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~三線の響きをイギリスより~
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2007/11/26のBlog
[ 03:22 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]
大山祗神社

全国の山祇神社、三島神社の総本社。

山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社




サンシン
2007/11/25のBlog
[ 18:17 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]




サンシン
2007/11/24のBlog
[ 15:28 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]
耕三寺はまだ続く





サンシン
[ 15:25 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]




サンシン
[ 15:18 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]
耕三寺a




サンシン
[ 15:09 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]
「くじらのシンボル」だそうです。

一瞬なんだかわかりませんでしたよ。

わかった時は赤面(笑)
[ 15:07 ] [ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]
久しぶりに写真のアップ
因島村上水軍跡





サンシン
2007/11/17のBlog
皆様、お久しゅう。サンシンは元気ですよ。
前回の更新からちょうど一ヶ月たちましたが、そろそろ再開します。

鏡 響子さんの「生き難い世」で人生の価値について語られていました。現在の価値が徹底した実利主義に基づいていると言う記述を見て自分なりに考えることがありまして、今回はそこを書いてみようかと。ただ、この記事は鏡さんの記事とは関係ないのでTBしません。参考までに。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

最近は動画を見るサイトがYoutubeからニコニコ動画に変わりつつありますが。。。

今ではもうありませんが、むかし「爆笑問題のススメ(Wiki)」という番組がありました。深夜番組と言うには少し早すぎる時間帯でしたが、爆笑問題の二人と眞鍋かをりが毎週一人ずつ作家をゲストに呼ぶ番組。SF小説家から官能小説家、映画監督もする作家まで様々なジャンルの話をしていた。個人的には番組の終盤に登場する「今週のあとがき」が大好きで、毎回腹を抱えて笑っていました。

ネット時代に突入してとっても便利になったと感じるときは、イギリスにいるにもかかわらず、ネット上で過去のテレビ番組が見ることができるという時だろう。いままでいくつか懐かしい番組や大好きだった番組を動画サイトで見てきたが、この「爆笑問題のススメ」もネット上にアップされていたのを見て早速見てしまった。その中で「爆笑問題のススメ~岩崎究香(視聴には無料登録が必要)」を見てみて色々と衝撃を受けた。
(写真は動画のキャプチャー)

岩崎究香さんは元々京都の芸子さんで、引退した今は作家として祇園の世界を紹介している。彼女は芸子の中で100年に一人といわれた伝説の存在であり、祇園の最高傑作とまで言われた(らしい)。最近では映画「SAYURI」で主人公の女の子が明らかに岩崎さんからヒントを得たのではないのかと訴訟問題まで発展したみたい。(参考サイト

番組の前半はどうでもいい戯れが放送されてましたが、聞くべきところはむしろ後半部分。岩崎さんはご自身で価値のない人間だと考えていたようで、それを克服するために落語の名人である桂文楽や古今亭志ん生の落語を何回も何回も聴いて、そして自分でその落語をお客の前で披露するまで練習したそうです。古典落語の「寝床」とか「火焔太鼓」などを習得することで、芸子の世界で培われてきたものの上にさらに自分だけのオリジナルの「芸」を作り上げる努力を惜しまなかったそうです。

なぜそこまでしてそうした接客を提供し続けたのか?お座敷で客に披露するのは「芸」であり、その「芸」を楽しみに来る「粋な客」でその世界(花柳界)は成り立っていた。「芸」というものはその「場」、その「瞬間」の間であり空気であり、環境そのものだった。むかしの経済界の方々はその「場」の価値に重きを置いていた。例えば、自分の会社が発展すればするほどの「芸」の世界に財を還元してきた。しかし、現在に至るにそのような風潮は廃れていき、もはやないに等しいらしい。お座敷での「芸」を含めて芸術や、文化に財を還元しなければ、世の中はただお金だけが右に左に移動するだけ。そこには琴線に触れるような体験は到底生まれてこない。そうなると人はがさつになり、息苦しくなると語っている。

人間にとって何に「価値」があるのか?爆笑の太田はこう語る。人間にとって一番価値があるのは「人間とはこういう存在なのだ」、「人間の業とはこういうものだ」ということを訴えかけている・本当に実感できるもの、芸、芸術、文化に最も価値がある。ただ、現代の生き方を見てみると徹底的な実利主義が世の中を覆っている。この世の中でもっとも価値がある行動は利益を上げること、お金をもうけること。問題はその先で、利益主義が何かを達成するための手段ではなく目的になっているこの状況であると。

何がそんなに問題なのか?人間はどうして生きているのか、どうして生きていいのかといった思想・哲学を含めた文化や芸術がないと人間はお金を介在させているだけの存在に成り下がってしまう。そこにはなにも創造性や生産性がなく、あたかも人間が機械になったような存在になってしまう。そうした生き方は果たして「人間的」なのか?

