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B的日常 デンマーク編
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2005/12/24のBlog
一昨日からフランスの相棒の家に来ている。今日は、明日のクリスマス・ディナーの食材の買い込みということで、隣町まで一家で繰り出した。

メインディッシュは相棒が「うずらのロースト」を作ることになっている。そこで、うずらを扱っている肉屋さんに行く。クリスマス用に、普段より沢山、仕入れているようだ。もちろん養殖したもの(なので安定数が供給できる)。クリスマスのご馳走といえば、ロースト・ターキーやロースト・チキンが相場と思っていたが、うずらという手があったとは!さすが胃袋指向のフランス人だと感心。

(写真:これは野生のうずらで、私たちが食べた養殖うずらではありません。出典:Ohio Department of Natural Resources, Division of Wildlife )
2005/12/22のBlog
一時帰国の日々は、あっという間に過ぎてしまった。クリスマスを前に、22日(木)の朝、相棒のフランスの実家に向けて旅立つ。

どこに行っても日本語で用が足り、日本語の本やテレビ番組が見放題。
おいしくて身体に良い和食が食べ放題。
コンビニや深夜営業の店が多い便利な生活。

そして、

昔からの友達や知人が沢山いる。

と、後ろ髪を引かれる理由は多々あるのだが、帰国の期間が決まっているからこそ密度の高い滞在ができたのだと自分に言い聞かせ、爽やかに引き揚げたい。

年が明けると、ドイツ北西部のミュンスター市への引越しが控えている。現時点では引越し先の住所も決まっていないのだが、これから住む場所を確保し、インフラを整え、快適な生活の足場を作らなければいけない。

というわけで、明日から引越し先のインターネット環境が整うまでの1ヶ月半ほど、このブログの更新もできなくなりますが、再開した際にはよろしくご贔屓のほど、お願いします。
2005/12/19のBlog
[ 05:02 ] [ 暮らす ]
昨年まで勤めていた会社に、一時帰国のご挨拶に行く。

会社を去ったのは1年前の今ごろだったので、ものすごく大きなギャップがあるわけではないのだが、それでも1年のあいだにいくつかの移り変わりはある。

悲しいことに、たった1年の間に、社員ではないが仕事で縁のあった、しかも若い人が2人も亡くなってしまった。自分より年少の、将来のある人が病に倒れるのはやりきれない。

もとのオフィスで懐かしい面々に久しぶりに会い、仕事の邪魔になったら悪いと気がとがめながらも、近況報告やら四方山話やらで、1年間の空白を取り戻した。

お昼時にかかっていたので、社員食堂で食事を取る。数年前に運営業者が変わってから「?」と思わせることが多い食堂なのだが、その「?」ぶりが1年前と同じなのが、おかしかった。

オフィス訪問のあとは、神田の三省堂で、今やっている仕事がらみの参考図書を買い込む。生物・化学分野の事典および一般向け参考書。年明けから少々理科系の色合いが濃い仕事が入る見込みなのだが、その分野の基礎知識が決定的に足りないため、泥縄式に勉強を始める次第。

2005/12/18のBlog
[ 04:34 ] [ 暮らす ]
友達のMくんと、そのパートナーのNさんと、3人で夕食@新宿。初めに向かった居酒屋があいにく1時間待ちだったため、天ぷら屋さんに行く。

Mくんはイタリア人だが、物理学の研究者なので、私にとっては「イタリア人」というカテゴリーではなく、「物理学者」という種類に分類されている。つまり、道行く女の子を片っ端から口説いてまわる小粋で軽いラテン男、というよりは、研究室で万物の摂理の解明に人生を捧げる学究、というイメージだ。じっさい、Mくんは真面目で仕事熱心な学者で、国籍で人をステレオタイプ化することがいかに間違っているかを気付かせてくれる。

今回帰国してから天ぷらはまだ食べていなかったので、こんな形で美味しい揚げたて天ぷらが食べられてよかった。

パートナーのNさんは、最近、外資系企業の社長秘書からコーポレート・コミュニケーションの仕事に異動したとのことで、コミュニケーション関連が仕事のバックグラウンドだった私と、話がはずんだ。
2005/12/14のBlog
いま身を寄せている実家の、かつて私の部屋だった場所は、就職後しばらくして実家を出たあと、荒れ放題の物置部屋と化していた。このままでは永遠に開かずの間となってしまいそうなので、今回の帰国中に大整理をすることにした。

