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rosebud パーキンソン病とともに
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2008/09/06のBlog
[ 21:11 ] [ ことば・旅 ]
"naive"という言葉を前のブログのおしまいで使った。

≫私ってとってもナイーヴ≪

"naive"という言葉は「世間知らずの」「経験の少ない」「単純な」など、いい意味では使われない。

もともとこの言葉はフランス語から来ていて、naifの女性形がnaive
辞書を見ると最初の意味は英語と同じ。
2番目に「素朴な」、「純情な」、「無邪気な」、「気取りのない」、「[自然な」という肯定的な意味が載っている。

日本ではフランス語辞書の2番目が定着してしまったようだが。


ところで、私は文中の「ナイーヴ」を、当然”世間しらずの”、”馬鹿正直な”という意味で使った。
自分のことを肯定的ニュアンスでナイーヴと言うほど、私はナイーヴではないということだろう。
2008/09/05のBlog
[ 22:49 ] [ 考える―その他 ]
ふたつ下の記事と同じものを「Appleカフェ」にも掲載した。
そのスレッドに珍しくResiがついたのだ。

私の投稿には通常、殆どResはつかない。みんなこういう”硬い”話には関心がないのだと思っていた。

反応があるのって楽しい。
私の文章が人に関心を持たれたのがわかって。
たとえ反論や異論であっても、それに対する自分の考えを書き進むのはなんてスリリングなんだろう。

私はとてもナイーヴ。




2008/08/31のBlog
[ 17:41 ] [ 映画・本・音楽・写真 ]
きのうの夜、大雨の中を立川まで映画を観に行く。

夫が前々日観にいって夢中になっている「スカイクロラ」
アニメだ。

夜の8時40分、シネマシティのその上映館は人影がない。
土曜の夜なのに人気がないらしい。
10人ばかりの静かな映画館で上映は始まった。

私の眼がどの程度視えるのか気がかりだった。
案の定、画面は異常に暗く見える。
画面自体も暗かったらしいが、私の視界も相当悪くなっていた。
夫が細部まですばらしいと言った絵の詳細は殆ど分からない。
辛うじて登場人物の顔立ちはわかる。

初めて観たとき、夫は草薙水素の眼に魅せられたと言った。

この映画は映像がすばらしいのだと思う。
アニメなのだけどふつうの映画のような圧倒的映像の美しさに息を呑む。
映画的感動がある。

それはアニメとか実写とかいう次元を超える。
グールドの演奏がバッハの曲をピアノで弾くかチェンバロで弾くかの次元を超えていたのと同様に。

映画全体を悲しみが支配する。青空さえも。
決して勝つことのない戦いのためだけ存在するキルドレたち。
戦い撃ち落とされてもまた繰り返される永劫回帰。

逃れようがなく、死ぬこともない存在に耐えるしかないキルドレ。

未来が失われているという圧倒的な喪失感。
キルドレ・水素の眼差しはその悲しさを見つめている。
この映画にはそれだけがある。




2008/08/25のBlog
[ 08:50 ] [ 福祉サービス全般 ]
医療費のお知らせが市役所から送られてきた。
5月時点の6週間(42日)分の薬剤費が175,510円、
ちょっと驚いた。

1日分の薬剤は

レキップ2mg錠 369.8円×8錠=2958.4
コムタン100mg 211.5×4=846,5
シンメトレル100mg 67×3=201
ネオドパストン100mg 41.7×2=83.4
(現在はドパコール50mg 8×4=32)

一日分で4172,7円もかかっている。
上にあるようにレキップ・コムタンなどの新薬は異常に高価で、その反面ドパコールのジェネリックは異常に安い。
欧米ではレキップは10年以上前から使われているのでジェネリックもある。
それに処方箋があれば自己負担はないのかもしれない(問い合わせ中)

高額な薬剤費は高い薬価に原因があるのかもしれない。
私の主治医は言う。あなたは目いっぱい社会福祉の恩恵を受けていると。
(重症認定をい受けているので自己負担はない)
それで、これから福祉は悪くなる一方だろうと。

なぜか?大多数の納税者が私たち障害者・難病患者・高齢者に”与え過ぎ”だと思っているカらだという。 」

諸外国もそうなのだろうか。
「難病をもつ人の地域自立生活を確立する会」の資料がある。

日本の障害者の定義には難病患者は入っていない。
また、障害者の数(対人口比も5%と、欧米の20%に比べ圧倒的に少ない。

障害年金給付費のGDP比(0.33%) 社会支出総額比 1..93%、
スエーデン 1.94% 6.70% 
ドイツ 0.87% 3.18% 
アメリカ 0.60% 4.05%
とアメリカに比べても相当低い。

日本はアメリカ型を目指しているということだが、この低い水準からさらに撤退しようとしているのだから、本当はどこの国をも目指してはいないのだろう。
何を目指しているかというと、ただ一国「弱者切捨て」の方向だ。

オリンピックを見て思った。

このたくさんのスポーツ選手たちにどのくらいの大金が使われているのだろうかと。
見ていて感動する選手・試合もあるが、それは国を問わない。

活躍する人も出場さえできない人もいる。
彼らの生活費・トレーニング費・コーチ費・コーチの生活費・解説者たちの費用・海外遠征の費用・メダルを取った人の賞金・試合出場しただけで報酬もでるだろう。
彼らがそれだけの価値がある存在で、私たち障害者は何の価値もないのだろうか。

