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2007/06/17のBlog



木曜日にマーケットに出かけたときに新鮮なバジリゴの鉢植えを買った。 ちょっと蒸し暑い日だったから夕食にスープとサラダで軽く仕上げるつもりでトマトスープに浮かせるバジリコの葉っぱと新しく入れた庭土にハーブを少しづつ植えていこうという意図からでもあったのだが、それはいいとして、土に穴を開け水をふりかけプラスチックのポットから取り出したバジリコを植えて廻りに水を足してこれでよし、と家に入った。

それから10分ほどして急に一天空がかき曇り大粒の雨が叩きつけるように降り始めそれが1時間ほど続き食事のときにいざスープに入れる葉を、と思っても雨脚が強すぎて外に出られなくて結局、冷凍庫にいれてあったもので間に合わせた。

この3,4日ほどこのような天気でヨーロッパ各地で局地的な一時的な豪雨が降り続き軽い災害になっているところもある。

うちでの災害は植えたばかりのバジリゴが雨に打たれて完全にぺっちゃんこになってしまったことだ。 それまではまともな格好で植わっていたものが今は見る影もなく押しつぶされている。 1週間もすればそろそろそのままの茎からまた垂直に伸びるものも出てくるのだろうが使えるようになるのにはまだ2週間ぐらいかかるかもしれない。

今日の天気も土砂降りまじりの同じような展開になり、午後から土曜のマーケットに出かけようとしたころから雷の混じる、バケツをぶちまけたような豪雨になり、とても出かける気も起こらず、結局、うちにいてありあわせのもので夕食を済ませたのだが、夕食後にはからりと晴れ上がり青空も見えたのだが入道雲が大きくなりかけているのが窓から見えた。

振ったり止んだりするのはいつものことなのだが、振るときには土砂降りになるのはたまらない。
2007/06/15のBlog


雨月(うげつ)

藤沢周 著

2002年

光文社 刊 ISBN4-334-92371-2


読了してもう何週間も経っているので細部は覚えていないから印象もぼやけたものになるのはしかたがないが、けれど、それを思い出しながら要点を記す。

二十代なかごろの青年が東京鶯谷の連れ込みホテル、曖昧宿、ラブホなどと言われるところで働いておりそこでの人間模様に奇妙な人物を投じて現代的な性の舞台と態様で読者を引っ張りながら読了後にニヤリとさせるような仕掛けである。

これで思い起こすのは一昨年だったか「新潮」に連載されていた村上春樹の「東京奇譚集 」なのだが村上の方は別段毒にもクスリにもならないものだったのだが藤沢のものは老婆と、いるかいないかわからないような痩躯の若い女性の残像が後味として残る。 

この2年ほど「文学界」だったかに単発的に掲載される藤沢のものに興味が惹かれるがこれらは藤沢の持ち味である、現代的な浪曲とでもいおうか、苦味と、精神がはじけそうな、神経がひきつりきれそうな瞬間までゆくプロセスとなりゆき任せ気味になる主人公に焦点があたっているからで、それでは本作ではどうかというと主人公にはそういう性格が与えられてはおらず、雨月物語の本歌取りなのか女にスポットがあたっているようで男はどちらかというと受身である。 現に主人公に圧力をかけるヤクザにもはっきりとした存在感がみあたらない。

文学雑誌掲載作にくらべて内面の切り込みが柔らかく感じられるのは掲載誌の読者を想定したからか、出来た作品が軽量級のものだったからからなのか判断が付きかねるがいずれにせよ文学雑誌の合評にとりあげられる(た)ものかどうか興味のあるところだ。


タチアオイ

英名; hollyhock
オランダ名; gewone stokroos
ラテン名; Althaea rosea


この何週間かバタバタとしていた庭と家周りの敷石の整理も何とか片が付き、猫の額ほどの芝生になんとか根がついて一回目の芝刈りも済み、ようやく格好だけはついたようだ。

何百キロもの砂と庭土も今はこんもりとなっているものの何ヶ月か経つと徐々に固まって目減りがするようになると言われているので今のところは少々こんもりと見えるものの2,3年のうちに10cmは下がるというのを眉唾物だと思いながらもまあそれもその筋の人間がいうのだから様子を見てみようと思う。

