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ひまじゃのう
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2008/02/23のBlog
[ 17:34 ] [ ブログの話題 ]
コメントスパムの試験をした。
Doblogユーザ以外からのコメントを拒否する設定にしていたのだが、これが本当に効くのかどうかの試験だ。ちょっと疑問に思ったので。

結論:効かない。

コメントウィンドウで、一見、コメントが投稿できないようになっているが、これは子供だましのゴマカシですね。

実際、ログインしていなくてもいくらでもコメントが投稿できた。なんだ、こりゃ。

さらに、「表示項目の設定」で、「コメント」のチェックを外し、「コメントを一切表示しない」ように設定しても、スパムコメントが可能(ただしこの場合、スパムコメントが入っていても「コメントリスト」に表示されるだけなのでチェックしない限りわからない)。

下のコメント欄の「スパマーX」さんは、ログインせずに投稿したもの。

---- 2/26 追加 ----
その後、設定をいろいろ変えて試してみたところ、現在流行している「洋二郎」や「閣下」などのコメントスパムに対しては、「Doblogユーザ以外からのコメントを拒否する」設定が有効に働いているようです。(ただし、かといって上の記事が間違いというわけではありません。相変わらずログインしていなくてもコメントが投稿できます。ドブたん、根本的なところでチェックを。)
[ 00:00 ] [ 花と昆虫 ]
運動がてら近所を散策。歩き疲れて公園の藤棚のベンチに「よいっしょ」っと。
ここのフジは季節には綺麗な花を咲かせてくれる。ツルが「右巻き」きだからこれは「ノダフジ」。「左巻き」なら「ヤマフジ」になる。

植物の「右巻き」「左巻き」は、世間の常識と異なるから注意が必要だ。
一般にドライバで時計方向に回して進むネジを「右ネジ」という。特殊用途でない限り、世のほとんどのネジは右ネジだ。

右ネジのとき、ネジの溝、あるいは山の形は、右肩上がり、文字で表すと「Z」のような形になる。ところが植物業界では、「Z]のような巻き方を「左巻き」と呼んでいる。アサガオの巻き方が左巻きだ。

逆に左肩上がり、「S]字のような巻き方を「右巻き」という。この写真の場合、「S]字だから「右巻き」だ。
ふと見上げると、「マメ」がいっぱいぶら下がっている。フジはマメ科なのだ。このマメ、もともとは青い(緑)が、今は乾燥して茶色くなっている。

乾燥すると種子を包んでいる2枚の鞘が互いに反対方向にねじれ、中から種子が勢い良く飛び散る。足元にはいっぱい豆が転がっていた。そのうちいくつかをGET。
中には割れずに残っているのもあった。この中に種子が4個入っている。鞘はかなり硬い。
種子の大きさはこんなもの。1.5mm程度だ。扁平でちょうど碁石のような感じだ。
これも硬くて乾燥している。

若く青いうちは食べることができる「らしい」が、食したことは無い。
実生でちょっと育ててみようかともくろんでいる。
2008/02/22のBlog
[ 14:28 ] [ 日々の暮らし ]
普段あまり気にしないのだが白髪が増えてきた。すべての髪が白いというわけではなく遠目にはグレーだ。だが、黒髪に白が混じっているという段階から、明らかに、白髪に黒が混じっているという状態になってきた。それもまんべんなく混じるのではなくムラがある。左側が多い。

娘には、「娘の私にもう白髪が出てきているのに、歳なんだからあたりまえでしょう」と叱られてしまった。それもそうだ。もう若くは無いとまた自覚した。

最近こんな話題ばっかり。かなり気落ちしている証拠だ。
2008/02/21のBlog
[ 00:55 ] [ 日々の暮らし ]
先日から歯医者に通っている。とうとう歯茎がぼろぼろになった。歯周病だ。
その都度直していたのだが、これも歳には勝てない。骨がぼろぼろなんだそうだ。

もうこれ以上は持ちません、抜きましょう、ということで、ぐらぐらになっていた歯をとうとう一気に3本も抜いた。ほとんど麻酔も必要ないくらい簡単に抜けますけど・・・と言われたが、痛いのは困る。一応麻酔してもらったが、効く前に抜かれてしまった。痛!

