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2007/12/28のBlog
[ 02:55 ]
[ ┣戦争・テロ関連 ]
<パキスタン>情勢再び混迷か ブット元首相暗殺で<ヤフーニュース>
8年半ぶりにパキスタンへの帰国を果たしたブット元首相は、相次ぐ暗殺の企ての中でついに命を落とした。北部ラワルピンディで27日、有力野党「パキスタン人民党」の集会終了直後に起きた。事件の背後関係は不明だが、自らを民主化のシンボルとして押し出していた元首相の死で、パキスタン情勢は再び混迷する可能性が出てきた。
パキスタン国内が混乱することは少し前からわかっていた。ブット元首相は、パキスタンの民主化を求める米政府の支援を受けて帰国し、ムシャラフ大統領との政権分担協議を水面下で進めていたことが原因だろう。首相・大統領とも親米家であり、現在の政権はアメリカの庇護の下に存在しているといっても過言ではない。
隣のアフガニスタンでのアメリカ軍の政策の失敗によってタリバン政権が復活したりイスラム過激派が国連・NATO軍に対するゲリラ活動を再開させ、現在のところパイプライン際の警備しかまかなえていないのが現状である。また、イラク国内の不安定化からくるイスラム教徒の反米への流れがイスラム国家全体に及び、パキスタン・エジプト・シリアなどの親米政権が今にも転覆しそうな状況が続いていた。
なので、80年代のイランで起こったイスラム革命とまではいかないまでもどの親米政権を持つイスラム国家はそういった革命が起こっても不思議ではない状態。だから、パキスタン国内のイスラム教徒たちの反米感情が高まるのがフェーズ1だとしたら、政府の高官が暗殺されるのが次のステージでしょう。そして、たぶん国内の混乱はここしばらく収まりそうもありませんよ。少し前からアメリカがイランにも戦争を仕掛けそうだという情報もいくらかは影響があるのでしょう。パキスタンにとってイランは隣国ですから。片や親米国家で、片やイスラム国家。親米政権に対するテロがあっても不思議ではないでしょう。
それとこの暗殺された元首相のご子息とはちょっとした縁がありまして。少し前にブリストル大学のボールルームダンス(社交ダンス)のチームに参加していたときの上級生に彼がいました。最初はそんなこととはまったく知らなくて、「ダンスのうまい兄ちゃんだなー」と思っていました。とある事情から他言しないことを条件に彼がパキスタンの首相の息子だということを知りました。もうとっくに卒業はしていますが、殺されたのは彼の母親ですからねー。心中ご察します。
参考:田中宇の国際ニュース
サンシン
追記です。
アメリカは幾つかのイスラム国家に対して民主主義を貫徹し、普通選挙をせよと圧力をかけています。それこそアメリカが求める「自由と民主」のために。しかし、イスラム国家は様々な理由をつけて選挙を延期させたりしている。
なぜか。
どの国家も反米感情がありすぎて普通選挙をしてしまうと親米政権が転覆してしまう可能性が大きい。イスラム教徒のよる国内の圧力とアメリカからの圧力と文字通り板ばさみになっている。イラン・イラク・イスラエルと隣り合わせの国は特に危ない。トルコはイラク北部を攻撃したことによってヨーロッパに近寄ろうとする路線を改めイスラム国家として方向転換をしたし、エジプトも政権がひっくり返りそう、イスラエルと争っているパレスチナにしても協調路線のファタハが事実上弱体化し過激派のハマスが政権をコントロールしている。パキスタンにいたっては国内がとてつもなく不安定のアフガニスタンと今にも戦争が開始されるのではないかと心配されるイランに挟まれている国家で親米政権と来れば政治が不安定化するのは仕方ないでしょう。
だから、パキスタンの政情不安定は必然なんです。
8年半ぶりにパキスタンへの帰国を果たしたブット元首相は、相次ぐ暗殺の企ての中でついに命を落とした。北部ラワルピンディで27日、有力野党「パキスタン人民党」の集会終了直後に起きた。事件の背後関係は不明だが、自らを民主化のシンボルとして押し出していた元首相の死で、パキスタン情勢は再び混迷する可能性が出てきた。
パキスタン国内が混乱することは少し前からわかっていた。ブット元首相は、パキスタンの民主化を求める米政府の支援を受けて帰国し、ムシャラフ大統領との政権分担協議を水面下で進めていたことが原因だろう。首相・大統領とも親米家であり、現在の政権はアメリカの庇護の下に存在しているといっても過言ではない。
隣のアフガニスタンでのアメリカ軍の政策の失敗によってタリバン政権が復活したりイスラム過激派が国連・NATO軍に対するゲリラ活動を再開させ、現在のところパイプライン際の警備しかまかなえていないのが現状である。また、イラク国内の不安定化からくるイスラム教徒の反米への流れがイスラム国家全体に及び、パキスタン・エジプト・シリアなどの親米政権が今にも転覆しそうな状況が続いていた。
なので、80年代のイランで起こったイスラム革命とまではいかないまでもどの親米政権を持つイスラム国家はそういった革命が起こっても不思議ではない状態。だから、パキスタン国内のイスラム教徒たちの反米感情が高まるのがフェーズ1だとしたら、政府の高官が暗殺されるのが次のステージでしょう。そして、たぶん国内の混乱はここしばらく収まりそうもありませんよ。少し前からアメリカがイランにも戦争を仕掛けそうだという情報もいくらかは影響があるのでしょう。パキスタンにとってイランは隣国ですから。片や親米国家で、片やイスラム国家。親米政権に対するテロがあっても不思議ではないでしょう。
それとこの暗殺された元首相のご子息とはちょっとした縁がありまして。少し前にブリストル大学のボールルームダンス(社交ダンス)のチームに参加していたときの上級生に彼がいました。最初はそんなこととはまったく知らなくて、「ダンスのうまい兄ちゃんだなー」と思っていました。とある事情から他言しないことを条件に彼がパキスタンの首相の息子だということを知りました。もうとっくに卒業はしていますが、殺されたのは彼の母親ですからねー。心中ご察します。
参考:田中宇の国際ニュース
サンシン
追記です。
アメリカは幾つかのイスラム国家に対して民主主義を貫徹し、普通選挙をせよと圧力をかけています。それこそアメリカが求める「自由と民主」のために。しかし、イスラム国家は様々な理由をつけて選挙を延期させたりしている。
なぜか。
どの国家も反米感情がありすぎて普通選挙をしてしまうと親米政権が転覆してしまう可能性が大きい。イスラム教徒のよる国内の圧力とアメリカからの圧力と文字通り板ばさみになっている。イラン・イラク・イスラエルと隣り合わせの国は特に危ない。トルコはイラク北部を攻撃したことによってヨーロッパに近寄ろうとする路線を改めイスラム国家として方向転換をしたし、エジプトも政権がひっくり返りそう、イスラエルと争っているパレスチナにしても協調路線のファタハが事実上弱体化し過激派のハマスが政権をコントロールしている。パキスタンにいたっては国内がとてつもなく不安定のアフガニスタンと今にも戦争が開始されるのではないかと心配されるイランに挟まれている国家で親米政権と来れば政治が不安定化するのは仕方ないでしょう。
だから、パキスタンの政情不安定は必然なんです。
[ 02:33 ]
[ 政治・社会 ]
社会学者宮台真司のホームページの記事から
「近い者が勝つ」過去を舞台に「遠い者が勝つ」という昨今の意味論
出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題
詳しくはリンクを参照してほしいのですが、短く書きます。
現在はなぜこれだけ「空気を読む」必要があるのか?
