ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
rosebud パーキンソン病とともに
Blog
[ 総Blog数:548件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2008/07/12のBlog
[ 01:54 ] [ 病気について ]
しばらく前から思っていることだけど、若年性患者ってちょっとハイ・テンションのようだ。
異常に元気過ぎたり、陽気すぎたり。
感受性の揺れが大きい。
これは神経内科医たちも指摘している。

ドーパミン補充療法を長く続けているせいのようだ。
パーキンソン病は脳内化学物資ドーパミンがつくられなくなって起きるのだが、これは「動くこと」だけでなく「感情反応」にも影響を及ぼす。

患者と親しい人が言う。若年性患者には共通した特徴があると。
過剰反応と心の余裕のなさ。

なるほど。
2008/07/09のBlog
[ 23:53 ] [ 患者をめぐる問題 ]
Appleの掲示板をめぐってAppleが揺れに揺れた。
パーキンソン病患者(と家族)がつくっているサイト"Apple"は会則も総会もないメンバーの自由意志によるグループだ。
決まりごとがなくても8年間続いてきたのは、主要メンバー間のコミュニケーションが取れていたことと、人材に恵まれたこと、主要メンバーが数人なのでコンパクトに物事が進められるのが幸いしたのだと思う。

主要メンバー(senior)の間ではグループの性格・方針など暗黙の了解が得られていたのだが、若い世代(junior)が参加するにつれ暗黙が暗黙のままになってしまったのだ。

今回のトラブルはそれが原因ではなかったけれど、トラブルの過程でそれが明らかになった。

どうにかしなきゃ、Appleは昔のようではない。
さまざまな意見が問題を混乱させる。

トラブルとそのことに振り回され疲れる。
頭も痛けりゃ眼も痛い。

ああ、さんざしのお酒が飲みたいな。
先日もうもう亭で飲んださんざしと杏のお酒。

さんざしって名前に覚えがある。
そう、プルーストだ。
「さんざし」という名を刻んだのは。
2008/07/05のBlog
[ 00:29 ] [ ことば・旅 ]
感覚的に我慢ができない表現がある。


「煮詰まる」 お料理で本当に煮詰まるのはいいんだけど、比喩的に使うのが嫌なの だ。

「おかずになる」

「ものにする」

「おいしい」 これも食べ物がおいしいのはいいの。私もしょっちゅう使う。
 業界の人が使うのが嫌。

※"ものにする"を除いて、食べ物や料理に関する言葉に問題があるようだ。

「どつぼにはまる」
「みそもくそも一緒にする」
「他人のふんどしで相撲を取る」

 ※こちらは生理的現象に関係がある。

あら、食べ物も後のほうも「生理的な行為」に関する言葉だった。

なんだか典型的でつまらないなあ。
要するに生理的現象に関する言葉を比喩に使うのが嫌いなのだ。


生理的用語を本来のことがらに使うのは別に嫌じゃない。
生理的表現をほかのことに使う神経がたまらない。

あ、そうそう。
「空気を読む」という表現も嫌い。
実際には、読めないものを「読む」というのが嫌なのだ。

ある潔癖さがあって、こういうプリミティブな(?)比喩が嫌いなのかもしれない。
あるジャンルの表現はそのジャンルの中だけで使ってほしいのだ。

だがしかし、この世間には、「みそもくそも一緒に」とか「他人のふんどしで相撲を取る」としか言いようのない状況がある。そういう時は仕方がない。

決然として、これらの表現を使うのみ。
2008/07/04のBlog
患者からの要望でLドーパの50mg錠が開発された。
4年前の秋に製薬会社に要望書を出してようやっと実現した。
Lドーパ製剤は今まで100mg錠と250mgしかなかった。
若年性の患者の多くが1回に1/2錠以下をのんでいるのにもかかわらず。
中には固くて割れにくかったり均等に割れないものもある。
ある大手の製薬会社に割りやすいように割線をもう少し深くしてくれないかと要望した。答えは「お金がかかる」だった。

ヨーロッパには以前から4分割できる錠剤がある。
なぜ低用量が必要かというと、1回に飲む量が多すぎると血中濃度のカーブが急になりジスキネジアが出やすくなる。
血中濃度のカーブをできるだけなだらかに適切な値にすることで、1日中いい状態をずっと保てることになるのだ。
この「Lドーパの適切な血中濃度を一定に保つ」ことがパーキンソンン病患者、特に若年性患者の悲願だと言ってもいい。
そのための薬剤・治療法の開発が欧米では行われている。
だが日本の製薬会社や医療行政は患者の苦痛を少しでも少なくすることにあまり熱心ではないようにみえる。
日本ではなぜか”血中濃度の一定化”は最優先にはならない。
大手の製薬会社は関心を示さなかったが、ジェネリックの会社が開発することになった。
ドパコール50mg錠は、日本において患者の要望を取り入れたという点で、画期的なできごとだと思う。
この50mgドパコール実現に貢献したのははAppleのハトポッポさん。

