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Doblog-なんでも北海道
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2007/01/27のBlog
雪が5センチくらい積もった函館です。
予想最高気温2℃。
画像は9:00のもの。
2007/01/26のBlog
[ 19:33 ] [ 雑談 ]
昨日のアクセス数:457件
今日のアクセス数:364件
総アクセス数:99113件
とうとう99000アクセスを超えてしまいました。このペースですと明日か明後日にでも100000アクセスに到達しそうです。今回は「99999」と「100000」と「100001」の三つのキリ番が続きますので、キリ番をゲットした方はぜひともコメントを残して頂きますようよろしくお願い致します。
[ 11:54 ] [ 花・野草 ]
昨年の7月末に戸井へ行った際に撮ってきたものなのですが、調べようと思っていたのをすっかり忘れてしまっていたのがこの画像。
何か昆虫の巣?なのかなあ~などと思ってはみたのですが、それっきりになってしまってました。
何なのでしょうね?
・・・
昨日積もった雪はすっかり解けてしまいました。
空は晴れてます。
予想最高気温2℃。
2007/01/25のBlog
昨日紹介した「啄木通」には啄木の居住地跡のほかに「亀井勝一郎文学碑」が建てられている公園があります。ちょうど「あさり坂」を上りきった辺りですね。この碑を建てるために造られた公園みたいです。
私が学校へ通っている時から亀井勝一郎の事は知っていたのですが、文学が一番苦手だったので興味を持つことがなく、著書を読んだこともないのでした。そんなものですので、今案内標識を読んでみて少し恥ずかしい思いをしました。
文学碑に貼り付けられていた銘板。
この公園は三方を道路に囲まれており、現地に行けばすぐここだ判ると思います。
・・・
標識の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きく、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物史」等は、不朽の名著として、ながく人々の心を豊かにし、そして導いて行くであろう。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わったのは残念である。 亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという身近な事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌ととなっていたことは、疑いのない事実であろう。 亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年11月日本芸術院会員となり、翌41年11月14日病により永眠した。 この碑は昭和44年10月14日、心ある人々によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し暝日す」が刻まれている。 石は日高産の名石。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。函館市
今朝の函館。さらっと雪が積もりました。
少し冬らしい景色です。
今日の予想最高気温3℃。
画像は8:00
2007/01/24のBlog
[ 17:32 ] [ 函館港の船 ]
先週函館港へ寄った時にドッグに停泊していたのが巡視船「かりば」でした。
わりと新しい船のように見えましたが、既に建造してから10年以上 経っているようです。北海道は 第一管区海上保安本部の管轄になており、この管区には40隻の艦艇が配備されているのですが、あと何隻函館港で出会うことが出来るのか楽しみでもあります。

[ 08:20 ] [ 函館の史跡・公園など ]
今朝の函館は寝坊のため割愛しました。
予想最高気温は2℃。

さて、坂シリーズ中の「あさり坂」や「青柳坂」を上ると交差するのが「啄木通」
。この通りは「桜坂」とも呼ばれていて、南に向かえば「函館公園」の入り口前に行く事が出来ます。この道路の山側にあるのが石川啄木が住んでいた借家跡地でした。説明文を読んだ限りでは目の前の駐車場ではなく、画像左側の狭い路地かその周りなのかはっきりしなかったのですが、おおよそこの辺りといったところでしょうか。
道路の途中石垣傍に建ててあった「啄木通」の標柱。町内会で設置したものらしく、だいぶ古びてきていたように思いました。せっかく素敵な名前が付いている道路なのですから市の方で予算を付け、坂の標柱のように整備できたら良いなと思いました。
この石垣の裾には「啄木花壇」と名付けられた花壇がありました。「矢車会」の看板があったので、啄木の同好会か町内会の方々が啄木を偲んで花を植えているのでしょうね。
標識の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな」 薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。岩手県渋民村(現玉山村)で辛酸の生活を味わった啄木は、明治40年5月初め、一家離散を余儀なくされた。 啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家堀合家に預け、母カツは知人宅に託して妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹はそのまま小樽の義兄のもとへ向かった。) 啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社」の同人達であった。 啄木の日記に「四十項の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」は、のちに啄木が主筆となり一切の編集責任をまかせれることとなるが、その紅苜蓿は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。 7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。 職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4箇月余りで終わりを告げたのである。

