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Another Harimau Omnivarous
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2006/05/31のBlog
大型連休は赤道直下に高飛びでした。
そして、連休明けからは新部署異動です。
久々の都心部勤務。それもデスクワーク。
どんな毎日になることやら。

それでは、今月もまたよろしくお願い致します。
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5月の個人的イベント予定
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・5月15日:新部署での勤務開始


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今月の公的行事
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これまでのクラブ活動はこちら
ジャンルなどはこちら
メイルはこちら

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2006/05/30のBlog
[ 00:33 ] [ 想い。 ]
今回の中部ジャワ大震災において、日本の報道機関はあるひとつの罪を犯した、と考えている。
それは、「整理されない情報の垂れ流し」だ。

ここのblogでも正確とは言い切れない情報を流してしまったことを棚にあげているのだが、テレビなどの報道は混乱を加速させかねない部分があった。

災害の度に指摘されることだが、

・報道機関による情報が中途半端いいかげん。
・欲しい情報を求める「情報利用者」(=この場合、被災した可能性がある人の近縁者)が、直接電話連絡などをとろうとする
・電話回線がパンク
・重要連絡事項もストップ

という問題発生プロセスだ。
今回もこのような事態が引き起こされた懸念は高い。

今回の報道での最大の問題は、「何処で被害が大きいのか」というのがかなりの時間全くわからなかったことだ。「そんなことは無かった」という方もおられるかもしれないが、少なくとも私自身はそう感じていた。また何よりも、「ジョグジャカルタ市街地でも壊滅的な被害」との誤解をかなり長い時間してしまったのだ(さえらジャワさんによると、実際は中心市街地は壊滅状態とはほど遠く、比較的落ち着いているとのことだ)。

どうしてこのような誤解を生じてしまったのか。
それは、「ジョグジャカルタ」という言葉が示す範囲を十分に説明しきれていない情報がずっと垂れ流しつづけられたことによるのではないだろうか。

今では便利なもので、wikipediaでインドネシアを調べれば、インドネシアという国の行政区分はおよそハッキリする。
およそのヒエラルキーは、州→県→市だ。
ジョグジャカルタ市は中部ジャワに位置するのだが、中部ジャワ州ではなくジョグジャカルタ特別州の州都である。そして、多くの都市と同様に、ジョグジャカルタ市も中心市街地と周辺地域を持つような構造となっている。この中心市街地部分だけをさして、「ジョグジャカルタ」という表現もないわけではない。つまり、「ジョグジャカルタ」という言葉一つとっても、

・ジョグジャカルタ特別州
・ジョグジャカルタ市
・ジョグジャカルタ市街地

といくつもの意味が出てきてしまう。

ところが、当初の報道では、一部「ジョグジャカルタ特別州在住の邦人安否確認」という情報があったものの、その他の文脈では「ジョグジャカルタのほかバントゥールでの被害が報告されている」と、これらが明確に区別されていない表現が目立ったのだ。

調べて、地図を見て、具体的にどのあたりでどういうことが起きているのか、という文章の書き方ではない。これでは、単純に外電を訳して垂れ流しているだけだ。

かつて、日本テレビの氏家取締役会議長は、こう言った。その中でも特筆すべき部分は、


消費者に判断能力があれば、明治以来、メディアというのがこういう発達の仕方をしてこないよ。信憑性の検証は近代メディアの発達史の根幹ですよ。

という部分である。
(この発言を一つのキーとして、「デジモノに埋もれる日々」では別の切り口でのコラムを書いておられます。こちらも面白いので是非ご一読を)

今回の事例では、メディアの根幹である「信憑性の検証」をまるっきり怠っているのだ。
これが、将来に対する予想・予測の記事ならある程度致し方ない。
しかし、今回の地震に関する報道に関しては、「現実に起きた事実」以上のものも無ければ以下もない。単純に、「5W1H」だけなのだ。
既存メディアから出てきた正しくない「5W1H」にしばらくの間翻弄され、その後現地発信のweb情報などによりようやく情報をつかみはじめられた、といった不都合が今回はあった。

