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~三線の響きをイギリスより~
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2006/05/14のBlog
最近、アニメーションから見る現代社会の話が多いな~と思うけど、これだけは言っておかなきゃ。

ルパン三世・カリオストロの城のストーリーの矛盾について

カリオストロの城の脚本にある最大の問題点はルパンがカリオストロ公国に行く必然性が全くないということだ。最初の国営カジノ襲撃でゴート札を掴まされたと気付くところまではいいんですよ。問題はその後。まず、

1.ルパンはクラリスを救うために公国に行ったと考えている人は多い。しかし、ルパンは公国に入国した後、ウエディングドレス姿で黒塗りの車とカーチェイス(最高傑作のカーチェイスとの評判あり)する女の子を助けるが、その娘がクラリスだと知って助けた訳ではない。その後、「影」たちに連れ去られ、残された手袋の中にあった指輪を見てあの娘がかつて自分が助けられたクラリスだと気づく。ここで、初めてクラリスを好色な伯爵から助け出すという本筋のストーリーが始まるわけだ。あくまでもクラリスのために公国へ行ったわけではない。ならば、

2.ルパンは世界一の偽札、ゴート札の謎を解くために公国に行ったのでは?という人もいるかもしれない。だが、ルパンはかつて公国に潜入したが這々の体で逃げ出したという過去がある。しかもそのゴート札というのもオープニングでルパンがちょっと見ただけで判別できるくらいのレベルのものだ。わざわざルパンが謎を解くほどのものではない(劇中で量産速度のアップのために質が落ちているというエピソードはある)。

この上記ふたつの理由からルパンが公国に赴く理由が全くない。このストーリーは完全に無理がある。

しかし、脚本を書いた宮崎駿のすごさはその無理さを見ている人間に全く気づかせない点にある。無理を無理としてごり押しする(例えば、ナウシカのように死人が蘇る)でもなく、よくよく考えたら矛盾することをごくごく自然に流してゆくという超々ハイテクニックをこの頃の宮崎駿はさらっとやっていたことに驚く。確かに劇中で本筋の整合性を考えさせないような装置は満載(手に汗握るカーチェイス、ルパンの滝登り、ルパンの幅跳び、ルパンと銭形の脱出シーンなど)実はカリオストロに行く必要はないけど、偽札の謎を解きに行く⇒クラリスをヒヒ爺から救い出す路線にごく自然(!)に移行していった。だから最終的には「クラリスを救い出すぞ!」というスタンスで結婚式をジャックすることが可能だった。これだけでも宮崎監督が持っているアニメーターとしての才能は突出している。映画の見せ場的には一流だと言われているからこそ、最初の行動の動機の整合性が合わなくても物語として成立するし、何度でも鑑賞できる作品になっている。

それと、前回の宮崎監督=ロリコン疑惑の話と関係しているんですが、劇中の最後の会話でも彼(宮崎監督)が「その気」があるとわかります。クラリスを無事に助け出したルパンは銭形の姿を見て逃げていった。追ってきた銭形はクラリスと会うシーン(↓)

銭形警部:「くそ~、一足遅かったか。ルパンめ、まんまと盗みよって」

クラリス:「いいえ、あの方は何もとらなかったわ。私のための戦ってくださったの」

銭形警部:「いや、奴はとんでもない物を盗んでいきました。」

(一呼吸)

銭形警部:「(真剣な顔で)あなたの心です」

クラリス:「ハイ!」
(⇒目はキラキラ、ルパンに恋しちゃった!)

銭形警部:「では、失礼します」(ここで、無意味なウィンク!)

作品を見た人なら分かるこのシーン。この少し前にルパンがクラリスを拒絶するところといい、銭形にこの台詞を本気で言わせるところといい、監督の考える男のロマンを体現している部分です。こういうことをするから、最終的に「ルパンはクラリスを助ける話なんだ~」と思われちゃう。。。

・・・といっても、ボクはこの作品好きですよ(笑)
まだ三桁まで見ていませんけど、二桁はとっくの昔に。

最後に一言だけ。銭型警部が登場するときに日本のパトカーを先導してカリオストロ公国に来ます。その時に、パトカーのサイドにはしっかりと「埼玉県警」と書かれているんです。けど、ルパンと墓場から脱出した後、伯爵のオートジャイロ(小型ヘリコプター)を奪うときにカリオストロの衛士と取っ組み合いを演じているんですが、「警視庁をなめるな!」と口走っているんです。あれっ?埼玉県警ってパトカーには書いてあるし、元々の配属は国際警察(ICPO)じゃなかったっけ?(笑)

あ、どうでもいいですね。こんな話は(爆)

サンシン
2006/05/12のBlog
空耳ア~ワ~

ではありません。

千と千尋の映画についてです。

ついでに言っておくと、






千と千尋の物語ソープランドに売られた女の子の話









・・・なるほどね。

こう考えてみると、気付かなかったボクも悪い。

宮崎監督は有名なロリコンだったね・・・。

まあ、記事を紹介します。
2004年3月14日の映画評論家・町山さんの記事です。

2004-03-14 「千と千尋」はなぜ「湯女(ゆな)」なのか

宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。

 主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。(中略)「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは娼婦を意味する名詞なのだ。

