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MyDoblog 獣医学・獣医術の歴史データーベース
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2007/03/12のBlog
おぼえがき
 前略・・・
明治になると警察から、いちばんさきに追われたは、馬にかかずる仲間でな。
やれ売り買いの免許がないぞ。やれ馬医者まの資格がないぞ斃馬にふれるな、届出せいと、つぎつぎやにこい取り締りでな。いぜんのまんまではあきないならんと。
病の馬の手当てなぞ、部落の祖先が年月かけて、先きに体で伝えたわざを、後から役所がかせはめて、むこう勝手で取り締まったでな.
読み書きどころか、おのれの名さえ、書いたこともない部落のばくろうたちは、定めの法がのみこめず、五年、十年とたつうちにざぷに仕事をさらわれて、馬のにきから追われたでな。
 そののちは、警察が見てみぬふりをする仕事だけ、ほそぼそながらつづけとったと。
 やまがの爺さまがとん死さしたで、身うちや仲間づれが集まって、山とつまれた書きつけ眺めたと。
 文字こそ書けんが爺さまは、病の馬の手当てでは、神さまなみの腕まえじゃったがな。
 馬持ち百姓には神さまでも、世のなかとたんに変わってまって、馬の薬を煮とるさえ、村の巡査がよってきて、免許ものうて薬を煮るな、そのうち売るのを見つけたら、くくったるぞと脅かして、帽子の下からにらみすえたと。
 馬から追われた爺さまは、祖先が伝えた手当てのわざや、薬草のある谷間なぞを部落の仲間に残そうと、文字のかわりの絵を思いつき、年月かけ百頭あまりの馬の絵に、骨ぐみ、内臓、血の筋なんぞ、病のありかにしるしをつけて、文字のかわりに四角や丸や、草木や山の道すじらしく、一枚いちまい黒ぐろと、ここじゃとばかりのたくったるが、なんと読むやら解せなんだと
 ばくろう仲間にきてもらい、解いてくれろと頼んだが、じっくりながめたあげくには
「この馬の、尻から出とる矢じるしは、おそらく馬の屁じゃろうて」
 と、せいぜい解けたは馬の屁ぐらいでな。
 「爺さまのしゅうねんかけた書きつけじゃ。せめて役所へ持ちこんで、世間の役に立てたろまい」
 と、大ぶろしきにひと負いね、ごっそり役所へ運んだが
 「ばくろうふぜいの落書きなんぞ、墨ぬりたくって黒ぐろと、これじゃ、ちようず場の紙にもならん」
 と、役人が二の口きかせぬ扱いでな。
 爺さまが、せめていろはをおばえとったら、たとえ無学の手当てでも多くの馬の命をすくい、馬持ち百姓を安気にさせた神さまなみの腕まえを、役人たちになっとくさせて、仲間の肩身もひろかろうにとな。
 いち念かけた書きつけを山と積み、身うちや仲間がくちょしがったと。
 わしの爺さまは七十歳で、馬の手当ての書きつけと、薬だんすを残して死んだ。
 わしも若いころ、あの書きつけをなん十ぺんもながめたが、爺さまの指紋のあとがいくつもあって、苦労のほどほ分かっても、どうにも絵ときができなんだ。
 そのうち虫に喰われたり、紙の色まで変わったで、いつとはなしに焚いてまったが、どうしようもないことじゃった。
 薬だんすは家宝にしとる。小引きだしがぎょうさんあってな。
わしの幼いころに爺さまが、踏みこんできた警察に、頭をいくつもどづかれながら、たんすの前に立ちはだかって、指一本もふれさせなんだ。
 あのおりの爺さまの切ない泣き顔が、八十過ぎたこの歳でもつい今しがたに見えてかなわん。

解説と考察
この一文は田中龍雄著「被差別部落の民話」おぼえがきの一部分である.話しの内容は明治になってからのもので,近代の獣医免許制度が出来た直後のものである.明治十八年に太政官布告によって獣医は免許制となった.この時から家畜の療治は先祖伝来の生業であっても,官・公立の学校で獣医術を学んで卒業した者か,外国で資格を得た者か,国家試験に合格した者でなければ免状を与えないきまりとなった.そして,近世に牛馬の療治に従事していた者の多くは,獣医免許規則により稼業を失った.明治十五年の調べでは三府四十一県の獣医の員数は五千九百五十八人とある.近世の牛馬医で一部の者は限定免許で診療が認められたが,文字を書く事が出来ない者は営業の許可が得られなかった.この件については「農務顛末」に詳しい記載がある.
 牛馬を取扱い者に対する戦前まであった規則は「牛馬籍規則・獣医蹄鉄工取締規則・牛馬商取締規則・牛乳営業取締規則」等で,現在では「家畜伝染病予防法・と畜場法・化製場等に関する法律・食鳥処理の事業の規則及び食鳥検査に関する法律・食品衛生法・獣医師法・獣医療法・薬事法」等がある.
 牛馬を取扱う者の取締りは警察によって行われる.警察官の前身・明治時代の羅卒は殆どが下級士族出身である.彼らは幕藩時代の身分意識が強いために民衆からは嫌われた.その警察が官の権威をちらつかせて,被差別階級の馬の療治者を身分差別し,いじめの世界へと追い込んで行く.話の中に登場する「ざぶ」と称する者は定かではないが,話の脈絡から推量して免許状を持った新制度の獣医をこう呼んだのであろう.
 さて,馬持ち百姓から神様と呼ばれたやまがの爺さまは,馬の療治術以外に馬相から本草学,森羅万象に通じた優れた技術者であっと思われる.想像ではあるがこのレベルの技術に達すると,武士の持ち馬を療治する事もあり,呼称も「ばくろう」から「はくらく」に転じる可能性がある.官の獣医の始まりは陸軍の馬医で,多くは士族の出身である.
馬医の最高位は馬医監で正帽の星は三つ(佐官),馬医,馬医副,馬医補は星が二つの尉官である.維新初期の陸軍では幕藩時代の士分の馬医が馬の療治を行っていたが,軍馬の重要性が認識されると,陸軍は独自の馬医学校を作って軍馬医の養成を行った.一方,民間の獣医は家畜防疫と乳肉衛生の面から生じたもので,発足当時の所轄管省は内務省で,学校は駒場農学校である.更に,北海道を管掌する開拓使は独自に獣医を養成する必要があり,開拓使学校で獣医の養成を行って,札幌農学校・北海道大学へと引き継がれて行く. 
 こひきだしのぎょうさんある薬箪笥.薬味箪笥.薬味は一味毎にこひきだしに分けて保存した.療治者は馬の病状に合わせて薬味を配合し,湯剤・散剤・丸剤・外用剤として投薬した.馬の療治薬は殆どが消化器作用薬で,健胃・消化・整腸剤と,下剤・消炎剤の処方が一般的.
2007/03/11のBlog
浄場めぐり
 むかし、数ある部落のなかで四、五軒ばかりの部落では、仲間の人手が少ないうえに、年がら年じゅう近在の野良仕事やら山仕事にやとわれて、そればっかしの日暮らしでな。
 いつのまにやらしきたりの浄場はもとより、村場のつとめを受けかねて村々からの知らせがあれば、人手の多い部落につたえ、場銭をもらって肩がわりしたと。
 代官所でも山里なぞの数のすくない斃馬なんぞの扱いは、村から小言のでぬかぎり、見てみぬふりのありさまでな。
 これさいわいとあんきして、たとえその日の喰いぶちでも、決まった仕事の鋤、鍬とれば、目はしきかせてだれまわる浄場めぐりがうとましくなり、その余のことは放ってまって、雇われ百姓に執心したと。 肩がわりした部落では斃馬の出どこをたしかめて、仲間の浄場に相違はないか、大川なぞを渡らずに大八車ではこべるか、車のかよわぬ山奥ならば、皮だけもらって戻れるか。
 その地の村役の口ききで、始末のできる場があるか、なんぞを問いただしてな。間違いないかを見さだめたと。一頭分の斃馬なら二百三、四十貫はゆうにあったで、山坂ばかりの道のりならば、あんまり斃馬が大きいと、前でかじ棒がはねあがるのでな。荷台のしりに三本もの地づりを立ち高につけて、車の輪にははどめのころをつり、坂道くだる用心したと。
 たとえ日がえりの道のりであれ、浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだがな。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかったと。
 雨が降ろうと日照りであろうと、笠のかわりのほおかむり。手拭ででこにひさしをつくり、車をかこんだ七、八人が顔もあげんと押していったと。
 集めた皮はいのししや熊の毛皮とひとつにしてな。
 ちぢまぬように竹張りをかけ、大きな凧をならべたように、部落の小道に立てかけたり、塩づけにして貯めといて、なめしの部落へ運んで売ったと。
 雪の降る日に酒田の畦道で、行き逢うたのが馬連れの百姓でな。 部落の仲間が目八分で、沼田に片っぼの脛まで入れて、馬を避けたが避けだらなんだと。
 馬の胴っ腹で顔こすられたで、もう片っぽも踏みこんで、そのまま馬を通したが、両脚が抜けんで困っとったと。
 そしたら百姓が振り向いて
 「そこに、そのまま突っ立っとれ。案山子のかわりに使ってやるわ」
 と言いだくれたでな。
 仲間がすかさず言い返したと。
「お前が曳いとるのは浄場の馬じゃ、やがて死ぬまで預けとく」
 夕立ち雨が降っとるおりに、源弥さが家でのさこいとって、向こうの河原を眺めとったらば、百姓たちが馬曳いて通ったと。
 通ったわい思ったらば、またぞろ馬が曳かれていったと。
 この夕立にどこぞで馬市でも立っとるかやなと。そこで源弥さがお嬶言ったと。
 「お嬶、見よ。あの馬は一頭余まさず村場の馬じゃ。さすればわしらが預けた馬じゃ。わしらの身上を百姓が曳くわ」