これは今回のケースについてだけの問題にはならないだろう。

危機的状況になったときにもっとも必要な情報は、正確な「5W1H」だ。
そのときに懸念されるのは、いわゆる「情報弱者」の存在だ。

ラジオ・テレビ・新聞という「既存メディア」にしか手が届かないものは、危機時の頼りはそれらからの情報に偏る。それが正しくなければ、混乱か更なる生命の危機にさらされるだけだ。そうした隙に、多チャンネルソースを持つ「勝ち組」は屍を乗り越えてとっとと退散してしまうということか。

「平時に負けたものは、危機時にとっとと死ねばいい」

と、「格差の時代」が到来した今は、そんな単純な勝ち負けの話が是とされる世の中なのだろうか。
2006/05/28のBlog
[ 21:55 ] [ 旅 ]
ジョグジャカルタの地震の情報は気になるところだが、旅行記は続けていこうと思う。

ブロモ山の砂漠を後にしたのはおよそ午前7時。
いったん、Lava Hotelに移り、身支度をして外輪山付近を9時頃に出発する。

乗り込む車は、ジョグジャカルタからここまでの道のりを供にしたワンボックスカーだ。
これでプロボリンゴまでのダウンヒルを一気に下ることとなる。

到着時は真っ暗でわからなかったのだが、帰りのダウンヒルで目に付いたのはキャベツ畑などの多さだった。
ここまでの道のりで目にしてきた農産風景としては圧倒的に水田が多かったのだが、この付近ではこうした所謂「高原野菜」の生産が主体的なようだった。

ガイドブックでは夜間の気温は0度近くまで下がるとされており(実感としてそこまで下がっているとはとても思えなかったが)、赤道直下にもかかわらずそのような低温の環境、また十分異常の降水が期待できる土地柄から、そのような農産形態が選択されているのだろう。
ダウンヒルの途中、若干のトラブルあり。

ジョグジャからの道のりを含め、ずっと助手席に座っていたのだが、バンプのたびに左フロントタイヤ付近から擦るような異音が続いていた。
途中で対向車のドライバーが手をあげ、パッシングし、この車の走行を止めようとする。

ドライバーが路肩に車を寄せたときに、窓から左フロントタイヤを見ると、もうもうと煙が立ち上っている。
問題はブレーキなのか、へたれたサスのせいでフロントタイヤがホイールカバー内でこすれたのはよくわからなかったが、とりあえず水溜りの水を左フロントタイヤにかけ、冷却処置をして再度同じ道のりを走ることにする。
水をかけたときに、なんともいえぬニオイの湯気が上がった。おそらく、ブレーキが過熱状態になってしまっていたのだろう。気がついてくれた対向車のドライバーには感謝である。

こうしてしばらくの走行の後、車は再びプロボリンゴに到着する。
プロボリンゴから、バリ島デンパサールまでの道のりは、ローカルの路線バスとなり、乗換えまでのしばらくの時間、待機することになる。

プロボリンゴを出発したのは10時頃。ここからからバリ島デンパサールまでは、およそ9時間近くの道のりになる。本当に狭い海峡に隔てられているだけなのに、ジャワ-バリ間の時差は一時間ある。進んでいるのはバリ側になるため、プロボリンゴ-デンパサール間は実質10時間となる。

ローカルバス内での出来事、景色については特筆すべきとこは無いかもしれない。

途中、私の席のそばに座った高校生が、なかなか言葉に達者で、英仏・日・インドネシア語を交えた会話は楽しかった。さわやかな好青年で、オランダの老夫妻もお気に入りのご様子だった。

バスはジャワ島の内陸側を走る。

途中海が見えるが、ここまで何度も見てきたインド洋ではなくインドネシアの内海だ。
もしかすると遠方にマドゥーラ島が見えるかとも思ったが、その姿を確認することは出来なかった。途中まどろみながら走り続けるバスに身をまかせ、16時ごろにジャワ-バリ間を渡す海峡の町、バニュアンギに到着する。対岸にはバリ島、そして、バリの海の玄関口である、ギリマヌッの街が見える。

乗船したのはいわゆるカーフェリーだ。
前後部ともに車両積載口を持つ、双胴タイプのもので、写真に載せたものと同型の船舶である。

やはり海に囲まれた国であり、海路の有効活用は図られているようだ。
そのためには、やはり各島内陸上移動に関しては鉄道よりもバスのほうが利便性が高く、このことが、大変豪華な鉄道網が、サービス面でも安全面でもバス路線に対して有効な競争力を発揮しきれていないという原因のひとつなのかもしれない。

