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rosebud パーキンソン病とともに
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2008/02/02のBlog
再三再四、私が書いている”同居家族がいると介護保険の生活援助が受けられない”ことに関して世間でも問題になっている。

昨年12月に、厚生労働省老健局振興課から、各都道府県介護保険主管課(室)あてに『同居家族がいる場合における訪問介護サービスおよび介護予防訪問介護サービスの生活援助等の取り扱いについて』という事務連絡が出されている。

≫同居家族がいる場合における訪問介護サービスおよび介護予防訪問介護サービスの生活援助については、自立支援に資する必要なサービスが提供されるという介護保険の基本理念に基づき、従来より…下記のとおり…


生活援助は単身者か同居家族がいても家族の障害・疾等の理由により家事を行うことが困難であるものに対して行われる。い
障害・疾病のほか、障害・疾病がない場合であっても同様のやむをえない事情により家事が困難な場合に行われることとしている…
この趣旨は、個々の利用者の状況に応じて具体的に判断されるというものである...≪

介護保険の保険者は各市町村だから、国はこの問題に関して実にのびのびとした態度(注)である。
(注 ”のびのびとした態度”というのは私流の皮肉です。通じなかったようなので)

ここに書かれている基本理念を忘れずに、”個々の利用者の状況に応じて”市町村は判断してもらいたい。
[ 01:34 ] [ 考える―その他 ]
「怒り」を感じることがある。
人と自分の間を越境されたとき。
その人の価値観を押し付けられるのもそうだ。

人と自分の境界がわからない「境界線障害」というのがあるそうだが、
病的でなくともこういうことはある。
人からされるだけでなく私も人にしているのかもしれない。
自分の価値観で人を断罪する。

しかし、これを全くしないというのは、どういうことだろう。
人は自分の価値観で人を観るものである。

若いときは人の考えはわからなかった。
自分の考えもよくわからなかった。
今はわかる。
その人が何を重んじているか、自分のことのようにわかる。
このことはどんな人にも平等だろうか。

私は自分が優れているとは思わない。
でも人が私のようではないとは思う。
私が自分の中に見出すことを見出さない人がいると思う。
確証はないから、思うだけだ。
人は平等に存在はしていない。
人の心の中に立ち入るのは僭越と思う。
人の思考の中に立ち入るのも僭越と思う。
文章を書くことは思考過程だ。
ここに書いたことについて、私に何か言いたいと思う人がいるなら、それは越権行為となる。
なにか言いたければ、その人自身の思考として独自に文章化すべきことと思う。

今まで何度非難されてきたことだろう。
文章を書くことは私の思考過程で、それは誰か特定の個人について書くことが目的ではないということ。
日々遭遇する日常の出来事から「思考」はうまれる。
出来事を抽象化するのは、当たり前のことではないだろうか。




2008/02/01のBlog
介護保険は、 同居家族がいる私には「生活援助(家事援助)」はしてくれない。
家事は、「身体介護」でヘルパーと一緒にしなくてはならない。
2年位前から、1週間に2回、3時間ずつが2時間ずつになり、それも昨年から1時間は自費で払うことにして、介護保険のケアは週わずか2時間だけになってしまった。 そのわずか一持間ずつのケアも、今回ケアマネから「(私の具合が悪くて動けないときは)キャンセルしてくれ」と言われた。
今までは、具合が悪いときは指示するだけでも”身体介護”とみなすというケアマネの判断だったのに。
どうも行政からの通達に教条主義的な解釈をワーカーがしているらしい。

具合が悪くて動けないのに、そういうとき手伝ってもらえない。
ブラック・ユーモアみたいな話だが、これが介護保険の現実だ。

さらに、通院介助はタクシーに乗っている時間・病院の待ち時間は省いて介護時間を算定しているのだという。
私の場合、通院に1時間かかるなら、タクシーに乗っている片道10分ずつを省き、検査の待ち時間も省く。それでやっと30分の介護になる。
ケアマネが言うには、普通の待ち時間は私の場合、何が起きるかわからない(転倒の危険がある)というので介護保険につけていると言う。
ほかの人はそれも省かれる。
15分か20分の介護。

