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MyDoblog 獣医学・獣医術の歴史データーベース
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2007/02/24のBlog
それだけに牛馬の管理は重要な意味をもっていた。標左衛門が家訓の中に,「牧童業事の事」として一項を掲げているのもこのためである。標左衛門が馬療に意を用いたのはこうした事情にもとづくものであるが、とくに書物を編むにいたった直接の動機を、『馬療本草』第一巻の自序において次のように述べている。すなわち、青年時代のある年に牛一頭が病にかかり、一三日もの間鳴きほえながらついに斃死したこと、またこれもある年、馬一頭が腹部膨脹を起こして飼料もとらずに苦しみつづけ、三日にして斃死し、しかもこの間、病気の性質もわからないまま一薬も与え得なかったことがあり、これらが耐え難い悔悟となった、と記している。こうした苦い体験が、本人をして馬療書の研究にかりたてることになり、四十数年にわたって諸国に和漢の馬医書をもとめ、これらを参考に『馬療木鐸大全』一五巻を完成するにいたったのである。
 しかし、稿成ったものの用薬については不明な点が多く、画龍点晴を欠くうらみがあった。というのは、参考にした馬医書の薬名が時代によって変化したり、方言をもって記されていて理解しがたかったり、あるいは一家の秘伝ということで私造の文字が用いられていたりすることが多かったためである。そのため標左衛門は、自序において「難レ知二用薬一は如レ無二方書一」と述べ、つづいて「茲の故に今日より筆を執りて述二作馬医本草一也。成レ稿て願レ公二悔内一而已」と記して、『馬療木鐸大全』の完成と同時に馬医本草の著述に着手することを宣言しているのである。
 こうして苦心を重ねること五か年、天保十年(一八三九)立冬の日に、『馬療本草』四巻の完成をみたのである。天保十年という年が著者にとり喜寿の高齢にあたっていたことを考えれば、この両書は『村松家訓』と共に著書畢生の作だったわけである。
 ところで両書において注目されるのは、従来この種の書物がいわゆる一家の秘蔵書として扱われ、そのために馬療医術の一般化が阻まれていたのに対し、著者の標左衛門が公開の立場をとり、さらに「後の博識の君子此書を校正ありて馬の夭折を悲救あるを庶幾ふ者也」(自序)と述べ、後人に対しこれを踏台として前進するようねがっていることである。標左衛門の面目躍如たるものがあるといえよう。
 なお標左衛門は、公開の方法として、文政九年正月に御許奉行に対し「乍恐小紙を以奉願上侯」の一書を呈し、藩による出版方を陳情している。文政九年といえば、『馬療木鐸大全』の完成前である。この陳情において、「(前略)漸経三十余年、当春までこ編集草稿大本二仕候ハ、紙数千弐三百枚も可有哉相考申侯、右草稿私力にてハ中書も不被致侯故、及後年空敷為衣魚失ひ侯も歎敷御座侯間、何卒御慈悲を以御開板被為有被下ハ馬医百姓等相求侯而治療宜敷仕侯ハ、牛馬共難治難病之外ハ斃候もの有間敷、貧農一馬を斃之患も遁れ可申、御仁沢唖獣迄に蒙り候御恵と乍恐奉存候、何卒御仁政を以御彫刻御座候様幾重こも奉願上侯」と上梓方を訴えている。しかし薄財政窮迫のためか、公刊の機会を得ないまま今日にいたっている。




2007/02/23のBlog
5、 気腫疽の発見
 奥阿武郡に、わが農学校を卒業したる獣医一人を出せり。この人(注:柏村栄晴)は、同地方に旧来存在せる「タチ病」をもって一種の伝染病となし、生前に、屍体に、百万これを研究し、余もその幇助を得て病原上の検索を遂げ、もってこの症は普通の特発病にあらず、また炭疽熱にもあらず、すなわちドイツ語に「ラウシュプラント(注:気腫疽)」と称する一種の恐るべき伝染病なる事を確定したり。ただし、この研究の結果は未だ広く学者の賛成を得ざるも、遠からずしてその賛同を得、もって予防の万策を講じ、治療の功を奏せしめんとするなり。かくの如く特種の疾病あるを発見し、まさに新治術を研究せんとするには、実に同地に某獣医の成立したる結果にあらずや。
明治26年,白石寛吾・防長勧業会報告「畜産保護の点より畜牛家組合の設立を望む」より.
白石寛吾の論文は1893年『中央獣医学雑誌』6,55.その後仁田博士によって組織的に研究された.勝島仙之助『家畜内科学』には,山口県阿武郡と青森県雲雀牧場で発生したと書かれている.Clostridium chauvoei の非伝染性感染症.
2007/02/05のBlog
世徳堂「元亨療馬集」と寶善堂「馬経大全」
「元亨療馬集」は序文の作者によって二つに区別されている.丁賓序文の「丁序本」と許鏘序文の「許序本」である.これらの序文のある「元亨療馬集」は,それぞれの序文の記された時を以て「元亨療馬集」の刊年とするが,序文の無い「元亨療馬集」の元書の成立は,書誌学的には明らかにされていない.この理由は現在中国に現存する「元亨療馬集」には刊記が無いためである.1988年,中国では元亨療馬集付梓380周年学術討論会が開催されたが,徳山・毛利家蔵世徳堂梓「元亨療馬集」の刊記によれば,元書の成立は1548年の事である.
 1548年,書誌学的には1546年の刊記を持つ坊刻本(民間本)「元亨療馬集」を官本に仕立て直したのは太僕寺卿・楊時喬で,書名は「新刻馬書」,刻年は万暦甲午(1594)の歳である.次に太僕寺卿・丁賓によって序文が書かれ,改編されるのは1608年の事で,この時から「元亨療馬集」は「馬経大全」と名を替え,後に「牛経大全」を従えるようになる.更に内容の一部が改編され,新たに序文が草せられるのは清代になってからで,この「元亨療馬集」がいわゆる「許鏘序本」である.これらの療馬書の系譜を辿る時,「元亨療馬集」は太僕寺と称する官僚の業績作りの感が否めない.
 序文の無い坊刻本「元亨療馬集」は寶善堂から馬師問編纂「新刻参補針醫馬経大全」と名を変え刊行され,わが国にも舶裁されている.広島市立図書館淺野文庫所蔵の「馬経大全」はその装丁から朝鮮本と目録に記載されているが,実際は四針を五針に綴り直した中国本の朝鮮綴り本である.この「馬経大全」に返り点と送り仮名を付して作られた本が和刻の「新刻参補針醫馬経大全」で,明治の始め頃まで盛んに用いられていた.詳しくは拙稿「馬経大全の書誌的研究」(日本獣医史学雑誌23,27号を参照されたい) 
 本場中国には刊記のある「元亨療馬集」原本が存在しないために様々な混乱が生じている.さらにわが国の獣医学史の教科書や年表にも典拠・出典の定かでないものがあるから療馬書の研究に際しては,十分な注意が必要である.
