解説と考察
 この一話で,穢多の斃牛馬取得のありさまを手に取るように見る事が出きる.少人数の部落では雇われ仕事で生計を営むようになり,本業の斃牛馬の取得は,その権利を他の大人数の部落に金銭で譲り渡している.
穢多が個人的に斃牛馬の取得が可能な場所がしきたりの浄場で,百姓の牛馬が死亡した場合は,定まった場所に捨てるように定められている.この場所を百姓の側では「ダブ」とか「牛・馬捨て場」と呼んでいる.また,西日本ではこの区域を「旦那場」とか「芝」とも呼んでいる.
しきたりの浄場は村はずれにあり,この場所から部落への斃牛馬の運搬は人力でも何とか可能である.しかし,他人の浄場は遠方にあるために,斃牛馬の運搬には様々な困難がつきまとう.近世の馬は小さいと言っても二百貫目以上の目方があり,男手八人は最低限必要となる.従って荷車も代八人の大型車・大八車である.大八車は小型の車力と混同される場合があるが,近世の家具・建具は荷台の広さが三尺・六尺あれば殆どの荷物は運搬が可能なように作られている.災害の多いわが国では,箪笥・長持はどんなに大きくとも竿で運べるように仕立てるのが指し物の常識であった.アルミサッシが使用される以前の戸・障子・襖は並みの家なら自転車のサイドカーで運べる程の量.大きな屋敷でも荷車・リヤカー一車程しかない.
一貫目は3.75kg.二百貫目は750kg.1tの荷重に耐える木製の荷車と言えば大八車である.この大八車も道の状況では通行出来ない場所が数多くある.川,山道など物理的に通行出来ない時と,積荷の種類・季節によって通行出来ない時がある.この様な場合は最寄の始末の出来る所に斃牛馬を運び,生皮を採って残りは穴に埋めた. 
『浄場めぐりの持ち物は、履きかえ用のわらじが二足。竹がわ包みの喰いものに、小樽につめた飲み水と、火をたくおりの菜種油と火うち石。土ほる道具に鎌と出刃。手もとを照らすがん灯に,多すぎるほどのろうそくと物をぬらさぬ油紙。斃馬を動かす丸太ん棒.むしろや縄を車に積みこんだ。部落からひと足世間に踏みだせば、たった一すじのくず縄でさえ、借りる手だてはなかった・・・』生皮を採取した斃牛馬は油を付けて焼却するとされているが,実際は食用に供した場合が少なくない.
鎌は縄・筵を切る道具で,剥皮・解剖に用いる刃物は出刃としている.先の尖った身の厚い出刃包丁を連想するが,出刃包丁で捌くのは魚・鳥程度で,大型の獣の皮を剥ぐのには適していない.現在でも剥皮は剥皮刀と呼ぶ薄身の両刃の刃物を使用している.使い勝手を考えれば剥皮に使用する刃物は出刃包丁よりも,馬繕いの爪きり包丁に似た刃物であろう.剥皮に続く解体では鋭い出刃包丁が便利である.
解体には・・・勝手な名称であるが,「猟師流」・「肉屋流」・「学者流」等の流儀がある.「猟師流」や「肉屋流」は腑分けの経験の蓄積から生まれたもので,「学者流」は明治以降の西洋獣医解剖学・病理解剖から派生したものである.いずれにせよ近世の馬医者は腑分けを行っていないから,解剖学的な知識がない.馬の胆の腑の患いと見立てて,「馬と鹿は胆の腑が足らぬ故に,足らぬ者を馬鹿と云う」と,知識を持つ者から馬鹿にされる.


2007/03/10のBlog
天狗の足あと 

 むかし、美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたりじやったとよ。
 なんせ斃馬の皮だけ目につけとったで、丈夫で生きとる馬や牛を、わざわざ落とすなんぞ、ほってもなかったでな、役人は部落に斃馬だけを始末させといて取締ったとよ。
 馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせて、双方におのれ勝手な真似をさせんなんだと。
 斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送ったが、やがて皮革の値がつり上るにつれて、おのれの欲が先きに立ってな。斃馬が出たと、いち早く聞きでかした部落のもんが勝手に駆けつけ、百姓もまた村方にかくれて取り引きしたで、これを部落ではさんしょの拾い得、首姓は捨て得と呼んだとよ。
 拾い得に役人の咎めがないと見定めると、部落の金持ちは人手を使って、大びらに村々の斃馬さがしに目を配ったが、そのうち、岐阜あたりの部落に、佐吉という目はしのきくじんがおってな、拾い得の人足に使われとったと。
 世間は昨今、天狗党の噂でひっくり返えっとってな、やれ、昨日は行列が高富村へ向けて芥見村から長良川を押し渡ったが、なかに白髪あたまの婆さがおって、これが巧みに馬をのりこなし、天狗党を指図して川越えさせたげな、なぞと噂を聞くたんびに、天狗党よりも婆さが乗った馬に気をひかれたとよ。
 戦する気で行列組んで諸国を押し渡るからは、乗る馬、引く馬も連れとるで、これから先の道中で、かならず斃馬が出るじゃろとな。もうけ話に連れはいらん、斃馬はぜんぶ拾い得とばかり、たった一人で天狗党の後を追ったと.
 根尾村の道をあっちこっちと目を配って念入りに探しまわって歩いたが,まずは冬枯れの尾根道に猫の仔一匹落ちとらなんだと.
 たどりついた根尾村は,大雪で,親が懇意な猟師に聞けば,天狗党は今朝がた雪掻き分けて出立したと.
 あわてて村のはずれから、越前ごしの谷間の一本道を追ったらば、三尺ばかりの狭い雪道を、板ほどにも踏みしめた天狗党の足跡のなかに、馬沓の跡も残っとったと。
 ここまで追って来たからは、せめて斃馬の一頭でもと、耳たぶ握って走ったらば、目もくらむような崖っぷちの金具ん下に、
 「あった、あった」
推量どおり馬が落ちとったと。
はるか河原の雪の上に、ぴ-んと四つ足を空へ突っ張って、藁馬みたいにひっくり返ったは、深しあぐねた斃馬じゃったと。
 あたりに馬の荷が散らばって、崖の上から細引きが一本垂れたまんまのありさまは、馬を落した誰れぞが泡喰って崖の中途まで降りてはみたが,余りの高さに胆をつぶしてあきらめたな、と見てとったと。
 佐吉も切ない思いでな。
 この大雪の最中に四、五丈もある崖下の斃馬や荷物が拾えるはずも、運べるはずもなかったで。
 雪解けの春まで待っとっても、河原の斃馬は鳥やけものの餌食になって、残るは骨ばっかじゃ.
 ああ、この世はどいつもこいつもこのおれに、銭もうけさせんように出来とるわ、とな。
 あきらめも早いじんで、すぐさまその場から引き返したとよ。 途中、雪道に突き立ててあった槍の柄を拾ってな、かついで家へ戻ったが、戸口の隅の暗いところへ天びん棒と一緒に立てかけといたと。
 昭和のはじめにな。
 佐吉爺さんの三〇何回忌の法事をするとて親類一同が集まったと。
 戸口の隅を片づけとったら、爺さんの一つ話に聞いた槍の柄がほこりにまみれて出てきたと。
 越前の部落から嫁に来とったかかさが話を聞いて、
 「わしの姥さが娘のころ、仲間の娘と連れだって、海岸ばたの松原へ松ご掻きにいってな。
 熊手で松ごを掻いとったら、熊手の先きがにわかに重うなって動かなんだと。
 力をこめて引っばると、熊手の先きに髷がからんだ生首が二つも転がり出たとよ。
 にきで松ご掻いとった娘の熊手にも、また一つ生首がかかってな、こっちは髷が皮ごと抜けたんで、はずみを喰って尻もちつくやら、叫ぶやら、いずれの首も両眼を見開いて、泥のつまった口をばっくりあけとったと。
 べったり腰を抜かしたまんま震えながらも辺りを見廻したらば、数の知れんほど埋められた者の先が、まるで枯草を敷いたように砂の上でなびいとったとよ。
 娘二人はな、松原の俄作りの首打ち場の真ん中で、松ごを掻いとったんじゃと。それいらい、婆さはな、自分の髪の毛でさえ気分を悪うして、思い出すたんび熱を出したそうな」とな。
越前ごえした天狗党が、部落のにきの松原で一人残らず首打たれても、
そりや覚悟の上じゃで構わんが、この槍の柄の持ち主も覚悟さだめて死ねたじゃろか、なにも供養じゃと一同して、習い覚えた経をあげたと。


解説と考察

美濃国の部落では、村々の斃馬をさんしょ、傷病馬をせっぱくと呼んで、ことごとく引き受けるしきたり さんしょの意味は不明.せっぱくは切迫.傷病家畜の一部は獣医師の診断により切迫屠殺が可能である.と畜場法第九条 二 獣畜が不慮の災害により負傷し,又は救うことができない状態に陥り,直ちにと殺することが必要である場合. 三 獣畜が難産,産褥麻痺又は急性鼓張症その他厚生省令で定める疾病にかかり,直ちにと殺することが必要である場合. 四 遠洋航路を航行する船舶内・・・
②馬や牛を養う百姓や士分は、それが死ぬと、村方や上役に届け出て検分を受け、いずれも部落の世話役に知らせ・・・穢多には斃牛馬の無料取得権がみとめられている.