公衆浴場には銭湯と湯女風呂の二種類があり、銭湯の客は男女両方で、背中を流すのは三助という男だが、湯女のいる湯女風呂の客は男だけである。

ネットですばやく見たい人は、以下に図版入りで詳しい説明がある。

http://www.c-c.co.jp/huzokusi4.htm
http://homepage1.nifty.com/shincoo/m124-2furo-nihon.html(デッドリンク)
http://www.1010.or.jp/menu/history/rekishi04.html

 ダメ押しで言っておくと、トルコ風呂がソープランドに改名された時、最後まで残った有力候補は「湯女風呂」だった。もし、湯女風呂になっていればソープ嬢は「湯女」と呼ばれていたはずだ。

『千と千尋』ほど数多くの映画評や新聞記事で取り上げられた映画はなかった。なにしろ「国民的大ヒット」だから。ところが何一つ「なぜ湯女なのか」ということに触れはしなかった。

たとえば渋谷陽一は宮崎駿に何時間もインタビューしながら一度も湯女の意味に触れなかった。まあ、彼は単に知らないだけだろうが、『ユリイカ』の「千と千尋特集」では何十人もの学者や「インテリ」に論じさせながら、「なぜ湯女なのか」誰も触れていない。売春の「ば」の字も出てこない。(中略)なかには「風俗と結び付けるいやらしい見方は許さない」と怒る連中も多かった。

(中略)

ちなみに、少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

この映画の場合、両親が犯したのは飽食の罪だ。オイラはこれは、89年まで続いた戦後日本の高度経済成長と飽食、享楽主義のツケが、90年代から続く底なしの不況として返ってきたこと、それが女性の就職難につながり、風俗産業という苦界に身を投じる必要性が増している状況を象徴していると思う。「プレミア」のインタビューで宮崎監督は現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかねばならない現状を語っている。

また千と千尋の客が神様(全員男)なのは、古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていたからだ。神社や神殿の巫女は売春もしていた。最も聖なる者と最も下賎なる者は同じと考えられていた。日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。

神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ。タルコフスキーの『サクリファイス』で象徴的に描写されているように、キリスト教以前の社会では、巫女との性行為を通じて人は神と対話した。また、中世のキリスト教教会は娼館として機能していたこともあった。

民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。だから湯女たちは巫女の衣装を着ている。性職者は聖職者だった。古今東西。

性風俗と国民的アニメを結びつけるなんて!と怒った宮崎ファンはもういちど『プレミア』の監督インタビューを読むべきだろう。そこで宮崎監督は、性風俗を悪いことと決め付けるのは、キリスト教的倫理の押し付けのせいだ、と怒っていらっしゃいます。

言われてみると確かに・・・その通り。

ということは、千と千尋の物語は

1.千尋は不思議な世界に迷い込みます。
2.親と引き離され、あやしい美少年(=ハク)の導きで、湯屋の仕事を紹介されます(ソープへ沈められる)。
3.湯婆婆(=やりてのババァ)によって、名前を奪われ(=源氏名)働きやすい名前を付けられてしまう。
4.住み込み(=タコ部屋に軟禁!)で働くことになります。


しかも、

5.お客様は神様です。
6.どんなに不潔で、臭くても、洗ってあげなければなりません(涙)
7.くされ神さまのふところ深く、千はかわいい手を突っ込み、十五センチくらいの硬い棒状のものを探り当て、握りしめ…抜きます(射
8.神様は、昇天し、どこかへイッちゃいます。
9.一方、千は、臭い液でドロドロに。。


・・・現代でも十分に通用する話ですね。あやしい少年(=ハク)はさしずめヤクザの下っ端のチンピラといったところでしょうか(笑)

余談ですが、「湯女(ゆな)」についてのトリビアル(無駄)な知識

湯女は、歴史的には戦国時代、戦場から戻った武将の荒んだ気持ちを少しでも和らげるために、入浴時に女性に世話をさせたのが始まりでした。いつしか一般化して流しから髪結い、衣服の面倒、それ以上の“お世話”までする、湯屋には欠くべからざる存在となりました。
江戸時代のファッションリーダーは、1に遊女、2に湯女、3、4がなくて5に茶屋娘、別格で歌舞伎役者というのが、人気の中心だったようです。湯女にも相当の美女が揃っていたと言われ、吉原の太夫の向こうを張った有名な湯女もいたようです。(共同浴場風俗史4

ちなみにグーグルで「千と千尋 ソープランド」を検索すると1350件のヒットがありました。

気付く奴は気付くんです

それではまた。

サンシン

追記:阿佐谷みなみさんの書き込みで判明しました。
千と千尋 ソープ」で検索すると、20、100件(2万越え!)のヒットがありました。。。

追記2:上記の「千と千尋 ソープ」の追跡調査を行ないました。
そうしたらソープが(1)ソープ嬢、(2)ソープランドの他に、(3)イアン・ソープ、(4)ボディ・ソープ、(5)モイスチャー・ソープ、(6)ソープ=石鹸が検索でヒットしていました。と、いうことは、千と千尋=ソープランド説の検索をかけるときは、ソープ、ソープランド、ドープ嬢と打ち込んだほうがいいということですね。

余談でした。
2006/05/10のBlog
[ 08:35 ] [ Identity&"こだわり" ]
必死こいて試験勉強に励んでいるサンシンです。。。

今日はサイボーグ論についてのメモ書き。もともと、木曜の女(梅吉)さんと映画「愛のコリーダ」にタナトス(死の欲求)が存在することを議論していたんですが、話が段々と違う方向に行ってしまい、最近では「サイボーグ論」について話しています。(サンシンの過去記事:阿部定事件のその後