まずは、高校生の頃にいろんなものを保管したまま、ついに内容を改めることがなかった押入れの荷物から点検する。出てくる、出てくる。課外活動の美術部で描いた絵(下手)やら、漫画研究会で描いていたマンガ(もっと下手)やら、当時の心情を綴った文章(青すぎて、悶絶しそう)やら、物的証拠が揃いすぎて、過去の恥ずかしい思い出がビビッドによみがえってくる。これらは、恥ずかしい自分を忘れないために、と言い訳をして、保存ケースに移し変える。

次は箪笥。今となってはサイズが合わない上に流行おくれの洋服が大量に出てきたので、リサイクル用に取り分けて袋詰めする。当時だって骨太・大柄だったが、その頃着ていた服を見ると、今よりずっと細身でため息が出る。それぞれに思い出のある服だが、思い出は「重いで」に通じると自分に言い聞かせ、今回ばかりはきれいさっぱり処分しよう。

それから、写真類。スペースの関係で、アルバムに貼ったものはほとんどなく、紙焼きを箱に入れて保存していた。その中からハイライト的なものをごく少数選んで、これも今回発掘した新品のアルバム(高校の卒業記念でもらったものだ)に貼って、欧州に持って帰ることにした。東京でありがちな地震や火災に備えた危険分散だ。

大掃除というのは、やり終わるとスッキリして人生が明るく、軽くなった気がするが、思い出したくない恥ずかしい過去が発掘されてしまうのは困ったものである。




2005/12/11のBlog
渋谷の東急文化村に、ドイツ映画「青い棘」(原題:Was Nutzt Die Liebe in Gedanken)を観にいく。実はドイツでは、大多数の映画がドイツ語吹き替えになっているために、観たい映画があっても行くに行けなかった。というわけで、日本語字幕というありがたいサービスのついた映画を、みられるうちにみておこうという魂胆である。それに、これから力を入れようかと思っているドイツ語学習にも励みになるのではないか?

さて、この映画、舞台は二つの世界大戦の狭間、ワイマール憲法下の1920年代ドイツで、実際にあった事件をもとにしている。

ギムナジウム(大学進学を前提とした高等学校)に通う感受性豊かな二人の少年が「自殺クラブ」を結成し、愛を感じなくなったときに自ら命を絶つ、という約束をする。一人は上流階級、もう一人は労働者階級の出身で、上流少年には小悪魔的な妹がいる。この小悪魔妹が労働者少年を翻弄するいっぽう、ゲイである上流少年は、別れたゲイの恋人が今度は小悪魔妹とヘテロ愛を結ぶ、という四角関係が浮上し、そこに労働者少年に思いを寄せる、冴えない少女(小悪魔妹の友達)がからみ、ぐちゃぐちゃになったあげく、上流少年がゲイ恋人を殺し、自分も自殺する、という話。

ギムナジウム、愛と裏切り、生と死、とくると、必然的に萩尾望都の名作「トーマの心臓」(10代の私はこの作品に大きな影響を受けた)を思いだすが(じっさい、日本の映画評の多くがそれに言及している)、人間の原罪と神の赦しをテーマにした宗教的な「トーマ」に比べると、この映画は当時のドイツの時代精神が真の主人公になっていると感じた。

つまり、青年期にあったドイツ(ビスマルクによるドイツ統一から60年足らずしか経っていない)が、ナチスによる狂気の時代に突き進む前の、静かで不気味な一時期における、存在の不安とか、移ろいやすい愛や美などへの愛惜がテーマになっているのではないかと思う。

とはいえ、美少年たち(主役の役者たちの実年齢はすでに20代だったので、美青年といったほうがいいか)の繰り広げるヨーロピアンな耽美の世界に、すっかり満足の私であった。

肝心のドイツ語は...? はい、現地に行ったら、がんばります
2005/12/01のBlog
ツアーは昨日で終了したが、せっかく台湾まで足をのばしたので、1泊延泊を申し込んだ。昨日までの日程は、ツアーの常で万人向けの観光ハイライト、プラス、土産物屋訪問で、いささか欲求不満を感じるものだったのだが、その不満を今日一日で晴らそうと意気込む。

