだ。「ぶつけても痛くない」と思いこむと言うことは、本当にぶつけると危険なものに対して鈍感になりうるということだ。
 また、時として安全という言葉は大人にも油断を生む。「飲み込んでも危険度が少ない」と思っていたら、子供が飲み込めば即生命に関わるのだという危機感が薄れてしまい、本来目を覚ましている間中気を許すことなく注意していなければならないのに、結局それが高じると危険な機械の前でフラフラしている子供を見ても顔色ひとつ変えなくなるようになる。

 キャップを飲み込む心配があるのなら、ペン本体をノドに突っ込んでコケる事故もあるだろう。いっそフニャフニャのペンはどうか。いや、食べても害のないペンはどうだろうか。
 名案がある。キャップみたいなものはクチにしないようにちゃんと子供をしつけるのである。画期的ではないか?

 同じ番組内で爆笑したものがある。
 ペットボトルを利用した加湿器の話だ。みてくれは台所用のミキサーに似ている。ナレーション曰く、「手軽にリサイクルできて便利なので多く使われているのですが、意外な落とし穴がありました…」
 一体、なにがあったのか。ヒーターの異常加熱とか、太陽光をレンズみたいに集めて火事になったのか…と思いきや。
 「重心が高いので、近くを子供が走ったりなど、ちょっとした振動でも倒れるのです」
 あまりにも馬鹿馬鹿しくて朝から爆笑してしまった。
 ミキサーみたいな形で、1.5リットルもの水を入れたペットボトルを立ててあるのだ。重心が高いのは一目瞭然ではないか。当然、床に置いていたら不安定に決まっている。どこが“意外な落とし穴”なのだろうか。
 それともサルでもわかりそうな理屈を意外だと思うほどNHKのスタッフはレベルが落ちているのだろうか。それはそれで大問題だ。いちどIQテストをした方が良い。

 これが石油ストーブやファンヒーターでも同じだが、だいたい家の中を床が振動するくらいドカドカと走る子供を叱るのが先決ではないのか。家の中を走るななんて躾では基礎の基礎すぎて何をか言わん、であるし、倒れるような場所に平然と置く大人も阿呆の極みである。

 今日は今日で、テーブルに吸盤でとりつけるタイプの幼児用椅子が紹介され、その持ち主の親いわく「こうして取り付けていたんですが、もうひとつの子供用の椅子から乗り移ろうとしたら吸盤が外れて…」わあ、あぶない………っって、アホか。
 テーブルにはビニールのテーブルクロスが引かれていて、その上からその吸盤式椅子をとりつけているのが画面でもしっかり映っている。少し椅子を動かせば、テーブルクロスごとズリッと動いているところまで映っているのである。
 それでなくても宙づりみたいになっている、見るからに不安定な椅子にアクロバティックに幼児が乗り移ろうとしている時点で落ちない方がサルである。

 オモチャの仮面ライダー変身ベルトを子供に買い与え、「どうなってるんだこのベルト、ライダーに変身できないじゃないか」と玩具メーカーにねじ込んだという、『サラリーマンNEO』で生瀬氏が演じる過保護親父を連想させる実話があるが、もしかしたらその親もこの椅子の母親のような人だったのかも知れない。

 ───たしかに不慮の事故に対しての安全策は大切であり、そうした細かな配慮こそが日本の産業を支えてきた。
 だが、それと危険をピンぼけにしてしまう昨今の“余計なお世話”は根本的に異なる。
 まして小さなケガや痛みを通して少しづつ経験値を増やす必要がある子供たちが、危険に対して麻痺していたら少子化どころの話ではない。

 机の下で遊んでいて立ち上がり、おでこを思い切りゴチンとぶつけてコブをつくって泣いたから、次からいきなり立ち上がるのはやめよう、と考えるのである。
 痛さを知らないものは怖さも思いやりも持たない。いや、持てない。

 生命がいくらあっても足りないくらい無鉄砲なガキンチョだらけになってゆくのである。現に、今の高校生や大学生、いやヘタしたら20代前半の社会人でもよくやっているのが、歩道を携帯電話でメールを打ちながら全速力で自転車をこいでくる(それも横に何台も連なって)光景。
 通行人もそうだが、自分自身が転倒したり事故に遭うとは微塵も考えていないからできる芸である。無鉄砲というよりも無知ゆえの行動なのだ。

 今の若者は被害妄想の筆者にしてみれば信じられないほど背中が無防備だ。筆者が学生の頃など、あんなに隙だらけだとタチの悪い同級生にどんな悪さをされるかわかったものではない。
 人通りの多い階段で座りこんでなどいたら絶対に何か投げつけられるか、最悪の場合ドロップキックを食らうだろう。
 だがそういう経験があればこそ、常に背後に気を配るクセがついたし、それはそのまま自分だけでなく他人への気配りに繋がる。

 昨今の少年犯罪はすぐに刃物で人を切り刻もうと考えるのも、実はもとをただせば自他への危険に対して鈍いからではないのか。
 親は、いや、大人のすべきことは、幼い子供をカプセルに入れてしまうことではない。絶対に痛い目には遭うのだ。遭うけれど、それを適度な経験値にとどめられるようにガイドしてやることこそ肝心なのだ。

 ネットゲームを見よ。戦って経験値を上げない限り、前途はないのだ。人生と同じ。よくできているではないか。
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