「芸人」としての爆笑問題・太田と元「芸妓」の岩崎さんはこうした生き方に危機感を持っている。彼女の言葉を借りるならば、

「無くなってしもたらね、もう同じもの作りしまへん」

自分自身とは何か。自分が何に所属しているのか。自分が享受している文化は何か。自分はどこの生まれ(お国)の人間か。その答えはほぼすべて文化にあり、芸術にあり、「芸」にある。だからそれらのものは人間にとって一番の価値がある。それはお金があっても決して変えないもの。無くなってしまったらお金があっても同じものは二度と作られることはない。

今テレビに出ている「芸人」にどれくらいこうした考えを持った人がいるかはわからないが、少なくとも「芸」をしている「芸人」や「(鍛え上げられた)芸」を本と言う作品にまとめる元「芸妓」作家がいることを自分は評価したいと思う。少し前から自分が落語を聞き始めたこともあるけど、やっぱり落語の中には「人間とは」、「芸とは」、「しぐさとは」、「笑いとは」、「緊張とは」、「生き方とは」といった答えやヒントになるモチーフが山のように出てくる。落語の中の登場人物もドジな人、とんでもない人、マジメな人、自堕落な人、遊び人など沢山の人が出てくる。また落語家(噺家)も千差万別で、完ぺき主義者、翻弄名人、力強い人、品格のあるしゃべり方をする人など、これもまたどの人も味がある。

落語家に限らず、芸人でも漫才は立派な「芸」だし、コントも立派な「芸」になりうる。緊張と緩和、しゃべりのスピード、芸人のテンション、ネタの練り込みなど、「笑い」を提供する姿勢は文化であり芸術にすらなりうるだろう。

サンシンの趣味はいくつかあるが、考えてみるとどれもこれも「芸」、「芸術」、「文化」に繋がってる。三線は沖縄の文化、闘牛は新潟の山間の文化、映画は映像と言う芸術、アニメは物語と技術という芸術、そして落語は「芸」であり「芸術」であり、「文化」である。沖縄音楽は聴いているだけで陽気になるけれども、歌いながら歌詞を注目すると沖縄の生活や文化が見えてくる。闘牛は牛が繰り出す技の「芸」もさることながら闘牛を支える集落の人たちの生活や行き方は生きてる上で本当に参考になる(徳之島と越後との比較など)。映画はもう語ることすら陳腐になるくらいたくさん語られてきた映像表現という文化。アニメも映画とは一味違う表現、演出があり、どれもこれも一軒の価値がある。落語は言わずもがな。

飛んで消えるさかい芸術なんどす。
「お金で買えないもの」でなく、
お金に変えられない価値のあるもの」。 
by 岩崎究香の「"祇園"のススメ」

「お金は目的ではなく手段でしかない」

・価値があるものをメンテナンスするためにお金を使う。(手段)

・利益を上げることが至上命題(目的)

「何に価値がある」かは人によって違うのはもちろんだろう。ボクは「芸」や「芸術」、「文化」に価値があると思うし、人によっては「家族・子供」と答えるし、「(もうありえないかもしれないけど)会社」だと答える人もいるかもしれない。「車」「家」「女(・男)」「旅行」「ボランティア」。どれをとってもその人にとってそれはそれぞれ大事なものだろう。また別の人はそんなラグジュアリーなんかよりも「(安定した)生活」と答えるだろう。

現代の徹底した合理主義、利益主義は近代化した社会では必然の流れかもしれない。そうした努力により人間は今まで進歩し続けてきた。けど、本当に成熟した社会、住みやすい社会は芸術や文化により価値を置いた生き方が賞賛されるような社会が幸福な社会ではないのか。そのためには活動するのに十分な「時間」と「資金」が必要なのは言うまでも無い。