まずは台北の一大ランドマークである総統府(写真右)を見に行く。堂々たる、美しい建築。あいにく、内部見学ツアーの時間には合わなかったが、外観を見るだけでも価値のある建物だ。

この建物は、日本統治時代に「総督府」として建てられたもの(竣工:1919年)を、戦後、台湾総統のオフィスとして利用している。設計は、明治時代の洋風建築のドンともいえる辰野金吾の高弟であった長野宇平治だが、コンペに優勝した長野のプランを施主が気に入らず、森山松之介という人が改作して今の形になったそうだ。森山は、上諏訪温泉の「片倉館」(昔、建築を見るためにわざわざ行った思い出がある)という、洋風大浴場の設計なんかをしている人だ。

総統府に限らず、台湾には日本統治時代の洋風建築がけっこう残っているようだ。建築マニアの私としては、あらためて台湾を訪問し、建築見学ツアーをしたいものである。
次に訪れたのは、台北で一番古い寺院である龍山寺(1738年建立)。この界隈(萬華地区)は台北発祥の地だそうで、古い町並が続いている。

龍山寺の門前には漢方薬の薬種店が立ち並び、強い香りが一面に漂っている。薬屋の店先の歩道で、薬草を煎じているのを発見した(写真右)。朝鮮人参みたいな香りがたちこめていて、嗅いでいるだけでも効能がありそうだ。
萬華地区の食堂で食べたお昼ご飯。写真奥から肉団子入りスープ、海老の揚げ物、汁ビーフン。

このお店、店舗と歩道の境い目が限りなく不明で、歩道でご飯を食べているのだか、通行人が食堂を勝手に通りすぎているのだか、よくわからないアジア的混沌さが食欲をそそる。

ひと皿ずつの価格が安く、盛り付けが比較的少ないのはタイなど他のアジアの国と同じで、ちょっとお腹が空いたときにつまんだり、一人で色々な料理を楽しんだりするのに好都合だ。
昼食後は、郊外の淡水という地区に行く。地下鉄の終点という交通の便のよいところにある河口の町で、かつてスペイン人たちが上陸して砦を築いた場所だ。

ここの日没風景は絶品、ときいて日没時間に合わせて赴いたのだが、あいにく天気が快晴とはいえず、あまりぱっとしない日没だった(写真右)。

でも、湘南を思わせるリゾート地のムードが旅情をかきたててくれた。
2005/11/30のBlog
台湾観光といえば、首都である台北は、外せない。ということで、到着日は空港から素通りしただけの台北に、私たちのツアーはやっと到着した。

戦没者を祀る「忠烈祠」の衛兵交代(写真右)は、観光旅行のハイライト。ここに祀られているのは、辛亥革命や対日抗戦で死亡した33万人の霊ということで、日本人としては少々肩身の狭い気持ちがする。

衛兵は、陸海空軍(それぞれ制服の色が違う)から選ばれたエリートが勤めるそうだが、今日は白い制服なので、海軍。
2005/11/29のBlog
今日の宿泊は、台湾島の東海岸にある花蓮。このあたりは、中国本土から台湾に移民が始まる前からこの地に住んでいた先住民族の人たちが多い地域だ。

原住民は、いくつかの部族に分かれるが、その中でも一番人口の多いアミ族の人たちの文化を紹介する「花蓮阿美文化村」という施設があり、観光旅行の定番目的地となっている。私たちのツアーもそこに寄った。

文化村でアミ族の伝統的音楽と踊りを鑑賞したあと、ホテルに戻る。夕食後は母を誘って花蓮の町を探検した。びっくりしたのは、彫りの深い美人が多いこと。先住民族のいくつかは、その昔にもっと南の島から台湾に渡ってきたポリネシア系だそうだが、エキゾチックな美しさをたたえた女性たちが商店街などを闊歩している様子は、中国系の人が大多数を占める他の町とは一線を画している。