2007/01/23のBlog
函館の坂は全て紹介が終わったと思っていたのですが、画像をチェックしてみたら一つ抜けていることが判りました。そこで追加の紹介です。
その名が「谷地坂(やちざか)」。
昔が水路(運河)で一昔前は幹線道路でもあった「高砂通り」の延長線上にあり、「南部坂」と「二十間坂」との間に位置します。
この坂は私がが標柱に書いてある説明分を紹介します。
「この坂と道路は昭和9年の大火などでいくらか変わっているが、大体においてほぼ同じ位置で江戸時代からあったもの。谷地頭は昔遊興地として有名だったので、そこに行く坂として付けられたらしい。」
空に雲が多いですが晴れそうな天気。
そして風もなく穏やかです。
予想最高気温2℃。
2007/01/22のBlog
今日はイレギュラーの出張のため、朝早く起きて出掛けたので久々の「駅弁」を食べる事となりました。食べるとなるとそれなりに悩んでしまうのが貧乏人の癖でしょうか。朝早いため7種類しかないのですが、それでも選ぶのに一苦労です。予算の事もあり、あれだこれだと悩んだ挙句選んだのが「ほたて弁当」でした。
炊き込みご飯のうえに中くらいのホタテの本体(貝柱)が三つ、卵のそぼろ・しいたけ・竹の子の煮付け(これがとても美味しかった)・昆布巻き・漬物2種類・サクランボが入って780円(税込み)です。朝ごはんにはちょうど良い量で、ホタテと竹の子の歯ざわりが対照的で上手く作ってあるなあ~と思いました。
2007/01/21のBlog
「函館の坂」もとうとう今回でお終いです。
まだまだ坂はあるのですが名前の付いた坂はこれが最後。
その最後の坂が「青柳坂(あおやぎざか)」
青柳町といえば「石川啄木」が有名な句「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」を残していますが、この青柳坂を上った辺りに啄木が函館に引っ越してきた時の居住跡地があります。薄幸の啄木はこの地に家族を呼び寄せ一時的に幸せな時を過ごすのですが、その僅かな幸せな時間もたった4ヶ月ほどで「大火」のために失ってしまうのでした。その薄幸にはほんとうに涙せざるを得ないところがあります。
この坂のすぐ傍には「亀井勝一郎」の文学碑や「函館公園」もありゆったりと散策する事をお奨めします。

この坂の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
 昔はこの坂を「聖天坂(しょうでんざか)」といった。聖天とは大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)という仏教の守護神のことで,坂の途中にある天台宗天祐寺にまつられている。昭和40年まで坂上に春日町があったため「春日坂」ともいわれた。 現在は,青柳町の方へ向かって登ることから「青柳坂」と呼ばれている。
朝の空が随分明るくなりました。
昨日は「大寒」でしたが、これから2月の中頃にかけて一年で一番寒い時期が続きます。
予想最高気温2℃。
2007/01/20のBlog
[ 10:38 ] [ 函館の坂巡り ]
「函館の坂」も残り二つとなりました。今日は17番目の「あさり坂」。
現在の市電は松風町から函館駅へと右折してますが、昔は松風町から宝来町まで線路が繋がっていて、ちょうどその線路の延長線上にあるのがこの「あさり坂」です。
この電車道路との交差点にある肉屋とすきやき屋が「阿佐利(あさり)」という名前なのは偶然なのでしょうか?ここのすき焼きは老舗で美味いとの評判ですが、私は肉屋の「コロッケ」のほうが思い出があります。肉などほとんど食べる事のない時代に牛肉の挽肉?が入っていたとても美味しいコロッケでした。
この坂の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
明治11年(1878年),英人ジョン・ミルン,米人エドワード・モースらが来函し,函館在住の英人ブラキストンと協力して貝塚などを発掘したが,この坂の付近から古代人が食べたアサリ貝の殻が数多く発見されたので,「あさり坂」と命名された。
少し寝坊をしてしまい遅れた今朝の函館。(9:00の画像)
薄曇のところがありますが大方晴れてます。
予想最高気温2℃。
2007/01/19のBlog
ペコちゃんこと「不二家」の問題はより一層の拡がりを見せているようです。
スーパーやコンビニの棚からどんどん不二家製品が消えてしまい、とうとう飲料の「ネクター」まで撤去の動きが出てきました。そこまでしなくてもと思うのですが・・・
余りにもマスコミや消費者への対応が悪かった事がその主因だとは思いますが、果たしてそれだけなのでしょうか?

