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2008/12/01のBlog


スーパーに行くと昔の風呂屋の下駄箱かと思うような家の形をした箱が並んでいて子供達がそこに自分の片方の靴を入れていた。

12月の5日の夜に白馬に乗った白髪の枢機卿のような赤いマントに大きな錫杖を携えたシンタクラースが従者の黒人ピートを何人も従えて子供達がいる家の屋根を巡り煙突からプレゼントを入れて廻るのだ。 子供達は物心ついたときからそれを聞かされその親たちがした通り2週間ほど前から寝る前に自分の靴の片方を居間の一角に持ってきてその中に「霜降り」と名づけられたシンタクラースの馬のために人参と飼葉の藁を少々、それに大事なのは自分が欲しいプレゼントのリストを入れておくことで、その後いろいろあるシンタクラースの唄を歌ってから寝床にいくと翌朝には人参も藁も消えて飴やビスケット、それに小さな蜜柑がその小さな靴の中にはいっている、ということになる。

大抵、子供達は6か7つぐらいまでそれを信じているのだがそれから後は歳を充分とってたとえシンタクラースに近いほどになっても皆で信じていることを演じるのだ。 それが文化というものだろう。 うちも15年ほど前までそれをやったし、その後ずっと行って今後もそれをするだろう。 今年もだ。 自炊をし始めた子供達に安価ではあるけれどこれ一本で何でも調理できるというゾーリンゲンの鋼のするどい小さな包丁をそれぞれシンタクラースから贈って貰うことにしてある。

家族4人がそれぞれ欲しいもののリストを作りそれが籤となって各自をれを曳き、自分が担当のシンタクラースとなる。 今年は私は娘のリストを引き当ててそのうち幾つかを買うこととなっている。 ブランドのオーデコロン、名前もしらないグループのCDにT-シャツ、小さめの中華鍋などがリストに書かれていて昨日込み合う化粧品店でとりあえずオーデコロンを買った。 サプライズとして自分で考えたプレゼントも一つか二つ買わねばならぬけれど何がいいのかわからず、このシンタクラースは苦労する。 シンタクラースは現金は贈らず、口座に振り込むなどというような無粋なことはやらないから面倒だ。

うちは義弟の家族と一緒に今度の日曜日に15人ほどでパーティーをして午後から夜にかけて遊ぶ。 その中で無邪気な夢を見るのは2人だけだけれど皆、真面目にシンタクラースを信じて誰か分からぬシンタクラースに礼をいいながらプレゼントの包み紙をあけることとなる。

世間ではアメリカ流のサンタクロースがクリスマスの頃にあちこちで見られるものの世間はこのサンタクロースに冷たいものだ。 サンタはシンタクラースの贋物とみられている節があるし実際、新大陸にここから移民した人々が作り上げたものと見なしているようでもある。 だから別段、サンタはこの国には用はないのだろう。 クリスマスはどちらかというと日本の正月のようなものかもしれない。 家族が集まって食事をし2日間はゆっくりと過ごす、ということだし教会にもいくかも知れずそこには大晦日の雰囲気もなくはない。 

スーパーでは子供のために靴箱を用意してそこにシンタクラースへのメッセージを書いて入れれば何がしかのお菓子や小さなプレゼントがもらえる、メッセージがウイットのとんだものであれば後ほどまた何がしかの賞がでる、というキャンペーンなのだ。 箱の中には片一方だけの靴が沢山並んでいるし、とっくにシンタクラースの何であるかを心得た子供がほとんどであるようで、肌の色、言葉から両親はシンタクラースには何の縁もなく育った家庭の子供達が殆どのようだ。 これも政府が頭を悩ます外国人の同化政策の一環として機能しているのかどうかは疑わしいものの、いずれにせよ子供達に何がしかのプレゼントが行くことには異存はない。 そして、このプレゼントはスーパーからではなく我々がスーパーに払った金額の中から出ていることは確かであるのだから私の何分の一かは透明なシンタクラースでもある。

シンタクラースは私のプレゼントを選ぶのが難しそうで浴場の棚には使いもしないアフターシェーブがいくつも並んでいる。 結局それもそのうち息子の方に廻るのだがシンタクラースにはジャズの素養がないので困る。

やさしい嘘(2003)