私たち患者は不十分な公的援助を得て、肩身の狭い申し訳ない気持ちで生きることを強いられる。
こういうことは正しいことなのだろうか。
絶対の正義なのだろうか。

この国のお金の使い方は間違ってはいないだろうか。

2008/08/21のBlog
ヨーロッパの患者の集まりに初めて参加したのは2001年、7年前のことだ。 EuroYapmeetという若年性患者の集まりだった。
そのときは何人かの日本人患者と参加したのだけど、日本以外の患者・家族・友人(PWP)がどのような考えでどのように生活しているかに初めて触れることになった。

PWPというのはパーキンソン病と共に生きる人(People with Parkinsons) という意味だと思う。

患者の集まりが一流ホテルで一般の泊り客に混じって堂々と開かれていた。何よりも医師を特別扱いしていない・患者も医師も同じような感じで、誰が患者で誰が医師なのかわからない。
スピーチを聞いて、「ああ、医者だったんだな」とか「患者なんだ」と初めて気がつく。
ディナーやダンスのときもみんな同じように楽しんでいた。
そのときのダンスの楽しかったこと!

それから2005年のダブリン・2007年のストレーザ(イタリア)と参加して、いつも感じること。
イギリスで差別的なまなざしを感じたこともある。
あれだけ患者協会が活動しているイギリスでさえパーキンソン病に対する理解は一般的ではない。
そういう人はどこにでもいるということだろう。
だけど、それを超えるような考え方をヨーロッパの人から私は感じる。
誇りをもって生きよう、家族や友人たちと共に生きよう。
サイエンスを含めあらゆることを動員して。

PWPのなかには医師や研究者たちも医療従事者も、広義にjは入るのだろう。
その考えは力強く、大きい。

ロンドン・ダブリンに共に参加した前原隆司さんは彼らの考え方を日本の患者たちに直に知ってもらいたいと私に言った。

EPDAの会員でもない日本の患者たちを心から歓迎してくれ、その後も招待状を送ってくれる。
今年10月にクロアチアで開かれる若年性の集まりには参加しないけれど、また参加したいと心から思う。
2008/08/13のBlog
[ 10:07 ] [ 福祉サービス全般 ]
(以下はある掲示板に投稿したものです。)

初診証明が必要な理由は「どの年金制度が年金を負担するのか決めるため」だそうです。
でも、これが何らかの理由で取れないと年金の裁定請求ができない。
年金をどの年金制度が負担するかは”障害を持つ人に年金を支給する”という大目的に比べるとテクニカルな問題です。
そのテクニカルなことのために本来の目的が実現されないのは本末転倒と言うべきでしょう。
現在の状態が障害にあたるなら、それだけで年金を支給するというのが適正な判断だと思います。
どの年金制度が負担するかわからなければ、年金制度自体を一本化すればいいのです。
基礎年金だけ・厚生・共済という職業による区別は、障害を持つ人・そうでない人全てにとって本来的な区別とは思えません。
病気であるために家族に負担をかける。
これはどうしようもなく真実だと思う。
病気は家族の生活をもまた変えてしまうことになるのだ。
しかし、このことと「わがまま」という形で精神的に家族に負担をかけてしまうのとは違う。
自分が病気だということをどう考えていいのか分からずに、あるいは病気であることの憤懣を家族にあたったりわがままをとおしたりすることがある。
自立というのは「機能的・経済的には人に助けてもらっても、精神的には人に負担をかけないこと」ではないか。
つまり自分の人生や生活についての考え方まで人に頼らないこと。
これは人間の最低の条件だと思う。

2008/08/08のBlog
20代・30代のころ「うつ」になることがときどきあった。
病気のせいだったと思う。
とにかく生活が次々に回っていくのについていけない。
何もかも放り出して「日常」から降りたい。

放り出してしまうと、今度は自分を責める。
当然するべきことができない。
「日常」は自分を支えていたのだ。
私は病気だけれど一応「主婦」だという意識が私を支えていた。

自分がなんらかの役割を果たしていると思えないのは、相当辛い。
ただ存在しているだけで意味がなかった。

食べたり眠ること以外の意思的行動をしないのは存在を無意味にする。
人から評価されるどころか自分自身でも評価できない状態が続く。
「うつ」は辛かった。

しばらくたつと、少しは何かをしようと試みる。
ひとつでもできるとそれを評価することにした。
「きょうはこれをやった」と。
そうやって「うつ」を脱出する。

こういう「うつ」にははっきりした原因はなかったが、「うつ」になる原因があることもある。
症状が進んで将来に希望が持てなくなる。
10年前のときはマンションを買って引越しをすることで乗り切った。
目先に楽しいことを設定すると「うつ」から脱出することができた。
いつまでも同じ状態(それも楽しくない)が続くとしか思えないのは「うつ」の引き金になる。

「うつ」にならないためには、
◆メリハリのある生活をする。(時々の刺激と休息のリズム)

◆何かするべきこと・したいことがある。

◆自己評価とともに人から評価される


それでも歳をとり症状が進むという圧倒的現実を前にしては深刻な「うつ」状態も当然のこと。
さらに医療も介護の質はどんどん低下する。
いいことは何も予想できない。
生活に楽しみを見つけていくことがいつまでできるのだろうか。

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