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2008/10/02のBlog
[ 09:15 ] [ 見る ]


この間寿司を巻くのに合わせ酢を作っていたら何か計量カップの表面に模様が出てきていたので面白く思った。

普通は規則的に適当に混ぜているのだが大抵次にすることにかまけて眺めることなどしないが時間があったのだろう。 なんとなく渦巻きがゆるく流れているのを見てそのあといくらか経って戻ってみれば薄く合わせ酢の表面に渦巻きをひっぱって周りから徐々に星型になるような模様が出来ていた。

フラクタル模様というのかコンピューターの進歩でもう何年も前にそういう模様が作り出されるようになりそれが自然界でも巻貝とかブロッコリや花野菜の巻き方にそういうものを見ることもあるから自然に在る物理とか数学の摂理がこういう動植物に体現されているのを面白く思ったことが再々あるからこの日の合わせ酢の模様もそのようなものだったのかと少々違うような気もしつつ納得する。

5人分ほどの酢メシをこれで作り、そのあと少々余った合わせ酢に新しく酢を足してそれに2尾の開いた生鰊を一晩漬け込んであくる日に締め鯖ならぬ「締め鰊」にして山葵醤油で喰った。
2008/09/30のBlog


2008年 9月 28日 (日)

秋の日和が嬉しい日曜日、気持ちのいい週末をすごした。

町の美術協会が主催する催しに家人が他の144人と共に参加し金曜の夜にその開幕パーティーに出かけ旧知の人たちと歓談し、いよいよ秋に入り新しい活動の季節が訪れたことを実感した。 家人はこの3,4年ほど町の中心にあるモダンな美容院に自分の作品をこの週末に展示して多くの訪問者を得、満足のようだった。

その場所は先週私がこの町の例年の行事である10月3日に町の市民への贈り物として生鰊とパンをもらうために並んだ旧公式計量所から石を投げると届くほどの距離のところにある。 主人である美容師は一週間ほどイタリアの修道院に瞑想にでかけており火曜日には戻って開店することから家人の作品や展示のためにちょっとした美術ギャラリーにも見えなくもない現代美術のインテリアがあちこちにみられる店内を直ぐに美容院として営業できるように戻すため夕方の催し物の終了後あとかたずけを手伝ったのだった。

子供達もそれぞれ出かけて戻ることもなくうちは夫婦二人であるから催し物の終了の打ち上げパーティーに出かけ子供たちの食事のことにも煩わされることもなく気楽な夕べとなるからとりあえず荷物を自宅にもちかえるべく二人で自転車を漕いで町外れに在る自宅に向けてのんびり夕空の下をうちの近くの交差点のあたりに近づくと午後6時半の夕日に映えて燃えるような光景に息を奪われた。 普通に日頃行き来するところではあるのだが別段注意を引くようなものはなかったのだが今の時期、紅葉が始まっていることをこの燃えるような赤い蔦の葉がべったり建物の壁に絨毯となり張り付いている光景に接してそれを思い知らされたのだ。 

これはモミジではないので「秋の夕日に照る山、モミジ、、、」といような唱歌ではなく、「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日、、、」と学生時代として流行った歌の歌詞が思わず浮かんで来る。 宗教には全く染まっておらず重い鞄を抱えて図書館に通うような学生時代も送ったわけではないので自分では歌うことはないけれど昔聞きなれた歌の「蔦」という言葉にに絡んで連想したのだろう。 けれどその歌詞の蔦はこのように燃えるような赤だったかどうかは知る由もない。

暫く見とれて写真を撮っているとこちらを窺う家人の自転車に気付き彼女を追って家に向かったのだった。


2008年 9月 27日 (土)

