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2008/01/28のBlog
[ 20:41 ]
『日本後紀』四十巻は勅撰の正史「六国史」の一で、延暦十一年から天長十年までの歴史 が述べられている。 このうち現存するのは十巻分で三十巻は散佚している。今回の調査の対象となった延暦廿三年は残存巻で、巻第九から巻第十一(延暦十九から二十二年は逸文)となっている.今回の調査には森田悌著『日本後紀・上』講談社学術文庫本を底本とした。
延暦二十三年遣唐使関連事項には次のような記述がある。
延暦二十年八月十日遣唐使任命。大使藤原葛野麻呂。副使石川道益。判官・録事各四人。
延暦二十二年三月二十九日。餞の宴。
延暦二十二年四月二日。大使・副使暇乞い。節刀を授けられる。
延暦二十三年三月五日遣唐使拝朝。
延暦二十三年三月二十五日。大使・副使に餞の宴。
延暦二十三年三月二十八日。大使に節刀を授ける。
延暦二十三年九月十八日。遣唐使の件について兵部少丞を新羅国に派遣。
延暦二十四年六月八日.第一船対馬に停泊.三・四船往路遭難.
延暦二十四年七月一日。大使・節刀を返進。
延暦二十三年の遣唐使中に左近将監平仲国が居たと考えられる字句は見当たらない.
延暦二十三年十二月壬戌(21日)
○壬戌、勅、牛之為用、在国切要、負重致遠、其功実多、如聞、無頼之輩、争事驕侈、尤剥斑犢、競用鞍韉、為弊良深、事須禁絶、自今巳後、殺剥及用鞍併胡禄等之具、一切禁断、若有違犯、科違 勅罪、主司阿容、亦与同罪、
*節刀とは天皇が刑罰の全権を与えた象徴.
延暦二十三年遣唐使関連事項には次のような記述がある。
延暦二十年八月十日遣唐使任命。大使藤原葛野麻呂。副使石川道益。判官・録事各四人。
延暦二十二年三月二十九日。餞の宴。
延暦二十二年四月二日。大使・副使暇乞い。節刀を授けられる。
延暦二十三年三月五日遣唐使拝朝。
延暦二十三年三月二十五日。大使・副使に餞の宴。
延暦二十三年三月二十八日。大使に節刀を授ける。
延暦二十三年九月十八日。遣唐使の件について兵部少丞を新羅国に派遣。
延暦二十四年六月八日.第一船対馬に停泊.三・四船往路遭難.
延暦二十四年七月一日。大使・節刀を返進。
延暦二十三年の遣唐使中に左近将監平仲国が居たと考えられる字句は見当たらない.
延暦二十三年十二月壬戌(21日)
○壬戌、勅、牛之為用、在国切要、負重致遠、其功実多、如聞、無頼之輩、争事驕侈、尤剥斑犢、競用鞍韉、為弊良深、事須禁絶、自今巳後、殺剥及用鞍併胡禄等之具、一切禁断、若有違犯、科違 勅罪、主司阿容、亦与同罪、
*節刀とは天皇が刑罰の全権を与えた象徴.
2008/01/24のBlog
[ 20:22 ]
山口県獣医会規約
明治廿四年
四月廿二日筆記ス
山口県獣医会規約
第一章 総則
第一條 本会ハ山口県獣医会ト称ス
第二條 本会ハ吉敷郡山口ニ設置ス
当分ノ内吉敷郡吉敷村中村資一方ニ
設ク
第三條 此規約ハ県庁ノ認可ヲ得テ履行スルモノナ
レハ自今改正追加ヲ要スル事項在ル時ハ亦此
手続ヲナス可シ
第二章 目的
第四條 本会ハ県内居住ノ獣医団結シテ其学術治療
ノ進歩改良及人畜衛生ノ普及を図ルカ為メニ設
クルモノトス
第三章 会員
第五條 会員ハ本県居住ノ獣医ヲ以テ組織ス
但シ斯道ニ熱心ナルモノハ会員二名以上ノ諾介ニヨリ
準会員タル事ヲ得ル
第六條 本会ノ旨義ヲ翼讃シ本会ニ裨益アルモノハ之
ヲ推撰シテ特別会員トナス事アル可シ
第七條 会員タラント欲スルモノハ幹事ニ通知シ会員簿ニ記名捺
印シ此規約ヲ団守ス可シ
第八條 本会ノ名誉ヲ毀損シ若クハ数々此規約ニ
背戻スルモノハ協議ノ上之レヲ退会セシム
第九條 会員中転居或ハ一ケ月以上ノ旅行ヲナス時ハ直ニ本
会ニ通知ス可シ
第十條 退会セントスルモノハ其事由ヲ詳記シ之レヲ幹事ニ請求
スベシ
但此場合ニ於テハ幹事ハ其件可否ヲ会議ニ諮ル
モノトス
第十一條 正当ノ事由ナクシテ退会スルヲ得ス
第四章 集会
第十二條 集会ヲ分ツテ総集会及部会ノ二種トナス総集会ハ総
会員ヲ以テ組織シ部会員ヲ以テ組織ス
第十三條 総集会ハ一ケ年一回部会ハ一ケ年四回開会スルモ
ノトス
但シ開会期日ハ総集会ニ在リテハ之レヲ県庁ニ
部会ニ在リテハ之ヲ所轄郡役所ニ予メ報告スルモノ
トス
第十四條 不得止事故アリテ集会ニ欠席セントスルモノハ予メ之レヲ届
出ヘシ
第十五條 各部会ニ於テ決シ難キ事項ハ之レヲ総集会ニ提
出ス可シ
第十六條 前条ノ他会員三名以上ノ請求アル時ハ部会
ヲ十五名以上若クハ二部会以上ノ請求アル時ハ総
集会ヲ臨時ニ開会スルヲ得
第十七條 総集会及部会ニ於テ左事項ヲ講気討議ス
一、獣医奥義ヲ改良スル事
二、獣医術ニ関スル内外ノ新説治験及各自ノ実
験其他総テ家畜ノ治療衛生ニ関之諸件
三、屠畜場搾乳ノ臨検管理及家畜伝
染病ノ如キ総テ家畜ノ公衆衛生ニ関係タ及之諸件
四、風土病伝染病ノ原因探求及其ノ予防法治
療法ニ係カル事件
五、牧畜事業に関スル学術実験等総テ
畜産ノ繁殖改良ニ係カハル諸件
第十八條 県庁及郡役所ヨリノ諮詢及会員中ヨリ
提出ノ問題ハ勿論総テ前条ニ記載スル事項
ハ会員外ノ質問ニ係ルモノト雖モ討究論議
スベシ
第五章 役員
第十九條 本会ニハ左ノ役員ヲ置ク
会長 一名
幹事 一名
書記 一名
第二十條 役員ハ投票ヲ以テ之レヲ定ム但書記ハ会
長ノ特撰トス
第二十一條 会長ハ一切ノ事務ヲ総轄シ議事アリテハ之
レカ議長トナル
但シ特別会員アル時ハ之レヲ推挙シテ議長職務ヲ
執ラシム
第二十二條 幹事ハ会長ノ助ケ一切ノ事務ヲ処理シ○○ヒ
会計事務ヲ担任ス会長事故アル時ハ之
レカ代理タルヲ得ル
第二十三條 書記ハ議事筆記及雑務ヲ担任ス
第二十四條 役員ノ任期ハ二年トス但薦再撰スルモ妨ナシ
第六章 積立金及会費
第二十五條 会員タラントスルモノハ其身分ヲ保証スル為メ入会ノ際
金三円ヲ積立爾后年々壱円弐拾銭宛総額弐
拾円ニ満ルマテ積立ヘシ但シ積立金ハ各部会於
テ之レヲ保管ス
第二十六條 積立金ハ貯金トナシ増殖ヲ計ル可シ
第二十七條 積立金ハ退会又ハ死亡ノ際ハ之レヲ返付ス可シ
但シ第八条及第十一条ニ該当スルモノハ返付セサルモノトスル
第二十八條 会員ハ出席ノ有無ヲ問ハス毎回金拾銭宛ヲ
支出シ会費ニ充ツヘシ
第二十九條 費用ノ収支決算次年ノ総集会ニ於テ之レヲ報
告スルモノトス
第三十條 特別会員ハ積金ヲナシ及会費ヲ支出スルヲ要セス
第七章 準会員
第三十一條 準会員ハ特ニ設ケタル条項ノ外本規約ニ服従ス
ルノ義務アリトス但シ積立金ヲナスヲ要セス
第三十二條 準会員ハ会員同等ノ権利ヲ有スト雖モ選挙
権及被選挙権を有セス又議決ノ数ニ入ルヲ得ス
第三十三條 本会中ニ左ノ部会ヲ置ク
第一部会 (大島郡玖珂郡熊毛郡)
第二部会 (都膿郡佐波郡)
第三部会 (吉敷郡美祢郡阿武郡)
第四部会 (厚狭郡)
第五部会(豊浦郡大津郡赤間関市)
第三十四條 各部会ニ部長一名ヲ置キ一切ノ事務
ヲ処理セシム
選挙ハ第二十條第二十四條ノ例ニ拠リ選定
ノ上ハ之レヲ本会ニ報告スベシ
第三十五條 各部会ニ於テ此規約ニ本キ更ラニ周密
規約ヲ設クルヲ得ルヲ得ル但シ此場合ニ於テ
本会会長ヲ経テ第三條ノ手続ヲナスヘシ
第三十六條 各部会ニ於テ協議むし毎月金拾銭以下
ノ会費ヲ各員ヨリ徴収スルヲ得ル
第九章 雑則
第三十七條 部会ノ開会時日出席人名及議事
提要ハ其都度之レヲ郡役所及本会報
告スルモノトス
第三十八條 総集会ノ開会時日出席人名及議事
提要並ニ各部会ノ概況ハ毎年一回之レヲ県庁ニ
報告スルモノトス
第十章 謝儀規定
第三十九條 薬価及手術料等ハ左ノ規定ニ拠ルベシ
一、馬灸料 一ケ年極メ
此ハ郡村ノ習慣ニ由リ米三升乃至五升
若クハ金十五銭乃至四十銭ノ範囲内ヲ
以テ相定ムルモノトス
薬価
但シ牛馬ハ左表ノ金額羊豚及山羊
ハ三分ノ二犬猫ハ二分ノ一家兎及家
禽ハ三分ノ一トス
内服薬 一日量 拾弐銭
頓服薬 一回量 拾銭以上弐拾銭以下
点眼水 拾五瓦ニ付 三銭以上拾銭以下
外用水剤 二百瓦ニ付 五銭以上拾五銭以下
膏薬 三十瓦ニ付 五銭以上拾銭以下
油剤及擦剤 百瓦ニ付 拾銭以上弐拾銭以下
皮下注射薬 一回量 拾五銭以上弐拾銭以下
吸入薬 一日量 拾銭以上弐十五銭以下
潅腸薬 一回量 五銭以上弐拾銭以下
一外科手術
特別手術 三拾銭以上壱円以下
産科手術 五拾銭以上三円以下
一薬剤入器具及編帯ガーゼ等原価の二
一往診料診察料及小手術等ハ道路ノ遠
近手術難易ニヨリ応分ノ謝儀ヲ受クベシ
一診断書調製料ハ金五銭トス
明治廿四年
四月廿二日筆記ス
山口県獣医会規約
第一章 総則
第一條 本会ハ山口県獣医会ト称ス
第二條 本会ハ吉敷郡山口ニ設置ス
当分ノ内吉敷郡吉敷村中村資一方ニ
設ク
第三條 此規約ハ県庁ノ認可ヲ得テ履行スルモノナ
レハ自今改正追加ヲ要スル事項在ル時ハ亦此
手続ヲナス可シ
第二章 目的
第四條 本会ハ県内居住ノ獣医団結シテ其学術治療
ノ進歩改良及人畜衛生ノ普及を図ルカ為メニ設
クルモノトス
第三章 会員
第五條 会員ハ本県居住ノ獣医ヲ以テ組織ス
但シ斯道ニ熱心ナルモノハ会員二名以上ノ諾介ニヨリ
準会員タル事ヲ得ル
第六條 本会ノ旨義ヲ翼讃シ本会ニ裨益アルモノハ之
ヲ推撰シテ特別会員トナス事アル可シ
第七條 会員タラント欲スルモノハ幹事ニ通知シ会員簿ニ記名捺
印シ此規約ヲ団守ス可シ
第八條 本会ノ名誉ヲ毀損シ若クハ数々此規約ニ
背戻スルモノハ協議ノ上之レヲ退会セシム
第九條 会員中転居或ハ一ケ月以上ノ旅行ヲナス時ハ直ニ本
会ニ通知ス可シ
第十條 退会セントスルモノハ其事由ヲ詳記シ之レヲ幹事ニ請求
スベシ
但此場合ニ於テハ幹事ハ其件可否ヲ会議ニ諮ル
モノトス
第十一條 正当ノ事由ナクシテ退会スルヲ得ス
第四章 集会
第十二條 集会ヲ分ツテ総集会及部会ノ二種トナス総集会ハ総
会員ヲ以テ組織シ部会員ヲ以テ組織ス
第十三條 総集会ハ一ケ年一回部会ハ一ケ年四回開会スルモ
ノトス
但シ開会期日ハ総集会ニ在リテハ之レヲ県庁ニ
部会ニ在リテハ之ヲ所轄郡役所ニ予メ報告スルモノ
トス
第十四條 不得止事故アリテ集会ニ欠席セントスルモノハ予メ之レヲ届
出ヘシ
第十五條 各部会ニ於テ決シ難キ事項ハ之レヲ総集会ニ提
出ス可シ
第十六條 前条ノ他会員三名以上ノ請求アル時ハ部会
ヲ十五名以上若クハ二部会以上ノ請求アル時ハ総
集会ヲ臨時ニ開会スルヲ得
第十七條 総集会及部会ニ於テ左事項ヲ講気討議ス
一、獣医奥義ヲ改良スル事
二、獣医術ニ関スル内外ノ新説治験及各自ノ実
験其他総テ家畜ノ治療衛生ニ関之諸件
三、屠畜場搾乳ノ臨検管理及家畜伝
染病ノ如キ総テ家畜ノ公衆衛生ニ関係タ及之諸件
四、風土病伝染病ノ原因探求及其ノ予防法治
療法ニ係カル事件
五、牧畜事業に関スル学術実験等総テ
畜産ノ繁殖改良ニ係カハル諸件
第十八條 県庁及郡役所ヨリノ諮詢及会員中ヨリ
提出ノ問題ハ勿論総テ前条ニ記載スル事項
ハ会員外ノ質問ニ係ルモノト雖モ討究論議
スベシ
第五章 役員
第十九條 本会ニハ左ノ役員ヲ置ク
会長 一名
幹事 一名
書記 一名
第二十條 役員ハ投票ヲ以テ之レヲ定ム但書記ハ会
長ノ特撰トス
第二十一條 会長ハ一切ノ事務ヲ総轄シ議事アリテハ之
レカ議長トナル
但シ特別会員アル時ハ之レヲ推挙シテ議長職務ヲ
執ラシム
第二十二條 幹事ハ会長ノ助ケ一切ノ事務ヲ処理シ○○ヒ
会計事務ヲ担任ス会長事故アル時ハ之
レカ代理タルヲ得ル
第二十三條 書記ハ議事筆記及雑務ヲ担任ス
第二十四條 役員ノ任期ハ二年トス但薦再撰スルモ妨ナシ
第六章 積立金及会費
第二十五條 会員タラントスルモノハ其身分ヲ保証スル為メ入会ノ際
金三円ヲ積立爾后年々壱円弐拾銭宛総額弐
拾円ニ満ルマテ積立ヘシ但シ積立金ハ各部会於
テ之レヲ保管ス
第二十六條 積立金ハ貯金トナシ増殖ヲ計ル可シ
第二十七條 積立金ハ退会又ハ死亡ノ際ハ之レヲ返付ス可シ
但シ第八条及第十一条ニ該当スルモノハ返付セサルモノトスル
第二十八條 会員ハ出席ノ有無ヲ問ハス毎回金拾銭宛ヲ
支出シ会費ニ充ツヘシ
第二十九條 費用ノ収支決算次年ノ総集会ニ於テ之レヲ報
告スルモノトス
第三十條 特別会員ハ積金ヲナシ及会費ヲ支出スルヲ要セス
第七章 準会員
第三十一條 準会員ハ特ニ設ケタル条項ノ外本規約ニ服従ス
ルノ義務アリトス但シ積立金ヲナスヲ要セス
第三十二條 準会員ハ会員同等ノ権利ヲ有スト雖モ選挙
権及被選挙権を有セス又議決ノ数ニ入ルヲ得ス
第三十三條 本会中ニ左ノ部会ヲ置ク
第一部会 (大島郡玖珂郡熊毛郡)
第二部会 (都膿郡佐波郡)
第三部会 (吉敷郡美祢郡阿武郡)
第四部会 (厚狭郡)
第五部会(豊浦郡大津郡赤間関市)
第三十四條 各部会ニ部長一名ヲ置キ一切ノ事務
ヲ処理セシム
選挙ハ第二十條第二十四條ノ例ニ拠リ選定
ノ上ハ之レヲ本会ニ報告スベシ
第三十五條 各部会ニ於テ此規約ニ本キ更ラニ周密
規約ヲ設クルヲ得ルヲ得ル但シ此場合ニ於テ
本会会長ヲ経テ第三條ノ手続ヲナスヘシ
第三十六條 各部会ニ於テ協議むし毎月金拾銭以下
ノ会費ヲ各員ヨリ徴収スルヲ得ル
第九章 雑則
第三十七條 部会ノ開会時日出席人名及議事
提要ハ其都度之レヲ郡役所及本会報
告スルモノトス
第三十八條 総集会ノ開会時日出席人名及議事
提要並ニ各部会ノ概況ハ毎年一回之レヲ県庁ニ
報告スルモノトス
第十章 謝儀規定
第三十九條 薬価及手術料等ハ左ノ規定ニ拠ルベシ
一、馬灸料 一ケ年極メ
此ハ郡村ノ習慣ニ由リ米三升乃至五升
若クハ金十五銭乃至四十銭ノ範囲内ヲ
以テ相定ムルモノトス
薬価
但シ牛馬ハ左表ノ金額羊豚及山羊
ハ三分ノ二犬猫ハ二分ノ一家兎及家
禽ハ三分ノ一トス
内服薬 一日量 拾弐銭
頓服薬 一回量 拾銭以上弐拾銭以下
点眼水 拾五瓦ニ付 三銭以上拾銭以下
外用水剤 二百瓦ニ付 五銭以上拾五銭以下
膏薬 三十瓦ニ付 五銭以上拾銭以下
油剤及擦剤 百瓦ニ付 拾銭以上弐拾銭以下
皮下注射薬 一回量 拾五銭以上弐拾銭以下
吸入薬 一日量 拾銭以上弐十五銭以下