DEPUIS QU'OTAR EST PARTI...
SINCE OTAR LEFT
102分
製作国 フランス/ベルギー

監督: ジュリー・ベルトゥチェリ
脚本: ジュリー・ベルトゥチェリ
ベルナール・レヌッチ

出演: エステル・ゴランタン エカおばあちゃん
ニノ・ホマスリゼ 母マリーナ
ディナーラ・ドルカーロワ 孫娘アダ
テムール・カランダーゼ テンギズ
ルスダン・ボルクヴァーゼ ルシコ
サシャ・サリシュヴィリ アレクシ
ドゥタ・スヒルトラーゼ ニコ
アブダラ・ムンディ ベルベル人

 ソ連邦の崩壊によって経済的な困窮から脱せずにいる小国グルジアを舞台に、愛する家族のためについた一つの嘘をめぐり、母娘三代それぞれが抱える葛藤と心の絆を優しく描いた感動ドラマ。主演は85歳で映画デビューを果たし90歳目前に出演した本作でも高い評価を受けた「めざめ」のエステル・ゴランタン。監督はこれが長編デビューのジュリー・ベルトゥチェリ。
 グルジアの首都トビリシに暮らすエカおばあちゃんと母マリーナ、そして孫娘のアダ。生活は貧しく、女ばかりの家でささいな衝突も絶えない。それでもそれなりに3人仲良く幸せな毎日を送っている。エカおばあちゃんの何よりの楽しみは、パリで働く一人息子オタールからの手紙。フランス語の得意なアダが、いつもその手紙をエカに読んであげていた。しかしある日、オタールが事故死したとの悲しい知らせが届く。マリーナとアダはエカおばあちゃんを悲しませないため、オタールのふりをして手紙を書き続けることにする。しかし、次第に様子がおかしいと心配になり始めたエカおばあちゃんは、オタールに会うためパリ行きを決意するのだった…。 このように映画データベースに出ていた。

これに倍してこの映画の2004年までの情報は下記のサイトに詳しい

http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-04-24yasasiiuso.html

この舞台になるグルジアはこの3ヶ月ほど世界の政治の舞台で話題を呼んだ。 それまで国境あたりで小競り合いがありロシア語を話しロシアのパスポートを持ち親ロシアでもある北部の地区にロシアが自国民救助という名目でグルジアに攻め込んだ。 とグルジア政府がいい、その模様が連日ニュースに現れたのを覚えているし首都の広場で取材中のオランダでは少しは顔を知られたレポーターがロシアの砲弾で死亡した事もニュースだったしグルジアの大統領自身がライブで BBCニュースに現れ、何がそこから数十キロのところで起こっているかを示していたのもついこのあいだの夏だ。 ロシアはその部分、グルジアの西の港湾部とロシア系住民が住む北部の地区を占領した。 西欧各国はそれを認めず即刻撤退を求めたものの双方の合意に至るプロセス、アメリカ、ロシアの相互の思惑と次第に冷え込む東西関係にバルカンの二の舞かという観測があったがその後ロシアは西欧諸国の監視の下、引き上げているとのことだ。 この国にとって最悪の事態になるという時期にグルジア大統領が夏の首都の国会前か大きな広場に記者団を集めて悲痛なまでに援助を願っていたをCNNでライブで見たのもその頃で、数日間は事あるごとにテレビの前に立って眺めたことを覚えている。だが、最近、報道ではこれがグルジア大統領のシナリオで西欧諸国の力を利用してロシアし誘導したとえ自国の民を犠牲にしてまでロシアを叩き、それまで混ざり合って協調して住んでいた民族のその地区からロシアの影響を排除するための芝居をうって失敗した、というニュースまでありグルジアの国民はこの大統領に不信を抱いている、ということもささやかれる現在の2008年だ。

ゴルバチョフが西欧に迎え入れられたときに外務大臣として活躍したエドゥアルド・シュワルナゼが世界政治の舞台から退き、故郷にもどり小国の大統領になった、と聞いた時にはモスクワの政治から引退して長閑な自国の大統領に収まったのかと無知で浅はかな感想を持ったのだがシュワルゼナゼの降板でそれが楽でないことが実感された。 疲弊したロシアの周辺国がそのあおりを受けていないわけはないのだし自立して立て直すためには自分の身を切り売りしなければ生き延びられないのだ。 それが政治、経済的には世界のエネルギーを保障するパイプラインだといわれている。 それはロシアもヨーロッパも勿論当該国グルジアも承知の上のこと、だからグルジアの大統領はそのエネルギーの供給ラインを握っているから世界の目をひきつけロシアを追い出すために西欧に擦り寄るための暴挙なのだというものもいる。