もう10年ほどボランティアで翻訳や通訳をしたり求められると何か日本の事を説明したりしている。 それで今日はそういった会合があり出かけてきた。 100kmほど離れた町から帰宅する途中で日が沈む美しい景色に誘われて舅姑女の処に寄ったら年寄りも含めた集合住宅の中庭で80を越した多くの人たちがバーベキューの宵を楽しんでおりその中で病弱の姑女が元気なことを喜びまた突然の訪問に年寄り達に日本人の息子だといつものように紹介されてもおりイタリア人の息子もいると誇らしげにいわれるのに少々面映い思いもした。 この人たちの所に行くたびに彼らの様々な思い出を聞くこととなり時代が今から50年60年と一気に戻るような気分になるものだ。

オランダには「JINの会」という協会があって会員は50-60人ぐらいはいるだろうか。 JINというのは漢字の人(ひと)、何人のジンでもある。

Japans-Indische Nakomelingen (日本人、インドネシア人の子孫)の略で、第二次大戦中(後)に生まれインドネシア系オランダ人を母に、日本人を父に持つ子孫を略してJINの会である。 つまり彼らは1942年から1948年の間に旧オランダ領インドネシアで生まれた人たち、もしくはその子供達だ。

この会は1991年、つまりつい最近設立された協会だ。 それは戦後63年経った現在、17年前というのは戦後史的には最近ということだ。 現在かれらは60-66歳で、すでに人生の秋を迎え自分のアイデンティティーをしっかり見据える時期でもある。 つまり、自分は何処から来てどう生きてこれからどうなるのか、自分は何なのか、ということを落ち着いて確認する時期にあるということだ。

Identityというのは厄介だ。 自分が自分である、ということの確かさはどこにあるのか。 この年になると充分世間を渡り、家庭をなしそろそろ孫もできる頃だ。 戦中(後)そして自分の青春期、壮年期を思い起こし自分の人生に影を落としてきた茫漠として見えない父親のことを知り自分が何者かということを捜そうとするのはもっともなことだ。 自分の親、先祖のことについて知りたいというのは古今東西おおむね一般の傾向でもあるが彼らがそれを行おうとするには幾つもの障害が伴う。 

今、日本の若者のなかで嘗て日本がアメリカ、ひいては連合国と戦争をしたということを理解しない若者が増えていると聞く。 そしてそういう質問があるとどっちが勝ったの?とは逆に訊くような阿呆もいるそうだ。 それが戦後、金儲けだけにまい進してきて過去の歴史を都合よく捨て去ってきた国の現在だ。 それで今その国は富んでいるといえるのか。 

会員である彼らのことを考えてみよう。 生まれたとき敵国の兵士が自分の父親で、母親はインドネシア系オランダ国籍だから戦後旧植民地から旧宗主国であるオランダに引揚者としてくれば、オランダ、インドネシア両文化に対して正面から溶け込む難しさに加えて旧敵国日本の父親をもつことでオランダ、インドネシア系両方のコミュニティーから自分の生い立ちについて有象無象の自分には故のない罪悪感、圧力を感じてほとんどの会員は生涯をこのことが重く自分のアイデンティティを考える上でなかなか抜けない棘となっている。 その経過を経て今は社会に根付き落ち着いたものの今、中年以降となり自分の父親を捜し、自分の血の中に流れている日本を確認したいということになるのは当然のなりゆきだろう。今までオランダ人でもない、インドネシア人でもない、また両国の血を引く人たちのグループとも異なった者である、と自覚してきた人生なのだから一層社会の中の少数派として同類を求める方向に進むことにもなる。 そして、そのような「運命」をともにする人々が自分たちで立ち上げたグループがオランダのメディアで紹介されてから集まったのがこのグループだ。