現在、部分入れ歯用に歯茎の土手の肉盛り中。だいぶ肉が盛り上がってきたが、歯の抜けた口は、鏡を見るたびに寂しい。なんか、いろいろと、一気に歳をとっていくようだ・・・・
2008/02/15のBlog
[ 23:55 ] [ 日々の暮らし ]
いつも失敗しているリバウンドだが、今回はどうなるか。
1年で目標10Kg減。現在3ヶ月目、約3kg減。
「約」というのが悩ましい。油断すると1Kg近く一気に上ってしまう。
減らすのは難しいが増えるのは簡単。今夜も胃が騒いでる。
2008/02/03のBlog
[ 00:00 ] [ 花と昆虫 ]
千秋さんの記事 水仙へのTB」


手入れしなかったスプレー菊のさみだれ咲き(笑)。
室内用に剪定したものは、もっと立派に咲いた(負け惜しみ)。
まだ蕾みの日本水仙。
数年前、露地に球根を植えたままほったらかしのもの。
同じく日本水仙。
日当たりの良い場所では、茎が成長し蕾がカギ形に+咲きかけのものもある。
スプレー菊の挿し木。小さい芽が出てきた(手前)。
奥は、もみじ葉ゼラニウム・ステラキャシーの挿し木。
(ピント失敗)
2008/02/02のBlog
[ 00:05 ] [ 日々の暮らし ]
やっと肩と腕の痛みが治まってきた。カイロぺたぺたの温熱療法が一番効いたようだ。
いつもなら2~3日で治るところ、歳とともに回復も遅くなってきた。仕方なし。

今回は痛みのクオリアという憶えたての概念を実感させてもらった。さらに、自分の身体の境界感覚がかなりあやふやであることもわかった。

明確に線引きができると思っていた自己と外界との境界は、よくよく考えるとそんなにはっきりしたものではない。皮膚の一番外側は垢や角質など死んだ細胞だ。死んでいるのだから自己ではない。生きている細胞、つまり自己の本当の境界は皮膚の表面より少し内側だ。だが、目で見ている限り死んだ細胞も含めて自己だと感じている。そして痛みや接触感覚は、この死んだ細胞の場所で感じている。自己ではない(死んだ)場所に痛みを感じたり接触感を持っているということだ。

夜暗闇で布団にくるまって目を閉じ、皮膚の接触感や外界との温度差が無くなってくると、身体の境界感そのものもかなり怪しくなってくることもわかった。境界感が怪しくなってくると身体の外部に痛みが走るような感覚がでてくる。これらは自覚していないだけでこれまでにもあった感覚だが、意識して観察してみると不思議なことだ。いずれも脳が作り出した幻想のなせる業ということか。
2008/01/30のBlog
[ 17:50 ] [ 日々の暮らし ]
この前から右腕の痛みに悩まされている。睡眠中は痛く無いので眠るのを楽しみにしているわけだが、眠りに入る前のウトウトして気持ちのいい時間、理由も無くズキッと痛みが走ることがある。

痛みはピンポイントや線ではなく、面で感じる。幅3cm、長さ5cmくらいの面が一様に痛いような感じがする。注意してこの痛みを観察していると、目覚めているときは右腕の内側にこの痛みを感じるが、ウトウトしているときは、右腕の境界より外側、自分の身体より外側で痛みが走っているように感じる。不思議な感覚だ。

確かめてみようと片方の腕を伸ばし肌に触ろうとすると、痛みは腕の中に納まる。
切断して無いはずの手足が痛む幻肢痛というのがあるというが、それに似たことなのかもしれない。脳が半眠り状態で、自己と外界との境界線感覚がおかしくなっているのか、脳の身体図マップが壊れているのか、そういうことだろうと思う。

自分の痛みを自分の身体の外部で感じるという不思議な感覚を味わうために、今夜も眠るのが楽しみだ。
2008/01/26のBlog
[ 16:49 ] [ 日々の暮らし ]
ここ数日の寒さのせいだろうか、右上腕や右肩、右肩甲骨のあたりに頻繁にものすごい痛みが走る。右腕は、眠っている時を除き一日のほとんどの時間、キーボードかマウスの上にある。ほぼ同じ角度で机の上に置いている。それに対し左腕は、キーボードを叩くとき以外はぶらぶらさせたり机上から離れて遊んでいる。左腕は痛く無い。

