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2008/03/10のBlog


Chris Potter’s Undergroud

Sun. 8, March '08 at BIMHUIS in Amsterdam

Chris Potter (ts., bas cl.)
Adam Rogers (el. g)
Scott Colley (b)
Nate Smith (ds)

1st Set

1) Viva Las Vilnius
2) Nudnik
3) Lotus Flower (B.Streihorn)

2nd Set

4) Untitled
5)
6) It ain't true, Babe (B.Dylan)
7) Rambles (A. Rogers)
8)

Encore
9)

300人ほど収容のホールは開演30分前には全部詰まりさすが人気のテナーマンだとカメラマンのとなり、技術のコンソール近くにイスをもって行き席を確保してバーにコーヒーを飲みに行った。 ゆっくり辺りを見回して20代の若者が多いのに気がついた。 フランス語、ドイツ語が行きかうジャズプロパー、将来ジャズやそれに類することで世の中を渡っていこうと切磋する人たちのように見受けられる。 アジア系としては聴く日本人は見受けられるものの音楽をやる若者ではやはり圧倒的に韓国人、それに中国語をはなすものが多い。

階段状通路に座るもの、後ろの壁にもたれて立つもので一杯の開場である。 大抵は第一ステージで肩慣らしフォーマルなものから徐々に馬力を上げて第二ステージで本来のライブ、全速、現在進行中のものを馴染ませ発展させ、様子をみる、というようなプロセスになるのだが、初めの二曲を30分以上途切れなく演奏して開幕した。

今回の3週間のツアーはカナリー諸島に始まりオーストラリアのパースを経てこの夜アムステルダムで終わる、と初めの2曲、最新アルバムに収められた Viva Las Vilniusともう一つを発展させたものらしい。 2曲とはいうもののこの内容は濃密だ。 ポリリズムに変則、モードにフリーとその定評のある正確さと端正なホーンに隠した肉体と精神の強靭さを徐々に開陳するようだ。

それに続くのは2)と同じくバンドの名を冠した06年のアルバムからエリントンの右腕ストレーホーンの「蓮の花」、ショーターだけでなくホーン奏者だちが好む曲だ。 緩急、緊張と緩和で聴衆をひっぱっていくようだ。

ドラムとギターのバランス、力量が若いミュージシャン達の多くをを魅了するようだ。 2000年も初めの10年の終わりがそろそろ見えようかという現在、そこにはこの20年ほどのポップが入るのは当然でフュージョンとかフリーとかいうのに加えてレゲエなどの要素が発酵されてこの二人には著しく、私には70年代マイルスのギター、ドラムスを思い起こさせるようにも聴こえた。 明らかにマクラフリン、スコフィールド、スターン、デジョネット、フォスターラインなのだし皆充分それを踏襲してのストラトキャスターとテレキャスターのハイブリッド、ソリッドギターに、それに相性がよく歯切れのいい力強いドラムスだ。

一方、バスクラリネットとテナーに何の電気的コードもつけずに吹きまくるポッターはめまぐるしくテンポ、諧調を上下左右にその指を滑らせる間は一点空に眼を向けて吹くのだがそれに一旦火がつくと周りを引きつれ統率し、脇に一旦置いては単独行で駆け回りのたくりまわりひとしきりのあと見事にポリリズム、諧調、モード移動のユニゾンで会場の喝采を受ける、といったパターンが各所で見られた。 

ここで同世代のテナーマンでポッターと対照してみようとするとシカゴを本拠にするケン・ファンデルマーク(Ken Vandermark)を思い起こすのだ。 ジャズのある時期区別されて語られたイーストコーストとウエストコーストというような違いが、時代も二人の様相も違うパーフォーマンスに無理やり比せばポッターにはリー・コニッツの次世代が重なる様でもある。

ポップ、フュージョンというような要素をバンドに持ちながらそれらのジャンルではあまりまともに理解されないテナーサックスを吹き彼のジャズをビートルズやディランの曲に乗せるポッターにはいくら狂騒に入って、驚く若者を釘付けにし、老人達の体を前後左右に揺すぶらせ喜ばせるにしてもあくまで端正で醒めたところがあるようで、それは土方のジャズとも私が呼ぶ、ホーンを中心にしたヴァンデルマルク(Ken Vandermark)のフリー、インプロなんでもありの完全燃焼型とは趣を異にするようだ。