ところで、現地では折りしも地方首長選挙の直前で、候補者たちは商店街に繰り出して、道行く人や商店の人々に握手をして回っている。ぶらぶらと散歩していた私も、候補者の一人から熱い握手を頂戴した。おのぼりさんでなく、地元の人(ただしエキゾチック美人のポリネシア系ではなく、平面顔の中国系ね)だと思われたかしら、とちょっと嬉しい。

2005/11/28のBlog
昨日から台湾を旅行している。

せっかく日本にいるのだから、アジアのどこかに足を伸ばしてみたいと思い、いろいろ考えた末に選んだのが、台湾。美味しい中華料理や美しい風土はもちろんのこと、日本の旧植民地ながら対日感情は良好、というのが選んだポイントだ。日本の近くにあるのに、なぜか今まで行くチャンスがなかった。

日本から台北に飛び、台中、高雄、花蓮、台北と台湾島を一周する、手頃な価格のツアーがあったので、それに参加した。「親子の親睦」をはかろうと、両親を誘ったのだが、秘境の旅マニアの父は「台湾は興味ないなー」の一言で不参加。母と二人で旅立った。

昨夜は台北空港到着後、バスで台中まで行き、そこに泊まった。そして今日は南部の港町、高雄まで来た。

高雄に観光名所は色々あれど、私が今日一番楽しみにしていたのは、「六合二路夜市」という、夜店が並ぶエリアだ。想像通り、軽食や果物、飲み物など、さまざまな屋台が立ち並んでいて、興奮してしまった。
2005/11/23のBlog
いま身を寄せている実家の近所にカトリックの司祭を養成するための神学院がある。

そこの学園祭は毎年11月23日。学校の性質上、学生数が非常に少ないこともあって(カトリック聖職者を志す人の数は、激減している)、たいへん小規模の催しなのだが、普段は部外者が入れない神学校のオープンハウスということで、ここ10数年、ほぼ毎年遊びに行っていた。今年はたまたま学園祭の時期に里帰りできることになり、帰国前から楽しみにしていた。

司祭を養成する学校にふさわしく、学園祭は朝のミサから始まった。遅れて入った私は後ろのほうで参列していたのだが、ふと見ると、前に勤めていた会社で大変お世話になった派遣社員のMさんが「まあ、久しぶり!」という顔で私にサインを送ってきた。

もう、びっくり。彼女は横浜のほうに住んでいるのだが、ここに来るには2時間弱かかるのではないだろうか。ミサの後で聞いた話では、数年前、旦那様と共にカトリック信者になったとのこと。通っている教会で、この学園祭のことを聞き、遠路はるばる来たそうだ。まったく世間は狭い。

ところでこの学院の建物は、なかなかの名建築で、芝生の中庭を囲む形で低層(2階建て)の聖堂や校舎、学生や教員の宿舎などが配置されている。数年前
に老朽化した旧建物を取り壊して新築されたのだが、建物ウォッチングとしても楽しめる学園祭である。
2005/11/11のBlog
フランスの両親の家に帰省している相棒からメールが来た。

相棒がフェローシップを申請していたドイツのフンボルト財団から、許可する旨の返事が来たという。空白だった来年1月からの居住地が、これで決まった。ま、また、ドイツかあ...。

イマイチの食生活とか、日曜日は商店が全て閉まる不便さとか、平日の昼時や日曜日に掃除洗濯などの生活騒音を立てる行為が禁止されている窮屈さとか、1年間ドイツに住んでみてコマッタナーと思うことは多々あった。初めて住んだ外国なので、よけいカルチャーショックを感じたのだろう。でも、秩序と規則を重視する律儀なお国柄は、日本人にとっては住みやすいといえる(しかし、その規則好きは極端で、たとえば街角に設置された、ガラス類を回収するコンテナには「夜8時~朝7時と日曜日のガラス投入を禁止する。違反した場合は罰金XXXXユーロ」と明記されている)。

今度はボンではなく、もう少し北のオランダ寄り(なので、土地が平たい)の大学町、ミュンスターに行くことになる。30年戦争の時、ウェストファリア条約(って、何でしたっけね?)が結ばれた町だが、今はエコロジーのモデル都市として、交通手段に自転車利用を推進して成功しているそうだ。我々もエコな生活を送ることを求められちゃったりするのだろうか。まだまだ、おっかなびっくりの私である。
2005/11/07のBlog
[ 03:36 ] [ 暮らす ]
府中の運転免許試験場に出向いて、免許の再発行をしてもらう。