特別公務員暴行陵虐罪で警官が起訴された鹿児島県警での事情聴取で、取調べ中ずっと机の上に両手を置いたままにさせるという拷問方法をとっていたと先日TVで放映していた。これはかなりきついという。机の上といえど腕を同じ位置に保つことは、腕や肩の筋肉にかなりの無理を強いるようだ。

この痛み、文字で書けば「痛い」だけだが、文字では表せない、言葉にも表現できない「痛さ」だ。他人が同じ感覚を感じるようにこの「痛さ」を上手く説明することはできない。本人にしか分からない、本人だけが持っているこのなんとも言えない「痛さ」の感覚を、心の哲学や心の科学では、痛みの「クオリア」という。クオリア(Qualia)とは「質感」のことだ。

時には腕を切り離してしまいたいほど痛いこのクオリアも、よくよく考えれば、自分の脳が作り出している単なる幻想に過ぎない(というのが、先日読んだロボット工学者、前野隆司氏の「錯覚する脳」の結論である)。

腕にある痛覚受容器が微弱な電流、神経インパルスを発生させ、その神経インパルスが神経線維にそって腕から脊髄、脳幹を通り大脳皮質に至る。大脳皮質では触覚野にある脳細胞のニューロンのネットワークが発火して神経インパルスが分析され、痛みの程度や痛いという質感が決められる。また脳にマッピングされた身体図から、痛みの発生箇所が腕であることが決められる。そして私に「腕が痛い」と思い込ませる。

腕には感覚受容器、つまり痛みセンサーがあるだけだ。センサーが発する神経インパルスは単なる電流で、電流が痛いわけではない。センサーが受け取った信号を「痛い」と判断する脳は、腕には無い。痛いと感じた、痛いと判断したところは腕ではなく大脳なのだが、脳は痛くない。痛いのは腕だ。つまり、私は「腕が痛い」と感じているが、実際は腕が痛いのではなく、この痛みは、脳が私に「腕が痛い」と思わせているだけだ。だからこの「痛み」は脳が作り出した幻想である。その証拠に、眠っているとき、意識が無いときは痛みを感じない。もし腕そのものが痛いのだとすると、眠っているときも痛くて痛くてしかたないはずだ。

ということまでは「理屈」でわかる。わかるのだが、「これは幻想だ」といくら脳を説得してみてもこの痛みを無くすことはできない。痛い。とにかく痛い。痛いが、この痛みのクオリオを他人に説明することもできないのでもどかしい。

ではどうするか。よい方法がある。携帯カイロで暖めることだ。脳の説得より効果があることがわかった。
2008/01/14のBlog
[ 18:34 ] [ プログラミング ]
脳はなぜ心を作ったのか」に続いて、前野隆司氏の「錯覚する脳」と「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか」を連荘で読んだ。

「錯覚する脳」は、触覚、味覚などの感覚を脳がどのように理解(錯覚)しているかについての話。「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか」は、氏の「心は幻想である」という主張を古今東西の、主に意識についての哲学史や心理学の中で位置づける試み。

(そういう部門はまるっきしダメなので)哲学や心理学ではなく、工学として心を機械に組み込むにはどう考えればいいかという立場から見ると、内容はおおむね了解できるのだが、「重箱の隅」みたいなところをメモ。
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「空(くう)」を釈迦の思想のように書いてあるがこれはちょっと違うと思う。

仏教で「空」が定式化されたのはずっと後で、ナーガールジュナ(龍樹)の時代だ。釈迦没後7~800年も後のこと。日本から仏教を見ていると仏教の基本コンセプトは「空」であるかのように見えるが、仏教にもいろいろある。大乗に対する一方の極であるテーラワーダ仏教では「空」は受け継がれていない。大乗のように思弁的に「空」を考えるかわりに、冥想の実践として悟りの体験が伝えられてきた。
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大乗で後に「空」として定式化された思想を当時ゴータマがどのように説いていたのかはわからない。しかし、それは、初期の経典とされ、この本でも言及している「スッタニパータ」の次の詞にその原型があると思う。