こんな政治の生臭いことを思ったのはこの映画に出てくる首都の景色を見てそのアパート群の疲弊の様子がこの国のまだ続く困難を思わせたからなのだろう。 しかし、物語は暖かくしたたかにユーモアを含んだもので話の展開上、主人公の老婦の賢さからハッピーエンドに向かうだろうという確信はあったし、その結末に十分納得もいき、希望的には話の展開上、少し前からは筋書きの予測もできる様でもあったのだがそれがこの映画の強さでもあるのだろう。

おなじく監督が女性で老人が主役の、パタゴニアを舞台にした映画、Historias Minimas でも十分に老いて枯れた老人が最後にザラリとわれわれの顔をぬれ雑巾でなでて通り過ぎるような按配にしているものの老いのしたたかさが現れていてなまなか若いものの老人に対する目を開かせるようなうれしい作業を行っている。 この二つの映画では男性と女性の老人が対照されていて興味深い。

この映画の中では時は2002年である。 首都の町並みはサラエボにも重なり紛争地域特有の景色が示されるのだがけれどそれでもしっかりとそこに生活する様が示され、紛争の跡に生きる女系家族の様子が主人公とその娘達、孫娘によって再生の兆しが感じられ最後に孫娘の旅たちで完成する。

ここでは女が主役で男たちは優しかったり腰抜けであったり女にとっては脇役なのだがこういう風に不安定な世界の構図が示され、その澱んで不安定な世界では女が経済の主役になれずとも、家庭や男女関係のミクロコスモスではどこでも言わずもがな、老婆たちはしたたかであるのだがそれはあくまで優しく全てを御見通しのジェスチャーなのだ。 この主人公を演じる婦人は90歳に近いと聞く。 なんともはやよくやるものだ、男ではこうもいかないのではないかと感嘆してやはり女のしたたかさなのだと納得する。
2008/11/30のBlog


12月5日はオランダのクリスマス、シンタクラースの祭りがあり、それには小さな蜜柑が欠かせない。子供達にいろいろなプレゼントをくれる聖人シンタクラースはスペインに住んでいて、この時期にスペインから蒸気汽船に乗ってやってきてそのプレゼントが入った大量の麻袋に中にスペインのオレンジや蜜柑があるのは当然で、時には従者のピートたちがこの小さな蜜柑を路上で他のお菓子と混ぜて周りに放り投げているのを見ることもある。 だから普通の蜜柑ではなくとても小振りなのが正統なシンタクラースの蜜柑なのだ。

スーパーでこれを見つけ25cmx15cmほどの箱に40個ほど入って値段は3ユーロもしなかった。 勿論ピンポンボールほどの大きさだから遠めに見ると沢山はいっているように見えるけれど、どちらかといえばこれは普通の蜜柑のミニチュア版だ。

普通こういう小さいものは大きいものに比べて甘味が強くて一度食べ始めると5つ6つは軽く食べてしまうから箱はすぐに空になってしまうのだがこのこの何日か子供達は留守にしているのでしばし黄色いピンポンボールはこの箱にはいったままある。

モロッコから輸入されたこの蜜柑の安さを考えてみると一つ一つにラベルが貼られていたり箱にしてもちゃんと一つ一つ手で作られたもので、これで儲けがでるとはとびっくりする。 そして、これを眺めていると自分の子供のときのことを思い出した。 私もこういう箱を子供のとき作った覚えがある。

私が育った大阪南部は1960年代までは全国でも有数の玉葱の産地で秋の稲の刈り取られたあとに畝が作られ玉葱が植えられていてあちこちに収穫をした玉葱を保存しておく玉葱小屋がこの地方に典型的な風景として見られたものだ。出荷するのは麻袋や網目の小袋というものもあったのだろうが15kgとか20kgほどを一つの箱に詰めて送る、というのがあった。 向かい合った8角形の側板2枚の一つ一つの辺に50cmほどの長方形の板を打ち付けて上辺だけを残しすこし板の間に隙間を残して打ち付けるのだが、打った釘の部分を隠すのに幅2cmほどの金属の帯を巻きつけてそれも釘で固定する。 一つの側面に出荷する農協のマークを掘りぬいた型紙を載せて黒いインクをつけたローラーでプリントして出来上がり、というものだった。