事務所の人に聞いたら、こまぎれの介護が増え、ワーカーとしても非能率的だという。
30分単位の介護でできるのは生存に必要な最低限のことでしかないだろう。

行政はお金のかかる訪問介護より通所介護(デイサービス)を推奨しているようだが、この二つは性格が違う。
生活援助の必要性はある。
デイサービスの必要がない人にそれを提供しても、まったく無駄なケアということになる。
通所介護は利用者本人のためではなく、家族のためとあっては私には全く不要である。
機能訓練だけが選べないというのは、おかしなことと言うべきだろう。
財源がないという大義名分で何かを切るにせよ、何を切るかが問われる。
切るべきものを決定するには哲学がいる。
それが日本の政治には欠けているというのが私の主張である。

[ 00:05 ] [ 患者をめぐる問題 ]
きのうは主治医と会う日だった。
しばらく前に主治医と「福祉」論争をして以来、平和な”診察”が続いている。

驚いたことに、きのう主治医はこう言った。
「(レキップあるいはアゴニスト?)は、向こうではみんな、1日4回6時間おきにのんでいる」
だから私もそうしよう、と。
薬を食後にというのは日本だけだと… 胃腸症状を起こさないなら食後でなくてもいい、という。

だけど、主治医は確か私にこう言っていた。
「食前にのんでいいのはLドーパだけで、アゴニストは食後に1日3回のむものだ。みんなそうしている。」と。
私はそのとき、ほかの薬と一緒にアゴニストを1日4回のんでいて、主治医から怒られたのだった。
”思い込みが強過ぎる”というのだ。
皮肉は言いたくないが、思い込みが強いのは私だったろうか?
まあ、私の主治医は自分の間違いを認める潔さと、主張を即座に変えるフットワークの軽さがあると言えないこともないけれど。

彼女はアゴニストののみ方について私と話したことを覚えているだろうか。
彼女は「食後3回」と言い、私は経験的に「4時間おきに4回」がいいと言った。
海外の(患者が1日4回のんでいるという)情報をすばやく取り入れることもいいことだが、実際に薬をのんでいる患者の経験に基づく考えを素直に受けとめるのも”よい医師”に求められる大切な姿勢と思う。

少し引っかかるのは、主治医は”6時間おき4回”と言った。
4回目は”寝る前”にのめ、と言う。
私の経験に基づくのみ方では、起きている時間だけが対象。
一回の服用で6時間はもたないんだけどなあ
2008/01/27のBlog
[ 12:19 ] [ 私的なこと ]
前にも書いたが、フランス・プロヴァンスに住むともだちが冬のあいだ日本に帰っている。
彼女の母上、妹さんと3人の作品展示会招待状だった。
水彩画を真ん中に紙の周囲に手書きの筆文字が飾りのようにみえる。

≫あなたのかく本たのしみ・たのしみ
あなたにことば送るとすぐかえってくる
コンピュータのこと・○○のこと・日本語のこと
あなたがいてよかった!
(夫のこと)さんとおひるごろこられたら いっしょにおにぎりでもたべましょ ≪
 
個性ある美しい文字と水彩、あたたかい文章が私を幸せにした。
[ 08:53 ] [ 考える―その他 ]
今の世の中で「いい人たちはみんな貧しい」と友が言う。
夫も言う、財産があるというのは、本人か先祖のいずれかが、他人を搾取したからだと。

私と夫の先祖が人を搾取しなかったかは別として、我が家は貧しい。
少なくとも私たちふたりは人を搾取したことはない…と思う。

反対に、人から頼まれればせっせと調べて教えたりしている。
お人好しだと思う。
友だちにもお人好しが多い。
私の移動をサポートしてくれるA子さんもMさんもそうだ。
そういう人たちの温かさはとてもうれしい。
そういう人たちがいなくなったら…生きていたくないかな。