潅腸薬 一回量 五銭以上弐拾銭以下
一外科手術
特別手術 三拾銭以上壱円以下
産科手術 五拾銭以上三円以下
一薬剤入器具及編帯ガーゼ等原価の二
一往診料診察料及小手術等ハ道路ノ遠
近手術難易ニヨリ応分ノ謝儀ヲ受クベシ
一診断書調製料ハ金五銭トス
2008/01/23のBlog
[ 09:07 ]
陸軍獣医学校生徒採用試験問題
明治二十九年八月廿五日ヨリ同月三十日迄第五師団司令本部に於施行
解剖学第一問題
馬ニ於ケル胃壁ノ構造及之レニ分布スル動脈及神経ノ名称如何
解剖学第二問
頭蓋骨及顔面骨ヲ構成スル骨数及其名称を問フ
生理学第一問題
胆汁ノ作用ヲ問フ
生理学第二問題
草食獣肉食獣及雑食獣ノ尿ニ付キ其性質性分ノ相異ル点
ヲ記ルスヘシ
内科学第一問題
尿閉(馬ニ於ケル)ノ原因、症候、及ビ鑑別ヲ説明スベシ
内科学第二問題
喘鳴症ノ原因ヲ説明スベシ
外科学第一問題
交突違歩(脚交叉傷)ノ原因、症候、及察病ヲ説明スへシ
外科学第二問題
陰嚢水腫の察病及治療法ヲ説明スベシ
薬物学第一問題
樟脳ノ性状効用主治及其用量ヲ説明スベシ
薬物学第二問題
依的児ノ性状効用主治及其用量ヲ説明スベシ
病理解剖学第一問題
急性気管支炎ノ患部ヲ説明スヘシ
病理解剖学第二問題
脱臼ノ病的変状ヲ説明スヘシ
物理学第一問題
電気良導体及絶縁体ヲ問フ
物理学第二問題
圧力ト沸騰点ノ関係及其証明ヲ問フ
化学第一問題
分子ノ混合ト化合ノ別如何及各其一例ヲ示スベシ
化学第二問題
炭酸瓦斯ノ製法ヲ問フ
動物学第一問題
翼手類(蝙蝠類)ノ性質及其最大者ノ産地ヲ説明スベシ
動物学第二問題
動物分類及其一例ヲ説明スヘシ
植物学第一問題
根ノ主ナル作用ヲ問フ
植物学第二問題
禾本科植物ノ効用ヲ問フ
明治二十九年八月廿五日ヨリ同月三十日迄第五師団司令本部に於施行
解剖学第一問題
馬ニ於ケル胃壁ノ構造及之レニ分布スル動脈及神経ノ名称如何
解剖学第二問
頭蓋骨及顔面骨ヲ構成スル骨数及其名称を問フ
生理学第一問題
胆汁ノ作用ヲ問フ
生理学第二問題
草食獣肉食獣及雑食獣ノ尿ニ付キ其性質性分ノ相異ル点
ヲ記ルスヘシ
内科学第一問題
尿閉(馬ニ於ケル)ノ原因、症候、及ビ鑑別ヲ説明スベシ
内科学第二問題
喘鳴症ノ原因ヲ説明スベシ
外科学第一問題
交突違歩(脚交叉傷)ノ原因、症候、及察病ヲ説明スへシ
外科学第二問題
陰嚢水腫の察病及治療法ヲ説明スベシ
薬物学第一問題
樟脳ノ性状効用主治及其用量ヲ説明スベシ
薬物学第二問題
依的児ノ性状効用主治及其用量ヲ説明スベシ
病理解剖学第一問題
急性気管支炎ノ患部ヲ説明スヘシ
病理解剖学第二問題
脱臼ノ病的変状ヲ説明スヘシ
物理学第一問題
電気良導体及絶縁体ヲ問フ
物理学第二問題
圧力ト沸騰点ノ関係及其証明ヲ問フ
化学第一問題
分子ノ混合ト化合ノ別如何及各其一例ヲ示スベシ
化学第二問題
炭酸瓦斯ノ製法ヲ問フ
動物学第一問題
翼手類(蝙蝠類)ノ性質及其最大者ノ産地ヲ説明スベシ
動物学第二問題
動物分類及其一例ヲ説明スヘシ
植物学第一問題
根ノ主ナル作用ヲ問フ
植物学第二問題
禾本科植物ノ効用ヲ問フ
2007/12/19のBlog
[ 20:30 ]
粉川僧正
KOKAWA SOJO (生没年不詳)
生没年不詳. 「安西流馬医絵巻」 [寛政5年(1464)]の末尾の系統に,天竺・馬鳴菩薩-大唐・三蔵法師-日本・粉川僧正と記されている。 「壒嚢抄」 〔文安2-3年(1445-1446)]に"馬薬師”を伯楽と云何ぞ,是古人の名なり. ・・・文選には張里をむまくすしとよめり。 ・・・近頃は小河の乗澄こそ無双の伯楽にて安驥という名書を作られけるなり"とある。 江戸時代の「療馬元鑑集」 (承応元年1652)に"武州聴鼻和の住人.安西播磨守平朝臣 右安西古河の僧正の末孫とある。鎌倉時代の「粉河寺縁起」 (国宝)・和歌山県に粉川寺がある.先年,参拝して,粉川僧正についてお尋ねしたが,不詳のままである.。
松尾信一 (MATSUO Shinichi)
以上,「日本獣医学人名事典」をスキャナーで読み「読んでココ」でテキスト化した.以下はネット上に公開されている記述の一部分である.観光施設に参拝して,学術的なお尋ねをするのはいかがなものか・・・市の観光課へでも問い合わせた方がよっぽどまともな答えが出る. 「壒嚢抄」 〔文安2-3年(1445-1446)]は原本であろうか?活字復刻本なら書名・刊年・出版社を明らかにすべきであろう.天竺・馬鳴菩薩-大唐・三蔵法師-日本・粉川僧正とあるのが偽者の証拠.
歴史
草創の縁起は『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年 (770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一 人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見て みると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手 千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と 緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。清少納言の『枕草子』にも、「寺は石山、粉河、滋賀」と言及されており、平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三箇所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損した。正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の江戸時代の再建である。
大門から南に約1km続くJR粉河駅前通は、門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。
KOKAWA SOJO (生没年不詳)
生没年不詳. 「安西流馬医絵巻」 [寛政5年(1464)]の末尾の系統に,天竺・馬鳴菩薩-大唐・三蔵法師-日本・粉川僧正と記されている。 「壒嚢抄」 〔文安2-3年(1445-1446)]に"馬薬師”を伯楽と云何ぞ,是古人の名なり. ・・・文選には張里をむまくすしとよめり。 ・・・近頃は小河の乗澄こそ無双の伯楽にて安驥という名書を作られけるなり"とある。 江戸時代の「療馬元鑑集」 (承応元年1652)に"武州聴鼻和の住人.安西播磨守平朝臣 右安西古河の僧正の末孫とある。鎌倉時代の「粉河寺縁起」 (国宝)・和歌山県に粉川寺がある.先年,参拝して,粉川僧正についてお尋ねしたが,不詳のままである.。
松尾信一 (MATSUO Shinichi)
以上,「日本獣医学人名事典」をスキャナーで読み「読んでココ」でテキスト化した.以下はネット上に公開されている記述の一部分である.観光施設に参拝して,学術的なお尋ねをするのはいかがなものか・・・市の観光課へでも問い合わせた方がよっぽどまともな答えが出る. 「壒嚢抄」 〔文安2-3年(1445-1446)]は原本であろうか?活字復刻本なら書名・刊年・出版社を明らかにすべきであろう.天竺・馬鳴菩薩-大唐・三蔵法師-日本・粉川僧正とあるのが偽者の証拠.
歴史
草創の縁起は『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年 (770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一 人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見て みると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手 千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と 緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。清少納言の『枕草子』にも、「寺は石山、粉河、滋賀」と言及されており、平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三箇所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損した。正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の江戸時代の再建である。
大門から南に約1km続くJR粉河駅前通は、門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。
2007/12/05のBlog
[ 19:18 ]
狂犬病血清療法
古来,狂犬の咬傷は,特に療法なしといふ難病なりしが,それも,今日より見れば,甚だ浅薄のものに過ぎず,明治六年十月発行[医雑]第一号の予防記事の如きこれなり,云く,(一)犬を飼ふことを減ず,(二)官吏巡視,(三)犬主に諭す,(四)病犬を訴ふ,(五)犬屍を埋む,の五条これなり,栗本博士のワクチン治療の的確なるが如きは,未だ夢想も及ばざりし也,以下当時第五高等学校教授,長崎病院内科医長,栗本東明の業績を記さん.
明治二十六年三月二十三日,長崎市に狂犬発生し,次て各所にも流行して,咬まれたる者は皆死亡せり.最も当時の治療法は,パクレーンの焼灼器にて灼く暗いの治療等に過ぎざりしなり.
同年四月二十一日,狂犬病を発せし一狂犬の有しを幸いに栗本氏之を撲殺して解剖し,其脳を取り,翌二十二日午前十一時,二匹の家兎の脳中に種えて,病毒の有無を試験せり.
然るに其仲一匹の兎は,十一日間の潜伏期を経て,五月三日に発病せり,即ち後足に麻痺を起し,歩けぬやうになり,其日の午後六時五十五分に斃れたり.其兎を六日に再び解剖して,其病毒を又外の二匹の兎に種えみたるに,何れも同一の症状を発し,それより兎より兎に,段々種え行けるに何れも同症にて斃れたり.
試験の結果にて,慥に病毒の兎に感ずることを慥かめたるが,此狂犬病に罹りしに患者を助けるには,只仏蘭西パスターの注射法より外に有ざるを以て,此注射法にて多数の患者を救はんと志せり.併し,注射法は,如何なる風にてやりおるか知れざりしが,先ず家畜に行ふより外なしと決心し,最初は其病毒を極弱くして,健康の兎に注射し,それより段々病毒の量を増して,其極度まで注射し試みたり.然るに,予想の如く,一向発病せざりし.因て,元来健康体の兎に,初めより強き病毒を注射する時は,必ず発病すれども,弱き病毒より漸く強きに移る時は,発病せざることを,慥かめたり.ここに於て,此方法にて行へば,人類も病毒を予防し得べしと信じたり.
かゝる間に,明治二十七年の春となり,研究の目的は達したれども,長崎市には狂犬患者を絶ちたり.然るに,其夏に至り,福岡県博多の井上良助といふ者,狂犬に咬まれ,東京を捜したれども治療の道なく,西洋に往きて治療を受けんとするも,親戚の許さざるにて当惑せしが,適々栗本氏のことを聞き,治療を依頼せり.よりて,同年の夏に,栗本氏が,始めて人体に注射を行ひたり.然るに,其成績善くして,発病せずに還りたるが,日本狂犬病注射治療の嚆矢なり.
其後二十八九年には,長崎県島原,福岡県三池町,同県善導寺村等に狂犬発生し,死亡する者も多かりしが,同氏の治療を受けたる者は,何れも好結果にて生命を拾ひたり.二十九年七月,西比利亞の判事と商人と,狂犬に咬まれ,東京に出でて治療を受けんと来航せしが,却て栗本氏の治療の効あることを長崎にて聞き,遂に同地の領事の紹介にて,治療を受けしが,全治帰国せりき.其後同氏は此注射法にて内外人を救ひたることは,僂指するに遑なきほどなり.明治事物起源・第十三編・病医部
古来,狂犬の咬傷は,特に療法なしといふ難病なりしが,それも,今日より見れば,甚だ浅薄のものに過ぎず,明治六年十月発行[医雑]第一号の予防記事の如きこれなり,云く,(一)犬を飼ふことを減ず,(二)官吏巡視,(三)犬主に諭す,(四)病犬を訴ふ,(五)犬屍を埋む,の五条これなり,栗本博士のワクチン治療の的確なるが如きは,未だ夢想も及ばざりし也,以下当時第五高等学校教授,長崎病院内科医長,栗本東明の業績を記さん.
明治二十六年三月二十三日,長崎市に狂犬発生し,次て各所にも流行して,咬まれたる者は皆死亡せり.最も当時の治療法は,パクレーンの焼灼器にて灼く暗いの治療等に過ぎざりしなり.
同年四月二十一日,狂犬病を発せし一狂犬の有しを幸いに栗本氏之を撲殺して解剖し,其脳を取り,翌二十二日午前十一時,二匹の家兎の脳中に種えて,病毒の有無を試験せり.
然るに其仲一匹の兎は,十一日間の潜伏期を経て,五月三日に発病せり,即ち後足に麻痺を起し,歩けぬやうになり,其日の午後六時五十五分に斃れたり.其兎を六日に再び解剖して,其病毒を又外の二匹の兎に種えみたるに,何れも同一の症状を発し,それより兎より兎に,段々種え行けるに何れも同症にて斃れたり.
試験の結果にて,慥に病毒の兎に感ずることを慥かめたるが,此狂犬病に罹りしに患者を助けるには,只仏蘭西パスターの注射法より外に有ざるを以て,此注射法にて多数の患者を救はんと志せり.併し,注射法は,如何なる風にてやりおるか知れざりしが,先ず家畜に行ふより外なしと決心し,最初は其病毒を極弱くして,健康の兎に注射し,それより段々病毒の量を増して,其極度まで注射し試みたり.然るに,予想の如く,一向発病せざりし.因て,元来健康体の兎に,初めより強き病毒を注射する時は,必ず発病すれども,弱き病毒より漸く強きに移る時は,発病せざることを,慥かめたり.ここに於て,此方法にて行へば,人類も病毒を予防し得べしと信じたり.
