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~三線の響きをイギリスより~
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2007/12/29のBlog
むかし書いていた文章が消えたので、要点だけまとめます。

・監視カメラを街中において警察の捜査に役立てようという動きが近年活発になっている。左翼の勢力が「プライバシーの侵害」等でこのカメラ設置に反対してきた。捜査においては事後的に警察が犯人逮捕のために利用するため、必要なシステム。

・ただ、プライバシーのことを言うのであれば、昔のほうが無かったのではないかという反論がある。「三丁目の夕日」のような時代では近隣のコミュニティーの結束が強かった。これは逆に言えば、ある種の無言の監視が存在していた。この頃は、事件が起こった場合に警察官が足で稼ぐ捜査が可能だった。不審者の有無、以前から存在した奇行、隣人関係など聞き込み調査から犯人や犯行の特定が可能だった。

・しかし、現代ではこうした足で稼ぐ捜査はほぼ出来なくなって来ている。街中や住宅地でも知らない人や知らない車は数多くある。そんな状況の中で「不審者は見ませんでしたか?」という聞き込みは効果があまり無い。そんな中で監視カメラのシステムは安全な社会を望むのであれば、事前の抑制効果と事後の捜査のためには実は必要なシステムではないのかという議論がある。

・機能的にいえば、抑制効果と捜査に役立つという二つの効果は、昔はコミュニティーの相互扶助・相互監視システムが、現在は監視カメラのシステムが行っている。

・監視カメラ設置に反対する勢力はカメラの設置にだけ重点を置いているが、むしろ重要なのはコミュニティーの相互扶助・相互監視システムとそれに付随する捜査の効率化についてではないのか。実は、昔のようなコミュニティーの復活か監視カメラシステムの導入かの二つに一つしかない。コミュニティーが空洞化したままで監視カメラシステムも導入しないという話の流れになると警察の捜査はほとんど出来なくなってしまうであろう。

・だから、左翼の中で「監視カメラ反対!」という運動をしている人たちはコミュニティーの復活やそれ以外にも事前の抑制効果、事後的の捜査のためのシステムにはどのようなものがあるのかを議論する必要があるだろう。

サンシン
2007/12/28のBlog
ツナミンさん:尾崎豊・フーコー・オウム真理教 にTBします。

ツナミンさんが60年代から90年代前半までの文化史を簡単にお書きになっていて90年代以降の分析を任されたのでやってみたいと思います。

60年代の「明日のジョー」、80年代の「尾崎豊」、90年代の「オウム真理教」のくだりを引用します。

60年代末の全共闘時代を特徴づけたのは「あしたのジョー」に描かれた「真っ白な灰に燃え尽きる」という美学であり、「よど号」ハイジャック犯・田宮高麿の「我々はあしたのジョーである」という声明文は新左翼運動の末期的バカバカしさを象徴していたが、私が興味を惹かれたのは、矢吹丈が力石徹との対戦で「真っ白に燃え尽きた」ところでこの物語は終わりにならず、実際の終わりはマイホーム・パパであったホセ・メンドーサとの対戦に負けて終わったということの持つ象徴性である。全共闘運動はとっくに終焉を迎えており、全共闘世代の元学生は「髪を切って」就職をし、マイホーム・パパを目指すようになっていた70年代の人々に、「あしたのジョー」はすでに夢や希望を与えられなくなっており、ジョーは時代に敗れたのだ、と橋本は語る。
 80年代後半から90年代初頭にかけて“10代の教祖”となったのは、ロックアーティストの尾崎豊である。「15の夜」や「卒業」といった歌に込められたメッセージ――「〈学校的なるもの〉からの卒業(=自由)」や「この支配からの卒業」――は、フーコーの説く「生-権力」論や「牧人権力」論に類似したものである、と橋本は言う。ところが、当初はフーコー的な問題関心を抱いていた尾崎はその後、「麻薬幻想」と「消尽としての消費」という体験を経て、徐々にフーコー的な世界観から遠ざかっていったという。その後の尾崎が求めたものは、橋本によれば、妻の繁美に向けられた「胎内回帰としての愛」だったというが、正直言って、この辺りはあまり面白くない。
 90年代の日本の社会現象として橋本が注目するのは、前半がオウム真理教で、後半はエヴァンゲリオンである。興味深いのは(地下鉄サリン事件以後の報道でも報じられたかもしれないが)オウムの幹部の中には、入信前に尾崎豊の影響を受けていた者が多かったことである。そして、なんと、オウム真理教が94年に作ったプロモーション・ビデオ『戦いか破滅か』は、「尾崎豊はアメリカによって殺された。だからアメリカと戦うために、オウム真理教に入信しよう」と呼びかける内容だったという。ビデオの内容自体は荒唐無稽なものだが、このように、「本当の自分」を探してこれを実現するためには、大きな敵=「この支配」=社会と戦わなければならない、という勧誘メッセージは、カルトや新興宗教に限らず、多くの政治運動にも共通するパターンであるという。人生の意味がわからず、「自分探し」をしている若者が、人生の意味を社会変革という目標と結びつけて示されると、一気に生きる意味が明確になったような気がして、それに飛びついてしまう、というパターンである。