2007/02/01のBlog
山口市宮野「牛馬供養塚」大正十一年十月 乳川 山本刀禰蔵
牛馬於耕作運搬也其労苦◆甚其効績至大◆不須言也而至其老衰
不甚用也不啼人顧之有復不忍言者矣余業牛馬之商売四十年毎想
其末路転不禁惻隠之情矣玆謀同志佛◆浄財喜捨建塚追福以慰其
霊盖欲不忘筌而己若夫得動観者追遠之念是實望外桒也
世話人
松村熊蔵 藤井溥蔵 藤井保太郎 上田恭一 山下兵一 古輪廣一
高橋啓三 古屋寅吉 中尾文蔵 小嶌蔵造 松田宗一 山崎喜作
古屋長一 大田晃太郎 立野春一 貞国将松 伊藤傅平 中座半祐
安永菊之進 有井友三郎 吉田熊太郎 若佐仙五郎 安永喜市 重冨忠蔵
片岡太郎 藤井孫吉 藤永友吉 藤村好太郎 米田之介 内藤作次郎
寺内◆四郎 小田川三郎 新見◆助 宮川岩吉 中村秀吉 宮仁吉
2006/12/23のBlog
「わが国初の狂犬病人体用ワクチン開発の経緯」講演要旨
 日本獣医史学会会員
 唐仁原 景昭
1 わが国初の狂犬病人体用ワクチン
 わが国において初めてパスツール氏予防注射法を開始したのは,田中丸治平著「狂犬病論」によれば,「当時長崎医学専門学校にて栗本氏初めてパスツール氏予防注射法を開始せり之を本邦に於ける該注射法施行の嚆矢となす」と記載され,また,山脇圭吉著「日本帝国家畜伝染病予防史」において「依って明治二十八年八月当時の長崎病院内科医長栗本東明はパストール氏法に依って狂犬病犬の脳を家兎に接種して得たる、第一一代接種苗を被咬傷者二五名に接種したるに、接種者は一名も発病しなかったという。之れ本邦に於ける狂犬病予防接種の嚆矢である。」との記載がなされていた。また,日本獣医史学会前会長添川正夫氏は動物用ワクチン-その研究と発展-の中で「ついにパストゥールにならい,ウイルスを接種して発病した家兔の脊髄を乾燥し,これを人体に21日間に14回注射する方法を考案し,25名の咬傷者に試み,全員の発病を防ぎました。」と25名に接種したのが初めてであることを記載し,山脇圭吉のいう第一一代の記載は官報3636号にはないことも記載している。
 このたび,新史料「官報明治二十八年九月十二日~十四日号」を入手し詳細分析を行った結果新しい知見を得たので報告する。
2 ワクチン開発に用いた種苗の作製
 栗本東明氏によるワクチン開発については過去の史料に記載されているが,それに用いた種苗がどこからもたらされたかについての記載はみられなかった。それがこのたびの調査により明らかとなった。
 栗本は26年3月頃より,長崎市内に流行が始まったのを機として,撲殺犬の脳及び脊髄を採取して注射乳液を造り家兎頭蓋骨の一小部を取り除き頭蓋骨内に注入し,病毒感染を試みたところ23頭中18頭は一定の症状を呈し注射後10日23時間にまで短縮し斃死させることを確認し,ワクチン種苗とした。
3 免疫獲得家兎の作出
 人体接種試験の前に動物が果たして免疫獲得をするか否かを実証するため,2兎に対し弱毒注射液を暫時に毒力強度を増強しつつ15日かけて毎日左右の臀部に0.5gづつ交互に注射して,15日目を以って予防注射完了とした。免疫獲得を確認するためこの2頭の他対照として免疫無処置兎2頭を用いて比較試験のため両群に野外毒を硬脳膜下接種したところ,免疫処理した2頭は発症せず対照の2頭は特徴的症状を発し斃死したのみならず,斃死兎の腸管から作製した注射液を健康兎腸内に接種して再現試験を実施し狂犬病毒による再現性を確認した。
6 島原半島における狂犬病発生の実態
明治26年3月頃長崎市内に発生し一時消滅したかに見えた矢先,翌27年1月から28年3月にかけて島原半島に転移し半島内全域に大流行を来たし,67名の咬傷者中21名の発症者を数え,その死亡率は31.34%の高率に上った。
 咬傷部位と発症までの経過では顔面咬傷が26日で最も早く,足部咬傷では最長76日後であったが,年齢及び男女の別での差異は認められなかった。
 この流行において,明治27年12月24日51歳の男性は狂犬に襲われ咬傷を受けつつも用心のため携行していた棍棒を振るい勇敢にこれと戦い仕留め警察に届け,最寄の獣医師である佐藤生馬に持ち込み,佐藤生馬はこれを解剖し脳・脊髄を殺菌グリセリンに包埋し長崎病院の栗本東明に検査材料送付した。
7 初めての人体接種
 栗本東明が始めて狂犬病予防ワクチン人体接種に踏み切ったのは, パスツール研究所内でルイ・パスツールが世界で始めて成功したのが1885年であるから,その9年後の成功となる。第一回の接種は明治27年8月12日福岡県福岡市の狂犬咬傷患者からの要請により10月18日から11月6日までの21日間に14回の接種を受け発症を免れた。これがわが国初の狂犬病人体用ワクチン接種の嚆矢であるとすべきである。また,成功時期も山脇の言う明治28年8月ではなく,27年とすべきであろう。
 次いで翌28年2月7日に咬傷を受けた島原半島内の大流行時から2人目以降の本格的な接種を始め,7月8日までの間に32名の患者に接種を行い,途中脱落者7名を除く25名の治療に成功した。副反応として,注射部位に軽微な疼痛を訴える者や稀に鼠蹊部リンパ節の腫脹を来たすことがあったがいずれも2~3日で消散したという。
8 予防的接種法
 栗本東明はワクチンの治療的利用法に止まらず予防的接種法にまで研究を進め,助手2名と狂犬病毒試験に従事する小使い3名の計5名の健康体に対し敢えて予防接種を行った結果何ら異常反応,障害を起さず経過し, 咬傷を受けてからの曝露後免疫のみならず未だ咬傷を受けざる者の予防的注射法においても利用できることを報告している。
9 長崎県における獣医学教育
明治26年長崎市内に外人が伴った犬による狂犬病が発生した翌年の明治27年から28年にかけて島原半島全域に流行が拡大し,その防疫対応に医師・獣医師・警察官の連携した対応がとられていた。今回長崎病院の栗本東明に狂犬の解剖脳・脊髄を適切に処理し送付した佐藤生馬獣医師について調査したところ,その墓地を見つけることができた。しかし既に跡を継ぐものはなく墓地は荒れ放題となり埋没した墓碑銘からその名を探したてることに成功した。明治維新後のわが国の家畜防疫対応は未だ教育体制すら整備されていないところに明治6(1873)年朝鮮よりわが国に牛疫侵入20県下42,297頭斃死という事態を招いた。
明治新政府は明治9(1876)年下総牧羊場の耕牛に発生,二等軍医佐藤舜海に斃死牛解剖依頼
により当面の処理を行ったが,漸く明治11(1878)年1月24日駒場農学校開校式を行いお雇い外国人教師によるヨーロッパ獣医学教育を開始した。
駒場農学校第一期生として卒業した深見次郎獣医は明治13(1880)年長崎県勧業課御用掛として長崎県に赴任し長崎県に猛威を振るう牛疫防疫に対処するため長崎県に獣医学校設立を議会に諮り議決されたが,開校公告するも受験者は熊本県人1名のみ,と悲惨に状況となり,深見は学務課に転任し医学校三等教諭を拝命し,再度開校準備に努力した。
明治14(1881)年長崎縣令は県下の牛疫流行に際し,当時の牛馬医の知識・能力では海外悪性伝染病に対抗不能なことから,長崎医学校に獣医学部を置き,従来の牛馬医を改良し衛生の道を開くために,県下郡区町村に有志の子弟推薦の上獣医学部への入学促進方を通達(農務顛末)した。佐藤生馬は牛馬医佐藤太郎の子息としてこの制度により長崎医学校において新しい獣医学教育を受けた新進気鋭の獣医師であったと考えられる。
10 おわりに
当研究は1枚の官報コピーから始まった。その内容は始めの1枚目で完結したものでなく,読み解くうちに続編があることを知り,図書館に通い官報続編を入手した。
 細かい活字に煩雑な旧字体を虫眼鏡で読み解くうちに,わが国初の狂犬病人体用ワクチンの開発に医師・獣医師・警察官が共に協力し,狂犬病防疫に邁進した事実を知る喜びを得ることができた。当研究の端緒を開く資料をご教示いただいた日本獣医史学会黒川和雄会長に深甚なる謝意を表します。

2006/12/15のBlog
『産馬大鑑』原島善之助著。明治四十(1907)年五月二十五日発行。裳華房。正価参円 五十銭。四六版。緒言に明治四十(1907)年五月十五日於韓国京城旭町僑居。韓国農工 商部技師、一等獣医。明治三十九年、韓国統監府農工商部農務局畜産課長。
明治元年 会計官吏を牛馬生育・売買取締に派遣。