かゝる間に,明治二十七年の春となり,研究の目的は達したれども,長崎市には狂犬患者を絶ちたり.然るに,其夏に至り,福岡県博多の井上良助といふ者,狂犬に咬まれ,東京を捜したれども治療の道なく,西洋に往きて治療を受けんとするも,親戚の許さざるにて当惑せしが,適々栗本氏のことを聞き,治療を依頼せり.よりて,同年の夏に,栗本氏が,始めて人体に注射を行ひたり.然るに,其成績善くして,発病せずに還りたるが,日本狂犬病注射治療の嚆矢なり.
其後二十八九年には,長崎県島原,福岡県三池町,同県善導寺村等に狂犬発生し,死亡する者も多かりしが,同氏の治療を受けたる者は,何れも好結果にて生命を拾ひたり.二十九年七月,西比利亞の判事と商人と,狂犬に咬まれ,東京に出でて治療を受けんと来航せしが,却て栗本氏の治療の効あることを長崎にて聞き,遂に同地の領事の紹介にて,治療を受けしが,全治帰国せりき.其後同氏は此注射法にて内外人を救ひたることは,僂指するに遑なきほどなり.明治事物起源・第十三編・病医部
2007/12/02のBlog
[ 20:20 ]
昭和十九年・春陽堂刊の『明治事物起源』上下二巻をフリーマーケットにて入手.表紙の傷みはあるが,殆ど開かれた事の無いもので,紙質が悪いのにもかかわらず,中身の状態は極めて良好である.上巻には一部修理の跡と,綴じ糸切れがあったため,修理し,表紙を作り直した.価格は一冊千円,上下二巻で二千円.獣医教育の始めは下巻の九八二頁に記載がある.外国人獣医教師は,英国人のジョン.アダム.マックブライトである.
2007/10/19のBlog
[ 20:51 ]
塵添壒嚢抄の馬・馬医関連の記載
巻第三[四十八]馬守事・猿と馬櫪神
四十九 馬尺の事
五十 タリの事
五十一 カコの事
巻第五[十] 餌取の事
巻第八[三十九]駄の事
四十 猿為馬守事
巻第十[四十九]一疋と云う事
五十 伯楽の事.付張里事.小河乗澄安驥秘薬の事
人倫訓蒙図彙 元禄初期に刊行 馬乗 馬医・白楽
和漢三才図会 寺島良安著 馬医・うまのいしゃ 伯楽.博労は売買する人
巻第三[四十八]馬守事・猿と馬櫪神
四十九 馬尺の事
五十 タリの事
五十一 カコの事
巻第五[十] 餌取の事
巻第八[三十九]駄の事
四十 猿為馬守事
巻第十[四十九]一疋と云う事
五十 伯楽の事.付張里事.小河乗澄安驥秘薬の事
人倫訓蒙図彙 元禄初期に刊行 馬乗 馬医・白楽
和漢三才図会 寺島良安著 馬医・うまのいしゃ 伯楽.博労は売買する人
2007/10/14のBlog
[ 20:10 ]
△馬薬師ヲ伯楽ト云何ソ文字如何,伯楽ト書ク。是古人ノ名也。昔漢朝ノ七雄戦国ノ時ノ馬ヲ相スル人ト也.故ニ日本ニモ。馬薬師ヲ伯楽ト云也.又伯楽ハ元ヨリ星ノ名也.・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小河ノ乗澄(コカハノセウテウ) コソ無双ノ伯楽ニテ安驥ト云名書ヲ作ラレケル也.彼文頗フル名物ナレハ,甲乙飼エトカイノ秘薬許リ注シ侍リ・・・
塵添壒嚢抄 天文元年 一五三一年 釈氏某比丘
文安三年 一四四六年 觀勝寺 金剛佛子 行譽
大日本仏教全書 昭和七年二月廿日発行 編纂代表者・高楠順次郎,望月信亨 潮書房
非売品
小河ノ乗澄(コカハノセウテウ) コソ無双ノ伯楽ニテ安驥ト云名書ヲ作ラレケル也.彼文頗フル名物ナレハ,甲乙飼エトカイノ秘薬許リ注シ侍リ・・・
塵添壒嚢抄 天文元年 一五三一年 釈氏某比丘
文安三年 一四四六年 觀勝寺 金剛佛子 行譽
大日本仏教全書 昭和七年二月廿日発行 編纂代表者・高楠順次郎,望月信亨 潮書房
非売品
2007/10/11のBlog
[ 19:45 ]
獣医東洋医学の復活と新たなる門出を祝して 本好 茂一(名誉会長)
わが国の医療は東洋医学から始まった
わが国の機構は大化の改新(645年)を境に急速に体系化された。古代中国秦漢の時代から神仙思想として不老長寿の法が説かれ針灸の術が病気の予 防治療として行われていた。病気の原因を陰陽の不調と考えてきた。天地萬物すべて陰陽の支配をうけ、天は陽、地は陰、五臓が陰で六腑が陽、上半身が陽で、 下半身が陰、皮膚が陽で内臓は陰、そして陰陽の不調が病気の原因とされていた。中国黄河流域の北方民族では北は不毛の地が多く、針灸が発達した。西域や揚 子江附近で発達した傷寒論は冥想的な内容が少く、西域はインドとの交通が開けインド医学が伝わり、南方の薬用動植物や礦物が入り、また導引という体操療法 も発達していた。
わが国への東洋医療は外来文化の一部として始まった。414年朝鮮からの金武が允恭天皇の病気平癒につとめた。495年高麗の徳来が、そして 562年百濟より呉の国出身の知聡が、薬方書164巻を携えて来日した。その中に神農本草経集注があり、牛乳の薬効も書かれていた。知聡の子善那が牛乳を 孝徳天皇に献上した(645年)。これにより大和薬使主の姓と福常の名を賜った。595年高句麗から慧慈が来朝、聖徳太子に馬医術を伝え、これが太子流と 云われ定着していた。607年小野妹子が遣隋使として派遣され、同時に医学留学生恵日と福因が同行し、針灸修行のため15年間滞在した。
西洋獣医療とわが国の関わり
1158年 イタリア、ボローニアに世界初の大学、ここで人体解剖が行われた。(初の人体解剖は紀元前300年、Herophilusは十二指腸、前立腺の名称を残す)
1543年 ポルトガル船が種子島に、この後南蛮医学を持ち込み、大友宗麟が西洋医療院をわが国ではじめて建てた。1600年オランダ船が臼杵沖で難破。ヤン・ヨーステン(彼の住居が後に八重洲と名づけられた)とウィリアム・アダムスは家康の外交顧問になる。
1603年 桑島流馬医橋本道派は加藤清正の家来が朝鮮より持ち帰った版木で、『仮名安驥集』をはじめての印刷馬医術書として翻訳をし出版した。
1725年 8代将軍吉宗はペルシャ馬を輸入、同行の調馬師ハンス・ユルゲン・ケイゼルがオランダ馬療治の本とオランダ本草の2著を献上、今村源右ェ門が5年かけて翻訳、国立公文書館に収納。実に解体新書の翻訳に先立つこと44年も以前のことである。
1762年 フランス、リヨンに世界初の獣医学校創立(現在は音楽院となっている)。
1853年 ペリー、品川沖に来航、1854年幕府は開港した函館では外人の求めがあれば牛肉の販売許可。
1862年 横浜根岸で外人居留民による競馬施行(同年生麦事件)。
1871年 日本に陸軍、海軍の創設。馬の改良と増殖が国是となる。
1873年 北海道開拓使黒田清隆が米大統領グラント将軍に牛(乳・肉用)とめん羊の導入を依頼、同行のエドウィン・ダンが来日後に札幌農学校真駒内農場で実地指導さらに後年米国公使となり活躍。
1874年 内藤新宿に大久保利通が農事修学場を計画、 ‘76年英人マック・ブライド獣医学教師着任(東京農工大の前身)。
1878年 駒場農学校創立、1月24日明治天皇行幸し勅語を賜わる。(現東大農学部)
1880年 独元軍人ヤンソン教師(獣医学)着任。
1881年 私立獣医学校小石川護国寺に開校(現日獣大)。
1885年 太政官布告により獣医師法制定。
1992年 獣医師法の改正により始めてその目的が定められ獣医療法も制定された。
わが国の医療は東洋医学から始まった
わが国の機構は大化の改新(645年)を境に急速に体系化された。古代中国秦漢の時代から神仙思想として不老長寿の法が説かれ針灸の術が病気の予 防治療として行われていた。病気の原因を陰陽の不調と考えてきた。天地萬物すべて陰陽の支配をうけ、天は陽、地は陰、五臓が陰で六腑が陽、上半身が陽で、 下半身が陰、皮膚が陽で内臓は陰、そして陰陽の不調が病気の原因とされていた。中国黄河流域の北方民族では北は不毛の地が多く、針灸が発達した。西域や揚 子江附近で発達した傷寒論は冥想的な内容が少く、西域はインドとの交通が開けインド医学が伝わり、南方の薬用動植物や礦物が入り、また導引という体操療法 も発達していた。
わが国への東洋医療は外来文化の一部として始まった。414年朝鮮からの金武が允恭天皇の病気平癒につとめた。495年高麗の徳来が、そして 562年百濟より呉の国出身の知聡が、薬方書164巻を携えて来日した。その中に神農本草経集注があり、牛乳の薬効も書かれていた。知聡の子善那が牛乳を 孝徳天皇に献上した(645年)。これにより大和薬使主の姓と福常の名を賜った。595年高句麗から慧慈が来朝、聖徳太子に馬医術を伝え、これが太子流と 云われ定着していた。607年小野妹子が遣隋使として派遣され、同時に医学留学生恵日と福因が同行し、針灸修行のため15年間滞在した。
西洋獣医療とわが国の関わり
1158年 イタリア、ボローニアに世界初の大学、ここで人体解剖が行われた。(初の人体解剖は紀元前300年、Herophilusは十二指腸、前立腺の名称を残す)
1543年 ポルトガル船が種子島に、この後南蛮医学を持ち込み、大友宗麟が西洋医療院をわが国ではじめて建てた。1600年オランダ船が臼杵沖で難破。ヤン・ヨーステン(彼の住居が後に八重洲と名づけられた)とウィリアム・アダムスは家康の外交顧問になる。
1603年 桑島流馬医橋本道派は加藤清正の家来が朝鮮より持ち帰った版木で、『仮名安驥集』をはじめての印刷馬医術書として翻訳をし出版した。
1725年 8代将軍吉宗はペルシャ馬を輸入、同行の調馬師ハンス・ユルゲン・ケイゼルがオランダ馬療治の本とオランダ本草の2著を献上、今村源右ェ門が5年かけて翻訳、国立公文書館に収納。実に解体新書の翻訳に先立つこと44年も以前のことである。
1762年 フランス、リヨンに世界初の獣医学校創立(現在は音楽院となっている)。
1853年 ペリー、品川沖に来航、1854年幕府は開港した函館では外人の求めがあれば牛肉の販売許可。
1862年 横浜根岸で外人居留民による競馬施行(同年生麦事件)。
1871年 日本に陸軍、海軍の創設。馬の改良と増殖が国是となる。
1873年 北海道開拓使黒田清隆が米大統領グラント将軍に牛(乳・肉用)とめん羊の導入を依頼、同行のエドウィン・ダンが来日後に札幌農学校真駒内農場で実地指導さらに後年米国公使となり活躍。
1874年 内藤新宿に大久保利通が農事修学場を計画、 ‘76年英人マック・ブライド獣医学教師着任(東京農工大の前身)。
1878年 駒場農学校創立、1月24日明治天皇行幸し勅語を賜わる。(現東大農学部)
1880年 独元軍人ヤンソン教師(獣医学)着任。
1881年 私立獣医学校小石川護国寺に開校(現日獣大)。
1885年 太政官布告により獣医師法制定。
1992年 獣医師法の改正により始めてその目的が定められ獣医療法も制定された。
2007/09/30のBlog
[ 20:15 ]
昭和十九年三月インパール作戦開始.六月サイパン島に米軍上陸,マリアナ沖海戦で日本敗れる.七月サイパン島日本軍全滅・・・十一月東京初空襲・・・昭和十九年九月に「日本獣医学史」が発行された.敗戦の前の年の事である.この書は昭和三年に発行された帝国競馬協会編「日本馬政史」編纂の際に集められた資料を基に作られたと考えられる.出版社は文栄堂,不許複製・非買品の「日本馬政史」を復刻販売した出版社と同名である.
[ 20:08 ]
父 の こ と 白 井 厚
私はこれまで父のことを書いたことがない。父は経済学にも思想史にも慶応義塾にも全く関係がなく、語る機会もなかったのである。しかし私がよく覚えているころの父の年齢に自分も達しでくると、私は父のどこに似て、どこが違うのかなどと、ときに思うようになってきた。
父は今八十八歳で、名は白井恒三郎という。千葉県安房郡吉尾村に明治三二(一八九九)年一月八日、白井大吉の長男として生まれた。父の祖父直平は、郷士で牛の売買をする博労(伯楽)だった。秋山六三郎編「安房郡畜産史」(御大典記念出版、安房郡畜牛畜産組合発行、一九三八)には.直平らが明治二六年ころに安房郡畜産会を創立したこと(四一頁)明治二四年に不正牛馬商に乗せられないように安房牛馬売買営業者仝業市場を開設したこと(五七頁)、大正二(一九一三)年に畜牛畜産組合から功労者として表彰されたこと(七八頁)が記されている。直平はホルスタイン種の牛を買付けるために、はるばるアメリカへ渡ったという話を聞いたことがあるが、この本にはその記述はない。
その子大吉(私の祖父)は、大胆で能弁だったといわれ、十五歳で北海道へ渡り、金をもうけて房州に帰ってきた。その金で田舎銀行を設立したが失敗して倒産、親類にもずいぶん迷惑をかけたようで北海道に戻ってしまい、のち山形県米沢に移り牛を飼って手広く牛乳を売り、革新派として若い人たちにかつがれて米沢市会議員になった.よそ者でありながら多少の功あり、胸像を建てる話もあったという。私は大吉には晩年会っただけだが、若い時は色白のハンサムで、家来を引きつれて東北の街道を歩く姿は義経のようだったと近親は開かせてくれた。
私の父は、この落人義経公のとばっちりを受けたようである。銀行倒産で故郷におられず、父も北海道まで落ちのび、札幌で小学校を出ると鉄道局教習科に入って貨物列車の乗務員になった。お金に縁がないことと、母を早く失い大吉が後妻を迎えたための孤独が、父の一生の特徴である。継母とも大吉とも合わなかったようで、長男でありながら大吉から離れ、政治家肌の大吉に対して父は学者肌になり、成長期に家庭の団欒の味を知らず、また求めようともしなかった。大吉が米沢で亡くなった時は私が父の代りに葬儀に列席し、父の命に従って遺産相続をすべて放棄してきた.
