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2008/08/11のBlog
[ 09:31 ]
夜中にうろうろしていると腹が減ったり酔い覚めたりして口寂しくなることがあり、そういうときにはこの小振りの林檎が重宝する。
各国でいろいろ銘柄があったりするのだろうけど、この何年か私の気に入りの林檎である。 NewZealand 産の BRAEBURN4101 種で enza というブランドなんだろうか。 それまでは日本のFuji とか青い林檎でGrannySmithとかいうのを、Fuji はカミサン好み、スミスおばあさんの方はサラダに刻んでその酸味にしているけれど個人的にはFujiはちょっと甘すぎて固めの歯ざわりはいいけれどあまり手に取ることはない。 スミスおばあさんのほうは1年に何回齧るのだろうか、ジョギングのあとビールを飲み始めてからはご無沙汰だ。 そんなわけでスーパーや青空市場で選ぶと自然とこれを買う。
娘はパイを焼くのになんとかいう煮たり焼いたりするようなごつごつした林檎を買っているのだがそれはそのままでは喰えない。
夜中の虫養いだから大きすぎても喰いきれないしちょうど掌に包み込めるような小振りで枝から切りとる時にそのままついてきた切れ端をクルクル捻って切り取りズボンでちょっと磨いて底というか尻から齧る。 地球でいえば南極から回しながら徐々に北上するように齧っていけばハワイのあたりでは地球の核が幾つかの大きなゴマのように見えるものの中心の種の部分も他の実というか肉というかそれと一緒に全部食い尽くせることになり普通に齧っていたように両極と種のコアの部分を捨てるのにゴミ箱を捜すこともない。 そう言ったのはもう30年ほど前にボロ車を運転しながら老アメリカ人から聞いたことでそれ以来私もそれに倣っている。
その人も子供の頃アメリカの何とか言ったか忘れてしまったがその人の田舎の爺さんに聞いたのだといっていたから昔からそんなことをしていたのだなあ、と感心というか合理的というか面白いと思い倣ったというわけだ。
さて、この林檎、齧ったのだが買ったのはいつだったか忘れていて噛んだ途端にその歯ごたえも新鮮な酸味と甘さが混ざった手ごたえもなく他のなんとかいう平凡な少々スポンジじみた味が出て、けれど一度齧り始めたのだから、年寄りの教えの通り一度始めたことは毒や腐ったものでなければ喰ってしまうのがケジメだ、と聞かされたとおり今回はハズレだったことを認め北極まで全て地球を食い尽くしたのだった。
2008/08/10のBlog
[ 07:25 ]
[ 日常 ]
相変わらず天気が定まらない。
昼間に土曜のマーケットで買い物しているときは陽が射さないものの薄暗い曇りでもなく普通に歩けたしそこそこ温度もあるけれどちょっと風も吹いていてポロシャツだけでは肌寒く合服のジャケットを羽織って自転車に乗り青空マーケットまで来たらそれではちょっと暑く脱いで歩く、といった具合だった。 買い物が多くなり両手に一杯の買い物籠をぶらさげて歩くのにはジャケットを持つのは不便で着て歩いても汗が出なかったのだからそのときは暑くはなかったのだろう。
帰宅途中に会計事務所の電光掲示板には23℃と出ていたが湿度があるから体感では25℃ぐらいかもしれなくて夕方ビールを飲むには支障はなかった。
娘のボーイフレンドをよんで5人で餃子パーティーの予定だったから家人と子供達4人で餃子を包ませているときには、裏庭で食事できるかどうか、と言っていたものが包み終わる頃には細かい雨が降ってきて結局家の中で食事をすることになったのだが焼いた餃子に少量の水をふりかけ蓋をして蒸らせた後その蒸気を発散させるのに庭に出ても細かな雨だから支障はなくなんか中途半端な天気ではある。