しかし、海路が有効活用されているとはいいながら、本当の意味で有効活用しきれているかというと当然、疑問はある。船をつける岸壁と、船の数、そして海峡を渡ろうとする車両の数などの要素間の最適化がなされていなかった。海峡を渡りきっても、波止場に船をつけるまでの時間が海峡を渡るのの半分くらいかかるのだ。そういうあたりがインドネシアのインドネシアらしいところでもあるのだが。

結局、バリ島に上陸したのは、現地時間の18時頃となった。

そして、ここまで、たくさん目にしてきたイスラム教のモスクは一切その姿を見せなくする。


バリ島に到着してからも、道のりは長い。
ギリマヌッは島の最西端。そこから、島のほぼ中央付近に位置するデンパサールまで向かうのだ。バリ島は四国ほどの大きさの島と考えていただければ、イメージしやすいと思う。
バリ島ではウブドにしか滞在するつもりが無かったため、デンパサール到着後はタクシーで一気に駆け上り、さっさとホテルを決めてとまる予定としていたのだが、そろそろ疲れはピークに達していた。

デンパサールのバスターミナルに到着したのは現地時間20時ごろ。

すんなりタクシーを捕まえられるかどうかが不安だったが、運よくメーターつきのタクシーを拾うことが出来る。約1時間、Rp.150,000-でウブドに到着する。
以前に泊まったホテルにするか、はたまた、ロスメンを探すか、悩んだのだが、結局ウブドの目抜き通りに入ってすぐのホテル、Ibunda Innに落ち着く。

やはり、ジャワと比べて国際的な観光地であるバリは物価が高く、エアコンなし、シャワーのみの部屋でRp.150,000-/泊であった。
当初はほかに移ることも考えていたのだが、結局最後までここに逗留することとなる。
2006/05/27のBlog
[ 20:28 ] [ 旅 ]
[関連したBlog]

2500名以上の死亡者が出ている模様。
プランバナン寺院も一部が崩壊したとのこと。
コタ・グデで1500名の死亡者が出ているらしい。あの銀工房の街は壊滅なのか。

相変わらず日本のニュースは適当な映像しか流れない。
バントゥールの被害とジョグジャカルタ市街の被害と、どっちが酷いのか全くわからないのだ。
官邸のリリースもない。
合衆国はもう援助金の支出を決定したそうだ。
土日だから官邸は休みなのか。

ジョグジャカルタ王宮の様子が聞こえてこないことが気がかりだ。
ユドヨノ大統領がたまたまメラピの視察に訪れていたのは大いなる幸運なのか、それとも新たな不幸の序章となるのか、それは誰にもわからない。
ジャカルタ主導、ユドヨノ主導での対応がなし崩しに進んでしまっては、かつてのジョグジャカルタはもう帰ってこないんじゃないだろうか、と不安になってしまう。米豪、中国、そしてアラブ諸国の手は相当に入るだろうが、それでいいのだろうか?

王家を中心にジョグジャカルタの街は出来てきた。
今、被害にあった人たちに必要なのは、ハメンク・ブウォノ十世の声と力なのかもしれないとも思う。
上にあげた各国にはそんなことは恐らく簡単にはわかるまい。
ユドヨノ大統領と王宮は十分に補佐しあい、連携できるのだろうか?


インドネシアという国は、僕にとって大事な国で、特別な国だ。
しかし、所詮、僕は外国人でしかない。

「あの国に対して何が出来るのだろう?」

ということは、もうそれこそ20年以上も考えてきたことだが、今回の旅行でようやく答えが出かかったのだが、このニュースを目の前にして、また答えを出せなくなった。

なんとも複雑な気分のまま、ただニュースを眺めるだけしかできない。

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おそらく、「ジョグジャカルタ」をキーワード検索すると、このblogはそれなりに上位でヒットすると思われます。
ただ、私とて、現地に直接のコネクション、ホットラインを持っているわけではなく、もっぱらニュースなどの二次情報便りです。