大正三年,十五歳のとき父は東京獣医学校本科に入った.博労や畜産が家業だったためである。今の高校生の年で専門の獣医学の勉強は難しかったと思うが、父は漢文を修めていたので修学には事欠かなかったという。獣医師の免許を得、これが父の生涯の職業である.しかし臨床経験は少なかった.米沢で父の牧場経営を助けたあと、大正一二年、二十四歳のときに北海道に戻り、北海道帝国大学農学部畜産学科第二部(今の獣医学部)で実験動物係に雇われた。この時の助教授が、日本の癌研究史では著名な市川厚一博士で、父は彼の指示で家兎の耳の内側にせっせとコールタールを塗って発癌実験を行った。私の名前はこの市川厚一から取ったのだということを、私の耳にもタコができるくらい開いている。
父は実験係をしながら暇があれば畜産学科の科目を聴講.父には十五歳で入学した獣医学校の学歴しかないのだが、帝大レベルの勉強をしたという自信をもったようである。その学識?を土産に帰京し、獣医ジャーナリストとしての職歴を中央で開始した。英独仏の語学も独習し、まずは努力家といってもよいであろう。内外の研究論文を抄録したり、獣医師法制定の論陣を張ったり、編集した雑誌は、「現代の獣医」「 装蹄と畜産」「臨床獣医学新報」「応用獣医学雑誌」「中央獣医会
雑誌」「乳牛の研究」「東亜有畜農業」「畜産と獣医」「日本獣医師会報誌」「綜合獣医学雑誌」「角笛」「獣医畜産新報」など数多い。私も学会雑誌の編集などをわりと喜んでやっているのは、この父の血を受けているせいかもしれない。
しかしいうまでもなく、父の時代は軍国主義と敗戦の悲劇に見舞われていた。父の時代に獣医で威張っていたのは、陸軍の獣医将校と帝大の獣医学教授である。当時の陸軍では軍馬が重要な戦力であり、騎兵部隊のみならず輪送用にも軍馬は不可欠であった。馬上ゆたかな軍人はあこがれの的で、戦力増強のために強い軍馬はなによりも貴重。戦場で軍馬の傷や病気を治す獣医将校は、赤紙一枚でい-らでも補充できる兵隊を治す軍医よりも、ときには重要視されたかもしれない。獣医将校の最高位は中将だが、将校になる道を閉ざされていた父も、獣医将校を示す紫色の襟章には強いあこがれを抱いていた。そして紫の襟章がつけられないなら、せめて大陸に渡り満蒙の新天地に大牧場を経営して大日本帝国に貢献しようと、本気で夢みていたようである。もしこの物騒な夢が実現し満州に居を移していたなら、私は今ごろ中国残留孤児となって父を探していることであろう。
幸いこの夢ははかなく消えて、父は学界の方へ近づいた。昭和三(一九二八)年、二十九歳のとき東京帝国大学農学部家畜内科学教室に板垣四郎博士を訪れ、その助手となった。こうして学界にも知人が多くなり、父は日本獣医師会、東京府獣医師会などでも仕事を得、東京都獣医師会では副会長や会長代理をつとめた。ほとんど学歴もないのに歳を重ねると皆に先生と呼ばれていたのは、まめに筆をとって獣医師の地位向上のために論陣を張り、また獣医師会で世話役をやっていたからであろう。東京高等獣医学校(旧制)の講師として、教壇に立ったこともある。一九七六年十二月九日に父の喜寿祝賀会が行われるというので神田の学士会館に行ってみたら、日本学術会議会長、大学総長など大勢の友人百五十人以上が集まる盛会に、いささか驚いた。すでに一九六七年に父は麻布獣医科大学から「日本獣医学史」の研究で獣医学博士の学位を得ており、白井博士と呼ばれて嬉しそうであった.父の学位取得は私が慶大から経済学博士の学位を得る数か月前で、父は息子に遅れを取ることはなかったのである。
それどころか、著作の数でもまだ私は父に遥かに及ばない。国立国会図書館のカードでも父の著書の方が多いし,アメリカやカナダの大図書館にも、私の学位論文はないが父の「日本獣医学史」はある(これは慶大も所載).ちなみに父の編・著書には次のようなものがある。(父は多少の茶目気があったのか「紅白」というおめでたいペンネームを使った。本名で書いたのは学位論文「日本獣医学史」だけである。)
「通俗家畜産婆の手引」明文堂、一九三〇
「獣医師獣医手装蹄師国家就叔開港集L市瀬卯木と共編、田辺書房、一九三〇、
増補版一九四三
「毛皮の鞣し方と製革法」田辺一雄と共編、田辺書房、一九三一
「獣医師関係法親と其の解釈」編著、文永堂書店、一九三三、増補版1九四〇
「獣医師法発布の前後】東京府獣医師会、一九三三
「獣医師法とその解釈】東京府獣医師会、一九三三
『畜産関係民間用語集」編集、田辺書房、一九三三、増補版一九四〇
「「犬の趣味」物語」田辺書房一九三四
「趣味と実益育牛宝函]日本畜産研究会、一九三五
「獣医畜産関係文献集」編著、興文社、一九三六
「鳥利用有畜農業論」東京府獣医師会、一九三六
「家畜の法医学」文永堂書店、一九三九、増補版一九四1
「簡明家畜小生理学」文永堂書店、一九四〇
「簡明明家畜小薬理学」文永堂書店、一九四一
「簡明家畜小病理学総論」文永堂書店、一九四二
「簡明家畜小病理解剖学」文永堂書店、一九四二
「簡明家畜小産科学」文永堂書店、一九四三
「研究集録 馬の飼養と疾病」明文堂、一九四三
「簡明畜産学」文永堂書店、一九四三
「装帝学及蹄病学」獣医学書刊行会、一九四四
「日本獣医学史」文永堂書店、一九四四、復刻版一九七九
「家畜衛生関係法規集」大塚一矩と合輯、畜産獣医出版協会、一九四六
「研究集録 牛の飼養と疾病」畜産獣医出版協会、一九四六
「研究集録 締羊の飼養と疾病」畜産獣医出版協会、一九四六
「家畜診療医典」畜産獣医出版協会、一九四六
「獣医師国家試験手引」編著、畜産獣医出版協会、一九四七
「酪農と牛乳」田辺書房、一九四七
「研究集録 豚の飼養と疾病」畜産獣医出版協会、一九四八
「研究集録 山羊の飼養と疾病」角笛社、一九四八
「家畜伝染病予防法関係法規」編著、角笛社、一九四八
「調査 馬の伝染性貧血及び流産菌症の診断基準」(日本獣医師会研究報告六)
畜産獣医出版協会、一九四八
「価名家畜糞帝学及蹄病学」文永堂書店、一九四八
執筆に忙しかったこともあって、父はあまり家庭的な人間ではない。親に可愛がられた経験がないためか、子供との関係は淡々たるものであった。私は小さい時に父と大宮公園などをよく散歩した思い出はあるが、特に父になにか相談したというような経験はない。受験や就職や結婚のときも、心配するのは母の方で、父は一向に関心を示さなかった。私の姉が亡くなった時にもさして動揺を示さず、頑固な性質もあって「冷たい」と取られた面もある。戦前は貞淑に父に仕え、戦後は女性の権利に目覚め、家で支配権を獲得した母は、「あの人は実母に早く死なれたので人の暖かさを知らず可哀そうな人だ」とよく言っていた。獣医界という狭い社会で学歴もなく一家を支えるのは大分苦労だったようで、人と争わねばならぬことも多かったと聞く。
しかし私は父と異なる道へ進んだためもあって、父の無関心をいいことに全く自分の考えだけで好きなことをやってきた.思想史における偉大な人物を調べてみると、尊徳、子規、諭吉、兆民、秋水、小泉、ムハンマド、スミス、ヒユーム、ダランベール、ジェファスン、ドストエフスキィ、エマスン、ペスタロッチ、シュンペーター、ラッセル、フリードマン、魯迅など、いずれも父を早く失っている。これはひとつには、父の存在が重いと子供が伸びられないこと、父がいないと子供は早くから自立の習慣を身につけることによるのであろう。したがって、父親はなるべく早くいなくなった方がよいのかもしれない (娘の場合は父親の存在が娘を伸ばす場合が多い)。しかしやはり親はいつまでも元気でいて欲しい。してみると私の父は、子供に対して全く干渉することなき一生を送り、しかもなお長寿を保っているのだから、私にとってはまさに「最高の父親」というべきであろう。
私はこれまで父のことを書いたことがない。父は経済学にも思想史にも慶応義塾にも全く関係がなく、語る機会もなかったのである。しかし私がよく覚えているころの父の年齢に自分も達しでくると、私は父のどこに似て、どこが違うのかなどと、ときに思うようになってきた。
父は今八十八歳で、名は白井恒三郎という。千葉県安房郡吉尾村に明治三二(一八九九)年一月八日、白井大吉の長男として生まれた。父の祖父直平は、郷士で牛の売買をする博労(伯楽)だった。秋山六三郎編「安房郡畜産史」(御大典記念出版、安房郡畜牛畜産組合発行、一九三八)には.直平らが明治二六年ころに安房郡畜産会を創立したこと(四一頁)明治二四年に不正牛馬商に乗せられないように安房牛馬売買営業者仝業市場を開設したこと(五七頁)、大正二(一九一三)年に畜牛畜産組合から功労者として表彰されたこと(七八頁)が記されている。直平はホルスタイン種の牛を買付けるために、はるばるアメリカへ渡ったという話を聞いたことがあるが、この本にはその記述はない。
その子大吉(私の祖父)は、大胆で能弁だったといわれ、十五歳で北海道へ渡り、金をもうけて房州に帰ってきた。その金で田舎銀行を設立したが失敗して倒産、親類にもずいぶん迷惑をかけたようで北海道に戻ってしまい、のち山形県米沢に移り牛を飼って手広く牛乳を売り、革新派として若い人たちにかつがれて米沢市会議員になった.よそ者でありながら多少の功あり、胸像を建てる話もあったという。私は大吉には晩年会っただけだが、若い時は色白のハンサムで、家来を引きつれて東北の街道を歩く姿は義経のようだったと近親は開かせてくれた。
私の父は、この落人義経公のとばっちりを受けたようである。銀行倒産で故郷におられず、父も北海道まで落ちのび、札幌で小学校を出ると鉄道局教習科に入って貨物列車の乗務員になった。お金に縁がないことと、母を早く失い大吉が後妻を迎えたための孤独が、父の一生の特徴である。継母とも大吉とも合わなかったようで、長男でありながら大吉から離れ、政治家肌の大吉に対して父は学者肌になり、成長期に家庭の団欒の味を知らず、また求めようともしなかった。大吉が米沢で亡くなった時は私が父の代りに葬儀に列席し、父の命に従って遺産相続をすべて放棄してきた.
大正三年,十五歳のとき父は東京獣医学校本科に入った.博労や畜産が家業だったためである。今の高校生の年で専門の獣医学の勉強は難しかったと思うが、父は漢文を修めていたので修学には事欠かなかったという。獣医師の免許を得、これが父の生涯の職業である.しかし臨床経験は少なかった.米沢で父の牧場経営を助けたあと、大正一二年、二十四歳のときに北海道に戻り、北海道帝国大学農学部畜産学科第二部(今の獣医学部)で実験動物係に雇われた。この時の助教授が、日本の癌研究史では著名な市川厚一博士で、父は彼の指示で家兎の耳の内側にせっせとコールタールを塗って発癌実験を行った。私の名前はこの市川厚一から取ったのだということを、私の耳にもタコができるくらい開いている。
父は実験係をしながら暇があれば畜産学科の科目を聴講.父には十五歳で入学した獣医学校の学歴しかないのだが、帝大レベルの勉強をしたという自信をもったようである。その学識?を土産に帰京し、獣医ジャーナリストとしての職歴を中央で開始した。英独仏の語学も独習し、まずは努力家といってもよいであろう。内外の研究論文を抄録したり、獣医師法制定の論陣を張ったり、編集した雑誌は、「現代の獣医」「 装蹄と畜産」「臨床獣医学新報」「応用獣医学雑誌」「中央獣医会
雑誌」「乳牛の研究」「東亜有畜農業」「畜産と獣医」「日本獣医師会報誌」「綜合獣医学雑誌」「角笛」「獣医畜産新報」など数多い。私も学会雑誌の編集などをわりと喜んでやっているのは、この父の血を受けているせいかもしれない。
しかしいうまでもなく、父の時代は軍国主義と敗戦の悲劇に見舞われていた。父の時代に獣医で威張っていたのは、陸軍の獣医将校と帝大の獣医学教授である。当時の陸軍では軍馬が重要な戦力であり、騎兵部隊のみならず輪送用にも軍馬は不可欠であった。馬上ゆたかな軍人はあこがれの的で、戦力増強のために強い軍馬はなによりも貴重。戦場で軍馬の傷や病気を治す獣医将校は、赤紙一枚でい-らでも補充できる兵隊を治す軍医よりも、ときには重要視されたかもしれない。獣医将校の最高位は中将だが、将校になる道を閉ざされていた父も、獣医将校を示す紫色の襟章には強いあこがれを抱いていた。そして紫の襟章がつけられないなら、せめて大陸に渡り満蒙の新天地に大牧場を経営して大日本帝国に貢献しようと、本気で夢みていたようである。もしこの物騒な夢が実現し満州に居を移していたなら、私は今ごろ中国残留孤児となって父を探していることであろう。
幸いこの夢ははかなく消えて、父は学界の方へ近づいた。昭和三(一九二八)年、二十九歳のとき東京帝国大学農学部家畜内科学教室に板垣四郎博士を訪れ、その助手となった。こうして学界にも知人が多くなり、父は日本獣医師会、東京府獣医師会などでも仕事を得、東京都獣医師会では副会長や会長代理をつとめた。ほとんど学歴もないのに歳を重ねると皆に先生と呼ばれていたのは、まめに筆をとって獣医師の地位向上のために論陣を張り、また獣医師会で世話役をやっていたからであろう。東京高等獣医学校(旧制)の講師として、教壇に立ったこともある。一九七六年十二月九日に父の喜寿祝賀会が行われるというので神田の学士会館に行ってみたら、日本学術会議会長、大学総長など大勢の友人百五十人以上が集まる盛会に、いささか驚いた。すでに一九六七年に父は麻布獣医科大学から「日本獣医学史」の研究で獣医学博士の学位を得ており、白井博士と呼ばれて嬉しそうであった.父の学位取得は私が慶大から経済学博士の学位を得る数か月前で、父は息子に遅れを取ることはなかったのである。
それどころか、著作の数でもまだ私は父に遥かに及ばない。国立国会図書館のカードでも父の著書の方が多いし,アメリカやカナダの大図書館にも、私の学位論文はないが父の「日本獣医学史」はある(これは慶大も所載).ちなみに父の編・著書には次のようなものがある。(父は多少の茶目気があったのか「紅白」というおめでたいペンネームを使った。本名で書いたのは学位論文「日本獣医学史」だけである。)
「通俗家畜産婆の手引」明文堂、一九三〇
「獣医師獣医手装蹄師国家就叔開港集L市瀬卯木と共編、田辺書房、一九三〇、
増補版一九四三
「毛皮の鞣し方と製革法」田辺一雄と共編、田辺書房、一九三一
「獣医師関係法親と其の解釈」編著、文永堂書店、一九三三、増補版1九四〇
「獣医師法発布の前後】東京府獣医師会、一九三三
「獣医師法とその解釈】東京府獣医師会、一九三三
『畜産関係民間用語集」編集、田辺書房、一九三三、増補版一九四〇
「「犬の趣味」物語」田辺書房一九三四
「趣味と実益育牛宝函]日本畜産研究会、一九三五
