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2008/08/25のBlog
[ 16:43 ] [ ジャズ ]


古レコード屋で見つけたもの3枚

1) Music Harimax LSP9803141 1967

Wim Overgaauw
Rogier van Otterloo
Laurence van Rooyen
Louis van Dijk
Bobby Hacket
Tijs van Leer
Percy Faith
Caravelli
Jan Akkerman

2) At The Alhambra Funckler MGAR 9213
Ahmad Jamal Trio recorded in 1961

3) In The Wee Small Hours Capitol H1 581
Frank Sinatra

1)は現代オランダジャズの基礎を作り殆どが物故しているものの今も活躍するジャズメンも2,3人含む40年前のオランダジャズの当時を紹介した30cmLPだ。 殊に現在世界最良水準オランダジャズ・ギター奏者たちをコンセルバトワールで指導し彼の愛用のギターが今も弟子達に愛用されている Wim Overgaaw、メトロポール・オーケストラの編曲・指揮を司った故Rogier van Otterloo、今もポップ、フュージョンと活躍するギターのJan Akkermanを含むLPはオランダジャズというミクロの世界では貴重なものだ。

2)他のものは何枚かLPやCDであるのだがこれはなかったので少々のスクラッチがあってもと求めたオリジナルはArgoレーベルのオランダエディションだ。

3)LPでもCDでもキャピトル版を持っておりシナトラのもののなかでもこれが愛聴版であるから手が伸びた。 これが10インチ版でなければいくら安価であっても求めなかっただろう。 2枚で後のLPやCD1枚分となるもののPart 1であり、8曲しか納められていなくとも10インチ版というのが10ユーロ紙幣を財布から出す力になったのだろう。

結局 3枚で11ユーロ払った。
2008/08/24のBlog


土曜のマーケットに寝不足気味の頭ででかけ午前中に家人があらかた夕食の材料を買っていたので何もすることもなくブラブラしていた。

白身魚の揚げ物を歩きながら平らげ口の脂を濯ごうと入り口付近に座って日光浴を楽しんでいる年寄り達の間をぬってカフェーのカウンターで冷たいビールを頼んでテレビを眺めると相変わらずオランダ金メダルの瞬間をいくつも映していた。

その後、八百屋の屋台をいつものように眺めながら歩いているのだが買い物がないから野菜や果物などには目は行かず様々な人たちが行き交うその様子の方にもっと眼が行きがちだ。 レタスが一つ、切り売りのスイカ、苺一箱の入ったビニールの袋をぶら下げぶらぶら運河にかかった小さな橋を渡っているとチーチーと鳴き声が水面から聞こえそこにはまだ幼鳥と思われるカイツブリ(Fuut)の雄と雌が浮かんでいた。 喧しく鳴き交わすのだから動きがあるのかと見ていても付かず離れずの距離をおいて毛繕いをのんびりしているだけで興奮しているのでも何かを警戒している風でもない。 これがツガイかどうか確かではないが、母親と息子でないことは確かだ。 鳴き方からすると幼い高校生のカップル、とでもいうものかもしれない。

そのうち橋のたもとに昔からのStroopwafelを売る屋台が見え、久しぶりに甘いものが食べたいと焼きたてのストロープ・ワーフルを一枚作ってもらい温かいものを屋台の脇で喰った。 ストロープというのはオランダ語の蜜という意味でパンケーキには欠かせないものだ。 パンケーキには普通半液体のカラメルのストロープがつかわれる。 カナダのメープルシロップのようなものだと考えて差支えがない。 多分、ここでは蜂蜜がシロップにくわえられているのだろう。 冷たく硬い市販のストロープ・ワーフルは私はあまり食べないが家人は昔からスーパーで売られているものをコーヒーのお茶請けとして暫く熱いコーヒーの入ったマグカップの上にかぶせて湯気で柔らかくなったものを食べている。

この屋台では小麦粉にバター、卵を混ぜたものをピンポンボールぐらいの玉にしてそれを電気で熱した二枚の鉄板で1分ほど挟み狐色の柔らかく熱い円盤ビスケットができたものをナイフで薄い円盤を2枚にしてその内部にこのストロープ、蜜を塗り、もう半分で蜜をサンドイッチにして紙に包んで売るというそれだけの小商いだ。 熱くて柔らかくバターの香りと蜜の甘さが、硬くなる5分以内にはなかなかいける。 