70年代に起こった「連合赤軍事件」と90年代に起こった「オウム真理教事件」はある種の「悪あがき」という共通項がある。

前者は70年代前半には下火になっていた新左翼運動が最後の悪あがきとして事件となった。「明日のジョー」のエピソードが指し示しているように運動をしていた仲間はどんどん就職し、運動自体もマイナーで過激な方向に走っていった。運動家たちも手法をより過激なものにしていったり、海外から革命を試みたりともがき苦しんだ末の事件が「よど号」や「連合赤軍事件」だったと認識している。事件自体も71年~72年に起こったものだし。こうした運動自体は「60年代的」な匂いがするし、70年代に入ってまで運動をしていたものは時代に乗り遅れた感じがしてならない。

後者を例えるなら「80年代的」な匂いがする。80年代はアイドル→バブルといったアッパー系文化と「風の谷のナウシカ」「AKIRA」「北斗の拳」に代表される(第三次)世界大戦後の退廃した社会を望んでいたダウナー系文化の両方があった。ダウナー系の文化の中には自己開発・自己啓発セミナーから始まって雑誌「ムー」的なオカルト・ブーム、新新興宗教の興隆がある。しかし、バブリーな文化は90年代前半に、オウム的な「ハルマゲドン」を希望するものたちの文化は90年代の半ばに音を立てて崩れていきました。

「連合赤軍事件」も「オウム事件」も一つ前の時代に流行っていたものが時代遅れとなり、崩壊するときに事件化した事象と見ていい。だから、両方とも事件が起こった時代を象徴しているのではなく、その前の時代が終わりを告げるサインと見たほうが分かり易い。

さて、ここからが本題(笑)

参考サイト:善良な市民の2006年総括(1)

ここから90年代以降の大まかな話をしましょう。

まず、95年という年は激動の年でもあり、重要な年。年の初めから阪神大震災が起こったり、オウム事件、山一證券倒産、酒鬼薔薇事件、東電OL殺害事件と時代を象徴する事件が起こっている。どういうことかというと、山一證券の倒産はこれまでの会社神話の崩壊、酒鬼薔薇事件は少年という存在の神話の崩壊、東電OL殺害事件は男女雇用機会均等法で男女が平等になったという神話の崩壊。そしてオウム事件は80年代から続く新新興宗教がらみのオカルト・超常現象・ヨガなどの精神世界のコントロールの神話の崩壊を象徴している。すべてに共通して言えることは「今までの共通前提の崩壊」。会社は年功序列・終身雇用が当たり前だったはず、少年はモンスターにならない存在だったはず、男女は平等になったはず、新興宗教は精神を癒してくれるはず・・・といったような既存の価値観が一気に崩れていった年だった。

奇妙な話だけど、「エヴァンゲリオン」が始まったのも95年。本放送では人気が出なかったが、深夜の再放送で一気に認知されていった。

90年代後半を言い表すとすれば「引きこもりの時代」。

主人公の碇シンジ君みたいに、「世の中のしくみが変わってきて何が正しいかわからない」から「間違いを犯すくらいなら、何もしないで引きこもる」という思想が蔓延した時代です。
 滝本竜彦の「世の中がロマン(生きる意味)を与えてくれないから引きこもる」という思想も、本田透の「人間関係なんて多かれ少なかれ傷つけ合うものなのだから、生身の異性にはアプローチせずに二次元(アニメ・漫画・アイドル)に引きこもる」という思想もこのバリエーションなんですね。
 要するになんでも自分のせいではなく世界のせいにする思想です。「世界が複雑で不透明でよくわからないから、自分では努力しなくていい」という発想がここには蔓延している。

実は昨今の「セカイ系」の源流がここにあるといっても過言ではない。物語が「ぼく・わたし」と「セカイ」のみを骨組みとしていて、中間の「社会や国家」といった組織や概念がすっぽり抜け落ちていく。原因は95年の激動で世の中の仕組みが変わって何を信じていいのか分からなくなる状況が訪れたからだろう。しかし、社会や国家が揺らいでも「自分(ぼく・わたし)」や「世界」は存在する。この方程式を解く過程で「セカイ系」への流れが生まれていったのだろう。