今、製薬会社に送った要望書を読み返して、その精緻さ・徹底性に改めて感銘を受けた。
この要望書作成だけでも立派な仕事だと思う。
ましてや実現させたのだから本当にすばらしい。
こういうことをするのが真に患者のための活動と言える。

Appleの記事
文中に「要望書」が読めるようにリンクをはってある。
2008/07/03のBlog
少し前のblogで私はこう書いた。

≫哲学・倫理は国家・法律より高度な次元にある。≪

”人は人を裁けない”ということを倫理的側面から言ったのだ。

このことについて次のように尋ねられた。
「なぜ倫理や哲学が法律より高度な次元なのかと。

私はこのことを自明の理のように思っていた。
倫理や哲学と言ったが人間の思考について考えていた。

人は何よりも真っ先に存在する。
人がまず存在し、世界がある。
世界というのは地域的な意味より総体的な私たちがある全体をいう。
法律や国家はあとからできた。


法律は人に権利・自由を保障するもの。
保障は往々にして制限の役割を果たす。

法律は人の思考や行為を制限し縛るものにもなりうる。

法律が自由を保障するから人は自由になるのではない。
「人は自由だ」と考えることが人を自由にする。
2008/07/02のBlog
(以下の文章は若年性掲示板に載せたものとほぼ同一です。)

最近ある出来事があった。
それをきっかけに次のような疑問を持つようになった。

掲示板に書いていけないことがあるのだろうか。
そして公的な位置にある人を個人名を挙げて批判してはいけないのだろうか。
組織内のことを外部に書いてはいけないのだろうか。


私は「書く」ということをひとつの「表現」として捉えている。
人は本来何をどう表現しても自由だと私は思っている。
読む人・見る人が判断すればいい。
人の存在は本来そういうものだ。

この考えは「人は何をしてもいい」ということと同じだ。
しかし人は「悪」をなす。
それを妨げるのは倫理・教養・知性。
つまり精神性・思想性が人を文明化する。
(高度な知性・文明がナチズムを生んだことはさておいて)

公的な位置にある人は批判を免れ得ない。

批判してはいけないということになったら、それは独裁である。

私は「組織」というのがわからない。
ものごとを効率的に遂行するために役割分担をして動くというのならわかる。
そういう運動体の形はひとつではない。
Appleはいわゆる”組織”ではないがひとつの運動体である。

組織内の事情を外部に書くこと自体は「悪」ではないと思う。
それを「悪」と言ってしまっては、組織自体が「悪」のときどうすればいいのだろうか。
絶対的な正義は人間にはあり得ない。

人の表現を裁く、人を裁くことは本来人間にはできない。
自分だって相対的人間なのだから。

人間にできることは自分の誇りを大切にするのと同じように人の誇りを尊重すること。
それが知性ある文明人の態度。
批判するにしても相手の人間性を否定しないこと。

2008/06/26のBlog
[ 06:17 ] [ 患者をめぐる問題 ]
友の会大会の若年患者の会があった。
若年性患者の会ではない。
「60歳以下の患者」が対象で、参加者の意識はさまざまのようだ。
現役の患者という意識の人は、就業についてが大問題。
ある人は社会保障を政治にどう訴えるか。
またある人は病気にどう対処するか。
これからどう生きるか、薬をどうコントロールするか。

どの発言もそれぞれの患者が抱える切実な問題だ。
それを整理し、ひとつひとつの対処法を探る段階にはまだいかない。
これまでの集会での成果を全く踏まえないで会は進行する。

2,3の発言者がこれからの方向性を示したが、今後の方向は全国大会で何かを決めようとするのではなく、それぞれが抱える問題を各支部・各グループの単位で自らが対処法を探ることしかないように思う。
全国で方針を決めて動くのではなく自らの足元から動く。
全国組織に期待するのでなく身近で始めることが必要だと思う。
全国の集まりは、その結果を持ち寄るところ、交流の場がふさわしいという印象を持った。






2008/06/25のBlog
[ 22:38 ] [ 病気について ]
ぱきぱきクラブをほかの患者とつくったとき、病気が進行しても出てこられるような場所=クラブをつくりたいと思った。
そこに行けば友だちに会える、楽しい時間をすごせるような場所。
その実現には「移動手段」と「症状の差」が問題になってくる。
移動手段についてはまた別に扱うとして、「症状の差」をどう考えるか。
進行していない患者が進行した症状を見ると恐怖を感じることもあるだろう。
進行した患者は逆に肩身の狭い思いをするかもしれない。
それでは、お互いが一堂に会さないほうがいいのだろうか。

パーキンソン病は外見を変える。
進行するとその人自身を裏切って全く違う容貌・姿になることもある。
病気が表に出てしまう…辛いことだ。

パーキンソンン病患者は精神的に衝撃を受けると身体の症状に出てくるようになる。
でもこれは、健康な人も精神的に衝撃を受けると表には出なくても身体的にも衝撃を受けていることを示唆しているのではないか。
つまりパーキンソン病は、人間がどういう存在かを眼に見える形で表しているのではないだろうか。

”眼に見える形で「人間」を表現している”
私たちの病気はそういう病気だ。