喰い終えた後もそのままダラダラとそこに立って行き交う人々を見ていた。 1枚1ユーロの小商いなのだがバターと甘い香りで多くの人をひきつけている。 とりわけ子供に少女たち、若い女性が多い。 老人達となれば男女の違いはないようだ。 オランダの伝統的なお菓子だといえるが暖かくて柔らかいものに限る。

最近はもう作らなくなったが姑夫婦は何年か前まで1年に2,3回は自宅でこれを作っていた。 自分達のお茶請けはもちろん、来客用、こども、孫たちのため、と半日がかりで100枚以上つくり冷凍庫に保存しておく。 解凍しても蜜やワッフルの柔らかさは戻ってとりわけアーモンドの練り物を混ぜた蜜が皆に喜ばれ今はそれを恋しがる。

夏の今頃はあちこちから観光客が興味本位で買い求めて頬張るのが見受けられる。 アメリカの高校生かと見られる3人組が買って喰いながら向こうに消えたと思えば20分ぐらいしてからあとの仲間なのか3人ほどを連れてもどって新しい3人も主人に作ってもらっている。 中国人らしいグループもロシア人らしいカップルも英語でやり取りするのだがドイツ人だけはドイツ語で買い物をするのは普通のことだ。 

目の前で小さなスピッツの耳に触る鳴き声が聞こえるのだが姿は見えない。 年寄りの男が赤い子供用玩具の乳母車ほどのものに子犬を入れて押しているのだ。 道行く人はそれをみて妙におかしいその姿に笑い声をあげるし、その横では家庭の主婦2人が癌撲滅の街灯募金のボックスをもって道いく人に募金するのだがなかなか財布の口はあかないようだ。 

客が途切れたときに店の主人とおしゃべりをしたのだが土曜のこの市が一番賑やかで面白いという。 この町の別々の地区にある広場に市が立つときにも三箇所、他のまちでも二箇所、一週間に6日働くのだというが一日で200枚ほどなのだろうがそれでやっていけるのだろうか。 小商いであるのだが商品の種類が極めて少なくプロセスも簡単でゆったりとした商売ではある。

そこから30mほど歩いたところにある古レコード、CD屋の前に停めてある自転車の手前でこの2年ほど見かけるロシア人の街頭芸人、アコーデオン奏者がバッハをかなり早いスピードで弾いていた。
2008/08/23のBlog


夜中の2時、3時に腹が空いて何か喰おうと台所を徘徊するのだが育ち盛りの子供達も10時や11時ごろには勝手にいろいろそのあたりを漁り、夕食の残り物と冷蔵庫の隅にあったあれを組み合わせて電子レンジに3分ほど放り込んでおけばワインやビールと組み合わせテレビの前に座って世界のあちこちで起こっていることをいろんな国のテレビを見ながらもぐもぐ咀嚼すれば翌日、南中時間を過ぎた頃のブランチまではエネルギーの補給ができると計算してこの地域にハイエナに化身して来たのだがそれも地球外生物がUFOに乗ってきて地球の食物研究のサンプルとして跡形もなく持ち帰りあまつさえそれを研究のためとして消費したあとなのを残骸にたたずみ、それならそれでもっと裕福な食生活を送っている隣人家族があるのだから何故そこにいかなかったのかと歯噛みし、地球外生物でなければお前かと飼い猫を見れば別段興味もなさそうに隅の自分の寝床で川の魚を追いかける夢でも見ているのか頭の周りに絡めた脚を細かく動かせている。 これは自分に先立つこと数時間前自分の撒いた種から繁殖した若いゴキブリたちが素早く攫ったものに違いなくそれを舌打ちしながら仕方なく、例え新鮮であっても果物に手が行かないのは野菜や果物が健康にいいと脳では知覚するものの、自分を徘徊させるものは健康な脳が欲しているのではなく、貪欲な胃が映画エイリアンの中で羽化し怪体なものからぬるぬるする頭を徐々に冷蔵庫の中に伸ばし貪っていたそのエイリアンに間違いないのだ。