しかし、この思想はすぐに限界が見えてしまった。なぜなら人間、結局「何もしない」なんて宙吊り状態には耐えられないから。「世の中が複雑でよく分からない」状態は続いているのだけど、かといって90年代のように「引きこもって」いるわけにはいかない。そこで「間違っているかもしてないけれど踏み出す」という「決断主義の時代」になるわけです。

ゼロ年代に入ると「決断主義」を象徴する事象が幾つか出てくる。

これが『デスノート』の夜神月ですね。『新本格魔法少女りすか』のキズタカ少年や、『コードギアス』のルルーシュ、などもこのタイプです。現実世界でも小泉純一郎とか、ホリエモンのようなタイプが人気者になる。
 このタイプの特徴は、別に自分たちが絶対的に真正なものを掲げているという信念がないことです。彼らは一様に、「自分が知っている真正さを広める」のではなく、「自分が勝ち抜くことで自分の考えを真正なものとしようとする」タイプです。
 つまり「真正さ」はあらかじめあるのではなく、勝った者、生き抜いた者が事後的に築き上げる相対的なものだという認識が徹底してあるんです。

つまり、「ルールが壊れてしまった」「よのなかの仕組みがかわった」ということを訴えるだけで納得してもらえた90年代に対して、ゼロ年代では既に「ルールがないなんて当たり前、大前提」になっている。その上で、何が出来るか、という段階に進んだ。

最近のサブカルチャーの歴史の中で一番顕著に確認ができたのが今年の夏に公開された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」だった。前回の映画公開から10年もの月日がたった。「引きこもり時代」の象徴だったエヴァンゲリオンと「ゼロ年代決断主義」の時代のエヴァンゲリオンとは性質が異なっていた。

90年代の主人公のシンジ君は周りからどんなサポートがあっても「自分は何もしない」ようなウジウジした性格の陰気な(笑)少年だったが、ゼロ年代のシンジ君、というよりも周りの反応が「あなたの決断は認めるし、成功しても失敗してもあなたをサポートする」というメッセージを肯定的に捕らえて前に進む感じが見て取れる性格に少し変化していた。逆に90年代のままのシンジ君ではゼロ年代の観客に「なにいつまでウジウジいってるんだよう。」と思われてしまい、作品としては失敗に終わる可能性があった。

こう見ると同じ青年でも90年代とゼロ年代では精神的な強さがまったく違う。「ルールが変わった→引きこもろう」と「ルールが変わったのは大前提→その上で何ができるか」とではその違いが歴然だろう。ゼロ年代以降の若者はこうしたシビアな環境で生き残ってきた者ばかり。たぶん環境の変化に伴う適応だと思うが、「失われた10年」を生き延びてきた世代。この10年の前半分が引きこもり世代で後ろ半分が決断主義世代だろう。ホリエモンや小泉元首相が決断主義の象徴なのは納得できる。「デス・ノート」を知っている人ならばこの時代の象徴が夜神月だといえば分かると思います。彼らは自分のルールを押し通してきた人たちですから。

付け加えていうと、「9・11→アメリカの単独行動」もゼロ年代の決断主義の象徴だと言えるだろう。9・11以降はアメリカ国内の民意を反映し、国際社会を無視した上に、アフガニスタン、イラクに単独で攻撃を仕掛けた。アメリカ一国の決断で国際社会を動かし、ある種のルールを作ってしまった過程を見てもゼロ年代前半は決断主義の時代だったと思う。


ゼロ年代の後半がどういう風になっているかはいまだに分かりません。まだまだ真っ最中ですし、これからどういう流れができるのかは予想できませんので。簡単にまとめてみると、

80年代前半:アイドル全盛(80年松田聖子デビュー、82年中森明菜デビューなど)

80年代後半:素人アイドル全盛(おニャン子クラブ)

80年代後半~90年代前半:バブル・バブリーな文化

1995年-分水嶺-

(阪神大震災・オウム事件・酒鬼薔薇事件・山一證券倒産・東電OL殺害事件)

90年代後半:引きこもりの時代(エヴァンゲリオン)

2001年:アメリカ同時多発テロ

00年代前半:決断主義の時代(ホリエモン・小泉元首相・デスノート)


それでは、また。

サンシン
<パキスタン>情勢再び混迷か ブット元首相暗殺で<ヤフーニュース>

8年半ぶりにパキスタンへの帰国を果たしたブット元首相は、相次ぐ暗殺の企ての中でついに命を落とした。北部ラワルピンディで27日、有力野党「パキスタン人民党」の集会終了直後に起きた。事件の背後関係は不明だが、自らを民主化のシンボルとして押し出していた元首相の死で、パキスタン情勢は再び混迷する可能性が出てきた。
パキスタン国内が混乱することは少し前からわかっていた。ブット元首相は、パキスタンの民主化を求める米政府の支援を受けて帰国し、ムシャラフ大統領との政権分担協議を水面下で進めていたことが原因だろう。首相・大統領とも親米家であり、現在の政権はアメリカの庇護の下に存在しているといっても過言ではない。