③斃馬を受け取った部落では、皮を塩漬けにするまでが仕事で、その先きは他領の部落のなめし屋へ送った・・・なめし屋はこのほかに猟師からも動物の毛皮を手に入れている.なめし屋は原皮を水に浸して戻してから脳漿鞣を行った.この鞣方は古くからのもので1950年代頃まで行われていた.
2007/03/08のBlog
百姓の顔 「被差別部落の民話・田中龍雄著 明石書店発行」
 むかし、飛騨国の人手の多い部落では、不作の年がかさなるたびに、代官所から戒められて、浄場めぐりをくりかえしたと。
 しきたり破る飼い主を、そのままにして見逃がせば浄場、村場の守りできぬ。
 そのうえ部落うちのぞうよもいるで、斃馬の届けを腕こまねいて待つよりも、戒めどおりに浄場をめぐり、村のようすを見届けようとな。
 そのつど人手をかき集め、目を光らせて乗りこんだとよ。
 行く先ざきの村役へ仲間の使いを走らせて、浄場めぐりの先ぶれしてな。ほかの仲間が手分けして、馬を飼っとる百姓家の庭さきから声をかけたり、人を見るとや聞きこみをして、馬の所在をたしかめたがな。
不作つづきの百姓家では,ません棒を立てかけたまま、寝藁一本見つからぬほど、ねぶったように片づけた厩はかりが目立ったと。
 およそ飢饉とよばれる年は、その年だけが飢饉でのうて、まえまえからの不作がたたり、毎年根こそぎ年貢をとられ、隠して貯めた喰いもんが日ごと日ごとに減るおりに、一旦雪でもつもるとな。
 人の往き来が絶えてまい、喰いもん探しの場がせまくなり、まず病人や年よりがひだる腹かかえて弱ってまって、一日ごとにやせ衰えたと。
 地中の虫や木の皮や、草の根、木の根を煮て喰って、はては枕の蕎がらさえも腹のたしじゃと口に入れたと。
 喰えぬもんでも喰うすべを知っとる者が生き残り、喰えるもんでも喰うすべを知らんもんが死んでまったでな。
 ましてや、どこぞの飼い馬が倒れてまった、と聞いたがさいご。
 ひだる腹かかえた百姓たちが目の色かえて我れ先に、よってたかって切りきざみ、奪いあいして引きちぎり、それぞれ抱えて隠してまって、猪,熊なみに喰ってまい、皮も残さぬ始末じゃったと。
 どこそこで馬が喰われて皮がない、なんぞとな。人づてに噂を聞いた仲間のうちに
 「おのれの斃馬に手をかけながら、口をぬぐってわしらをば皮剥者とは身勝手じゃぞ」
 と、いきまく者もおったがな。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に、身分や定めはその余のことじゃ。わしらが飼っとる席ならば、焼いて喰おうと煮て喰おうと、勝手じゃろうが、と村うちで開きなおればそれっきりでな。代官所でもしまいには、見て見んふりをしとったと。
 飢饉が過ぎてもとうぶんは斃馬の届けが絶えてまい、部落の者が声あげて浄場の権限ふりかざしても、煙の上がらぬ始末じゃったと。
 飛騨国うちの部落では、維新いぜんにそれぞれが浄場、村場を手放すと、受ける部落がないままに、雇われ百姓や山仕事に精をだしたでな。
 不作や飢饉がないおりに、斃馬の始末に手こずった百姓たちは是非もない.
人がやること、ひとつこと。その身になれはなんでもやるて。
 浄場めぐりをそのままに、斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。
 美濃国では村々へ、馬を勝手に屠るな、と庄屋の強い達しがあってな。触れも不服な代官所では、やがて領内の馬持ち一統を庄屋ともども呼びつけて、かさねて強い戒めようじゃと。
 そのころ馬持ち百姓は、怪我や病いで切迫の馬を馬医者に診せもせず、部落の者にも知らせんでな。組内ぐるみで吊り出して、薮や林へ運びこみ、その場でつぶして皮剥いで、肉は田や畑のこやしじゃと、こまかく刻んで分けあったとよ。
 頭や骨は埋めてまったが、生皮ばかりは慾欠いて、部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。
 たびかさなるで庄屋から、つづけて部落へ達しがあって、皮にかかわる百姓をその場できっと取り押さえよ。隠しだては同罪で、訴人の者には銭をくれると、慾で釣ったがな。
 百姓がおのれの馬をどう片づけようが、わしらは痛くも痒くもないぞ.皮だけ貰えば渡世ができる。手間がはぶけてありがたや、とな。訴人までする仲間はおらなんだと。
 浄場めぐりの仲間らが林の道を抜けたらば、百姓たちがかたまって馬の始末をしとったで、つい物珍らしさに近づいて
 「ごくろうさまじゃ」
 と、仕分けの仕ぶりをまじまじと眺めとったらな。 皮を剥いどる百姓たちが、つくなったまま手を止めて、白眼ばかりで見上げたと。
 それも気にせんと眺めとったら、なんのことない百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がないで、やたらと刃物で掻き回し、皮を削ぐやら、穴あけるやら、声も立てんと馬一頭を、てんでばらば引き散らかしといて
 「いつまで覗いとるっ、去れと言うのが聞えんかっ」
 と、わめくでな。
 「その生皮を引き取るが、せっかく一枚の大皮に穴やら傷やらつけてまい、もったいないことするもんじゃ」と溜息ついたら
「皮は後ほど届けてやるで、ごたく並べず立ち去らんかいっ」
 と、血のりのついた包丁で向こうの道を指しといて、
「こやしつくりの邪魔するなっ」
と言わんでもよいことほざいたでな。
日ごろ馬持ち百姓が、切迫の馬をつぶして喰って、こやしにしたと誰はばからず、百姓なりの顔をしてな。部落の者を賤しめるのがごう腹じゃったで、ここぞとばかり
「なんのこやしじゃ」
 「田畑のこやしじゃ」
 「馬の肉を一口ほどに切り刻み、味噌のころ煮で喰ってまい、糞たれたのがこやしかや。いかにも念の入れようじゃ」
 と、言いだくれてやったがな。
 斃馬をかこんだ百姓たちは、立ち上がるどころかつくなったまま、肩の間に首たれて、まるっきり顔がなかったと。