フランスで日本の免許を現地の免許証に書き換えた際、日本の免許証は没収されてしまった。「IDカードのない日本では免許証は身分証明書として機能するので、返してもらえないか」と懇願してみたが、規則だそうで、返してくれなかった。

これではビデオショップにも行けない! ということで、再発行を願い出た次第。

再発行手数料は3,200円。窓口に行ったら、「お財布ごと、盗まれちゃったんですう」と不安げな、10代とみられる女の子をはじめ、沢山の「免許証をなくした人」で賑わっていた。係官は、なんだかとっても不機嫌である。そりゃ、大事な物をなくすのはよくないが、手数料の3,200円(暴利だと思う)も入ることだし、もっとやさしくしてくれても罰は当たらないだろう。

盗まれたのでも、すられたのでもなく、私の場合は外国の役所に没収されたんです、と不可抗力をアピールしつつ、新しい免許を作ってもらった。
2005/11/05のBlog
成田空港に到着。パスポートに押された昨年12月の「出国」のスタンプの隣に今日付けの「入国」スタンプを押してもらう。約1年間、日本を離れていたという実感が沸く瞬間。

成田空港から京成線、山手線と馴染み深い路線に乗り継ぎ、日本語のアナウンス、日本語の車内吊り広告、日本人が圧倒多数の乗客といった環境に囲まれると、今いる日本の電車の中こそが現実で、昨日まで暮らしていた欧州は長い夢だったのではないかと、妙な錯覚にとらわれる。

ボンの暮らしは初めから1年と決まっていたので、流れ者気分が抜けなかったのも、理由のひとつだろう。その一方、ネットの発達のおかげで日本のニュースはほぼリアルタイムに入手できたため、海外にいることに起因する情報ギャップが少ないことも、この妙な錯覚を生み出しているような気がする。
2005/11/04のBlog
11月というのに妙に暖かいマルセイユからアリタリア便でミラノを経由し、日本に向かう。

マルセイユでは晩秋というのに南仏特有の強い日差しが照りつけていたが、ミラノに降り立つと、そこは暗く沈む霧の中だった(写真右)。

須賀敦子が随筆の中で繰り返し語った、秋から冬にかけての「ミラノの霧」の実物を見て、ひとりで勝手に感動する。しかし、ここで生活している人にとっては、車の運転は危険だわ、気持ちは沈みがちになるわで、決して歓迎するべきものではないだろう。

ミラノから成田までの便はかなり空いていて、エコノミー席ではあるが、かなりゆったりと座ることができた。

ところで飲み物のサービスが始まったとき、赤ワインを頼んだところ、「本日はあいにく赤は搭載しておりません」とのことで、白ワインを渡してくれた。赤ワイン大国のイタリアのナショナルキャリアーでそんなこともあるものかと、結構驚いた。まあ、エコノミー席を買っておいて贅沢はいえないのだが。

いつもは飲食物がサービスされるやいなや、赤ワインを「がー」っと飲んで、後はひたすら眠るのが私なりの時差ぼけ解消策だが、今回は調子が狂っていっこうに眠くならない。そこでオンデマンドで見ることができる映画を2本も見てしまった。

1本目は「チャーリーとチョコレート工場」。ちょっと前にボンの映画館にかかっていたものの、ドイツ語吹き替えにつき、見送った1本。機内で見ることができてトクした気分だ。

もう1本は、「Ribelli per caso」(偶然の反乱)というイタリア映画(英語字幕付き)。あまり期待せずに見始めたところ、これがイタリア映画ならではの、人生の悲哀を甘辛く描いた作品で、心に残った。

ストーリーは、人生を諦めているような雰囲気を漂わせた初老の男(主人公)が検査のため、ナポリの公立病院に入院する(イタリアの公立病院は貧乏人の行くところで、高額な私立クリニックに比べて患者への待遇が悪い)。そこは消化器病棟で、同室の患者たちは検査結果が出るのを長々と待たされていることや、主任医師の傲慢さ、病院食のまずさに腹を立て、監視がゆるむ週末に病院内の調理室で好みの食材を使った豪華なディナーを自分たちで作る計画を立てる。厳しい食餌制限を課せられた消化器病棟の患者たちにとって、それは死につながるかもしれない危険行為だが、彼らは病院への復讐の気持ちすら込めて、計画を練り上げる。