それで、まだ土が地のままで黒く植物も雑草さえもないところに注意していたら今まで放っておいたところに毎年見られるタチアオイが育っているのに気が付いた。 これはもう大分前に義弟のところにあったタチアオイの種をどこかに植えたらニョキニョキ育ったものなのだがこれは花が咲き種がはじけて冬になると立ち枯れして抜いてしまうのだけれど翌年もそのあたりから生えてきて花を咲かせるものだが、この何年もタチアオイは何も世話をしていなく、することといえば冬に惨めに立ち枯れになった茎を引き抜くぐらいだ。

同じところに咲くというのでもなく、また、大量に咲くというわけでなくあそこに一本、こちらに一本、というくらいで、今咲いているのはこの間取り除いた煉瓦タイルの間からひょろひょろと伸びていたものを抜かずに残しておいたものだ。 裏庭に続く入り口の古いタイルを取り除いて家の壁沿いに少しだけ土を入れたので結局、50cmほどの幅で壁際に土を残したところに伸びたことになる。 色もこれは赤いけれど今までのものには白いものもパステル調に薄く混ざったものもあったようだ。 以前には、今は今年一回目の開花がほぼ終わった前庭のバラのあいだから伸びたものがあったが今年はどういうわけかそこには何も見られない。

人間の背丈をはるかに凌いだ高さにまだいくつも芽があるのでこれから何週間か徐々に開花が上に続いていくにちがいないがこれは近年にない美しいものだ。 ハイビスカスや芙蓉の仲間だそうだがそれらの花にまつわる話は知っているもののハイビスカスも芙蓉もはっきりとはどんな花なのかは思い出せない。
2007/06/13のBlog


James Carter Organ Trio at BIMHuis

16-5-07


James Carter (ss, as, ts, fl)
Gerald Gibbs (Hammond organ B3)
Leonard King (ds)

もうそろそろこのコンサートに陪席してから一ヶ月近く経つので記憶も定かでなくなっているものの、この日の印象を手元のアルバムと比較してみると数年前に初めて聴いたGardenias for Lady Dayには強く印象付けられなかったもののその後久しく名前を見なかったJames Blood Ulmerも聴けるOut of Nowhere; Live at Blue Note (Halfnote 4520)でJBUのギターもさることながらJCの実力のほどを収録の初めの2曲で驚きと関心をもって聴いたのだが、これ以上に当日のライブは興味深いものだったことを記憶している。

四本の楽器を手に入場するJCを待ち受けたのは満場の老若男女で、中でも熱狂的な2,3の女性のノリには当人も曲の合間の語りで受け答えをしていたものの時には当惑気味なほどだったのだがそれも本人のまいた種で興奮させた結果である。 

途中20分ほどの休憩を挟んで9時半に始まり12時を少し廻ってのアンコール終了まで第一セット3曲、第二セット4曲の熱演ではさまざまな意匠を開陳して飽かせることはなかった。 ハードバップからフリー、そして甘いバラードにカリプソ調まで慣れたユニットでアンサンブルも多様である。

4ヶ月前にここでその現在を確認したグレッグ・オズビーと同じく、次の演奏会が今から待ち焦がれる中堅トップたちである。
2007/06/12のBlog
[ 23:01 ] [ 日常 ]


昼食時にこれもやっと寝床から起き出してきて、時差がないにもかかわらず連日の馬鹿騒ぎで過ごした地中海気分がまだ抜け切れぬドラ息子とビールを飲みながら新聞を読んでいたらちょっとしたコラムに「誰がペット食の味見をするのか」、といような記事が出ていた。

以前テレビのバラエティー番組で缶入りのドッグフードやキャットフードをスプーンでそのまま掬って食べている人を見てウワッとおもったことがあるがそれは日頃足元をまとわりつく叔母さん猫に与える餌の缶を開けたときの匂いのすごさを思い出してたまらん、と閉口したからなのだろうが、しかし、振り返ってみると我々もかなり強くて癖のある匂いのものを口にしているのだから、それは、生臭い渾然とした強烈な、どうせこの食品業界はまともな材料を使っていないにちがいない、というような古い偏見がそう思わせるのだろう。 それにスーパーのペットコーナーで高級、ペットの健康を保証するデラックスと宣伝され、銀の皿に乗ったキャットフードのTVコマーシャルを見ていてもまだそういった偏見がそう思わせるのかもしれないと思い返すもののそこは凡人、あの匂いはどうもたまらない。