解説と考察

①浄場、村場の守り: 斃馬の取得権限が及ぶ範囲を浄場・村場と呼んでいる.芝などと同義語.明治以前は斃馬の取得は穢多の権限とされていた.生馬の斡旋を行う者は馬喰労,牛馬の療治を行う者は伯楽,士分の持ち馬を療治する者は馬医者である.
②浄場をめぐり: 穢多による浄場の点検
斃馬の脚を二足にくくり、前脚、後ろ脚に丸太ん棒を差しこんでな 右て、左て、四人ずつ。身内、組内でかつぎ出し一ん日がかりで穴掘って林や河原へ埋めるのが、ここ百年の姿じゃと。黒田三郎著『信州木曽馬ものがたり』昭和52年 信濃路発行の「馬のとむらい」
に同様の記載がある.馬をかつぐのには最低でも8人の男手が必要である.人力運搬は一人あたり25-30kg.小型の牛馬なら何とか人力で運べる.車力で運ぶ方法も考えられるが,重量と大きさ,道路の状況から無理と判断される.
③切迫の馬を馬医者: 外科・内科疾患で死に瀕している事を切迫と呼んでいるが,切迫の用語自体は明治期・西洋獣医学導入後のもので,近世の牛馬療治書にはこの用語は無い.
生皮ばかりは慾欠いて、生皮は穢多にとって最も重要な取得物.武具となる皮革を上貢する事で斃牛馬の無料取得権が保障されていた.『部落の寄せ子に知らせたり、買ってくれろと持ちこんだでな。』は,商品として斃牛馬が流通しはじめた事を示している.
④仕分けの仕ぶり: 解剖の様子.解剖だけなら腑分けとなるが,食用が目的であるから仕分けと呼んだのであろう.素人の技であるから当然稚拙である.『百姓育ち、脚の肉だけが目あてじゃでな。その余のものには気がない』と,玄人は良く観察している.百姓達は自分の持ち馬・牛を食用に屠殺している.
2007/03/07のBlog
被差別部落の民話・殿さんの馬
 むかし、大垣の殿さんの馬が倒れてな。早や切迫のありさまじゃったと。
 城下町からうまやへ通う馬医者もおったが、なんせ親代々の引き継ぎで、治療といえばただ一つ、親が伝えた耳学問が頼りでな。たとえふわけを望んでも、斃馬は残らず部落へ運んでまうで、五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者がおったとよ。
 うまや番の小者が庄屋と連れだって部落へ来てな。城の重役さまの御意向で、お馬の病いを治すため、治療に手だれな者たちに馬医者の手伝いをさせるよう、身分は問わぬのお指図じやったと。
 ならばと部落の長老が、三つの部落と寄り合って、名指しで選んだ十人を、城のうまやへ差し向けたがな。面目つぶした馬医者が、 
「重役さまも物好きじゃ.田んぼのかかしを見るような」
 と、姿みるなりどぷついたとよ。
 うまやの番人が
「馬医者どのの御診断で、お馬は胆の患いじゃ」
と教えてくれたんで、部落の者が顔見合わせたと。この世の中の生きもので、胆のないものは馬と鹿。たらぬからこそ馬鹿じゃと言うに、無いものを患う馬があろうかと、いまさらながらあきれたと。 火急のさいじゃ遠慮は無用と、役人にせきたてられた一同が馬のぐあいをとっくり見たと。
 この馬は間違いもなく食滞じゃ。あてがう飼い葉が多すぎて、日ごろの調教が不足ゆえ、消化ぐあいがにぶいまま、腸がつまって熱まいて、押えてみても腫れとるぞ。こりや糞づまりの気もあるで、このさいいつもの荒療治、屁をさすまでが勝負じゃが、生きるか死ぬかは馬の運、今夜ひと夜さ皆んなして、賭けてみようとうなずいたとよ。
 にきで聞き耳たてとった馬医者がまたぞろいきり立ち
「不浄者のぶんざいで、こんどは治療に手をだす気かっ」と、血相かえてつめ寄ったが、うまや役人に押し止められたと。
 まず、大釜に湯をわかせ、さらし三反、座布団三枚、綱三本、唐辛子三合、筒一本じゃと注文したれば、馬医者どころか役人までのけぞるほどに驚いたとよ.
 倒れた馬をとり囲み、手桶に汲んだ湯の中へ、唐辛子三合ほりこんで、持参の草の実ひと握り両手でもんで掻きまわしたが、これが部落のロづたえじゃと。
 筒先きを喉もと深く差し入れると、喉の呼吸と調子をあわせ、三つ四つ五つと一升五合、馬の胃の腑へ流しこんだと。
 うまやの梁に綱三本を掛けおろし、腹と脇腹に座布団三枚あてがって、上から綱を引き廻し、ひの、ふの、みい、で綱引いて、倒れた馬を引き起したとよ。
「うぬらっ、お馬を殺す気かっ」
 と馬医者がわめいたが、こちらもいまは命がけ、返事無用と綱引いて、馬のひづめがすれすれに地につくほどにつり上げたと。 さらしの布を手ごろに裂くと、釜で煮たてた湯につけて、馬の体をあたためながら、背から腹へと揉みほぐしてや繰りかえし、腹に巻いとる座布団へ、手桶でたっぷり湯をかけたので、うまやに湯気がたちこめて、馬が
脂汁をたらたら流し、まるで湯治場にみえたとよ。湯をわかす者、馬の体をさする者、綱の加減をはかる者、湯気もうもうのうまやのなかで、部落の仲間が声かけあって、身も世もなしの荒療治をつづけたと。
 夜がしらじらと明けるころ、仲間のひとりが声あげて「やあ、聞こえるぞ、聞こえるぞ」と、馬の腹に耳あてがって叫けんだと。さては、と一同が耳すませたら、奥のほうから、ごろ、ごろ、湯気をたてとる馬の腹が鳴ったとよ。腹が鳴ったらしめたもの、いま一息と続けると、こんどは、ぐい、ぐい、ごろ、ごろ、と長鳴りしたぞと言う間もおかず、うまやのはめ板が割れんばかりの屁が出たと。 
「馬が屁をした」「屁が馬をした」とな。
運ぶ手桶を投げだして、どっとばかりに駆けよった部落の仲間が口々に
 「やった、やったっ」 と小おどりしたと。綱引き役がゆっくりと綱をゆるめて降ろしたらば、馬が四っ足ふんばって,おのれの力で立ったとよ。
もう安心じゃ、濡れた寝藁を替えるでなと、うまやの外へ引きだせば、治療の騒ぎを聞きつけて屋敷うちからぞろぞろとさむらい衆が寄ってきたと。 
 昨日にかわる馬の姿を一目みて「さすが名医じゃ」「馬医者どのは大垣藩のほまれじゃぞ」と、口々に誉めそやしたらな。前へでてきた馬医者が、にわかにぐっと胸を張り、さて、おもむろに馬の手綱を握ったと。 土下座しとった部落の者が、歯ぎしりをして立ちあがり、何か言おうとしたらばな。一緒におった長老が
 「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」
 と、肩をおさえてなだめたと。
 そのおり馬が首ふって馬医者の手綱をふりほどき、夜も引き明けの風のなか、鼻ふるわせて高々と二度も三度もいなないたとよ。

解説と考察
城下町からうまやへ通う馬医者は腑分け(解剖)の経験が無いから,五臓六腑の存りどころさえ見聞きせぬ馬医者である.従って殿様の御馬は胆嚢が無いのに『お馬は胆の患い』となる.話の中にあるように馬と鹿には胆嚢が無いから,馬医の診断は明らかに誤診である.一方,被差別部落出身の治療に手だれな者たちは,不浄者が故に腑分けの経験もあり,一見して馬は食滞,腸がつまって熱が出た糞詰まりの状態で,馬が伏して病む程危険な切迫した状態である事を見抜いている.
唐辛子三合の唐辛子は番椒.太閤秀吉の時に朝鮮より種を取来るとされる.漢方で薬として用いられるのは明代から.薬味は辛,薬性は温.煎剤には殺菌作用がある.持参の草の実ひと握りとは,おそらく牽牛子,アサガオの種であろう.牽牛子は民間・百姓の薬で大小便の不通に著効がある.薬味は苦,薬性は寒.この処方の内服と,吊り馬にしてのマッサージ・温浴の治療法は極めて理にかなっている.
てだれな者達の荒療治が功を奏して,馬は治癒するが,手柄の部分は『さすが名医・馬医者どのは大垣藩のほまれ』と馬医者に持ち逃げされてしまう.
一緒におった長老の「馬が治ればそれでよい。威張りたがるは人の病いじゃ」の言は,牛馬の療治に携わる者の心意気を良く表し,その言葉に反応した馬の様は,馬の方が馬医者よりも賢い生き物である事を語り伝えている. 



2007/02/25のBlog
淺野図書館蔵の「牛経大全」は,寶善堂梓「牛経大全」,巻頭書名は上巻・新刻京陵原板参補針醫牛経大全.版芯書名は牛経大全.下巻・新刻京陵原板参補針醫牛経指南.版芯書名は参補牛経指南.序文や刊記は無く内容は「元亨療馬集」の丁賓序本『牛経大全』と略同じである.淺野文庫本・寶善堂梓新刻参補針醫「馬経大全」は,和刻の新刻参補針醫「馬経大全」の元本であるが,和刻の「牛経大全」は刊行されていない.和刻で最もこれに近い内容を持つ書は「牛療治調法記」である.
2007/02/24のBlog
それだけに牛馬の管理は重要な意味をもっていた。標左衛門が家訓の中に,「牧童業事の事」として一項を掲げているのもこのためである。標左衛門が馬療に意を用いたのはこうした事情にもとづくものであるが、とくに書物を編むにいたった直接の動機を、『馬療本草』第一巻の自序において次のように述べている。すなわち、青年時代のある年に牛一頭が病にかかり、一三日もの間鳴きほえながらついに斃死したこと、またこれもある年、馬一頭が腹部膨脹を起こして飼料もとらずに苦しみつづけ、三日にして斃死し、しかもこの間、病気の性質もわからないまま一薬も与え得なかったことがあり、これらが耐え難い悔悟となった、と記している。こうした苦い体験が、本人をして馬療書の研究にかりたてることになり、四十数年にわたって諸国に和漢の馬医書をもとめ、これらを参考に『馬療木鐸大全』一五巻を完成するにいたったのである。
 しかし、稿成ったものの用薬については不明な点が多く、画龍点晴を欠くうらみがあった。というのは、参考にした馬医書の薬名が時代によって変化したり、方言をもって記されていて理解しがたかったり、あるいは一家の秘伝ということで私造の文字が用いられていたりすることが多かったためである。そのため標左衛門は、自序において「難レ知二用薬一は如レ無二方書一」と述べ、つづいて「茲の故に今日より筆を執りて述二作馬医本草一也。成レ稿て願レ公二悔内一而已」と記して、『馬療木鐸大全』の完成と同時に馬医本草の著述に着手することを宣言しているのである。
 こうして苦心を重ねること五か年、天保十年(一八三九)立冬の日に、『馬療本草』四巻の完成をみたのである。天保十年という年が著者にとり喜寿の高齢にあたっていたことを考えれば、この両書は『村松家訓』と共に著書畢生の作だったわけである。
 ところで両書において注目されるのは、従来この種の書物がいわゆる一家の秘蔵書として扱われ、そのために馬療医術の一般化が阻まれていたのに対し、著者の標左衛門が公開の立場をとり、さらに「後の博識の君子此書を校正ありて馬の夭折を悲救あるを庶幾ふ者也」(自序)と述べ、後人に対しこれを踏台として前進するようねがっていることである。標左衛門の面目躍如たるものがあるといえよう。
 なお標左衛門は、公開の方法として、文政九年正月に御許奉行に対し「乍恐小紙を以奉願上侯」の一書を呈し、藩による出版方を陳情している。文政九年といえば、『馬療木鐸大全』の完成前である。この陳情において、「(前略)漸経三十余年、当春までこ編集草稿大本二仕候ハ、紙数千弐三百枚も可有哉相考申侯、右草稿私力にてハ中書も不被致侯故、及後年空敷為衣魚失ひ侯も歎敷御座侯間、何卒御慈悲を以御開板被為有被下ハ馬医百姓等相求侯而治療宜敷仕侯ハ、牛馬共難治難病之外ハ斃候もの有間敷、貧農一馬を斃之患も遁れ可申、御仁沢唖獣迄に蒙り候御恵と乍恐奉存候、何卒御仁政を以御彫刻御座候様幾重こも奉願上侯」と上梓方を訴えている。しかし薄財政窮迫のためか、公刊の機会を得ないまま今日にいたっている。