オランダには政府機関、学術研究機関の概算でこういう人が1000人前後いるだろうといわれているが確かな数字はでていない。 この子供達は自分の父親に興味がないか、それとも親から彼らは敵国の父親ではなくインドネシア系の父親だといわれているのか、はたまたそれが分っていても旧敵国の兵士を父に持つことを恥としてそれを隠そうとするのか、こういう会の存在を知らなく個人的は行動をとれないということもあるのか、この会が確認している名簿では概算の一割程度で会員は更にその半分程度でしかない。 そして、この17年の活動で30人ほどが父親もしくはその家族、日本の兄弟姉妹と接触をとることに成功している。 会員は父親をある程度確認できる糸口をもっていたものが多いけれど、中にはそれが殆どない者もいて希望はほぼゼロに近いにもかかわらず父親の祖国の文化、歴史を会員と共有したいと会合に参加する人々がいる。 殆どが父親から与えられた日本名をもっていることも父親と母親の関係が普通以上に深かったことを示すものと考えられる。 誰が自分の望まない子供に自分の祖国の名前をつけるだろうか。

明治以前の日蘭関係は教科書に載りオランダは日本人には親しいものとなっているが第二次大戦以後のアジアにおける戦争の歴史は暗部としてその取り扱いについては未だ明確なものとはなっていない。 それにそこでの日蘭関係以上にアジアの地政学上重要な日中関係の圧力の影が覆っていて小国オランダとの過去を清算する努力はおざなりにされてきたきらいはあるものの現在、徐々に彼らの努力が日本政府、外務省、厚生労働省を動かしつつあるようだ。 この10年以上複数の会員が、旧蘭領インドネシアにおける日本軍収容所ですごした旧軍人、軍属、その遺族の会の会員とともに日本各地を毎年訪れて対話の機会を持ち戦争がもたらした後遺症を様々なかたちで治癒するべく努力を続けている。2000年には日蘭修好400年を記念して訪蘭なさった天皇皇后両陛下とも直接面会する機会も得ていて両陛下の彼らにたいする理解と対応には皆、過去の苦労に報いるありがたいものとして喜び、将来に向けて建設的な一歩になると評価している。

けれど歴史の中でこのような運命を背負って生きている人たちに何らかの心の安らぎを与えるべき、自分のアイデンティティーを捜す旅の何がしかの助けができるのは少なくとも50年代に生まれ戦後、いつも戦争の影が纏わりついていた年代の者にとっては自分のアイデンティティーを確かにするプロセスでもある。 還暦に近づく自分にとっては彼らは自分の兄や姉であってもおかしくないのだ。

この集会に出かけるたびに奇妙な感じにとらわれる。 それはオランダ人でありインドネシア文化の中にも根を持ち彼らとオランダ語で対応する彼らが私の故郷の村人、親戚の伯父さん、伯母に相当するような懐かしい感じに捉われる事だ。 そして日本名を持ち、、、、、、。 

彼らが還暦を越しているという事実は彼らの父親はもう殆ど鬼籍に入っているということを示している。 これからは彼らの次世代と日本の家族との交流がここでの活動の主流となるのだがまだ多くの会員は父親の影を追って自分探しの旅を続けることになる。

我々の年代はともかく今の若い人たちはこのような歴史の事実をどのようにうけとめるのだろうか。


オランダにある「太平洋戦争とその後をめぐる日蘭対話の集い」のホームページ
http://www.djdialogue.org/index.htm
2008/09/22のBlog


ユナイテッド93 (2006)
UNITED 93
111分

監督: ポール・グリーングラス
脚本: ポール・グリーングラス
撮影: バリー・アクロイド
編集: クレア・ダグラス
リチャード・ピアソン
クリストファー・ラウズ
音楽: ジョン・パウエル