「獣医畜産関係文献集」編著、興文社、一九三六
「鳥利用有畜農業論」東京府獣医師会、一九三六
「家畜の法医学」文永堂書店、一九三九、増補版一九四1
「簡明家畜小生理学」文永堂書店、一九四〇
「簡明明家畜小薬理学」文永堂書店、一九四一
「簡明家畜小病理学総論」文永堂書店、一九四二
「簡明家畜小病理解剖学」文永堂書店、一九四二
「簡明家畜小産科学」文永堂書店、一九四三
「研究集録 馬の飼養と疾病」明文堂、一九四三
「簡明畜産学」文永堂書店、一九四三
「装帝学及蹄病学」獣医学書刊行会、一九四四
「日本獣医学史」文永堂書店、一九四四、復刻版一九七九
「家畜衛生関係法規集」大塚一矩と合輯、畜産獣医出版協会、一九四六
「研究集録 牛の飼養と疾病」畜産獣医出版協会、一九四六
「研究集録 締羊の飼養と疾病」畜産獣医出版協会、一九四六
「家畜診療医典」畜産獣医出版協会、一九四六
「獣医師国家試験手引」編著、畜産獣医出版協会、一九四七
「酪農と牛乳」田辺書房、一九四七
「研究集録 豚の飼養と疾病」畜産獣医出版協会、一九四八
「研究集録 山羊の飼養と疾病」角笛社、一九四八
「家畜伝染病予防法関係法規」編著、角笛社、一九四八
「調査 馬の伝染性貧血及び流産菌症の診断基準」(日本獣医師会研究報告六)
畜産獣医出版協会、一九四八
「価名家畜糞帝学及蹄病学」文永堂書店、一九四八
執筆に忙しかったこともあって、父はあまり家庭的な人間ではない。親に可愛がられた経験がないためか、子供との関係は淡々たるものであった。私は小さい時に父と大宮公園などをよく散歩した思い出はあるが、特に父になにか相談したというような経験はない。受験や就職や結婚のときも、心配するのは母の方で、父は一向に関心を示さなかった。私の姉が亡くなった時にもさして動揺を示さず、頑固な性質もあって「冷たい」と取られた面もある。戦前は貞淑に父に仕え、戦後は女性の権利に目覚め、家で支配権を獲得した母は、「あの人は実母に早く死なれたので人の暖かさを知らず可哀そうな人だ」とよく言っていた。獣医界という狭い社会で学歴もなく一家を支えるのは大分苦労だったようで、人と争わねばならぬことも多かったと聞く。
しかし私は父と異なる道へ進んだためもあって、父の無関心をいいことに全く自分の考えだけで好きなことをやってきた.思想史における偉大な人物を調べてみると、尊徳、子規、諭吉、兆民、秋水、小泉、ムハンマド、スミス、ヒユーム、ダランベール、ジェファスン、ドストエフスキィ、エマスン、ペスタロッチ、シュンペーター、ラッセル、フリードマン、魯迅など、いずれも父を早く失っている。これはひとつには、父の存在が重いと子供が伸びられないこと、父がいないと子供は早くから自立の習慣を身につけることによるのであろう。したがって、父親はなるべく早くいなくなった方がよいのかもしれない (娘の場合は父親の存在が娘を伸ばす場合が多い)。しかしやはり親はいつまでも元気でいて欲しい。してみると私の父は、子供に対して全く干渉することなき一生を送り、しかもなお長寿を保っているのだから、私にとってはまさに「最高の父親」というべきであろう。
2007/09/18のBlog
[ 20:32 ]
馬医から獣医へ 架夢茶庵完児
Ⅰ 御維新官軍の馬医
『日本馬政史』四巻の始めに『されば時の軍務官副知事たる大村益次郎は,馬産計画を実施するが為に,仙台藩士を徴して同藩在来の産馬仕法を糺し天下の善法と賞嘆せられ,・・・』とある.以下の年譜からも明らかな通り,大村益次郎が軍務官副知事となるのは,明治元年『十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる』.歿は翌二年の十一月五日である.大村益次郎の生涯を年譜の形で次に示した.[限定六五〇部の内第五〇二番大村益次郎史料・平成十二年三月十日マツノ書店発行]
大村益次郎年譜
文政八年二八二五)五旦二日、周防国吉敷郡鋳銭司村で出生す。幼名を宗太郎という。
文政十年二八二七)父孝益、村田家を出て藤村家を継ぐ以てその家で成長す。
天保十三年(一八四二)三田尻の梅田幽斎の門に入る。
天保十四年(一八四三)四月七日、日田の威宣園に入門す、同年十二月天ガ瀬に遊び詩を作る。
弘化元年(一八四四)六月威宣園を退く。この頃良庵と改名。
弘化三年二八四六)大阪に至り、緒方洪庵の適塾に入門す。
嘉永二年二八四九)、適塾の塾頭となる。
嘉永三年二八五〇)適塾を辞して郷里に帰り医業を開く。
嘉永四年二八五こ妻、琴を要る。琴は十八才なり。
嘉永六年二八五三)宇和島薄の招きに応じ、九月郷里を発足、十月二十七日宇和島藩に出仕す。
安政元年(一八五四)三月宇和島藩の命により、村田良庵を村田蔵六と改名す。八月軍艦の製
造法修業などのため長崎に赴く。
安政二年二八五五)軍艦雛形完成し、宇和島九島において進水式を挙ぐ。藩主より金品の賞与
を賜わる。
安政三年(一八五六)三月、宇和島藩主の参覲にしたがい江戸に出る。五月下谷の大槻俊斉の
家に寄寓す。十一月麹町一番町に私塾鳩居堂を開く。同月、幕府の著書調所教授手
伝となる。
安政四年二八五八)十一月、幕府の講武所教授となる。
安政五年二八五八)十二月、江戸を発し帰省の途につく。五月、長州藩に乞われて江戸桜田邸
で蘭書会読会の指導に当る。
安政六年二八五九)正月、萩に著し、更に郷里に帰る.二月宇和島に行き、五月中旬宇和島を
発し、六月江戸に着く。十月江戸千住において、死刑女囚の解剖をなす。
万延元年二八六〇)四月二十六日、長州藩雇士となり、馬廻士に準ぜられる。この頃、横浜滞留
の米人へボンより英学を学ぶ。
文久元年(一八六一)正月、藩命により江戸より萩に帰る。手廻組に加えられ博習堂用掛となる
。二月、防禦のため馬関に差遣せらる。十二月、江戸詰を命ぜらる。
文久二年二八六二)江戸麻布藩内における西洋兵学会読の教授を命ぜらる。夏、藩主より、ガラ
ス盃を賜わる。
文久三年二八六三)五月、長音士井上挙、伊藤博文ら五名の英国遊学の周旋をなす。六月、恩
師緒方洪庵殺す。大村通夜す。十月、手当防禦事務用掛となる。十一月、撫育方用掛
を兼ぬ。
元治元年二八六四)二月、三田尻付近砲台築造用地を巡検.同月、小郡付近の砲台築造用地
を巡検す。この日装条銃打方陣法等規則取調を命ぜらる。五月、鉄煩取調方となる。
七月二十四日,長州藩征討の朝命下る.幕府征長の兵を出す. 八月、外人応接掛と
なり、馬関に出張す。同年、政務座役事務扱を命ぜられ軍務専任となる。十二月、博
習堂用掛兼赤間関応接掛となる。
慶応元年(一八六五)二月,壬戊丸処分のために上海に渡る。三月、防禦掛兵学校用掛どなる。
五月用所役の軍政専務となる。閏五月、馬廻士となり譜代の班に列し、禄高百石を
賜う。六月、新式武具方用掛を兼ぬ。十二月十二日、藩命により村田蔵六を大村益
次郎と改名す。
慶応二年(一八六六)四月、三兵教授役と為り、軍政用掛を兼ぬ。六月、長州再征の総督広島に
着し,四境戦争始まる。この月、石州に赴き幕軍に対する方略を画す。七月、石州口
の幕軍港攻撃しこれを敗走せしめ、石州口全く休戦の姿となる。十二月、海軍用掛を
兼ぬ。
慶応三年(一八六七)四月、再び三兵教授として暫時陪臣大隊用掛となる。十月、、用所助役、
軍政専務兼任となる。 十二月九日王政復古の大号令下る。
明治元年二八六八)正月、用所本役と為り、軍政専任となる。これまで通り軍政引除勤仰付け
らる。長藩世子元徳、朝命を奉じて上洛す。よって、これに随従す。二月討幕の大詔換
発され、軍防事務局判事加勢となり、親兵を編制し兵営を伏見に設置す。三月、車駕
天保山に幸し、海軍繰練の天覧あり、大村この準備を担当す。四月軍防事務局判事
となる.閏四月、朝命により江戸に至る.軍務官判事となる.五月,従五位に叙せらる
。この月、江戸府判事を兼る。 五月十五日、上野の彰養豚を討伐す。同月、有栖川
宮大村の軍功を賞し脇差を賜う。六月、従四位下に叙せられ、鎮台府民政会計掛と
なる。九月、米沢、仙台、会津らの諸藩相提携して官軍に抗す。大村、総督府にありて、 この東北戦乱鎮圧の方略匿当り、これを平定す。十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、
太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる。十一月二十九日、明治天皇
浜御殿において軍艦の試乗を行わせらる。大村このことに当る。
明治二年(一八六九)五月、函館の戦終る。六月、朝廷大村の軍功を賞し永世禄千五百石を下
賜す。これを辞す、聴されず。六月、木戸孝允と謀り、九段に東京招魂社建立を決定す。 社殿竣工して二十九日祭典挙行さる。七月、兵部省設置され、兵部大輔に任ぜらる。こ
の月、請暇を出願し、許されて東京を発す。八月中旬京に著し、京阪地区の軍事施設々 置箇所の踏査をなす。九月四日、数人の刺客に客舎を襲われ大傷を負う。十月,大阪
病院に移り、片足切断す。十一月五日、病革まり遂に没す。十三日,従三位を贈られ、
特に詔書を賜う.二十日、郷里鋳鑑司に墓所を定め神葬す。
大村益次郎の死後,大総督府厩は軍務官厩となり,村井某を軍務官附属馬医年給金五両に任用する.馬医の村井某の詳細は明らかではないが,萩藩出身の士分なら毛利藩馬医・村井家の者であろう.幕末の防長では,下級士族とその他の身分の者によって諸隊が編成され,その後,藩を挙げての戦闘となるから,村井一族も官軍の一員として従軍している.
嘉永改正いろは寄「萩藩分限帳」(1968年萩郷土文化研究会編)では,萩藩の馬医は
八十石 御馬医安西流 生駒九郎右衛門
五十弐石五斗外拾石減少石 御手廻組馬医安西流 吉松惣右衛門
五十弐石五斗 御馬医橋本流 竹中弥一郎
拾五石 御馬医安西流 宅野三郎兵衛
参拾石 御馬医安西流 中村源助
八十石 御手廻組馬医安西流 村井源右衛門
弐拾五石弐斗 遠近御馬乗八条流御馬医太子流安西流兼 山本湖十郎
無給通御雇
弐人 高三石壱斗五升 乗方馬医兼帯 宅野直衛
手許の「新編療馬方巻之四」には長陽幕下村井氏句聴子重康校清とある.
Ⅱ 朝敵となった幕府軍の馬医
元禄二年馬医桑島新右衛門忠久の孫新助忠陣に月俸下賜の事・徳川実紀にありと「日本馬政史巻二」の始めにあり.
自称『教科書』の「日本獣医学史」には
桑島流と幕府御馬医
平安朝の初め,唐に渡って馬医術を修めた平仲国は,この技を息安国,眼心,第子の生田備中守道義に伝えた.安国から道義の息尚義に伝えられ 尚義から越前国平盛頼に,盛頼から備前国平義親にと伝えられ,仲国より18代の末 奥州藤原心海人道政近に至って馬医の流派を桑島とし,その息三郎右衛門藤原仲時より姓を桑島と改めた.
仲時の息桑島新右衛門仲綱は,桑島流中興の祖と令名高く,伸綱より道蝸に,道蝸より橋本道派に伝えられ,この代に「仮名安駿集」が編纂され,桑島流は仲綱から宗綱に,宗綱から信実に伝えられた.
信実は天下一桑島肥前守権藤原信実と称し,桑島采女正綱にその技を伝授した.正綱より桑島茂人,桑島権六に伝えられ茂人はその門弟桑島孫六にこの技を伝えた.権六は息桑島勘太夫清信に伝え,清信は養子桑島棟内清成に伝えた.清成の死後養子桑島左文治清次は,高橋安兵衛が息名丹の調合を相伝されていたので,この伝授をうけた.左文治の死後幼少であった養子の桑島左一郎清晴は,高橋太兵衛の弟子となって学び,養子桑島嘉八清月が高橋太兵衛より馬書などを伝授されて家業をついだ.
桑島嘉八に対する伝授書は次のとおりである.
1.天下一九坂息命丹巻 1巻
1.桑島流養馬巻 1巻
1.仲国秘伝巻 5巻
1.安駿集 20巻
1.針灸巻 2巻
1.爪之巻 1巻
また下野郵須の人岡本宮内少輔の裔,岡本勘右衛門忠清は,桑島心海入道の門に入り,多年修業して桑島姓を許されたが,これが徳川幕府馬医桑島の祖とされ,その孫桑島忠直は5代将軍綱吉に仕えた・また仲綱17代の末,豊綱のさらに16代末の桑島左兵衛藤原仲郷(桑島英三)も,将軍馬医を勤めた.桑島忠信は,御召馬預り兼馬医に任ぜられ,麻布市兵衛町に邸を与えられ禄100俵を賜った.さらに天和元年(1681)には禄高100俵を加腸され,世襲200俵の旗本に列せられた.嘉永年間(1848~1853),落合十郎左衛門は老中阿部伊勢守正弘に召されて幕府馬医となり,禄高100俵を賜り旗本に列せられた・このほか桑島新五右衛門は禄高100俵その息桑島新助は馬医見習15人扶持,落合十三郎は馬医20人扶持であり,下与市右衛門,若林息嵐,稲垣司馬,桑島左近,下文朔なども将軍家馬医であった.幕府軍最後の馬医は深谷周三,対する官軍最初の馬医は村井某である.
深谷周三(FUKAYA Shuzo)の略歴
旧幕臣で天保7 (1836)年7月、江戸村上侯の藩邸に生まれる.大正5年3月2日死去(80歳)する。杉原半助、安井息軒について漢学を学び、松田玄瑞について医学を、桑原新助について馬医術を学ぶ。文久3 (1863)年幕府の馬医として幕府御馬治療のことを、閣老諏訪伯香守の命に依り行っていた。その間、幕府の洋学研究機関である洋所調所'(開成所)において洋書の獣医学を学び、幕府騎兵の教官デシャルム騎兵大尉より、質疑応答の形で多少の獣医術を学んだ。慶応3年開成所フランス語世話役を命ぜられ益々洋式獣医学を進め、蘭書や英書も読み、当時の馬医としては高度の知識を会得していた。 明治元年5月徳川家達が駿府に封じられ深谷はこれに従い駿州沼津に移住した。従ってこの時から静岡藩出身として扱われた。
経歴:明治5 (1872)年8月軍医頭松本順に招かれて上等馬医に任用、軍医寮付となる.軍医寮の馬医業務一切を任され、馬医教育、獣医術の指導に専念することになった。明治6年兵学寮で馬医生徒を採用、教育を実施することとなり、兵学寮長に馬医生徒の教育案を認められ、深谷が教材、教育科目の準備を整え第一期馬医生徒15名を採用し、主任教官となる。次いで政府の各部門で軍事顧問または教官としてフランス士官を招碑実施に入っていたので軍医頭松本順に建策し、政府に申し出、明治7年4月フランス二等獣医アウギュスト・アンゴーを招聴することに成功、初めて日本の獣医学の欧風開化をみた。アンゴーは明治13年帰国まで熱心にフランス獣医学を指導し、大いに啓発された。また、陸軍獣医学校の前身とも見るべき陸軍病馬厩の厩長に進み陸軍省軍務局獣医課長となり、.明治12牛馬医出身者として初めて陸軍馬医監に昇任した。
業績:陸軍奉職約20年間。獣医勤務の基礎を築き学界の進歩を促したなど日本陸軍獣医界の元祖で、大恩人である. 明治23年退職した.