夜中に車に置いた何かを取りに出るのに玄関から出たら雨は止んでいて玄関の微かな電燈で庭石の上を這うカタツムリが何匹か見えた。 こういう湿り気のあるときには数多く出るのだが、こういうとき表の歩道に出るまでに時々バリッと薄い殻を踏みつけてしまいいやな気持ちになる。 こっちはいやな気持ちだけなのだが踏まれる方は堪ったものではない。 死に至るのだ。 今夜は雨でもなく緊急でもないからちゃんと足元を見るのだろうが雨のときなら昼でも大抵は急に飛び出すときにグシャっとなるのだ。 なるのではなくそうしてしまうのだ。 心しなくては。
[ 00:55 ]
[ 見る ]
大地震(1974)
EARTHQUAKE
122分
監督: マーク・ロブソン
製作: マーク・ロブソン
製作総指揮: ジェニングス・ラング
脚本: マリオ・プーゾ
ジョージ・フォックス
撮影: フィリップ・H・ラスロップ
特殊効果: アルバート・ホイットロック
音楽: ジョン・ウィリアムズ
出演: チャールトン・ヘストン
エヴァ・ガードナー
ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド
ジョージ・ケネディ
リチャード・ラウンドトゥリー
ローン・グリーン
バリー・サリヴァン
マージョー・ゴートナー
ロイド・ノーラン
ヴィクトリア・プリンシパル
モニカ・ルイス
ペドロ・アルメンダリス・Jr
タイガー・ウィリアムズ
ジョン・ランドルフ
ウォルター・マッチャンスカヤスキー
(ウォルター・マッソー)
ロイド・ガフ
ドナルド・モファット
1970年代にロサンゼルスで実際に起こった大地震を基に、地震による災害に見舞われ大混乱に陥っていくロサンゼルス市民とその凄まじさを描いたパニック大作。
建設会社の重役を務めるスチュワートは、妻でその会社の社長令嬢でもあるレミーとの間に深い溝ができ、離婚もやむなしの状態になっていた。しかも事故で死んだ技師の未亡人デニスとその息子の面倒を見ていることがレミーの嫉妬を誘っている。そんな中、彼らの住むロサンゼルスに軽度の地震が発生する。地震研究所が調査した結果、近く稀に見る大地震が起こると予測。はたして間もなく、超大型の地震がロサンゼルスを襲った。建物は崩れ、火災や洪水も発生、街は大パニックとなり、人々は次々に命を落としていく。一方、会社ビルにいたスチュワートは二次災害に遭いながらも打開策に奔走していくのだが…。
タイトルが全てを語る好見本のパニック映画。水増し的なメロドラマは退屈なので、主眼はひたすら地震による災害シーンになる。ただしアカデミーを受賞した特撮も、劇場では立体音響センサラウンド(ユニヴァーサルの開発した特殊スピーカーによるシステムで重低音の迫力が話題を呼んだが、コストがかかるためこの後「ミッドウェイ」「ジェット・ローラー・コースター」「宇宙空母ギャラクティカ」に使用されただけで消えてしまった)との相乗効果でかなりの物だったが、TV上ではインパクトはかなり減ってしまう。米TV放映時に、地震の最中に空港に着陸する旅客機等数十分のシーンが新たに撮影・追加され、日本でもそのヴァージョンはTV放映されている。酒場の酔っ払いでウォルター・マッソーがゲスト出演している事は有名。
上記映画データベースのことで概要は分り、既に本作が制作されてから35年にもなろうかという今、これ以後のパニック映画もいろいろ揃い、近年では「タイタニック」に見られるような重要な場面でCGを駆使する映画の走りとでも言うべきものが本作で効果的に使われているなあ、ともう何年も前に途切れ途切れに何回か見たものを今日は初めから終わりまで観て思う。
今日これが放映されるのはつい先日チャールトン・へストンが亡くなったということに関してBBCが深夜映画として放映されたものでチャーストン・ヘストントといえば近年銀幕に登場して話題になったのはマイケル・ムーアのアメリカ銃社会を批判したドキュメンタリー映画だった。 そこでは全米ライフル協会の頭として自分の設計したうちの入り口辺りで巨漢ムーアに辟易しながらも老いた姿で歯切れ悪く対応していた姿が印象的だった。 私自身オランダライフル協会のメンバーとして銃にたいしては一定の想いはあるものの、そこにはベンハーや十戒、猿の惑星に数々の西部劇での勇姿は見られず現実が聖林(ホーリーウッド)の聖たるところを逆像にして垣間見せてくれただけでもムーアの映画には価値があるだろう。