確かに不二家の対応は雪印の件を考えると余りにもお粗末なものでした。今もなお新しい問題が出てくるのだから今の段階で収拾のつけようが無い事も確かだと思います。しかし、事件が発覚する前から知っていたのなら、発覚した際の対策スキームくらい組んでおいても良かったのではと思ってしまいますね。
これからは経営者トップと経営陣がどれだけの事を把握していたのかが焦点と思われます。
雪印もそうでしたが、このような事件は会社のトップが現場を知らなさ過ぎる事が一番の原因ではないのかと思いますね。特に食品の製造現場は行けば一目瞭然のはずだと思うのですが・・・本社の事務所ばかりにいては現場を知りようが無いですよね。だから「ISO」を取得し書類で安心を買ったとしか思えません。

そこで疑問・ISOを取得したら定期監査があるはずなので、監査機関は一体何をしていたのでしょうか?その点が全く指摘されていないのは何故なのでしょうか?

つぎの疑問・今のマスコミの報道姿勢は正しいのでしょうか?
私には今のマスコミの報道姿勢は「不二家は潰さなければならない」という前提があり、まるで「錦の御旗」を振りかざしている官軍のように見えます。特に新聞やTV報道はその影響力を鑑みれば「事実だけを報道すれば良い」のではないのでしょうか。
報道自体がワイドショー化してしまっており、見るのも聞くのも読むのも不愉快さを感じることが多いです。

大きな疑問・製品を撤去するスーパーやコンビニは、本当に消費者の事を考えて撤去しているのでしょうか?
私はそう思いませんね。確かに撤去せざるを得ない製品もあると思いますが、全ての商品を撤去する必要もないように思います。判断するのはあくまで消費者ですよ!!「不二家」のブランドを信用して仕入れをしたというなら論外でしょう。製品を取り扱う際に工場を自分たちの目で確かめたのでしょうか?そうでなければ取り扱ったスーパーやコンビニも同罪ではないのでしょうか?

最大の疑問・これは「不二家」だけの事なのでしょうか?他の全ての食品メーカーは「シロ」だというのでしょうか?
これは食品業界全体が抱えている問題ではないのでしょうか。週刊誌などで様々な不正が暴露されますが、それが大きな問題としてクローズアップされる事がないのは何故なのでしょうね。ここにもマスコミの報道姿勢に疑問を感じます。

ついでの疑問・コンビニの「おでん」は衛生的なの?
いつも思うのですが、コンビニで売っている「おでん」は「蓋もせず売っている」のに衛生的なのでしょうか?・・コンビニは人の出入りも多いので「ほこり」が舞っているのでは?と思うのですが、思い過ごしでしょうか。私はコンビニは利用しますが「おでん」だけは絶対に買いません。

従業員への疑問・不正を内部告発するなら判りますが、発覚してから「ああだった、こうだった」とマスコミの前で言うのは何故なのでしょうか?マスコミの前で話したからって免罪されるわけではないのですよ。今まで口を紡いでいたのですから最後まで紡いでいるべきでは?口を開くべきところはマスコミではなく警察や司法の場なのではないでしょうか。

色々な疑問を書いてみましたが、今後「不二家」は全てを正直に話すべきだと思います。この会社がこれから立ち直るのはかなり難しいかもしれませんが、我々の世代も含めて「ペコちゃん」に愛着を持っている人は多いと思うので何とか踏ん張って立ち直ってほしい(雪印のようになってほしくない!)と思います。「不二家」頑張れ!!

「函館の坂」も残り少なくなり、今日紹介する16番目の「護国神社坂(ごこくじんじゃざか)」を含めてあと三つとなりました。今からネタ切れが心配です。

函館山の観光道路を登る際にほとんどの車が利用するのがこの「護国神社坂」。
坂の下には前に紹介した「高田屋嘉兵衛像」が建っています。私が徒歩通学していた頃はこの坂を上って学校へ行く事が多く、とても思い出深い坂でもあるのでした。
この坂の特長はグリーンベルトの見事な黒松でしょうか。形が整っているものが多く見る目を楽しませてくれます。
坂の上に建っている「護国神社」。
ここには様々なものが奉られているので後日別途紹介します。
道路の中央からの画像。
別の日に撮った護国神社の階段を上った所からの画像。

坂の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
別名「汐見坂」ともいい,昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ,その町名からとったもの。招魂社の坂は明治2年(1869年)に建立された招魂社(現護国神社)に登る坂ということから呼ばれ,現在の名になった。倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって”かまど”がつぶれるといわれ,昔は門を坂に面しないようにした。