ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
rosebud パーキンソン病とともに
Blog
[ 総Blog数:559件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2008/07/19のBlog
[ 13:43 ] [ 考える―その他 ]


私が福祉サービスを受けるようになってから最大の疑問は、

≫なぜ行政はサービスを必要とする私の意見を聞かずに、提供するサービスを決めてしまうのか≪

ということだった。

昨日仕事から帰ってきた夫が1冊の岩波新書を見せながら話す。
この本にはこう書かれていると。

≫当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも―国家も、家族も―私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である。≪

そうよ、そうなのよ。
私が言いたかったことは。
なんでサービスを必要としている人に「どんなサービスが必要か」を尋ねないのは、本当にその人の存在を無視した僭越な振る舞いなのよ。
そんな人間の存在を無視した行為を行政が国があるいは他人がするのはとんでもない越権行為なのだ。
そんな権利は誰にもない。

そして介護保険制度あるいは障害者自立支援法で、サービスに制限を加えるのは対象者の生活自体に対する干渉=これも越権行為になる。
サービスに制限を加えるというのは、日常の買い物に少し遠い店へは外出介助を認めないとか、社会活動のための外出に、移動支援は最重症(=寝たきり)患者にしか移動支援を認めないとかいうことをさす。
こういう制限は、「高齢者や障害者には近所で日常品の買い物とお役所、選挙に行くこと以外は出かける必要がない」と言っているに等しい。

寝たきりに近い重症でも出かけなければならない(どういうときだろうか?)ことしか支援しないというのは、人に必要な外出はそれだけだと言っているのと同じだ。

こういう制度が人(高齢者・障害者)の移動の自由を奪っていく。
介護は介護保険で認められることだけとか、障害者の自立は法律が決めたことという考えが定着していく。

これは本当におかしなことではないだろうか。

この本には次のように書かれている。

≫ふつう私たちは「自立」というと、他人の世話にならず単独で生きていくことを想定する。だがそのような自立は幻想にすぎない。
どの人も自分以外の他人によってニーズを満たしてもらわなければ、生きていくことができない。社会は自立した個人の集まりから成り立っているように見えて、その実、相互依存する人々の集まりから成り立っている。
人生の最初も、最期にも、人と人とが支え合い、お互いに必要を満たしあって生きるのはあたりまえのことであり、だれかから助けを受けたからといって、そのことで自分の主権を侵される理由にはならない。
人々が相互依存して生きている社会で、他人の助けを得ないことが、なぜ理想とされるのか。だれからも助けを得ない人は、豊かな人生を送っているとはいえない。

障害を持った人が、必要な助けを必要なだけ得られる社会は、どんな人も安心して生きていける社会だ。それは、障害の有無にかかわらず、私が私の人生の主人公であることを貫くためである。障害者運動から生まれた「自立」の概念は、非障害者を標準にできあがった、それまでの「自立」観を、大きく変えた。

★ 当事者主権は、こうしたパラダイム転換からもたらされた。
この社会で「お客様」であり、「厄介者」であり、「お荷物」であるとは、どういうことだろう
。超高齢化社会のなかで、だれもがいつかは「障害者」となり、ハンディを抱えこむことが予想されるとき、人生のうちで依存する者もおらず、人に依存する必要もない一時期にだけ合わせてつくられた社会のしくみを、根本的に考え直す時機が来ている。≪


そう、私の考えを普遍化していくとこういうことになる。

「誰もが相互依存している社会」

関連blog 夫のblog






このところ真夏というにふさわしい暑さが続く。
エアコンを一昨日から使いはじめる。
昨日ヨガのとき天井からの冷風を感じた。
そして今朝、突然右腰jの裏側、奥のほうの腱が引きつる。
みるみる痛くなり姿勢を変えようとするとびりびり痛い。 
泣きたくなった。本当に泣く。