見続けようとしたのはヘストンを見ようとしていたからではなくむしろ、ジョージ・ケネディとウォルター・マッチャンスカヤスキー(ウォルター・マッソー)が出ていたからであり、同じくこの頃に見ていた本作と同年制作の「タワリングインフェルノ」とどう違っていたかを思い出すためでもあった。 インフェルノの方は消防士としてスティーブ(拳銃無宿、大脱走、ブリット、ジュニアボナー)マックイーンが出ていたような気もし筋書きもはっきりせず、そうすればこういうビルや建物内部で何人かを数珠繋ぎで救出するときのワクワク感、というかゾクゾク感は本作に先立つこと2年前制作の「ポセイドン・アドベンチャー」をも思い起こし、そういえばアドベンチャーの方は往年の美人シェリー・ウィンタースも出ていて本作のエヴァ・ガードナーに対応するし、二人とも惜しくも水の中に消えるという筋でも共通する。 考えてみると聖林ではこのころが災害とかパニックとかを題材にした映画の黄金時代だったのだ。 本作中パニックの映画館のなかで当時流行っていたクリント・イーストウッドのマカロニウエスタンのフィルムが焼けこげるところでも当時アップツーデートということを偲ばせる。
本作ほぼ終盤に廃墟となったロスアンジェルスの様子が見せられるのだが9・11の景色とも共通して我々は9・11を経験してからは本作を、あるところではツインタワーの様子とダブらせることにもなり70年代当時のエンターテイメントとしての娯楽作の見方ができないような部分もある。 今回冒頭のシーンでいつもどこでも聖林のシンボル、丘の上にあるHOLLYWOOD の手前にダムがあるのをここで初めて知ったのだがそれまでに散々アクション映画の中で排水路を探偵ごっこの車がはしりまわるのも見ていてそれじゃあラスベガスのあたりにあるフーバーダムが決壊したらどうなるのかなと余計想像もしたのだった。 ま、この手の映画は他人の不幸は蜜の味、というカテゴーにはいるもので、けれどこないだの中国の地震災害のことが映画になっても面白いことは少しもなくただ鬱陶しい物でしかないだろう。
この40年ほどうちの家訓は東京は避けよ、ということなのだが友人の家が神戸の震災の折、震源地の近くで建物が完全に倒壊したこともあり、首都にそれが起こればその混乱振りが想像に難くもなく、国の試算でも関東大震災クラスがくれば十数万が確実に死亡すると出ていることもそれに加わりたとえ交通事故のほうがはるかにその可能性が高くとも大地震を避けよという家訓を守ることにして箱根から西には化け物が出るという警句とともに心している。
2008/08/09のBlog
[ 03:52 ]
[ 見る ]
開会式を間近に控えオランダでももう何週間も前からオリンピック関連でさまざまな中国報道がメディアに連日現れる。 そのスタンスは日本のものとかなり違うようなものもあり、とくにスポーツに平行して中国というその国についての掘り下げたものが多いなかにそういうものがあると思われる。 中国に対する知識は日本よりは古くからあるとしてもこの四半世紀がアジアでは日本の報道が多かったのに比べて特に今の時期には日本は影も形もない、という印象はぬぐいがたいし、これも日本自体の国力の弱体化が露呈してきていることがそれに輪をかけているのかもしれない。
