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2008/08/13のBlog

Taking Sides (2001)

監督 István Szabó
脚本: Ronald Harwood (play)
Ronald Harwood (screenplay)

出演

Harvey Keitel ... Major Steve Arnold
Stellan Skarsgård ... Dr. Wilhelm Furtwängler
Moritz Bleibtreu ... Lt. David Wills
Birgit Minichmayr ... Emmi Straube
Ulrich Tukur ... Helmut Alfred Rode, 2nd violinist
Oleg Tabakov ... Colonel Dymshitz
Hanns Zischler ... Rudolf Otto Werner, oboist
 Armin Rohde ... Schlee, timpanist
 R. Lee Ermey ... General Wallace
August Zirner ... Captain Ed Martin
Daniel White ... Sergeant Adams
Thomas Thieme ... Reichsminister
 Jed Curtis ... Colonel Green
 Garrick Hagon ... Major Richards
Robin Renucci ... Captain Vernay


本作に関して映画資料を日本のネット環境では探せなく、たまたま見た東京家政学院筑波女子大学の紀要掲載、三石善吉論文、音楽と権力 - フルトヴェングラー 1933-1935年 が本作の要旨と重なる部分が多く重宝な参考文となるようだ。

http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2001/1.MITSUISHI.pdf

本作は観た映画というよりほぼ終わりの20分ほどを観ただけの齧っただけの印象でしかないのだが私には馴染みの少ないクラシック音楽、特に60年代の終わりに皆がロックに浮かれていた頃、ベートーベン好きの友人が最も尊敬していた指揮者がベングラーであったことも思い出し、画面にはベングラーをヒットラー政権に加担した戦争犯罪人に立件しようとするアメリカ軍検察官であるカイテルがその他の静かなドイツ人たちとは鮮やかに対比してまくし立てる荒っぽさは、「パルプフィクション」の中でのカイテルがクールで問題処理をテピパキと行っていたのとは格段にちがって、そのちぐはぐさが印象にのこるのだ。 ここでは文化の戦争が戦われているようだ。

二作を見てからのカイテルのそのちぐはぐさ、ドイツ人たちとアメリカ人のちぐはぐさはこの指揮者の置かれた立場、ベングラーの自分が行ってきた芸術至上主義原理に則り且つ自分の芸術が戦争のなかでどのように用いられるかを理解しつつも、事大主義的な行動を取りながら彼の聖人でもない行いの事実をどのように終戦後、戦争犯罪に繰り込み、断罪、またはそれを許容するか、というところにカイテルの体現する「アメリカ」を強調する演技となっているのだろう。 カイテルが「パルプ・フィクション」的クールさで話をすすめればそれはあまりにも現実的で全てが灰色の世界に沈み込み地味なものとなり「映画的」ではなくなり、そうなればそれは多分この映画のもととなった数多ある著作物の持ち場となるから、というような事情もあるのだろう。

多分、映画の前半にはこの巨人の華麗なキャリアがその音楽と共に示されたのだろうが私の観た20分ほどで、とくにカイテルとの対比でベングラーの重みが役者の演技から充分感じ取られそれが本作の意図でもあると充分理解できるのだ。 

音楽を聴くものには知られたことなのだろうが本作のなかでベングラーが戦時中若いカラヤンを嫌い排斥のための画策をしたのでは、というエピソードが面白いと思った。 そして、それを材料にベングラーは詰問される。 最晩年のカラヤンが同じくこのドイツ音楽を体現するベルリンフィルとの確執の中でラベルの「ボレロ」を振ったのをテレビで観た。 サッカーの観覧席にある金属の柵のようなものに時々よりかかりながら殆ど往年の鮮やかなで華麗とも言われた動きのない指揮振りだったと記憶しているが当時の才気あふれたカラヤンはこの重量級の指揮者にはちゃらちゃらしたものに映ったに違いない。

浪人中の私はベートーベンはピアノ曲は好むものの他は理解しないと友人に言うと、モーツアルトの「アイネ クライネ ナハト ムジーク」を幾つか聞こうと彼は言い、我々は当時、浪人生達がその閲覧室を占めていた大阪市立天王寺図書館からレコードを借りてきた。 そしてそれが貸し出されるときには係りの女性がレコード面の傷とその傷を別紙に記録したものを我々に示し取り扱いには充分注意するように言っていた。 LPレコードが貴重品だったころの残滓なのだろうか。 それにクラシック音楽ではスクラッチノイズは咽喉に刺さった小骨で、魚の小骨なら酢でも飲んで吐き出せもできるがこのノイズはそれでも残る。 LPがCDになった利点の一つがノイズの消滅であるのだが友人はここでしばしばアルヒーフ盤のバッハも借りていたことをも今思い出す。

そのモーツアルトのポピュラーな小夜曲で何人かの指揮者の中で特出していたのがカラヤンのものだった。 特出しているというのはその速度のことでプロペラ機の指揮者たちが優雅に舞っている中でジェット機のカラヤンが一直線に驀進している印象を持った。 友人は、こいつポルシェを玩具の乗り回してるんだぜ、と言った。 その時はただポルシェと音楽の速さを単純に関連付けて記憶に残ったのだのだが、今、カラヤンも既に亡いときにこの映画を観た後に、当時のベングラーとカラヤンの年齢を入れ替えてカラヤン主役の映画ならカイテル検察官がすっきりと納得するような審問ファイルができたのではないかと想像した。 これをカラヤンファンはどういうのだろうか。 ブルーノ・ワルターとかカール・ベームといった指揮者のベートーベンは80年代に聞いたことがあるが地味な印象をもった。