が、、、。

いまの社会状況を見る限りはそれには程遠いものに思える。それはもちろん、個人的な問題もあり、社会的な問題もあり、国家的な問題もあり、地球規模の問題もあったり幸せな社会を目指すためには乗り越えなくてはならない壁は無数にある。ただ、個人としての志向性を言うのであれば、やはり自分とは何か、文化とは何か、アイデンティティーとは何か、社会とは何かを再帰的に思考し行動したほうがいいだろう。できれば徹底的に考えて合理的な手段で行動するのが一番いいんだろうけど。

それでは、また。

サンシン
2007/10/17のBlog
[ 12:45 ] [ イギリス生活 ]
人生の転換期ってあるもんですね。

今回、ハッキリと実感しました。

意味不明の文章ですが、
サンシンの心にはしっかりと刻み込みました。

これからも前向きに生きていきますよ。



サンシン
2007/10/10のBlog
サンシン的「なぜ人を殺してはいけないのか?」論の序論。の続きです。

鏡 響子さんの「響子の人生相談 4」とツナミンさんの「倫理問答の意味・無意味」に再びTBします。

前回の記事では「なぜ人を殺してはいけないのか?」の言説が97年の酒鬼薔薇事件から出てきた質問であるというところから出発していまの20代半ばの世代が中高校生時代に受けた社会的プレッシャーの話をしました。今回は本論と言ってるからには本気の答えを書いて見ます。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

提起された問題は:
どうして人を殺したらいけないのでしょうか。(倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください。)

鏡さんのブログのコメントに簡単に書きましたが、サンシン的回答としては以下の通りです。

(社会学を習っている人間として答えを言うと)
「人を殺していいというルールが成立した歴史は無い」
ただあるのは
「仲間を殺すな」・「仲間が攻撃されたら命をかけてでも守れ」のみ。
そして歴史的な変遷で変わったのは「仲間」の定義(線引き)のみ。
仲間の反対語は敵ですから。
敵(仲間以外)ならば人も動物も微生物も変わりません。

これが答えです。

仲間を殺すな」「仲間が攻撃されたら命をかけてでも守れ」というルールは有史以来、どの共同体もどの社会もどの国家も守ってきたルールであり、基本的に人を殺す行為は仲間の定義によって執行されたり回避されてきた。過去に「死刑制度が存在する理由。」でなぜこの二つのルールが作られてきたのかの過程を書いたことがあるのでここで引用します。

原始的な部族社会の時代ではどの社会でも例外なく二つのルールで社会内や社会外=他の部族との関係を結んでいた。それは「仲間が攻撃されたら命をかけてでも守れ」と「仲間を殺すな」だった。

「仲間が攻撃されたら命をかけて守れ」とは、他部族が自分たちの利益のためや好戦的な性格を持っていて、自分の部族がやられたとする。基本的にアナーキーの状態(無政府状態=衝突を緩和させるための軍事や交渉能力を持った大きな統治権力の不在)だから、やりたい放題。であるがゆえにやり返さなかったらやられっぱなしになってしまい、自分たち自身がやられてしまう。これに相当する例はイスラム教の外ジハード、一般的にジハード(聖戦)と言われているムスリムのすべきことの一つ。しかも、それは自分たちの部族を守るための最低限のルール。
二つ目の「仲間を殺すな」には大きく分けて二つ理由がある。それは肉体維持の保障精神維持の保障。肉体維持は、例えば男の社会成員なら狩をする時に仲間と一緒じゃないと獲物を獲れないとか、自分の部族を一緒に守るとか、女の社会成員なら子孫の出産と子育てを担っているから、どちらが欠けても自分自身が生きていけない。精神維持は、その社会の仲間は自分が自分であるための映し鏡であり、自分のアイデンティティーを保証してくれる存在だから、仲間を殺すということは、狩をする仲間を失うだけではなく、自分が自分であると規定してくれる存在まで消し去ることだから、自分で自分の存在(存在意義)を殺していると様なもの=自殺行為。