それを一つ作れば2円もらえた。 5円というのは当時の子供にとっては大きな飴玉一個の値段で一日の小遣いが10円というのも普通だった。 1960年にはまだなっていないころだったろうと思われる。 こういうことは中学の高学年になるようなものには割が悪いからなのだろうか、村の集荷場の片隅に学校が終わってから家から金槌を持ってきてトントン箱を作りに集まるのはのは殆どが小学生だった。 暫くしてこれを親に辞めさせられたのだが、その理由ははっきりしない。 たぶん、小学校の3年生になるかならないかの子供にこういうことをさせる体面かなにかからだったのだろうが、我々の方には集まって何かを作り、それで小使いがもらえるは楽しみだったしそれで大人の仲間入りができるような気もしていたのだ。 結局、一週間もそれをしないうちにやめさされ、500円分も作らなかったのではないか。 500円というのは子供にとって大金だったから、もし自分で初めてそれを稼いだものならば今でも忘れてはいないだろうから精々もらったのは150円程度だったのではないか。 それでも小学生の子供には150円は悪くない。

そのようなことを考えていた。 この小箱を一つ作ればいくらもらえるのだろうか。 私が玉葱の箱を作ってから50年を隔てて今、これをモロッコの田舎で大きなホッチキスを片手に紙細工のような箱を作る子供がいるのだろうか。 ホッチキスの針をみるとかなり大きなものであり、それは圧搾空気圧を利用して打ち込む少々大型の機械であるように思われ、それなら小学生の低学年の子供に扱えるようなものではないだろう。 大人かそれに近い年頃の者が作ったものだろう。 シンタクラースのプレゼントの蜜柑の箱をいくつも作りそれでプレゼントを買う金を稼ぐということか。 もっともモロッコにはシンタクラースの習慣はない。
2008/11/29のBlog


Bye (バイ)
 
1990年 オランダ
ドキュメンタリー映画 約2時間

監督;エド ヴァン デル エルスケン (生 10 March 1925 没 28 December 1990)



このドキュメンタリーには個人的な想いが交錯してなかなか見るのが難しいかったり辛かったりする。 この完成後、それもこの写真・映像作家が没後、放送されたものをテレビで見たり、それをヴィデオに録画してあるのだが改めて観る機会はなかった。 今晩夕食後に家人が、又エドのお別れのドキュメンタリーが2時間ほどあるの知ってた、と訊くので、ああ、もうそろそろ亡くなって18年になるのかと感慨もひとしおだった。

今、世界最大のドキュメンタリー映画祭がアムステルダムで開かれていて、それに関係してオランダ国営テレビの文化芸術が専門の局が視聴者に今まででどのドキュメントが一番よかったか、というアンケートにしたがって10時ごろから2時間ほど幾つかリクエストに応じて放映しているその一つだったのだ。

癌に侵されてそれを記録する作家の姿は現に今、私の姑がそのような状況に置かれていることと家族では多く癌で亡くしている個人的な経験から改めてこれは重い事柄なのだが、この作家の作品として最後に自分の生き様、死に様をドキュメントにするというのは彼の理にかなっている。 生き死には万人の重大事であることからこの個人的な写真・映像作家の赤裸々な記録が深く我々の記憶の底に残る、このドキュメントが万人を打つというのはその芸術性を裏打ちしている証拠である。

白黒のコントラストが強く黒と灰色のトーンの美しい映像は彼の作品群になれている眼には親しみ深くその絵は彼のものである。 まるで世捨て人のような髪と髭の、初めの語りで、自分の作品群で10ほどの写真集を出版し、1964年以来10ほどのドキュメンタリーをものしてその締めくくりとして自分の病魔に侵されて身動きのとれない身辺闘病記を作品にするという動機をかたる顔は私が見知った写真家の顔ではない。 すでに腫瘍は体の各部分を犯し、医者は睾丸摘出をしなければ余命は2,3ヶ月だ、という88年夏あたりからこの話は始まる。