産業上における馬政
2年3月 開拓使をして北海道の二牧場を管理せしむ。
 4月 物産・牧畜は民部省物産司の所轄。
 8月 牧畜に関する件は大蔵省通商司の所轄。
3年3月 大蔵省通商司、牛馬売買者に鑑札下付。
 9月 大蔵省勧農局を設け牛馬の事を取り扱う。牛馬売買者鑑札下付の事は大蔵省通 商司の所轄
 12月 大蔵省開墾局牧牛馬係設置
4年正月 牧畜に関する事項は民部省の所轄となる。
 4月 勧農局を勧業局と改称。
 6月 「家畜伝染病予防法取締方」
 7月 民部省廃止。勧業局廃止。大蔵省勧業司が牧畜を所轄。
 8月 大蔵省勧業司を勧業寮、勧農寮と改称。上目黒村駒場に牧畜試験場を設置。
5年10月 大蔵省勧農寮廃止。大蔵省租税寮勧農課設置。間もなく勧業課に改称。
6年9月 牧馬に関する試験事業を勧業課で実施。
7年1月 内務省勧業寮牧馬の件を所轄。
 3月 勧業寮内に農務課設置。
11年1月 駒場農学校開校。農事通信を開く。
13年 駒場農学校獣医学本科第一回卒業生。
14年4月 農商務省設置。勧農局廃止。畜産事務は農務局主管。農務局内に畜産課、獣医課を 置く。
15年2月 北海道開拓使廃止。牧場は農務局の所轄となる。
18年2月 獣医免許規則、同試験規則発布。
 6月 下総種畜場宮内省所属となる。
19年9月 獣類伝染病予防規則発布
23年4月 蹄鉄工免許規則制定。7月同試験規則、及び同仮免許手続発布。
 8月 獣医免許規則改正、9月同試験規則の改正発布。 
26年11月 農商務省官制改正。農務局内に畜産課を置く。
29年3月 獣疫予防法公布。
30年2月 獣疫予防心得告示。
35年2月 馬匹去勢練習生規則。5月農務局内に馬匹去勢掛を設く。
幕末・明治略年表

 世間の出来事 馬医・獣医養成関連
慶応4(1868)年 五箇条の御誓文 軍務官厩
 神仏分離令
 政体書の公布
明治元年 一世一元の制
 2(1869)年 版籍奉還 兵部省厩
 パンの製造・販売 大蔵・民部省
 乗合馬車 開拓使
 電信開通
 3(1870)年 牛乳屋開業 兵学寮馬医局設置
 人力車・自転車 民部省勧農局設置
 横浜毎日新聞発行
 4(1871)年 新貨条例 文部省設置
 廃藩置県
 郵便制度開始
 散髪・脱刀の許可
 5(1872)年 学制公布 陸軍兵学寮軍医部所管馬医部設置
 岡蒸気開通 開拓使仮学校開校
 瓦斯灯 内務省新設
 洋服の採用 専門学校規則
 6(1873)年 太陽暦実施 内務省勧業寮設置
 徴兵令制定 兵役免除規定
 地租改正条例
 7(1874)年 台湾出兵 アンゴー来日
 勧業寮内藤新宿試験場農事修学場
 8(1875)年 江華島事件 陸軍馬医部条例
 下総牧羊場開設・アップジョンズ
 開拓使仮学校移設
 9(1876)年 金禄公債証書発行条例 マックブライト来日
 クラーク来日
 札幌農学校改称
 10(1877)年 西南戦争 修学場駒場移転
 11(1878)年 農学校々則
 カッター来日
 12(1879)年 教育令
 13(1880)年 アンゴー帰国
 ヤンソン来日
 14(1881)年 内務省から農商務省へ所轄替え
 15(1882)年 壬午事件 下総に獣医分科設置
 鉄道馬車
 上野動物園
 16(1883)年 大日本帝国憲法発布 農学校通則
 17(1884)年 加波山事件 下総獣医分科三田移転
 山口県栽培試験場農事講習会
 18(1885)年 内閣制度施行 獣医免許規則発布・農商務省所管
 19(1886)年 
 20(1887)年 第一回帝国議会開催
 電灯の点灯








2006/11/27のBlog
平成18年11月1日
日本獣医史学会
 会員各位


 日本獣医史学会
 理事長 黒川 和雄

 日本獣医史学会第63回研究発表会のお知らせ

拝啓 皆様におかれましてはますますご健勝のこととお喜び申しあげます.
 今回は名古屋で研究発表会を開催いたします。皆様にはなにかとご繁忙の折とは存じますが、なにとぞご出席賜りますようお願い申しあげます.
 お手数ですが、11月20日(月)までに同封葉書にてご出欠をお知らせいただきますようお願い申しあげます. 敬 具

 記
【日時】平成18年12月2日(土)13:00~17:30
【場所】名古屋国際会議場2号館3階231名古屋市熱田区西町1-1
電話(052)683-7711地下鉄「西高蔵」「日比野」より徒歩5分
【参加費】無料
【日程】
 Ⅰ.研究発表会
総合司会:小佐々 学
1)13:00~14:00
 唐仁原 景昭:わが国初の狂犬病ワクチンの開発経緯
 2)14:00~14:45
 黒川 和雄・小方 宗次:昭和期における犬の三大悪病一流行蔓延と医療、防遏の成果について-
 < 休憩15分 >
 3)15:00~16:00
 小佐々 学:忠犬の歴史
 4)16:00~17:00
 原 崇:未定
 5)17:00~17:30
 小方 宗次:世界獣医史学会報告
Ⅱ.18:00~ 懇親会
2006/11/26のBlog
慶安四年三月高信之編安驥抜書秘伝集