それはやはり「共通前提の崩壊」によるもの。他人との共通前提がないから「キャラ」を強要されたり、自ら作らなくてはならなかったり、場の雰囲気を壊す発言は控えたり、変に思われないように行動したりする。「対話」能力が培われていない日本人は空気という暗黙の縛りを作り出し、その枠に自分を収めて行動しようとする。
また「時間性の優位」がほぼ無くなった現代では共通前提の崩壊をより加速させる。例えば、昔は浮気をしても元鞘に納まっていたのが、今は浮気相手のほうがより親密な関係を築くことがある。昔なら時間性の優位が存在したから首に鈴をつけておくぐらいですんでいたが、優位ではなくなったからプライベート空間での疑心暗鬼が進んだと思われる。
サンシン
「近い者が勝つ」過去を舞台に「遠い者が勝つ」という昨今の意味論
出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題
詳しくはリンクを参照してほしいのですが、短く書きます。
現在はなぜこれだけ「空気を読む」必要があるのか?
それはやはり「共通前提の崩壊」によるもの。他人との共通前提がないから「キャラ」を強要されたり、自ら作らなくてはならなかったり、場の雰囲気を壊す発言は控えたり、変に思われないように行動したりする。「対話」能力が培われていない日本人は空気という暗黙の縛りを作り出し、その枠に自分を収めて行動しようとする。
また「時間性の優位」がほぼ無くなった現代では共通前提の崩壊をより加速させる。例えば、昔は浮気をしても元鞘に納まっていたのが、今は浮気相手のほうがより親密な関係を築くことがある。昔なら時間性の優位が存在したから首に鈴をつけておくぐらいですんでいたが、優位ではなくなったからプライベート空間での疑心暗鬼が進んだと思われる。
サンシン
[ 02:21 ]
[ 政治・社会 ]
一言だけ。
「アホらし」。
毎日ヤフーニュースを見ていますから日本で起こっていることは大体把握しています。J-CASTニュース : 「日本はUFO戦略欠如している」 海外での意外な反応を見て愕然としましたね。どこからこういう話が出てきたのかは知りませんが、政治家が未確認飛行物体(UFO)の話をするなんて。。。あのね~、「未確認飛行物体(UFO)」は認識のできない飛行物体という広い意味だから、例えば誰かが投げたボーリング球を別の人が見てボーリング玉だと確認できなければすぐにUFOになるんです。どうしてそれがUFO=宇宙人となるんでしょうね~、ミステリー研究家は。
本文の中でBBCがニュース配信していると言うことで探してみました。「UFOs exist, says Japan official」まあ、差し障り無いことしかかいてませんけど、いまの海外メディアで日本と言えば鯨の漁について色々と語られています。「Japan drops humpback whale hunt」日本のマスコミはまったく報道しませんが、日本がザトウクジラの捕獲を制限する・しないという話をBBC最近はずっと報道していました。欧米のメディアはクジラの漁に否定的ですし、グリーンピースなどの環境系NGOの活動なども報道されていますから、「賢い・無実のクジラ」が日本人によって捕獲されているとかなりイメージが悪くなるようなニュースが多いですね。政治的にも政府が制限すると発表する前後は環境系NGOが政府や捕獲船に圧力をかけていたり、日本の政府高官がアメリカに行く日程を変更したりと影響は出ているんです。損な時分に「UFO」ですか。こんな内憂外患な状況でどう見てもチープなスケープゴートにしか見えませんよ。
もう一つ本文の記事の中で、「日本ではUFO戦略が欠如している」と指摘がありますけど、少なくともイギリスでは政治家がUFOや宇宙人について話すことはありませんよ。1980年代にイギリスで「ミステリー・サークル」が出てきて国内のSF研究家やミステリー研究家だけではなく全国的にそういった未知なるものへの議論が盛んでした。今ではほとんど語りつくされていて今でもそんなことを言っている人は「未だに好きなのねー」という否定的な反応が待ってます。(ちなみに英語では「クロップ・サークル」と言います)結局、地元のオジサン達の悪戯だったと言うことで現在はそうした議論は収束しています。だから、イギリスで政治家がそうした言説があった場合、次の選挙で勝てませんね(笑)そりゃそうでしょう。そんな政治家に国政を任せたくないですよ。
まあ、真面目なことを語りますけど、UFOや宇宙人の話が出てくる背景には昨今のスピリチュアル・ブームが関係していますね。UFO・宇宙人も霊魂(霊・守護霊)のどちらも人間の手が届かない存在(概念)なんです。オウム事件から10年たちましたけど、今まではあの事件の反省からメディアではそうした精神世界の話はタブー扱いとなり自粛してきました。しかし10年たって事件の後遺症も薄れてきたこの時期になって一気に反動が来たんでしょう。メディアでの扱いはありませんでしたが、ある種の人間がそうした未知なる物・手の届かないものを望んでしまうので、そういった方向に流れるときの勢いは半端でなく強い。今の日本が危険な状況にあると思いますが、主な理由は(1)欧米にとってのキリスト教といったように広く認知された宗教が無いので反社会的なカルトが生き残りやすい、(2)日本人はどうも失敗を教訓として学ぶと言うよりも失敗は一刻も早く忘れる・やり過ごす習性があるので同じ轍を踏む可能性が高い。