隣のアフガニスタンでのアメリカ軍の政策の失敗によってタリバン政権が復活したりイスラム過激派が国連・NATO軍に対するゲリラ活動を再開させ、現在のところパイプライン際の警備しかまかなえていないのが現状である。また、イラク国内の不安定化からくるイスラム教徒の反米への流れがイスラム国家全体に及び、パキスタン・エジプト・シリアなどの親米政権が今にも転覆しそうな状況が続いていた。

なので、80年代のイランで起こったイスラム革命とまではいかないまでもどの親米政権を持つイスラム国家はそういった革命が起こっても不思議ではない状態。だから、パキスタン国内のイスラム教徒たちの反米感情が高まるのがフェーズ1だとしたら、政府の高官が暗殺されるのが次のステージでしょう。そして、たぶん国内の混乱はここしばらく収まりそうもありませんよ。少し前からアメリカがイランにも戦争を仕掛けそうだという情報もいくらかは影響があるのでしょう。パキスタンにとってイランは隣国ですから。片や親米国家で、片やイスラム国家。親米政権に対するテロがあっても不思議ではないでしょう。

それとこの暗殺された元首相のご子息とはちょっとした縁がありまして。少し前にブリストル大学のボールルームダンス(社交ダンス)のチームに参加していたときの上級生に彼がいました。最初はそんなこととはまったく知らなくて、「ダンスのうまい兄ちゃんだなー」と思っていました。とある事情から他言しないことを条件に彼がパキスタンの首相の息子だということを知りました。もうとっくに卒業はしていますが、殺されたのは彼の母親ですからねー。心中ご察します。

参考:田中宇の国際ニュース

サンシン


追記です。

アメリカは幾つかのイスラム国家に対して民主主義を貫徹し、普通選挙をせよと圧力をかけています。それこそアメリカが求める「自由と民主」のために。しかし、イスラム国家は様々な理由をつけて選挙を延期させたりしている。

なぜか。

どの国家も反米感情がありすぎて普通選挙をしてしまうと親米政権が転覆してしまう可能性が大きい。イスラム教徒のよる国内の圧力とアメリカからの圧力と文字通り板ばさみになっている。イラン・イラク・イスラエルと隣り合わせの国は特に危ない。トルコはイラク北部を攻撃したことによってヨーロッパに近寄ろうとする路線を改めイスラム国家として方向転換をしたし、エジプトも政権がひっくり返りそう、イスラエルと争っているパレスチナにしても協調路線のファタハが事実上弱体化し過激派のハマスが政権をコントロールしている。パキスタンにいたっては国内がとてつもなく不安定のアフガニスタンと今にも戦争が開始されるのではないかと心配されるイランに挟まれている国家で親米政権と来れば政治が不安定化するのは仕方ないでしょう。

だから、パキスタンの政情不安定は必然なんです。
社会学者宮台真司のホームページの記事から

「近い者が勝つ」過去を舞台に「遠い者が勝つ」という昨今の意味論

出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題



詳しくはリンクを参照してほしいのですが、短く書きます。

現在はなぜこれだけ「空気を読む」必要があるのか?

それはやはり「共通前提の崩壊」によるもの。他人との共通前提がないから「キャラ」を強要されたり、自ら作らなくてはならなかったり、場の雰囲気を壊す発言は控えたり、変に思われないように行動したりする。「対話」能力が培われていない日本人は空気という暗黙の縛りを作り出し、その枠に自分を収めて行動しようとする。

また「時間性の優位」がほぼ無くなった現代では共通前提の崩壊をより加速させる。例えば、昔は浮気をしても元鞘に納まっていたのが、今は浮気相手のほうがより親密な関係を築くことがある。昔なら時間性の優位が存在したから首に鈴をつけておくぐらいですんでいたが、優位ではなくなったからプライベート空間での疑心暗鬼が進んだと思われる。

サンシン
一言だけ。

「アホらし」。






毎日ヤフーニュースを見ていますから日本で起こっていることは大体把握しています。J-CASTニュース : 「日本はUFO戦略欠如している」 海外での意外な反応を見て愕然としましたね。どこからこういう話が出てきたのかは知りませんが、政治家が未確認飛行物体(UFO)の話をするなんて。。。あのね~、「未確認飛行物体(UFO)」は認識のできない飛行物体という広い意味だから、例えば誰かが投げたボーリング球を別の人が見てボーリング玉だと確認できなければすぐにUFOになるんです。どうしてそれがUFO=宇宙人となるんでしょうね~、ミステリー研究家は。