現在の所、日本の報道機関は頼りにならないので、以下のサイトを参考にしています。
何かの拍子でここにたどり着いてしまった方は、下記を参考にしてみてください。

Kompas:現地の名門報道機関(インドネシア語)
Yahoo!ASIA:ジョグジャカルタの地震はヘッドラインになりました(英語)
・インドネシアの気になるニュース:Kompasの邦訳などがあります(日本語)
さえらジャワ:現地在住の日本人の方のサイトです。ご無事だったようでなによりです(日本語)
ジョグジャカルタ政府:政府公式サイトです(インドネシア語)



[ 11:35 ] [ 旅 ]
未だ完結していないインドネシア旅行記なのだが、ニュースが飛び込んできた。
もう、Yahoo!などではリリースが流れているが、ジョグジャカルタで大きな地震ということである。
震源がインド洋側。ジョグジャカルタ南西26kmというと、僕が訪れた場所にも近い、というかそのものの可能性もある。

M6.2と規模も大きい。
テレビでは第一報のニュースが流れただけで、詳細もまだ明らかではない。

第一報のロイター伝では5人の死亡、ということだったのが、もう15人にその人数も増えている。沈静化しつつあったメラピも、溶岩ドームを崩壊させて大規模火砕流が発生したそうだ。
ジョグジャカルタ市街の様子はどうなのだろう。
現地の最新情報を提供しておられる、「さえらジャワ」というblogでは、昨日の記事が最新で新たな記事は上がっていない。

楽天blogの「現代インドネシア事情」のほうでもまだ情報がない。
おそらく現地は相当混乱していることだろう。

市街は、王宮は、イモギリの王廟は、コタ・グデの金工房はどうなっているのだろう。
インド洋の海岸は津波の被害に晒されてはいないだろうか?
プランバナン周辺はどうなんだろう?
あの瀟洒なプラオサン寺院はどうなってしまっているのだろうか。

非常に気がかりでならない。
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(追記)
これを書き終えて、再度情報をあたると、死者数は51人となっていた。
ジョグジャカルタでは、ホテルの倒壊もあったという。

おそらく、地理的にいって、私が泊まったホテル「Metro」にも相当の被害があったのではないか、との想像することを禁じ得ない。
2006/05/21のBlog
[ 21:11 ] [ 同居人。 ]
今日からウチに同居人が来ました。
パールドワーフハムスター。オス。

名前はまだ無いですが....とりあえず、お披露目。
[ 10:42 ] [ 旅 ]
ビューポイントに到着。
標高2,700m超では、雲も眼下にある。

真っ暗闇の中、薄ボンヤリと山の陰が見える。
蒼くたたずむその山々の姿は本当に神秘的だった。

奥に見える、標高3,676mのスメルが15分おきに噴煙をあげている。
外輪山の内側で、バトック山がプリンのように見える。
ブロモ本山は雲の下に隠れて見えない。白く上がった噴煙がその位置を明らかにしている。

ああ、やっぱり三脚はもってくればよかったな、と今更ながら後悔する。
固定できそうなところを探して、なんどかシャッターを切る。
何枚か撮影したところで、PowerShotA40のバッテリーが音を上げる。さすがに、これまで30度近いところでずっと使っていて、気温が急に下がった上に長時間開放撮影をしていれば、バッテリーも持たない。

なんとかD70を駆使して何枚かを撮影。
それでも、結局綺麗に撮れたのは、日が昇りきっての数枚だった。
日が昇りきった6時頃、いったんプナンジャカンを降りる。
再び外輪山内側の「砂漠地帯」に降りる。なんとなく、在島生活時代の景色を懐かしく思い出してみる。

車を砂漠で止めてもらい、ブロモを登る。
登ると言っても、たかだか200段程度の階段なのだが。
砂漠は写真でもわかるとおり、雲の下。
馬子が何人か待っているが、とりあえず登りについてはやり過ごす。

山頂に着く。振り返れば、緑のバトック山が。間近で見るその姿はどことなくユーモラスだ。そして正面には噴気を上げる火口が見える。時折、硫黄の臭いが鼻を突く。

山頂ではインドネシア陸軍の兵士と出くわす。
なにやら、随分リラックスしている様子だ。さしたる武装もしていなければ、デジタルカメラで写真などを撮っている。何故か一緒に写真に収まることを求められ、承諾。
こちらには、D70しかなかったので、残念ながら一緒の写真は手元にない。
ただ、彼らの存在を少々疑問に思いながら、先ほど来た階段を下りる。