Ⅲ 家畜医・獣医の登場
Ⅰ 御維新官軍の馬医
『日本馬政史』四巻の始めに『されば時の軍務官副知事たる大村益次郎は,馬産計画を実施するが為に,仙台藩士を徴して同藩在来の産馬仕法を糺し天下の善法と賞嘆せられ,・・・』とある.以下の年譜からも明らかな通り,大村益次郎が軍務官副知事となるのは,明治元年『十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる』.歿は翌二年の十一月五日である.大村益次郎の生涯を年譜の形で次に示した.[限定六五〇部の内第五〇二番大村益次郎史料・平成十二年三月十日マツノ書店発行]
大村益次郎年譜
文政八年二八二五)五旦二日、周防国吉敷郡鋳銭司村で出生す。幼名を宗太郎という。
文政十年二八二七)父孝益、村田家を出て藤村家を継ぐ以てその家で成長す。
天保十三年(一八四二)三田尻の梅田幽斎の門に入る。
天保十四年(一八四三)四月七日、日田の威宣園に入門す、同年十二月天ガ瀬に遊び詩を作る。
弘化元年(一八四四)六月威宣園を退く。この頃良庵と改名。
弘化三年二八四六)大阪に至り、緒方洪庵の適塾に入門す。
嘉永二年二八四九)、適塾の塾頭となる。
嘉永三年二八五〇)適塾を辞して郷里に帰り医業を開く。
嘉永四年二八五こ妻、琴を要る。琴は十八才なり。
嘉永六年二八五三)宇和島薄の招きに応じ、九月郷里を発足、十月二十七日宇和島藩に出仕す。
安政元年(一八五四)三月宇和島藩の命により、村田良庵を村田蔵六と改名す。八月軍艦の製
造法修業などのため長崎に赴く。
安政二年二八五五)軍艦雛形完成し、宇和島九島において進水式を挙ぐ。藩主より金品の賞与
を賜わる。
安政三年(一八五六)三月、宇和島藩主の参覲にしたがい江戸に出る。五月下谷の大槻俊斉の
家に寄寓す。十一月麹町一番町に私塾鳩居堂を開く。同月、幕府の著書調所教授手
伝となる。
安政四年二八五八)十一月、幕府の講武所教授となる。
安政五年二八五八)十二月、江戸を発し帰省の途につく。五月、長州藩に乞われて江戸桜田邸
で蘭書会読会の指導に当る。
安政六年二八五九)正月、萩に著し、更に郷里に帰る.二月宇和島に行き、五月中旬宇和島を
発し、六月江戸に着く。十月江戸千住において、死刑女囚の解剖をなす。
万延元年二八六〇)四月二十六日、長州藩雇士となり、馬廻士に準ぜられる。この頃、横浜滞留
の米人へボンより英学を学ぶ。
文久元年(一八六一)正月、藩命により江戸より萩に帰る。手廻組に加えられ博習堂用掛となる
。二月、防禦のため馬関に差遣せらる。十二月、江戸詰を命ぜらる。
文久二年二八六二)江戸麻布藩内における西洋兵学会読の教授を命ぜらる。夏、藩主より、ガラ
ス盃を賜わる。
文久三年二八六三)五月、長音士井上挙、伊藤博文ら五名の英国遊学の周旋をなす。六月、恩
師緒方洪庵殺す。大村通夜す。十月、手当防禦事務用掛となる。十一月、撫育方用掛
を兼ぬ。
元治元年二八六四)二月、三田尻付近砲台築造用地を巡検.同月、小郡付近の砲台築造用地
を巡検す。この日装条銃打方陣法等規則取調を命ぜらる。五月、鉄煩取調方となる。
七月二十四日,長州藩征討の朝命下る.幕府征長の兵を出す. 八月、外人応接掛と
なり、馬関に出張す。同年、政務座役事務扱を命ぜられ軍務専任となる。十二月、博
習堂用掛兼赤間関応接掛となる。
慶応元年(一八六五)二月,壬戊丸処分のために上海に渡る。三月、防禦掛兵学校用掛どなる。
五月用所役の軍政専務となる。閏五月、馬廻士となり譜代の班に列し、禄高百石を
賜う。六月、新式武具方用掛を兼ぬ。十二月十二日、藩命により村田蔵六を大村益
次郎と改名す。
慶応二年(一八六六)四月、三兵教授役と為り、軍政用掛を兼ぬ。六月、長州再征の総督広島に
着し,四境戦争始まる。この月、石州に赴き幕軍に対する方略を画す。七月、石州口
の幕軍港攻撃しこれを敗走せしめ、石州口全く休戦の姿となる。十二月、海軍用掛を
兼ぬ。
慶応三年(一八六七)四月、再び三兵教授として暫時陪臣大隊用掛となる。十月、、用所助役、
軍政専務兼任となる。 十二月九日王政復古の大号令下る。
明治元年二八六八)正月、用所本役と為り、軍政専任となる。これまで通り軍政引除勤仰付け
らる。長藩世子元徳、朝命を奉じて上洛す。よって、これに随従す。二月討幕の大詔換
発され、軍防事務局判事加勢となり、親兵を編制し兵営を伏見に設置す。三月、車駕
天保山に幸し、海軍繰練の天覧あり、大村この準備を担当す。四月軍防事務局判事
となる.閏四月、朝命により江戸に至る.軍務官判事となる.五月,従五位に叙せらる
。この月、江戸府判事を兼る。 五月十五日、上野の彰養豚を討伐す。同月、有栖川
宮大村の軍功を賞し脇差を賜う。六月、従四位下に叙せられ、鎮台府民政会計掛と
なる。九月、米沢、仙台、会津らの諸藩相提携して官軍に抗す。大村、総督府にありて、 この東北戦乱鎮圧の方略匿当り、これを平定す。十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、
太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる。十一月二十九日、明治天皇
浜御殿において軍艦の試乗を行わせらる。大村このことに当る。
明治二年(一八六九)五月、函館の戦終る。六月、朝廷大村の軍功を賞し永世禄千五百石を下
賜す。これを辞す、聴されず。六月、木戸孝允と謀り、九段に東京招魂社建立を決定す。 社殿竣工して二十九日祭典挙行さる。七月、兵部省設置され、兵部大輔に任ぜらる。こ
の月、請暇を出願し、許されて東京を発す。八月中旬京に著し、京阪地区の軍事施設々 置箇所の踏査をなす。九月四日、数人の刺客に客舎を襲われ大傷を負う。十月,大阪
病院に移り、片足切断す。十一月五日、病革まり遂に没す。十三日,従三位を贈られ、
特に詔書を賜う.二十日、郷里鋳鑑司に墓所を定め神葬す。
大村益次郎の死後,大総督府厩は軍務官厩となり,村井某を軍務官附属馬医年給金五両に任用する.馬医の村井某の詳細は明らかではないが,萩藩出身の士分なら毛利藩馬医・村井家の者であろう.幕末の防長では,下級士族とその他の身分の者によって諸隊が編成され,その後,藩を挙げての戦闘となるから,村井一族も官軍の一員として従軍している.
嘉永改正いろは寄「萩藩分限帳」(1968年萩郷土文化研究会編)では,萩藩の馬医は
八十石 御馬医安西流 生駒九郎右衛門
五十弐石五斗外拾石減少石 御手廻組馬医安西流 吉松惣右衛門
五十弐石五斗 御馬医橋本流 竹中弥一郎
拾五石 御馬医安西流 宅野三郎兵衛
参拾石 御馬医安西流 中村源助
八十石 御手廻組馬医安西流 村井源右衛門
弐拾五石弐斗 遠近御馬乗八条流御馬医太子流安西流兼 山本湖十郎
無給通御雇
弐人 高三石壱斗五升 乗方馬医兼帯 宅野直衛
手許の「新編療馬方巻之四」には長陽幕下村井氏句聴子重康校清とある.
Ⅱ 朝敵となった幕府軍の馬医
元禄二年馬医桑島新右衛門忠久の孫新助忠陣に月俸下賜の事・徳川実紀にありと「日本馬政史巻二」の始めにあり.
自称『教科書』の「日本獣医学史」には
桑島流と幕府御馬医
平安朝の初め,唐に渡って馬医術を修めた平仲国は,この技を息安国,眼心,第子の生田備中守道義に伝えた.安国から道義の息尚義に伝えられ 尚義から越前国平盛頼に,盛頼から備前国平義親にと伝えられ,仲国より18代の末 奥州藤原心海人道政近に至って馬医の流派を桑島とし,その息三郎右衛門藤原仲時より姓を桑島と改めた.
仲時の息桑島新右衛門仲綱は,桑島流中興の祖と令名高く,伸綱より道蝸に,道蝸より橋本道派に伝えられ,この代に「仮名安駿集」が編纂され,桑島流は仲綱から宗綱に,宗綱から信実に伝えられた.
信実は天下一桑島肥前守権藤原信実と称し,桑島采女正綱にその技を伝授した.正綱より桑島茂人,桑島権六に伝えられ茂人はその門弟桑島孫六にこの技を伝えた.権六は息桑島勘太夫清信に伝え,清信は養子桑島棟内清成に伝えた.清成の死後養子桑島左文治清次は,高橋安兵衛が息名丹の調合を相伝されていたので,この伝授をうけた.左文治の死後幼少であった養子の桑島左一郎清晴は,高橋太兵衛の弟子となって学び,養子桑島嘉八清月が高橋太兵衛より馬書などを伝授されて家業をついだ.
桑島嘉八に対する伝授書は次のとおりである.
1.天下一九坂息命丹巻 1巻
1.桑島流養馬巻 1巻
1.仲国秘伝巻 5巻
1.安駿集 20巻
1.針灸巻 2巻
1.爪之巻 1巻
また下野郵須の人岡本宮内少輔の裔,岡本勘右衛門忠清は,桑島心海入道の門に入り,多年修業して桑島姓を許されたが,これが徳川幕府馬医桑島の祖とされ,その孫桑島忠直は5代将軍綱吉に仕えた・また仲綱17代の末,豊綱のさらに16代末の桑島左兵衛藤原仲郷(桑島英三)も,将軍馬医を勤めた.桑島忠信は,御召馬預り兼馬医に任ぜられ,麻布市兵衛町に邸を与えられ禄100俵を賜った.さらに天和元年(1681)には禄高100俵を加腸され,世襲200俵の旗本に列せられた.嘉永年間(1848~1853),落合十郎左衛門は老中阿部伊勢守正弘に召されて幕府馬医となり,禄高100俵を賜り旗本に列せられた・このほか桑島新五右衛門は禄高100俵その息桑島新助は馬医見習15人扶持,落合十三郎は馬医20人扶持であり,下与市右衛門,若林息嵐,稲垣司馬,桑島左近,下文朔なども将軍家馬医であった.幕府軍最後の馬医は深谷周三,対する官軍最初の馬医は村井某である.
深谷周三(FUKAYA Shuzo)の略歴
旧幕臣で天保7 (1836)年7月、江戸村上侯の藩邸に生まれる.大正5年3月2日死去(80歳)する。杉原半助、安井息軒について漢学を学び、松田玄瑞について医学を、桑原新助について馬医術を学ぶ。文久3 (1863)年幕府の馬医として幕府御馬治療のことを、閣老諏訪伯香守の命に依り行っていた。その間、幕府の洋学研究機関である洋所調所'(開成所)において洋書の獣医学を学び、幕府騎兵の教官デシャルム騎兵大尉より、質疑応答の形で多少の獣医術を学んだ。慶応3年開成所フランス語世話役を命ぜられ益々洋式獣医学を進め、蘭書や英書も読み、当時の馬医としては高度の知識を会得していた。 明治元年5月徳川家達が駿府に封じられ深谷はこれに従い駿州沼津に移住した。従ってこの時から静岡藩出身として扱われた。
経歴:明治5 (1872)年8月軍医頭松本順に招かれて上等馬医に任用、軍医寮付となる.軍医寮の馬医業務一切を任され、馬医教育、獣医術の指導に専念することになった。明治6年兵学寮で馬医生徒を採用、教育を実施することとなり、兵学寮長に馬医生徒の教育案を認められ、深谷が教材、教育科目の準備を整え第一期馬医生徒15名を採用し、主任教官となる。次いで政府の各部門で軍事顧問または教官としてフランス士官を招碑実施に入っていたので軍医頭松本順に建策し、政府に申し出、明治7年4月フランス二等獣医アウギュスト・アンゴーを招聴することに成功、初めて日本の獣医学の欧風開化をみた。アンゴーは明治13年帰国まで熱心にフランス獣医学を指導し、大いに啓発された。また、陸軍獣医学校の前身とも見るべき陸軍病馬厩の厩長に進み陸軍省軍務局獣医課長となり、.明治12牛馬医出身者として初めて陸軍馬医監に昇任した。
業績:陸軍奉職約20年間。獣医勤務の基礎を築き学界の進歩を促したなど日本陸軍獣医界の元祖で、大恩人である. 明治23年退職した.
Ⅲ 家畜医・獣医の登場
2007/09/17のBlog
[ 20:28 ]
馬医から獣医へ 架夢茶庵完児
Ⅰ 御維新官軍の馬医
『日本馬政史』四巻の始めに『されば時の軍務官副知事たる大村益次郎は,馬産計画を実施するが為に,仙台藩士を徴して同藩在来の産馬仕法を糺し天下の善法と賞嘆せられ,・・・』とある.以下の年譜からも明らかな通り,大村益次郎が軍務官副知事となるのは,明治元年『十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる』.歿は翌二年の十一月五日である.大村益次郎の生涯を年譜の形で次に示した.[限定六五〇部の内第五〇二番大村益次郎史料・平成十二年三月十日マツノ書店発行]
大村益次郎年譜
文政八年二八二五)五旦二日、周防国吉敷郡鋳銭司村で出生す。幼名を宗太郎という。
文政十年二八二七)父孝益、村田家を出て藤村家を継ぐ以てその家で成長す。
天保十三年(一八四二)三田尻の梅田幽斎の門に入る。
天保十四年(一八四三)四月七日、日田の威宣園に入門す、同年十二月天ガ瀬に遊び詩を作る。
弘化元年(一八四四)六月威宣園を退く。この頃良庵と改名。
弘化三年二八四六)大阪に至り、緒方洪庵の適塾に入門す。
嘉永二年二八四九)、適塾の塾頭となる。
嘉永三年二八五〇)適塾を辞して郷里に帰り医業を開く。
嘉永四年二八五こ妻、琴を要る。琴は十八才なり。
嘉永六年二八五三)宇和島薄の招きに応じ、九月郷里を発足、十月二十七日宇和島藩に出仕す。
安政元年(一八五四)三月宇和島藩の命により、村田良庵を村田蔵六と改名す。八月軍艦の製
造法修業などのため長崎に赴く。
安政二年二八五五)軍艦雛形完成し、宇和島九島において進水式を挙ぐ。藩主より金品の賞与
を賜わる。
安政三年(一八五六)三月、宇和島藩主の参覲にしたがい江戸に出る。五月下谷の大槻俊斉の
家に寄寓す。十一月麹町一番町に私塾鳩居堂を開く。同月、幕府の著書調所教授手
伝となる。
安政四年二八五八)十一月、幕府の講武所教授となる。
安政五年二八五八)十二月、江戸を発し帰省の途につく。五月、長州藩に乞われて江戸桜田邸
で蘭書会読会の指導に当る。
安政六年二八五九)正月、萩に著し、更に郷里に帰る.二月宇和島に行き、五月中旬宇和島を
発し、六月江戸に着く。十月江戸千住において、死刑女囚の解剖をなす。
万延元年二八六〇)四月二十六日、長州藩雇士となり、馬廻士に準ぜられる。この頃、横浜滞留
の米人へボンより英学を学ぶ。
文久元年(一八六一)正月、藩命により江戸より萩に帰る。手廻組に加えられ博習堂用掛となる
。二月、防禦のため馬関に差遣せらる。十二月、江戸詰を命ぜらる。
文久二年二八六二)江戸麻布藩内における西洋兵学会読の教授を命ぜらる。夏、藩主より、ガラ
ス盃を賜わる。
文久三年二八六三)五月、長音士井上挙、伊藤博文ら五名の英国遊学の周旋をなす。六月、恩
師緒方洪庵殺す。大村通夜す。十月、手当防禦事務用掛となる。十一月、撫育方用掛
を兼ぬ。
元治元年二八六四)二月、三田尻付近砲台築造用地を巡検.同月、小郡付近の砲台築造用地
を巡検す。この日装条銃打方陣法等規則取調を命ぜらる。五月、鉄煩取調方となる。
七月二十四日,長州藩征討の朝命下る.幕府征長の兵を出す. 八月、外人応接掛と
なり、馬関に出張す。同年、政務座役事務扱を命ぜられ軍務専任となる。十二月、博
習堂用掛兼赤間関応接掛となる。
慶応元年(一八六五)二月,壬戊丸処分のために上海に渡る。三月、防禦掛兵学校用掛どなる。
五月用所役の軍政専務となる。閏五月、馬廻士となり譜代の班に列し、禄高百石を
賜う。六月、新式武具方用掛を兼ぬ。十二月十二日、藩命により村田蔵六を大村益
次郎と改名す。
慶応二年(一八六六)四月、三兵教授役と為り、軍政用掛を兼ぬ。六月、長州再征の総督広島に
着し,四境戦争始まる。この月、石州に赴き幕軍に対する方略を画す。七月、石州口
の幕軍港攻撃しこれを敗走せしめ、石州口全く休戦の姿となる。十二月、海軍用掛を
兼ぬ。
慶応三年(一八六七)四月、再び三兵教授として暫時陪臣大隊用掛となる。十月、、用所助役、
軍政専務兼任となる。 十二月九日王政復古の大号令下る。
明治元年二八六八)正月、用所本役と為り、軍政専任となる。これまで通り軍政引除勤仰付け
らる。長藩世子元徳、朝命を奉じて上洛す。よって、これに随従す。二月討幕の大詔換
発され、軍防事務局判事加勢となり、親兵を編制し兵営を伏見に設置す。三月、車駕
天保山に幸し、海軍繰練の天覧あり、大村この準備を担当す。四月軍防事務局判事
となる.閏四月、朝命により江戸に至る.軍務官判事となる.五月,従五位に叙せらる
。この月、江戸府判事を兼る。 五月十五日、上野の彰養豚を討伐す。同月、有栖川
宮大村の軍功を賞し脇差を賜う。六月、従四位下に叙せられ、鎮台府民政会計掛と
なる。九月、米沢、仙台、会津らの諸藩相提携して官軍に抗す。大村、総督府にありて、 この東北戦乱鎮圧の方略匿当り、これを平定す。十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、
太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる。十一月二十九日、明治天皇
浜御殿において軍艦の試乗を行わせらる。大村このことに当る。
明治二年(一八六九)五月、函館の戦終る。六月、朝廷大村の軍功を賞し永世禄千五百石を下
賜す。これを辞す、聴されず。六月、木戸孝允と謀り、九段に東京招魂社建立を決定す。 社殿竣工して二十九日祭典挙行さる。七月、兵部省設置され、兵部大輔に任ぜらる。こ
の月、請暇を出願し、許されて東京を発す。八月中旬京に著し、京阪地区の軍事施設々 置箇所の踏査をなす。九月四日、数人の刺客に客舎を襲われ大傷を負う。十月,大阪
病院に移り、片足切断す。十一月五日、病革まり遂に没す。十三日,従三位を贈られ、
特に詔書を賜う.二十日、郷里鋳鑑司に墓所を定め神葬す。
大村益次郎の死後,大総督府厩は軍務官厩となり,村井某を軍務官附属馬医年給金五両に任用する.馬医の村井某の詳細は明らかではないが,おそらく萩の毛利藩馬医・村井一族の者であろう.幕末の毛利藩では,下級士族とその他の身分の者によって多くの諸隊が編成され,藩内闘争を経て倒幕軍・官軍へと発展する.その後は藩を挙げての総力戦となるから,士分の村井一族も官軍の一員として従軍したのであろう.維新後は諸隊の身分の低い者の多くは処分(処刑)されたが,一部の者は御親兵や官吏の職にありつく事が出来た.