それで、何年も前にテレビで見たペット食品を食べる人のそのときの感想はどちらも人間の食うものに比べて薄味だと語っていたような気がする。

記事を読み進めていって納得がいった。 味覚、嗅覚がポイントで犬、猫などの嗅覚は人間の何十倍もあるのだけれど味覚は、犬は甘いものを好み、猫は酸っぱいものを好む傾向にあるもののそれらは人間の数十分の一でペットの好みに影響しないから業界は味付けコストを省略しているのだと世界的にもトップクラスのオランダ農業大学でペットフード研究で権威の教授が言っている。 なるほど、食品産業で無視できないペットフードであるのだからそういう人もいるのだなあ、と感心したのだが、だからテレビでむしゃむしゃ食っていた人の証言につながる。 そうするとあの人は鼻が鈍かったのだろうか。 まあ、慣れ、ということもあるのだが鼻のいい人と悪い人がいるのだから納得もできる。

しかし、まてよ、我々でも強烈なペット食の匂いを、その何十倍も利く鼻で犬、猫が嗅いで待てないほどムシャブリつかせる力があるのであるからそのインパクトを想像するだけで物凄いものがあるのだが、果たしてそれは何なのだろうか。

加工食品でなくともそういうペット食に関する経験がある。

もう四半世紀ほど前に、それは家人と知り合った頃、彼女が飼っていた25kgほどあるベルギー牧羊犬のブービェー種で叔母さんムクイヌの餌に3週間に一度ほど肉屋の冷凍庫から大人の頭ほどある牛の胃の塊を買ってきて、半日ほど解凍した後、喰わせていた。 新鮮な牛の胃を冷凍したものであるから肉屋ではどうということはないものの、解体したときの牛の胃の内容物がそのまま入ったままであり、酵母や胃液にさまざまなものが混じってものすごい匂いが部屋中に充満してくるとこの叔母さん犬はもう堪らない。 そわそわしだして、それを与えたときには普通の餌に向かうときとはまるで違い、野生が露になり狂ったようにむしゃぶりつく。 匂いに関してはこっちの堪らなさと向こうの堪らなさは正反対のベクトルを向いている。 新鮮な牛の糞の匂いといってもいいだろうか。 だから、肉屋で塊を取り出しているときに他の客と顔をあわせると、互いにいくらペットのためとはいえ大変だな、とニヤリとしあうものだ。 しかし、これは栄養価が抜群なのだそうだ。 ことばがあるかないか定かでなかった頃のわれわれの祖先もそのようにむしゃぶりついたのだろうか。

さて、ここからが今日の日記の本題。 これも四半世紀ほど前、日本、オランダ航空チケットで一番安かったのが大韓航空で貧乏人の我々が座るエコノミーの食事でも食器には陶器を使っていた。 その小皿を家人がどこかで安売りショップで見つけてきて何組か使っているのだが一組を猫の乾物フードと水の入れ物にしている。

先日、家人が肉、野菜の乾物フードを誤って水の皿に入れてしまいそれに気が付かなかった。 あとで猫の皿を見た私は今までと形も色も少し違うのを見て娘がどこかでまた新製品を買って来たのかなと思った私の足元で叔母さん猫が餌をせがむのだ。

妙だ。 目の前に皿一杯の餌があるにもかかわらず食べない猫に腹を立てて、贅沢なものだ、口に合わないものは跨いで渡る、これをネコマタという、というような昔、古文の教師が冗談を今昔物語の話に引っ掛けて言っていたことを思い出したのだが放っておけばそのうち食べるだろうとこちらも少しは意地になりネコマタにさせずと我慢比べをしたのだが、この叔母さんだめらしい。 見てくれは悪くないし何が悪いのか匂ってみても殆ど香りもなく私にしてみてはたかがふやけた固形食なのだからと見たのが今考えてみれば誤りだったのだ。

家人が見かねて固形食を与えたら、いままでの空腹を満たすためと老猫の歯の訓練のためかカリカリと噛み始めた。 結局、匂いだったのだろう。 そうなのか。 ひょっとしてぶよぶよにふやけた餌の舌に感じる触感もあるのではないかと思うもののそれは同じようなものを食わせているのでそれはないようでもあるし、、、、、。

犬も猫も視覚はほぼ白黒の世界でペット食の見栄えがいいのは飼い主に買わせる為の操作だそうだ。