一番最初の部族社会(1)はこのルールで運営されていた。逆に言えば、これ以外のルールを持っていた社会は自然淘汰されていったということ。例えば、人道的な理由から人を殺すことなんて出来ない部族(我々を攻撃してくる相手も我々と同じ人間ではないか!!)、逆に殺しが大好きで大好きでしょうがない部族とかは後世に子孫を残せなかったということ。最終的にこの二つの大原則を持った部族が僕たちの先祖様として存在したことになる。

要するに社会を形成するに当たってこの二つのルール以外のルールを持つ部族は淘汰されてきただけに過ぎない。ただ、社会が複雑化・複合化していく過程で実は「仲間の定義」だけが広がったり狭くなったりしている。

例えば、部族社会なら自分の部族以外の部族は仲間ではないから敵になる。飛鳥時代なら仏教肯定派にとって仏教排斥派は敵になる。平安末期には源氏にとって平家が敵になる。関が原の合戦では東軍の人間にとって西軍が敵になる。幕末では維新派にとって京都の新撰組は敵となる。しかし、現在の日本人の感覚から見たら「同じ日本人ではないか」ということになり、日本人同士で戦っているのが馬鹿馬鹿しく思える。

ただ、今でも日本人の中には中国人・韓国人のことが心底嫌って攻撃している人がいる。それに呼応して中国人・韓国人の反日の人たちが攻撃し返し、戦争になったとすると、たぶんアフリカに住んでいる人からすれば、「同じアジア人なのにどうして仲良くできないの?」と思われるかもしれない。また人によっては「クジラ・イルカ」は(人間にも似た)高度な知能を持った動物だから保護対象にすべきだ!と言う人。「犬・猫」は人間にとって家族にも似たペットだから食べるなんてことは到底できない!と思う人もいる。

例えが判り辛かったかもしれないけど(苦笑)、要するに仲間の範囲が歴史によって、思想によって、共同体によって、家系によって仲間の定義(線引き)が違ってくるが、基本的に「仲間を殺すな」「仲間が攻撃されたら命をかけてでも守れ」というルールが根底にある。仲間の定義(線引き)自体も人によって、思想によって、共同体によって、社会によって、国家によって、歴史によって、宗教によって「恣意的に決定」されるものである。逆に言えば、一度でも「敵(仲間以外)」と定義されてしまえば、同じ人間だとしても守ってもらうことがないし、時として攻撃される場合がある。そして、敵の範囲は人間に留まらず、動物にも植物にも微生物にも気候にも自然災害にも地球にも、、、と際限なく広がっていく。

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こうした人間の「業」とも言える行為(仲間の線引き)に昔から宗教は挑み続けてきた歴史がある。

世界的な宗教には多く二つの流れがある。一つが「アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)」で、もう一つが「仏教」。実はこのどちらの宗教も「仲間の定義(線引き)」について明確に言及した部分が存在する(らしい)。

「アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)」が共通して信仰している本が「旧約聖書」であり、この中には人間の業に対する戒めをあらわす物語がある。

創世記:「知恵の木の実と原罪(に関する物語)」

神様が創ったエデンという土地にアダムとイブがいた。ある日、蛇にそそのかされて食べてはいけない知恵の木の実を食べてしまった。これに怒こった神様がアダムとイブをエデンの土地から追放した。。。
この物語には実は宗教的に深い意味が存在した。

神様がアダムとイブをエデンの地から追放したのは知恵の実を食べたからではない。エデンには「知恵の木」と「生命の木」が存在した。神様はそのどちらの木の実も取ってはいけないと言っていたのにアダムとイブが「知恵の木の実」を食べてしまった。その時、神様は考えた。知恵の木の実を食べた二人は将来的に「生命の木の実」も食べに来る可能性がある。「知恵」がある人間が「(永遠の)生命」を手に入れるということは、それはすなわち「人間が神(知恵+生命)になる」ことに他ならない。そうなれば、「神様(社会を超えた世界的存在)」が複数出てきてしまい、世界が滅茶苦茶になってしまう。そう考えた神様が下した決断が知恵の木の実を食べてしまった人間のアダムとイブを「生命の木の実」から遠ざけるため、エデンの土地から追放した。