だからいまからビジネスを始めようと思ったら霊感商法ですよ!(笑)過去の成功事例や失敗事例は本屋に行けば簡単に学べるんで、みっちり勉強して教祖に化けてみてはいかがでしょうか?(笑)
・・・もう遅いか。。。
逮捕者も出てるし。。。
サンシン
P.S.これは少し前の記事ですがアップしておきます。
「アホらし」。
毎日ヤフーニュースを見ていますから日本で起こっていることは大体把握しています。J-CASTニュース : 「日本はUFO戦略欠如している」 海外での意外な反応を見て愕然としましたね。どこからこういう話が出てきたのかは知りませんが、政治家が未確認飛行物体(UFO)の話をするなんて。。。あのね~、「未確認飛行物体(UFO)」は認識のできない飛行物体という広い意味だから、例えば誰かが投げたボーリング球を別の人が見てボーリング玉だと確認できなければすぐにUFOになるんです。どうしてそれがUFO=宇宙人となるんでしょうね~、ミステリー研究家は。
本文の中でBBCがニュース配信していると言うことで探してみました。「UFOs exist, says Japan official」まあ、差し障り無いことしかかいてませんけど、いまの海外メディアで日本と言えば鯨の漁について色々と語られています。「Japan drops humpback whale hunt」日本のマスコミはまったく報道しませんが、日本がザトウクジラの捕獲を制限する・しないという話をBBC最近はずっと報道していました。欧米のメディアはクジラの漁に否定的ですし、グリーンピースなどの環境系NGOの活動なども報道されていますから、「賢い・無実のクジラ」が日本人によって捕獲されているとかなりイメージが悪くなるようなニュースが多いですね。政治的にも政府が制限すると発表する前後は環境系NGOが政府や捕獲船に圧力をかけていたり、日本の政府高官がアメリカに行く日程を変更したりと影響は出ているんです。損な時分に「UFO」ですか。こんな内憂外患な状況でどう見てもチープなスケープゴートにしか見えませんよ。
もう一つ本文の記事の中で、「日本ではUFO戦略が欠如している」と指摘がありますけど、少なくともイギリスでは政治家がUFOや宇宙人について話すことはありませんよ。1980年代にイギリスで「ミステリー・サークル」が出てきて国内のSF研究家やミステリー研究家だけではなく全国的にそういった未知なるものへの議論が盛んでした。今ではほとんど語りつくされていて今でもそんなことを言っている人は「未だに好きなのねー」という否定的な反応が待ってます。(ちなみに英語では「クロップ・サークル」と言います)結局、地元のオジサン達の悪戯だったと言うことで現在はそうした議論は収束しています。だから、イギリスで政治家がそうした言説があった場合、次の選挙で勝てませんね(笑)そりゃそうでしょう。そんな政治家に国政を任せたくないですよ。
まあ、真面目なことを語りますけど、UFOや宇宙人の話が出てくる背景には昨今のスピリチュアル・ブームが関係していますね。UFO・宇宙人も霊魂(霊・守護霊)のどちらも人間の手が届かない存在(概念)なんです。オウム事件から10年たちましたけど、今まではあの事件の反省からメディアではそうした精神世界の話はタブー扱いとなり自粛してきました。しかし10年たって事件の後遺症も薄れてきたこの時期になって一気に反動が来たんでしょう。メディアでの扱いはありませんでしたが、ある種の人間がそうした未知なる物・手の届かないものを望んでしまうので、そういった方向に流れるときの勢いは半端でなく強い。今の日本が危険な状況にあると思いますが、主な理由は(1)欧米にとってのキリスト教といったように広く認知された宗教が無いので反社会的なカルトが生き残りやすい、(2)日本人はどうも失敗を教訓として学ぶと言うよりも失敗は一刻も早く忘れる・やり過ごす習性があるので同じ轍を踏む可能性が高い。
だからいまからビジネスを始めようと思ったら霊感商法ですよ!(笑)過去の成功事例や失敗事例は本屋に行けば簡単に学べるんで、みっちり勉強して教祖に化けてみてはいかがでしょうか?(笑)
・・・もう遅いか。。。
逮捕者も出てるし。。。
サンシン
P.S.これは少し前の記事ですがアップしておきます。
[ 02:19 ]
[ ┗映画・小説 ]
映画「大日本人」(2006)監督・脚本・出演:松本人志
[参考ブログ]
Production Rif-Raf
(´-`).。oO(蚊取り線香は蚊を取らないよ)
お笑い芸人である松本人志の初監督作品!ニコニコ動画で一瞬だけアップロードされていた動画を見ましたよ(笑)本当はそんな見方は邪道なんですけど、日本に帰って見る余裕はなかったからなー。
感想から言うと「松本人志のオナニー作品」の一言に尽きる。
「オナニー=自己満足の追求」という図式を使いますけど、映画の中には主に彼のラジオ番組「松本人志の放送室」で彼が語っていた怒りや違和感を存分の盛り込み、なおかつヒーローもののパロディーをすると言った「笑い」がちゃんと入っていた。色々な見方がありますけど、この作品については「映画として」「お笑いとして」「松本人志として」語らなければならないでしょう。この三つのどれかが抜けても駄目だと思いました。
・映画として見たら→最悪な終わり方(笑)
・お笑いとしてみたら→「ごっつ」のコントを時間を使って証言してる
・松本人志としてみたら→アホな奴らにはごっつ腹立つ!!!!!