 ○十二大病
 
 △眼,耳、鼻、舌、唇是ヲ外卜号、肝、心、脾,肺、腎是ヲ内卜号、其内外ヲ分別シ病ヲ見分薬ヲ可用
 ○馬四百四病大病十二有
○第一コツガン卜云病ハ、ヤミツクヨリ汗ヲカク事水ヲ流スゴトクニシテ、鼻ヨリノ息焔ノゴトクニシテ、サウナク不臥シテ足ガキヲシゲクスルナリ、是ハ大子ツ卜心ヱベシ、療治ニハ・百会・フクトウニ針ヲサシテ上ニ水ヲカケベシ、シンヲヒヤスベキ薬ニハ
・黄蓮・牛膝・柴胡・茯苓・大黄
是ヲ細末ニシテ水ヲ一ツ提ニ入テ七分二煎,能クサマシテウゴクサン皮煎ジモノニ加へテ、一箇ニ一銭入テ一度ニ五箇モ七箇モ可用、ウゴクサンナキ時ハ皮ヲセンジ物ニテヨキ相応ノ薬ヲ可用
○第二ツクイ卜云病ハ,ヤミツカントシテハ四五日以前ヨリソラ目ヲツカヰ、シキリニハナブキヲスルナリ、痩馬ナレドモ俄ニ肥テ油ヅク事有り、或ハ馬屋ニテ常ニ尾ヲサシトモセバキ馬モグイト弘ナリ、或ハシキヰ.ミゾ.アト足ハマタガス、跡足二ツハヒッソロヘテトビ越ルモノナリ、馬急ニツマリテハヲトガユスクミ、亦力草ヲハミコボシ、或ハ物喰時ハ前足左右ヲ一方ヅヽカヾメテガ力草ヲハミ、亦アカルキ所ヲヨケテ暗所ヲ好、クラキ所ヘマワリフスモノナリ、クツワヲハメント下ロヲトレバ眼ヒキ返シ、病コウジテハ歯ヲヒシトクイ違へ、アケントスレドモアカズ、此時ハ病ツマリテカナワズ、是ハ先ヅ口スクマズクツワノハメハズシ自由ナル時ハ、ヤウジヤウスベシ、療治ニハ首ヨリツリツメタルスジヲ切り、針メヲ少シタイシヤクニ灸スベシ
・ 骨脈・タイシヤク・ヒボシ・テイトヨリ血ヲトルベシ、薬ニハ 
・人参・大黄・索牛子・牡蛎・甘草
右五味当分二合セ、酢二テ一箇ニ一銭入一度二五箇モ七箇モ用ユベシ、マタアシゲノ馬ノ血ヲホシテ一度ニニ銭酢ニテ可飼
○第三早風ト云フ病ハ、ヤミツカントシテハ四五日以前ヨリ俄ニモノグルワシク人ニヲヂルモノ也、或ハ片身ノ血脈大小二見へテ身ノ身ノ毛フル事シゲシ、煩コウジテハ綱ニカヽリ前足ヲレントス、臥ントスレドモサウナクフサズシテ煩也、療治ニハ・首会・センダン・フウカン・ハイノユニ針ヲサシ、薬ニハ
・大黄・茯苓・百草・黄芩・甘草
右五味等分二合、チヨライヲ水ニテ煎シ、其汁二三度二五箇モ七箇モ可飼
○第四ハシリト云病ハ、俄二煩附間カ子テヨリ知ガタシ、サリナガラ病初ハ糠草ヲハマズシテ身ヲモ喰事アリ、或ハ綱ニカヽリナテ子ブリ、時々起臥煩カウシテハアラケナク臥物也、何ヨウノツナニテモ引切リハシリ出ルモノ也、是ハ先ツガンミヤク・ウンモン・センタン・ケウトウニ針ヲサシ、其後片身ノヒタルホトノ河へ入ヒヤスベシ、薬ニハ
・大黄・黄今・升麻・牛膝・括婁根・人参・茯苓
右七味等分二合、クキノ汁ニテモセヽナギノ水ニテモ、酢ヲ少シ加へテ日ノ内ニ六七度モ可飼、此煩肝ノ臓ノ熱卜心得テヨシ
○第五カタセト云病ハ、カハツマリ・イキアラク常シワブキスル也、或ハカユガリ尾ヲスリ々スル事モアリ、乗時ハキヨハク鼻ヨリ黄ナル水ヲ出シ、是ハ肝ノ熱卜心得テヨシ、療治ニハ
・ダイミャウ・月景・サハラヨリ血ヲトル、煩急ニシテ俄二起臥ワツラウ也、鼻口ヨリツクイキアラク、ハラノナルコトナルカミノゴトシ、又日センダン・タマキニ針ヲサシ其後冷へシ、薬ニハ
・大黄・索牛子・ゾクズイシ・茯苓・蒲黄・ソフン
右六味細末ニシテゴソツヲ煎シ、其汁ニテ一度ニ十箇モシゲク可飼
○第六ハヤヒ卜云病ハ、ヤミツカントシテハ、目ノ中赤ク・身ノ毛立チ、コヽカシコニホロシノヨウナルモノ出ル也、或ハヌカヲクヒ豆ヲノコシ、又豆ヲクヒヌカヲノコス、或ハ一日ハヨク喰又一日ハ不喰シテ煩也、是此ヤマイトシルヘシ、俄ニヲキフシヲシテ背ヲ地ニツケ、足ヲソラサマニシ左右へ片時トナクカヘスナリ、或ハ腹帯ノ本ヲカイデ見カヘリ臥也、心熱卜心エテ療治スべシ
・百会・フクト・センタン・ケウトウヨリ血ヲトルヘシ、片身ヲ冷テヨシ、クスリニハ
・大黄・牛膝・ヲウヘキ・黄蓮・牽牛子・苦辛・甘草 
右七味細末ニシテ、チヨライ有ハラヤヲ煎シテ其汁ニテ一度ニ二十箇ツヽモ可飼、温石ヲ粉ニシテカノ煎シヽモノニテ飼へシ
○第七カウロキト云病ハ、始ハ内落ノコトク、鼻ヨリ出物トマリテハ、ココカシコニハレモノ出ル也、病急ニシテハ何ホト物ヲ喰テモ痩ル也療治ニハ
・百会・チンタン・ハイノユニ灸スヘシ、是ハ肺ノ病也、八九ノ間シンキウスヘシ、片身ヨクイタム事アラハ、常ノ煎物ニテニデベシ、薬ニハ
・茯苓・干姜・牡蛎・菖蒲根・甘草
右五味細末ニシテ酒ニテ一度ニ五箇モ七箇モ可飼
○第八ウンツウト云病ハ、心ノ病卜可知、ハシメハフグリハレ或ハ羅サヤノ口ハレ、サウナクナヲラズシテ煩也、或ハ糠草ヲヨクハメトモ痩オトロへ腹ノ皮背ニツキ、ヅレユヘ引ク息モツヨク外ヘヨハシ、急ニツマリテハ踏タマヱザル也、療治ニハ
・センタン・心ノユ・百会ニ針ヲサシタイシヤキヲスベシ、又日牛膝・舟原ヲ酢ニテハレタル所ヘスリ付へシ、常ノ煎物ニテユデベシ、薬ニハ
・防風・白朮・桑白皮・ヲナモミノ実・大黄
右五味細末ニシテ、酒ニテ一度ニ三箇モ四箇モ日ニ二三度七日ニ可飼
○第九ヨウコウト云病ハ、先初ハシヤウカツノゴトクニ見ユル、又イバリセントテハ羅ノサヤヲヌキ煩也、サウナクイバリノ色赤シテ少シツヽシケクスルナリ、或鞍下ノヘン馬上骨ノマハリニホロシノヨウナルモノ出テ、一日一夜アリテハナヲリ股腰ヲ煩ナリ、ヒケバ前ヘアユマズ、其ヱダオレントシテアト足ヲ立スクミタルヨウニ腰ヲフリテ、アユミカヌルモノナリ、療治ニハ
・シノイ・センタン・腰切ノイタミノ上ヲ針ヲサシ、タイミャウニ灸ヲスヘシ、常ノセンゾモノニテヨク々ユデヘシ、薬ニハ
・大黄・括婁根・川骨・茯苓・桑白皮∴百草・焼塩
右七味細末ニシテ酒ニテ三箇、日二三度七日モ三七日モ可飼
○第十ユル毛卜云病ハ、マヅ煩ヨリ臥事ナク、綱二掛り前ヘヨロホイテ舟 ノヨウニユルグ也、口鼻ヨリツク息ツメタク白淡ヲカム事アリ、或ハ四足ノナユルヨウニユルガス痛急二見ヱテ臥也、フセハ療治不叶
・ハイノユ・ウンモン・百会ニ針ヲサシ、タイシヤキヲスヘシ、薬ニハ
・干姜・楊梅皮・莪朮・蒲黄・茯苓
右五味細末ニシテ酒ニテユル々トシテ、一度ニ七箇モ十箇モシケク可飼、此病ハ肺臓ヨリ起ルナリ
○第十一長血ト云病ハ、俄二起臥ヲシテ腹中ヲカキテ病ム事有、或ハタカイハリヲシテ疾事モアリ、又腹中ナリワタリシキリニフシテ息アラク、シワブキヲスルヤウニ息ツマルモアリ、或ハ前足ニテ臥シ、前ノ土ヲカキノケ其後フスモアリ、療治ニハ
・ウンモン・ハイノユ・百会・フクトニ針ヲサシ、療治スヘシ、此病ハ水ニウエタル時、俄二大ニコウジタルニヨッテ、チヨイケッシテ付タル療治ナリ、薬ニハ
・大黄・宿砂・茯苓・温石・索牛子
右五味細末ニシテ桃ノ木・桑ノ木ヲ少シ入テ煎ジ、其汁ニテ十箇、十五箇モ飼へシ
○第十二筋スクミト云病ハ、片身ノ筋スクミ、トリワケ四足ヲ立カ子少シモアユミエザルモアリ、或ハ四足ヲ立カヘ々休ムモアリ、又ハ俄二爪ハレウミスクルヽモ有、病急ニシテハ四足ハルヽ事モアリ、又フリト云病ノコトク頭背ニツクホドソリテ死スルモアリ、是ハ何レモ血ヲヌク間ノ遠キニヨリ、片身ノ脈乱損シタル故ナリ、如是連々ニツク病ハ治シヤスシ、又日乗時ハ足ヲクヂカシ煩モアリ、時々血ヲトラサルユヘ也、爪アシクナリタル療治ニハ
・センタン・タマキ・百会二針ヲサスベシ、上ニ灸ヲスベシ、又シツ脈フシカケヨリ血ヲトリ、ヨク々ユテヒヤスヘシ、又マコモ・蓮葉霜ニシテ、酒二片足ニモ・四足ニモ付ヘシ、其後ハレクスルヤウニミヱハセンシ物ニテシケクユデヘシ、薬ニハ
・百草・茯苓・川骨・桑白皮・人参・活婁根・甘草
右七味細末ニシテ、松ノミトリヲ酒ニテ煎シヨクサマシテ、其汁ニテ一箇ニ一銭入テ一度二三箇、日二三度可飼
 ○血方之部
一,馬臥テ腰ノヌケタル事、尾本ニサワリテ見ルニ尾ニチカラナク、羅ヲ出テモヽニ汗ヲ出ス、必腰ヲシタルトシルヘシ
一,馬臥テモヽシタルヲ知ル事、カラス頭ノ節ニサワリテ見ルニ、ヱタニチカラナク、ソリ目ニシテモツチカラナキハ、モヽシタルト可知
一,馬臥テイナヽクコトアリ、是ハ腑返テサウ身ヲ引違へタルナリ、イソギ起シテ見ルヘシ、二度オキアガラス
一,馬臥テホウケツシタルコト、ホウケツシタルトハ、常ノコトク血筋ヲアケテ見ルニ、押テ見レハ血ノ道乱テヒ肉ノ間へ入ル物也、是ヲホウケツト云也、此時針ヲサセハ片時ノ内ニタチマチ血ニナリテ其儘死ス、是マレナル事也、サリナカラ血ヲトル時此心得肝要ナリ
一,馬臥テ身ヲ打タルヲ知事、へン身二汗ヲ出シ、チカラナクヨワ々ト見ルハ身ヲ打タルト知ヘシ、何レモヨク々見分針ヲサスヘシ右馬ヲ臥テ心モトナキ事アラハ、此五ケ条ヲ能々分別シテ馬ヲシカト見届ケ針ヲナスヘシ、馬ヲ起シテ痛アレハ針違卜人皆ウタガウ
 ○血荒日
・春-寅・午・戌 夏-巳・酉・丑
・秋-申・子・辰 冬-亥・卯・未
 ○血荒四ケ日
・春-申 夏-戌 秋-寅 冬-巳
 ○馬命門日
正月-寅 二月-巳 三月-未 四月-丑 五月-辰 六月-戌 七月-子 八月-巳 九月Ⅰ午 十月-辰 十一月1酉 十二月-卯
右此日二痛附バ大事也
 〇四季二馬臥ル方
春東 夏南 秋西 冬北
右馬臥時庭カタメ
 ○馬ヱト飼之薬
 