2007/02/23のBlog
5、 気腫疽の発見
 奥阿武郡に、わが農学校を卒業したる獣医一人を出せり。この人(注:柏村栄晴)は、同地方に旧来存在せる「タチ病」をもって一種の伝染病となし、生前に、屍体に、百万これを研究し、余もその幇助を得て病原上の検索を遂げ、もってこの症は普通の特発病にあらず、また炭疽熱にもあらず、すなわちドイツ語に「ラウシュプラント(注:気腫疽)」と称する一種の恐るべき伝染病なる事を確定したり。ただし、この研究の結果は未だ広く学者の賛成を得ざるも、遠からずしてその賛同を得、もって予防の万策を講じ、治療の功を奏せしめんとするなり。かくの如く特種の疾病あるを発見し、まさに新治術を研究せんとするには、実に同地に某獣医の成立したる結果にあらずや。
明治26年,白石寛吾・防長勧業会報告「畜産保護の点より畜牛家組合の設立を望む」より.
白石寛吾の論文は1893年『中央獣医学雑誌』6,55.その後仁田博士によって組織的に研究された.勝島仙之助『家畜内科学』には,山口県阿武郡と青森県雲雀牧場で発生したと書かれている.Clostridium chauvoei の非伝染性感染症.
2007/02/05のBlog
世徳堂「元亨療馬集」と寶善堂「馬経大全」
「元亨療馬集」は序文の作者によって二つに区別されている.丁賓序文の「丁序本」と許鏘序文の「許序本」である.これらの序文のある「元亨療馬集」は,それぞれの序文の記された時を以て「元亨療馬集」の刊年とするが,序文の無い「元亨療馬集」の元書の成立は,書誌学的には明らかにされていない.この理由は現在中国に現存する「元亨療馬集」には刊記が無いためである.1988年,中国では元亨療馬集付梓380周年学術討論会が開催されたが,徳山・毛利家蔵世徳堂梓「元亨療馬集」の刊記によれば,元書の成立は1548年の事である.
 1548年,書誌学的には1546年の刊記を持つ坊刻本(民間本)「元亨療馬集」を官本に仕立て直したのは太僕寺卿・楊時喬で,書名は「新刻馬書」,刻年は万暦甲午(1594)の歳である.次に太僕寺卿・丁賓によって序文が書かれ,改編されるのは1608年の事で,この時から「元亨療馬集」は「馬経大全」と名を替え,後に「牛経大全」を従えるようになる.更に内容の一部が改編され,新たに序文が草せられるのは清代になってからで,この「元亨療馬集」がいわゆる「許鏘序本」である.これらの療馬書の系譜を辿る時,「元亨療馬集」は太僕寺と称する官僚の業績作りの感が否めない.
 序文の無い坊刻本「元亨療馬集」は寶善堂から馬師問編纂「新刻参補針醫馬経大全」と名を変え刊行され,わが国にも舶裁されている.広島市立図書館淺野文庫所蔵の「馬経大全」はその装丁から朝鮮本と目録に記載されているが,実際は四針を五針に綴り直した中国本の朝鮮綴り本である.この「馬経大全」に返り点と送り仮名を付して作られた本が和刻の「新刻参補針醫馬経大全」で,明治の始め頃まで盛んに用いられていた.詳しくは拙稿「馬経大全の書誌的研究」(日本獣医史学雑誌23,27号を参照されたい) 
 本場中国には刊記のある「元亨療馬集」原本が存在しないために様々な混乱が生じている.さらにわが国の獣医学史の教科書や年表にも典拠・出典の定かでないものがあるから療馬書の研究に際しては,十分な注意が必要である.
































2007/02/01のBlog
山口市宮野「牛馬供養塚」大正十一年十月 乳川 山本刀禰蔵
牛馬於耕作運搬也其労苦◆甚其効績至大◆不須言也而至其老衰
不甚用也不啼人顧之有復不忍言者矣余業牛馬之商売四十年毎想
其末路転不禁惻隠之情矣玆謀同志佛◆浄財喜捨建塚追福以慰其
霊盖欲不忘筌而己若夫得動観者追遠之念是實望外桒也
世話人
松村熊蔵 藤井溥蔵 藤井保太郎 上田恭一 山下兵一 古輪廣一
高橋啓三 古屋寅吉 中尾文蔵 小嶌蔵造 松田宗一 山崎喜作
古屋長一 大田晃太郎 立野春一 貞国将松 伊藤傅平 中座半祐
安永菊之進 有井友三郎 吉田熊太郎 若佐仙五郎 安永喜市 重冨忠蔵
片岡太郎 藤井孫吉 藤永友吉 藤村好太郎 米田之介 内藤作次郎
寺内◆四郎 小田川三郎 新見◆助 宮川岩吉 中村秀吉 宮仁吉
2006/12/23のBlog
「わが国初の狂犬病人体用ワクチン開発の経緯」講演要旨
 日本獣医史学会会員
 唐仁原 景昭
1 わが国初の狂犬病人体用ワクチン
 わが国において初めてパスツール氏予防注射法を開始したのは,田中丸治平著「狂犬病論」によれば,「当時長崎医学専門学校にて栗本氏初めてパスツール氏予防注射法を開始せり之を本邦に於ける該注射法施行の嚆矢となす」と記載され,また,山脇圭吉著「日本帝国家畜伝染病予防史」において「依って明治二十八年八月当時の長崎病院内科医長栗本東明はパストール氏法に依って狂犬病犬の脳を家兎に接種して得たる、第一一代接種苗を被咬傷者二五名に接種したるに、接種者は一名も発病しなかったという。之れ本邦に於ける狂犬病予防接種の嚆矢である。」との記載がなされていた。また,日本獣医史学会前会長添川正夫氏は動物用ワクチン-その研究と発展-の中で「ついにパストゥールにならい,ウイルスを接種して発病した家兔の脊髄を乾燥し,これを人体に21日間に14回注射する方法を考案し,25名の咬傷者に試み,全員の発病を防ぎました。」と25名に接種したのが初めてであることを記載し,山脇圭吉のいう第一一代の記載は官報3636号にはないことも記載している。
 このたび,新史料「官報明治二十八年九月十二日~十四日号」を入手し詳細分析を行った結果新しい知見を得たので報告する。
2 ワクチン開発に用いた種苗の作製
 栗本東明氏によるワクチン開発については過去の史料に記載されているが,それに用いた種苗がどこからもたらされたかについての記載はみられなかった。それがこのたびの調査により明らかとなった。
 栗本は26年3月頃より,長崎市内に流行が始まったのを機として,撲殺犬の脳及び脊髄を採取して注射乳液を造り家兎頭蓋骨の一小部を取り除き頭蓋骨内に注入し,病毒感染を試みたところ23頭中18頭は一定の症状を呈し注射後10日23時間にまで短縮し斃死させることを確認し,ワクチン種苗とした。
3 免疫獲得家兎の作出
 人体接種試験の前に動物が果たして免疫獲得をするか否かを実証するため,2兎に対し弱毒注射液を暫時に毒力強度を増強しつつ15日かけて毎日左右の臀部に0.5gづつ交互に注射して,15日目を以って予防注射完了とした。免疫獲得を確認するためこの2頭の他対照として免疫無処置兎2頭を用いて比較試験のため両群に野外毒を硬脳膜下接種したところ,免疫処理した2頭は発症せず対照の2頭は特徴的症状を発し斃死したのみならず,斃死兎の腸管から作製した注射液を健康兎腸内に接種して再現試験を実施し狂犬病毒による再現性を確認した。
6 島原半島における狂犬病発生の実態
明治26年3月頃長崎市内に発生し一時消滅したかに見えた矢先,翌27年1月から28年3月にかけて島原半島に転移し半島内全域に大流行を来たし,67名の咬傷者中21名の発症者を数え,その死亡率は31.34%の高率に上った。
 咬傷部位と発症までの経過では顔面咬傷が26日で最も早く,足部咬傷では最長76日後であったが,年齢及び男女の別での差異は認められなかった。
 この流行において,明治27年12月24日51歳の男性は狂犬に襲われ咬傷を受けつつも用心のため携行していた棍棒を振るい勇敢にこれと戦い仕留め警察に届け,最寄の獣医師である佐藤生馬に持ち込み,佐藤生馬はこれを解剖し脳・脊髄を殺菌グリセリンに包埋し長崎病院の栗本東明に検査材料送付した。
7 初めての人体接種
 栗本東明が始めて狂犬病予防ワクチン人体接種に踏み切ったのは, パスツール研究所内でルイ・パスツールが世界で始めて成功したのが1885年であるから,その9年後の成功となる。第一回の接種は明治27年8月12日福岡県福岡市の狂犬咬傷患者からの要請により10月18日から11月6日までの21日間に14回の接種を受け発症を免れた。これがわが国初の狂犬病人体用ワクチン接種の嚆矢であるとすべきである。また,成功時期も山脇の言う明治28年8月ではなく,27年とすべきであろう。
 次いで翌28年2月7日に咬傷を受けた島原半島内の大流行時から2人目以降の本格的な接種を始め,7月8日までの間に32名の患者に接種を行い,途中脱落者7名を除く25名の治療に成功した。副反応として,注射部位に軽微な疼痛を訴える者や稀に鼠蹊部リンパ節の腫脹を来たすことがあったがいずれも2~3日で消散したという。
8 予防的接種法
 栗本東明はワクチンの治療的利用法に止まらず予防的接種法にまで研究を進め,助手2名と狂犬病毒試験に従事する小使い3名の計5名の健康体に対し敢えて予防接種を行った結果何ら異常反応,障害を起さず経過し, 咬傷を受けてからの曝露後免疫のみならず未だ咬傷を受けざる者の予防的注射法においても利用できることを報告している。
9 長崎県における獣医学教育
明治26年長崎市内に外人が伴った犬による狂犬病が発生した翌年の明治27年から28年にかけて島原半島全域に流行が拡大し,その防疫対応に医師・獣医師・警察官の連携した対応がとられていた。今回長崎病院の栗本東明に狂犬の解剖脳・脊髄を適切に処理し送付した佐藤生馬獣医師について調査したところ,その墓地を見つけることができた。しかし既に跡を継ぐものはなく墓地は荒れ放題となり埋没した墓碑銘からその名を探したてることに成功した。明治維新後のわが国の家畜防疫対応は未だ教育体制すら整備されていないところに明治6(1873)年朝鮮よりわが国に牛疫侵入20県下42,297頭斃死という事態を招いた。
明治新政府は明治9(1876)年下総牧羊場の耕牛に発生,二等軍医佐藤舜海に斃死牛解剖依頼
により当面の処理を行ったが,漸く明治11(1878)年1月24日駒場農学校開校式を行いお雇い外国人教師によるヨーロッパ獣医学教育を開始した。
駒場農学校第一期生として卒業した深見次郎獣医は明治13(1880)年長崎県勧業課御用掛として長崎県に赴任し長崎県に猛威を振るう牛疫防疫に対処するため長崎県に獣医学校設立を議会に諮り議決されたが,開校公告するも受験者は熊本県人1名のみ,と悲惨に状況となり,深見は学務課に転任し医学校三等教諭を拝命し,再度開校準備に努力した。
明治14(1881)年長崎縣令は県下の牛疫流行に際し,当時の牛馬医の知識・能力では海外悪性伝染病に対抗不能なことから,長崎医学校に獣医学部を置き,従来の牛馬医を改良し衛生の道を開くために,県下郡区町村に有志の子弟推薦の上獣医学部への入学促進方を通達(農務顛末)した。佐藤生馬は牛馬医佐藤太郎の子息としてこの制度により長崎医学校において新しい獣医学教育を受けた新進気鋭の獣医師であったと考えられる。
10 おわりに
当研究は1枚の官報コピーから始まった。その内容は始めの1枚目で完結したものでなく,読み解くうちに続編があることを知り,図書館に通い官報続編を入手した。
 細かい活字に煩雑な旧字体を虫眼鏡で読み解くうちに,わが国初の狂犬病人体用ワクチンの開発に医師・獣医師・警察官が共に協力し,狂犬病防疫に邁進した事実を知る喜びを得ることができた。当研究の端緒を開く資料をご教示いただいた日本獣医史学会黒川和雄会長に深甚なる謝意を表します。