このエイリアンはターミネーターと結託していくら掃討しようとしても庭の雑草のごとく「I'll be back」と蘇る。 そしてここで雑草の如く、というのは強く逞しくということの喩えだが果たしてこの場合の喩えは小さな脳の私の中に巣く知性にではなく胃から這い登るエイリアンやターミネーターに対してのエールなのだろう。

先日、ミクシの「世の中これでいいのか」というような、いろいろなことに対して大概は憤慨したり批判、同調するグループの書き込みでYouTubeか何かそんなところに現れたヴィデオ映像を載せて、アメリカの屠殺業者の牛に対する仕打ちを見せていた。 その人の意見はこんなものをみてからはどうして人間は肉を食うことができるのか、というナイーブな(ここでは産毛のまだ残る少年少女の無垢にたいする肯定的な日本的な言葉の解釈ではなくアングロサクソン、ラテン系のなかで普通に使われる意味の、世間知らずの大多数の若者、大人になれない、成りたくない阿呆といういみで使うのだが)ほぼ宗教の域に達するベジタリアン教ともいうべき十字軍の進撃の書き込みだった。 ある屠殺人は旨い肉を愛しそれをもたらす良質の牛を愛し、それを仕事に誇りをもつ。 ただ、私のみたそのYouTubeの映像は残酷だ。 70年代初頭、イタリア映画、世界残酷物語というようなもので、人間を含む生き物のなかでの殺戮の模様を編集したものでその残酷さが娯楽にもなるような映画であったから話題を呼んだというようなものだったのだが、そのハイライトは中東かどこかで儀式のために首を一刀両断し、がばがば血をはきながら数秒で崩れ落ちる牛の映像だった。 牛は苦痛を感じる暇もなく絶命する。

その後は各国で様々なこういう映像を隠すような傾向にある。 こういうことは映像として現れないから存在しないとはいえない。 大抵はこういう屠殺は原始的であるともいわれ我々はもう原始時代に生きていないから「人間の進歩」に「遅れた」ものと喧伝される。 はたしてそうか。

エロ・グロ・ナンセンス時代というのは享楽・堕落社会に対する後年のネーミングだ。 またそれは世界歴史のなかである文明なり社会が崩壊する前兆だとも解釈されることがある。 それではこの屠殺は何にあたるのか。

これを見て性的欲情が鼓舞される人は稀だろう。 人の食事に貢献する牛を、その肉をナンセンスだという言う人も稀だろう。 では、この映像はどうだったか。 瞬時に生命を絶つべく牛の眉間上方に打ち込む弾丸は流れ作業のあとでも効果なく、何百キロと肥え、つるされたまま咽喉を引き裂かれ血が泡となって迸り、開かれた腹の中に頭を埋めるようにして働く屠殺人の耳に聞こえる断末魔の細かな牛の引きつりとあえぎが20分ほども続くのはグロテスクである。 即死させるべく使用される屠殺銃が効果がなくともそのまま使用されるのはナンセンスかもしれない。 

それがこの映像をみた感想で、これをみてから肉をどうして食えるのかということに対する答えは、日本はどうか知らないけれど自分の住んでいる周りの肉はちゃんと動物虐待禁止法を守って提供された肉だということを漠然と知り喰っているからで、どうしてこの肉が食えるのか、に対しては、はひところ、もう30年も前から絶滅する鯨を食う、またその種を絶やすことは神への冒涜である、とか、賢いから、可愛いから動物を殺すなと主張することへのそのナイーブな考えに組しないからであると言える。

要は我々が病院のベッドでくもの巣のように機械から管を体の中に通され、肉体的でなく精神的は苦痛にあえぐのを見るとき、人の最も恐れるのはこの苦痛であるからこの苦痛を感じることもなく瞬時に苦痛を終えることが「人間的」であり動物に対しても適応されるべきだと考える。 また、古くから年寄り達が神社や寺に参拝する目的の多くがこの精神的、肉体的苦痛のない「お迎え」を望む故だし、何事もなく「ぽっくり」と逝くのを希求しているものと解している。 「精神的、肉体的苦痛」からの自由がキーワードなのだと理解して夜中にごそごそ冷たい肉と肉の繊維をほぐしたものをサラダに混ぜたものを口に含み世界中から集まった原始的な肉体的な技能を競うお祭りもその国で何万人にも精神的苦痛を与えている事実を隠蔽するためのカーテンでしかない、その精神的苦痛を報道するものたちを虐待する政府のそのお祭りに参加した日本を含む世界列強の指導者達は偽善者たちだとテレビ画面でパリを本拠とする「国境のないジャーナリスト」という組織の代表が声明文を読み上げるのを飲み喰いながら見る。