出演: ハリド・アブダラ ジアド・ジャラ
ポリー・アダムス デボラ・ウェルシュ
オパル・アラディン シーシー・ライルズ
ルイス・アルサマリ サイード・アルガムディ
デヴィッド・アラン・ブッシェ トッド・ビーマー
リチャード・ベキンス ウィリアム・ジョゼフ・キャッシュマン
スターラ・ベンフォード ワンダ・アニタ・グリーン
オマー・バーデゥニ アフメド・アルハズナウィ
スーザン・ブロンマート ジェーン・フォルガー
レイ・チャールソン ジョゼフ・デルカ
クリスチャン・クレメンソン トーマス・E・バーネットJR.
ライザ・コロン・ザヤス ウォレスカ・マルティネス
ゲイリー・コモック リロイ・ホーマー
ローナ・ダラス リンダ・グロンランド
デニー・ディロン コリーン・フレイザー
トリエスト・デュン ディオラ・フランシス・ボドリー
トリッシュ・ゲイツ サンドラ・ブラッドショー
ケイト・ジェニングス・グラント ローレン・カツゥーチ・グランドコラス
ジェイミー・ハーディング アフメド・アルナミ
ピーター・ハーマン ジェレミー・グリック
タラ・ヒューゴ クリスティン・ホワイト・グールド
マルセリーヌ・ヒューゴ ジョジーン・ローズ・コリガン
シェエン・ジャクソン マーク・ビンガム
ジョー・ジャムログ ジョン・タリナーニ
コーリイ・ジョンソン ルイス・J・ナックII世
J・J・ジョンソン ジェイソン・M・ダール
マサト・カモ 久下季哉
ベッキー・ロンドン ジーン・ピーターソン
ピーター・マリンカー アンドリュー・ガルシア
ジョディー・リン・マクリントック マリオン・R・プリトン
ナンシー・マクダニル ロレイン・G・ベイ
リビー・モリス ヒルダ・マーシン
トム・オルーク ドナルド・ピーターソン
サイモン・ポーランド アラン・アンソニー・ビーヴァン
デヴィッド・ラッシュ ドナルド・フリーマン・グリーン
エリック・レッドマン クリスチャン・アダムス
マイケル・J・レイノルズ パトリック・ジョゼフ・ドリスコル
ジョン・ロスマン エドワード・P・フェルト
ダニエル・サウリ リチャード・ガダーニョ
レベッカ・スカル パトリシア・カッシング
クロー・シレーン オーナー・エリザベス・ワイニオ
ベン・スライニー ベン・スライニー
オリヴィア・サールビー ニコール・キャロル・ミラー
チップ・ジエン マーク・ローゼンバーグ
レイ・ジンマーマン クリスティン・シュナイダー
パトリック・セント・エスプリト

2001年9月11日、アメリカ国内の空港を飛び立った旅客機4機が、ほぼ同時にハイジャックされる。うち2機はワールド・トレード・センターに、もう1機は国防総省ペンタゴンに激突炎上した。しかし残る1機、乗客40人を乗せたユナイテッド航空93便は、なぜかターゲットに到達することなく、ペンシルヴェニア州に墜落した。本作はこのユナイテッド航空93便に焦点を当て、家族との電話で自らの運命を悟った乗客たちが乗る機内での様子や、テロの事実に混乱しながらも被害を最小限に食い止めようと必死で事態の掌握に務める地上の航空関係者たちの緊迫のやり取りを極限の臨場感で描き出す衝撃のノンフィクション・サスペンス。監督は「ブラディ・サンデー」「ボーン・スプレマシー」のポール・グリーングラス。監督をはじめ製作スタッフは、遺された家族の人々や管制センターはじめ関係機関への入念な取材を行い、今となっては決して誰も知ることのできない機内の様子を含め、当時の状況を可能な限りリアルに再現、ありのままを徹底したドキュメンタリー・タッチの手法で撮り上げた。なお、本作に登場する管制官や軍関係者の一部は、9月11日に実際に現場で勤務していた本人が自ら演じているという。

以上が映画データベースの記述なのだがここでの配役のクレジットの長さとその中には日頃見慣れるスターたちが見られないことともあわせて興味深いのだが、乗客の中に一瞬見られたアジア人らしき人物がこのクレジットを見て初めて日本人であったことが分ってもそれが別段どうだということでもない。 もうこの事件から7年経って未ださまざまな憶測が飛び交う中、当時メディアで入ってきた情報をここでほぼ事実に即した映画のドキュメント仕立てにして作るのではスターを配置すれば意図せずともアメリカ映画の性格上、ヒーロー、もしくはアンチヒーローものになってしまいがちになることからあえてこのような配役になったのだろうと忖度する。 普通の人の日常がたまたま行き会った惨劇なのだ。