チベットと中国国内の人権問題、経済、政治に渉るものがここに来てスポーツの祭典を契機にしてメディアのいい材料になっている感がある。 センセーショナリズムはある程度不可欠だとしてもポリティカルコレクトのメディアにとっては神よりも尊い(報道の)自由と正義に関して今格好の猟場であるのが中国なのだ。 それに近年の経済での驚異的な世界進出に関連して過去も現在もその安い労働力供給地や市場としてのメリットでは充分潤っている、日本を含めての欧米諸国の、統制が行き届いている、別の見方をすれば自由ということを抑えた体制から発展してくる将来の経済大国としての中国を押さえ込もうという西欧の怖れや思惑をに沿った経済戦争の場のプロパガンダとも重なりメディアの「高尚な」自由と正義キャンペーンが中国の一般民を逆なでする現象がみられるのだ。 昨日も大国中国を無視できないブッシュ・アメリカ大統領が鼻息の荒かったフランス大統領とともにその数ヶ月前とは打って変わった態度で開会式に出席するといい、その中国に入る前、タイでの異例な自由に関する牽制スピーチをしていたことにもその政治経済的コンテキストからは充分納得のできることである。 自由はアメリカに都合のいいニシキのミハタなのだ。
勿論、中国の人権圧迫の事実には枚挙に暇がないし、一般の中国人にはそういう西欧の、あなたたちには報道されないけれど実際はこういうことがおこっているのですよ、という報道の鼻もちならない高潔な教師よろしい「教え諭す」スタンス、態度に反発していままでのアンダードッグコンプレックスを燃料として愛国心に火が着くのも分からなくはない。 それは日本でも大分前に経験していることであるのだが、嘗て脱亜入欧を掲げていたニッポンもこの40年ほどの経済成長のご褒美として嘗ての南アフリカで特別白人扱いされた地位を保ちつつも国内では今は外に目を向ける必要も外に出ようとする意思の感じない若者達が蔓延する風潮の中、このイベントも金メダル獲得をめぐって煽り立てられた熱血ドラマとしか映らないのかもしれないし、せいぜい食い物関連で毒餃子の怖い国、というイメージが再生産されているぐらいだろう。
そういうことを思ったのは昨夜放映されたオランダのドキュメンタリー番組がチベットに自由というこの数年の足跡を辿ったヨーロッパ各地での様子を地味に報道しておりその中で各国在住の中国人たちがこのオリンピックを推進するキャンペーンを各国の首都で集会を繰り広げていたその光景を見てでのことだった。 アムステルダムのダム広場では集まった在住中国人たちを抑えて中国政府の宣伝担当官がいつもながらの報道ジャーナリスト対応文言でチベットは国内問題、干渉無用を繰り返し、スポーツに関するトピックだけにしか返答をしないとオランダのインタビューワーに、我々はこのような成功を嬉しくも誇りに思うと加えて答えていたのだが、そのうしろでオランダ在住の中国人の若者達が普段は外には出さない感情を露にして祖国の誇りを熱烈に放射していたことにも関係する。
近年の成金や名を成した華僑は別にしても一般には本国外の中国人は出稼ぎとその後続世代が殆どである。 それは中国に限らず世界中、国力の低い地域から高いところに移動しその差を自国に送金、家族やひいてはそれが国の財力にもなるという出稼ぎのクラシックな仕組みであり、日本も戦前戦後はハワイ、カリフォルニア、ブラジルなどに移民を多く送り込んでいる。 しかし、中国の伝統と量には他のどの国も及ばないだろう。 そして、その結果、世界中どこを眺めても中国人はいる。
いつか聞いたものにこんなジョークがある。オランダの村に必ずあるものは、3つの教会と中華料理屋、それにもう一つ付いているものがある、それは中華料理の持ち帰りのビニール袋についいてくる、インドネシア料理には不可欠なサンバルという激辛の唐辛子ペーストだ、というのだが、ついてくる、というところに捻りがあってSambal bij(サンバル付けましょうか)というどこでも聞かれるその中国人の発音とそれぐらいしか普通のオランダ人がわかる「中国語」がない、ということ、どこにもついてくる、をかけた、中国人には少々不快なジョークである。 これを私に語った無頼は私を中国人だと思い何を言っても受け入れるのか現地語が分らない中国人に対する、他人種にも同様な様々な危ういジョークの一つとしての発言だったのだ。 私を日本人だと分ると態度を変え自分はホンダのバイクに乗っているとその半可通のマッチョを誇示したのだった。 どこにもこういう輩はいる。