健全な精神は健全な肉体に宿る、といわれるのだが健全とは何かということを検証しなければならないのではないか。 小人閑居して不善をなす、というのもあるのだがもしそうなら「我閑居して肉を喰らい色抜きの食に耽る」のである。
2008/08/22のBlog


今日は娘と家人の自転車を4kmほど離れた自転車屋に車で持っていくのを2回、毎週のスーパーでの買い物をして動くことはは殆ど何もしなかったこと、3週間ほど前、ヴァカンスで毎日アルプスの山を15kmほど歩き、7時起床10時就寝、気温0℃から30℃という環境で2週間半ほど過ごし、自宅に戻ってからは日頃の、午後起き出しぶらぶらとそのまま夜から夜中、明け方とすごし夜が充分明けてから就寝するという生活に難なくすぐさま逆戻りし、生活時間には何も支障はないものの腹が出始め動きが鈍くなり始めたことからもう暗くなり始めた9時ごろ思い立ってジョギングをした。

アルプスを歩いていたときは昼飯は軽く、夕食はたっぷり、水分を充分補給することから一日あたり水1リットルに加えてそれぞれの地元のビールを昼500cc、夕食にも500ccを続けていて、2000m以上を登ったり降りたりする毎日であれば体内のカロリーは充分燃やせていたようでベルトの穴も2つほど戻って動きも楽になっていたのだが家に戻りバカンス時の食習慣をそのまま持ち越していると動きのないその分、カロリーが下腹のあたりに蓄積し、そのあたりから風船をふくらませるような兆候がでている。 まわりで驚くべき重量級の我々の年代のビール腹男を観察してみるとその驚くべきビール腹のベルトは深く静かにそれを覆う柔らかく広範かつ柔らかな肉の塊の裏に隠れていてベルトの穴の移動はこの柔らかい肉の発育とは関係がないようだと理解した。

そんなことから先週1.5kmほど泳いだだけで何もせず、昨日テレビでオリンピックの10km野外女子遠泳でのロシアとイギリス、日本の苗字をもつブラジル選手達、今日はその男子でオランダ人が金を取ったのを見ていて10kmを1時間50分ほどで力強く泳ぐこと、男女にタイムの差が殆どないこと、それにゴールではそれぞれ3位までがそれぞれ体半分ぐらいしか差がないことに驚いた。 私といえば500mをクロールで12分30秒ほどで、そしてすぐその後サウナで10分ほど過ごしそれを3回繰り返しシャワー、ビールとつづき、とても10kmなど連続して泳ぐことなどできないもののもし連続して泳げばと計算した机上の値は4時間9分となり金メダルとはそんなものなのだと感心し自分の記録にうんざりしたものだ。

そういうこともあり取敢えずいくらゆっくり走っても歩いたり止まったりしないことにしようとi-Podのビッグバンドジャズを耳に鳴らしながら予定もなく足の向くまま日頃自転車で走る町の中を巡ってみようとゆっくり周りを見ながら通りをいくつも抜けると各家庭のテレビで水球の選手が金を取った試合が見えるのだし老人が犬を散歩させていたりするところを抜け、もう半年以上も前、冬に立ち寄った日蘭国際結婚の先輩の家の灯が点いていたのでバカンスの留守中で防犯用にタイマーから点けたものかと思ったのだが取敢えず入り口のチャイムを鳴らしてみたら70を越したその夫婦が出てきて久しぶりに互いの近況を語り合っているうちに一時間以上邪魔したことになってしまい、また寄ることを約束して慌てて外に飛び出した。 それまで30分ほどうちから走りそこに着き居間の椅子に座ったころから汗がではじめ、1時間ほどで汗もとっくに乾き寒くはないもののゼロに戻り、また一から走り始めた。 そこからは帰路になり勝手知ったる運河沿いに廻りこみ、あまり疲れもせずまた30分ほどで自宅のシャワーになだれ込んだ。