サイボーグに関するNHKの番組のサイトはこちら

日経BPでの立花隆さんのコラムはこちら

「サイボーグ論」について言えば、「攻殻機動隊」の映画とテレビシリーズを見ている方なら簡単に想像つきますが、知らない方はそんな話が最先端の技術の現場で話されているのかと驚かれると思います。梅吉さんのサイトに書き込んだ自分のコメントを引用します。

「攻殻機動隊」の世界観は口で説明するとかなり時間を要しますが、ざっくりと話せば、人が人である証拠はゴースト(霊魂)が身体(生身・機械)に入っていること。身体の一部・全部は交換可能だし、同じスペックで人工知能を入れることもできる社会。また、電脳化といわれる技術で、人間の脳がネットとオンラインできる技術がある。言語化、視覚化以外にも交信手段を持った人々はみな電脳化を希望し、生身の脳を持っているのはホームレスくらい(笑) 電脳の中には防壁(コンピューターのファイアーウォール)が存在するが、パソコンと同様にハッキングを受ける可能性がある。記憶を変えるならまだしも、人間の中のゴーストをハッキングされる危険も帯びている。・・・そんな話です。

映画の第一弾で出てきますが、人間がこのような技術を発達させる時にこのことを気をつけなければならないと。このこととは、(1)脳をネット接続することでの記憶の改ざん、(2)記憶の並列化によるアイデンティティーの消失、(3)人間だと特定するためのゴーストも変更可能なこと、(4)人類が持っていた揺らぎが消えること=体のスペックが並列化したことで、一つのウィルスで全滅する可能性がある・・・など。


日経BPの立花さんのコラムには現実世界でもこの傾向は着実に近づいているとのこと。特にアメリカは「脳・コンピュータ・インタフェース」のコンセプトをベースにして技術開発を行なっています。話を見る限りでは「攻殻機動隊」の世界観の半分近くが現実のものになっている印象です。

ひるがえって日本に目を向けてみると、「アシモ」などのエンターテイメント用のロボット開発には力を注いでいますが、あくまでも娯楽を目的にしてあるので、実用性の観点から開発しているアメリカに今後遅れをとるかもしれないと立花さんは語っている。要するに江戸時代のお茶くみからくり人形の域を出ないと。(詳しくはリンクのコラムを)

日本のロボット開発に江戸時代のお茶くみからくり人形のアイディアが根底にあるのかもしれませんが、実はボクは手塚治虫の「鉄腕アトム」が現在の技術者の共通体験だったと思っている。昔見たテレビの番組で学生に初代アトムのアニメを鑑賞させていた大学教授の話を見たことがある。50年代、60年代の科学は今から考えれば羨ましいくらい輝いていた。正確に言うと、その当時考えていた未来の科学が輝いていた。その中に手塚治虫のSF漫画が少年たちによって読まれた。科学が解明すれば解明するほど、未来は輝きを増し、自らがしてきたこともきちんと世間から評価されると自信を持って言えた時代が日本にはあった。

しかし、現実は違った。科学が発達すれば世界の中の「闇の部分」が消え去り、代わりに窮屈な科学が支配する社会が到来した。科学技術者の中でそれに耐えられるものはアカデミーや研究所で働いたが、耐えられないものはエセ科学を多用したカルトにはまっていった。それが80年代のニュー・アカブームの興隆に繋がったし、90年代のオウム真理教になった。両方とも科学という記号を使った宗教的手法を使ったカルトです。オウムの幹部で理系の人間(結構な学歴の持ち主)は元SF少年が多かったし、少年時代は少なくとも輝かしい未来を夢見ていた。その夢が打ち砕かれた先にオウムなどのカルト教が存在したので、彼らはそれらのような如何わしいと思われるものでも接近していった。

現在、企業でロボットを作っている人はたぶん「鉄腕アトム」の洗礼を受けた人たちであり、根っこの部分ではオウムに入った理系信者と同じではないかと思われる。彼らを分けたのはたぶん、社会に適応できたか、できなかったかではないか。もちろん、一概には言えないが、少なくとも過去の理系少年たちが描いていた未来像は現在では考えられないくらい輝いていたし、その輝かしいものに自分を託そうと志した少年は少なくないと思う。

「サイボーグ論」は科学技術としては革新的なもので、脳の中にパソコンを埋め込める時代が到来するし、USBケーブルなどで情報が瞬時に相手に伝えることが可能になる。言語化するしか情報を伝える手段を持たなかった人類が初めて「イメージしたものを伝えられる技術」を持つことが可能になる。他にも、高性能な義手や義足、内臓などが作られるし、突き詰めると全身を人工的に作れる時代が来るということ。

ここまで書くといい方向に行っている感じはしますが、実は社会から「死の匂い」が消えていく方向なので、必ずしも人間が生活することで言ったらいい方向に進んではいない。現在でも十分に生きているか死んでいるか分からないような人がいたり、生きていく気力がなかったりします。高度近代社会では本能獲得契機が失われているとボクは考えます。つまり、「死の匂い」に感化されて自らの生・性を際立たせていく機会が激減していること。昔なら年に二回の「伝統的な祭り」がその機能を果たしていたし、春のお花見で感じる桜の「死の香り」、夏の海で感じる「死の香り」、葉が死んでできる秋の紅葉で感じる「死の香り」、冬の白銀の世界に感じる「死の香り」を享受する機会と感受性でしょう。