 塩 一両
 ・甲乙 酢 三匁
 苦辛 二匁
 
 酢 一両
 ・丙丁 苦辛 二匁
 甘草 二匁
 苦辛一匁
 
・戊己 甘草三匁
 生姜 三匁
 甘草一匁

 ・庚辛 生姜 三匁
 塩 二匁

 生姜一匁
 ・癸壬 塩 三匁
 酢 二匁
 右水一盃二酒少シ加へ摺テ飼へシ、冬ハ少シアタヽメ用ユ
 ○シヤクタンノ薬
・益智・陳皮・三稜・我朮・香附子・桔梗・青皮・カク香・甘草
 右九味煎ショウ常ノコトシ
 ○馬五性毛ノ事
・木ノ毛 ヒハリ毛・カンシクリ毛・紅梅クリ毛・カネ毛
・火ノ毛 鹿毛・サル毛・カモカワラ毛・カワラ毛
・土ノ毛 月毛・トラ月毛・サヒ月毛・サメ
・金ノ毛 白・セクロ・子ヅミ毛・アシ毛
・水ノ毛 クロ・アヲマダラ・青ミトリ・クリ毛
 右木月士金水五性毛品々態々見覚ヘシ

飛騨の国主金森飛騨守頼直時代,馬屋奉行頭高信之大秘伝馬書の写,他所馬療治多しと雖一流大切相伝譲る者也
慶安四年辛卯三月 山下金右衛門相伝
文政二年己卯八月 山下清八改之 印

2006/11/14のBlog
十一月十四日火曜日小倉よりフェリーで彦島に渡る.所要時間は十四分,渡し賃は五百五十円.桟橋跡はフェリー乗り場の直ぐ近く.対岸は旧小倉の市営屠場.現在は桟橋や検疫所があった事を示すものは何もない.
2006/11/08のBlog
「米沢伊佐沢」の馬醫・桑島氏及び久保桜に関する記録
●米沢雑記事
「上伊佐沢東の山際に桑島館とて古館の跡あり、往昔伊達公領地の節、家来桑島丹後守(将監、新左エ門仲綱のことであろう)とて馬医の名人此所に居館す。(後略)」
●桑島氏系図「仲綱(五代)」
 仲家長男、母は伊達の臣清水主膳茂俊の女。桑島彦八郎、平六将監、新右エ門。八条近江守流馬を善くし、医馬の方を学び妙術を得伊達公に歴任、近臣となる。永正より天文中に及ぶ。(後略)
●重知(七代)
(前略)古跡を訪ね下長井郷伊佐沢村館用山玉林禅寺に至る。此地往昔先祖桑島新左エ門仲綱の宝の祠堂あり。是故開基と称す。牌名を「如意珠院殿当寺開基玉林妙高大姉、永祿十三年六月四日ときざむ。是即ち仲綱の内室なり。年来百五十有才を歴むと雖も今尚神主安置す。(後略)」
●牛翁”牛のよだれ”
「米沢伊佐沢に桑島新右エ門信国(仲綱のあやまり)という者あり。(中略)領主より千石と給う。(中略)家族はみな死に果てゝ信国独身となり永禄十三年(天正十八年のあやまり)禄をすてゝ高野山に卒せり。久保の桜は此の信国の桜なり。」
●桑島書置
「(前略)それより伊佐沢の八幡様の御社内に居る。(桑島館のこと)二十年渋谷どの聟となる。(中略)一、寺のこと国本よりはなれずきた人なれば二十まで我等添えておき、二十に成る時寺もなきところへ庵をたて安善房として四俵に三貫匁宛年々きんしを付。その内永祿時代親子(妻玉と息新太郎のこと)死去致、親子の戒名を相持、国本の寺へ相登候へば国本の寺の戒名ごろうじて寺号山号になされて其上けすえんとうどに被成て御下し被成安善房捨てくりん用山玉林寺と称す。(後略)」
●米沢地名選(文化年中の作、米沢藩最古の風土記)
「在長井伊佐沢。その木東西によること十四・五間。(中略)又昔伊佐沢に桑島氏というものあり。今に桑島館とて有。その女美女にして早生す。その名をお玉という。父母あわれみて、しるしに桜を植えたる墓木なりという。(後略)」
●米沢里人談
「伊佐沢の窪の桜は五・六〇〇年の樹なりと。往古は俗間に生き道を引くということあり。飾壇をきずき香を供し数十人の出家を招き、幾百の人をあつめ餉を供し酒をすゝめ、塔堂供養の如し。大富豪にあらざれば是を催すこと不可能という。(後略)」
●米沢鹿の子
「伊佐沢窪という所に有。枝茂りたるをみるに、長さ十七間程あり。さかりは八十八夜の前後なり。御城下より五里ばかりあり。昔桑氏を葬りて印に植置しと伝えり。(中略)かくの如く大木となりて人のなつかしみを受くる大木となれり。」
 やはり今の館部落の「タテ」は桑島館に由来するし、もともとは今の久保の「クボ」は窪の字である。だから久保桜はお玉桜・四反桜などと呼ばれるがこれは異名であって「窪桜」が正しい。ともあれ久保桜はお玉悲愛の物語にいろどられて広くもてはやされる国の名木であるが、桑島仲綱が二重坂の道すじ窪に祭壇をきずいて盛大に妻女「お玉」と総領新太郎の供養を行った時の標に植えた一枝の桜樹が成長して今日に至ったものである。長井市学校教育課長小関仁四郎が各種の文献的考証によって推定したところによると久保桜の樹令は四〇〇年乃至四五〇年である。
(「伊佐澤の郷土誌 昭和三十一年十月十三日刊行」より)

2006/11/06のBlog
在来馬の体格について
和種の体高は四尺二・三寸が普通で、四尺以下のものもある。乗馬は四尺五寸までが適している。北海道和種。松前藩が導入した南部馬、通称ドサンコの体高は124~141センチ、平均132センチ。木曽馬。長野県西筑摩郡木曽福島を中心とする和種。体高124~14 2センチ。御崎馬。都井馬とも、125~138センチ。トカラ馬。108~121センチ。
中世鎌倉時代の馬。鎌倉市材木座遺跡から発掘された128本の馬の四肢骨から推定され た馬の体高は109~140センチ、日本在来馬の中型馬に相当する大きさ。
馬尺馬尺と言うは四尺を定めて、その上を一、二、三、四寸と云う。八寸に余るを長に余ると 云う。又、古今要覧に四尺の馬を世の常の馬とするが故にこれを小馬と云い、四尺五寸を中 馬、五尺を大馬と云い、五尺以上の馬は得難かるべし。貞丈雑記には四尺を定尺とし、九寸に余るを長に余る。三尺九寸をかえり一寸と云う。