下りは馬に乗ってみよう、と思い、馬子と値段の交渉をする。

ちなみに、この周辺に住んでいる人たちは、ジョグジャカルタとは人種が違う。テングル人というそうだ。勿論、インドネシア語で話をしているのだが、彼らはジャワ語を話さない。彼らが使うのはテングル人の言葉だ。

ジャワ語もテングル語も僕は理解しないのだが、地元の人同士の会話は明らかにインドネシア語ではなく、彼らが話している内容を少しでも解することは全く出来なかった。
思えば、20年以上前は、バリでもそういう土地があったのだよな、ということを少し思い出す。
片道、Rp.20,000-の所を、Rp.15,000-にまけてもらい、馬の背に揺られて山を下る。
馬は小さく、倉の上のスペースは結構狭い。背丈の低い馬なので、重心はどうしても上に乗る人間の中にできる。山道を右に左にと歩くと、背からずり落ちそうで少々おっかない。

十分程度馬の背に揺られ、再び砂漠へと下ってくる。

そこには、兵士の一団が集合している光景があった。

砂漠には、ヒンドゥー様式の寺院がある。
ここまで、ジャワで見てきたヒンドゥー寺院のような遺跡ではなく、これは現役の寺院だ。テングル人達は、バリ島の住民同様にイスラム教の信者ではなく、独自のヒンドゥー信仰を持っている。

その寺院の前に、国軍は隊列を作っていた。
その中の何人かと話をすることが出来た。

彼らは、ブロモ山から直線距離で数十km離れた都市、Malangに駐屯する陸軍部隊だそうだ。ここブロモにやってくるのは、長年の伝統行事のようなものらしく、道のりにして100km近くを全て徒歩で踏破するということである。

彼らとの会話の中で印象的だったのは、こんな言葉だった。

「インドネシアにはお金が無いんだ。なのに、何故、テロリストがこんなところで跋扈しているんだろう」

インドネシア国軍には、外国から自国を守る役割よりも、自国民に銃を向けるという任務が主であった歴史がある。
最近続いて起きた、テロ事犯には、外国人の関与もありながら、インドネシア人自体も深く関わっていたりする。

彼が、ぼそっと呟いた一言と、そのときの何とも言えない表情は、しばらく忘れることができないような気がする。
ジョグジャカルタを離れて、ブロモへ向かうことにする。
ソロに行こうかどうしようか悩み、結局ソロは見送ってしまった。少しもったいなかったような気がするが、今となっては後の祭り。

ジョグジャカルタを朝8時頃出発し、約12時間の陸路の旅となる。

同行者は、

・オーストラリア人夫妻一組。良く喋る。
・オランダ人老夫妻一組。
・フランス人若者2名

そして、私と、ツアーバスを運転するジャワ人2名。以上9名をキツキツに詰め込み、写真のミニバスは一路、当面の目的地、東部ジャワ州プロボリンゴへと向かう。
道中、最前席でジャワ人2名とともに座る。

インドネシアの道路事情は地方に行くほど悪い。そして運転はあらっぽい。
いい加減足のへたれた車だったので、バンプがあるたびにタイヤの真上にある助手席にはショックが走る。遅い車とみれば、対向車線に平気で飛び出して追い越しをかける。なかなかスリリングだ。

そんな道中をジャワの二人と軽口たたきながら進む。
結構、こういうのだって悪くはない。




10時間の道中の末、プロボリンゴに到着。
ここで、ジョグジャカルタからのジャワ人2名は別のドライバーと交代。2時間ぐらいかけて、ブロモ外輪山に位置するところまで一気に登る。目指す標高は、約2,000mだ。
ガイドブックやらなんやらには、寒いので防寒必須と書いてあったが、持ってきていたのはパーカー一つ。本当にそんなに冷えるのだろうか、とやや不安になりながら道中を車に揺られる。

