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2007/01/30のBlog
[ 12:38 ]
[ 函館近郊探索 ]
鷲ノ木の上陸地跡の広場横に墓地があるのですが、この墓地の手前に立っていたのが「水準点」の看板でした。水準点とは高さの測量を行うとき基準になるもので、通常、国道・測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されていて、基準となる柱石または金属標が設置されているようです。約2万箇所に設置されているようですが、私は初めて見たような気がしました。仮に目の前にあっても気がつきにくい物かもしれません。
[ 07:33 ]
2007/01/29のBlog
[ 12:56 ]
[ 箱館戦争(戊辰戦争)の足跡 ]
鷲ノ木に終結した旧幕府軍のうち「大鳥圭介隊」は大沼を経由して「峠下」に向かいました。峠下というのは現在の国道5号線を森町方面から函館へと向かい、現在の大沼トンネルを抜けさらに下り坂を下りきった辺りの地域を言います。
当時は当然トンネルがなかったのですが、トンネルが出来るまでは九十九折れの峠道を私たちも越えていたので、どの道を抜けて峠下へ行ったのか興味のある所です。
そして大鳥隊はこの地で箱館府兵と緒戦を交わすのでした。
画像は坂を下り函館新道側へ進行しているところです。
この道路の左右一帯が峠下。
当時は当然トンネルがなかったのですが、トンネルが出来るまでは九十九折れの峠道を私たちも越えていたので、どの道を抜けて峠下へ行ったのか興味のある所です。
そして大鳥隊はこの地で箱館府兵と緒戦を交わすのでした。
画像は坂を下り函館新道側へ進行しているところです。
この道路の左右一帯が峠下。
[ 08:43 ]
2007/01/28のBlog
[ 13:52 ]
[ 雑談 ]
今朝100000アクセスに到達しました。
このブログを始めたのが2005年3月ですので、約1年10ヶ月での到達となりました。
始めた頃を考えると万感の思いがあります。今後は次なる目標50万アクセスを目指して頑張ってみようと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
このブログを始めたのが2005年3月ですので、約1年10ヶ月での到達となりました。
始めた頃を考えると万感の思いがあります。今後は次なる目標50万アクセスを目指して頑張ってみようと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
[ 11:37 ]
[ 箱館戦争(戊辰戦争)の足跡 ]
階段を下りる前に案内標識を読むのがベストかと。ここから既に前浜の海を見る事が出来ます。
案内標識には下記の事が書いてありました。
「明示元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(夕バ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天(かいてん)、蟠龍(はんりゅう)、長鯨(ちょうけい)、神速(じんそく)、鳳凰(ほうおう)、回春(かいしゅん)、大江(おおえ)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、フルや佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。
21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえて官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していく事になります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治二年五月の、函館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。」
平成二年七月三十日
森町教育委員会
案内標識には下記の事が書いてありました。
「明示元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(夕バ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天(かいてん)、蟠龍(はんりゅう)、長鯨(ちょうけい)、神速(じんそく)、鳳凰(ほうおう)、回春(かいしゅん)、大江(おおえ)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、フルや佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。
21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえて官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していく事になります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治二年五月の、函館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。」
平成二年七月三十日
森町教育委員会
この場所は日当たりが悪く、私のカメラではどうやっても標柱の文字をはっきり写すことができなかったです。
この後「大鳥隊」が大沼を越え峠下を経て、「土方隊」が南茅部の海岸線から川汲(かっくみ)峠経由で五稜郭へと進軍します。
この後「大鳥隊」が大沼を越え峠下を経て、「土方隊」が南茅部の海岸線から川汲(かっくみ)峠経由で五稜郭へと進軍します。
2007/01/27のBlog
[ 12:16 ]
[ 箱館戦争(戊辰戦争)の足跡 ]
函館の坂シリーズなどアップしていて思ったのが、自分は函館生まれなのにさっぱり函館の歴史の事を知らないなあ~という事でした。そんなわけで、歴史の一端でも知るべく今日から箱館(戊辰)戦争の足跡を辿ってみようと思います。
国道5号線を北上し、森町の「道の駅」を過ぎてしばらくすると「鷲の木トンネル」が見えてきます。
国道5号線を北上し、森町の「道の駅」を過ぎてしばらくすると「鷲の木トンネル」が見えてきます。
[ 09:25 ]
2007/01/26のBlog
[ 19:33 ]
[ 雑談 ]
昨日のアクセス数:457件
今日のアクセス数:364件
総アクセス数:99113件
とうとう99000アクセスを超えてしまいました。このペースですと明日か明後日にでも100000アクセスに到達しそうです。今回は「99999」と「100000」と「100001」の三つのキリ番が続きますので、キリ番をゲットした方はぜひともコメントを残して頂きますようよろしくお願い致します。
今日のアクセス数:364件
総アクセス数:99113件
とうとう99000アクセスを超えてしまいました。このペースですと明日か明後日にでも100000アクセスに到達しそうです。今回は「99999」と「100000」と「100001」の三つのキリ番が続きますので、キリ番をゲットした方はぜひともコメントを残して頂きますようよろしくお願い致します。
[ 11:54 ]
[ 花・野草 ]
昨年の7月末に戸井へ行った際に撮ってきたものなのですが、調べようと思っていたのをすっかり忘れてしまっていたのがこの画像。
何か昆虫の巣?なのかなあ~などと思ってはみたのですが、それっきりになってしまってました。
何なのでしょうね?