洗面所の棚にあったシップをはる。
痛みは引かない。
パーキンソン病の薬も効いてこない。
ああ、なんでこんなになるの。

気を紛らすためとなんとかするためにマッサージの人、PT,ヨガの先生に対策を尋ねる。
共通しているのは「あたためる」、冷えはよくない、ひたすらあたためる。
あとは、ゆっくりストレッチ、ミネラルを補給

お風呂にゆっくり入ってからストレッチをした。
少し軽減。
眠る。
また眠る。
夕方遅く、やっとお薬がちゃんと効いてきて動けるようになる。
パーキンソン病の薬が効くと痛みも大分なくなった。

やっぱり、病気が痛みを増幅するのかな。

2008/07/15のBlog
[ 02:51 ] [ 福祉サービス全般 ]
Apple福祉ページのトップはアイコンは落ちぼろぼろの状態だった。
急に思い立ち、せめて今あるコンテンツだけでもきちんと整理したトップにしたい。
そう思ってトップページの改変に取り掛かる。

まずタイトルを「介護・福祉」から「福祉情報」に変えた。
今現在は「患者支援情報」にしようかと考えている。
患者の立場から言えば、介護も福祉もNPOも全て”患者支援”である。

「介護」というのも介護保険で認められることだけが「介護」ではない。
患者が必要とする支援の項目を挙げてみる。
その項目の下に当てはまるサービスを入れていくことにしよう。
試しに挙げてみたのは
「医療費助成」
「就労支援」
「移動支援」
「生活援助」
「補助具」
「障害年金」
「手当て」
「優遇・割引など」
「その他の患者支援」

「サービス給付」と「現金(?)給付」という分類もある。

なかでも公的制度から軽視されているのは「移動」ではないか。

しかし、上記コンテンツを私一人で整備することはできないだろう。
眼の問題と体力・年齢もある。
他の場所("Message from Almond"など)に書いた記事を集めるのも一仕事。

誰か私を手伝ってくれる人はいないだろうか。
そう、患者にはこういう”支援”も必要なのよね。
2008/07/12のBlog
[ 01:54 ] [ 病気について ]
しばらく前から思っていることだけど、若年性患者ってちょっとハイ・テンションのようだ。
異常に元気過ぎたり、陽気すぎたり。
感受性の揺れが大きい。
これは神経内科医たちも指摘している。

ドーパミン補充療法を長く続けているせいのようだ。
パーキンソン病は脳内化学物資ドーパミンがつくられなくなって起きるのだが、これは「動くこと」だけでなく「感情反応」にも影響を及ぼす。

患者と親しい人が言う。若年性患者には共通した特徴があると。
過剰反応と心の余裕のなさ。

なるほど。
2008/07/09のBlog
[ 23:53 ] [ 患者をめぐる問題 ]
Appleの掲示板をめぐってAppleが揺れに揺れた。
パーキンソン病患者(と家族)がつくっているサイト"Apple"は会則も総会もないメンバーの自由意志によるグループだ。
決まりごとがなくても8年間続いてきたのは、主要メンバー間のコミュニケーションが取れていたことと、人材に恵まれたこと、主要メンバーが数人なのでコンパクトに物事が進められるのが幸いしたのだと思う。

主要メンバー(senior)の間ではグループの性格・方針など暗黙の了解が得られていたのだが、若い世代(junior)が参加するにつれ暗黙が暗黙のままになってしまったのだ。

今回のトラブルはそれが原因ではなかったけれど、トラブルの過程でそれが明らかになった。

どうにかしなきゃ、Appleは昔のようではない。
さまざまな意見が問題を混乱させる。

トラブルとそのことに振り回され疲れる。
頭も痛けりゃ眼も痛い。

ああ、さんざしのお酒が飲みたいな。
先日もうもう亭で飲んださんざしと杏のお酒。

さんざしって名前に覚えがある。
そう、プルーストだ。
「さんざし」という名を刻んだのは。
2008/07/05のBlog
[ 00:29 ] [ ことば・旅 ]
感覚的に我慢ができない表現がある。