興味深いことに人間の営みは技術や社会が高度化すると反比例するように生きる気力が減っていくように思える。かといって、伝統を復活させろ!と叫んだところでどうしようもないし、もうできないところまで来ているのも事実。全ての事象が個人化された社会で幸せになる・不幸せになる可能性を秘めているのはやはり個人であることには違いないが、幸せになるための知識を伝授することは微力ながらも可能であると思う。どのような社会がいいのか、どのような個人の営みがいいのか。過度に個人化した社会ではこれを考えること事態が大きな負担になりかねないが、今後は昔に戻るようなことはなく、また個人で決定せざる終えない機会が増えるであろう。

一般的な倫理からサイボーグ論を語ることもできるが、自らがどのような個・どのような社会で生活したいかという観点から臓器移植、機械による臓器の代用、はたまたサイボーグに至るまでの議論を行うことができるはず。技術はそこまで来ているし、資金と時間があれば、その技術を享受できる人が増えるでしょう。しかし、無自覚にしていると根本的な問題に突き当たったときに取り返しのつかないところまで行く可能性がある。その意味でも「攻殻機動隊」の映画で人形遣い・プロジェクト2501が語っていた問題について今から考えなければならない。

今日のメモでは
(1)日本のサイボーグ技術はアメリカに先を越される可能性がある
(2)手塚治虫の「鉄腕アトム」の影響は絶大
(3)しかし、それを支える時代背景が存在した
(4)ロボット開発者とオウムの理系信者の根っこは同じだと思う
(5)技術が往々に先行し、議論だけが取り残されている
(6)現在のSFサブカルチャーが発しているメッセージは一部の人間が受け取る以上の価値はある。
(7)果たしてサイボーグ化=義体化できる社会は人間にとって幸福な社会か?

ではまた。

サンシン

P.S.彼女が一足早く日本に帰国しました。
現在は一人暮らしです。連絡までに。
2006/05/04のBlog
CRASH」(2005、アメリカ)
監督:ポール・ハギス(ミリオン・ダラー・ベイビー:脚本)

2005アカデミー最優秀作品賞、最優秀オリジナル脚本賞受賞




ストーリー:
アメリカ、LAに住む様々な人々の葛藤、衝突、逡巡をマルチストーリー形式で描く傑作群像劇。病んだ母のために実の弟を探す黒人刑事、人種差別主義者の白人警官と黒人女性との衝突と救出劇、雑貨屋を営むペルシャ人とヒスパニックのドア修理職人との諍い黒人刑事の弟とその悪友、そして白人警官と争う黒人女性の夫であるTVディレクターとの奇妙な出会い。それらのストーリーが入り交じり、互いに重なり合い、多人種が共存するLAという街の複雑さを浮き彫りにしていく。 (hotaka君、基本情報を引用させてもらいました~♪)

ようやく去年のアカデミー賞最優秀作品を見ることができました。これと別のDVD二本を含めて安くなっていたんで、即購入!それで、さっき見ました。

感想ですが。。。

・・・面白くない。

これが正直な感想。もちろん、マルチストーリーを丹念に紡いで行く作品構成、ペルシャ人のお父さんが黒人の女の子を撃つシーン(たぶん空砲?)が効果的に演出されていたこと、最後のロサンジェルスに降る雪の意味など映画を見せる上での技術はなるほどと思うことがあった。差別・被差別が場面によって入れ替わったりと、作品の題名である「クラッシュ(衝突)」を題材にしているだけあって十分に表現されていたとは思う。

しかしだ。

ボクはこの作品からは“光”が見えてこなかった。

海外で生活してみて、自分も他人種・多人種の集団の中で生活しているしているが、イギリスではまず、このような雰囲気はなく、これはやはりアメリカだけの「特殊な」状況があるからこの作品ができているのだろうと痛感した。アメリカは多民族国家といいながら元々はネイティブ・アメリカン(インディアン)たちから白人が土地を奪い、黒人をアフリカから呼んで作った白人のための社会であり、その主義を保持する勢力が多いために社会の中の衝突が連鎖し、悲劇が繰り返される。

それに比べてイギリスにも、黒人は当然多いし、次いで植民地支配の関係でインド人、中国人が住んでいて、最近の傾向では中東からの移民を多く受け入れているので彼らの姿もよく見る。しかし、社会構造、文化的にアメリカに似ている(というか兄弟)イギリスに住んでみて映画のような場面はそうそう見る機会はない。彼女と見ていてよく「ストレス(フラストレーション)が溜まりまくってるね~」と話していたけど、イギリスはもう少し住みやすい環境だと思う。差別というならイギリス人のほうが激しくてもいいはず。なぜならアメリカとは比べ物にならないくらいの白人の歴史があり、自分の土地に自信や誇りを持っているから、他人種のよそ者が入ってくることに強力な拒否反応を持っても仕方ないと思うから。しかし、現在の生活と映画を比べてみてもそうは感じないし、逆にアメリカの社会のほうが何か病的な印象を受けた。

また、この映画を見ていて痛感したことは、「希望が持てない」ということ。最初から最後までクラッシュ(衝突)が描かれているだけで、具体的な解決策が見えてこない。それが監督の意図かもしれないが、見た後の後味はすごく悪かった。「今日」ある社会構成員同士の衝突が延々と続いていて、「明日」になっても解決されない社会って住み心地が悪いし、安心して暮らせない。黒人は黒人として差別されながら生きていかなければならないし、アジア人はアジア人として差別されながら生きていかなければならないし、アラブ人はアラブ人として差別されながら生きていかなければならない。マイケル・ムーア監督の「ボーリング・フォー・コロンバイン」と合わせて、アメリカで生活することの居心地の悪さだけが目立った映画だった。