神様が唯一の存在である必要性から追放したが、さらに神様は二人にこう言った。

「知恵」は「原罪」であると。

知恵を持った人間と言う存在はいつでもその知恵を使って「仲間」「敵(仲間以外)」というような線引きをしてしまう存在である。そうした線引きはいつも恣意的であり、線引きをした内と外で争いが起こる。これは知恵を手に入れた副産物であるが、それが原因で相手を滅ぼし、自分たちが滅びる可能性がある。だから「知恵」は「罪」なのだ!「知恵」により判別なり区別した行為自体が「恣意性」に満ちたものであり、知恵そのものが罪だという意識を持たない限り人間は変わらない存在だ、という戒めの話。

これが「原罪」の物語の本質である。決して「知恵の木の実を食べた行為=罪」ではない。人間はこのことに自覚し、生きていくべきである、というのがアブラハムの宗教には共通して認識されている(はず)。

仏教に関しては専門外なのでここでは割愛させていただきます。
(「アートマンの永続性(霊魂の不滅)」を否定することで現世のあらゆる差別(上下関係・線引き)が否定されるらしいです)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

「仲間の定義(線引き)」は人間にとって永遠のテーマです。なんてったって、世界的宗教が共通してこのことについて言及してますから。ただ単純に「仲間であるか/ないか」で殺人ができるかが決まるんです。

簡単で単純な例を一つ。

元オウム真理教の教祖・麻原(現・死刑囚)はなぜ殺されるのか?彼は自らが興した教団でテロを起こし、日本国民を殺した。この時点で彼は敵(日本人を傷つけた人=仲間ではない人)となったから。同じ人間にもかかわらず、彼は殺される。。。

あえて言うと、「どうして人を殺してはいけないのか?」という質問に答えはない。それは人が恣意的に仲間にも敵(仲間以外)にもなる可能性があるから。ただ覚えていてほしいのは、その線引きはいつ、どんなときも「恣意的に決定」されるものである。人々の感情で決まる時も、法律で決まる時もある。質問の補足に「倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください」と書いてありますが、倫理も法律も宗教も感情も何かと何かを線引き(=恣意性)のための概念なり制度なり思想に過ぎない。また、人を殺す理由も「恣意的に」決められる。感情的、政治的、経済的、宗教的、軍事的、法律的になんだかんだで理由がつけられる。

ゆえに「原理的には仲間/敵(仲間以外)の差異でしかなく、理由は後付で(恣意的に)どうとでもなる」が答えですね。

以上です。


(答えになってるかな~。。。)

サンシン
鏡 響子さんの「響子の人生相談 4」とツナミンさんの「倫理問答の意味・無意味」にTBします。

ちょうど2~3週間前に鏡さんのブログで「どうして人を殺したらいけないのでしょうか。(倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください。) 」というはてなで交わされた質問に対する彼女なりの回答を見ました。正直言って、「倫理」「法律」「宗教」「感情」に訴えないで殺人を否定しなければならない論理はないでしょう。回答はものすごく難しいものになるだろうし、もしかして答えは初めから存在しないのかもしれない。ただ、はてなのサイトでの回答も鏡さんのブログに寄せられたコメントも正攻法にこの質問に責めているように感じました。今回の記事では個人的な回答は控えて、周辺的な事態を整理し、次の記事で本格的な回答を答えていきたいと思います。

少し歴史的な話をしましょう。

人をなぜ殺してはいけないのか?」という質問が登場したのは97年の神戸で起きた連続児童殺人事件(通称:酒鬼薔薇聖斗事件)が直接のきっかけです。当時の中高生の意識調査で犯人の少年Aが書いた犯行声明分で自分のことを「透明な存在」だと発表したことに親近感を覚えたと答える割合が思いのほか多かった。これを受けてテレビではスタジオでコメンテーターや作家を囲んで中高校生と座談会をした時にこの質問をした学生に対して何一つ言えなかった「知識人」という図式が当時は衝撃だった。その後、雑誌や論壇誌が「殺人を否定する論理」をさまざまな形で展開したが、どれを見てみても「倫理に反する」「法律で禁止されている」「相手が可哀想だろう」くらいの理由しか提示できていなかった。こうした流れは2000年に「キレる17歳」という言葉が流行るまで生産されてきた。ただ、残念ながらこれ以降はアメリカで発生した9・11事件(同時多発テロ)以降は過去の忘れられた議論に成り下がっていった。要因としては「何がかんだ言ったって、いつ死ぬかわからないし、力があるやつが勝つんじゃん」という雰囲気が世界的に覆ったからだろう。