汗が引いてから今日はどのくらいの距離を走ったのかに興味が湧き、そういえばアルプスで歩く距離を地図上でころがして測ることができる電子機器ではないから今では原始的とも言われるかもしれない計器の名前が何なのかグーグルで調べていたらそういうことをしなくてもマウスをクリックするだけで距離が測れるサイトがあると出ているので開いてみた。 グーグルマップに連動させてあるから世界中で距離が測れる便利な物だ。

「僕の歩いた跡に道ができる」という名前のサイトで、それは昔、魯迅が「道というのは人が歩いた跡にできる」といったことの視座を反対にしたような名前がついている。

http://mashup.rightclicksright.net/data/frame_109507.aspx

それで何週間か前に歩いたオーストリアアルプスの距離をこのサイトで測ってみると実際の計測器ではかったら13kmとほぼ同じになり、2040mから2700mまでの上がり下がりの往復だからあと何倍掛ければいいのか考えながらうちの近所の地図をスクロールしてさっき走った通りにクリックしながら移画面の地図を動させていけばしていくと先輩の家が2.7kmそこからうちに戻ると全部で6.4kmになっていた。 オランダのここでは高度差はほぼ0mだから回らぬ頭を無理に回すことはない。


夜中にこういうことをグダグダ書いていていると先ほど飲んだジンが聞いてきてたまらなく眠くなってきたので落ちる。 食欲は落ちないけれど、、、、、。
2008/08/21のBlog


コンフェッション(2002)
CONFESSIONS OF A DANGEROUS MIND
113分

監督: ジョージ・クルーニー
製作: アンドリュー・ラザー
製作総指揮: スティーヴン・ソダーバーグ
スティーヴン・エヴァンス
ジョナサン・ゴードン
ランド・ラヴィッチ
ボブ・ワインスタイン
ハーヴェイ・ワインスタイン
原作: チャック・バリス
脚本: チャーリー・カウフマン
撮影: ニュートン・トーマス・サイジェル
編集: スティーヴン・ミリオン
音楽: アレックス・ワーマン

出演: サム・ロックウェル チャック・バリス
ドリュー・バリモア ペニー・パチーノ
ジョージ・クルーニー ジム・バード
ジュリア・ロバーツ パトリシア
ルトガー・ハウアー キーラー
マギー・ギレンホール デビー
デヴィッド・ジュリアン・ハーシュ
ジェリー・ワイントローブ
フランク・フォンテイン
ブラッド・ピット
マット・デイモン
リチャード・カインド
クリステン・ウィルソン
マイケル・セラ
ジェニファー・ホール

 70 年代アメリカにおいて、テレビ番組『ゴング・ショ-』などで一世を風靡し、お茶の間の人気者だった伝説のプロデューサー兼司会者のチャック・バリスが、自らCIAの秘密工作員をしていたと語った衝撃の告白本(真偽のほどは不明)を基に、俳優ジョージ・クルーニーが初監督に挑んだサスペンス・ドラマ。脚本は「マルコヴィッチの穴」のチャーリー・カウフマン。主演は「グリーンマイル」のサム・ロックウェル。
 1960年代、アメリカ。いち早くテレビの可能性に着目し、そこでの成功を夢見るチャックは、色々な番組企画を発案してテレビ局に売り込んだ。しかし、いずれも採用されることはなく、やさしい恋人ペニーに慰められる日々が続く。自信満々で持ち込んだ視聴者参加型テレビショーの企画も結局は日の目を見ずに終わる。失意のあまり、バーに入り浸るチャック。ところがそんな時、彼の前に謎の男ジムが現われる。ジムはチャックに近づくと、高い報酬と引き換えにある仕事を持ちかける。それはCIA工作員となり合衆国にとって邪魔な人物を抹殺するというものだった…。