「煮詰まる」 お料理で本当に煮詰まるのはいいんだけど、比喩的に使うのが嫌なの だ。

「おかずになる」

「ものにする」

「おいしい」 これも食べ物がおいしいのはいいの。私もしょっちゅう使う。
 業界の人が使うのが嫌。

※"ものにする"を除いて、食べ物や料理に関する言葉に問題があるようだ。

「どつぼにはまる」
「みそもくそも一緒にする」
「他人のふんどしで相撲を取る」

 ※こちらは生理的現象に関係がある。

あら、食べ物も後のほうも「生理的な行為」に関する言葉だった。

なんだか典型的でつまらないなあ。
要するに生理的現象に関する言葉を比喩に使うのが嫌いなのだ。


生理的用語を本来のことがらに使うのは別に嫌じゃない。
生理的表現をほかのことに使う神経がたまらない。

あ、そうそう。
「空気を読む」という表現も嫌い。
実際には、読めないものを「読む」というのが嫌なのだ。

ある潔癖さがあって、こういうプリミティブな(?)比喩が嫌いなのかもしれない。
あるジャンルの表現はそのジャンルの中だけで使ってほしいのだ。

だがしかし、この世間には、「みそもくそも一緒に」とか「他人のふんどしで相撲を取る」としか言いようのない状況がある。そういう時は仕方がない。

決然として、これらの表現を使うのみ。
2008/07/04のBlog
患者からの要望でLドーパの50mg錠が開発された。
4年前の秋に製薬会社に要望書を出してようやっと実現した。
Lドーパ製剤は今まで100mg錠と250mgしかなかった。
若年性の患者の多くが1回に1/2錠以下をのんでいるのにもかかわらず。
中には固くて割れにくかったり均等に割れないものもある。
ある大手の製薬会社に割りやすいように割線をもう少し深くしてくれないかと要望した。答えは「お金がかかる」だった。

ヨーロッパには以前から4分割できる錠剤がある。
なぜ低用量が必要かというと、1回に飲む量が多すぎると血中濃度のカーブが急になりジスキネジアが出やすくなる。
血中濃度のカーブをできるだけなだらかに適切な値にすることで、1日中いい状態をずっと保てることになるのだ。
この「Lドーパの適切な血中濃度を一定に保つ」ことがパーキンソンン病患者、特に若年性患者の悲願だと言ってもいい。
そのための薬剤・治療法の開発が欧米では行われている。
だが日本の製薬会社や医療行政は患者の苦痛を少しでも少なくすることにあまり熱心ではないようにみえる。
日本ではなぜか”血中濃度の一定化”は最優先にはならない。
大手の製薬会社は関心を示さなかったが、ジェネリックの会社が開発することになった。
ドパコール50mg錠は、日本において患者の要望を取り入れたという点で、画期的なできごとだと思う。
この50mgドパコール実現に貢献したのははAppleのハトポッポさん。

今、製薬会社に送った要望書を読み返して、その精緻さ・徹底性に改めて感銘を受けた。
この要望書作成だけでも立派な仕事だと思う。
ましてや実現させたのだから本当にすばらしい。
こういうことをするのが真に患者のための活動と言える。

Appleの記事
文中に「要望書」が読めるようにリンクをはってある。
2008/07/03のBlog
少し前のblogで私はこう書いた。

≫哲学・倫理は国家・法律より高度な次元にある。≪

”人は人を裁けない”ということを倫理的側面から言ったのだ。

このことについて次のように尋ねられた。
「なぜ倫理や哲学が法律より高度な次元なのかと。

私はこのことを自明の理のように思っていた。
倫理や哲学と言ったが人間の思考について考えていた。

人は何よりも真っ先に存在する。
人がまず存在し、世界がある。
世界というのは地域的な意味より総体的な私たちがある全体をいう。
法律や国家はあとからできた。


法律は人に権利・自由を保障するもの。
保障は往々にして制限の役割を果たす。

法律は人の思考や行為を制限し縛るものにもなりうる。

法律が自由を保障するから人は自由になるのではない。
「人は自由だ」と考えることが人を自由にする。