羊肉を北アフリカの様々な香菜、香料を加えて厚保鍋で煮たものに厚ければパン、薄ければクラッカーといった麦の粉を焼いたものをじっくりと腹にこたえるスープの合間に時折カリカリと齧る。

日曜の夕食でもあるのに子供たちはそれぞれスポーツの試合、練習、その後の友達達との会食と我々の食卓も夫婦二人で過ごすことが増えた夕食だった。

自然と大人だけの会話となり昨日からの憂慮は義母の命の終焉の始まりに絡むことなのだ。 子供には分かりにくいこともあり、また、若くからこういうことは分からずともすませればそのうち徐々に分かるのだから今の子供がいない時間にはゆっくりと夫婦で話をすることができる。 また、こういうことはレストランの卓で話すことでもないから我々の年頃の夫婦の食卓にあることなのだろう。

この半年以上のうちで義父母のことで急展開したのは図らずも義母の余命がほぼ期限を切られ宣告されたことだ。 それまでは義父のことが概ね家族、とりわけ我々子供たちの間でもしも、、と話されることもあったからだ。 80を越えて厳しい戦争の後遺症を心に抱えている人には何も心配のない今の安寧が逆に様々なことを思い出させ人生の過ぎた過去にたいして憤りがいくつも湧き上がるのだ。 それがなまじ心優しい青年の身の上に起こり戦後必死に家族、4人の娘を支えてきて、ある意味では戦後生まれの何不自由ない生活の中で育てた子供たち、妻にも理解されないドイツ強制収用作業所、その後のインドネシアでの独立運動抑圧軍兵士としての思いがふつふつと折に触れ湧き上がり怒りとなるのだろう。 誰にも理解されなく世界が自分に敵対してくる、と言う風に。 妻、娘たちは途方に暮れて致し方がない。

プロテスタントの敬虔な信者で他の村人達と同じように勤勉な生活を送り男は外、女は家の事を、という生活分担をしていたのだから今の時期に全てを頼る最愛の妻に倒れられる打撃と恐怖が心に起こす義父の混乱に皆憂慮していた。 子供たちには頼らない、というのが親の誇りであるから子供たちは義父母の、ひ孫まである孫たちを定期的に見舞いにやり気分を和ませていたのだが義父が看病疲れか慢性の鬱が出たのか、今朝、家人だけで様子を見に出かけたところでも義父がまた昨晩義妹にはじけたのと同じように怒ったらしい。

生憎、家庭医が2週間の休暇中でその方策が立てられなく、義父の様子に不安を持ちながらもこの30年以上二人だけで暮らしている義母の逡巡にそろそろ子供たちの介入が必要になる時期が迫っていると我々も考え始めているのだ。 あちこちで聞かれる、老いた親を持つ子供たちが親の最善を願う策は痛みをも伴うプロセスである。

偏見だろうが家族構成、女5、男1では堪らない。 男がである。 そして何やかやと口うるさい女の家でもともと内気な男親が長年何も世間のことが分からぬ娘達に囲まれて落ち着くはずがない。 娘達は世間をわきまえているのだが義父の世間とは位相が違う。 この何年か私は時々男どうしとして義父と話すことがある。 イタリア人、日本人の婿を持つ義父には言葉、心理的な壁があるものの少なくとも娘達には分からぬ、また、娘たちが関心を持たず耳を傾けないようなことに対して聴く耳は持っている。 日本人の我々の親達、叔父、伯母たちの戦場、内地での戦争体験は義父の体験と共通の理解、痛みを共有できるものでもある。 

家人の話を聴きながら義父の反応は私には納得のいくものだ。 2,3日して一度一人で義父母を訪れてみようかと思う。
2008/03/09のBlog
[ 12:00 ] [ 日常 ]