というのが映画データベースの資料で以前ちょっとだけテレビで見たのだが、今回初めて全編を通して観た。 ここではボンド・シリーズのごく初期、60年代のスパイもので地上の手仕事中心だった雰囲気が出ている。 今、リアルタイムではグルジアにロシア軍が入って首都までタンクが50kmと迫り、またエスニック・クレンジング(人種選別のための殺戮)が行われていると報道される中で観たこの映画だ。 ニCNNに流れるニュースをみながらトム・クランショー原作「パトリオット・ゲーム」の中でハリソンフォードがペンタゴンのなかからスパイ衛星を使って北アフリカで訓練するテロリストキャンプの女スパイを識別して中性化(殺戮)のサインを出すフォードを観たのは帰省のジャンボ機内で90年代の初めだった。 それも今では遠い昔のこと、今はグーグルマップで自分の車のレベルまでは見られるからグルジアの紛争地区を見ようとしたのだがさすが戦争地域、公式の地図は消されていてただ何ヶ月か何年か前の衛星写真が見えるだけだった。 ここに見られるかなりの建物や農家が破壊されそこにはないのだ。 三年ほどまえにバカンスで滞在したチェコのドイツ国境辺り、ボヘミアの森でも森も湖水も一定地区はグーグルからは消えていた。 湾岸戦争を経験してから選別され監視されながらも今はネットの中でいろいろ見られるそういう時代なのだ。

60年代アメリカから入ってくるテレビで育った年代には本作は面白い。 全体のトーンが秘密をもってかつ時代の象徴として現代までつづくサブカルチャーの先導役テレビをめぐってだからテレビの軽さと60年代以降の軽さがベースになってこの話が本当なら陰惨で重いものがこの映画の色彩も含めたトーンでアメリカのノスタルジア調マシュマロに仕上げられている。 「ある危険な思いを持つもののいろいろな告白」、という名の本作を制作するに当って監督は古来からある、お話をあったことかなかったことか知らないけれどとにかく一応あったものとして聴くべし、と始められた古老の語り部に導かれる話にしようとしているようにも思える。 だからこのトーンでうそ臭いものの華やかさの裏にあるいくばくかの「真実」を「虚」のスクリーン上に作り出そうとするのだろう。 御伽噺や作り話はそのはっきりした構造と信じられなさで「なかったかあったかわからないもの」を「あったこと」に転換させて「お話」として記憶に留めさせる力をどこかに内在させているのだ。

60年代様々なショーを白黒で見て当時はそうとは気づかったもののフォーマットは旧式のバレエティーやキャバレーのものである。 エド・サリバンショー、ペリー・コモショー、アンディー・ウイリアム・ショー、ミッチ・ミラーのミッチと歌おうSing Along, トム・ジョーンズショーなどがなつかしく思い出される。 ホストがゲストと軽いジョークのやりとりをし、舞台中央にある丸いバー・スツールに腰掛けて掛け合いの歌を歌う、というのがフォーマットとしてあった。 様々な恋の物語をいかにも小粋にあるように聴かせてきたきた、ここでの監督、俳優のクルーニーの叔母さんローズマリーも上記のショーには何回も出て「いなせな」声を聴かせていたに違いない。。

それがその当時の、小粋な、イカス、西洋物(西洋といってもアメリカだけであるのだが)の茶の間に現れるものなのだ。 その面白さ、というものを爪先立ったり先読みをしたりして取り込むものだったような気がする。 「消費する」というのは80年代まで待たなければならない。 しかし、このアメリカのテレビモードはすでに消費社会のものだ。

この時期の白眉は「ゴング・ショー」で、素人の寄席芸、素人名人会的に突拍子もない芸をもつ有象無象をテレビのこちら側で眺めるものたちは消費の最たるものだ。 また、 一度消費され捨てられたものを集めた蚤の市やガレッジセールを訪れてガラクタのなかから思わぬものを見つける喜びはこの手のショーを見る態度に近いのかもしれない。 ガラクタのなかからなにか光ったものを掘り起こすには手早く目の前を通過するものの価値を判断し選別しなければならないのであり目がそこに釘付けになるときは価値のメーターの針がプラスに触れるときで飽きた目を他に向かうように促すのがゴングなのだ。

日常生活中、あらゆる側面が絶えず見る行為の連続ではゴングは聞こえない。 それは見るに値しないものが多すぎるから我々は鳴ったゴングに反応しなくなっているのだ。