本文の中でBBCがニュース配信していると言うことで探してみました。「UFOs exist, says Japan official」まあ、差し障り無いことしかかいてませんけど、いまの海外メディアで日本と言えば鯨の漁について色々と語られています。「Japan drops humpback whale hunt」日本のマスコミはまったく報道しませんが、日本がザトウクジラの捕獲を制限する・しないという話をBBC最近はずっと報道していました。欧米のメディアはクジラの漁に否定的ですし、グリーンピースなどの環境系NGOの活動なども報道されていますから、「賢い・無実のクジラ」が日本人によって捕獲されているとかなりイメージが悪くなるようなニュースが多いですね。政治的にも政府が制限すると発表する前後は環境系NGOが政府や捕獲船に圧力をかけていたり、日本の政府高官がアメリカに行く日程を変更したりと影響は出ているんです。損な時分に「UFO」ですか。こんな内憂外患な状況でどう見てもチープなスケープゴートにしか見えませんよ。

もう一つ本文の記事の中で、「日本ではUFO戦略が欠如している」と指摘がありますけど、少なくともイギリスでは政治家がUFOや宇宙人について話すことはありませんよ。1980年代にイギリスで「ミステリー・サークル」が出てきて国内のSF研究家やミステリー研究家だけではなく全国的にそういった未知なるものへの議論が盛んでした。今ではほとんど語りつくされていて今でもそんなことを言っている人は「未だに好きなのねー」という否定的な反応が待ってます。(ちなみに英語では「クロップ・サークル」と言います)結局、地元のオジサン達の悪戯だったと言うことで現在はそうした議論は収束しています。だから、イギリスで政治家がそうした言説があった場合、次の選挙で勝てませんね(笑)そりゃそうでしょう。そんな政治家に国政を任せたくないですよ。


まあ、真面目なことを語りますけど、UFOや宇宙人の話が出てくる背景には昨今のスピリチュアル・ブームが関係していますね。UFO・宇宙人も霊魂(霊・守護霊)のどちらも人間の手が届かない存在(概念)なんです。オウム事件から10年たちましたけど、今まではあの事件の反省からメディアではそうした精神世界の話はタブー扱いとなり自粛してきました。しかし10年たって事件の後遺症も薄れてきたこの時期になって一気に反動が来たんでしょう。メディアでの扱いはありませんでしたが、ある種の人間がそうした未知なる物・手の届かないものを望んでしまうので、そういった方向に流れるときの勢いは半端でなく強い。今の日本が危険な状況にあると思いますが、主な理由は(1)欧米にとってのキリスト教といったように広く認知された宗教が無いので反社会的なカルトが生き残りやすい、(2)日本人はどうも失敗を教訓として学ぶと言うよりも失敗は一刻も早く忘れる・やり過ごす習性があるので同じ轍を踏む可能性が高い。

だからいまからビジネスを始めようと思ったら霊感商法ですよ!(笑)過去の成功事例や失敗事例は本屋に行けば簡単に学べるんで、みっちり勉強して教祖に化けてみてはいかがでしょうか?(笑)

・・・もう遅いか。。。

逮捕者も出てるし。。。


サンシン



P.S.これは少し前の記事ですがアップしておきます。
[ 02:19 ] [ ┗映画・小説 ]
映画「大日本人」(2006)監督・脚本・出演:松本人志

[参考ブログ]
Production Rif-Raf
(´-`).。oO(蚊取り線香は蚊を取らないよ)

お笑い芸人である松本人志の初監督作品!ニコニコ動画で一瞬だけアップロードされていた動画を見ましたよ(笑)本当はそんな見方は邪道なんですけど、日本に帰って見る余裕はなかったからなー。

感想から言うと「松本人志のオナニー作品」の一言に尽きる。

「オナニー=自己満足の追求」という図式を使いますけど、映画の中には主に彼のラジオ番組「松本人志の放送室」で彼が語っていた怒りや違和感を存分の盛り込み、なおかつヒーローもののパロディーをすると言った「笑い」がちゃんと入っていた。色々な見方がありますけど、この作品については「映画として」「お笑いとして」「松本人志として」語らなければならないでしょう。この三つのどれかが抜けても駄目だと思いました。

・映画として見たら→最悪な終わり方(笑)

・お笑いとしてみたら→「ごっつ」のコントを時間を使って証言してる

・松本人志としてみたら→アホな奴らにはごっつ腹立つ!!!!!