何か昆虫の巣?なのかなあ~などと思ってはみたのですが、それっきりになってしまってました。
何なのでしょうね?
[ 07:51 ]
2007/01/25のBlog
[ 15:40 ]
昨日紹介した「啄木通」には啄木の居住地跡のほかに「亀井勝一郎文学碑」が建てられている公園があります。ちょうど「あさり坂」を上りきった辺りですね。この碑を建てるために造られた公園みたいです。
私が学校へ通っている時から亀井勝一郎の事は知っていたのですが、文学が一番苦手だったので興味を持つことがなく、著書を読んだこともないのでした。そんなものですので、今案内標識を読んでみて少し恥ずかしい思いをしました。
私が学校へ通っている時から亀井勝一郎の事は知っていたのですが、文学が一番苦手だったので興味を持つことがなく、著書を読んだこともないのでした。そんなものですので、今案内標識を読んでみて少し恥ずかしい思いをしました。
標識の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きく、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物史」等は、不朽の名著として、ながく人々の心を豊かにし、そして導いて行くであろう。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わったのは残念である。 亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという身近な事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌ととなっていたことは、疑いのない事実であろう。 亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年11月日本芸術院会員となり、翌41年11月14日病により永眠した。 この碑は昭和44年10月14日、心ある人々によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し暝日す」が刻まれている。 石は日高産の名石。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。函館市
亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きく、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物史」等は、不朽の名著として、ながく人々の心を豊かにし、そして導いて行くであろう。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わったのは残念である。 亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという身近な事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌ととなっていたことは、疑いのない事実であろう。 亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年11月日本芸術院会員となり、翌41年11月14日病により永眠した。 この碑は昭和44年10月14日、心ある人々によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し暝日す」が刻まれている。 石は日高産の名石。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。函館市
[ 08:29 ]
2007/01/24のBlog
[ 17:32 ]
[ 函館港の船 ]
[ 08:20 ]
[ 函館の史跡・公園など ]
今朝の函館は寝坊のため割愛しました。
予想最高気温は2℃。
さて、坂シリーズ中の「あさり坂」や「青柳坂」を上ると交差するのが「啄木通」
。この通りは「桜坂」とも呼ばれていて、南に向かえば「函館公園」の入り口前に行く事が出来ます。この道路の山側にあるのが石川啄木が住んでいた借家跡地でした。説明文を読んだ限りでは目の前の駐車場ではなく、画像左側の狭い路地かその周りなのかはっきりしなかったのですが、おおよそこの辺りといったところでしょうか。
予想最高気温は2℃。
さて、坂シリーズ中の「あさり坂」や「青柳坂」を上ると交差するのが「啄木通」
。この通りは「桜坂」とも呼ばれていて、南に向かえば「函館公園」の入り口前に行く事が出来ます。この道路の山側にあるのが石川啄木が住んでいた借家跡地でした。説明文を読んだ限りでは目の前の駐車場ではなく、画像左側の狭い路地かその周りなのかはっきりしなかったのですが、おおよそこの辺りといったところでしょうか。
道路の途中石垣傍に建ててあった「啄木通」の標柱。町内会で設置したものらしく、だいぶ古びてきていたように思いました。せっかく素敵な名前が付いている道路なのですから市の方で予算を付け、坂の標柱のように整備できたら良いなと思いました。
標識の説明は「道南ミュージアム」様から借用しました。
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな」 薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。岩手県渋民村(現玉山村)で辛酸の生活を味わった啄木は、明治40年5月初め、一家離散を余儀なくされた。 啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家堀合家に預け、母カツは知人宅に託して妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹はそのまま小樽の義兄のもとへ向かった。) 啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社」の同人達であった。 啄木の日記に「四十項の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」は、のちに啄木が主筆となり一切の編集責任をまかせれることとなるが、その紅苜蓿は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。 7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。 職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4箇月余りで終わりを告げたのである。
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな」 薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。岩手県渋民村(現玉山村)で辛酸の生活を味わった啄木は、明治40年5月初め、一家離散を余儀なくされた。 啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の実家堀合家に預け、母カツは知人宅に託して妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹はそのまま小樽の義兄のもとへ向かった。) 啄木を温かく迎え入れたのは、函館の文学愛好家グループ「苜蓿社」の同人達であった。 啄木の日記に「四十項の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」は、のちに啄木が主筆となり一切の編集責任をまかせれることとなるが、その紅苜蓿は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。 7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日夜、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校や函館日日新聞社が焼けてしまった。 職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4箇月余りで終わりを告げたのである。
2007/01/23のBlog
[ 18:12 ]
[ 函館の坂巡り ]
函館の坂は全て紹介が終わったと思っていたのですが、画像をチェックしてみたら一つ抜けていることが判りました。そこで追加の紹介です。
その名が「谷地坂(やちざか)」。
昔が水路(運河)で一昔前は幹線道路でもあった「高砂通り」の延長線上にあり、「南部坂」と「二十間坂」との間に位置します。
その名が「谷地坂(やちざか)」。
昔が水路(運河)で一昔前は幹線道路でもあった「高砂通り」の延長線上にあり、「南部坂」と「二十間坂」との間に位置します。
[ 08:07 ]
2007/01/22のBlog