夜型人間としては何処かで何かスナップショットを撮るにしても、昼のぼちぼち春の陽射しが暖かくなった頃には鼻提灯なのだから自然と夜中に外に出ることとなり、それで薄い光のもとでカメラを弄ぶこととなる。 持ち前の物臭から口径の大きいレンズがついた、両手でしっかり持たねばならないカメラは大業なのでポケットから取り出してあれもだめこれもだめ、暗すぎる、と毒づき、ファインダーを覗きごちゃごちゃやってるとオジサン前通ってもいい?何なら私達入ろうか、というような娘達が前を横切る夜中の1時前だ。

この12時間前には青空市場が立ち忙しく物売りのテントが並び、肌着にネッカチーフ、靴下なんでもあり、生地屋にアクセサリー、糸、毛糸、ホックにボタン、というような繊維製品、そんな関係商品を商う一角だ。 これもこの町のもう何百年と続いてきた場所なのだからそれが夕方全てきれいに撤去されてガランとするとそこには人々の雑踏の影に隠れていた生地売りの男の銅像が現れる。

16世紀に風車の力を利用して繊維業が発達、それが町の力となりここでライン川の支流が合流し10kmほど先には北海に注ぐこともあり、ここから東洋、新大陸と交易の帆船が行きかったところでもあり、また5分も歩けばレンブラントの生家がありかれが二十歳の頃この町を出るまではここを何度も通り自分の身に合った服やアトリエで静物、人物が横たわったり後ろに垂れ下がったりする布地を買い求めたのかもしれないところでもある。

けれどこの布売りの銅像の後ろに見える妙な形の教会は400年も戻るその頃には形もなく、ついこの間、150年ほど前に建てられたものだ。 当時の流行がこのかたちとなり、教会とも見えない神殿風、正面入り口の上には、千手観音の光背かとも思える四方八方に広がる光の筋に囲まれて、その中にはエジプトの神殿かピラミッドの墓に見られるような大きな眼が見下ろしている。

先ほどのジャズ、ビッグバンドコンサートの熱を覚ましがてら帰宅途中の夕涼みの一角だ。 自転車が並ぶのはこのレンガ造りの半眼鏡橋ともいえる下に酒蔵か数百年昔には監獄であったような穴倉になっていて今は若者のホットスポットらしい。 アニーの誕生日、というのがそのカフェーの名前だ。 週末の若者達の集まるところとしてはうちの子供たちもこのあたりで友達連中とがやがやとこれから朝方まで賑やかにすごし疲れて帰宅となるのだろう。 

その子供たちも息子のとりたての運転免許証でドライブがてらそれを見せるために今朝、余り外に出なくなったおじいちゃんおばあちゃんの家に見舞いに行ったらしい。 どちらもあと数年で別れることが分かっている年寄りと過ごす時間を惜しんでいるようだ。 彼らのいとこ達も時々そのようにしているし足腰の弱った年寄りへの思いやりもこちらから別に指図せずとも自分達で示し合わせてやっているようなのは家族、親戚のネットワークが働いているからでもある。 コンサートに出る前には家人のところに彼女の妹が電話をかけてきて義父が夕方何か分からぬ理不尽なことを訴え、叱られたといって長電話をしていた。 

明日の朝は我々が出かけて年寄りの話を聞くことになるかもしれぬ。
2008/03/08のBlog
[ 12:56 ] [ 日常 ]


3日ほど前にもう20年も仕事場で顔を合わせている知り合いとそのパートナーを久しぶりに招き、家族ですき焼きの食卓を囲んだ。 20年前に北の街、グロニンゲンから引っ越してきて彼は親切にも我々の新居を世話してくれた。 ハーグ市の一角にあった。 それが彼のうちの隣で、隣同士になってからは裏庭のコンクリートの低い塀を越えてもののやり取りをしたり2つ3つの息子も二人の手で塀をいったり来たりもしたものだ。 その家で息子も娘も生まれ庭の小さな林檎の木の下には娘の胎盤も埋っている。 そして娘が這い始めるかどうかという頃に我々は今のうちを買って引っ越した。 それが17年前だ。 そこに住んだ5年の間通勤の電車で我々はほぼ毎日一緒に行き帰りした。