家の中に、主にベッドに釘付けになり一日で一時間ほどしか身動きのとれない状態で夫人に介護され撮影機材の操作も助けられ鏡に写った自分の姿に向けてカメラをまわすのだがそのフレームも彼の馴染みのもので、そんな制約の中で自然と語りが主要になり、それもテキストにまとめられたものを読むこととなるのだが痛みとの戦いで時には意識が霞みそうになったり話が散漫になったりするのは癌の患者には当然あることでそれでも時間との戦いと意識して未完の作品集に向けてその進み具合をかたる。 この作家はカメラで何事にも正面からたち向かうそのスタイルは当然彼の性格であり、世界観でもあるのだが、自分の病気を写真家の目で観察し、その88年10月から始めた数十枚のスキャン、やレントゲンの自分の病巣がそこにはっきりと示されている画像をすばらしい映像だと眼を輝かせ興味深く芸術家の眼で解析し、自分の病巣の部位を裸身で示す。 ここにそのKlootzak(糞ったれ)があって痛むんだ、と。 2時間のドキュメントでは何週間かの間隔を置いて作家は登場するのだがその病気の進行状態、それに対する医者の意見と希望、願望が交差して順次そのかいなく悪化していく状況にも次の手は、という生への執着は彼の強い自我が支えるものではあるけれど耐えられない痛みを語りなまじ過ぎた痛みの状態を本人が、夫人がカメラに語るのに接する我々には居た堪れなくなる。 このドキュメントはそんな殺伐なシーンばかりではない。 

パリ時代にハンガリーからロバート・キャパたちとパリに来てヴァン デル エルスケンと結婚していた年上の女性写真家 Ata Kandó (1913年生まれ Budapest, Hungary)、と同僚の女性写真家も彼の家に呼ばれ当時を振り返ったり、キャパの死に引き寄せられたその心理をヴァン デル エルスケンが最愛の夫人を失ってそれで生にたいする執着がなくなった、と素人考えといいつつもその論を展開する場面もその白黒の映像が美しく動くポートレートになっている。

ここから私がこの作家とたまたま関わったことのこのドキュメントと重なる部分を書き出す。

1985年5月11日 スキポール空港にて日本旅行に同行するカメラマンとしてのヴァン デル エルスケンと初顔合わせ その後三週間ほど一緒に過ごし、同年5月31日に大阪で別れる
1986年6月29日 連絡あり。その後何週間かして家人とエド宅訪問
1987年に何回か私の職場を来訪し自分の撮った日本写真に写っているものの意味、背景などについて質問がありそれに答えるというセッションを何回か行う。
1988年6月24日 12:00-16:00 家人、オランダ訪問中の母、生後半年ほどの息子とともにエド宅を訪問一日を過ごす。
1989年 家人、息子とともにエド宅に一泊
1990年7月15日 10:30-14:30 アトリエでジャズ、アフリカ、Once Apon A Timeの話をしながらも階下では家人と夫人が子供たちと歓談。 このときの元気さはフィルムの中では苦痛が一時的に抑えられ驚くほどの一時的な回復を見せた時期にあたる。 フィルムで夫人が衰弱した作家が病院に収容されて夫人自身も衰弱した顔つきで病室の痛ましい状況を語ったあとであり、その後の面会であるからこのフィルムでの深刻な様子は微塵も見られなく映像にみられるように急に春の日差しが訪れたような穏やかなものだった。 われわれはその時このような苦痛と衰弱を越したあとだとは知る由もなかった。 それでも6時間ほど滞在していても実際本人が大きなベッドに横たわって睡眠をとることもあったのだから一日のうちで活動できるのが30分とカメラにむかって言う直前だったのだろう。 皆にはこれが顔をあわせるのが多分最後になるだろうという認識はあった。 この時期、共通の友人たちも作家のうちをこのようにしてそれぞれ訪れている。
1990年12月28日 永眠。 年末の時期、友人から亡くなった事をしらされ葬儀の知らせが届くも身重の家人を家に残し、友人と告別式に参加することを伝える。
1991年1月2日 葬儀。 窓から牧草地を隔てて塔が見える Edam の大聖堂で数百人参列のもと、葬儀が行われ、その後、教会に隣接した墓地に埋葬される。 雨や雪はなかったものの寒い日だった。 このドキュメントの中にも紹介されていた、この町の画家がかれのシトロエン2CVに写真家の活動やそれにちなんだモノクロの絵を施した車が教会の前に置かれていたのが印象的だった。

モノクロ画面の最後に青い目が印象的な美しいカラーの顔が大写しになり皆に別れを言ってこのドキュメントは終わり、初めのモノクロ、焦燥した顔とは奇妙に反転しているとさえ言える爽やかさでありその後、彼のパリ時代、アムステル時代、日本の数枚が示されてこのドキュメントは終わる。