私は強いと思う人がいるかもしれない、主張がはっきりしているから。
自分では弱いと思う。

私にはしたたかさがない。
たたいても死なないというしたたかさがない。
たたいたら死ぬ。

世の中には私のように考える人が少ないのに気がついた。
そんなはずはないと思うけどそうらしい。
ひとりの人間が大事という考え方。
当然のことなのにね。

ひとりひとりの人間が存在して初めて社会や国家がうまれる。
私の発想はすべて人間中心主義、真のヒューマニズム。

時代遅れだろうがなんだろうが、そんなことはどうでもいい。
福祉は、なぜ個々の人間が必要なヘルプからスタートしようとしないのか。
「これはだめ、あれはだめ」ではなく、その人が一番必要としている援助を与えようとしないのか。
日本が”人間中心主義”ではないからだ。
「国家」中心主義なのだ。 
「国家」が先にあると思っている。
国があって、そこに人が属すという考え。
社会がまず先にあると思っているのだ。

これは大きな錯誤、と私は考える。
「国あってこその人間」ではなく、「人間あってこその国」なのだ。

ところが、私のこの”自明の理”は、どうやら一般の自明の理ではないらしい。
長年の文部省・文科省の教育が実を結び、私とは逆の考えの人が圧倒的のようだ。

2008/01/26のBlog
[ 21:50 ] [ 患者をめぐる問題 ]
きょう、友だちと生活クラブのデポ(お店?)に行った。
食料品をいっぱい買い込んで、紙袋を両手に持つほどになった。
私は店内をカートにかごを載せて歩きまわり、レジのあと袋に詰めた。
カートを片付けるには店の外まで往復しなければならない。
何も考えず、両手に紙袋を提げて歩き出そうとした。

男の人が呼び止めた。
私は振り返った。
「片付け…」と聞こえた。
私は「片付けてください」と答えた。
「片付けますか」と言われたと思ったのだ。
男の人は少し声を荒げて、また何か言った。
「かたづけろ」と言ったのだろう。

私は言葉がなく黙っていた。
歩くのが精一杯なのです、と心の中で言っていた。
一瞬あと、友だちの「体が悪いんです」という声が聞こえた。
「それは知らなかった…」という声を背に店の外にむかって歩き出した。
転ばないように一歩一歩確かめるように進む。
友だちの車の手前で地面に手をついたけど転びはしなかった。

車でもうひとりの戻るのを待つ。
彼女は戻ってきて「さっきの男の人が謝っていた」と言う。
私は「優しい人ね」と答えた。

相手が私を責めているのが明らかなとき、言葉がでない。
冷静な理性的な言葉は、自分が問題の対象でないときしか発せられない。
2008/01/24のBlog
[ 07:10 ] [ 映画・本・音楽・写真 ]
指が思うように動かないのでパソコン・ワークができない。
しょっちゅうほかのキーを触ってしまい打ち直す。

それで夫と映画をシネフィル・イマジカで観た。

映画が始まる。
映像はフィックス。
ある家の全体を正面から撮っている。

男の顔が映る。
声が聞こえる。
テレビのニュ-ス・ショーのようだ。
フランス語
この声は知っていると思った。

顔は誰なのかわからない。

ダニエル・オートゥイユだ!
顔が変わってしまった、私が映画を観ない間に。
でもおもかげはある。

後ろ姿の女性…振り返った顔はビノシュじゃないか。

この映画がはじまったとき、「この映画はみたことがある、その話したよ」と夫が言った。
でも「筋は全然思い出せない」と。

その話を私も思い出せない…だけど何かがひっかかっている。

なにかがあった。

「最後にアラブが…」と私。
夫は黙っている。

私は夫の話を聞いただけで、誰の作品かどんな映画かもしらなかった。
夫は映画を観ただけで、作家の名前も誤解していたし俳優はしらない(ビノシュは知ってる)

夫の話が、この映画の何かを的確に表現していたのだろう。
まだ、映画のストーリーは始まったばかりだったのだ、
私があの映画だと思ったのは。
書き忘れましたが、この映画のタイトルは「隠された記憶」(原題 Caché)
2005年 ミヒャエル・ハネケ(オーストリー)作品
他の作品に「ピアニスト」

この監督は男だと思うが、映画の視線からか夫は「監督は女性だ」と思ったという。


それから、主人公の母親役はなんとアニー・ジラルドだった。