ひと波乱あった後に計画は実行され、主人公はパスタ作りの鮮やかな腕を披露する。実は彼は長年、ホテルマンをしていた。問わず語りに彼は、ホテルに勤め始めた10代の頃、お客として現れた世界的映画監督に「俳優になったら成功するだろう」と言われたエピソードを話す。若かった彼はその言葉に狂喜乱舞するが、結局、一歩を踏み出す勇気がなく、周囲に流されるままホテル勤めを続けて初老を迎えた。

さて、ディナーの途中で病院側が感づき調理室に突進、患者たちは立てこもる。警察も出動して大騒ぎとなるが、最後は病院側が患者グループの提示した要求をのんで事態が収拾される。

翌日、主人公は例の傲慢な主任医師から、手術不能の癌に侵されていることを告げられる。動揺する主人公。しかし、彼は医師に向かい、「あなたの指図は受けない。自分の人生をどうするかは、自分で決める」と言って、今度ばかりは自分の人生に正面から向き合おうと決意するのだ。
2005/10/28のBlog
今月末でボンを離れるにあたり、今まで行っていなかった地元の美術館や名所を訪ねまくっている。

車でいつも通る通りの傍に「アウグスト・マッケ・ハウス」というのがある。ここはボンで創作活動を行ったドイツの表現主義の画家、アウグスト・マッケ(1887-1914)が数年暮らした家で、今は彼の個人美術館になっている。ボンの近代美術館にもマッケの作品が多数展示されており、なんだか「おらが町の誇り」といった扱いなので、ボンを去る前にマッケ・ハウスにも寄ってみようと思った次第。

今まで知らなかったのだが、マッケという人は、第一次世界大戦に従軍して27歳の若さで戦死している。マッケ・ハウスの最上階は彼のアトリエが保存されているが、なにやらこの夭折の画家の気配が今でも漂っているような雰囲気を感じた。「もっと創作したかった」という彼の無念の気持ちが、まだこの部屋を支配しているのか...。

(写真右上)マッケ・ハウスの壁を覆っていたツタは、ちょうどいい具合に紅葉していた。

2005/10/23のBlog
今月でボンを離れるにあたり、考えてみたら、まだ行っていない名所が沢山あることに気がついた。ベートーベンの生家とか、シューマンのお墓のある墓地とか。そうそう、ドイツ観光のハイライト、ライン川下りも、とうとうチャンスがなかったなあ。あと1週間のうちに、ベートーベンの家くらいは、ぜひ行ってみよう(この家は中心部にあって、私はよく前を通り過ぎている)。

そんななかで、休日にしか行けない場所として、ボンとケルンの間に位置するブリュールという町の「アウグストゥスブルク城」に、駆け込みで行ってきた。ここは、1984年にユネスコの世界遺産に指定された文化遺産だ。

この城が建てれたのは18世紀初頭。ケルンの大司教で選帝侯のクレメンス・アウグストが、趣味の鷹狩りの拠点のために作った城だ。バロックの贅をつくした建築に、彼の権力のほどがしのばれる。

大司教といえばカトリックの聖職者。坊さんが、こんな贅沢をして天罰は当たらなかったのだろうかと思ってしまうが、昔のヨーロッパの高位聖職者は、世俗の匂いプンプンだったのだから、まあこんなものだろう。クレメンス・アウグストはバイエルンのヴィッテルスバッハ家の出身だそうで、ということは19世紀末に憑かれたようにお城を建てまくったバイエルンの狂王、ルードヴィッヒ2世とも縁続きということになる。
この城の一番の呼び物は、セレモニー用に作られた、壮大なバロック式階段(写真右)である。城の内部見学はガイドに従って移動することになっているので、いまひとつ時間をかけて観賞することができなかったのだが、とにかく「重厚・華麗」という感じで、カラフルな石材や彫刻、鉄骨細工、石膏細工が空間を埋め尽くしている。

多数ある居室も、それぞれに当時の最新流行であるロココ式を取り入れ、ある部屋は東洋渡りの陶器で飾り立てられたり、ある部屋は漆細工のような壁で覆われていたりと、いかにも金と手間がかかっているのがわかった。