開田村山下家秘伝書針灸ツボ名一覧
あ 悪筋
い 誰穴
う 雲門
え 烏帽子形
か 下節 肝輪 眼脈 上ノ井 鏡
き 牛動 曲道 九道 気塊
く 蛛尻 
け 血酔 見道 穴道
こ 小松原 古血返 小肩
さ 三穴 三本 
し 腎道 上節 腎輪 心輪 小門 蜆腹 心癒 下の小門 実脈 篠返 柴引 腎癒
せ 松葉
そ 相好
た 立相 胎脈
ち 竹葉
て 蹄頭 蹄面
と 当穴 当林
は 肺癒 肺輪
ひ 尾先 尾中 百会 脾輪
ふ 藤波 藤切 福計 浮腋 無幡 風門
め 命道 命輪 
も 股返 股会
や 夜眼 破肩
り 六節
を 尾中 尾本



萩藩分限帳 嘉永改正いろは寄 一九六八年萩郷土文化研究会編集 馬医家系
一、高八十石 御馬医安西流 生駒九郎右衛門
一、高五十二石五斗外十石減少石 御手廻組馬医安西流 吉松惣右衛門
一、高五十二石五斗 御馬医橋本流 竹中弥一郎
一、高十五石 御馬医安西流 宅野三郎兵衛
一、高三十石 御馬医安西流 中村源助
一、高八十石 御手廻組馬医安西流 村井源右衛門
一、高二十五石二斗 遠近御馬乗八条流御馬医太子流安西流兼 山本湖十郎
無給通御雇
一、弐人高三石一斗五升 乗方馬医兼帯 宅野直衛




2006/11/01のBlog
「防長風土注進案」の雑戸身分について
穢多・茶筅・宮番・猿引・非人が雑戸の身分である。穢多は賎民戸数の75.9%で死牛馬処理を役務とする。「かわや」「かわた」とも呼ばれる。夜回役、牢番役、長吏役などを課せられている。また、「門開き」「千秋万歳」などの徘徊芸能にも従事し、非人・宮番を管轄する。茶筅は12.7%、竹細工販売と徘徊芸能が生業で周防に多い。「鉢屋」「道の者」とも呼ばれ る。
宮番7.8%神社の清掃、警番、火番、村落次元での捕吏を仕事とする。長門部に多い。平人身分 で転属、充当が容認されている。
猿引 萩城下に八軒が記録されている。
非人 萩城下「非人小屋」に所在する。「非人頭」の配下で生計は徘徊しての貰いによる。
「防長風土注進案と同和問題」防長風土注進案の解説書。山口県文書館専門研究員北川健 編集・北海道大学教授田中彰監修

「かわや」の仕事は特牛皮や絆(はづな)の上納。死牛馬引取範囲を「芝」「芝場」「芝 の受場」「旦那場」と呼ぶ。死牛馬引取の権利を「芝場株」あるいは「旦那株」と云う。

2006/10/31のBlog
長州藩御仕置帳、常御仕置帳
[牛馬村牽之類]
○享和元酉七月
 熊毛才判久原村渡り上り穢多
未八月永遠島、酉二月於島心乱自害 清助
右、三尾村五右衛門飼牛盗取れ、右之者牽帰り皮をはき近辺之畠縁江
堀埋メ候ニ付究相成候処、夜中於途中致買得候段申出候得共、夜中売
買之段御法相背、病死之届出も不仕、殺候而隠し置候と申聞せ候而も
無十口ニ付、篭舎
[馬方御咎之部]
○延享二丑二月
 都濃郡穢多
丑十一月病死死首獄門 長兵衛
右、牛以上三疋江毒を飼候付、篭舎
○宝暦六子七月歟
 玖珂郡高森垣内穢多
 九月誅伐獄門 長三郎
右、年来牛を盗殺シ候付、篭舎
○嘉永三戌六月
 徳地槙ノ原村穢多
 十月出牢家戻 伊三郎
 太兵衛
右、馬喰体ニ而諸所駆歩行、平人ニ紛酒食認候付、牢舎
○嘉永五子壬三月
 船木下小野村桂主殿知行所穢多
 文久二戌十二月吉右衛門善五郎 吉右衛門
(朱)「嘉永五子九月御法事赦永遠島」小左衛門
 善五郎
右、牛買集令水飼、餓死致させ手落同様之仕方ニ付、牢舎
 但、組相之者兼而気付筋も可有之処緩せニ付、御叱り
○安政四巳四月
 山田村穢多頭
 十二月赦家戻 権右衛門
右、牛馬骨買取一件勝次郎員数違之儀云々、牢舎
 同村穢多 八五郎
 同村穢多 周吉
 吉田町々人戎屋ノ新作
 宍戸備後家来林 金蔵
 吉田町々人岡屋ノ作次郎
 河島庄百姓林蔵育良平
 杉百合之助組直之助育蝶之助
 同人組市郎育彦作
 南片河町々人篠原屋ノ利吉
 熊毛上久原村穢多勝次郎
 同所同伊右衛門
 都濃郡香力穢多年寄平兵衛
 小畑穢多年寄磯吉
 都濃郡香力穢多弥四郎
○安政五丑五月
 奥玉江ニ居候穢多
 仁三郎
 源蔵
右、夜中犬を取歩行候より盗之蒙御不審、御咎之聞も有之候得共、数月
入牢被仰付置候付、家戻
○同十一月
 前大津三隅中村穢多
 辰次郎
右、芝内ニ而百姓嘉右衛門飼牛斃埋置候を、旁勇蔵其外雇ひ掘出皮剥
取候より自然と毒殺之蒙御不審、御咎之聞も有之候得共、御全儀中数月
入牢被仰付置候ニ付、家戻
 同村穢多
 初蔵
 右同断、辰次郎不作廻之令手伝ニより蒙御不審、同断
○安政七年
 吉田才判伊佐村穢多
 十月肆誅伐獄門 源兵衛
 常三郎
右、十蔵悪調儀ニ令同意、諸所手引廻十蔵を数軒の牛屋江忍ひ込セ、
耕作飼牛江毒薬を呑せ斃し候而捨り皮剥取ニ付、牢舎
 但、十蔵出奔其後立帰溺死

常仕置帳頭書
○宝暦十三年十二月
垣ノ内荷物
一山口羽坂垣ノ内五左衛門、皮荷物壱駄差出、於下右田見咎全儀ニ付、
御咎之事
○安永三年七月
牛事懸り相
一久原村穢多共牛事懸り相御究相成〆り御宥免之事
○安永四年三月
不沙汰
一久原村穢多共牛殺之趣ニ付、穢多年寄善左衛門不沙汰之筋有之、御咎之事
○寛政三年三月
鴨わなへ掛り候鶴を擲キ
一鴨わな江掛り候鶴擲キ懸り候趣ニ付、久米村穢多兵助其外庄屋等御
咎之事
○安政五年三月
牛骨抜売
一熊毛穢多勝之助牛骨抜売・御咎











2006/10/30のBlog
第二学年理科筆記
哺乳類
牛、馬、犬、猫、は体に毛あり其牝には乳房有て児を乳養す故に之を哺乳類と云ふ、
蝙蝠は空中を飛行すれど鳥類にあらず鼠に似れど翼の如きものあり一種の哺乳獣なり小笠原島併に沖縄県に産するものは猫の大さ位なり、
鯨は水中に棲めど魚類にあらず其血は温にして赤し児を乳養すこれも亦哺乳類なり、
哺乳獣の中には感覚鋭く且つ智あるもの多し牛、馬、ウサギウマ、鹿、羊の類は草を食い熊、狼、狸、犬、猫などは肉を食う犬、猫の山野に生まれたるものは性猛なれど捕て人家に養えば次第に馴れて其性も漸次変る、
山野に生死するものを野獣と云い人家に畜うものを家畜と云う、
家畜は人の用をなすこと少からす先ず犬は夜を守り獣猟に従い幼より芸を教えれば善く覚て人の心を慰む猫は鼠を捕り人に馴れ易く又愛らし、
ナンキンウサギは其毛色美し故に人珍愛して之を養う、ハツカネズミは之を飼て小車を回転せしむ、
牛、馬は重きを負い車を曳き又田畑を耕して人の労を助く殊に牛は乳汁を供しその肉は味美にて共に滋養の効あり其他猪、鹿、兎、豚、羊、鯨などは皆食用となる、
鯨は其肉を食用とするのみならず脂油をも取り又口内にある鬢の様なるものにて種々の器具を作る実に全体中無用の所なし、
羊の毛は織て衣類を製しラッコの毛は帽子を作るに宜し此帽子は値誠に高し、
哺乳類の皮は長鼓、太鼓、三味線抔を張るに宜し其切れ端にて膠を製す又煉て柔皮とせば靴にもなり馬具にもなり袋物又文庫ともなり下駄の緒ともなる、角、爪は種々の器具を作るに宜し殊に熊、牛の胆は医薬に用いて胃を強くするの効ある抔重宝中々算え盡し難し彼の鼠に至ては用なき様にて人は只顧に憎めども亦虫類を駆る左れば動物には先ず無用のものなし然るに万物の霊たる人間には却て使い道のなきものあり之を恥しく思わんものは早く勉強して独り無用の動物となり果ること勿れ、