この作品はカンヌまで行ったものですけど、映画関係者からは不評だったそうですね。そりゃそうでしょう。映画作品は「映画として」見るだけが作品の享受の仕方ではないですから。いままで「お笑い映画(「みんな、やってるか~い!」)」や「コメディ映画」もあったし、監督の自己満足をとことん追求した作品はありましたよ。この映画のおかげである種の「映画の自家中毒」があることが浮き彫りになったんだと思います。映画が好きで映画をよく見る人でこの映画が嫌いな人は本当に多いと思う。ただ、たぶんそうした人たちは映画作品を「映画として・映画の見方」で映画を見るのに慣れていて、そうした公式以外の作り方の作品が出て来た時は自分の持っている公式から外れている作品だから「ありえねぇ~よ」と思ってしまうのではないのだろうか。映画の歴史は長いし、映画の文化も映画の方程式もその歴史の中で築き上げられてきた。ただ、そうした方程式は「公理」や「原理」ではないから、違った公式が出てきたときに保守的な動きがあるのはどうなのよ。。。とは多少思ってしまう。

・・・とはいうものの、この作品は自らが「松本人志」になってから見ないと作品を美味しくいただけないのは考え物ですね。彼にさえなりきれば作品の味わいが楽しめるんですけど、「なんで松っちゃんにならないといけないんだよ!」と思う人には駄作に見えることでしょう。でも監督はたぶんそれもわかってて作品を作っているとは思います。「わかるやつだけわかってくれ」。普段は視聴率と言う「絶対的な数値」と日々戦っている松っちゃんなんで、映画くらい自分が面白いと思ったものを撮りたいと思ったんだと思います。

以上。

ちなみに参考サイトとしてリンクしてあるブログはこの作品についてちゃんと批評しているなーと思ったもの。勉強になりました。

それでは、また。
2007/12/23のBlog
[ 03:05 ] [ イギリス生活 ]
お久しぶりです。またまた半月ぶりの更新。

世の中も回りもクリスマスモード一色ですねー。イギリス人は一ヶ月以上前からクリスマスに向けて準備するんでね。日本人から見れば「おまえら気が早すぎるだろう」と思ってしまうこともしばしばですよ。

最近、無料で日本のテレビがリアルタイムで見られるものをダウンロードして日本の年末特番を見てますよ。番組もさることながら、CMも当然見るんですけど、クリスマスに関するものが8割超えますね~。ただ、思うんですよ。どうも日本のクリスマスってピントがずれてるよなーと。。。

やっぱり違和感の始まりは「日本人はクリスチャンじゃないのに」と思ってしまうこと。

イギリス人の大多数はクリスチャンですし、クリスマスは文字通り「聖夜」であり、この日と次の日(26日:ボクシングデイ)は家で家族と過ごしてます。クリスマスやボクシングデイを含めた国民の祝日に働くと従業員は通常の二倍の給料が支払われるといった法律があるそうなんですけど、一般的なイギリス人たちのクリスマスは結構厳かなもんですよ。クリスマス商戦でいろいろな売り場がクリスマス用のプレゼントを用意していますが、バカ騒ぎをするといった雰囲気は微塵もないですね。たぶん、する必要もないんでしょうけど。

それに比べて、日本のクリスマスはもう完全に「イベント化」してますね。別にイベント化が悪いとは思っていませんが、やっぱり信仰心のないクリスマスはどうも違和感を感じざるおえない。その昔、日本に英語の先生として住んでいたイギリス人と話をしたときに「日本のクリスマスは祝い事(セレブレーション)じゃなくて飾り(デコレーション)だけだ」と言ってたのを思い出します。クリスマスと言うキリスト教のイベントに託けて騒いでるようにしか見えない。ちなみに言っておくと、イスラム教(一部関係あり)も仏教もユダヤ教も神道も儒教もクリスマスはまったく関係ないイベントですから。

日本人が「祭り」が好きなのは認めますよ。「正月」「バレンタインデイ」「お花見」「ゴールデンウィーク」「夏休み」「夏祭り」「運動会」「文化祭」「クリスマス」「忘年会・新年会」などなど、一年を通してお祭りをする言い訳で目白押し(笑)だから日本人にとっては「クリスマス」もこうしたバカ騒ぎする口実の一つなんでしょう。

ちなみに、サンシンの体験としてクリスマスの正式なミサに参加したことはあります。自分の高校はキリスト教系の全寮制の男子校で、クリスマスは立派なイベントでしたね。自分は別にクリスチャンではないんですけど、学校的にはしなきゃいけないでしょう。なので、写真のようなレプリカを祭壇の前に飾って神父さん(この時点でカトリックってわかりますけどw)が厳かに式をしてましたよ。イギリスでも毎週日曜日の朝はBBC(ITVだっけ?)でミサの様子を放送してます。どうもそれを見ると高校時代の地獄の生活を思い出して脂汗をかくこともしばしば(笑)同じ理由でクラシック音楽を聴くのも嫌いなんですw