2006/12/15のBlog
『産馬大鑑』原島善之助著。明治四十(1907)年五月二十五日発行。裳華房。正価参円 五十銭。四六版。緒言に明治四十(1907)年五月十五日於韓国京城旭町僑居。韓国農工 商部技師、一等獣医。明治三十九年、韓国統監府農工商部農務局畜産課長。
明治元年 会計官吏を牛馬生育・売買取締に派遣。

産業上における馬政
2年3月 開拓使をして北海道の二牧場を管理せしむ。
 4月 物産・牧畜は民部省物産司の所轄。
 8月 牧畜に関する件は大蔵省通商司の所轄。
3年3月 大蔵省通商司、牛馬売買者に鑑札下付。
 9月 大蔵省勧農局を設け牛馬の事を取り扱う。牛馬売買者鑑札下付の事は大蔵省通 商司の所轄
 12月 大蔵省開墾局牧牛馬係設置
4年正月 牧畜に関する事項は民部省の所轄となる。
 4月 勧農局を勧業局と改称。
 6月 「家畜伝染病予防法取締方」
 7月 民部省廃止。勧業局廃止。大蔵省勧業司が牧畜を所轄。
 8月 大蔵省勧業司を勧業寮、勧農寮と改称。上目黒村駒場に牧畜試験場を設置。
5年10月 大蔵省勧農寮廃止。大蔵省租税寮勧農課設置。間もなく勧業課に改称。
6年9月 牧馬に関する試験事業を勧業課で実施。
7年1月 内務省勧業寮牧馬の件を所轄。
 3月 勧業寮内に農務課設置。
11年1月 駒場農学校開校。農事通信を開く。
13年 駒場農学校獣医学本科第一回卒業生。
14年4月 農商務省設置。勧農局廃止。畜産事務は農務局主管。農務局内に畜産課、獣医課を 置く。
15年2月 北海道開拓使廃止。牧場は農務局の所轄となる。
18年2月 獣医免許規則、同試験規則発布。
 6月 下総種畜場宮内省所属となる。
19年9月 獣類伝染病予防規則発布
23年4月 蹄鉄工免許規則制定。7月同試験規則、及び同仮免許手続発布。
 8月 獣医免許規則改正、9月同試験規則の改正発布。 
26年11月 農商務省官制改正。農務局内に畜産課を置く。
29年3月 獣疫予防法公布。
30年2月 獣疫予防心得告示。
35年2月 馬匹去勢練習生規則。5月農務局内に馬匹去勢掛を設く。
幕末・明治略年表

 世間の出来事 馬医・獣医養成関連
慶応4(1868)年 五箇条の御誓文 軍務官厩
 神仏分離令
 政体書の公布
明治元年 一世一元の制
 2(1869)年 版籍奉還 兵部省厩
 パンの製造・販売 大蔵・民部省
 乗合馬車 開拓使
 電信開通
 3(1870)年 牛乳屋開業 兵学寮馬医局設置
 人力車・自転車 民部省勧農局設置
 横浜毎日新聞発行
 4(1871)年 新貨条例 文部省設置
 廃藩置県
 郵便制度開始
 散髪・脱刀の許可
 5(1872)年 学制公布 陸軍兵学寮軍医部所管馬医部設置
 岡蒸気開通 開拓使仮学校開校
 瓦斯灯 内務省新設
 洋服の採用 専門学校規則
 6(1873)年 太陽暦実施 内務省勧業寮設置
 徴兵令制定 兵役免除規定
 地租改正条例
 7(1874)年 台湾出兵 アンゴー来日
 勧業寮内藤新宿試験場農事修学場
 8(1875)年 江華島事件 陸軍馬医部条例
 下総牧羊場開設・アップジョンズ
 開拓使仮学校移設
 9(1876)年 金禄公債証書発行条例 マックブライト来日
 クラーク来日
 札幌農学校改称
 10(1877)年 西南戦争 修学場駒場移転
 11(1878)年 農学校々則
 カッター来日
 12(1879)年 教育令
 13(1880)年 アンゴー帰国
 ヤンソン来日
 14(1881)年 内務省から農商務省へ所轄替え
 15(1882)年 壬午事件 下総に獣医分科設置
 鉄道馬車
 上野動物園
 16(1883)年 大日本帝国憲法発布 農学校通則
 17(1884)年 加波山事件 下総獣医分科三田移転
 山口県栽培試験場農事講習会
 18(1885)年 内閣制度施行 獣医免許規則発布・農商務省所管
 19(1886)年 
 20(1887)年 第一回帝国議会開催
 電灯の点灯








2006/11/27のBlog
平成18年11月1日
日本獣医史学会
 会員各位


 日本獣医史学会
 理事長 黒川 和雄

 日本獣医史学会第63回研究発表会のお知らせ

拝啓 皆様におかれましてはますますご健勝のこととお喜び申しあげます.
 今回は名古屋で研究発表会を開催いたします。皆様にはなにかとご繁忙の折とは存じますが、なにとぞご出席賜りますようお願い申しあげます.
 お手数ですが、11月20日(月)までに同封葉書にてご出欠をお知らせいただきますようお願い申しあげます. 敬 具

 記
【日時】平成18年12月2日(土)13:00~17:30
【場所】名古屋国際会議場2号館3階231名古屋市熱田区西町1-1
電話(052)683-7711地下鉄「西高蔵」「日比野」より徒歩5分
【参加費】無料
【日程】
 Ⅰ.研究発表会
総合司会:小佐々 学
1)13:00~14:00
 唐仁原 景昭:わが国初の狂犬病ワクチンの開発経緯
 2)14:00~14:45
 黒川 和雄・小方 宗次:昭和期における犬の三大悪病一流行蔓延と医療、防遏の成果について-
 < 休憩15分 >
 3)15:00~16:00
 小佐々 学:忠犬の歴史
 4)16:00~17:00
 原 崇:未定
 5)17:00~17:30
 小方 宗次:世界獣医史学会報告
Ⅱ.18:00~ 懇親会
2006/11/26のBlog
慶安四年三月高信之編安驥抜書秘伝集