この作品はカンヌまで行ったものですけど、映画関係者からは不評だったそうですね。そりゃそうでしょう。映画作品は「映画として」見るだけが作品の享受の仕方ではないですから。いままで「お笑い映画(「みんな、やってるか~い!」)」や「コメディ映画」もあったし、監督の自己満足をとことん追求した作品はありましたよ。この映画のおかげである種の「映画の自家中毒」があることが浮き彫りになったんだと思います。映画が好きで映画をよく見る人でこの映画が嫌いな人は本当に多いと思う。ただ、たぶんそうした人たちは映画作品を「映画として・映画の見方」で映画を見るのに慣れていて、そうした公式以外の作り方の作品が出て来た時は自分の持っている公式から外れている作品だから「ありえねぇ~よ」と思ってしまうのではないのだろうか。映画の歴史は長いし、映画の文化も映画の方程式もその歴史の中で築き上げられてきた。ただ、そうした方程式は「公理」や「原理」ではないから、違った公式が出てきたときに保守的な動きがあるのはどうなのよ。。。とは多少思ってしまう。
・・・とはいうものの、この作品は自らが「松本人志」になってから見ないと作品を美味しくいただけないのは考え物ですね。彼にさえなりきれば作品の味わいが楽しめるんですけど、「なんで松っちゃんにならないといけないんだよ!」と思う人には駄作に見えることでしょう。でも監督はたぶんそれもわかってて作品を作っているとは思います。「わかるやつだけわかってくれ」。普段は視聴率と言う「絶対的な数値」と日々戦っている松っちゃんなんで、映画くらい自分が面白いと思ったものを撮りたいと思ったんだと思います。
以上。
ちなみに参考サイトとしてリンクしてあるブログはこの作品についてちゃんと批評しているなーと思ったもの。勉強になりました。
それでは、また。
[参考ブログ]
Production Rif-Raf
(´-`).。oO(蚊取り線香は蚊を取らないよ)
お笑い芸人である松本人志の初監督作品!ニコニコ動画で一瞬だけアップロードされていた動画を見ましたよ(笑)本当はそんな見方は邪道なんですけど、日本に帰って見る余裕はなかったからなー。
感想から言うと「松本人志のオナニー作品」の一言に尽きる。
「オナニー=自己満足の追求」という図式を使いますけど、映画の中には主に彼のラジオ番組「松本人志の放送室」で彼が語っていた怒りや違和感を存分の盛り込み、なおかつヒーローもののパロディーをすると言った「笑い」がちゃんと入っていた。色々な見方がありますけど、この作品については「映画として」「お笑いとして」「松本人志として」語らなければならないでしょう。この三つのどれかが抜けても駄目だと思いました。
・映画として見たら→最悪な終わり方(笑)
・お笑いとしてみたら→「ごっつ」のコントを時間を使って証言してる
・松本人志としてみたら→アホな奴らにはごっつ腹立つ!!!!!
この作品はカンヌまで行ったものですけど、映画関係者からは不評だったそうですね。そりゃそうでしょう。映画作品は「映画として」見るだけが作品の享受の仕方ではないですから。いままで「お笑い映画(「みんな、やってるか~い!」)」や「コメディ映画」もあったし、監督の自己満足をとことん追求した作品はありましたよ。この映画のおかげである種の「映画の自家中毒」があることが浮き彫りになったんだと思います。映画が好きで映画をよく見る人でこの映画が嫌いな人は本当に多いと思う。ただ、たぶんそうした人たちは映画作品を「映画として・映画の見方」で映画を見るのに慣れていて、そうした公式以外の作り方の作品が出て来た時は自分の持っている公式から外れている作品だから「ありえねぇ~よ」と思ってしまうのではないのだろうか。映画の歴史は長いし、映画の文化も映画の方程式もその歴史の中で築き上げられてきた。ただ、そうした方程式は「公理」や「原理」ではないから、違った公式が出てきたときに保守的な動きがあるのはどうなのよ。。。とは多少思ってしまう。
・・・とはいうものの、この作品は自らが「松本人志」になってから見ないと作品を美味しくいただけないのは考え物ですね。彼にさえなりきれば作品の味わいが楽しめるんですけど、「なんで松っちゃんにならないといけないんだよ!」と思う人には駄作に見えることでしょう。でも監督はたぶんそれもわかってて作品を作っているとは思います。「わかるやつだけわかってくれ」。普段は視聴率と言う「絶対的な数値」と日々戦っている松っちゃんなんで、映画くらい自分が面白いと思ったものを撮りたいと思ったんだと思います。
以上。
ちなみに参考サイトとしてリンクしてあるブログはこの作品についてちゃんと批評しているなーと思ったもの。勉強になりました。
それでは、また。
2007/12/23のBlog
[ 03:05 ]
[ イギリス生活 ]
お久しぶりです。またまた半月ぶりの更新。
世の中も回りもクリスマスモード一色ですねー。イギリス人は一ヶ月以上前からクリスマスに向けて準備するんでね。日本人から見れば「おまえら気が早すぎるだろう」と思ってしまうこともしばしばですよ。
最近、無料で日本のテレビがリアルタイムで見られるものをダウンロードして日本の年末特番を見てますよ。番組もさることながら、CMも当然見るんですけど、クリスマスに関するものが8割超えますね~。ただ、思うんですよ。どうも日本のクリスマスってピントがずれてるよなーと。。。
やっぱり違和感の始まりは「日本人はクリスチャンじゃないのに」と思ってしまうこと。
イギリス人の大多数はクリスチャンですし、クリスマスは文字通り「聖夜」であり、この日と次の日(26日:ボクシングデイ)は家で家族と過ごしてます。クリスマスやボクシングデイを含めた国民の祝日に働くと従業員は通常の二倍の給料が支払われるといった法律があるそうなんですけど、一般的なイギリス人たちのクリスマスは結構厳かなもんですよ。クリスマス商戦でいろいろな売り場がクリスマス用のプレゼントを用意していますが、バカ騒ぎをするといった雰囲気は微塵もないですね。たぶん、する必要もないんでしょうけど。