この作品がアカデミー賞を取ったのは、もちろん話の構成力がずば抜けていたこと、アメリカで売れたこと、他の作品候補(「ブロークバック・マウンテン」「ミュンヘン」など)が政治的な問題になりすぎたことが挙げられる。アカデミー賞はアメリカの映画授賞式だから、アメリカの政治や文化が反映されることは十分に考えられるでしょう。しかし、実感としてこの作品はアメリカ以外の国ではそんなに評価されないと思う。理由としては、先ほど書いたように、「光・希望」が全く出てきてないことが挙げられるが、やはりこの話はアメリカ人にしか共感できないと思うから。アメリカではこの中の登場人物に共感できる人がいる可能性は十分に考えられますが、こんな人、こんな社会、こんな文化が他の国のどこにあるのか?これほど日常的に衝突が起こっている社会がどれほど存在しているのかと考えると、アメリカ以外の国では不人気だろうなと考えてしまう。もちろん、興業的にそれが覆される結果が出てくる可能性はあるんですけどね。あるブログでは、「自分と他者との間に壁を作らないで,思い切ってクラッシュしてみるといいかもしれない。」と書いてあったが、そんな社会に住みたいか!?と思っちゃう。。。と、ボクは悲観的に考えてます。

それと、日本人がこの映画を見たときにどう感じるのかが少し気がかりになった。この映画のレビューや感想を書いているブログを多数見ましたが、軒並みの高評価だった。が、しかしロサンジェルスに住んでいる人(hotaka君とか)やアメリカ留学経験がある人は、映画の中のアメリカの生活に共感できる部分が多いと思うんですが、アメリカとは全く違う文化を持った日本人の評価が高いことには少し疑問があった。上記したように、少なくともイギリスで生活している日本人から見てこの話は非常に否定的な評価をしているけど、日本に住んでいる日本人が好評かなのはなぜか。ここからは推測ですけど、やはりアメリカへのコンプレックスが強いためにボクから見て光のないような社会を描いた作品でも素晴らしいと評価できてしまうのか。それと、アメリカの話なんだからと思っている可能性がある。作品の中にアジア人(韓国人)が出てきた時は、自分もアメリカに行った彼らのような差別を受けるかも知れないと思うと、憂鬱になるわけです。それはイギリスに住んでみて、西洋人は中国人と日本人と韓国人の区別も付かない連中だと知っているし、自分がアメリカに行ったら同じようなことが起きるかもしれないと想像できる。しかし、日本に住む日本人には彼ら(韓国人)だから差別されるんだよみたいな区別(差別)が存在するから彼らに共感することがないかもしれない。そうすると、自分とは違う世界の人間ドラマを映画で見ている可能性がある。だとしたら、日本人にも高評価を得た作品なのか。。。と勘ぐってしまう訳です。

・・・ここまで書くと「サンシンはそこまでアメリカが嫌いか!」と思われるかもしれませんが、実際その通りです(笑)少なくとも今後、アメリカに住みたいとは思いませんね。政治的な部分でも気に食わないところもあるんですが、アメリカの社会が自分のテイストではないですね。

それと、最後に。映画の中で心温まるシーンが結構登場します。例えば、冒頭のシーンでペルシャ人の娘が銃に細工しているシーンが後半の射殺シーンで明かされる(娘が父を助けた)し、撃たれたほうの娘とお父さんとの会話(「透明なマント」)で奇跡が生じたことや、人種差別主義者の警官でいやらしい奴の役である一方で病気の父を看護するやさしさなどです。映画だけ見ると、クラッシュが続く中での生活でも、愛情を持って生活する家族が美しく見えます。しかし、これだけは言いたい。(1)愛情は社会に属するのではなくて、個人に属する、(2)社会的なフラストレーションが存在するために、「ただの」愛情行動が美しく見えるだけのこと。前者は、愛情を持って生活しているから救われるような場面が登場しますが、これは個々人の慈悲・愛情が深かっただけ。それと、後者では社会的なフラストレーションがなければ、鍵屋の父親が身に付けていた「透明なマント」がなくても生活できるし、人種差別がなければ交通事故のときの拒絶反応は存在しない。アメリカが独自に持っている社会的なフラストレーションが「クラッシュ」を生む原因なので、アメリカでしか成立しない話。

ということで、マルチストーリーを構成する脚本と、効果的な演出・音楽、複数回出てきた奇跡(空砲、LAの雪など)を登場させたことは高く評価できますが、それ以外はまったく評価できません。


よってこの映画・「クラッシュ」は星二つ:★★☆☆☆/★★★★★の評価です。

星一つ:★☆☆☆☆/★★★★★:もう見ません
星二つ:★★☆☆☆/★★★★★:金返せ
星三つ:★★★☆☆/★★★★★:まあまあ
星四つ:★★★★☆/★★★★★:オススメ
星五つ:★★★★★/★★★★★:最高!あの世に持ってく!