到着したのは20時過ぎ。
あたりは雲につつまれている。
写真をとっても、水滴しか移らない。

ガイドブックなどにものっている「Lava Hotel」というところに泊まる。
翌朝3時に起床。
4時にホテルを出て、真っ暗闇の中をジープで山頂方面へと向かう。
助手席に陣取るがこの助手席の扉が、開かなかったり閉まらなかったり....。多少難儀をする。
道中、目だし帽をかぶった陸軍兵士の一群に出くわす。相当な人数だった。
ディエンへ行ったときの一件もあり、少々、気持ちが硬くなる。

そうこう言っているうちに、標高2,770mのプナンジャカン山頂、ビューポイントに到着する。
午後15時過ぎには、ジョグジャカルタから再び南下。
パラントゥリティスの海岸に向かう。
ホテルクラークの「サンセットが最高だぜ!」ということで、インド洋に落ちる夕陽という被写体を求めて向かったわけだ。
こちらも同じく遠浅の海岸。
しかし、外洋むき出しなので波は結構高い。


夕陽を求めていったはずなのだが、なんとも残念なことに曇天。
とりあえず、日没の時間までだらだら過ごすことにする。
海岸線には馬車が走っている。
市街地では生活の足となっている馬車も、少しところが変わればレジャー用の小道具に姿を変える。

海の中に入って泳いだりしている人はほとんどいなかった。
高波で危険だという話も当然あるのだが、女神伝説のために海にはいるという習慣が出来なかったということも確かなようだ。
イスラム教徒なのに、海の女神(ちゃんと名前まである)を信じている、というのは、日本人の感覚で捉えたイスラムとは大きく異なる部分だと思うが、それがジャワに暮らす人たちが持つ世界観の実態である。
日没の時間近くなっても雲は晴れない。
場所を少し移し、バトックの海岸に移動する。
しかし、当然のように陽は落ちるのは見られなかったわけで、しばし、ふらふらと海辺を歩く。

日没の時間を迎えた頃、急に空が真っ赤に焼けた。
PHOTO BOXのほうでも、こんな写真を出したが、インド洋の空を真っ赤に染め抜いた夕焼けはなんとも幻想的な景色だった。

日没後、一旦ホテルに戻り、ジャワ舞踊の観覧に向かう。
題材は、ラーマ・ヤーナ。
ラーマ・ヤーナを題材とした舞踊としては、バリのケチャックが有名だが、こちらは少々趣が異なっているし、舞踊のスタイルも異なっている。

もう何十年も昔から続いているはずだが、随分とこった演出になっていた。
実際に矢が飛び交い、炎が舞い、屋根の上に駆け上ったりと、エンターテイメント性の強いものだった。日本で言ったら何にあたるのだろう....スーパー歌舞伎あたりとたとえれるのが妥当だろうか。

そうこう言っているうちに夜は更ける。

翌日はブロモ行きだ。
宿に戻り、ゆっくり休むことにする。

2006/05/20のBlog
ブロモ山~バリの行程への橋頭堡とするべく、バンジャルネガラを後にし、もう二人別の知人宅に立ち寄りながら、ジョグジャカルタに向かう。

途中、インド洋に面した海外に行く。
ジャワの南部は、どこもこんな感じなのか、広く遠浅の砂浜と海がどこまでも続く。
インド洋には女神がいて、緑色の服を着た人は海に引きずり込んで帰さないという。


幹線道路を使わなかったこともあり、悪路続きのジョグジャカルタについたのは夕刻。
宿は一度目と同じMETROホテルに泊まる。

翌朝、ホテルクラークがガイドを買って出てくれ、所謂日本向けの旅行ガイドに載っていない場所をまわってくれることになる。

午前中一番で向かったのは、イモギリの王廟だった。
丘の上にある王廟へは、写真のような急で長い階段を登る。
ここに眠るのは、ジョグジャカルタ王家の歴代ハメンク・ブウォノ。そして、スラカルタ(ソロ)王家の、パク・ブウォノ。ちょうどこの階段を上りきった右側が、ジョグジャ王家の墓廟であり、左側がソロ王家のものだった。