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記事の更新が最近ないですけど、ブログには下書きした記事はあるんですけど、書いているうちになんだかどうでもよくなっちゃうですよね。どうしてだか。難しいところなんですけど、書きたいことや伝えたいことをただ書いてブログに載せる事はできないでしょう。どうしても文章を構成して、見直して、納得いく形で公開しないといけないですからね。思ってることだけを書いてたら角が立ってしょうがないでしょう(笑)

記事としては、松本人志監督の「大日本人」、落語の配信で起こった「炎上事件」、スピリチュアルブームなどなど書きたいことはかなりあるんですよ。文章校正が面倒なだけで(笑)

それでは、また。

サンシン
2007/12/02のBlog
そろそろエッセイが終わりそうです。。。

最近の不破さん、ツナミンさんのブログで展開されている「ケータイ小説論」について語られています。発端は僕が書いた不破さんのブログへのコメントから始まったんですが、話が広がっていったので、少し方向性を提示しようかな~と。

今週のビデオニュースは無料放送で中森明夫さんを交えて70年代からのアイドル論を展開していてかなり面白いので、いつか文章化してみようと思ってます。この番組の後半に70年代からのアイドル論、社会論をふまえた上で現代のケータイ小説論を話されていました。そこからもアイディアを少々。

何事にも、どんな事象でも訳のわからないものが世の中には出てきます。しかし、そのものに対する知識やマインドセットが少しあるだけである程度はわかるようになってくるもんです。最近のブームである「ケータイ小説」も昔からのサブカルチャーの流れをふまえていればこうした小説の形態がどうしてできてきたのか、どのようにしてできてきたのがぼんやりと見えてくると思います。

「大きな物語」の消失→島宇宙化(たくさんの小さな物語)

サブカルチャーの大きな流れから説明しますが、その昔には「大きな物語」が万人に共有できる社会が存在しました。言い換えるとどんな人でもある程度の「共通前提」を共有することができた。たとえば、第二次世界大戦後であれば、大戦が日本人の共通する体験であり、その後の高度経済成長も敗戦後の貧しさから抜け出すために必死でがんばった、といった体験の事を指す。「大きな物語」という共通前提が共有できたのはサブカルチャーの中では第二次オタクブームくらいまで。戦艦ヤマトの第一次世代、ガンダムの第二次世代までは社会的にもSFでもある程度「大きな物語」が共有できていた。

エポックメイキングだったのが「うる星やつら」のブーム。世の中のアニメオタクがガンダムだーヤマトだーと「大きな物語」を振りかざしていたときに、その流れに疲れた連中が「小さな世界の中の戯れ」を描いたのがうる星やつらであり、この頃から段々と「大きな物語」が作品を享受している人の中で共有されなくなってくる。(1980年代)

「大きな物語」が崩壊したのが奇しくもベルリンの壁の崩壊といった「冷戦構造の崩壊」とリンクする。その頃はアメリカ対ソ連の代理戦争で世界各地で不幸があったが、その不幸が世界中の国のみならず日本でも共有されていた感覚だった。「小さな物語」はあくまでも小さな世界の中の話なので、万人に共有できるような世界観を提示できていたわけではない。そうなると、人々の趣味や興味が細分化していき、サブカルチャーの中の共通前提がいくつも共有されなくなってきた。

95年から「エヴァンゲリオン」が放映され、爆発的な人気を得ました。しかし、このブームは昔のような「大きな物語の共有」をしていたからではなく、「各小さな物語の集約」が作品の中に見られた。作品からは宗教、文化、SF、戦隊もの、怪獣といったこれまでサブカルチャーが積み上げていったギミックがこれでもかと詰め込まれており、作品を中心にして様々な趣味を持つ人が動員されていった。だが、この後はまた大きな物語が構築されることもなく、たくさんある小さな物語を各人が選んで消費するスタイル(「趣味の蛸壷化、島宇宙化」)という方向に進んだ。

「セカイ系」と「泣きゲー」の興隆

「セカイ系」に関する議論はサンシンの過去記事を参照してください(その1その2)。簡単に説明しますと、物語の構造において「ボク、わたし」、「社会、国家」、「世界」といった大きく分けて三段階の構造で「ボク、わたし」と「世界」のみで構成され、(たぶん意図的に)「社会や国家」といった中間集団が省略され、ボクや私の救済や破滅により世界が救われたり破滅したりする作品を総称して「セカイ系」と呼ぶ。作品への効果としては「せつなさ」が十分に押し出され、お客を効率よくなかせるための構造として「エヴァ」以降は様々な作品で量産されてきた。