人は周りのことを知りたいと思うしそう努めるのだがいくら現場の最先端にいたとしても全てがわかるわけでもないし、とくに不測の事態の真っ只中ではそれぞれが必死で事態を乗り越えることになり、お話ではなくそれがほぼそうであっただろうというような、それ以後世界をも変える行為の再現であるから世界規模での善悪のバイアスのかかりようが製作者の一番神経を使うところなのだろうが意味は後からついてくるのだし私がこの間みた、ニューヨークでツインタワー管轄の消防署のその日のドキュメント、9・11(2002)とあわせて淡々とその事態を映像にしようと試みる甚だ良質のドキュメントとなっている。

それはその後これを契機として大きく動く世界政治やテロ、宗教原理主義論争を排した生のものであることに意味があるのだろう。 ツインタワー内部での経験はともかく、時には我々が日常利用する航空機内部での不測の事態に乗り合わせたときに遭遇する映画は人事でもなく無理やりに自分の生死をも考えさせられてしまう。搭乗員、乗客のそれぞれの会話がまさに取り留めのない日常のものであることも我々をその開いた座席に座っているような気分にさせる。 何万分、いや百万分の一かもしれない確率のとくにハイジャック譚は一度見始めると最後まで見ないと納まらない気持ちにさせる。

けれど、娯楽映画に比べると結末がどうなるかという摑みはここでは既知の事実としてあるから娯楽映画「タイタニック」から砂糖細工を除いたものを見るように、瑣末の技術、時間の経過にしたがって様々なところで関わる人物、組織の動きを後付で見るところに重点がいくようでもあり、本作では時間の経過にそっての航空管制塔内部の瑣末な数字、部署の動き、軍の関与等の台詞などがここでは事実に則って発せられているものと解釈できその臨場感が重みをつける。 

自分がその場にいたとしてどう対応するか、機内で、管制塔で、軍司令部などの場で、、、、ということなのだが、7年経ってあらかた様子が分るものの管制塔内の混乱と事態の不確かな情報が錯綜する中、徐々に事態がおぼろげになってきても攻撃の規模が摑めない瞬間には、遠くの地では戦争をしているものの近代戦を自国内では経験していない中で突然湧いたその戦争の恐怖というものが混乱の中で押し寄せてきても不思議ではない。

自国でも多くの将兵の犠牲をだしているものの、中東の当該国でそれに100倍を上回るの犠牲者を直接、間接的に出させてその国に「進行(侵攻)」しているアメリカ内の戦争の図でもある。 「なぜ」ということが消防士、ユナイテッド93便のドキュメント・映画を観ていて炙り出されるのはここでの収穫だろう。 それは単純、安直なテロ反対談義を超えた地平まで我々の思いを届ける契機となるからでもあるし殺す方も殺される方もなまなかでないことを確認するすることが世界を席巻するパックスアメリカーナ対イスラム原理主義の二項対立のジレンマに風穴を開ける契機となるのかもしれない。

この最後の方からみ始めた家人が、もう飛行機には乗りたくなるわね、という感想にしても一時的なものでそのうち何事もなかったように機内食と映画を楽しみにいそいそと休暇先のことを想いながら乗るのはみえている。

しかしこの映画の重さは、あまりにも軽くあまりの馬鹿馬鹿しさゆえに私の好きなドタバタ、スラップスティック、 パロディー映画のうち、「ケンタッキー・フライド・ムービー」で注目を集めた監督トリオ、ZAZの「フライングハイ (1980)、FLYING HIGH AIRPLANE!」でも中和できないようだ。 1980年代のハリウッドパニック映画と20年経ちフィクションのような出来事が起こったその事実の重みの前には我々は立ち尽くしこのスラップスティック映画に腹立たしさと膝が抜けるような空虚感さえ起こさせる本作である。