 ○十二大病
 
 △眼,耳、鼻、舌、唇是ヲ外卜号、肝、心、脾,肺、腎是ヲ内卜号、其内外ヲ分別シ病ヲ見分薬ヲ可用
 ○馬四百四病大病十二有
○第一コツガン卜云病ハ、ヤミツクヨリ汗ヲカク事水ヲ流スゴトクニシテ、鼻ヨリノ息焔ノゴトクニシテ、サウナク不臥シテ足ガキヲシゲクスルナリ、是ハ大子ツ卜心ヱベシ、療治ニハ・百会・フクトウニ針ヲサシテ上ニ水ヲカケベシ、シンヲヒヤスベキ薬ニハ
・黄蓮・牛膝・柴胡・茯苓・大黄
是ヲ細末ニシテ水ヲ一ツ提ニ入テ七分二煎,能クサマシテウゴクサン皮煎ジモノニ加へテ、一箇ニ一銭入テ一度ニ五箇モ七箇モ可用、ウゴクサンナキ時ハ皮ヲセンジ物ニテヨキ相応ノ薬ヲ可用
○第二ツクイ卜云病ハ,ヤミツカントシテハ四五日以前ヨリソラ目ヲツカヰ、シキリニハナブキヲスルナリ、痩馬ナレドモ俄ニ肥テ油ヅク事有り、或ハ馬屋ニテ常ニ尾ヲサシトモセバキ馬モグイト弘ナリ、或ハシキヰ.ミゾ.アト足ハマタガス、跡足二ツハヒッソロヘテトビ越ルモノナリ、馬急ニツマリテハヲトガユスクミ、亦力草ヲハミコボシ、或ハ物喰時ハ前足左右ヲ一方ヅヽカヾメテガ力草ヲハミ、亦アカルキ所ヲヨケテ暗所ヲ好、クラキ所ヘマワリフスモノナリ、クツワヲハメント下ロヲトレバ眼ヒキ返シ、病コウジテハ歯ヲヒシトクイ違へ、アケントスレドモアカズ、此時ハ病ツマリテカナワズ、是ハ先ヅ口スクマズクツワノハメハズシ自由ナル時ハ、ヤウジヤウスベシ、療治ニハ首ヨリツリツメタルスジヲ切り、針メヲ少シタイシヤクニ灸スベシ
・ 骨脈・タイシヤク・ヒボシ・テイトヨリ血ヲトルベシ、薬ニハ 
・人参・大黄・索牛子・牡蛎・甘草
右五味当分二合セ、酢二テ一箇ニ一銭入一度二五箇モ七箇モ用ユベシ、マタアシゲノ馬ノ血ヲホシテ一度ニニ銭酢ニテ可飼
○第三早風ト云フ病ハ、ヤミツカントシテハ四五日以前ヨリ俄ニモノグルワシク人ニヲヂルモノ也、或ハ片身ノ血脈大小二見へテ身ノ身ノ毛フル事シゲシ、煩コウジテハ綱ニカヽリ前足ヲレントス、臥ントスレドモサウナクフサズシテ煩也、療治ニハ・首会・センダン・フウカン・ハイノユニ針ヲサシ、薬ニハ
・大黄・茯苓・百草・黄芩・甘草
右五味等分二合、チヨライヲ水ニテ煎シ、其汁二三度二五箇モ七箇モ可飼
○第四ハシリト云病ハ、俄二煩附間カ子テヨリ知ガタシ、サリナガラ病初ハ糠草ヲハマズシテ身ヲモ喰事アリ、或ハ綱ニカヽリナテ子ブリ、時々起臥煩カウシテハアラケナク臥物也、何ヨウノツナニテモ引切リハシリ出ルモノ也、是ハ先ツガンミヤク・ウンモン・センタン・ケウトウニ針ヲサシ、其後片身ノヒタルホトノ河へ入ヒヤスベシ、薬ニハ
・大黄・黄今・升麻・牛膝・括婁根・人参・茯苓
右七味等分二合、クキノ汁ニテモセヽナギノ水ニテモ、酢ヲ少シ加へテ日ノ内ニ六七度モ可飼、此煩肝ノ臓ノ熱卜心得テヨシ
○第五カタセト云病ハ、カハツマリ・イキアラク常シワブキスル也、或ハカユガリ尾ヲスリ々スル事モアリ、乗時ハキヨハク鼻ヨリ黄ナル水ヲ出シ、是ハ肝ノ熱卜心得テヨシ、療治ニハ
・ダイミャウ・月景・サハラヨリ血ヲトル、煩急ニシテ俄二起臥ワツラウ也、鼻口ヨリツクイキアラク、ハラノナルコトナルカミノゴトシ、又日センダン・タマキニ針ヲサシ其後冷へシ、薬ニハ
・大黄・索牛子・ゾクズイシ・茯苓・蒲黄・ソフン
右六味細末ニシテゴソツヲ煎シ、其汁ニテ一度ニ十箇モシゲク可飼
○第六ハヤヒ卜云病ハ、ヤミツカントシテハ、目ノ中赤ク・身ノ毛立チ、コヽカシコニホロシノヨウナルモノ出ル也、或ハヌカヲクヒ豆ヲノコシ、又豆ヲクヒヌカヲノコス、或ハ一日ハヨク喰又一日ハ不喰シテ煩也、是此ヤマイトシルヘシ、俄ニヲキフシヲシテ背ヲ地ニツケ、足ヲソラサマニシ左右へ片時トナクカヘスナリ、或ハ腹帯ノ本ヲカイデ見カヘリ臥也、心熱卜心エテ療治スべシ
・百会・フクト・センタン・ケウトウヨリ血ヲトルヘシ、片身ヲ冷テヨシ、クスリニハ
・大黄・牛膝・ヲウヘキ・黄蓮・牽牛子・苦辛・甘草 
右七味細末ニシテ、チヨライ有ハラヤヲ煎シテ其汁ニテ一度ニ二十箇ツヽモ可飼、温石ヲ粉ニシテカノ煎シヽモノニテ飼へシ
○第七カウロキト云病ハ、始ハ内落ノコトク、鼻ヨリ出物トマリテハ、ココカシコニハレモノ出ル也、病急ニシテハ何ホト物ヲ喰テモ痩ル也療治ニハ
・百会・チンタン・ハイノユニ灸スヘシ、是ハ肺ノ病也、八九ノ間シンキウスヘシ、片身ヨクイタム事アラハ、常ノ煎物ニテニデベシ、薬ニハ
・茯苓・干姜・牡蛎・菖蒲根・甘草
右五味細末ニシテ酒ニテ一度ニ五箇モ七箇モ可飼
○第八ウンツウト云病ハ、心ノ病卜可知、ハシメハフグリハレ或ハ羅サヤノ口ハレ、サウナクナヲラズシテ煩也、或ハ糠草ヲヨクハメトモ痩オトロへ腹ノ皮背ニツキ、ヅレユヘ引ク息モツヨク外ヘヨハシ、急ニツマリテハ踏タマヱザル也、療治ニハ
・センタン・心ノユ・百会ニ針ヲサシタイシヤキヲスベシ、又日牛膝・舟原ヲ酢ニテハレタル所ヘスリ付へシ、常ノ煎物ニテユデベシ、薬ニハ
・防風・白朮・桑白皮・ヲナモミノ実・大黄
右五味細末ニシテ、酒ニテ一度ニ三箇モ四箇モ日ニ二三度七日ニ可飼
○第九ヨウコウト云病ハ、先初ハシヤウカツノゴトクニ見ユル、又イバリセントテハ羅ノサヤヲヌキ煩也、サウナクイバリノ色赤シテ少シツヽシケクスルナリ、或鞍下ノヘン馬上骨ノマハリニホロシノヨウナルモノ出テ、一日一夜アリテハナヲリ股腰ヲ煩ナリ、ヒケバ前ヘアユマズ、其ヱダオレントシテアト足ヲ立スクミタルヨウニ腰ヲフリテ、アユミカヌルモノナリ、療治ニハ
・シノイ・センタン・腰切ノイタミノ上ヲ針ヲサシ、タイミャウニ灸ヲスヘシ、常ノセンゾモノニテヨク々ユデヘシ、薬ニハ
・大黄・括婁根・川骨・茯苓・桑白皮∴百草・焼塩
右七味細末ニシテ酒ニテ三箇、日二三度七日モ三七日モ可飼
○第十ユル毛卜云病ハ、マヅ煩ヨリ臥事ナク、綱二掛り前ヘヨロホイテ舟 ノヨウニユルグ也、口鼻ヨリツク息ツメタク白淡ヲカム事アリ、或ハ四足ノナユルヨウニユルガス痛急二見ヱテ臥也、フセハ療治不叶
・ハイノユ・ウンモン・百会ニ針ヲサシ、タイシヤキヲスヘシ、薬ニハ
・干姜・楊梅皮・莪朮・蒲黄・茯苓
右五味細末ニシテ酒ニテユル々トシテ、一度ニ七箇モ十箇モシケク可飼、此病ハ肺臓ヨリ起ルナリ
○第十一長血ト云病ハ、俄二起臥ヲシテ腹中ヲカキテ病ム事有、或ハタカイハリヲシテ疾事モアリ、又腹中ナリワタリシキリニフシテ息アラク、シワブキヲスルヤウニ息ツマルモアリ、或ハ前足ニテ臥シ、前ノ土ヲカキノケ其後フスモアリ、療治ニハ
・ウンモン・ハイノユ・百会・フクトニ針ヲサシ、療治スヘシ、此病ハ水ニウエタル時、俄二大ニコウジタルニヨッテ、チヨイケッシテ付タル療治ナリ、薬ニハ
・大黄・宿砂・茯苓・温石・索牛子
右五味細末ニシテ桃ノ木・桑ノ木ヲ少シ入テ煎ジ、其汁ニテ十箇、十五箇モ飼へシ
○第十二筋スクミト云病ハ、片身ノ筋スクミ、トリワケ四足ヲ立カ子少シモアユミエザルモアリ、或ハ四足ヲ立カヘ々休ムモアリ、又ハ俄二爪ハレウミスクルヽモ有、病急ニシテハ四足ハルヽ事モアリ、又フリト云病ノコトク頭背ニツクホドソリテ死スルモアリ、是ハ何レモ血ヲヌク間ノ遠キニヨリ、片身ノ脈乱損シタル故ナリ、如是連々ニツク病ハ治シヤスシ、又日乗時ハ足ヲクヂカシ煩モアリ、時々血ヲトラサルユヘ也、爪アシクナリタル療治ニハ
・センタン・タマキ・百会二針ヲサスベシ、上ニ灸ヲスベシ、又シツ脈フシカケヨリ血ヲトリ、ヨク々ユテヒヤスヘシ、又マコモ・蓮葉霜ニシテ、酒二片足ニモ・四足ニモ付ヘシ、其後ハレクスルヤウニミヱハセンシ物ニテシケクユデヘシ、薬ニハ
・百草・茯苓・川骨・桑白皮・人参・活婁根・甘草
右七味細末ニシテ、松ノミトリヲ酒ニテ煎シヨクサマシテ、其汁ニテ一箇ニ一銭入テ一度二三箇、日二三度可飼
 ○血方之部
一,馬臥テ腰ノヌケタル事、尾本ニサワリテ見ルニ尾ニチカラナク、羅ヲ出テモヽニ汗ヲ出ス、必腰ヲシタルトシルヘシ
一,馬臥テモヽシタルヲ知ル事、カラス頭ノ節ニサワリテ見ルニ、ヱタニチカラナク、ソリ目ニシテモツチカラナキハ、モヽシタルト可知
一,馬臥テイナヽクコトアリ、是ハ腑返テサウ身ヲ引違へタルナリ、イソギ起シテ見ルヘシ、二度オキアガラス
一,馬臥テホウケツシタルコト、ホウケツシタルトハ、常ノコトク血筋ヲアケテ見ルニ、押テ見レハ血ノ道乱テヒ肉ノ間へ入ル物也、是ヲホウケツト云也、此時針ヲサセハ片時ノ内ニタチマチ血ニナリテ其儘死ス、是マレナル事也、サリナカラ血ヲトル時此心得肝要ナリ
一,馬臥テ身ヲ打タルヲ知事、へン身二汗ヲ出シ、チカラナクヨワ々ト見ルハ身ヲ打タルト知ヘシ、何レモヨク々見分針ヲサスヘシ右馬ヲ臥テ心モトナキ事アラハ、此五ケ条ヲ能々分別シテ馬ヲシカト見届ケ針ヲナスヘシ、馬ヲ起シテ痛アレハ針違卜人皆ウタガウ
 ○血荒日
・春-寅・午・戌 夏-巳・酉・丑
・秋-申・子・辰 冬-亥・卯・未
 ○血荒四ケ日
・春-申 夏-戌 秋-寅 冬-巳
 ○馬命門日
正月-寅 二月-巳 三月-未 四月-丑 五月-辰 六月-戌 七月-子 八月-巳 九月Ⅰ午 十月-辰 十一月1酉 十二月-卯
右此日二痛附バ大事也
 〇四季二馬臥ル方
春東 夏南 秋西 冬北
右馬臥時庭カタメ
 ○馬ヱト飼之薬
 