それに比べて、日本のクリスマスはもう完全に「イベント化」してますね。別にイベント化が悪いとは思っていませんが、やっぱり信仰心のないクリスマスはどうも違和感を感じざるおえない。その昔、日本に英語の先生として住んでいたイギリス人と話をしたときに「日本のクリスマスは祝い事(セレブレーション)じゃなくて飾り(デコレーション)だけだ」と言ってたのを思い出します。クリスマスと言うキリスト教のイベントに託けて騒いでるようにしか見えない。ちなみに言っておくと、イスラム教(一部関係あり)も仏教もユダヤ教も神道も儒教もクリスマスはまったく関係ないイベントですから。
日本人が「祭り」が好きなのは認めますよ。「正月」「バレンタインデイ」「お花見」「ゴールデンウィーク」「夏休み」「夏祭り」「運動会」「文化祭」「クリスマス」「忘年会・新年会」などなど、一年を通してお祭りをする言い訳で目白押し(笑)だから日本人にとっては「クリスマス」もこうしたバカ騒ぎする口実の一つなんでしょう。
ちなみに、サンシンの体験としてクリスマスの正式なミサに参加したことはあります。自分の高校はキリスト教系の全寮制の男子校で、クリスマスは立派なイベントでしたね。自分は別にクリスチャンではないんですけど、学校的にはしなきゃいけないでしょう。なので、写真のようなレプリカを祭壇の前に飾って神父さん(この時点でカトリックってわかりますけどw)が厳かに式をしてましたよ。イギリスでも毎週日曜日の朝はBBC(ITVだっけ?)でミサの様子を放送してます。どうもそれを見ると高校時代の地獄の生活を思い出して脂汗をかくこともしばしば(笑)同じ理由でクラシック音楽を聴くのも嫌いなんですw
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
記事の更新が最近ないですけど、ブログには下書きした記事はあるんですけど、書いているうちになんだかどうでもよくなっちゃうですよね。どうしてだか。難しいところなんですけど、書きたいことや伝えたいことをただ書いてブログに載せる事はできないでしょう。どうしても文章を構成して、見直して、納得いく形で公開しないといけないですからね。思ってることだけを書いてたら角が立ってしょうがないでしょう(笑)
記事としては、松本人志監督の「大日本人」、落語の配信で起こった「炎上事件」、スピリチュアルブームなどなど書きたいことはかなりあるんですよ。文章校正が面倒なだけで(笑)
それでは、また。
サンシン
世の中も回りもクリスマスモード一色ですねー。イギリス人は一ヶ月以上前からクリスマスに向けて準備するんでね。日本人から見れば「おまえら気が早すぎるだろう」と思ってしまうこともしばしばですよ。
最近、無料で日本のテレビがリアルタイムで見られるものをダウンロードして日本の年末特番を見てますよ。番組もさることながら、CMも当然見るんですけど、クリスマスに関するものが8割超えますね~。ただ、思うんですよ。どうも日本のクリスマスってピントがずれてるよなーと。。。
やっぱり違和感の始まりは「日本人はクリスチャンじゃないのに」と思ってしまうこと。
イギリス人の大多数はクリスチャンですし、クリスマスは文字通り「聖夜」であり、この日と次の日(26日:ボクシングデイ)は家で家族と過ごしてます。クリスマスやボクシングデイを含めた国民の祝日に働くと従業員は通常の二倍の給料が支払われるといった法律があるそうなんですけど、一般的なイギリス人たちのクリスマスは結構厳かなもんですよ。クリスマス商戦でいろいろな売り場がクリスマス用のプレゼントを用意していますが、バカ騒ぎをするといった雰囲気は微塵もないですね。たぶん、する必要もないんでしょうけど。
それに比べて、日本のクリスマスはもう完全に「イベント化」してますね。別にイベント化が悪いとは思っていませんが、やっぱり信仰心のないクリスマスはどうも違和感を感じざるおえない。その昔、日本に英語の先生として住んでいたイギリス人と話をしたときに「日本のクリスマスは祝い事(セレブレーション)じゃなくて飾り(デコレーション)だけだ」と言ってたのを思い出します。クリスマスと言うキリスト教のイベントに託けて騒いでるようにしか見えない。ちなみに言っておくと、イスラム教(一部関係あり)も仏教もユダヤ教も神道も儒教もクリスマスはまったく関係ないイベントですから。
日本人が「祭り」が好きなのは認めますよ。「正月」「バレンタインデイ」「お花見」「ゴールデンウィーク」「夏休み」「夏祭り」「運動会」「文化祭」「クリスマス」「忘年会・新年会」などなど、一年を通してお祭りをする言い訳で目白押し(笑)だから日本人にとっては「クリスマス」もこうしたバカ騒ぎする口実の一つなんでしょう。
ちなみに、サンシンの体験としてクリスマスの正式なミサに参加したことはあります。自分の高校はキリスト教系の全寮制の男子校で、クリスマスは立派なイベントでしたね。自分は別にクリスチャンではないんですけど、学校的にはしなきゃいけないでしょう。なので、写真のようなレプリカを祭壇の前に飾って神父さん(この時点でカトリックってわかりますけどw)が厳かに式をしてましたよ。イギリスでも毎週日曜日の朝はBBC(ITVだっけ?)でミサの様子を放送してます。どうもそれを見ると高校時代の地獄の生活を思い出して脂汗をかくこともしばしば(笑)同じ理由でクラシック音楽を聴くのも嫌いなんですw
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
記事の更新が最近ないですけど、ブログには下書きした記事はあるんですけど、書いているうちになんだかどうでもよくなっちゃうですよね。どうしてだか。難しいところなんですけど、書きたいことや伝えたいことをただ書いてブログに載せる事はできないでしょう。どうしても文章を構成して、見直して、納得いく形で公開しないといけないですからね。思ってることだけを書いてたら角が立ってしょうがないでしょう(笑)
記事としては、松本人志監督の「大日本人」、落語の配信で起こった「炎上事件」、スピリチュアルブームなどなど書きたいことはかなりあるんですよ。文章校正が面倒なだけで(笑)