それからじきに彼らは離婚して仕事場のある町に引っ越してきて町の反対側に住んだ。その彼の父親はこの国の代表的なシンフォニーオーケストラのコンサートマスターもした人で、けれどそんな有名人の息子である本人は地味で普通、我々と同じ公務員でこつこつと実直に働く人だ。 何事にも控えめでユーモアもあり、よくいる能天気なほど陽気なオランダ人に混じっても社交的ではあるけれど静かな生活が一番性にあっているというような人柄だ。

仕事場では沢山のオフィスがあり我々は別々に働くから大抵は通りすがりに事務的な話をしたりするぐらいでゆっくり話をする機会はない。 殊に我々がそれぞれ半分定年の時期に入って事務所に出向くことも少なくなって顔を合わす機会が一層減ったということもある。 この前彼を家に呼んだのはもう10年以前になるだろうか。 だから今回、四方山話に花が咲き、彼の息子のことにも話が及び、彼の息子は私の息子も通う大学を卒業するようにもなり、また、お爺さんの血をひいたのか学生のオーケストラでヴァイオリンを弾いているということだ。 久しく会っていないので会ってももう顔を確認できないのではないかと思うほどだ。

その彼が手土産に持ってきてくれた籠に入った球根が居間の机の上にあり、そのときは大鋸屑のなかに設えられたいくつもの球根には緑の葉が出ていただけだけれど3日しか経っていないのに今ではミニ水仙の花がもう7分咲きになっている。
2008/03/07のBlog


新しいショッピングモールもかなり出来かけて、毎週通う仮住まいのスーパーもほぼ3年以上になるのではないかとその近くの魚屋で白身魚の揚げ物とビールの遅い立ち食い昼食を摂りながらぼんやりとしていた。 

以前、このスーパーが入っていたスペースの一部分がアパートになり、一帯が色々な店舗が並ぶアーケードとなりかなり、もとのかなり広い駐車場、時々は青空マーケットになっていた部分が今の仮店舗となっている。 けれどもどういうわけか正確なその姿は忘れた。 3年以上経ち毎週ここに来てそれに慣れてしまうとと古い日常は忘れてしまうのか。 いいかげんなものだ。

カートに一杯になった買い物を適当に近くの道路に停めてあった車に放り込み空になったカートを元の置き場にもどしに戻るとアーケードを改装したときに建てられたのだと思うブロンズ像が目に入った。

背丈もほぼ等身大で髪をお下げにして編んだのが二つ、それに大きなリボンがついている。 胸もまだ出ていなくて今の極普通に見られる少女、娘にないタイプだ。 顔つきもこのタイプはあるものの違いは髪型、服装にでているのだろう。 第一、今の娘はスカートをはかないし、このような長いコートのようなワンピースは見られない。 ないことはないのだがファッションとしては考古学的な服装なのだろう。 けれど、ここが改装されたのは3,4年前なのだからこれはそれまでに何処かにあったものをここに移したのだろうか。 それともどこでもこのような一角ができあがると新しい記念物、像などを芸術家に委託してオープニングに市長や市会の文化、経済担当の議員がテープカットをするのだからあながち古いものでもないのだろう。

町のあちこちに様々なモニュメント、造形物があって街角にもいろいろなこのような銅像、ブロンズ像などが見られる。 通りや広場の名前がわからないときにはこういうものが目印になって場所がわかり、その出来、不出来に話題が移ることもある。

人が行きかい自身も一年に30回以上通り過ぎる場所にある、この、少女から若い娘になりつつある女の像なのだがあまり記憶には残らないものとみえる。 今日立ち止まってカメラにその姿を納めたのは何故なのだろうかと自問して思い当たるふしがあった。

うちに戻りこんなの撮ったよ、と家人に見せたら、ああ、ショッピングセンターの、、、と言い、あれ、これ、きのう見た、1950年ごろのロンドンを舞台にした映画の中で無理やり好きでもない男とベッドに入りその結果堕胎することになった神経症ぎみの良家の娘に似てるわね、と言ったのだ。

撮ってから思った私の感想と同じだったのだ。