ベングラー全集だったのか友人の箱入りLPは今どこにあるのだろうか。 それに彼が今どこに住んでいるのか、更に生き死にさえもしらない。
2008/08/12のBlog


2日ほど前ほんとにひさしぶりに好天だったから裏庭で夕食にした。

この日曜日の献立は残り物と冷凍庫にあったもので済ましたのだが、

出来合い子供用白魚のフライ
胡瓜の酢の物
ジャガイモのベーコン、玉葱の炒め物


アルゼンチンのシャドネー白ワイン
2008/08/11のBlog


2008年 7月 12日

今に比べて7月の中ごろの天気がよかったこと。

ジャズライブまで時間があったからアムステルダム中央駅の正面から出てここ何年も掘り返しているところを歩いていると世界中からのおのぼりさんのいろいろな言葉も聞こえて日の長さもピークをすこし越した頃でうまくいけば11時半ごろまでは明るいこともあって活気があった。

今の安定しない夏に天気予報のオバサンが8時のニュースで明日から秋を思わせるような21-23度になる模様、といわれればこの頃のことが想われてこのまま秋に縺れ込まれたら堪らない。


夜中にうろうろしていると腹が減ったり酔い覚めたりして口寂しくなることがあり、そういうときにはこの小振りの林檎が重宝する。

各国でいろいろ銘柄があったりするのだろうけど、この何年か私の気に入りの林檎である。 NewZealand 産の BRAEBURN4101 種で enza というブランドなんだろうか。 それまでは日本のFuji とか青い林檎でGrannySmithとかいうのを、Fuji はカミサン好み、スミスおばあさんの方はサラダに刻んでその酸味にしているけれど個人的にはFujiはちょっと甘すぎて固めの歯ざわりはいいけれどあまり手に取ることはない。 スミスおばあさんのほうは1年に何回齧るのだろうか、ジョギングのあとビールを飲み始めてからはご無沙汰だ。 そんなわけでスーパーや青空市場で選ぶと自然とこれを買う。

娘はパイを焼くのになんとかいう煮たり焼いたりするようなごつごつした林檎を買っているのだがそれはそのままでは喰えない。

夜中の虫養いだから大きすぎても喰いきれないしちょうど掌に包み込めるような小振りで枝から切りとる時にそのままついてきた切れ端をクルクル捻って切り取りズボンでちょっと磨いて底というか尻から齧る。 地球でいえば南極から回しながら徐々に北上するように齧っていけばハワイのあたりでは地球の核が幾つかの大きなゴマのように見えるものの中心の種の部分も他の実というか肉というかそれと一緒に全部食い尽くせることになり普通に齧っていたように両極と種のコアの部分を捨てるのにゴミ箱を捜すこともない。 そう言ったのはもう30年ほど前にボロ車を運転しながら老アメリカ人から聞いたことでそれ以来私もそれに倣っている。

その人も子供の頃アメリカの何とか言ったか忘れてしまったがその人の田舎の爺さんに聞いたのだといっていたから昔からそんなことをしていたのだなあ、と感心というか合理的というか面白いと思い倣ったというわけだ。

さて、この林檎、齧ったのだが買ったのはいつだったか忘れていて噛んだ途端にその歯ごたえも新鮮な酸味と甘さが混ざった手ごたえもなく他のなんとかいう平凡な少々スポンジじみた味が出て、けれど一度齧り始めたのだから、年寄りの教えの通り一度始めたことは毒や腐ったものでなければ喰ってしまうのがケジメだ、と聞かされたとおり今回はハズレだったことを認め北極まで全て地球を食い尽くしたのだった。
2008/08/10のBlog
[ 07:25 ] [ 日常 ]


相変わらず天気が定まらない。

昼間に土曜のマーケットで買い物しているときは陽が射さないものの薄暗い曇りでもなく普通に歩けたしそこそこ温度もあるけれどちょっと風も吹いていてポロシャツだけでは肌寒く合服のジャケットを羽織って自転車に乗り青空マーケットまで来たらそれではちょっと暑く脱いで歩く、といった具合だった。 買い物が多くなり両手に一杯の買い物籠をぶらさげて歩くのにはジャケットを持つのは不便で着て歩いても汗が出なかったのだからそのときは暑くはなかったのだろう。

帰宅途中に会計事務所の電光掲示板には23℃と出ていたが湿度があるから体感では25℃ぐらいかもしれなくて夕方ビールを飲むには支障はなかった。

娘のボーイフレンドをよんで5人で餃子パーティーの予定だったから家人と子供達4人で餃子を包ませているときには、裏庭で食事できるかどうか、と言っていたものが包み終わる頃には細かい雨が降ってきて結局家の中で食事をすることになったのだが焼いた餃子に少量の水をふりかけ蓋をして蒸らせた後その蒸気を発散させるのに庭に出ても細かな雨だから支障はなくなんか中途半端な天気ではある。

夜中に車に置いた何かを取りに出るのに玄関から出たら雨は止んでいて玄関の微かな電燈で庭石の上を這うカタツムリが何匹か見えた。 こういう湿り気のあるときには数多く出るのだが、こういうとき表の歩道に出るまでに時々バリッと薄い殻を踏みつけてしまいいやな気持ちになる。 こっちはいやな気持ちだけなのだが踏まれる方は堪ったものではない。 死に至るのだ。 今夜は雨でもなく緊急でもないからちゃんと足元を見るのだろうが雨のときなら昼でも大抵は急に飛び出すときにグシャっとなるのだ。 なるのではなくそうしてしまうのだ。 心しなくては。