昼前に起きだして慌てて車を走らせ20年前に射撃を始めてそこの会員だったクラブで今日は50m長銃の地区通常競技会だった。 そこは今は縮小したオランダ陸軍の一部分、今は戦犯として収監されているミロソヴィッチ元大統領まで数百メートルしか離れていない処で、昼の麗らかな日和でクラブの前庭には簡単なテントも張ってありそこで寝覚めのコーヒーを飲みながら30分ほど自分の番が来るのを待ってあり、そこで今日私が打つ火打ち石発火方式、フリントロックの石の話をしていた。 

ヨーロッパの歴史の中で、その歴史は地方、大国、小国が入り乱れての戦争、抗争の歴史であり、そこでの武器の歴史が技術の発展に大きく寄与していることは現在でも同じことなのだが、その火打ち石でどこのものがいいか、ということになるとイギリスの変成岩が当時から今でも品質の最高位にランクされており、わたしの使うものも銃砲店で訊ねると英国産だときかされていることから16世紀ごろまでの武器ではかかせないものであり、特にイギリス、フランスの歴史は今でも犬猿といわれることもあるほどで昔からヨーロッパの王室の姻戚関係はヨーロッパ中に網羅されているものの婚姻関係はどうでも国益となるとそれは戦争の歴史でもあり、それは日本の戦国時代やその前後の歴史を対照させてみたら人のすることには古今東西そうそう変わりがないようであるのだがヨーロッパでは文化、言葉の違いが大きくその溝は今でもなかなか埋まりにくい。

オランダ建国の王、今のオラニエ(オレンジ)家の宗主、ウイリアム沈黙王にしてもオランダ語は分らずフランス語を話していたという事情もありここはそういう国柄である。 私の町の10月3日の解放記念日には欠かせない歴史上の人物であり、国家には、王家の血にはドイツの血が、、、というような文言が国歌に入っており、また、今の女王の先年亡くなった連れ合いがドイツの元外交官、父親がドイツの貴族であり、曾祖母であるエマ女王がドイツから輿入れしたようなことでもその錯綜振りがわかる。

そこで、火打ち石、なのだが、その当時、といっても1600年前後になるのだろうが、オランダの商人は何でも金になるものは扱い、歴史上恥ずべき奴隷貿易でも巨万の富を築いているぐらいだから武器を右から左、と動かすことには何の抵抗もなく、ただ、それが損になるとなれば動くはずはないのだが、オランダの宿敵英国の不利益になるためにはその火打ち石を英国からフランスに随分輸出した、と言う話を日和の中で爺さん連中が笑いながら話していたことだ。

私は今日は本来ならば1873年型ウインチェスター・ライフル、44口径も撃つはずだったのだが弾丸がなくなってもこのところの怠惰癖でそれももう半年以上作っていないので今回はパスした。 それでもあと2週間ぐらいの間にこれからの週に備えて今年の分200発ぐらいは作らねばならないと考えているのだが、このフリントロック式で丸い鉛玉を撃つなら材料を揃えておけば射場でそのまま込めればいいわけでその簡便さの対比から玉造りのモノグサ癖についついシンニョウ偏がつく。

いづれにせよこういう武器にちゃんとした弾丸がなければ、1mmでも違えば武器は武器でない。 ただの重しか金鎚にしかならない。

50mの射場は屋外で紙の的は麗かな陽射しを受けて時折雲がかかれば色も薄らぎ誠に気持ちのいい射場だ。 初めの数発は9点、8点と続きのんびりと時間をかけてそれが得点に反映するものと思ったもののあとは右肩下がりでどうもいけなかった。 30分の制限時間が28分使って規定の13発、ウインチェスターであれば10分弱で、急げば3分ぐらいで撃てるものを先込め式は手間がかかる。 80点を越えていると思ったのだが75点とまりだったとは少々めげる。