Ⅱ 朝敵となった幕府軍の馬医
深谷周三(FUKAYA Shuzo)
旧幕臣で天保7 (1836)年7月、江戸村上侯の藩邸に生まれる.大正5年3月2日死去(80歳)する。杉原半助、安井息軒について漢学を学び、松田玄瑞について医学を、桑原新助について馬医術を学ぶ。文久3 (1863)年幕府の馬医として幕府御馬治療のことを、閣老諏訪伯香守の命に依り行っていた。その間、幕府の洋学研究機関である洋所調所'(開成所)において洋書の獣医学を学び、幕府騎兵の教官デシャルム騎兵大尉より、質疑応答の形で多少の獣医術を学んだ。慶応3年開成所フランス語世話役を命ぜられ益々洋式獣医学を進め、蘭書や英書も読み、当時の馬医としては高度の知識を会得していた。 明治元年5月徳川家達が駿府に封じられ深谷はこれに従い駿州沼津に移住した。従ってこの時から静岡藩出身として扱われた。
経歴:明治5 (1872)年8月軍医頭松本順に招かれて上等馬医に任用、軍医寮付となる.軍医寮の馬医業務一切を任され、馬医教育、獣医術の指導に専念することになった。明治6年兵学寮で馬医生徒を採用、教育を実施することとなり、兵学寮長に馬医生徒の教育案を認められ、深谷が教材、教育科目の準備を整え第一期馬医生徒15名を採用し、主任教官となる。次いで政府の各部門で軍事顧問または教官としてフランス士官を招碑実施に入っていたので軍医頭松本順に建策し、政府に申し出、明治7年4月フランス二等獣医アウギュスト・アンゴーを招聴することに成功、初めて日本の獣医学の欧風開化をみた。アンゴーは明治13年帰国まで熱心にフランス獣医学を指導し、大いに啓発された。また、陸軍獣医学校の前身とも見るべき陸軍病馬厩の厩長に進み陸軍省軍務局獣医課長となり、.明治12牛馬医出身者として初めて陸軍馬医監に昇任した。
業績:陸軍奉職約20年間。獣医勤務の基礎を築き学界の進歩を促したなど日本陸軍獣医界の元祖で、大恩人である. 明治23年退職した.
Ⅰ 御維新官軍の馬医
『日本馬政史』四巻の始めに『されば時の軍務官副知事たる大村益次郎は,馬産計画を実施するが為に,仙台藩士を徴して同藩在来の産馬仕法を糺し天下の善法と賞嘆せられ,・・・』とある.以下の年譜からも明らかな通り,大村益次郎が軍務官副知事となるのは,明治元年『十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる』.歿は翌二年の十一月五日である.大村益次郎の生涯を年譜の形で次に示した.[限定六五〇部の内第五〇二番大村益次郎史料・平成十二年三月十日マツノ書店発行]
大村益次郎年譜
文政八年二八二五)五旦二日、周防国吉敷郡鋳銭司村で出生す。幼名を宗太郎という。
文政十年二八二七)父孝益、村田家を出て藤村家を継ぐ以てその家で成長す。
天保十三年(一八四二)三田尻の梅田幽斎の門に入る。
天保十四年(一八四三)四月七日、日田の威宣園に入門す、同年十二月天ガ瀬に遊び詩を作る。
弘化元年(一八四四)六月威宣園を退く。この頃良庵と改名。
弘化三年二八四六)大阪に至り、緒方洪庵の適塾に入門す。
嘉永二年二八四九)、適塾の塾頭となる。
嘉永三年二八五〇)適塾を辞して郷里に帰り医業を開く。
嘉永四年二八五こ妻、琴を要る。琴は十八才なり。
嘉永六年二八五三)宇和島薄の招きに応じ、九月郷里を発足、十月二十七日宇和島藩に出仕す。
安政元年(一八五四)三月宇和島藩の命により、村田良庵を村田蔵六と改名す。八月軍艦の製
造法修業などのため長崎に赴く。
安政二年二八五五)軍艦雛形完成し、宇和島九島において進水式を挙ぐ。藩主より金品の賞与
を賜わる。
安政三年(一八五六)三月、宇和島藩主の参覲にしたがい江戸に出る。五月下谷の大槻俊斉の
家に寄寓す。十一月麹町一番町に私塾鳩居堂を開く。同月、幕府の著書調所教授手
伝となる。
安政四年二八五八)十一月、幕府の講武所教授となる。
安政五年二八五八)十二月、江戸を発し帰省の途につく。五月、長州藩に乞われて江戸桜田邸
で蘭書会読会の指導に当る。
安政六年二八五九)正月、萩に著し、更に郷里に帰る.二月宇和島に行き、五月中旬宇和島を
発し、六月江戸に着く。十月江戸千住において、死刑女囚の解剖をなす。
万延元年二八六〇)四月二十六日、長州藩雇士となり、馬廻士に準ぜられる。この頃、横浜滞留
の米人へボンより英学を学ぶ。
文久元年(一八六一)正月、藩命により江戸より萩に帰る。手廻組に加えられ博習堂用掛となる
。二月、防禦のため馬関に差遣せらる。十二月、江戸詰を命ぜらる。
文久二年二八六二)江戸麻布藩内における西洋兵学会読の教授を命ぜらる。夏、藩主より、ガラ
ス盃を賜わる。
文久三年二八六三)五月、長音士井上挙、伊藤博文ら五名の英国遊学の周旋をなす。六月、恩
師緒方洪庵殺す。大村通夜す。十月、手当防禦事務用掛となる。十一月、撫育方用掛
を兼ぬ。
元治元年二八六四)二月、三田尻付近砲台築造用地を巡検.同月、小郡付近の砲台築造用地
を巡検す。この日装条銃打方陣法等規則取調を命ぜらる。五月、鉄煩取調方となる。
七月二十四日,長州藩征討の朝命下る.幕府征長の兵を出す. 八月、外人応接掛と
なり、馬関に出張す。同年、政務座役事務扱を命ぜられ軍務専任となる。十二月、博
習堂用掛兼赤間関応接掛となる。
慶応元年(一八六五)二月,壬戊丸処分のために上海に渡る。三月、防禦掛兵学校用掛どなる。
五月用所役の軍政専務となる。閏五月、馬廻士となり譜代の班に列し、禄高百石を
賜う。六月、新式武具方用掛を兼ぬ。十二月十二日、藩命により村田蔵六を大村益
次郎と改名す。
慶応二年(一八六六)四月、三兵教授役と為り、軍政用掛を兼ぬ。六月、長州再征の総督広島に
着し,四境戦争始まる。この月、石州に赴き幕軍に対する方略を画す。七月、石州口
の幕軍港攻撃しこれを敗走せしめ、石州口全く休戦の姿となる。十二月、海軍用掛を
兼ぬ。
慶応三年(一八六七)四月、再び三兵教授として暫時陪臣大隊用掛となる。十月、、用所助役、
軍政専務兼任となる。 十二月九日王政復古の大号令下る。
明治元年二八六八)正月、用所本役と為り、軍政専任となる。これまで通り軍政引除勤仰付け
らる。長藩世子元徳、朝命を奉じて上洛す。よって、これに随従す。二月討幕の大詔換
発され、軍防事務局判事加勢となり、親兵を編制し兵営を伏見に設置す。三月、車駕
天保山に幸し、海軍繰練の天覧あり、大村この準備を担当す。四月軍防事務局判事
となる.閏四月、朝命により江戸に至る.軍務官判事となる.五月,従五位に叙せらる
。この月、江戸府判事を兼る。 五月十五日、上野の彰養豚を討伐す。同月、有栖川
宮大村の軍功を賞し脇差を賜う。六月、従四位下に叙せられ、鎮台府民政会計掛と
なる。九月、米沢、仙台、会津らの諸藩相提携して官軍に抗す。大村、総督府にありて、 この東北戦乱鎮圧の方略匿当り、これを平定す。十月朝廷、大村の東北平定を嘉し、
太刀料および天盃を下賜す。同月、軍務官副知事となる。十一月二十九日、明治天皇
浜御殿において軍艦の試乗を行わせらる。大村このことに当る。
明治二年(一八六九)五月、函館の戦終る。六月、朝廷大村の軍功を賞し永世禄千五百石を下
賜す。これを辞す、聴されず。六月、木戸孝允と謀り、九段に東京招魂社建立を決定す。 社殿竣工して二十九日祭典挙行さる。七月、兵部省設置され、兵部大輔に任ぜらる。こ
の月、請暇を出願し、許されて東京を発す。八月中旬京に著し、京阪地区の軍事施設々 置箇所の踏査をなす。九月四日、数人の刺客に客舎を襲われ大傷を負う。十月,大阪
病院に移り、片足切断す。十一月五日、病革まり遂に没す。十三日,従三位を贈られ、
特に詔書を賜う.二十日、郷里鋳鑑司に墓所を定め神葬す。
大村益次郎の死後,大総督府厩は軍務官厩となり,村井某を軍務官附属馬医年給金五両に任用する.馬医の村井某の詳細は明らかではないが,おそらく萩の毛利藩馬医・村井一族の者であろう.幕末の毛利藩では,下級士族とその他の身分の者によって多くの諸隊が編成され,藩内闘争を経て倒幕軍・官軍へと発展する.その後は藩を挙げての総力戦となるから,士分の村井一族も官軍の一員として従軍したのであろう.維新後は諸隊の身分の低い者の多くは処分(処刑)されたが,一部の者は御親兵や官吏の職にありつく事が出来た.
Ⅱ 朝敵となった幕府軍の馬医
深谷周三(FUKAYA Shuzo)
旧幕臣で天保7 (1836)年7月、江戸村上侯の藩邸に生まれる.大正5年3月2日死去(80歳)する。杉原半助、安井息軒について漢学を学び、松田玄瑞について医学を、桑原新助について馬医術を学ぶ。文久3 (1863)年幕府の馬医として幕府御馬治療のことを、閣老諏訪伯香守の命に依り行っていた。その間、幕府の洋学研究機関である洋所調所'(開成所)において洋書の獣医学を学び、幕府騎兵の教官デシャルム騎兵大尉より、質疑応答の形で多少の獣医術を学んだ。慶応3年開成所フランス語世話役を命ぜられ益々洋式獣医学を進め、蘭書や英書も読み、当時の馬医としては高度の知識を会得していた。 明治元年5月徳川家達が駿府に封じられ深谷はこれに従い駿州沼津に移住した。従ってこの時から静岡藩出身として扱われた。
経歴:明治5 (1872)年8月軍医頭松本順に招かれて上等馬医に任用、軍医寮付となる.軍医寮の馬医業務一切を任され、馬医教育、獣医術の指導に専念することになった。明治6年兵学寮で馬医生徒を採用、教育を実施することとなり、兵学寮長に馬医生徒の教育案を認められ、深谷が教材、教育科目の準備を整え第一期馬医生徒15名を採用し、主任教官となる。次いで政府の各部門で軍事顧問または教官としてフランス士官を招碑実施に入っていたので軍医頭松本順に建策し、政府に申し出、明治7年4月フランス二等獣医アウギュスト・アンゴーを招聴することに成功、初めて日本の獣医学の欧風開化をみた。アンゴーは明治13年帰国まで熱心にフランス獣医学を指導し、大いに啓発された。また、陸軍獣医学校の前身とも見るべき陸軍病馬厩の厩長に進み陸軍省軍務局獣医課長となり、.明治12牛馬医出身者として初めて陸軍馬医監に昇任した。
業績:陸軍奉職約20年間。獣医勤務の基礎を築き学界の進歩を促したなど日本陸軍獣医界の元祖で、大恩人である. 明治23年退職した.
2007/09/16のBlog
[ 14:40 ]
日本獣医沿革一斑 勝島仙之介
今を隔てること凡そ千百余年前垣武天皇・延暦七八二ー八〇五の頃肥後の人硯山左近将監平仲国、奉勅入唐、大延なる者に就き『馬醫』の業を受く。帰朝後弟子、生田備中守道義、藤 氏仲綱、道蝸、道派等に伝えて漢流の獣医術が行なわれる。その後兵乱相継ぎ・・・慶長の 頃桑島政近心海と号する者仲国流で馬を治療する。門人頗る多く、自家の姓を馬医の流名と定め、業を卒えれば桑島姓を与える。馬医桑島の始祖なり。その頃下野那須の岡本宮内少輔 の裔岡本勘右衛門忠清、心海の門に入り修業、姓を改め師の業を継ぐ。其の孫桑島忠直調馬 に長ずるため、延宝八年五代将軍綱吉徴して禄百俵を与え、御召御馬預兼馬医に任ず。天和 元年六月禄高百俵を加えて、世襲二百俵の旗下に列す。忠陳は馬術劣等につき馬預の職を解かれ馬医に専任せらる。
馬医鶴見氏馬術熟練なる故御馬預に栄転。文政、天保の間西の丸下御厩に都甲斧太郎なる者あり。調馬に馬医を兼任する。晩ヽに蘭学を志し排斥せられる。その頃、落合十郎左衛門、禄 高百俵の旗下・馬医となる。下與市右衛門、若林忠藤、稲垣司馬らは漢土伝来の馬療書に基 づき治療す。独り菊地宗太夫(東水?)は蘭学を修め、その治療をなす。嘉永年間菊地東水講授し訳官鈴木宗恭、之れを補助せしむ。
十月農事修学場を農学校と改称す。十二月入学試験を挙行し須藤義衛門以下十七名入学、この月農学校を駒場野に移転。十一年一月駒場野校舎竣工二十四日開校式。
二月、補欠入学試験。勝島仙之介以下十一名入学。
十月マックブライト満期解雇
十一月練木喜三動物学教師。解剖学実習は陸軍馬医生黒瀬貞治。
十三年四月黒瀬貞治は一柳直宰に交替。六月アンゴー帰国
今を隔てること凡そ千百余年前垣武天皇・延暦七八二ー八〇五の頃肥後の人硯山左近将監平仲国、奉勅入唐、大延なる者に就き『馬醫』の業を受く。帰朝後弟子、生田備中守道義、藤 氏仲綱、道蝸、道派等に伝えて漢流の獣医術が行なわれる。その後兵乱相継ぎ・・・慶長の 頃桑島政近心海と号する者仲国流で馬を治療する。門人頗る多く、自家の姓を馬医の流名と定め、業を卒えれば桑島姓を与える。馬医桑島の始祖なり。その頃下野那須の岡本宮内少輔 の裔岡本勘右衛門忠清、心海の門に入り修業、姓を改め師の業を継ぐ。其の孫桑島忠直調馬 に長ずるため、延宝八年五代将軍綱吉徴して禄百俵を与え、御召御馬預兼馬医に任ず。天和 元年六月禄高百俵を加えて、世襲二百俵の旗下に列す。忠陳は馬術劣等につき馬預の職を解かれ馬医に専任せらる。
馬医鶴見氏馬術熟練なる故御馬預に栄転。文政、天保の間西の丸下御厩に都甲斧太郎なる者あり。調馬に馬医を兼任する。晩ヽに蘭学を志し排斥せられる。その頃、落合十郎左衛門、禄 高百俵の旗下・馬医となる。下與市右衛門、若林忠藤、稲垣司馬らは漢土伝来の馬療書に基 づき治療す。独り菊地宗太夫(東水?)は蘭学を修め、その治療をなす。嘉永年間菊地東水講授し訳官鈴木宗恭、之れを補助せしむ。
十月農事修学場を農学校と改称す。十二月入学試験を挙行し須藤義衛門以下十七名入学、この月農学校を駒場野に移転。十一年一月駒場野校舎竣工二十四日開校式。
二月、補欠入学試験。勝島仙之介以下十一名入学。
十月マックブライト満期解雇
十一月練木喜三動物学教師。解剖学実習は陸軍馬医生黒瀬貞治。
十三年四月黒瀬貞治は一柳直宰に交替。六月アンゴー帰国
2007/09/10のBlog
[ 09:04 ]
昭和三年九月十五日発行の『日本馬政史』は天金の書.奥付に非売品不許複製とある.1981年12月の復刻版は誰の許可を得て出版されたものであろうか?内容は原書と同じものであろうが,書物の装丁・体裁は誠に貧相である.