TB:hotaka君「映画レビュー#24「CRASH」 ★★★★★

サンシン
2006/05/01のBlog
そろそろ本格的に試験勉強をがんばっているサンシンです。

これからは更新の頻度が極端に落ちるので、訪問される方には申し訳ないんですが・・・悪しからず。

さて、今日のお話は「神話」について。

また、なんでこんな話をするかというと、大学で勉強しているから・・・というものあるんですが、先ほどネットを徘徊していて見つけたサイトに触発されたから。(後述)

まず、「神話」の定義ですが、これは「宗教」・「伝説」・「昔話(寓話)」と一緒に話したほうが分かりやすいでしょう。

まず、「宗教」とは古今東西・全世界問わずに存在します。現在・過去関係なく、「前提を欠いた偶発性(思いがけずに発生する出来事)」を無害化して自分たちに受け入れ可能なものにする装置のことを「宗教」と呼びます。具体的には、「なぜ世界はあるのか」・「なぜ人類がいるのか」など、自己・家族・社会・世界の謎を追求すると行き当たる根源的な疑問を解消するための社会的・政治的な装置です。

そして、「神話」とはこの「宗教」の内側に含まれているもの。(人ではなく)神が主人公のお話で、神が創ったジェネシス(創世神話)によって自分たちの共同体が孕んでいる偶発性を必然性へと変換する装置のことを「神話」と呼ぶ。「宗教」が「なぜ(Why)」の答えを示しているのだとしたら、「神話」は「どのようにして(How)」の答えを示している。具体的には、どのようにして神がこの土地を創り(創世記)、どのようにして自分たち・人類が生まれたのかが明記してあることにより、偶発性(偶然にも起こりうること)を必然性(必ずそうでなければならない事柄)へと変換され、共同体の中の不安や不満が解消される。

伝説」とは逆に、(神ではなく)人が主人公のお話で、自分が所属する共同体の偶発性を過去の特別な偶発性と結びつける機能を持っている。自分たちの共同体は(他の場所でもいいはずなのに)なぜこの地にいるのかを、過去の人物を参照して自分たちがここで生活することの必然性を現している。

最後に「昔話(寓話)」は、人が主人公のお話で、自分たちの生活世界は確かにそういう風に成り立っていると納得するような機能を持っている。勧善懲悪(善事を勧め、悪事を懲らしめること)や教訓のようなお話がこれに当たる(「水戸黄門」・「花咲か爺さん」)。また、四文字熟語やことわざにも見られるようなもの、(「弱肉強食」・「急がば回れ」)など。(宮台真司「2004」)

これを踏まえた上で、以下の記事を御覧いただきたい。ここでは、古代の日本で天皇が神格化した性格を持った「神話」を民衆に語り継がせることによって(宗教的な要素を利用して)日本全国の武力以外での支配を行なっていたことが書いてある。非常に参考にあるものなので、一部ですが引用します。

リンク元:Renaissancejapan(記事:天皇と記紀神話)

天皇と記紀神話 

天皇を中心とした中央集権国家を創る為に、天皇を神格化させる必要があったという事に尽きると思います。 隋や唐に対抗する為の、富国強兵政策として、国内を安定化させ、権力の中央集権化を図った為であり、特に国内の安定化には、天皇の神格化は欠かせなかったのではないかと思います。

天皇家を神に仕立て上げる事により、次のいかなる時代にも、豪族が天皇にとって代わる事ができなくなりました。何故ならば、地上世界でいかに力が強くても、神様の血を引く事は不可能であるからです。天皇制は、我々日本人同士の争いのエスカレート化を防ぐ為の、極めて優れた先人の知恵であったのです。すなわち、世界戦争の反省で、戦争後に人類の知恵でつくった、権力はないが権威はある国際連盟や国際連合と同じです。
 
この天皇制を創ったという事と、天皇の神格化は、天武・持統天皇と藤原不比等の天才的なアイデアであり、多民族国家であった日本をひとつにまとめることが出来、永く安定した社会を築く事ができたのです。 

しかしながら、天皇は神様ではないとか、分かりきった事を、目くじら立てて言わないで下さい。これは、先人の知恵で、誰もを黙らす世俗を超越した権威を持たせる為のものであり、そのかわり権力を持たせなかったのです。そのくらいの事は、いちいち説明しなくても、大人であれば洞察する能力を持って欲しい物だと思います。

・・・中略・・・

天皇制を創る意義は、権力の中央集権化による富国強兵政策と、国内の安定化であることは、既に述べましたので、皆さんも理解していただけたと思いますが、ここで問題も生じます。 それは、このアイデアがいかに素晴らしい物であっても、当時の民衆達がそれを信じてくれたか?、という事に関してはかなり疑問があるからです。

天皇制は、律令によって明文化したものの、当時の人はまだ法律というものに馴染みがなく、法律を定めたからといって皆が守ってくれる訳ではありません。まだ、従来の宗教や慣習によって、人々の行動は自ら規制され、社会の安定化を図っていた筈です。

また、明らかに人間の姿をした天皇家の人達が、いきなり神様と言われても、それを真に受ける人も少なかったでしょうし、おそらくその出生も知っている人もいた事でしょう。そこで、利用されたのが、既に一般庶民にも伝承されていた神話です。 この神話と、天皇家の祖先を結びつける事により、信じ込ませる物です。

そして、まだ信じない人たちには、天皇に逆らうと、祟りがあり痛い目にあうぞと言った脅しです。 痛い目とは、個人的に祟られ、身内に不幸が起こるとか、天地異変の災害が起こり、とても地上界の人間の力の及ぶところでないと脅す事です。実際、古代から日本人は祟りを非常に恐れており、特に天皇の祟りにまつわる話は多いのが特徴です。