毎週、金曜日の晩には、ジャワの正装をした参拝者が夜通しで訪れるそうだ。
王廟をあとにし、向かった先は当然のように銀工房。
ジョグジャカルタの工芸品としては、ろうけつ染めの「バティック」が有名だが、銀製品もまた同様で、ジャワでも有数のものだそうだ。そのため、観光コースには概ね銀工房が組み込まれている。この工房は、日本の天皇・皇后両陛下が見学したところだそうで、当時の写真が飾ってあった。

工房には見学コースが設けられており、そこは確かに自由に見て回れるのだが、当然のように我々観光客に求められているのは「某かのお買い物」なわけで、ここで誰に贈るのかわからない買い物を少々することになる。


銀工房のあとは、「タマン・サリ」(水の宮殿)へと向かう。
ここは、現在の王宮の傍にある。かつてのサルタンが使っていた離宮。所謂ハーレムの跡だ。

今では当然使われておらず、遺跡としての価値が一番高いはずなのだが、それにしては少々過剰に修復されているような気がしないでもない。よもや、今一度ハメンク・ブウォノ十世がここを使用しようというわけでも無いとは思うが....。
勿論、修復を終えていない、崩壊した廃墟のような部分もまだ残ってはいた。
それも来年には大規模な修復(再建?)作業に入るという。それもまたなんだか少し寂しいような気がしないでもない。

上の写真は、未修復の廃墟から、修復が済んだ範囲を臨んでいるものである。
今では周辺に家が建ち並んでいるこのあたりも、かつては水の張り巡らされたまさに「水宮」というところだったそうだ。
一面が水に覆われたこの宮殿を、王は船で移動したということである。

そして驚いたのは、その水面下に地下通路が造られ、当時は后の通路としてそこが使われていたということである。
受けた説明から推測すると、周辺の水深は1~2m。確かに大水深下ではないが、それなりに水圧はかかる。しかも、水底下に埋設されるような形で作られた地下道なので、かかる加重は飽和土の全応力がそのままかかるような形になる。決して、簡単な地中構造物ではない。

その地下道が写真の下半分。石積みの構造物だ。
なるほど、上部スラブはアーチ状の構造として、曲げモーメントが発生しないようになっていた。
壁面部分も、土圧が厳しくなる下部に進むに従って断面が増すような形になっている。なかなか利にかなっている。
土木屋として気になったのは当然のようにこのアーチ状のスラブを施工するときの支保形状だった。
説明によると、一旦壁面まで作った跡、内部を砂埋めし、スラブ部分の内面形状と同様の形になるような土構造を作ってしまうということ。その上に石積みによるスラブを構築したあと、内部の砂を全て撤去して完成させるとのことだった。
木材による仮設支保構造と比べると、いささか手間がかかる方法だが、均一な形を作ったり、施工時加重によるひずみなどの発生を取り除くという意味では、よりよい方法なのだと思う。


現在の日本には、「最新の土木技術を駆使して」、などと偉そうなことを言う会社がある。しかし、過去の知恵というものに比べたら、いかばかりのものなのだろうか、というものが、毎度のことながら、歴史的な遺産を見て感じることである。

前回のジャワでの食事[その1]に続き、その2。

プルバリンガ、バンジャルネガラ、そして再びジョグジャカルタでの食事。

チラチャップからの帰り道、プルバリンガの町中にある、露天で食べた食事がこれ。
鶏肉の揚げ焼きである、アヤム・ゴレンとご飯のみ。

シンプルだけど、とても美味しい。
そして、バンジャルネガラの知人宅でごちそうになってしまったものがこちら。

イカン・バカールが主菜。
この魚は、川魚。キング・グラミーっていう魚を使っています。
グラミーという種別は観賞用の熱帯魚として、日本でも見られるものですけど、これはその中でも大型のもの。これ専門の料理店もあったりします。

観賞用のグラミーがどんな魚か、というのはこちらを見て頂ければよいかと。
そして、ジョグジャカルタに戻った晩の食事はこちら。
外国人向けのカフェで食事をしたので、ちょっと趣がことなるのですが、「グレ・カンビン」というものです。

日本でイメージするところの、「カレー」に一番近いものだと思います。
「カンビン」は山羊のこと。

ココナッツミルクの強い、マトンカレーというのをイメージして頂ければ正解です。
知人家族とチラチャップに向かう。
この旅行始まって最初の海行きだ。

チラチャップは中部ジャワにおける西の玄関口。
中部ジャワから西部の観光景勝地、パガンダランへ向かうときの拠点ともなる。
そしてまた、国策石油企業、プルタミナがコンビネートを構える中部ジャワの鉱工業拠点でもある。オランダ時代、日本軍政時代にも拠点となった歴史がある。