2007/09/08のBlog
[ 20:20 ]
平仲国と桑島流馬医術
「日本馬政史」には平仲国記載が二箇所ある.一巻八二二頁○名伯楽小河乗澄・・・肥後国ニ平ノ仲国トイフ馬医ノ上手アリ,・・・この項は出典不明.壒嚢抄の引用か?塵添壒嚢抄(1532)の時代なら平氏が肥後の国に居ても何の不思議も無い.平家の落ち武者伝説は西日本は各地に存在する.また,二巻二八頁に本朝伯楽開基平仲国也.元和六(1620)年十二月吉辰・・・天下一桑島肥前掾藤原実綱 の記録としてある.
日本馬政史に掲載された桑島の系図には 『九州肥後平仲国息安国・・伊勢国源道義息尚義・・越後国平盛頼・・備前国平義親・・奥州藤原心海入道息仲時,仲綱の母,息藤原仲綱・・桑島平六息藤原宗綱・・天下一桑島肥前掾藤原実綱・・桑島采女正藤原重綱』とある.
慶長九年の仮名安驥集の自序に『本朝平仲国以来馬書多し,代々相伝えて藤原仲綱に伝え,仲綱より道蝸に伝え,道蝸より予(橋本道派)に至る,云々』
(10)第2草 日本獣医学史
5.唐土馬医術の渡来…仲国流…
延暦23年(804),肥後の人硯山左近将監平仲国は唐に渡り・大延について馬医術を習得し,帰朝後その子安国,眼心,弟子の生田備中守道義にその技を伝えた・さらにその弟子も多数増えて諸国に分かれ住んだが,これら平仲国の流れを汲む獣医術は仲国流と称された・
平仲国は安国,眼心と3名の討論を記述し「仲国有問答」を著した・今日で言うならば症例検討
会,あるいはゼミナールの内容を収載した著作であり,日本における獣医書の嚆矢とされる.
第53代淳和天皇の天長3年(826),諸国の貢上馬,騎子・馬医の数を決めた・従来2名であっ
た馬医が信濃,上野,甲斐,武蔵などの国ごとに1名となった・第57代陽成天皇の元慶元(877)
に,馬医師清内広沢が貢馬の員数を奏上したが,ここで始めて馬医師の字句が出た・
最澄・空海・橘逸勢入唐は804年の事である.最澄は翌年,空海は翌々年に帰国.桓武天皇は806年まで在位.遣唐使使節中に平仲国の名無し.
桓武天皇の曾孫高望王は,平の姓をうけ坂東の上総の国に介として下向する.889年の事である.806年には平家はまだ存在しない.九州肥後の国平仲国とすれば・・・肥後は平氏の知行国であるから場所的には問題ないが,時間的にはこの記述は大きな矛盾を生じる.平氏が出来た時には唐の国は存在していない
14.江戸時代の馬医
桑島流と幕府御馬医
平安朝の初め,唐に渡って馬医術を修めた平仲国は,この技を息安国,眼心,第子の生田備中守道義に伝えた.
安国から道義の息尚義に伝えられ 尚義から越前国平盛頼に,盛頼から備前国平義親にと伝えられ,仲国より18代の末 奥州藤原心海人道政近に至って馬医の流派を桑島とし,その息三郎右衛門藤原仲時より姓を桑島と改めた.
仲時の息桑島新右衛門仲綱は,桑島流中興の祖と令名高く,伸綱より道蝸に,道蝸より橋本道派に伝えられ,この代に「仮名安駿集」が編纂され,桑島流は仲綱から宗綱に,宗綱から信実に伝えられた.
信実は天下一桑島肥前守権藤原信実と称し,桑島采女正綱にその技を伝授した.正綱より桑島茂人,桑島権六に伝えられ茂人はその門弟桑島孫六にこの技を伝えた.権六は息桑島勘太夫清信に伝え,清信は養子桑島棟内清成に伝えた.清成の死後養子桑島左文治清次は,高橋安兵衛が息名丹の調合を相伝されていたので,この伝授をうけた.左文治の死後幼少であった養子の桑島左一郎清晴は,高橋太兵衛の弟子となって学び,養子桑島嘉八清月が高橋太兵衛より馬書などを伝授されて家業をついだ.
桑島嘉八に対する伝授書は次のとおりである.
1.天下一九坂息命丹巻1巻
1.桑島流養馬巻 1巻
1.仲国秘伝巻 5巻
1.安駿集 20巻
1.針灸巻 2巻
1.爪之巻 1巻
また下野郵須の人岡本宮内少輔の裔,岡本勘右衛門忠清は,桑島心海入道の門に入り,多年修業して桑島姓を許されたが,これが徳川幕府馬医桑島の祖とされ,その孫桑島忠直は5代将軍綱吉に仕えた・また仲綱17代の末,豊綱のさらに16代末の桑島左兵衛藤原仲郷(桑島英三)も,将軍馬医を勤めた.
桑島忠信は,御召馬預り兼馬医に任ぜられ,麻布市兵衛町に邸を与えられ禄100俵を賜った.
さらに天和元年(1681)には禄高100俵を加腸され,世襲200俵の旗本に列せられた.
嘉永年間(1848~1853),落合十郎左衛門は老中阿部伊勢守正弘に召されて幕府馬医となり,禄高100俵を賜り旗本に列せられた・このほか桑島新五右衛門は禄高100嵐その息桑島新助は馬医見習15人扶持,落合十三郎は馬医20人扶持であり,下与市右衛門,若林息嵐稲垣司馬,桑島左近,下文朔なども将軍家馬医であった.
1980年発行された自称教科書「獣医学史」の一部である.序に『忌憚のないご叱正と御教示を戴き,今後さらに改訂して行きたい』とある.しかし,改訂版が出た様子も「日本獣医史学雑誌」に訂正記事が出た事も無い.
このような記述をなすためには一次資料として山脇圭吉著「日本帝国家畜伝染病予防史」か,「陸軍獣医誌」第十二号,または内国獣医公会の深谷馬医監の講演もしくは勝島仙之介博士自筆未公開の「本邦獣医の沿革」が必要となる.「獣医学史」を上梓した二人の著者は,ただいま閻魔大王殿が直々にお取調べ中であると,故・岸浩博士から連絡があった.
「日本馬政史」には平仲国記載が二箇所ある.一巻八二二頁○名伯楽小河乗澄・・・肥後国ニ平ノ仲国トイフ馬医ノ上手アリ,・・・この項は出典不明.壒嚢抄の引用か?塵添壒嚢抄(1532)の時代なら平氏が肥後の国に居ても何の不思議も無い.平家の落ち武者伝説は西日本は各地に存在する.また,二巻二八頁に本朝伯楽開基平仲国也.元和六(1620)年十二月吉辰・・・天下一桑島肥前掾藤原実綱 の記録としてある.
日本馬政史に掲載された桑島の系図には 『九州肥後平仲国息安国・・伊勢国源道義息尚義・・越後国平盛頼・・備前国平義親・・奥州藤原心海入道息仲時,仲綱の母,息藤原仲綱・・桑島平六息藤原宗綱・・天下一桑島肥前掾藤原実綱・・桑島采女正藤原重綱』とある.
慶長九年の仮名安驥集の自序に『本朝平仲国以来馬書多し,代々相伝えて藤原仲綱に伝え,仲綱より道蝸に伝え,道蝸より予(橋本道派)に至る,云々』
(10)第2草 日本獣医学史
5.唐土馬医術の渡来…仲国流…
延暦23年(804),肥後の人硯山左近将監平仲国は唐に渡り・大延について馬医術を習得し,帰朝後その子安国,眼心,弟子の生田備中守道義にその技を伝えた・さらにその弟子も多数増えて諸国に分かれ住んだが,これら平仲国の流れを汲む獣医術は仲国流と称された・
平仲国は安国,眼心と3名の討論を記述し「仲国有問答」を著した・今日で言うならば症例検討
会,あるいはゼミナールの内容を収載した著作であり,日本における獣医書の嚆矢とされる.
第53代淳和天皇の天長3年(826),諸国の貢上馬,騎子・馬医の数を決めた・従来2名であっ
た馬医が信濃,上野,甲斐,武蔵などの国ごとに1名となった・第57代陽成天皇の元慶元(877)
に,馬医師清内広沢が貢馬の員数を奏上したが,ここで始めて馬医師の字句が出た・
最澄・空海・橘逸勢入唐は804年の事である.最澄は翌年,空海は翌々年に帰国.桓武天皇は806年まで在位.遣唐使使節中に平仲国の名無し.
桓武天皇の曾孫高望王は,平の姓をうけ坂東の上総の国に介として下向する.889年の事である.806年には平家はまだ存在しない.九州肥後の国平仲国とすれば・・・肥後は平氏の知行国であるから場所的には問題ないが,時間的にはこの記述は大きな矛盾を生じる.平氏が出来た時には唐の国は存在していない
14.江戸時代の馬医
桑島流と幕府御馬医
平安朝の初め,唐に渡って馬医術を修めた平仲国は,この技を息安国,眼心,第子の生田備中守道義に伝えた.
安国から道義の息尚義に伝えられ 尚義から越前国平盛頼に,盛頼から備前国平義親にと伝えられ,仲国より18代の末 奥州藤原心海人道政近に至って馬医の流派を桑島とし,その息三郎右衛門藤原仲時より姓を桑島と改めた.
仲時の息桑島新右衛門仲綱は,桑島流中興の祖と令名高く,伸綱より道蝸に,道蝸より橋本道派に伝えられ,この代に「仮名安駿集」が編纂され,桑島流は仲綱から宗綱に,宗綱から信実に伝えられた.
信実は天下一桑島肥前守権藤原信実と称し,桑島采女正綱にその技を伝授した.正綱より桑島茂人,桑島権六に伝えられ茂人はその門弟桑島孫六にこの技を伝えた.権六は息桑島勘太夫清信に伝え,清信は養子桑島棟内清成に伝えた.清成の死後養子桑島左文治清次は,高橋安兵衛が息名丹の調合を相伝されていたので,この伝授をうけた.左文治の死後幼少であった養子の桑島左一郎清晴は,高橋太兵衛の弟子となって学び,養子桑島嘉八清月が高橋太兵衛より馬書などを伝授されて家業をついだ.
桑島嘉八に対する伝授書は次のとおりである.
1.天下一九坂息命丹巻1巻
1.桑島流養馬巻 1巻
1.仲国秘伝巻 5巻
1.安駿集 20巻
1.針灸巻 2巻
1.爪之巻 1巻
また下野郵須の人岡本宮内少輔の裔,岡本勘右衛門忠清は,桑島心海入道の門に入り,多年修業して桑島姓を許されたが,これが徳川幕府馬医桑島の祖とされ,その孫桑島忠直は5代将軍綱吉に仕えた・また仲綱17代の末,豊綱のさらに16代末の桑島左兵衛藤原仲郷(桑島英三)も,将軍馬医を勤めた.
桑島忠信は,御召馬預り兼馬医に任ぜられ,麻布市兵衛町に邸を与えられ禄100俵を賜った.
さらに天和元年(1681)には禄高100俵を加腸され,世襲200俵の旗本に列せられた.
嘉永年間(1848~1853),落合十郎左衛門は老中阿部伊勢守正弘に召されて幕府馬医となり,禄高100俵を賜り旗本に列せられた・このほか桑島新五右衛門は禄高100嵐その息桑島新助は馬医見習15人扶持,落合十三郎は馬医20人扶持であり,下与市右衛門,若林息嵐稲垣司馬,桑島左近,下文朔なども将軍家馬医であった.
1980年発行された自称教科書「獣医学史」の一部である.序に『忌憚のないご叱正と御教示を戴き,今後さらに改訂して行きたい』とある.しかし,改訂版が出た様子も「日本獣医史学雑誌」に訂正記事が出た事も無い.
このような記述をなすためには一次資料として山脇圭吉著「日本帝国家畜伝染病予防史」か,「陸軍獣医誌」第十二号,または内国獣医公会の深谷馬医監の講演もしくは勝島仙之介博士自筆未公開の「本邦獣医の沿革」が必要となる.「獣医学史」を上梓した二人の著者は,ただいま閻魔大王殿が直々にお取調べ中であると,故・岸浩博士から連絡があった.
2007/09/07のBlog
[ 19:59 ]
穴山篤太郎は明治七年(1874)二月十八日有隣堂創業.1919年3月歿.明治四十三年二代目(1884.4.25生)跡を継ぐ
[ 09:11 ]
木曾街道六十九次 ○印を付けた画には馬が描かれている.◎は牛.
日本橋 ○板橋 ○蕨 ○浦和 大宮 上尾 ○桶川 鴻巣 ○熊谷 深谷 本庄 新町 倉賀野 高崎 ○板鼻 安中 ○松井田 ○坂本 ○軽井沢 ◎沓掛 ○追分 小田井 岩村田 塩名田 八幡 ○望月 芦田 ○長久保 和田 下諏訪 ○塩尻 洗馬 本山 ○贄川 奈良井 薮原 宮ノ越 福島 上松 ○須原 ○野尻 三留野 妻籠 ◎馬籠 落合 ○中津川 ○大井 大湫 細久手 御岳 伏見 太田 鵜沼 加納 河渡 美江寺 赤坂 垂井 ○関ヶ原 今須 柏原 醒ケ井 ○番場 鳥居本 高宮 ◎恵智川 武佐 ○守山 草津 大津
日本橋 ○板橋 ○蕨 ○浦和 大宮 上尾 ○桶川 鴻巣 ○熊谷 深谷 本庄 新町 倉賀野 高崎 ○板鼻 安中 ○松井田 ○坂本 ○軽井沢 ◎沓掛 ○追分 小田井 岩村田 塩名田 八幡 ○望月 芦田 ○長久保 和田 下諏訪 ○塩尻 洗馬 本山 ○贄川 奈良井 薮原 宮ノ越 福島 上松 ○須原 ○野尻 三留野 妻籠 ◎馬籠 落合 ○中津川 ○大井 大湫 細久手 御岳 伏見 太田 鵜沼 加納 河渡 美江寺 赤坂 垂井 ○関ヶ原 今須 柏原 醒ケ井 ○番場 鳥居本 高宮 ◎恵智川 武佐 ○守山 草津 大津
2007/09/05のBlog
[ 20:49 ]
中央獣医学雑誌第一編二巻勝島仙之介と共著をウエブアルバムに公開しました.
2007/08/29のBlog