現代の、我々の家庭に於いても、まだ法律や社会のルールを知らない幼稚園児は強く、親の言う事を聞かないので、閻魔大王の話を持ち出して、子供を脅すのに似ています。また、神話に於いても、いきなり創作し、誰も知らない話では、信じてくれる物ではありません。

と、まあここまではよくまとまった記事なんですが、記事のあちこちでこの神話が「ギリシャ神話」をルーツにしていると述べている。確かに、分析してみるとギリシャ神話と話がほぼ一緒なんです。「おおっ!?それって、日本の神話は遥かギリシャから来たのか!?」と思えるくらい。

具体的に言うと:
日本書紀
天照大神 = 太陽と豊穣の女神 、弟スサノオ = 海、嵐、地震と武の神
ギリシア神話
デーメーテール = 太陽と豊穣の女神 、弟ポセイドン = 海、嵐、地震と武の神

日本書紀 
弟が皮を剥いだ馬を投げつけ、驚いた女神の一人が機織の尖った道具で性器を突き
刺され死んでしまう。
ギリシア神話
姉が馬に化けて逃げようとするが、弟も馬になり姉を犯す。

日本書紀  
天照大神は怒って、天の岩戸に隠れる。
ギリシア神話
デーメーテールは怒って、山の岩屋に隠れる。

日本書紀 
世界は暗黒になり、真っ暗な夜が続く。
ギリシア神話
世界は真っ暗になり、作物が生えなくなる。

日本書紀 
一系を案じた神々が、洞窟の前でお祭りをし、騒ぎ立てる。 天照大神が何事が起こったのかと思って、天の岩戸を少し開けたところ、力持ちの神様が引き出し、世界に光が戻る。
ギリシア神話
神様の王ゼウスが、デーメーテールの隠れている場所を見つけ、3人姉妹の女神を送って、岩屋からでるよう説得。 デーメーテールが機嫌を取り戻し、外にでると、また作物が生えるようになった。

「なるほど!日本書紀は日本のオリジナルのお話ではなくて、ギリシャから延々と伝わってきたお話だったのか!」と思われるでしょう。

・・・ところが、実際にはその話は別の見方も存在します。

世の中の学問には不思議な学問が存在しまして、その名も「神話学(Mythology)」。神話の起源・成立・発展・分布・機能などを研究する学問で、元々の名前は「比較神話学」といわれていることからも分かるとおり、一つの神話を深めるのではなくて、二つ以上の神話を比較して仮説を打ち出していく学問です。

で、現在の神話学の「神話の起源」については、どこかの一点から発生した神話が全世界の神話の基と言う風に解釈するのではなくて、人間という存在そのものが神話を生む機能を持った装置だというのが一般的です。これはフランスの人類学者・レヴィ=ストロースが提唱した「構造主義」という概念から導き出された結論です。

この人が行なったことは神話を比較し、歴史的に見てどのように分布したのかと考えたのではなくて、構造的に分析したところに最大の特徴があります。歴史とか分布とか発展なんかをとりあえず横においておいて、神話構造がどのようになっているかだけを抽出して分析したら見る見るうちに各国・各地域の神話が関連を示した。

(少し見にくいのですが)具体的に書くと、
姉(兄)⇒上⇒善← , , , , , , , , , , , , , →上
 , , , , , , , , , >―混同―混乱⇒分離<
弟(弟)⇒下⇒悪← , , , , , , , , , , , , , →下

こうなります。また、これらを(A)・(abc)と区切ってみると
(A) , , , (a) , , (b) , , (c)
 , , , →兄(+)―上(+)―善(+) 
兄弟<, ↑↓ , , ↑↓ , , ↑↓
 , , , →弟(-)―下(-)―悪(-)
(祖父江孝男「2004」)
といったように、神話の成立した地域や話の内容が違えど、(abc)の性質を入れ替えるだけでほとんど全ての神話の構造に当てはめることができてしまう!年代・地域・気候・環境が違えど、この傾向は普遍的に存在します。

どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか?

一つの仮説としてユングの心のモデルがあります。心を大まかに分けると「意識」と「無意識」で構成されている。「無意識」はさらに二つに分けた表層の部分を「個人的無意識」と言います。これは何かというと一人ひとりが体験してきた個人的な記憶の集積です。その下の無意識の深層に「集合的な無意識」がある。個人ではなくて、人類が持っている記憶のようなものです。人間にはたいてい目が二つ、足が二本あるなど、体のスペック(構造)は共通している。これを心のほうにも当てはめてみると、心の構造も人間だったら同じようなものに違いないという考え方。これを「集合的無意識(普遍的無意識)」と呼ぶ。

「これはもしかしたら誰に習うというわけではないのだけれど、人間の心自体にそういうモティーフをつくり出す構造があるのではないか。そして、その構造が僕たちのそれぞれの考え方に見えないところでものすごい影響を与えているのではないか」というのが有史以前の基本的な発想で、archetype(元型)とユングは呼ぶ。

このことにより、神話は一つの話から発展していったわけではなくて、同じ「心のスペック」を持った人間が世界各地の土地の風土を租借して作っていったのが世界中に散らばる「神話」だったのである!神話の構造解析によって実は人間は身体の構造の類似性だけではなく、精神世界においても神話という形を通して類似性が表面に出てくる!