むかし「いま、会いにゆきます」の感想でも書きましたが、2000年代中盤の映画で泣ける映画が量産されましたが、サブカルチャーの流れで言えば、「エヴァ」以降に「美少女ゲーム」の作品で主にセカイ系の構造を利用して「泣きゲー」が数多く発売された。現在の「萌え」や「メイド」などといったフォーマットがたくさん作られた時期ですが、99年・00年・01年の美少女ゲームでは普通の陵辱ゲーム、ハーレムゲーム、SMゲームもありましたが、これらのジャンルのゲームよりも売れたのが「泣きゲー」もの。こうした流れの中でいかに作品のユーザーを「効率よく」泣かせられるかが作品の良し悪しが決まり、売り上げも相当変わってきた。その後、売れたゲームのノベルが売り出され、書籍としても「泣きゲー」のフォーマットが確立した。こうしたメディアミックスがいろいろと波及し、作品からHな要素を排除してプレイステーションなどの機種で全年齢対象のゲームとして売られたり、ライトノベルで作品化されたりと「効率よく客を泣かせるフォーマット」が普及していった。

「成長しないモチーフ」

こうしてケータイ小説が誕生するまでにはサブカルチャーの中に「小さな物語の乱立と孤立」、「セカイ系の物語構造」、「効率よく客を泣かせるフォーマット」といった要因がある。ケータイ小説の誕生までにはもちろん、携帯電話という決定的なハード面の普及は必要条件だけど、ケータイ小説を成立させるためには「成長しないモチーフ」が不可欠だと思う。

個人的な感想だけど、これだけ情報化した社会では「ビルディングス・ロマン(青春小説・成長小説)」は成立しにくい。個人が成長するために必要な忍耐が育ちにくいという側面もあるが、情報化によって危険性やリスクがアクセス契機さえあればいくらでも入手することができる。昔なら大人にならないとわからないような知識が情報化社会の中でいつでもどの年齢でも入手可能になった。こうなると人間は成長を目指すのではなく、様々なリスクや危険に対する免疫を作り、社会生活を営むようになる。そうなるとサブカルチャーの中でもこうした流れが反映され、作品(特にケータイ小説)のなかには病気、妊娠、レイプ、ホスト、援交などのモチーフが登場するが、主人公たちはこうした経験をしたのにもかかわらず、読者は危険やリスクを勉強し享受するのみで、最終的には成長せずにまた同じ生活に戻っていったり、環境を変えたりする。言い換えると免疫化といった蘇生術を身に着けることによって成長しなければならないという必然性が薄れていった。

「総論」

簡単に書きましたが、サンシンなりにざっくりとケータイ小説を語るなら「小さな物語の乱立・孤立」により半径5メートルの世界観を反映した物語が増えてくる、「セカイ系の物語構造」によって誕生した「効率よく客を泣かせるフォーマット」を作り出したのち、「成長しないモチーフ」を加味することによって誕生する現象。

ケータイ小説は主に10代の読者に消費される。けど、物語は効率よく泣かせ(感動)、別世界にある危険やリスクといったありそうなリアルを提供するが、主人公は成長しないために作品はただ自分の中を素通りするだけ。感動とリアルを提供することが作品の使命だから、消費された作品は使い捨て電池のように捨てられる。だから、こうした作品は作品としての芸術性を追求しているのではないので文学とは言えない。

ケータイ小説が文学と言えない要因の中に「複線の無さ」があるだろう。例えば、レイプされた後に嗚咽→妊娠発覚というように話が急に展開することも珍しくない。しかし、上記したように「感動」と「リアル」を提供することが至上命題の作品においてこれらを引き出す以外の要素は必要ない。必要が無いから使わない。こうした作り方が作品をより貧弱なものにしていきかねない。

本が好きな人にしてみれば、「なぜこんな薄っぺらな作品で感動できるんだ?」と疑問に思うだろう。ケータイ小説の使命は感動とリアルの提供であって話のダイナミズムや際立った個性の紹介、登場人物の幸せ・不幸を提供するものではないので、そうした感想を生むのはある種の必然だと思う。

サンシン自身はケータイ小説に対してはそんなに悪い印象は持ってません。エヴァや涼宮ハルヒのといった「セカイ系」作品を散々消費しましたし、高校時代は泣きゲーや切ない系作品をたくさん見てきたんで、世の中がケータイ小説を読んで感動するといった流れはよくわかります。だって経験済みだもん(笑)ただ、ケータイ小説は文学性、芸術性はあまり無いので、パターン化してしまうくらい作品を読めばすぐに飽きます。物語構成は単純ですし、どの作品も主人公や病、事故のパラメータを変えるだけで一つの作品が誕生するんです。問題はこうした構造に気づけるかどうかだと思う。上の世代に「ケータイ小説を読んでるのはサルだけ」なんて言われたくないですから(笑)

それでは、また。

サンシン
2007/11/26のBlog

久々の更新です。


これから不定期ですけど、9月のはじめに行った
「尾道~しまなみ街道~松山(道後温泉)~宇和島」
の旅のご報告を。

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サンシン
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サンシン