博多の古本屋で三百円の本です.裏表紙がありません.和紙に金属活字,油性インクで印刷してあります.紙をとるために購入しました.冒頭の部分に面白い記述がありましたので紹介します.万物の霊たる人間には却って使い道のなきものありとは...
2006/10/18のBlog
明治四十三年三月二十三日、東京帝国大学教授獣医学博士須藤義衛門氏は、東京府下代々幡村阪川牛乳場に往診し、斃牛の剖検を行い炭疽病と診断した。四月三日左腕腕節に小腫瘍が生じ漸次拡大。塗り薬で加療するも効果なく、痒みは変じて激しい疼痛に変わる。腫瘍の程 度が拡延するため、神田の岡村医学博士の診察をうけるも病名不明。局所を手術して採取物を伝染病研究所に送り病性鑑定を依頼するに、炭疽病なることが判明。翌日、更に局部の大 手術を行うも効なく悪化。この時農商務省獣疫調査所長時重初熊氏は獣疫調査所製造の炭 疽免疫血清の使用を慫慂され、須藤博士も希望された。岡村、北里、志賀、仁田の四博士が協 議、更に、青山、三浦、宮本、二木の各博士の来診を仰いで、終に炭疽免疫血清の使用に踏み切った。九日の夜、体温、脈拍、呼吸等総ての症状が険悪な状態となりカンフル注射に代えて血清を注射。十日の未明から回復に向い、月余にして全快。再び駒場の教壇に先生の英姿を見 るに至った。人類の炭疽病治療の一進路を築いた事は、全く須藤博士の学会に対する犠牲的精神と時重博士の確固たる自信の賜である。

福浦家畜検疫所 
 明治二十六年十月三十日勅令百三十八号により税関官制が定められ、長門国赤間関は下 関神戸税関出張所となる。
 明治二十七年三月二十六日農商務大臣は兵庫、長崎、岡山、広島、山口、和歌山、香川、愛媛、福岡、大分の各県に訓令を発令。生牛及び皮骨陸揚前検査を指示。
 明治三十五年三月二十七日勅令第七十二号により、神奈川、兵庫、長崎、福岡県に港務部を置き、海港検疫所を附属せしむ。
 明治三十八年勅令第九十一により勅令第七十二号を改正。山口県には港務部無きために 警察部が検疫を行う。
 明治三十九年四月十二日農商務省令第十一号「獣疫検査規則」横浜、神戸、長崎、厳原、下関港にて検疫を行う。
 明治四十年三月勅令第百号。四月一日より福岡県港務部において下関輸入獣類の検疫、検査を執行す。下関輸入肉牛の取扱いについて福岡県知事の回答・屠場 下関開後地村 吉 岡屠場 福浦検疫所より下関今浦町上陸揚場まで四浬二分の一。同上陸揚場まで十二町。小倉市立屠場 福浦検疫所より小倉紫川川口上陸場迄二浬五分の一。同上陸場より屠場まで 約一町四十間。

2006/10/16のBlog
福浦家畜検疫所 明治27年5月、ペスト予防の目的で赤間関市に地方検疫局が設置され 中国沿岸および香港から来航する船舶に対して検疫を行った。おりから日清戦争中であっ て、陸軍も彦島に検疫所を設けて運送船の検疫および消毒を実施した。同37年5月、主と して韓国から輸入する牛羊ならびに皮骨類の検疫を実施するため、下関水上警察署内に牛 疫検査所をおき、彦島に福浦海岸派出所を設けた。同四十年、福岡県警察部の所管に移され、その後大正13年12月に門司税関へ、昭和18年に海運局へと次々に移管されて終戦と なった。開設当時は敷地484坪に過ぎなかったが自来漸次拡大され昭和8年には159 50坪、建坪2381坪の広大な施設となり、一時に1680頭の畜牛を収容しうる本邦第一の検疫所になった。同検疫所を通ってわが国に輸・移入された畜類頭数は次のとおりで あり、下関市を通して朝鮮との間に行われた畜牛取引の盛況を語っている。戦後22年4月、彦島福浦の検疫施設は門司検疫所の所管として厚生省の管理するところとなった。明治37:1080 38:4451 39:5371 40:15841 41:15904 42:2171 43:1262 44:2127 大正1:3697 2:8252 3:11101 4:11235 5:18119 6:31014 7:38631 8:37220 9:51000 10:47057 11:36776 12:45169 13:54781 14:44019 15:40503 2:39199 3:53203 4:40309 5:29981 6:32727 7:44193 8:44276 9:50446 10:51260 11:49554 12:47612 13:60306 14:60524 15:61609 16:42834 17:51802 18:12039 「下関市史」保健衛生731p

2006/10/10のBlog
『伝聞本朝牛乳事始』XYZ「家畜衛生協会々報」第二年第三号四一九頁
牛酪渡来孝徳天皇の代に呉の王、照淵の孫智聰の子善那使王朝鮮より方書百三十巻、薬臼一を持渡り、牛酪を製し奉る。ヤマトクスリノオノ[和薬使主]の姓を賜る。
◎本邦最初屠牛地は伊豆・下田港の玉泉寺。仏手柑樹に牛を繋いで屠る。昭和六年四月八日供養塔建立開眼式が行われる。碑文は正三位勲二等帝国学士院会員文学博士・高楠順次郎
が認めた.

2006/10/04のBlog
「墺国陸軍軍用犬」大正十年八月十日陸軍省印刷・臨時軍事調査委員会
第四編
第一章 犬の外貌併骨格
第二章 飼養管理併最も多発する各種疾病
 第一節 飼養 
 第二節 皮毛併皮膚手入法 
 第三節 主なる疾病 一 熱 二 食欲 三 体表に発する疾病 四 粘膜 五 歯牙 六 耳 七 脈拍 八 咳嗽 九 嘔吐 十 糞 十一 便秘 十二 下痢 十三 尿 十四 跛行 十五 ちく搦 十六 挫傷 十七 創傷 十九 骨折 
◎二十 狂犬病 本症は狂犬の咬創に続発す人、馬、牛、鳥等に感染するものにして公衆衛 生上危険なり通常三乃至六週間の潜伏期を以て発症す然れども時に半年を経て発することあり一旦発症すれば八乃至十日にして必然死の転帰を取るべし。症候 畜主に対する挙姿 に異状を呈し猥りに遁走を企て食思不振と為り却て不消化物を採食嚥下す眼光獰悪と為り常には好まざる物体即ち金属、鎖、硝子、木片等を咬噬し又眼前に示されたる何物をも咬ま んとす後体麻痺を起し次て下顎麻痺を発し流涎著明と為る狂暴は発作的に起ること少なし総て狂犬病の疑あるものは獣医の許に厳重に観察し厳重なる係留可能なる場合は寧ろ屠殺するを可とす
第三章 特に軍用犬の飼養育成併管理に就て

2006/09/27のBlog
移入生牛の牛疫
朝鮮鎮南浦より彦島福浦に入港せる商船第十四小野丸が積載せる生牛七十七頭の内八頭は死亡し内二頭は海中へ投棄せる旨の届出でに接し検疫所にて残りの六十九頭を検疫せる処十四頭を除く外は悉く牛疫に罹っているのを発見したので健康牛のみは門司田野浦に収容し罹病牛は悉く撲殺焼却した、船側では八頭の死亡せるは牛疫に罹ったことを知らずして海 中へ投棄したものだと申立てゝ居ると、因に右生牛の荷送人は鎮南浦輸出組合である(門 司特報)大正十四年七月一日発行・山崎英胤『現代の獣医』