実はサンシンは最近こんなことばかり考えていました・・・。
勉強に戻ります・・・。

サンシン

参考文献・資料(五十音順):

橋爪大三郎「はじめての構造主義」講談社現代新書 2004
祖父江孝男「文化人類学入門」中公新書 2004
宮台真司「絶望 断絶 福音 映画 -社会から世界への架け橋」メディア・ファクトリー 2004

かんたん神話学「かんたん神話学:インデックス」 2006・05・02
卒業生は今「占いの宇宙1占いの宇宙2(鏡リョウジ)」国際基督教大学ホームページ 2006・05・01
Renaissancejapan「天皇と記紀神話」 2006・05・01
ウィキペディア「元型:archtype」 2006・05・01
同上「神話」 2006・05・01
同上「Mythology(神話学)」 2006・05・01
同上「クロード・レヴィ=ストロース」 2006・05・01
同上「カール・グスタフ・ユング」 2006・05・01
2006/04/30のBlog
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皆さんの協力のおかげで、新しいブログの設立は四月中にできそうです。ありがとうございます!

オープニング・スタッフについてはボク・サンシンりおちゃさんと芦田っちさんが立候補されましたので、スタッフとして任命します。今後、ログイン名・パスワードの決定、名簿管理の表作り、デザイン・ロゴ・企画立ち上げなどの大まかなグランドデザインを決定するのに尽力していただきますので、よろしくお願いします!

そして、ブログのデザインについてはnaomiさんの協力を得て作成していこうと思います。naomiさん、よろしくお願いします!

そして!naomiさんにほろ酔い倶楽部【仮バナー】を作っていただきました~♪
ありがとうございます~♪

サンシン
ヤフーニュースの記事:

<鳥インフルエンザ>英国からの鳥肉輸入を停止

実は知らなかったんですけど、日本はイギリスから相当量の鶏を輸入しているそうです。この間、イギリス(スコットランドの田舎)で鳥インフルエンザに感染した白鳥が見つかって、こっちでも少し騒ぎになっていたんですが、まさか日本にまで影響があったのか・・・と思っています。

全文はこちら
 農林水産省は29日、英国政府から鳥インフルエンザ発生の連絡があったとして、英国からの生きた鳥と鳥肉の輸入を一時停止した。ウイルスはH7N3型で弱毒性とみられるため、発生した地域を除き短期間で解除される見通し。
 日本で飼われている鶏の大半は海外から輸入した鶏やその子で、日本への最大の供給国が英国。05年に英国から輸入された生きた鶏は約37万5000羽で、輸入の37%を占めた。もし輸入停止が長期化すると、国内の養鶏農家に影響が出る。(毎日新聞)

農林水産省の発表サイトはこちらから

スコットランドで見つかったウィルスは人間への感染&致死性がたかいH5N1型ではなく、弱毒性のH7型なので、そこまで心配するものではないと思っていた。

BBCのサイトでもインフルエンザの発見当時から特集ページを開設して、多方面の専門家からアドバイスを掲載している。彼らの主張で重要なのは「パニックになるな!」、「人間への感染は非常に低い」、「だが、死んだ鳥や糞などには触らないこと」、などパニックになりつつある市民に対して過剰に不安になるな!と語っているBBCは評価できる。

日本にもこうしたページは存在しますが、ヤフーなどのポータルサイトではあまり見たことがありませんね。もしかしてあったらごめんなさい!(参考サイト・動物衛生研究所)

トリインフルエンザ(ウィキペディア)
東南アジア各国で11月までに鳥インフルエンザで62人が死亡している。また、アジアでは2003年後半以降、133人が高病原性鳥インフルエンザに感染し、68人が死亡している。現時点(2005年11月30日)では人と人との感染は確認されていない。

(中略)

日本国内での鳥インフルエンザ状況

2005年6月に、埼玉県で鳥インフルエンザウイルスが見つかったことから、農水省は全国的にウイルスの感染の見直しを実施した。茨城県から31カ所の養鶏場でウイルス感染暦を示す抗体陽性反応が確認された。そこで全国的に各養鶏所の鶏数十羽から気管の粘液などを採取し、ウイルスの有無を2週間毎に計6回検査する監視プログラムを実施した。2005年11月15日までに、茨城県の国内大手のイセファーム系列の採卵養鶏場(約77万羽)でウイルスが検出された。農水省の監視プログラムを実施した養鶏場から鳥インフルエンザウイルスが検出されたのは国内で初めてである。
2005年12月9日、茨城県で新たにH5型の抗体陽性が確認された。以前からの検査には、検査材料を若い鳥からのみ採取していたことが発覚した。県は告発も視野に入れて検査に当たっている。

トキに与えた影響

日中でトリインフルエンザが流行したため相互に鳥の輸入が禁止され、近親交配の弊害を避けるために予定していた日中のトキの交換が延期された。

厚生労働省にあった鳥インフルエンザに関するページにはWHOで確認されているH5N1型に感染した鳥が発見された国、感染者が出た国、感染した国で清浄化した国の簡易マップが紹介されている(こちら・PDF
また、こちらでは各国の感染者数のグラフが掲載されている(参考サイト・国立感染症研究所)それによると、ベトナム(42人)・インドネシア(24人)・タイ(14人)・中国(12人が感染で死亡)で致死性の高いインフルエンザが猛威を振るっている。

前半はイギリスと日本のトリに関する情報。後半は参考資料の紹介でした。

サンシン
2006/04/27のBlog