----蛇の章から----
無花果の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、
諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、
この世とかの世をともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
中村元訳 『ブッダのことば』(岩波書店)より

果実だと思っているものが本当は花なんだけど、昔の人はイチジクの樹に花は咲かないと思っていた。だから漢字で「無花果」と書く。そのため、無花果の樹の林の中でいくら捜しても花を見つけることはできない。

「諸々の生存状態のうちにある堅固なもの」とは、アートマン(個我)のことだ。輪廻転生の担い手であるアートマンを見つけようとしても、そんなものはもともと無いんだから無駄なことだ、というような意味である。アートマンは今風にいえば霊魂のようなもの、認識主体でもある。

身体である「私」が死んでも「私」の中に宿る心である<私>は輪廻転生して消滅することは無い、というのが2500年前当時の常識的な理解であった。そのため修業の目的は、苦行してこの<私>を見つけ出し、それを身体から追い出して輪廻転生のチェーンを切ることにあった。そういう時代に、「私」の中に<私>は居ないと言ったのが仏教の仏教たる所以であったと思う(その後変容したが)。数百年後、大乗仏教でそれが「空」として定式化されたのだ。
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無花果は仏教のキーワードかもしれない。ゴータマは菩提樹の根元で悟りをひらいたとされている。菩提樹は、日本では、シナノキ科シナノキ属のボダイジュ(Tilia miqueliana)だが、インドの菩提樹は、クワ科イチジク属のインドボダイジュ(Ficus religiosa)である。中国から日本に間違って伝わったのだ(インドの樹は中国、日本では育たなかったのだと思う)。なので、花を探そうとしても見つからない「無花果」は「悟り」を暗示するキーワードかもしれない、と密かに思っている(笑)。
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仏教の「空」の思想がニヒリズム(虚無主義)かどうかについては異論がある。ニヒリズムであるという人もいるし、ニヒリズムではないという意見もある。本では、「前向きのニヒリズム」であるとしているが、私はニヒリズムではないと思う。西洋思想がニヒリズムに流れ着いたことをもって2500年前の東洋思想も元々ニヒリズムだった。それ故西洋がようやく東洋に追いついたかのような論にしてしまうのは、ちょっと安直なのではないかと思う。
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仏教について「空」と「無」の混用(併用)があるように思う。
「空」を「無」と理解する人は多いが、大乗仏教の「空」は「無」ではない。
「無い」のではなく「空(から)っぽ」なのだ。「空」は、サンスクリット語でzUnya(シューニャ)。本来あるべきものがなく欠けていることを表す。例えば、「部屋が無い」と「部屋が空」が違うように。「部屋が無い」は、部屋という容器そのものが無いのだが、「部屋が空」のほうは容器はある。しかし、その中にあるべきもの(住人)が居ない、あるいは空っぽだという状態だ。
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「諸行無常」の使い方、というか解釈というかこれもちょっと違和感がある。「季節の移ろい」のような感じで使っているような気がする。「諸行無常」は、仏教の4法印のひとつで、重要な概念の一つ。「季節の移ろい」のようなものではない。
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ネパール
ゴータマが活動した時期にネパールという国は無い。古代インド北部(現在のネパール)というような書き方が正しいと思う。
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西洋哲学についてデカルトから構造主義、ポストモダンまで鳥瞰してあるのだが、ニヒリズムというところに結論を持っていくために、あるいは意識が幻想であるということを傍証するためにかなり無理をしているような気もする。古代東洋思想と現代西洋思想がニヒリズムで合流したという、始めに結論ありきの論のような感じもする。しかし、詳しく検討するだけの知識も持ち合わせていないので、これで終わり。

以上は、「重箱の隅」をつついてみたもので、全体としては面白かった。ニューラルネットワークのプログラミングを勉強しようというのがもともとの読書の意図なので、基礎知識とか周辺知識のアウトライン獲得としてはそれ相応のものが得られたと思う。