2006/09/20のBlog
『大日本産業事蹟』明治二十四年・目黒伊三郎刊(平凡社東洋文庫四七三大林雄也一九八七年東京)第十一牧畜家禽の項の出展
一、本邦牧畜および沿革
『神代巻』『古語拾遺』『築後風土記』『日本紀』延慶庚戌五月十日河東牧童寧直磨手記『国牛十図』文化七年庚午十月五日美備伝写『古代印之図』宝暦辛巳上総国夷隅郡臼井郷長者中村国香著『房総志料』
二、本邦名馬考
『大日本農会報告書』
三、備後国岩倉牛繁殖の起源
四、本邦牛馬耕の起源および沿革
『桓武天皇二十三年冬十二月勅諭』
五、陸奥南部馬改良の由来
陸奥国三戸郡宇住谷牧場に寛保二年九月死亡のペルシャ馬の碑を建て「蒼前堂」を作る。
六、本邦馬肉の沿革
天武天皇四年四月布令『日本紀』『補饑新書』
七、安房峯岡牧場の沿革
八、本邦種牛馬舶来の沿革
九、安房嶺岡白牛ならびに牛酪製造の由来
十、常陸多賀郡大熊牧場の開創および沿革
十一、本邦種牛、馬、羊、豚維新後舶来の事
十二、美作真島郡大杉牧牛場の起源
十三、本邦舶来馬種の来歴
十四、本邦牛乳搾取の濫觴
十五、千島色丹島綿羊飼育の起源
十六、本邦驢馬舶来の起源
十七、出雲能義郡飼鶏の来歴
十八、但馬、淡路産牛馬の由来
十九、本邦養鷹の濫觴


2006/09/18のBlog
犬狗養畜伝
 浪華暁鐘成著述 
 周礼六畜註、獣可畜者六■、牛・馬・羊・犬・豕・鶏とあり。論語の古註にも犬は守禦ぐ を以て人に養ると云り。又、風俗通曰、俗説に狗は賓主を別て善守禦故に四門に着て以て盗 賊を避と也。俗高僧伝には犬を防畜と云い、楞厳釈要鈔には狗を名て守狗と云り。されば兼 好が徒然草にも、犬は守り防ぐつとめ人にも勝りたれば、必ず有べしと云り。実や犬は能恩 を知り仇を酬ひ、鼻利くして能気を嗅ぎ、能家を守て非常の人を内に入ず。厳く吠て窃盗を 防ぐ。官家・賎民共に畜ずんばあるべからざるの者なり。
 且、田犬は狩猟の時まず山野に放ち入て禽獣の所在を候しむ。 乃、官家の宝獣なり。原来 一切の邪魅妖術を能祓避るがゆえに、道家に是を禁ずるといえり。凡そ犬の忠功人に勝れ、 相和潅之の養える主の恩を知り、是を報ずること往古より和漢ともにその例少からず。
 故に世人狗を養うに、慈愛あらずんば人道にあらず。夫、生るを愛し、死を悼むは仁の道なり。則、これを慈悲と云。そも慈悲の心なきは人倫にあらず。法界次第云、能他に楽を与るの 心、これを名て悲とす。又、盆経通今記曰、衆生を愍覆して句を抜、楽を与を慈悲と名づくと あり。大論に曰、胎卵湿化は生生の父母、魚鳥禽獣は世世の兄弟と。斯有ば此世に生を受るもの、禽獣に至るまで皆兄弟なり。憐まずんばあるべからず。況や家に養て朝夕狎て隋者に於 てをや。予平生に生るを愛し、死を悼むがゆえに、こゝに犬狗を養の心得を著し、彼を助くるの便とす。衆人閲して用いたまうことあらば、小子が歓び是に過ずという。
○馬銭の毒に中るときは急に冷水を呑しむべし、其毒を解す。
○狗、癩病を発するときは、桃の木の葉を搗き爛し、其皮毛に擦つけ、少時して是をあらい去るべし。かくのごとく度々すれば終には治する也。
○癬疥を生ずるときは好茶を煎じ、一夜冷して後是をあらうべし。
○創を受る時は急に小豆を煮て食しむべし。若、粒を嫌て食ざれば、能煮たる汁ばかりを飲 すべし。尤、能冷して飲すべし。惣じてあつきものはあしゝ。冷物をよしとす。且、灼傷・打瘍等にも小豆を用いてよし。小疵は自ら舐て癒といえども、舐る事あたわざる所は癒がたし。 何れにもあれ創を受なば小豆を煮てはやく痛苦を救うべし。小豆を嫌うことあらば鰹節を かき入て食しむべし。
○壁蝨、皮に入て血を吸うこと常にあり。多くは指の股に啖つく故に、必らず脚をかがむる
事あり。其歩むに趁跛のごとく歩風あしきものは、指の股を穿鑿して是を取て助くべし。然
れども人に打擲れ跛を引もあれば、尚よく考うべし。且、耳の中などにも啖つきおれば時々 見て遣すべし。其余蚤・蝨をもとるべし。
○狗蝿は多く老たる狗には着ものにして、凡そ頚のほとりに群り、毛の中を潜りて血を吸うものなり。煙草の脂を嫌う故に何れも煙草のぢくを編て頚環に作り掛るあり。此趣向もっともよし。狗蝿は冬にいたれば狗の耳の中に蔵るゝといえり。然れば冬の中に耳の中を探りて殺し置なば、夏にいたりての憂いあるまじく覚ゆ。又、灯し油を惣身の皮毛にぬり付れば、忽ち蝿さり死すると云り。
○蚤・蝨を取には樟脳を犬の全身にぬり付おき、桶筥の類を以て狗を覆い蓋して、少時ありてはなち出せば其蚤・蝨悉く落てすみやかに去なり。
○川鰕・海鰕ともに喰すべからず。鰕るいを食すれば脚かがみ弱くなりて、腰抜のごとく成なり。かたく禁べし。若、あやまって鰕を喰い此毒にあたらば、黒大豆の煮汁を冷し、多く飲 すべし。又、鰊を喰すもよし。
○咽喉に魚の骨などをたてくるしむ事あらば、飯のかたまりを喰すべし。
○惣じて辛き物には熱物多し。必ず与うべからず。又、酒のかすなんど宜しからず。
○常に臥所には筵・藁菰・空俵の類いを敷て寝さすべし。犬は至て湿気を悪うものなれば 心を付て得さすべし。止事を得ずして常に湿気の地に眠る時は、必らず病を生ずることあり。
○夜中に門外に出んと頻りに吠ゆることあり。是は小便又は糞をせんとて告るなり。納屋或はうら口に出して小便をさすべし。尤、小便は裏口などにてもすれども、糞は決して畜るゝ 家の四壁の間にすることを慎むゆえ、少し離し所ならでは糞はせざるものと、心会べし。さ
ればとて夜中に外面に出すことは宜しからず。納屋などに連ゆくべし。
○犬は腹中常に熱するもの故に、暑に至れば舌を出し喘ぎ苦しめり。然れども是は病にあらず。暑に苦しむなれば、鉢などに冷水を湛え置て飲ましむべし。尤、四時ともに水を絶さず鉢にたゝえ置べし。魚類を食せし跡にては冬にても水を飲もの也。必らず喉をかわかしむることなかれ。予平生に冷水を湛え近隣に養える多くの犬に与えるに、其快く飲る形勢は、さも こそと想像る。人畜なんぞ苦楽の隔てあらんや。我よしとおもうことは、人もさもあらんと 施し、あしき事は人も否にあらんと思いて、なさざるを恕というとぞ。故に恕を能行ばやが て仁にいたるといえり。
○秋より末に至り雨中などには、能狎たる狗は席上に上らんと為こと有。是、狗は湿気を嫌 うがゆえに床の上に居んとするなれば、此時は湿気なき筵を地に敷て与えれば其上に臥な り。必らず怪みて禁むる事なかれ。
○平生の食用に強き飯ばかりを多く喰しむべからず。彼が性余れる物を探し求て喰うもの 故、飽まで生飯を喰むれば病を発すること有り。希くは粥の冷たるをよしとす。或は飯櫃の 洗い水、又は新米の糠を水にて練て与えるもよし。豆腐のから・蕎麦・小豆粥などもよし。 尤、是等ばかりは喰うに美味ならざれば嫌てもあるべし。飯粥などを与るに、一度は飯、一度は糠などゝ取りまぜて食すべし。彼が身の為に頗るよし。尚、成長の後はあまりに加減に及 ざれども、生れて暫時の間は食のかけ引に心を付べし。小狗の愛らしきに溺れて生飯ばかりを強て喰せば、上腹はり出て終には病を発することあり。爾有ばとて饑に及ばすは甚だあしゝ。只程よく食をあたうべし。小狗は則ち人間の小児と心得べし。其養いかたあしくして狂 犬・病犬と成り、人を咬がゆえに、遠き山野に捨ること不