 塩 一両
 ・甲乙 酢 三匁
 苦辛 二匁
 
 酢 一両
 ・丙丁 苦辛 二匁
 甘草 二匁
 苦辛一匁
 
・戊己 甘草三匁
 生姜 三匁
 甘草一匁

 ・庚辛 生姜 三匁
 塩 二匁

 生姜一匁
 ・癸壬 塩 三匁
 酢 二匁
 右水一盃二酒少シ加へ摺テ飼へシ、冬ハ少シアタヽメ用ユ
 ○シヤクタンノ薬
・益智・陳皮・三稜・我朮・香附子・桔梗・青皮・カク香・甘草
 右九味煎ショウ常ノコトシ
 ○馬五性毛ノ事
・木ノ毛 ヒハリ毛・カンシクリ毛・紅梅クリ毛・カネ毛
・火ノ毛 鹿毛・サル毛・カモカワラ毛・カワラ毛
・土ノ毛 月毛・トラ月毛・サヒ月毛・サメ
・金ノ毛 白・セクロ・子ヅミ毛・アシ毛
・水ノ毛 クロ・アヲマダラ・青ミトリ・クリ毛
 右木月士金水五性毛品々態々見覚ヘシ

飛騨の国主金森飛騨守頼直時代,馬屋奉行頭高信之大秘伝馬書の写,他所馬療治多しと雖一流大切相伝譲る者也
慶安四年辛卯三月 山下金右衛門相伝
文政二年己卯八月 山下清八改之 印

2006/11/14のBlog
十一月十四日火曜日小倉よりフェリーで彦島に渡る.所要時間は十四分,渡し賃は五百五十円.桟橋跡はフェリー乗り場の直ぐ近く.対岸は旧小倉の市営屠場.現在は桟橋や検疫所があった事を示すものは何もない.
2006/11/08のBlog
「米沢伊佐沢」の馬醫・桑島氏及び久保桜に関する記録
●米沢雑記事
「上伊佐沢東の山際に桑島館とて古館の跡あり、往昔伊達公領地の節、家来桑島丹後守(将監、新左エ門仲綱のことであろう)とて馬医の名人此所に居館す。(後略)」
●桑島氏系図「仲綱(五代)」
 仲家長男、母は伊達の臣清水主膳茂俊の女。桑島彦八郎、平六将監、新右エ門。八条近江守流馬を善くし、医馬の方を学び妙術を得伊達公に歴任、近臣となる。永正より天文中に及ぶ。(後略)
●重知(七代)
(前略)古跡を訪ね下長井郷伊佐沢村館用山玉林禅寺に至る。此地往昔先祖桑島新左エ門仲綱の宝の祠堂あり。是故開基と称す。牌名を「如意珠院殿当寺開基玉林妙高大姉、永祿十三年六月四日ときざむ。是即ち仲綱の内室なり。年来百五十有才を歴むと雖も今尚神主安置す。(後略)」
●牛翁”牛のよだれ”
「米沢伊佐沢に桑島新右エ門信国(仲綱のあやまり)という者あり。(中略)領主より千石と給う。(中略)家族はみな死に果てゝ信国独身となり永禄十三年(天正十八年のあやまり)禄をすてゝ高野山に卒せり。久保の桜は此の信国の桜なり。」
●桑島書置
「(前略)それより伊佐沢の八幡様の御社内に居る。(桑島館のこと)二十年渋谷どの聟となる。(中略)一、寺のこと国本よりはなれずきた人なれば二十まで我等添えておき、二十に成る時寺もなきところへ庵をたて安善房として四俵に三貫匁宛年々きんしを付。その内永祿時代親子(妻玉と息新太郎のこと)死去致、親子の戒名を相持、国本の寺へ相登候へば国本の寺の戒名ごろうじて寺号山号になされて其上けすえんとうどに被成て御下し被成安善房捨てくりん用山玉林寺と称す。(後略)」
●米沢地名選(文化年中の作、米沢藩最古の風土記)
「在長井伊佐沢。その木東西によること十四・五間。(中略)又昔伊佐沢に桑島氏というものあり。今に桑島館とて有。その女美女にして早生す。その名をお玉という。父母あわれみて、しるしに桜を植えたる墓木なりという。(後略)」
●米沢里人談
「伊佐沢の窪の桜は五・六〇〇年の樹なりと。往古は俗間に生き道を引くということあり。飾壇をきずき香を供し数十人の出家を招き、幾百の人をあつめ餉を供し酒をすゝめ、塔堂供養の如し。大富豪にあらざれば是を催すこと不可能という。(後略)」
●米沢鹿の子
「伊佐沢窪という所に有。枝茂りたるをみるに、長さ十七間程あり。さかりは八十八夜の前後なり。御城下より五里ばかりあり。昔桑氏を葬りて印に植置しと伝えり。(中略)かくの如く大木となりて人のなつかしみを受くる大木となれり。」
 やはり今の館部落の「タテ」は桑島館に由来するし、もともとは今の久保の「クボ」は窪の字である。だから久保桜はお玉桜・四反桜などと呼ばれるがこれは異名であって「窪桜」が正しい。ともあれ久保桜はお玉悲愛の物語にいろどられて広くもてはやされる国の名木であるが、桑島仲綱が二重坂の道すじ窪に祭壇をきずいて盛大に妻女「お玉」と総領新太郎の供養を行った時の標に植えた一枝の桜樹が成長して今日に至ったものである。長井市学校教育課長小関仁四郎が各種の文献的考証によって推定したところによると久保桜の樹令は四〇〇年乃至四