しかし、漁村としての雰囲気も残していることは確かで、写真のような景色が広がっているところも勿論たくさんある。

やはり海なので、食事は魚。
魚は「bakar」という直火焼きの調理方法がインドネシアでは比較的多い。
ここでは、赤い鯛のような魚を食した。
写真は店構えの様子。めらめらと立ち上る炎の様子がおわかりいただけるだろうか。
食事後、一枚目の写真にあったような船にのって海に出る。

実はチラチャップの南西の方向には島がある。
ヌサカンバガンと言う島だ。地図などでの英語表記では、ヌサカンバガン島、と訳しているケースもあるようだが、Nusaというのは「島」の意味もあるので、本当はカンバガン島というのが正しい表現なのかもしれない。ただ、ここでは現地の人がいうように、「ヌサカンバガン」という呼び名にとどめておく。

ヌサカンバガンとジャワ本島の距離はきわめて近い。このため、海峡はまるでちょっと大きめの川のようなものだ。ジャワ西部のパガンダランへは、この海峡を西進する。
今回は、このコースを途中までたどった。

西進の途中、左手に見えるのは写真のような風景だ。
マングローブ林と、ちょっとしたエンジンを積んだ木製の小舟。
彼らはおそらく漁を生業にしているようだ。
一方、右手に見えるのはプルタミナのシーバースである。
重量トン級のタンカーがオイルを積みにやってきている。
(プルタミナ施設は撮影禁止のため、写真がない)

なんとも対照的なこの光景の間を、先ほどの小舟で進んでいくのは、実に珍妙な気分であった。

西進の後、ヌサカンバガンに上陸する。
ここから先の写真は一枚もない。

ヌサカンバガンがどういう島かまだ説明してなかった。

この島は、監獄島である。

ジャワ島で「ヌサカンバガン」といえば、皆、おそれをなす監獄だそうだ。
重罪を受けたものが収容され、服役をしているという。宝飾品作成などの役務にあたっているようだ。服役中のものは、汚職官僚・政治家、そして凶悪犯罪者などがしめるという。テロリストもここに収監される。一連のバリ島における爆破テロ犯もここに収監されているということだった。

島内になにがしかの時間逗留し、後にする。

なんとも複雑な気分が後に残る。

再びチラチャップに帰着後、オランダ時代、そして日本軍政時代に使われた要塞後に向かう。これは土木屋として実に興味深かった。

先に述べたとおり、ここはオランダ占領時代から拠点・要衝の位置となるため、防衛上の重要性も高かったようだ。
写真は銃座、そして弾薬庫そして砲座の位置関係が分かるように撮ったつもりのものである。
細かくは書かないが、外からの攻撃に対して、二重三重の防衛網がしかれるような形となっており、それらが品質の高い構造物として、施設利用の意図を確実に実現するような形で構築されていたのだった。

とりわけ、日本軍が占領してから新たに作れらたものは、見た目こそ雑ではあるものの構造としては十二分の性能を有しているものであり、驚かされることが多かった。
今ではそのほとんどが水没してしまっていたが、数百メートルの長さを持つ地下壕には、目を引かれるものがあった。
日本軍がこの地にいたのはわずか3年半程度と短いものではあるが、その短期間でそこまでの設備を設け、供用していたという事実には、いろんな意味での驚きがあり、そして様々な想像を巡らせるのに十分すぎるものであった。

2006/05/18のBlog
ディエン高原をあとに、知人宅にお世話になることになった。
まずは、中部ジャワ農村地帯のプルバリンガに向かう。
当然、なにがしかの行政府は置かれているわけで、そういうところは然るべき町になっているのだけれど、お世話になった場所はそこからも更に離れた本当の農村地帯。

三期作の水田が一面に広がる景色は実に美しかった。
農業機械もなく、多量の農薬散布もなく、それでも、これだけの広大な水田を維持しているというところに、我々とは違った尺度での「豊かさ」を感じた。