近年、中国人の観光客が増えていてそれは必ずしも中国外に住む華僑や台湾、シンガポールにアメリカの中国人とは限らない。 ときどきあちこちで団体客として見られる観光客を観察していると20年前の日本人がこれだったのだなあと察せられる。 現に中国人観光客に対する各国の対応はすでに20年前から日本人を経験しているので楽だと言うし日本人向け体制を中国人体制にシフトしているところが殆どだと幾つかの国でも報道されていた。
それでそんなことを思いながらオランダ高級日刊紙NRCの毎月第一土曜についてくる小冊子を見ればここでも他聞に漏れず中国特集だ。 オリンピック以後の中国特集として、中国の未来、漢字の意味、中国人の写真ポートレートなどのしっかりとした構成だ。 様々な問題点を指摘し、孝敬、関係、和、吃(食)、銭、禮、陰陽、面子など漢字を分析している。
特に感慨深かったのは最終ページの、ロンドンのブティックで手提げバッグの売り子として働く若いアジア人女性販売員12人のバッグを前にぶら下げた均等スペースでの正面写真、服装ポートレートだ。 この雑誌の意図なのか、現在過熱気味の中国一辺倒でも実際のアジア、若いファッションでは皆目そこから国が現れてこないことを今の報道熱にたいしてジョークにしているのかそれともアジアでは中国が他を飲み込んでいることを言いたいのかともとれるものだ。 私はほぼ30年ほどオランダに住んでアジア人に関してはどこから来たのかは街頭で大体見分ける自信はあった。 あった、というのは過去形で、今は中年以降のでは分るものの、若者に関してはこの写真を見て引導を渡されたような気がする。 日頃、何かの折には町で日本人かと見える若者には声をかけるようにしているが、この10年ぐらいからぼちぼちその当る確率が下がりはじめており今では散々な結果だ。 もちろんこの10年ほどで町中で見かける日本人が大きく減っているということと韓国、中国からの渡航者が増えている、ということもあるのだろうが、それでも20年ほど前は香港、シンガポールから来る若者が日本の若者とその顔つき、服装は似ていてまぎらわしいなあと感じていたくらいだったものだが今はこれだ。
この写真を日本で見せてもだれもこれがロンドンで撮られたアジア系売り子の写真だとは思わなく日本で大量に消費される若者向け雑誌の掲載写真だととられるに違いない。若者の間ではその思想信条は別としてアジアグローバリゼーションが進行している。 いや、それも世界のパックスアメリカーナ、アメリカ化の変種なのだ。
世界中、何処にも中国は存在しその世界の中心で華と咲き誇るのが国名であるその生命力を一丸となって発揮しているのだ。
2008/08/08のBlog
[ 10:55 ]
[ 喰う ]
2008年 8月 6日 (水)
ヴァカンスから戻って初めて夕食を裏庭で摂ることになった。 それほど雨の多い夏なのだ。
たまたまの夏日和で気温もあがったから簡単にスープとパスタで済ませるのだと娘が言う。 壜入りの液状チキンスープに水を足してそれに庭の野菜とミンチ肉で小さなボールを放り込んだもので「他人スープ」と言うのだそうだ。
我が家でも丼を作るのは私の当番で「親子丼」や「他人丼」は皆の好むところだ。 チキンスープに牛肉の玉がはいっているので他人丼と同じで、牛と鶏の「他人」が同居のスープだから「他人スープ」らしい。 まてよ、じゃ、卵はどこにあるのか、卵が無ければ他人とはいえないのじゃないか、と反論すると、丼の場合はスライスした牛肉と鶏の親か子か議論のある卵の組み合わせで、こっちはスープだから親子の議論の卵はなしにして鶏のスープに牛肉の薄切りではなくミンチボールなのだ、とノタマウ。
何れにせよ異種が同居するから「他人」には違いないが、、、、、、。