それでは、また。
サンシン
2007/12/02のBlog
[ 21:05 ]
[ サブカルチャー ]
そろそろエッセイが終わりそうです。。。
最近の不破さん、ツナミンさんのブログで展開されている「ケータイ小説論」について語られています。発端は僕が書いた不破さんのブログへのコメントから始まったんですが、話が広がっていったので、少し方向性を提示しようかな~と。
今週のビデオニュースは無料放送で中森明夫さんを交えて70年代からのアイドル論を展開していてかなり面白いので、いつか文章化してみようと思ってます。この番組の後半に70年代からのアイドル論、社会論をふまえた上で現代のケータイ小説論を話されていました。そこからもアイディアを少々。
何事にも、どんな事象でも訳のわからないものが世の中には出てきます。しかし、そのものに対する知識やマインドセットが少しあるだけである程度はわかるようになってくるもんです。最近のブームである「ケータイ小説」も昔からのサブカルチャーの流れをふまえていればこうした小説の形態がどうしてできてきたのか、どのようにしてできてきたのがぼんやりと見えてくると思います。
「大きな物語」の消失→島宇宙化(たくさんの小さな物語)
サブカルチャーの大きな流れから説明しますが、その昔には「大きな物語」が万人に共有できる社会が存在しました。言い換えるとどんな人でもある程度の「共通前提」を共有することができた。たとえば、第二次世界大戦後であれば、大戦が日本人の共通する体験であり、その後の高度経済成長も敗戦後の貧しさから抜け出すために必死でがんばった、といった体験の事を指す。「大きな物語」という共通前提が共有できたのはサブカルチャーの中では第二次オタクブームくらいまで。戦艦ヤマトの第一次世代、ガンダムの第二次世代までは社会的にもSFでもある程度「大きな物語」が共有できていた。
エポックメイキングだったのが「うる星やつら」のブーム。世の中のアニメオタクがガンダムだーヤマトだーと「大きな物語」を振りかざしていたときに、その流れに疲れた連中が「小さな世界の中の戯れ」を描いたのがうる星やつらであり、この頃から段々と「大きな物語」が作品を享受している人の中で共有されなくなってくる。(1980年代)
「大きな物語」が崩壊したのが奇しくもベルリンの壁の崩壊といった「冷戦構造の崩壊」とリンクする。その頃はアメリカ対ソ連の代理戦争で世界各地で不幸があったが、その不幸が世界中の国のみならず日本でも共有されていた感覚だった。「小さな物語」はあくまでも小さな世界の中の話なので、万人に共有できるような世界観を提示できていたわけではない。そうなると、人々の趣味や興味が細分化していき、サブカルチャーの中の共通前提がいくつも共有されなくなってきた。
95年から「エヴァンゲリオン」が放映され、爆発的な人気を得ました。しかし、このブームは昔のような「大きな物語の共有」をしていたからではなく、「各小さな物語の集約」が作品の中に見られた。作品からは宗教、文化、SF、戦隊もの、怪獣といったこれまでサブカルチャーが積み上げていったギミックがこれでもかと詰め込まれており、作品を中心にして様々な趣味を持つ人が動員されていった。だが、この後はまた大きな物語が構築されることもなく、たくさんある小さな物語を各人が選んで消費するスタイル(「趣味の蛸壷化、島宇宙化」)という方向に進んだ。
「セカイ系」と「泣きゲー」の興隆
「セカイ系」に関する議論はサンシンの過去記事を参照してください(その1、その2)。簡単に説明しますと、物語の構造において「ボク、わたし」、「社会、国家」、「世界」といった大きく分けて三段階の構造で「ボク、わたし」と「世界」のみで構成され、(たぶん意図的に)「社会や国家」といった中間集団が省略され、ボクや私の救済や破滅により世界が救われたり破滅したりする作品を総称して「セカイ系」と呼ぶ。作品への効果としては「せつなさ」が十分に押し出され、お客を効率よくなかせるための構造として「エヴァ」以降は様々な作品で量産されてきた。
むかし「いま、会いにゆきます」の感想でも書きましたが、2000年代中盤の映画で泣ける映画が量産されましたが、サブカルチャーの流れで言えば、「エヴァ」以降に「美少女ゲーム」の作品で主にセカイ系の構造を利用して「泣きゲー」が数多く発売された。現在の「萌え」や「メイド」などといったフォーマットがたくさん作られた時期ですが、99年・00年・01年の美少女ゲームでは普通の陵辱ゲーム、ハーレムゲーム、SMゲームもありましたが、これらのジャンルのゲームよりも売れたのが「泣きゲー」もの。こうした流れの中でいかに作品のユーザーを「効率よく」泣かせられるかが作品の良し悪しが決まり、売り上げも相当変わってきた。その後、売れたゲームのノベルが売り出され、書籍としても「泣きゲー」のフォーマットが確立した。こうしたメディアミックスがいろいろと波及し、作品からHな要素を排除してプレイステーションなどの機種で全年齢対象のゲームとして売られたり、ライトノベルで作品化されたりと「効率よく客を泣かせるフォーマット」が普及していった。
「成長しないモチーフ」
こうしてケータイ小説が誕生するまでにはサブカルチャーの中に「小さな物語の乱立と孤立」、「セカイ系の物語構造」、「効率よく客を泣かせるフォーマット」といった要因がある。ケータイ小説の誕生までにはもちろん、携帯電話という決定的なハード面の普及は必要条件だけど、ケータイ小説を成立させるためには「成長しないモチーフ」が不可欠だと思う。