その印象的な50年代に撮られた京都西本願寺の人気のない境内、石灯篭の付近で三脚を立てて頭から布を被い写真師が家族を撮る場面を彼は撮っている。 これは写真師を撮る写真家の眼でヴァン デル エルスケンの眼は布を被った写真師としてその家族を覗いている。 後年、Eye Love You という写真集を出している眼である。 奇しくも85年5月、京都滞在の折、ある早朝、宿を一人出て私はここに行ったのだが無人のこの同じ場所に写真家がいてこの写真のことをいうとあれからもう30年近くなると言った。 今からもう20年以上前の話だ。



エド ヴァン デル エルスケン
http://en.wikipedia.org/wiki/Ed_van_der_Elsken

あるブロガーのこの映画鑑賞後の覚書
http://firstepilogue.com/forget#comments
2008/11/28のBlog


もう3週間ほど入院している姑から3日ほど前に電話があり今日は退院するから迎えに来て欲しいと電話があり家人は他の用事で同行するのが無理だったから息子と病院に同行するつもりをしていた。 それには娘も加わり、息子と私で姑が歩くのを両側から支え、娘が手回りのものを運ぶというのが手はずでもあったのだが、昨日急にそれが取りやめになったと電話が入った。

血液検査をしていたのだが病院側の手違いで検査の結果を見ずして退院の許可を出したところが昨日検査結果がでてそれが思わしくないからとの退院ストップがかかったというわけだ。

けれど娘も息子も家で夕食にして予定どうり病院の面会時間に間に合うよう出かけた。 小雨が降る鬱陶しい宵だ。 道路は夕方のラッシュが終わっているはずの時間にまだ混んでいて本来なら半時間ちょっとでいけるところが倍近くかかってしまった。 週末には雪の中を250kmほど離れた田舎まで下宿の仲間と遊びに行ってきた息子が車を運転したので私は本当に久しぶりに後部座席に収まって i-Pod でジャズを聞きながらうとうととしていた。自分が運転しないとすると大抵助手席に座る。 だから後部座席に座ることなどこの四半世紀に一度か二度ほどだ。 雨模様のとっぷり暮れた高速の後部座席で運転席と違う地面の手ごたえと見慣れて別段興味も湧かない景色を経験することになるのだがそこでこれから何回こういうことを繰り返すのかと鬱陶しくもなった。

実の娘達にその連れ合い、沢山の孫達がそれぞれ代わり合って見舞いに行くから順番は一週間に一度ぐらい回ってくるのでそれほど負担ではない。 直ぐ下の義妹と連れ合いは今バカンスでエジプトの海に潜りに行って留守だからその娘がそろそろ立ち上がりかけている姑のひ孫を連れて見舞いに行き、その様子は土曜の青空マーケットで立ち話で聞けるようにそれぞれ姑の様子は子供達、孫達にも行き渡っているようだ。 携帯やメールはこういうときには便利なものだ。

この間は点滴のチューブと腹に穴を開けて既に摘出してあった左の腎臓の空洞に溜まった膿のようなものを吸い出す管も取れてそれまでは水と西洋粥ぐらいしか口にしておらず何を口に入れても美味くない、と見舞いの果物さえ持ち帰ったものが今日はジュースやサンドイッチを少々、紅茶で口にするようになっていたから一応の回復なのだが元々余命は期限を切られたことではあるので終わりに向かう山の一つは越したけれど次の山はそのうち又来るというような旅路であるのだから痛みがないというのがこの状況の中で最善ということだろう。 

温度も湿度も一定の季節のない病室で過ごす姑には窓の外に白いものが降っていても気付かないようで私がデジカメに撮った庭の雪景色を珍しそうに眺めていたし、息子や娘達、孫達の日常や娘の男友達、その親たちのことまで詳しく聞きたいというのは持ち前の他人のことをどこまでも知りたいという姑の好奇心の表れでもあるのだが痛みや病の疲れがあると自分のことだけにしか関心がなくなるし病気疲れの同室の老人達の生気のない言葉にも対照してまだはっきりと笑いも出るやり取りが出来るのは寒空に薄日が差したような状態でまだ救いはある。

時間が来て手を握るときそのやせ細った腕の青白さの中にまだ温かみがあることを確認して子供達と一緒にその部屋を出たのだが退院できる日はまだ当分向こうのことだろうし、姑の帰宅願望が叶うことを希望するということがあってもそのあとにこの病院との往復が続くのはいわずもがなであるからこれからこういうことを出来るだけ長く淡々と続けられることを祈るものだ。