現在、ボク・サンシンは24歳です。ボクら前後の年齢の人は実は社会に対して強い不信感を抱いていると個人的に感じています。理由を説明しましょう。1997年当時、酒鬼薔薇事件の犯人は中学3年生(15歳)でした。ボク自身は中学二年生(14歳)でしたが、当時の衝撃は今でも忘れていません。15歳の犯行だったということも衝撃でしたが、どちらかというとその後に展開された「少年=モンスター」というイメージがマスメディアを初め、世間で爆発的に広がったことでした。当時、中学生や高校生を持つ母親たちが「あんな事件があったけど、あなたのところは大丈夫?」といった言説がこれでもかというほど多かったこと。ワイドショーにモザイクをかけながら登場する母親だけに留まらず、ドラマでも映画でも少年を扱った物語にはある種、枕詞のように使われていた(消費されていた)言葉だった。この時に中学生だった「他の普通の生徒」が受けた社会的な傷は相当なものだと思います。「モンスターは犯人だけだろ。なんで俺らまで言われなくちゃならないんだ!」と思った同年代の人間がいることは知っていますし、ボク自身も罪の意識をするような心情があったのを覚えている。

そしてそこから2000年にかけては「キレる17歳」という言葉が流行した。確かに佐賀県で少年がバスジャックした事件があり、愛知県ではバットで家族六人を殴り殺した少年がいたのは事実です。そしてまた「少年=モンスター」という図式が再登場しました。97年当時に14歳だった人たちは2000年には17歳になっています。すなわち、ボクを含めた現在23~25歳の人たちは97年に一度目の、2000年に二度目の衝撃を味わった世代です。衝撃とはさっきから言っているように、犯人は一人二人なのにも関わらず、僕らの世代の全体が「モンスター」かのような扱いを受けたことに他ならない。

世間的には世代論は廃れたという言説を良く見かけます。確かに一つの事象だけを見てその世代のことを語ることが効果がないのは良くわかっています。しかし、個人的には世代論がまだまだ有効だと確信しているのは過去に社会から二度も傷を負わされた人々がボクの世代では存在している事実に立脚しているから。一人二人の少年が起こした犯罪でその世代のほとんどが同じような気質を持っているといった話は絶対に認めませんが、その流れにマスメディアや世間が便乗した結果、その世代に対して異常なプレッシャーや傷を負わせてきたという事実は無視できないと思っている。

ここからはボク自身の話をしますが、個人的に「社会が信じられない」と心から思った時期は三回ある。一度目は97年の酒鬼薔薇事件以降の「少年=モンスター」という図式が登場したとき、二度目は2000年の「キレる17歳」という言葉が登場し再び社会からのプレッシャーが強くなったとき、三度目は2001年の9・11事件のとき。一度目と二度目は同じような体験でしたが、三度目の体験はグローバルに経験した感覚でしょう。ボク自身は宮台真治の言説や本があったために彼の定義で言う「脱社会化した存在」にならずに済んだと思っています。不確かな情報なので確信的なことは言えませんが、ボクらの世代に「脱社会化した人」や「メンヘラー」が多く存在します。彼らがそうなってしまったのはある種、社会からの承認が世代的に極端に少なかったからだろうと推測しています。「(社会が信じてくれないから)社会が信じられない」と思っている人が取る行動は二つに一つ。一つは薬の力を借りてうつ状態を抑えながら生活する(メンヘラー)。もう一つは自分の心自体を社会の中に置かず、カルトや自分自身で作り上げた世界に閉じこもる(脱社会化)。こうなるとメンヘラーも生きていくのがキツイが、脱社会化した人間をもう一度社会に戻そうとするには一見無駄なようにも見えるような大変な努力が必要になってくる。こうした社会が住みやすいはずがない。

70代の人が語るべきことがあるように、20代にも語るべきことがあるはず。個人的には上で語ってきたような経験を他の世代に語りたい。でなければ、ボクらの世代に対する理解も寛容さも出てこないと思うから。

それでは次回、「なぜ人を殺してはいけないのか」論の本編を書いてみます。

サンシン


補足:歴史的な話をしてたら世代論になってしまった。。。
まあ、考えて書いているわけではないんでね。話はよく飛びますよ(笑)
次回は本気で答えます。