個人的な感想だけど、これだけ情報化した社会では「ビルディングス・ロマン(青春小説・成長小説)」は成立しにくい。個人が成長するために必要な忍耐が育ちにくいという側面もあるが、情報化によって危険性やリスクがアクセス契機さえあればいくらでも入手することができる。昔なら大人にならないとわからないような知識が情報化社会の中でいつでもどの年齢でも入手可能になった。こうなると人間は成長を目指すのではなく、様々なリスクや危険に対する免疫を作り、社会生活を営むようになる。そうなるとサブカルチャーの中でもこうした流れが反映され、作品(特にケータイ小説)のなかには病気、妊娠、レイプ、ホスト、援交などのモチーフが登場するが、主人公たちはこうした経験をしたのにもかかわらず、読者は危険やリスクを勉強し享受するのみで、最終的には成長せずにまた同じ生活に戻っていったり、環境を変えたりする。言い換えると免疫化といった蘇生術を身に着けることによって成長しなければならないという必然性が薄れていった。
「総論」
簡単に書きましたが、サンシンなりにざっくりとケータイ小説を語るなら「小さな物語の乱立・孤立」により半径5メートルの世界観を反映した物語が増えてくる、「セカイ系の物語構造」によって誕生した「効率よく客を泣かせるフォーマット」を作り出したのち、「成長しないモチーフ」を加味することによって誕生する現象。
ケータイ小説は主に10代の読者に消費される。けど、物語は効率よく泣かせ(感動)、別世界にある危険やリスクといったありそうなリアルを提供するが、主人公は成長しないために作品はただ自分の中を素通りするだけ。感動とリアルを提供することが作品の使命だから、消費された作品は使い捨て電池のように捨てられる。だから、こうした作品は作品としての芸術性を追求しているのではないので文学とは言えない。
ケータイ小説が文学と言えない要因の中に「複線の無さ」があるだろう。例えば、レイプされた後に嗚咽→妊娠発覚というように話が急に展開することも珍しくない。しかし、上記したように「感動」と「リアル」を提供することが至上命題の作品においてこれらを引き出す以外の要素は必要ない。必要が無いから使わない。こうした作り方が作品をより貧弱なものにしていきかねない。
本が好きな人にしてみれば、「なぜこんな薄っぺらな作品で感動できるんだ?」と疑問に思うだろう。ケータイ小説の使命は感動とリアルの提供であって話のダイナミズムや際立った個性の紹介、登場人物の幸せ・不幸を提供するものではないので、そうした感想を生むのはある種の必然だと思う。
サンシン自身はケータイ小説に対してはそんなに悪い印象は持ってません。エヴァや涼宮ハルヒのといった「セカイ系」作品を散々消費しましたし、高校時代は泣きゲーや切ない系作品をたくさん見てきたんで、世の中がケータイ小説を読んで感動するといった流れはよくわかります。だって経験済みだもん(笑)ただ、ケータイ小説は文学性、芸術性はあまり無いので、パターン化してしまうくらい作品を読めばすぐに飽きます。物語構成は単純ですし、どの作品も主人公や病、事故のパラメータを変えるだけで一つの作品が誕生するんです。問題はこうした構造に気づけるかどうかだと思う。上の世代に「ケータイ小説を読んでるのはサルだけ」なんて言われたくないですから(笑)
それでは、また。
サンシン
最近の不破さん、ツナミンさんのブログで展開されている「ケータイ小説論」について語られています。発端は僕が書いた不破さんのブログへのコメントから始まったんですが、話が広がっていったので、少し方向性を提示しようかな~と。
今週のビデオニュースは無料放送で中森明夫さんを交えて70年代からのアイドル論を展開していてかなり面白いので、いつか文章化してみようと思ってます。この番組の後半に70年代からのアイドル論、社会論をふまえた上で現代のケータイ小説論を話されていました。そこからもアイディアを少々。
何事にも、どんな事象でも訳のわからないものが世の中には出てきます。しかし、そのものに対する知識やマインドセットが少しあるだけである程度はわかるようになってくるもんです。最近のブームである「ケータイ小説」も昔からのサブカルチャーの流れをふまえていればこうした小説の形態がどうしてできてきたのか、どのようにしてできてきたのがぼんやりと見えてくると思います。
「大きな物語」の消失→島宇宙化(たくさんの小さな物語)
サブカルチャーの大きな流れから説明しますが、その昔には「大きな物語」が万人に共有できる社会が存在しました。言い換えるとどんな人でもある程度の「共通前提」を共有することができた。たとえば、第二次世界大戦後であれば、大戦が日本人の共通する体験であり、その後の高度経済成長も敗戦後の貧しさから抜け出すために必死でがんばった、といった体験の事を指す。「大きな物語」という共通前提が共有できたのはサブカルチャーの中では第二次オタクブームくらいまで。戦艦ヤマトの第一次世代、ガンダムの第二次世代までは社会的にもSFでもある程度「大きな物語」が共有できていた。
エポックメイキングだったのが「うる星やつら」のブーム。世の中のアニメオタクがガンダムだーヤマトだーと「大きな物語」を振りかざしていたときに、その流れに疲れた連中が「小さな世界の中の戯れ」を描いたのがうる星やつらであり、この頃から段々と「大きな物語」が作品を享受している人の中で共有されなくなってくる。(1980年代)
「大きな物語」が崩壊したのが奇しくもベルリンの壁の崩壊といった「冷戦構造の崩壊」とリンクする。その頃はアメリカ対ソ連の代理戦争で世界各地で不幸があったが、その不幸が世界中の国のみならず日本でも共有されていた感覚だった。「小さな物語」はあくまでも小さな世界の中の話なので、万人に共有できるような世界観を提示できていたわけではない。そうなると、人々の趣味や興味が細分化していき、サブカルチャーの中の共通前提がいくつも共有されなくなってきた。
95年から「エヴァンゲリオン」が放映され、爆発的な人気を得ました。しかし、このブームは昔のような「大きな物語の共有」をしていたからではなく、「各小さな物語の集約」が作品の中に見られた。作品からは宗教、文化、SF、戦隊もの、怪獣といったこれまでサブカルチャーが積み上げていったギミックがこれでもかと詰め込まれており、作品を中心にして様々な趣味を持つ人が動員されていった。だが、この後はまた大きな物語が構築されることもなく、たくさんある小さな物語を各人が選んで消費するスタイル(「趣味の蛸壷化、島宇宙化」)という方向に進んだ。