大変に感心したのは、この城全体の管理体制の良さ。イタリアあたりでは、これ級の文化遺産でも、なんとなく管理に手抜きがあるような、ゆるい感じが否めないのだが(実はそういう「ゆるさ」が魅力でもある)、さすがドイツというべきか、見学者はガイド付きツアーで囲って、不審な行動は厳禁だし、あらゆる陳列品に「当陳列品は、Bosch社のアラームシステムでガードされています」という看板が付けられている。規則と秩序を重んじるドイツらしいと思った。
2005/10/20のBlog
相棒のボンでの仕事が今月末で終了するため、今いるアパートを引き払い、とりあえずは相棒のフランスの実家に身を寄せる。私は11月5日からしばらく日本に一時帰国し、クリスマス前にフランスの実家に戻ることにした。

来年1月からの居住地は、相棒の仕事次第で現時点では未定だが、ヨーロッパのどこかの大学町になる予定。しばらくは放浪生活が続くが、どこにいてもネットで人とつながっていることができる現代のテクノロジーの進歩に大感謝だ。

ともあれ、1年間暮らしたボンの町を去るのは、名残惜しい。

アパートの向かいにある教会(写真)は、毎朝7時に盛大に鐘を鳴らしてくれたため、いつも7時には目が覚めた(週末も7時に起こされるのは困ったものだったが)。

アパートのバルコニーからの眺望(これが、このアパートの唯一のウリ)は、ボンの町どころか、天気の良い日は大聖堂で有名なケルンまで見渡すことができ、昼間の景色も夜景も、それぞれに素晴らしかった。
アパートから歩いて15分ほどの、丘の上にあるKreuzberg教会(写真右)にはよく散歩に行った。18世紀半ばに建てられたこの教会はあまり有名ではないようだが、バロック式の素晴らしい教会堂と、ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に付属する「聖なる階段」にも匹敵する(と私は思った)、バロック式の「聖なる階段」がすばらしい(写真下)。

この教会は丘にあるだけあって、どこからもよく見えるので、遠出をした帰路に教会のドームが見えると、やっと家に帰ってきたという気持ちがしたものだ。

そして、堅物というイメージが強いドイツ人の中にあって、明るく開放的な気風で有名なボンの人々。地元の習慣やドイツ語に不慣れな私にも親切に接してくださって、大変ありがとうございました。
Kreuzberg教会の「聖なる階段」。キリストがピラトの宮殿で裁判の日に階段を登った故事にもとづき、キリストの犠牲をしのぶために作られた階段(ローマをはじめ、各地にある)。巡礼者は祈りをささげながら膝を使ってこの階段を登る。

Kreuzbergの階段は囲いがしてあって入れない。
2005/10/17のBlog
作家・大岡昇平が1953年から54年にかけて、ロックフェラー財団の奨学金で米国とヨーロッパに1年間の留学をした際の旅行記。大岡はこのとき、44歳。妻子を日本に置いての単独渡航だ。

終戦から10年も経たない1953年という時期に、米国の財団が旧敵国の作家に対して、1年間の旅費(米国とヨーロッパの主要な都市を軒並み訪問している)と滞在費を丸抱えという気前のよいオファーを行ったことに驚く。もっとも、旧敵国の文化人に対してだからこそ、このようなプログラムを通して欧米の文化を紹介し、日本での宣伝役となってもらおうとしたのだろう(その試みは、半分成功して、半分失敗しているように、私には思える)。

大岡昇平はフィリピン戦線に出征し、この世の地獄を経験した後、米軍の俘虜となって終戦を迎えている。10年前には敵国であった米国に、今度は権威あるロックフェラー財団の留学生として乗り込んでいく心の葛藤や、東洋人ということで幼い子供にまで侮蔑の目を向けられる屈辱、日本人としての自負とそれに裏腹なコンプレックス(敗戦後の日本人が皆抱いていたであろう)などが、軽妙な旅行記の端々に見え隠れする。

タイトルの「ザルツブルグの小枝」は、大岡が心酔し研究の対象としたスタンダールの、「恋愛論」で述べられる「恋愛の結晶作用