「セカイ系」と「泣きゲー」の興隆
「セカイ系」に関する議論はサンシンの過去記事を参照してください(その1、その2)。簡単に説明しますと、物語の構造において「ボク、わたし」、「社会、国家」、「世界」といった大きく分けて三段階の構造で「ボク、わたし」と「世界」のみで構成され、(たぶん意図的に)「社会や国家」といった中間集団が省略され、ボクや私の救済や破滅により世界が救われたり破滅したりする作品を総称して「セカイ系」と呼ぶ。作品への効果としては「せつなさ」が十分に押し出され、お客を効率よくなかせるための構造として「エヴァ」以降は様々な作品で量産されてきた。
むかし「いま、会いにゆきます」の感想でも書きましたが、2000年代中盤の映画で泣ける映画が量産されましたが、サブカルチャーの流れで言えば、「エヴァ」以降に「美少女ゲーム」の作品で主にセカイ系の構造を利用して「泣きゲー」が数多く発売された。現在の「萌え」や「メイド」などといったフォーマットがたくさん作られた時期ですが、99年・00年・01年の美少女ゲームでは普通の陵辱ゲーム、ハーレムゲーム、SMゲームもありましたが、これらのジャンルのゲームよりも売れたのが「泣きゲー」もの。こうした流れの中でいかに作品のユーザーを「効率よく」泣かせられるかが作品の良し悪しが決まり、売り上げも相当変わってきた。その後、売れたゲームのノベルが売り出され、書籍としても「泣きゲー」のフォーマットが確立した。こうしたメディアミックスがいろいろと波及し、作品からHな要素を排除してプレイステーションなどの機種で全年齢対象のゲームとして売られたり、ライトノベルで作品化されたりと「効率よく客を泣かせるフォーマット」が普及していった。
「成長しないモチーフ」
こうしてケータイ小説が誕生するまでにはサブカルチャーの中に「小さな物語の乱立と孤立」、「セカイ系の物語構造」、「効率よく客を泣かせるフォーマット」といった要因がある。ケータイ小説の誕生までにはもちろん、携帯電話という決定的なハード面の普及は必要条件だけど、ケータイ小説を成立させるためには「成長しないモチーフ」が不可欠だと思う。
個人的な感想だけど、これだけ情報化した社会では「ビルディングス・ロマン(青春小説・成長小説)」は成立しにくい。個人が成長するために必要な忍耐が育ちにくいという側面もあるが、情報化によって危険性やリスクがアクセス契機さえあればいくらでも入手することができる。昔なら大人にならないとわからないような知識が情報化社会の中でいつでもどの年齢でも入手可能になった。こうなると人間は成長を目指すのではなく、様々なリスクや危険に対する免疫を作り、社会生活を営むようになる。そうなるとサブカルチャーの中でもこうした流れが反映され、作品(特にケータイ小説)のなかには病気、妊娠、レイプ、ホスト、援交などのモチーフが登場するが、主人公たちはこうした経験をしたのにもかかわらず、読者は危険やリスクを勉強し享受するのみで、最終的には成長せずにまた同じ生活に戻っていったり、環境を変えたりする。言い換えると免疫化といった蘇生術を身に着けることによって成長しなければならないという必然性が薄れていった。
「総論」
簡単に書きましたが、サンシンなりにざっくりとケータイ小説を語るなら「小さな物語の乱立・孤立」により半径5メートルの世界観を反映した物語が増えてくる、「セカイ系の物語構造」によって誕生した「効率よく客を泣かせるフォーマット」を作り出したのち、「成長しないモチーフ」を加味することによって誕生する現象。
ケータイ小説は主に10代の読者に消費される。けど、物語は効率よく泣かせ(感動)、別世界にある危険やリスクといったありそうなリアルを提供するが、主人公は成長しないために作品はただ自分の中を素通りするだけ。感動とリアルを提供することが作品の使命だから、消費された作品は使い捨て電池のように捨てられる。だから、こうした作品は作品としての芸術性を追求しているのではないので文学とは言えない。
ケータイ小説が文学と言えない要因の中に「複線の無さ」があるだろう。例えば、レイプされた後に嗚咽→妊娠発覚というように話が急に展開することも珍しくない。しかし、上記したように「感動」と「リアル」を提供することが至上命題の作品においてこれらを引き出す以外の要素は必要ない。必要が無いから使わない。こうした作り方が作品をより貧弱なものにしていきかねない。
本が好きな人にしてみれば、「なぜこんな薄っぺらな作品で感動できるんだ?」と疑問に思うだろう。ケータイ小説の使命は感動とリアルの提供であって話のダイナミズムや際立った個性の紹介、登場人物の幸せ・不幸を提供するものではないので、そうした感想を生むのはある種の必然だと思う。
サンシン自身はケータイ小説に対してはそんなに悪い印象は持ってません。エヴァや涼宮ハルヒのといった「セカイ系」作品を散々消費しましたし、高校時代は泣きゲーや切ない系作品をたくさん見てきたんで、世の中がケータイ小説を読んで感動するといった流れはよくわかります。だって経験済みだもん(笑)ただ、ケータイ小説は文学性、芸術性はあまり無いので、パターン化してしまうくらい作品を読めばすぐに飽きます。物語構成は単純ですし、どの作品も主人公や病、事故のパラメータを変えるだけで一つの作品が誕生するんです。問題はこうした構造に気づけるかどうかだと思う。上の世代に「ケータイ小説を読んでるのはサルだけ」なんて言われたくないですから(笑)
それでは、また。
サンシン
2007/11/26のBlog
[ 18:47 ]
[ ┣尾道~松山~宇和島の旅 ]
久々の更新です。
これから不定期ですけど、9月のはじめに行った
「尾道~しまなみ街道~松山(道後温泉)~宇和島」
の旅のご報告を。
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サンシン
[ 03:36 ]
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